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第十七章  「夜戦」

 雲海は翼を進めるにつれ次第にその濃密さを増し、銀翼を駆る若者に不安を与える。


 ジーファイターはそのグラマラスな肢体からも覗える通り、一旦蒼空に昇れば慈母のごとき安定性を発揮する。具体的には、操縦桿を離しても真っ直ぐに飛んでくれる。カズマの場合、その分航法計算に専念することが出来る。ハンティントンに未だ搭載されていないジーファイターのさらに新型機は、針路と高度を設定してやれば、後は自動的に飛んでくれる装置を搭載するようになったとも聞く。


 無線機は勿論、無線帰投方位測定器も使わない。此方の要請に応じ艦隊から電波を出したが最後、敵艦隊もまたそれを手掛かりに攻勢に転じるかもしれない。そのときこそ、ハンティントンは危機に陥るだろう。

 ……だから、独力で方位や位置を算定し、艦隊への針路を割り出す地文航法に徹せねばならない。


 ヒュイックに飛び込んで来た艦隊の戦闘詳報は、カズマの飛行に際し十分な手掛かりを与えてくれた。航行の補助機器としてリューディーランドの空岸線の各所に配置された無線方位測定器が、ヒュイックと艦隊との交信記録から、三角測量法に基づく大凡の艦隊の位置を割り出してくれたのだ。カズマにとって、それだけでも大きな手掛かりだった。



 そろそろだ……覗き込むように見たニーパッド上のチャートには、艦隊の位置が略章として書き込まれている。カズマの計算が正しければ、ジーファイターはまさにその略章の位置を飛んでいるはずだった。艦隊の姿を捉えるべく眼差しを巡らせた周囲――


 朱に染まった空。

 鉛色に染まった雲。

 およそ人工物は、一つとして見えない。

 それらいずれも、カズマの内心に不安となって忍び込む。

 見上げた空には何時しか、薄っすらとした星の瞬きすら覚えることが出来た。霞ヶ浦の操縦教程で学んだ天測航法の手順が、微かにではあるが脳裏に浮かんだ。


 視線を転じた燃料計――環状の数値の、すでに中央を割りつつあるそれは、カズマの旅がもはや後戻りできないところまで来ていることを示している。

 やはり電波を出すべきか……操縦席の左端、サイドパネルを見遣る。そこに張り付くように配された方位測定装置のボックスと操作ダイヤル。ともすればそれに手をかけたくなる衝動に、カズマは駆られる。並みの飛行士ならば、何の考えもせずにただ飛行士の権利としてそれに手を延ばし、その恩恵に預かろうとするだろう。彼の行為の引き起こすかもしれない最悪の結果を想像だにすることなく――その点カズマは、決して並みの飛行士ではなかった。


 カズマは迷う。

 戻るか。

 あえて飛び続けるか。

 それとも、電波を出すか。

 どうする?


『――D‐7より所属不明機へ、貴官の所属及び飛行目的を述べよ』

「――――!?」

 突然の、抑揚に乏しい声での呼びかけに、カズマは反射的に周囲を見回した。見回したキャノピーの一隅、灰色の、小振りな層雲を背景に迫り来る二機の機影には、見覚えがあった。

艦隊の直援機?……そう、紛れもない味方機!

『――所属不明機へ、識別電波を発信せよ。繰り返す――』


 安堵――待ちかねたように延びた手が、方位測定器の識別符号発信スイッチを捻る。



『――CICより報告、不明機はジーファイターと確認。識別コードは……ツルギ候補生の機です!』

 報告が流れた直後、安堵にも似た雰囲気がハンティントンの艦橋に漂うのを幾人かが感じたのに違いない。 

 望遠鏡を覗き、ヴァルシクールは言った。

「方位測定器を使わずに此処まで来たのか。信じられん」

『――着艦させますか? 艦長?』

 航空管制室からの打診に、ラムの応答は明瞭だった。

「……燃料残を聞いてくれ」

 数秒の遣り取りの後、航空管制室は燃料が十分に残っていることをラムは知る。

「では待たせろ。攻撃隊の着艦作業を優先する」

『――了解』

「何を言っているんだラム中佐? 貴重な戦力だぞ。何故彼を収容しない?」

 疑念を顕にする幕僚に、ラムは向き直った。

「戦ってきたのは、誰もが同じです。燃料に余裕がないとか、損傷しているというのならともかく、彼だけを特別扱いするわけにはいかない」

 


 攻撃隊の収容作業は、未だ続いていた。

 実のところ着艦収容時こそ、飛行空母にとって最も危険な瞬間である。帰還してくる機によっては、損傷等により規定以上の高度まで到達できない機も多く、そこで空母は事前に各機の状態を確認し、その中で最も損傷の烈しいと判断される機に併せ、着艦体勢を整えてやる必要があるのだ。


