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第十八章  「英雄 誕生」

「――報告します! 我が隊は敵機動部隊を発見しこれを攻撃、雷撃により敵空母一隻を撃沈いたしました!」

 空母「ダルファロス」の艦橋で、レムリア軍南大空洋方面機動部隊司令 セルベラ‐ティルト‐ブルガスカ大佐は、指揮官代理の中尉の戦果報告を、冷厳な眼差しを変えぬまま聞いた。


 その中尉――決して軍官学校出身の新品ではなく、下士官操縦者からの叩き上げであり、歴戦の勇士――たる壮年の空戦士の張り上げる声の端々には、緊張によりもたらされる震えが宿っている。冷徹を以てなる彼等の指揮官を前にして、それは増幅を続けることはあっても決して終息を見ることはないかのようだ。

 本来なら中尉に代わり艦橋に立つべき彼らの指揮官たるグロウアン中佐は、先刻の攻撃行で乗機に被弾して自らも重傷を追い、帰還後も現在に至るまで生死の境を彷徨っている。雌虎の尾を踏まぬように為すべき報告は、中尉たる彼には些か荷が重い任務であったのかもしれなかった。それに、そのような事情を斟酌してくれるほど彼らの指揮官は人徳に(あつ)いというわけでも、またなかったのである。


 報告を終え、地獄の魔王に引き合わされた亡者のような上目遣いで彼の指揮官を見上げる中尉を指揮シートから見下ろし、セルベラは言った。

「間違いないのだろうな?」

「……列機は全て命中を確認しております。間違いありません……!」

「空雷は、何本命中したのだ?」

「小官の見立てでは……四本であります」


 決して確証を持っている口振りではなかった。セルベラは眼を細め、中尉は上座から注がれる、射抜くかのような視線に気付き、息を呑んだ。

「四本?……誰の機が、どの方向より突入したのか?」

「それは……判断しかねます」

「何故だ?」

「攻撃を加えた機の中には離脱に失敗し撃墜された者もおりますので、状況の詳細はこれ以上掴めない状態なのです。それに敵は戦闘機まで繰り出し、必死の防戦を図ってきた結果、我が隊の連携は乱れ、これ以上の戦果確認も侭なりませんでした。力及ばず申し訳御座いません」

「…………」


 恐縮しきりの中尉を退出させ、セルベラは前方に向き直った。その感情を宿さない表情には、艦の防空指揮所から臨む満天の星空の如くに些細な変化も見られなかったが、実際には驚愕が彼女の強靭な精神の波間に宿り、未だ振幅を続けていた。



 もとより覚悟はしていたがこちらの損害は決して軽微ではない。 

 出撃二十四機の内未帰還機は実に十六機。実に隊の七割近くが失われている。それだけ敵の抵抗は大きく、夜間の進撃はリスクが伴ったということだ。だがそれ以上にセルベラにとって驚きだったのは、夜間にも拘らず敵が戦闘機を出し、効果的な迎撃作戦を展開したということだった。


 敵の策敵及び迎撃体系は我等のそれより一日の長があるようだ――そのことに思い当たり、思索を巡らせようとしたセルベラを、再び現実に引き戻したのは、艦橋士官の報告だった。


「タイン‐ドレッドソン少佐を連れて参りました」

 艦橋士官の案内と制止を無視するようにして、悠然とタインはセルベラの前に進み出た。その挙動の中に、無断での戦線離脱を後悔する素振りは、一片として無かった。彼を呼びつけたセルベラとて、それを見咎める風でも、別段なかった。