 その一方で、搭載機を収容すべく規定以下の高度と速度で搭載機の着艦を待つ空母は、それだけでも艦隊にとって大きな障害にもなりうる。この点がまた、空母という艦種の揺籃期において、戦艦主兵論者に「空母無用論」を唱えさせる有力な根拠になり、「アレディカ戦役」前のラジアネス艦隊が空母部隊の拡充に慎重になる理由の一つにもなっていた。空母を取り巻くバックアップが飛躍的に改善された現在においてもヴァルシクールたちにできることといえば、その最も危険な時間帯に敵の新手が来襲しないことを願うことだけだ。


 それ以上に問題だったのは、着艦が続くにつれ、機の搭載量がハンティントンの収容限界を超えつつあるという点であった。何せ先刻の戦闘ですでに一隻の空母が失われている。つまりところ帰還してくる攻撃隊を、ハンティントン一隻で引き受けねばならない。

 着艦させた艦載機を、キャットウォークで待ち構える整備員が手際よくエレベーターに運び、格納庫へと収容していく光景は壮観そのものだったが、やがては格納庫もその収容許容量に達し、それでもなお着艦して来る機を、今度は艦首飛行甲板に集めていく段になれば、少なからぬ乗員が焦燥を覚え出すというものだ。


 ――それでもハンティントンは、最終的には帰還を果たした全機を収容することに成功した。それは決して喜ばれるべきことではなく、むしろ生還機がハンティントン一隻に収容しきれるぐらい少なく、それだけ攻撃隊の犠牲も大きかったことを意味している。


 第一次攻撃隊七十機の内、生還した機は三十八機。

 第二次攻撃隊七十二機の内、生還した機は四十機。

 艦隊直援戦闘機隊二十七機の内、損害は七機。

 生還機の内二十機が着艦時に失われ、着艦した機もまた、十八機が再使用不能となった。

 最終的に再使用可能な機は、四十七機。

 そしてハンティントンは最後の四十八機目を、いままさにその飛行甲板に受け容れようとしていた――


 ――上空には既に一機の機影もなく、只カズマのジーファイターのみが、暗青色の帳の下りた空に抱かれるように飛んでいた。

『――ツルギ空兵? ツルギ空兵……』

 女性の声を、カズマは聞いた。聞き覚えのある声だったが、誰の声だったのか、そんな事はもうどうでもよくなっていた。

「こちらツルギ、どうぞ?」

『――着艦を許可します。方位0‐1‐2……ところでボク?』

「はい?」

『――帰還おめでとう。還ったら戦闘の話、お姉さんにゆっくりと聞かせてね?』

「…………」

 セイラス大尉?……その顔を思い出し、カズマの顔が微かに緩む。


 着艦コースに入り、ハンティントンの矩形の入り口と飛行甲板で瞬く着艦指示灯が、すっかりと日を落とした空を強めに照らし出しているのをカズマは見る。それは彼に、夜遅くの帰宅時に眼にする玄関の灯を連想させた。連想は今更ながらのように、還って来たのだという感をカズマに強くさせる。

スロットルを絞り気味にさらに進むにつれ徐々に迫り来る矩形の入り口。主脚とフラップ、そして着艦フックを下し、飛行甲板両端で淡い光を放つ着艦降下角支持鏡(ランディング・ミラー)が着艦に適正な角度を示せるよう、カズマは機首を小刻みに上下させ降下角を調整する。途切れ途切れに入ってくる着艦誘導士官(LSO)の声は、エンジン音以外静寂の支配する空では、レシーバーの中で虚しく反響するばかりだ。



『――着艦コースに乗った……そのまま姿勢を維持……』

 距離が縮むにつれ、詰りゆく胸の内。

 スロットルを握る手に、知らず力が篭る。

 息を吐く様に漏れる、哀しい感慨――

「中佐……ディクスン中佐……」

 主脚の接触――ジーファイターが完全にハンティントンの飛行甲板を捉えたとき、カズマの目尻に湿ったものが宿る。

「自分はいま還りました……母艦ですよ……ディクスン中佐」

 思いとともにジーファイターはハンティントンの飛行甲板を踏み、そしてカズマは艦内に滑り込む――



「…………!」

 最後の一機が飛行甲板を蹴った瞬間、マリノの瞳はその機影に注がれ、そして固まる。

 機首、胴体、垂直尾翼……それらに描かれた記号と数字は紛れもなく彼女の担当する機のそれだった。

ジーファイターがハンティントン艦内に滑り込み、二本目の拘束ワイヤーにフックを引っ掛け、その反動で主脚タイヤを弾ませた瞬間、マリノは飛行甲板に立ち尽くしたまま、声にならない声で呟いた。


「カズマ……!」

 ジーファイターのエンジン回転が徐々に静まり、ジーファイターは滑走しながらゆっくりとマリノの方へ近付いてきた。次に彼女が気付いたときには、何時しか多くの要員やパイロットがジーファイターの周囲に集り、またはキャットウォークに鈴生りに並び、最後のジーファイターのパイロットが操縦席から出てくるのを今か今かと待ち構えている。


 そして――マリノの眼前でジーファイターはエンジンの鼓動を止め、キャノピーは開かれた。



 キャノピーのスライド。

 コックピットから出る手。

 そしてベルトが外され、両腕を支えにパイロットはコックピットから腰を上げる。

 マリノは押し黙り、そして息を呑む。

 再び、交錯する二人の瞳――


「…………」

 ただ呆然と下から見上げるマリノに、カズマは微笑み掛けた。

「……ただいま」

「…………」

 マリノが声を上げるより早く、甲板を踏み越え怒涛の如く迫る足音。

「撃墜王が還ってきたぞ!」

 群集は一斉にジーファイターに殺到し、そして二人を取り囲んだ。

 


「な、何?……これ!?」

 戸惑うカズマに一斉に手が伸び、歓声が浴びせ掛けられる。それら人の波に揉みくちゃにされながら、カズマは懸命にマリノに歩み寄ろうと努めた。だが努力は認められず、むしろカズマの身体は意に反し持ち上げられ、何度も宙に投げ上げられる。戸惑いと混乱のまま覚えた可笑しさに、カズマは自分がこの艦で特別に扱われていることに、今更ながら気付いたのだった。

 漸くで胴上げから解放されたカズマに、正面から駆け寄る人影。その姿に、カズマは遂にマリノを忘れる。

「カズマッ!」

 飛び込んできたバクルが手を広げ、そしてカズマはがっしりとその抱擁を受け止める。しっかりと互いの感触を噛み締め、そして堪能した後で、二人は身体を離し、互いの顔を覗き込んだ。

「おかえり!」

「ありがとう……!」

 同時に感極まった表情を隠すかのように、再び抱擁。歓声はさらに上がり、さらに厚い層となって二人を取り囲む。だが、艦内を奮わす歓喜を打ち消したのは、艦内拡声器より響くスピーカーの声だった。

『――外周警戒艦より報告。所属不明機多数接近中。戦闘飛行各隊は邀撃発進準備!』

 突然の警告に呆然と艦の天井を見上げるカズマの肩を、誰かが叩いた。


「ボーズ、良く帰った」

「隊長……?」

 バートランド少佐は、何時もと変わらぬ笑みでカズマを迎えてくれた。だがその表情が決して冴えたものではないことぐらい、カズマにはすぐに判る。

「……聞いての通りだ。敵さん、クロイツェル‐ガダラを沈めただけでは満足していないらしい。本国に持って帰る土産が足りないんだろう」

「…………」

 神妙な顔をして自分を見上げるカズマに、バートランドは慈父のような眼差しを注ぐ。

「あとは俺たちがやる。ボーズは残れ。疲れただろう?」

「いえ」

 その瞬間、カズマの目付きが変わるのを、バートランドははっきりと見る。カズマは一歩を踏み出し、声を上げた。

「行かせて頂きます!」

 カズマもまた、次の瞬間には戦に臨む顔に戻っている。それが、バートランドをあらためて驚かせる。




 編隊は漆黒に染まった空に浮かぶ、さながら大鎌を抱えて髑髏の馬を駆る死神(デーザ)の集会を思わせた。

 目指す敵艦隊は彼らの攻撃隊を収容するためか、盛んに誘導電波を出していた。従って味方艦隊はその発信源から敵機動部隊のおおよその位置を割り出し、発進した攻撃隊もまたその誘導電波に従い、彼らの攻撃目標までほぼ正確なコースを辿ることが出来た。それが、攻撃隊を構成する各機に夜間進撃への自信を与えていた。


 それがほんの五分前に途絶したのは、恐らく攻撃隊の収容を完了したのか、またはこちらの接近に気付き電波の発信を中止したのか、そのいずれかであろう。これまでの戦闘経過から敵艦隊が目視の及ばない遠距離からこちらの方位及び位置を判定する電波探知機を実用化していることは、すでにレムリア軍各部隊の周知するところとなっている。彼らの精緻かつ濃密を極めた対空砲火もまた、その副産物であることは想像に難くなかった。


 ――だが、彼らには確信があった。

 それは闇夜に紛れ敵艦隊を急襲し、その中核たる空母を撃沈する、という確信。事実、彼らにはそれだけのことをやり遂げる技量があり、それを完遂するに足る戦力もまた与えられていた。


 攻撃隊はニーレ-ガダル攻撃機十二機、ニーレ-ダロム攻撃機八機を主力とし、他に背景照明を行うための照明弾を投下するニーレ-ガダル四機が加わる。総数二十四機という戦力は、昼間の戦闘に投入された数に比してあまりに寡勢であったが、これはレムリア軍機動部隊が夜間作戦という、どちらかと言えば特殊なケースに投入し得る戦力の限界であった。


 つまり――

 ――セルベラはその持てる全力を挙げ、ハンティントン撃沈を図ったのである。

 