「釈明を聞こうか……タイン‐ドレッドソン」

 顔を上げ、タインは言った。

「あんたの送り出したエドゥアン‐ソイリングは死んだぞ」

「帰還予定時刻はとうに過ぎている。それぐらい、本官にもわかる」

「なんとも思わないのか? 一個中隊が一瞬で消えたというのに……」

 セルベラの柳眉が、心持ち上がった。

「……何があった?」

「俺が向こうに着いた時には、すべて終わっていた」

「…………?」

「……やつは、何処かへ行った」

「やつ……?」

「ロインとヴィガズ、そしてエド坊やを殺ったやつさ。それだけじゃない……」

「…………」

「……少なくとも十五人……いや、それ以上の空戦士がやつに撃墜(おと)されてる」

「言ったはずだタイン‐ドレッドソン。如何なる勇士であれ、指揮官にとっては単なる手駒に過ぎぬ、と。敵もまた同じだ」

「……放って置けば、仲間がまたやつに殺される。それは看過できない」

 タインの語尾に怒りが篭るのを、セルベラははっきりと聞いた。


「貴公に死んだ仲間を憐れむ精神がまだ残っているとは、驚きだな。タイン‐ドレッドソン?」

 タインは、さり気無く視線を逸らした。

「……おそらく一人、地上人の中に一人だけ、途轍もなくできるやつがいる。おそらく相当な練達者だろう。飛行時間は俺やあんたよりも上かも知れんな」

 セルベラは、片腕で頬杖を突いた。あたかも眼下の男に何等関心を示さないかのように……

「機体の性能で捻じ伏せればよいではないか。何のためのジャグル‐ミトラか? それとも貴公にはあれはやはり手に余るか?」

 その声には、明らかに嘲弄が混じっていた。タインの義眼の煌きが、指揮シートの主を再び見据える……数刻の沈黙の後、タインは踵を返し元来た路を足早に戻り始めた。それを引き留めるセルベラではなかった。


 指揮所に出入口に達したところで、タインの足が止まった。

「いいことを教えておくよ。腕のいい猟師は銃を選ばない……俺の親父がそう言っていた。銃を撃てるというだけでは、狩りはできない」

「それは良い銃を扱いきれぬ者の言い訳だ。もし本当に貴公の言う強者がいるのなら……」

「…………」

「そやつの素っ首を本官の前に持って来るぐらいの気概を見せたらどうだ。タイン」

「……努力しよう」

 タインは歩き出した。二人の間に、斟酌することすら憚られる程の(わだかま)りの壁があることは、この場の全員にとってもはや周知の事実となっていた。喩え周知のものとなったとしても、この二人が何等痛痒を感じるわけもまたなかったが――




 「戦闘」に勝利したはずのレムリア艦隊が通夜のような静寂さに包まれていたのとは対照的に、「戦闘」に敗北したはずのラジアネス艦隊では、それこそ乱痴気騒ぎにも似た狂騒が始まっていた。

 不時着水から二時間後に艦載連絡艇に収容され、空母ハンティントンに戻ったツルギ‐カズマを待っていたものは、それこそ乗員総出の歓呼の声だった。


「撃墜王が還ってきた!」

 毛布に濡れた躯を包んだまま母艦の甲板に足を踏みしめた直後に乗員に囲まれ、口々に祝福を受けたとき、青年ははじめて、自分が英雄になったことを自覚する。それは彼にとって嬉しさというよりも明らかな戸惑いを以て受け止められる事柄であった。殺到する人ごみに揉みくちゃにされ、労いの言葉を受けながらカズマの体躯は本人の意思とは関係なく持ち上げられ、再び宙に投げ上げられる――


 狂騒は続き、際限なく続く胴上げによって未だ取り戻せない平衡感覚をフル稼働させて辿り着いたハンティントンの艦橋――頭から毛布に被った濡れ鼠も同然のカズマを初めて目にしたとき、艦隊司令たるヴァルシクール中将はその鷹のような目を何度か瞬きさせ、彼らの英雄を凝視したものだ。

寒さに唇を震わせ、屈みがちの姿勢でカズマは背を正し、敬礼した。

「――報告します。ツルギ‐カズマ少尉候補生はハンティントン上空にて、敵攻撃機三機を撃墜し、一機を撃破……」

「報告を修正しろ。四機撃墜、そして空雷一基を破壊だ」

 口を挟んだのはラム艦長だ。その表情にはすでに危機を脱した和やかさが宿っていた。

「へ?」

「空雷に体当たりしただろう? 君の活躍によりハンティは救われた。それは本官はもとより、ヴァルシクール提督ご自身も認めるところである。戦果の過少申告はいただけないな」

 ヴァルシクールが頷いた。

「ツルギ候補生」

「ハイッ!」

「礼を言う。君には本官直々に艦隊殊勲章を推薦しておこう。あとは昇進も」

 艦隊殊勲章?……聞きなれない言葉に唖然とするカズマを他所に、ヴァルシクールは続けた。

「それより、さっさとシャワーを浴び、服を着替えたまえ。その風体はまるで英雄というより遭難者ではないか」

 クシュン……!