 夜空――層雲の白がどうにか視覚に掴む取ることができる位に周囲は闇に閉ざされ、星明りすら彼らの進む雲海の只中には届かない。

 発艦以来、無線は完全に遮断されている。エンジンの立てる轟音と、機内通話に漏れる同乗者の吐息のみが、彼等が現世に存在していることを彼等自身に認識させる数少ない証と言っても過言ではなかった。このような中で攻撃機の操縦桿を握り、発光塗料に照らし出された計器を睨み、紫外線灯の光を頼りにチャートにペンを走らせ、夜空に眼を凝らす乗員達の意識は、とうに夜の闇の中に一体化し、個は失われていた。


 夜が、彼らをさながら忍び寄る刺客と化していた。



「――本官は貴官らの生還を喜ぶものではない」

 彼らの発進の直前、彼らを死地へ送り出したセルベラ‐ティルト‐ブルガスカ機動部隊司令は、厳かに言い放った。

「――問題は貴官らの生死にあらず。本官はただ戦果のみを尊ぶ。目標は敵空母一隻。それ以外の艦を沈めたとて、何等戦果とは言えぬ。貴官らは各々の持てる全力を傾け、必ずや、刺し違えてでも敵空母を沈め、偉大なる祖国レムリアに勝利と安寧をもたらすのだ……!」



 出撃――

 厳選された搭乗員だけあって、彼らの操縦は完璧だった。夜間にも拘らず隊は艦隊上空でしっかりと編隊を組み、各艦よりの見送りを受け進撃に移ったのだ。攻撃隊は事前のブリーフィングで予想会敵空域到達までに三つの旋回点を設定し、第三旋回点に到達した時点で無線封止を解除、編隊を散開させ一気に攻撃態勢に入る。


 攻撃は、敵艦発見と同時に照空隊の四機が事前に前進、敵艦隊背部にいち早く進出し証明弾を投下、敵空母の艦影を攻撃隊の眼前に照らし出す。攻撃隊はそれを頼りに突入し、目標を叩き戦闘空域から離脱、帰路に付く。


 叩くべき目標は――空母一隻のみ。


 攻撃隊の隊員たる彼等もまた、空母の戦略的重要性を十分に理解していた。今回の任務が、自身の身命を賭しても為すに足る仕事であることを知っていたのである。


 そして――第三旋回点。


 それまでひたすらに飛行計器と航空図とを交互に凝視していた編隊長機の航法士が、機内送話機を通じ囁くように彼の機長に告げた。


『――隊長、第三旋回点に到達』

 航法士の報告、攻撃隊隊長グロウアン中佐は鮮やかな手付きで無線機のスイッチをオンにし、操縦桿の無線送信ボタンを何度か押し込む。


 ――カチカチ……カチカチカチカチカチ……

 それは電気信号の符号だった。無線傍受を恐れ、彼らは電信符号で予め作戦開始の合図を決めていたのである。打電とともに攻撃隊は一斉にその間隔を開き、増速した照空隊が攻撃隊の前方に展開、漆黒の只中へと消えていく……




 攻撃が、始まった――

 ――外周警戒艦の捜索レーダーは数隻同時に百空浬以上の距離から迫り来る敵影を捉え、識別符号に反応しないそれらはデータリンクを通じ瞬時の内に艦隊全艦にとって敵機と認識される。


 攻めるレムリア軍にとっては不幸なことに、ラジアネス艦隊の防護はクロイツェル‐ガダラを失ったことでかえってその厚みを増していた。その上に射撃管制官の命令一下、時計のような精緻さを以て指向される各艦の砲門は、レーダーという電子の眼で迫り来る敵を見据え、夜間ながらもその数の威力で火と鉄の壁を形成し招かれざる客の針路を塞ぐ役割を果せるはずだった。


 さらには――


『――迎撃戦闘機隊発進準備。繰り返す、迎撃戦闘機隊は発進し敵攻撃隊を迎撃せよ』

 再びの出撃に活気付くハンティントン。だが戸惑いの顔を隠さない者も中にはいる。激戦を経たとはいえ決して練度の高いとはいえない飛行隊に、夜間飛行、なおかつ夜間戦闘をこなせるだけの技量を持つ者はあまりに少ない……というより艦隊の戦闘機隊は、夜間飛行はともかく夜間戦闘を想定した訓練はあまり受けていないのである。艦隊航空隊の作戦想定の中に夜間邀撃戦闘は含まれていないのだから、それは当然といえた。


「提督、迎撃機を出しましょう。」

 と、さすがに戦闘機隊の発進に逡巡を見せるヴァルシクールに進言したのはラム艦長だった。

「航法や誘導に関しては本艦で最大限の支援が可能です。直援機を上げ、艦を守るべきです」

「試そうというのかね? この艦を」

 というヴァルシクールの問いに、ラムは頷いた。新鋭とはいえろくに錬成と補修を経ないまま前線に出た空母。敵機の来襲がその実力を把握し、ひいては向上させるのに絶好の機会であることに提督は思い当たったのである。


 ――だが、その経験の乏しさが、提督に戦闘機による邀撃という思い切った手を打たせることを躊躇わせていたこともまた確かだった。


 ラムは言った。

「すでに夜戦は経験しております。再度の経験は、本艦がいかなる作戦にも対応可能であるということを敵に知らしめると同時に、乗員に個々への自信と本艦への信頼を持たせることに繋がる絶好の機会と小官は考えます」

 一考――その後、ヴァルシクールは頷く。

「わかった。存分にやれ」

 

 出撃――だが結果として三日ぶりに母艦の甲板を踏みしめてわずか一時間足らずの内に、カズマは再び愛機の狭い操縦席へ逆戻りする形になった。


「マリノ!」

 歓迎の人ごみからも漸く解放され、愛機とその整備士の前に戻ってきたカズマを、部下に給油をさせ、自らは胴体に潜り込み操縦系統のチェックを終えたばかりのマリノは、冷ややかな眼で迎えた。

「マリノ……?」

「…………」

 しばしの沈黙――そこから滲み出る緊張を、二人は久方ぶりで共有する。隔意を剥き出しに見下ろす瞳と、ただ無心に見上げる眼差し――緊張が解け掛けたところで最初に口を開いたのはマリノだった。

「……あんた、隊長にリップサービスしたつもりだろうけど、あたしはそんなの認めないから……!」

「ああ……わかってる」

 カズマの了解を受けての反応か、マリノはジーファイターに向け顎をしゃくった。「乗れ」の合図だ。促されるがまま、カズマは操縦席に再び駆け上る。


 駆け上り、飛び込むように座席に腰を沈めるや、ベルトを締めるのもまだるっこしくカズマは愛機を再び始動させた。悲鳴にも似たスターターモーターの響きを経て、これまでの飛行で蓄積した余熱を冷ます間も無く稼動を始めるジーファイターのエンジンに、カズマの口元から笑みが漏れた。


 まるで……あの時と同じだな。

 ハンティントンを取り巻く喧騒が、ラバウルで感じた熱気に似ていると、カズマは思った。


 ――「敵機来襲」の報に接し一瞬にして静から動へと変わる待機所。

 ――けたたましく鳴り響くサイレンや指揮所の鐘。

 ――土煙を上げ零戦の列線へと駆け込む搭乗員と整備員。

 ――それらの生み出していた喧騒を、今現在のハンティントンでのそれと知らず重ね合わせているカズマがそこにいた。

 喧騒によって生み出された闘志と希望、それもまた以前と同じく現在のカズマの胸を満たしていく――

 



 『――スウィート‐ハートよりレックスへ、方位3‐2‐5、距離40より敵編隊(バンディッツ)急速に南進中――』

 ハンティントンを発った戦闘機隊は母艦上空で集合、戦闘情報室(CIC)よりの指示に従い一路北上に転じる。その数十八機。それが敵機動部隊という強敵を迎え撃った直後の、搭載機の再編成すら侭ならないハンティントンが出しうる希少な戦闘機戦力だった。組織的な攻勢から艦隊を守るのには、その数は決して多くはない。しかも接近してくる敵編隊は二群に別れている。個々に対処する必要から絶対数はさらに減るだろう。


 前方――飛びゆく内、濃い闇の中にも、輪郭として先頭を行く僚機の機影を捉えることが出来た。

 次第に夜に馴れる眼は上空を占位する星々の瞬きを認め、次にその遥か下で銀色に輝く雲海の連なりを見出す頃には、排気炎を抑えるべく混合気比調整レバーを絞るカズマの胸中には、揺らぐことの無い余裕が生まれている。


 一方で、レーダーと無線を駆使した迎撃機の誘導方式を実際に経験する段になり、闇夜を上昇するジーファイターの操縦席で感嘆を禁じえないカズマがそこにいた。

『――敵飛行速度依然上昇中……高度変わらず……敵編隊(バンディッツ)との会敵予想時刻(エンゲージタイム)まであと二分』

 

 すごい……純粋な感銘と驚愕。

 レーダーと戦闘機の完璧なまでの連携――これこそがかつての日本軍を苦しめ、かつての日本軍がなし得なかったものであることをカズマは知っていた。


 カズマは感じ取る――もはや空戦はこの世界でも、戦闘機だけでやるものではない。


『――会敵予想時刻(エンゲージタイム)修正(リヴァイス)二分(トゥーミニッツ)遅らせる(ディレイ)右旋回(アプローチトゥー)準備(ライトターン)、タイミングは追って報せます――』

 風防の視界を暗幕で全て覆われたような夜空のただ中で、イヤホンに入ってくるセイラス大尉の美声は、光明を与える女神のそれのようにカズマには思われた。女っ気のない日本海軍しか知らないカズマにとって、女性の声に導かれ戦うのは奇異に思われる反面、三十機の味方を得るのと同じくらいの安心感を与えられたように思える。


『――ラムジーより全機へ、敵編隊を発見(タリホー)全機攻撃を(アプローチトゥー)開始せよ(アタック)――』

 突然の交信に、カズマは電流を流されたように背を正した。同時に、視線を巡らせた遠方で見出す複数の火線の交差。迎撃戦闘機隊第二陣が、いち早く敵の別働隊と遭遇したのだ。夜だからこそその輝きは一層鮮烈にカズマの網膜を灼く。