 軽いクシャミが、カズマの返事だった。それに艦橋の全員がどっと笑った。



 シャワーを浴び、人心地を取り戻したところで、自らが引き起こした熱狂からカズマが逃れることはできなかった。それは決して悪い経験ではなかった。温水の吹き出すシャワーで海水と疲労とを洗い流し、服を着替える間、飛行隊の連中はカズマが驚愕するくらいの手際の良さでちょっとしたパーティーを準備してくれていた。脱衣所を出るや否や手を取られ、引き摺られるようにして連れて行かれた食堂、そのテーブル一杯に並べられたアイスクリームとケーキの山にカズマは目を見張る。アルコールが禁止されている艦内では、それが最高のもてなしだった。


「我等が撃墜王に、乾杯!」

 アップルサイダーでの乾杯の後、それに続く狂騒にカズマはさらに驚く。十分な「暖機運転」の後、栓を抜いたアップルサイダーの大瓶より勢い良く噴出す泡沫の奔流。それらは容赦なくカズマの頭上といわず身体といわず襲い掛かり、着替えたばかりの服を甘く琥珀色の液体でびしょ濡れにする。熱狂に染まったカズマも負けじとアップルサイダーで反撃する。子供っぽい応酬は続き、それはそのまま本格的な乱痴気騒ぎとなる。


「さあ食え、全部食っていいぞ」

 と、自らもアイスクリームを山のように盛った盆を持ち、“レックス”-バートランドは笑った。

 酒が禁止されている以上、アイスクリームは艦で最上の嗜好品だった。ラジアネス軍では駆逐艦以上の艦艇なら必ずといっていいほどアイスクリーム製造機が備え付けられているほどだ。それぐらい乗員には人気がある。そしてハンティントンは夜間の帰着に関わらず、そのアイスクリーム製造能力をフル稼働させカズマにご馳走を用意してくれたことになる。


 一夜の熱狂……そして喧騒。

 だが、その場にいるはずの――否、いなければならない――人影が存在しないことに気付き、カズマは隣席でアイスクリームにパクつくバクルに聞いた。


「あれ?……マリノは?」

「…………?」

 突然の疑問に、バクルは一瞬怪訝な顔を浮べたが、それも一瞬。笑顔を浮かべ、彼はカズマの肩を叩いた。

「ぼくが探してこよう。君は待っていればいい」

 だが、バクルが席を外した数刻の間に培われた期待は、結局は失望となって戻ってきた。

「……来たくないって」

 困惑したような表情を浮かべ戻ってきたバクルに、カズマは笑い掛ける。

「怒ってるんだろうな……機体を捨てちゃったから」

「素直じゃないだけさ……」と、バクル。

「…………」

 カズマは困惑気味に黙り込んだ。バクルはそのカズマの顔を覗き込むようにする。

「気になるのか? あの少尉さんのことが」

「うん……」

 力なく頷くカズマを、バクルは神妙な目付きで見詰めるしかなかった。





「……誰が行くかって」

 先刻自分を呼びに来た「レムリア人」に吐き掛けた言葉を、マリノは力ない口調で唱える。

 格納庫の隅に置かれた予備緩衝材の山に長身を横たえながら見上げた先――煌々と灯る格納庫の天井の照明は明るさを低く抑えられ、この場を流れる空気を一層沈鬱なものにしているようにマリノには思われた。

「あいつは……」と、またか細い声で言いかけ、マリノは口を噤んだ。

 あいつのことは考えたくなかった。だが考えることをやめようとしても、結局は考えを廻らせてしまうマリノがいた。あいつのことは嫌いになった筈なのに、その一方で自分は、あいつが自分から離れていくことを内心で恐れてきたような気がする……それで混乱を覚えるのが、彼女にはいっそう気に食わなかった。


 ――そして今夜、それは現実のものになった。

 あいつは、もう自分の手の届かないところにもはや居るような気がした。

 取残されたような感覚――それを覚え、マリノは焦燥を覚えた。


 それは実のところ、マリノにとって初めての感覚だった。彼女自身にとって役に立つかそうでないか――それが、彼女が世に出て以来唯一信じる価値基準だった。身につけた技術、学問、そして親交を持つ人間――それら全てを彼女はその基準で選び、そして身につけて生きてきたのだ。自分はこれまでを「選んで」生きてきた。だがあいつは……