 そしてカズマは確信する――ならばそろそろ此方も……

『――スウィート‐ハートよりレックス……間も無く接敵――右旋回いま(ライトターンナウ)……!』

 来た!……反射的に踏み込んだフットバー。カズマの眼前で視界は一変し、その機首の向く先には信じられない光景が広がっていた。


「…………!」

 星空の下、白銀の雲々の織り成す絨毯を背景に浮かび上がる、銀翼の形をした陰の連なり。

それらは見事な編隊としてカズマの視覚に認識され、カズマを再び感銘させる


 ……この夜中で、こんなに見事な編隊が組めるのか?

 レムリア軍、いい腕をしている……敵ながらもカズマは、しばし感動に身を任せる。だがそれもほんの僅かな間――


『――レックス‐リーダーより全機へ、敵編隊を発見(タリホー)――』

 それと同時――

 唐突に出現する、壮絶なまでに冷たく瞬く複数の光点。拡散する光は、振り向いたカズマの眼前でハンティントンの巨体を幻想的なシルエットとして浮かび上がらせた。


「…………!」

 背景照明だとカズマは直感する……彼の予想通り、友軍の撃ち漏らした照空隊がついにハンティントンの後背に進出し、照明弾を投下したのだ。だとすればやるべきことは決まってくる、射線に入られるより早く敵攻撃機を撃破せねばならない。


 各艦の対空射撃!……夜空の各所から突発的に、次々と連なる閃光。

 夜空を裂き撃ち上げられる対空砲火。それらの織り成す光の奔流。

 静寂と暗黒は、遂に脈動と閃光へと空の支配者の座を譲る。


 列機の射撃!……だが撃ち掛けられた射弾は、虚しく敵機の後方で後落するばかり――夜ゆえに距離の算定を誤っているのだとカズマは気付く。


 距離を詰めないと……自らを急かす様に開いたスロットル。増速したジーファイターは、間隔を崩さず進撃を続ける敵編隊にみるみる接近し、やがてカズマは照準機一杯にどす黒い機影を捉える。


『――ツルギ空兵、もっと距離を取りなさい。それ以上の接近は危険よ』

 唐突の警告。敵機の尾部が煌き、それは光の数珠となってカズマの側面を掠めて行く。此方の機影に気付いた敵機の機銃手が応戦を始めたのだ。間髪入れず放つ一連射!――射弾は全てニーレ‐ダロムの左エンジンに集中し、次の瞬間には眩いばかりの命中の発火となってカズマの眼前に飛び込んできた。さらなる一連射で主翼が吹き飛び、飛び散る破片が焔の明かりを吸い込み吹雪のように空を舞った。敵機は姿勢を崩し、纏わり付く炎に引き摺り下されるように高度を下げていく。


 もう一機――巨大な主翼を翻し旋回に入る敵影。その見越し角を取るようにカズマはジーファイターを後背に付け、旋回させる。さらに距離は詰り、急な旋回が祟ったのか敵機の速度もまた落ちていくのをカズマは感じ取る。


「…………」

 追尾している敵機の先尾翼(エンテ)型の異様な胴体に、カズマはあらためて目を見張る。カズマのいた世界の飛行機と、この世界の飛行機は似ているようで明らかに違う。


 違和感の源は、元は同じ種族ながら、進化の途中で枝分かれし、別々の途を辿った別種に接したような感覚……といえば説明できるだろうか? 


 それはやはりこの世界に、浮かぶ大陸という環境と、フラゴノウム制御法という、飛行機以外に空を飛ぶ術が存在していることに起因するのだろうか?


 そんな取り止めのないことを考えつつも、一旋回でカズマはニーレ-ダロムの後下方に潜り込んでいた。照準機は敵機の左翼付根を捉え、追ってくる敵機を見失ったニーレ-ダロムが、必死に主翼をバンクさせ下後方を探っているのがカズマには掴むことが出来た。


 一連射、二連射……三連射……穿たれた穴より噴出す燃料の白い糸。そのまま錐揉みに陥る敵機――目測でかなり降下したと思われるところで追尾を止め、カズマは機を上昇させた。そこに入って来る新たな交信――


『――スウィート‐ハートよりブルー4へ、ツルギ候補生、2‐5‐7へ返針してください』

「セイラス大尉?」

『――レムリアンの攻撃機が四機こちらに接近中。ボクの飛行機が一番近いわ。急いで……!』

「了解っ……!」

 指示されるがまま機首を転じたカズマに、再び大尉の声が入ってくる。

『――彼我の距離600……400……300……』

 眼を凝らした前方、敵の背景照明は未だ効力を発揮し、ハンティントンと随伴の護衛艦の艦体をカズマの眼前に浮き上がらせていた。それは一方で、ハンティントン目指し突き進む敵機の機影すら光の只中に浮き上がらせてしまう。照準機に入った敵機の翼幅を修正し、射角修正を終えた照星の光が、四機のうち一機の機影に重なった。


「テェッ……!」

 裂帛の気合を篭め放った一撃。力なく機首を下げ高度を落としていくニーレ‐ガダル攻撃機。続けて放たれたもう一撃は、二機目を火達磨と化し四散させた。

『――スウィート‐ハートよりレックス4、敵機はハンティの射程圏内に入った。後は任せて!』

「レックス4了解、離脱します!」

 機首を転じ再び上昇、迎撃を見守るカズマの眼前で一機が対空砲火の直撃を受けて火を噴き、もう一機が未だ十分に接近を果さないまま空雷を放ち、機首を転じて離脱に入った。目測を間違えたのか? それとも恐怖に駆られたのか?――離脱に転じた敵機の後を追う味方機。だが追撃も虚しくその距離は見る見る離されていく。


 ハンティントンは?――大丈夫、空雷の針路は大きく外れ、艦も余裕のある左回頭で対応している。

ひと仕事終えた安堵の促すまま、カズマが息を吐き出しかけたそのとき――


「…………!」

 白光の下に浮かび上がる二条の航跡。

 空雷は一直線にハンティントンを指向していた。

 敵機の明確な姿を視認出来ない状況が指揮を混乱させ、結果として別方向より迫り来る敵機の探知を遅らせる形となったのだ。 

 夜空を驀進する二条の槍に、カズマは戦慄を覚えた。

 ハンティントンにとっても、凶報は赤外線監視装置を覗く見張員からの情報により忽ち艦橋を駆け巡る。



『――左舷、空雷二基接近!』

「距離は?」とラム艦長。

『――距離500!……いま400を突破しました!』

「そのまま左旋回を維持、下げ舵20度!」

『――アイアイサー!』

「機関、最大出力」

『――機関最大出力!』

『――こちら見張所、空雷衝突コース! 距離200!』

「…………!」


 ラム艦長は絶句とともに押し黙る。彼は艦長として最善を尽くした。だが空雷回避の可能性は、それでもなお彼の尽くした最善を遥かに越えたところにあったのだ。自分が最善を尽くしたことを自覚――というより思い知らされたラムに残された方策といえば、これまで数えるほどしか信じたことのない神に祈るぐらいなものだった。

『――上空戦闘機通過!……友軍機!……空雷に向かって行きます!』

「…………!?」

 被雷への覚悟は、そのまま意外な展開への驚愕に装いを一変させた。


 ――迫り来る空雷。

 ――回避できない母艦。


 それらを目の当たりにするのと同時に、カズマの腹は決まった。

「…………!」

 左旋回に続けてスロットルを叩き、ジーファイターは雷跡へと機首を転じる。

急降下――回転数を増すプロペラの奏でる悲鳴が耳を苛み、加速の見えざる腕がカズマの肩を掴む。照準機の中に延び行く雷跡を捉えるや否やトリガーを引く。射撃は忽ち弾幕の雨となって空雷の周囲に降り注ぎ、弾幕に晒され焔を発した一基が次には焔の塊となり大きく航跡を曲げ、あらぬ方向へと飛び去っていく。なおも直進を続けるもう一基に向け、照準を指向しかけたそのとき、不意に途切れた射弾に、カズマから生色が退いた。


 弾丸切れ……!?

 だが絶句も一瞬――

 カズマは頑として照準機を睨む。

 もはや回避すべき距離。

 だがその手は操縦桿を握ったまま――

 その足はフットバーを踏みしめたまま――

 空雷の細長い楕円形が眼前一杯に飛び込んできた直後、反射的に力を入れた左足が、フットバーを踏む。

「…………!」


 操縦席全体を震わす衝撃。

 何かが裂ける音。 

 繰り返し上下する視界。

 崩壊する均衡。

 踏み込んでくる静寂。

 それらを一度に感じながら、カズマの意識は薄れゆく――

 ――薄れゆく意志の中で、カズマは唄を聞いた。

 それは懐かしい唄。

 それは哀しい唄。

 それは――母の唄。

 母の胸に抱かれて聴いた唄。

 母の背に負われて聴いた唄。



はかなき眠りは

かりそめの一夜に

若き命を

まことに尽くして

明日の調べは

たそがれに留めて

雄雄しき翼を

まどろみの中に癒して



 ――それは、長じても常に心の中で聴いた唄。

 初めて翼を手に入れたあの日。

 戦友の死に泣いたあの日。

 勝利を得たあの日。

 敗北に塗れたあの日。

 唄は、常にカズマと共に在った。



 ――あれ?

 ――おれ、どうしたのかな?

 ――降下?