 ……あいつは、あたかも、自分を「選んだ」かのように振舞おうとしている。それがマリノには気に食わなかった。距離を置くのは、こちらとしても望む所だったはずなのに――そう思いつつ、天井を見上げたままの茶色の瞳を、なにやら湿っぽいものが覆うのを、マリノは覚える。悔しさにも似た煩悶は一層彼女の豊かな胸を締め付け、マリノを戸惑わせる――


 ピトッ――

「ひ……!」


 唐突に頬を襲った疼痛にも似た感覚に、マリノは慌てて上半身を起こした。隔意と驚愕に任せて振り向いた背後、良く冷えたアップルサイダーの小瓶を持ったカズマが、微笑をそのままに立ち尽くしていた。

「な!……何やってんのよアンタ!」

 白い歯を見せ、ツルギ‐カズマは笑った。悪戯に成功した少年そのままの、呆気カランとした笑いが、マリノの敵愾心に火をつけた。


「このバカ! あたしのことなんか放っといてあっち行きなさいよ!」

「……マリノに、一番祝って欲しかったんだけどな」

「…………」


 笑顔が消え、困惑したような表情を浮かべるカズマを眼にした途端、同じく困惑を覚えるマリノがいた。場を執り成すように、もったいぶるかのような表情でマリノはカズマの手からアップルサイダーの小瓶をひったくり、歯で栓をこじ開けた。

「栓抜き持ってきたのに」

 というカズマを尻目に、マリノはアップルサイダーを一気に飲み干す。一瞬で空になった瓶を目にし呆然とするカズマを、マリノは睨むようにした。

「……あんた、あたしに気を使っているつもりなんだろうけど、そんなの十年早いのよ」

「飲めよ……」

 と、カズマは恐らく彼の分であったろうアップルサイダーを差し出した。

「…………」

 出すべき言葉を失い、戸惑うマリノの前で、カズマはアップルサイダーの栓に噛み付いた。何度か失敗した後、漸く栓を抉じ開けた瓶。それを再び、カズマはマリノに差し出した。

「……さっ」

 渋々受け取り、マリノは軽く一口サイダーを煽る。そしてカズマに差し出す。

「…………?」

「……ホラ、飲めよ。あたしの負けだ」

「でも……」

「あたしのサイダーが飲めないってのか……!」

 ドスを効かせた声に、カズマは気圧されるようにサイダーを煽った。甘味と、強い炭酸を含んだ液体が喉に流れ込み、食道を灼くのをカズマは覚えた。飲んだ後で一回、大きなゲップをしたカズマ、その子供っぽい仕草にマリノは笑いを禁じえない。

「アハハハハハッ……ばーか」

「バカって……何が?」

「バカだから、バカなのよ」

「おれ……マリノに謝んなきゃ」と、不意にカズマは言った。

「え……?」

「マリノの飛行機壊して……御免」

「…………」


 マリノは、押し黙った。彼女の目前で、皆から英雄と呼ばれ、持て囃されているはずの撃墜王が頭を下げている? それが、彼女を戸惑わせた。

「マリノに……撃墜マークを見せてやりたかったなあ。操縦席の傍に、ズラーと塗り連ねてさ」

「そんなの、新しい機体に描けばいいじゃん」

「あれじゃなきゃ駄目だったんだ」

と、カズマは言った。何時の間にか、マリノを見据える目が真剣味を増していた。

「マリノが精魂込めて整備したあれじゃなきゃ……意味無いよそれをおれは、いとも簡単に海に沈めた。おれ、やっぱパイロット失格かも……」

「うーん……」

 マリノは、困惑する。彼女は未だカズマを認めてはいなかったが、その素直さを、彼女は決して嫌いではなかった。

「ずっと前にさ、マリノがおれにハッパ掛けた事あったろ……」

「え?……う、うん」

 カズマが初めて船団護衛任務に出撃し、ミスを犯したことを詰った記憶を、マリノは思い出した。

「おれ、マリノには感謝してるんだ。あそこでマリノが厳しく言ってくれなかったら……おれ、ここまで来られなかったかも……」

「それは……」

 マリノは、また言葉を失った。彼女は彼の向上心を喚起したいがために、彼を詰ったのではなかった。マリノは彼女自身の純粋な隔意、そして悪意の赴くままカズマを罵倒し、否定したはずではなかったのか? 

「…………」

 だが、こいつは……マリノには、カズマの全てが信じられなかった。ここまで自分を否定されても、こいつは未だに自分を友人と信じ、自分の全てを受け容れてくれている? 彼女はそんなカズマに感謝し、出会えた事を喜ぶべきだろうか?


 ――否、彼女はそうはしなかった。

「もう……行けよ」

 マリノは言った。冷たい、芯まで響く声で。

「マリノ?」

「……あんた目障り、行けってば!」

「わかった……」

 顔を曇らせ、カズマは躊躇いがちに腰を上げた。そのまま離れていくカズマを見送るようなマリノではなかった。


 屈辱――自分は敗けた、とマリノは思った。

 敗けたと言っては見たものの、敗けを彼女は認めたくなかった。

 苛立ちは新たな隔意を生み、カズマを遠ざけようとし、そして再び遠ざけた。


 だが――


 後悔はしない……しないはずなのに、この鬱屈感は何だろう?……それもまた、初めての感覚だった。鬱屈感はマリノに、常人に対する以上の苛立ちをカズマに対し抱かせ、大きな、茶色い瞳に宿る光を油膜のようにぎらつかせる――

 

 

 悄然と、カズマは食堂へと続く途を歩いていた。

 「マリノ、何怒ってんだろうなぁ……」

 カズマには、わからなかった。

 マリノはいつもそうだ。彼女はその内面に領域のようなものを持っていて、そのライン以上に他の人間が踏み込むことを、決して許そうとしない。一方で、その深奥にあるものを彼女自身のために、あえて推し量ろうとはしないカズマもまた存在した。


 何時の間にか、その足は士官居住区画へと入っている。歩くにつれて軽い足取りを取り戻し、居住区を脱しようとしたそのとき――


「ボク?」

「…………?」

「ボーク?」

「あ……」


 投掛けられた艶かしい声には、覚えがあった。シルヴィ‐アム‐セイラス大尉が微笑を浮かべ、通路側の舷窓に寄り掛かり、カズマの様子を覗っていた。軍服の着こなしがラフで、胸元がやや開いているのは気のせいだろうか?

 戸惑い気味に笑うカズマに、大尉は言った。

「どうしたの? パーティーに参加していたのではなくて?」

「いえ……少しね」

「わかった。ボク、騒がしいのが嫌いなんでしょう?」 

「…………」

「図星ね?」

 何時の間にか、セイラス大尉はカズマとの距離を狭めていた。仄かに漂う香水の匂いと女性の匂い――それらが一層カズマを戸惑わせた。カズマの顔を覗き込む媚びるような緑の瞳が、カズマから、大尉から距離を置くという選択肢を奪いかけていた。

「ま、まあ……そんなところです」

 カズマは身じろいだ。身じろぐのに、少なからぬ勇気が要った。

「待って」と、大尉はさらに距離を狭める。

「お姉さんと、少しパーティーしない?」

「パーティー……ですか?」

 大尉から視線を逸らしながら、カズマは考え込む素振りを見せた。眼差しが、彼女から距離を取るべき通路を探っていた。

「でも……みんなに悪いし」

「あの人たちは、騒ぐ理由が出来ればどうでもいいの。でも……私は違う」

 大尉は言った。媚びるような口調ながら、その諭すような声に、逆らえないカズマがいる。



 連れて行かれたセイラス大尉の部屋は、最初に入ったときよりずっと片付いているようにカズマには思われた。整然とした部屋の造りに気を取られるあまり、カズマを招じ入れた大尉が後手にドアのロックを掛けたのに、カズマは気付かなかった。

「ハイ、どーぞ」

 備え付けの簡易冷蔵庫から取り出され、目の前に置かれたビールの小瓶に、カズマは目を見張った。大尉はベッドに腰を下ろすと、慣れた手付きで自分の瓶の栓を開け、一口呷ってみせる――その口元が何かいやらしく思えるのは、気のせいだろうか?……とカズマは思う。


「…………」

「どうしたの。ボク?」

 ビールに口をつけないカズマに、セイラス大尉は怪訝な表情を浮かべた。

「いいのかな……」

 戸惑うカズマに、大尉は微笑みかける。その女神のような笑みに、何か心の重要な部分が溶け始めているかのような感覚に襲われているカズマがいた。

「いいも何も……ウチのオフィサー連中は大抵やってることだから……ボクが気にすることではなくてよ」

「そうですね……ハハハハ」

 笑っておいて、恐る恐る、カズマは瓶の口に唇を近付け、数滴掬い上げるように苦い液体を飲み込んだ。美人の好意を前に、失礼な真似をしたくはなかった――だが見る者が見れば、その挙作が酒を飲み慣れない者のそれであることにすぐに思い当たったはずだ。またはそれ以上を勘取ることもできるかもしれない――まさに、このときのセイラス大尉のように。


「ウフフ……」

 セイラス大尉は笑った。さり気無く延びた手がベッドを擦り、自分の隣のスペースが空いていることを主張する。だが、カズマは飲めないビールに集中するあまり、それに気付かない。

そのことを見て取り、彼女は「戦法」を変えた。

「ボク?」

 呼び掛けられ、カズマは慌てて大尉を省みた。軍服の上衣に手をかけ、器用にボタンを外す大尉の姿を眼にしても、カズマは何等不審を誘われることはなかった。だが、上衣が解かれ、セイラス大尉の上半身が形のいい胸の輪郭が顕れるシャツ一枚となったとき、カズマの胸底から不安にも似た感覚が黒雲のように沸き立ち始めた。

「あの……」

「お姉さん……少し酔い過ぎちゃった」

 セイラス大尉の言葉は、明らかにカズマの機先を制した。いとまを貰うのに失敗し、カズマは言葉に詰った。それでも自分が機先を制されたことに、彼は気付いてはいない。

熱の篭った緑色の瞳が、困惑するカズマの表情を楽しむかのように、あるいは慈しむかのように輝く。


「ボク? こっちに来て、お姉さんの肩を揉んでくれない?」

「…………」

「それと……ボクの武勇談、お姉さんにゆっくりと聞かせて……」

 セイラス大尉の望むものに、カズマは男性としての経験に乏しいながらもおぼろげながらに気付こうとしていた。その反面、初心な困惑から昇華した混乱の急き立てるまま、何時の間にか自分が飲めないビールを立て続けに呷っていることに、彼は気付いてはいなかった――



 ――意を決し足を踏み入れた食堂に、あいつはいなかった。

「カズマ?……あいつなら君の様子を見に行ったきり戻ってないけど?」

 禁止であるはずなのに誰ともなく持ち込んだアルコールが、食堂の騒乱を一層収拾付け難いものにしていた。クダを巻き絡んでくる同僚を必死に宥めるバクルに、マリノはこれ以上の協力を期待しようとは思わなかった。


 ――マリノに、一番祝って欲しかったんだけどな……

 その言葉に突き動かされたとは、マリノは思わない。思いたくはなかった。

 ただ彼女なりの慈悲から、あいつにちょっとした言葉をかけてやろうと思い立っただけ……自分にそう言い聞かせながら、マリノは食堂へ通じる通路を足早に進んできたはずだった。


 ――そしてマリノは、引きとめようと声をかけるバクルを他所に、足早に酒臭さの充満する食堂を後にする。

「あいつ!……何処に行ったのよ」

 あいつの部屋、通路、キャットウォーク、そして艦橋……当初はゆっくりと、だが今では忙しげに艦内を歩く内、当初は彼女に有り余るほどあったはずの余裕は次第に失われ、何時の間にか焦燥の入り混じった視線を廻らせるマリノの姿があった。


 茶色の瞳が揺れ、しまいには絶望にも似た光すら宿ろうとしていた。確固とした歩みは早足となった。高鳴る鼓動が苛立ちを、切望にも似た感情へマリノを駆り立て、焦らせた……そんな感情なんて、あいつに抱く筈が無かったのに。


 困惑にも似た感情と共に足を踏み入れた士官居住区。ここだけは軽く通り過ぎようとしたマリノの足が、ある部屋の前で止まった。


 まさか……!

 心当たりは十分過ぎるほどあった。乗艦前から「あの方」には一癖も二癖もあることで有名だった彼女(チーフ)が、唐突に生まれた艦の英雄に、色目を使わない保証は無かった。だが、もしマリノの直感が事実としても……


 止める義理なんか、ない……その言葉を、マリノはセイラス大尉の部屋の前に立ち竦んだまま、胸の奥に抑えつける。あいつがどんな女と寝ようが、単なる同僚であるはずの彼女には関係のないことだった……はずだ。


 マリノは、歩き出した。前もって決めていたように士官居住区を通り過ぎようとしたそのとき、彼女の足は再び止まり、数刻ばかりの沈黙の次にマリノは踵を返した。


 ――そうだ……あいつの邪魔をしてやるんだ。

 ――別にあいつを助けるためじゃない……あたしは、あいつに意地悪をしてやるんだ。

 ――あいつがお楽しみのところを、乱入してやるんだ。でもそれにしても…… 

 ――助ける?……あいつの何を助ける?

 ――何て……おかしな考え。


 交錯する思考を胸に閉じ込め、マリノは部屋の前に立った……そして、意を決して拳を上げた。

「カズマーッ! 出て来い! そこにいるのはわかってんだから! この遊び人!」

 鋼材剥き出しのドアがへこむかと思われるぐらいの膂力を拳に篭め、マリノは何度も叩き付けて叫んだ。声を張り上げる度、何処からとも無く込み上げる何かに、喉が詰った。それでもマリノは叫び続けた。あたかも、取り上げられたおもちゃを取り戻そうと泣く子供のように、マリノは拳を振り上げ叫び続けた。

「カズマーッ! 出て来――い!」

 ロックの解かれる音を聞いた。そして、マリノは拳を振り上げるのを止めた。

「…………?」

 ドアが開き、軍服を着たセイラス大尉の姿が現れた。頬にアルコールの紅こそ加わってはいたが、それでも彼女は服を着ていた。

 マリノは混乱した――服を着ている?……どうして?

「…………」

 無言のままセイラス大尉は人差し指を唇に充て、「静かに」という仕草をした。

「…………?」

 マリノには、益々わからなくなった。

「どうぞ、整備士さん?」

 セイラス大尉は微笑み、すんなりとマリノを自分の部屋に招じ入れた。膨らむばかりの疑問を、マリノは此処に来て初めて氷解させる。


「あ……」

 確かに、カズマはいた。大尉の部屋のベッドの上、そこにうつ伏せに身を横たえ、埋もれるように寝息を立てているカズマの姿を見たとき、豊かな胸を安堵が滑り落ちて行くのをマリノは覚えた。

 苦笑気味に椅子に座り、セイラス大尉は言った。

「やる気、失くしちゃった……」

「え……?」

「だってこの子、すごくいい寝顔をしているんだもの……私には無理。とても無理……天使に手を出すなんて……」

 そして、瓶入りのビールを呷る。部屋の床には、すでに空になった一本が転がっていた。

「この子、お酒がダメなの? たった一本でこうなっちゃったけど……」

 マリノは頷いた。

「ええ……まあ」

「じゃあ……今度はオレンジジュースでも用意しようかしら」

 そう言って、大尉は笑った。微かな、だが綺麗な笑い声だった。

「あのう……大尉?」

「…………?」

「こいつ、連れて行っていいですか?」

 許可を貰うまでも、なかった。



 ――ツルギ‐カズマの部屋へと通じる通路を、マリノは歩いている。

 カズマは相変わらず酒臭い寝息を立てている。アルコールが完全に抜けるには、朝まで待たねばならないだろう。アルコールに耐性のないこいつのことだから、明日一杯は満足に飛行任務をこなせるのかどうかも疑わしい……眠り続けるカズマを背負いながら、マリノは取り止めも無く考えを廻らせ続ける。

 覆い被さるカズマの頭を首元に感じ、マリノは省みるようにした。僅かながら、カズマの寝顔を覗える位置だった。


「ばーか……」

 自ずと、マリノは声を漏らした。但し、心配かけさせやがって……という言葉を、喉元に出掛かったところで圧し込めた。その一方で、自分の背中に感じるカズマの重みに、感銘にも似た驚愕を覚えているマリノがいた。


 こいつ……こんなに軽くて、小さいのに。

 それでもこいつは十数機の敵機を撃墜し、あまつさえ母艦の危機を救ったのだ。

 こんなに小さくて、華奢な男が……英雄? 


 カズマを背負い、マリノはあらためて驚く。ともすれば、そのまま自分の背中を離れ宙にでも浮き上がりそうな軽さ……そこまで思ったとき、カズマの足を支える腕に自ずと力が入った。

離したくない……と、マリノは思った。


「マリノ……」

「…………!?」

「……ありがとう。むにゃ……」

 慌てて振り返った先にカズマの意思は無かった。マリノに譲られた背中で、カズマが夢を見ているのにマリノは気付いた。それは彼女にとって決して不愉快なことではなかった。


 マリノの表情が綻び、それははにかんだ笑みとなった。

 マリノの歩数が遅く、緩んだものとなる。

 カズマの部屋まで、そう遠くない距離だった。




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