 錐揉み?――それも性質(タチ)の悪い錐揉みであることを自覚したとき、カズマは再び眼を開けた。

 操縦席内には遠心力の渦が生まれ、その激しさを以てカズマを座席に縛り付ける。

エンジンは――すでに停止し、不気味な静寂のみが、イヤホンを通じカズマの聴覚に空気の流れを運んでくる。


 無線が壊れた?――そのことに思い当たり、青年は初めて恐怖する。

 周囲は――完全なる闇。それに気付いた時、青年は初めて覚悟する。

 回復――操縦桿をしっかと握り、回転とは反対方向にフットバーを思いっきり踏みしめる。

 何回自転しただろう?……そう思いながらもやがて、見上げた先に海と空を別つ微かな境界線を察する。

 カズマは愛機がとうに雲海を突き抜け、そのまま海原へと沈みつつある事に気付く。

 錐揉みが次第にその回転を抑え、緩慢なそれへと変わっていく――そして遂には、機は水平に戻る。

 それでも度々、右に傾きかける機体。

 右に視線を巡らせ、右翼の補助翼中央部から先が千切れ飛んでいる事に気付く。

 だがカズマは安堵する……海までは、どうにか大丈夫。

 咄嗟に延ばした指が、スターターボタンを押し込む。全く反応しないそれを何度か押し込む内、カズマの顔から余裕が消える。

 滑空? 着水? それとも脱出?……反射的に、幾つかの単語がカズマの脳裏を過ぎる。これらも何度か経験したが、いずれも愉快な経験ではなかった。


 カズマは、着水を選んだ。未だ十分な数値を残した高度計が、カズマに滑空への自信を持たせたのだ。


 フラップ下げ――幸いにも入れたスイッチは、滑らかな油圧音でカズマの操作に報いてくれる。

 風防の緊急投棄レバーに手が延びる。接続を解かれた風防が機体から吹き飛び、操縦席に乱入する烈しい風にカズマの頬は晒される。それも湿っぽい、潮気交じりの嫌な風である。


 海が近いことを、カズマはいよいよ覚悟する。

 緩慢と不安の内に下がりゆく高度。

 迫り来る水平線はうねり、そしてどこまでも黒い。

 海が近い。


 来る!――カズマは目を瞑る。

 突き上げられるような感覚は、次の瞬間には機体を擦り上げるような振動に変わる。接触から噴き上がる水飛沫は操縦席にまで達し、飛行服を濡らす。腰と背中を烈しく打つ衝撃の連続に、カズマは歯を食い縛り耐えた。


 そして――不意に訪れる静寂。

 静寂は一方で、破局の始まりの忍び寄る合図であることをカズマは知っていた。馴れた手付きで、かつ急いでバンドを外す。その間も機は、海原の只中に急速に沈み行く。そしてこのとき初めて、操縦士たるカズマは重大な決断を下さねばならないのだ。


「…………!」

 海面はカズマの愛機を無情なまでの貪欲さで飲み込み、すでに操縦席の位置にまで迫っていた。操縦席から身を乗り出し、その先に広がる漆黒と沈黙の支配する空間を目の当たりにして、カズマは唾を飲み込んだ。


 いやだな……濡れるのは。

 逡巡がかえって青年を突き動かし、カズマの足は愛機を離れ、暗黒の海原の只中に躍り出た。

 飛び込むや否や、カズマは救命衣のピンを引く。酸素を取り入れ急激に膨らむ救命衣が沈みゆくカズマから動きの自由を奪い、やがて海面高く持ち上げていく。

 海面に上がり、量感ある波間に翻弄される体躯を必死に制御しながら、カズマは周囲を見回した。海面で緩慢に身を捩じらせた先、機首から浸水が進行し、尾部を突き上げた姿を海面から覗かせるのみのジーファイターを見出したとき、カズマの瞳に自ずと熱いものが篭もり、やがて漏れ出した。

カズマは何度も愛機を失った。 


 だが今夜は特別だった。

「さようなら……」

 感涙の赴くままカズマは手を挙げ、沈みゆく愛機に敬礼を贈った。ここからはすでに遠いリューディーランドの地で、時間にして三日間を、カズマはこの機と共に過ごした。共に多くの勝利を得、共に多くの死を見た仲間――自分はいままさに、仲間を失おうとしているのだとカズマは思った。


 ――そしてカズマの贈る敬礼に見送られながら、愛機はゆっくりと沈んでいき、二度と浮き上がることはなかった。

 ――その後に、カズマは只一人で残された。


「…………」

 溜めていた息を吐き出すと、カズマは膨れ上がった救命衣に首を委ねるようにした。衣服の中までに染み込んで来る海水は、カズマにもはや不快さをもたらしてはいない。かえって心地良さすら感じる……だが、何時までもこのままでいるわけにはいかない。


 援けを待つか……上空を見上げた先に、満天の星空が宿っていることにカズマは今更ながら気付いた。その美しさに、カズマはしばし現在の自分の立場を忘れる。その星空のすぐ下で、今しがた烈しい戦闘が行われていたことが嘘であるかのようだ……


 時は無情に過ぎ去り、腕時計は一時間、二時間と時を刻み続けた。

 時を経る内、波間に漂う内、カズマからは生への希望が消え、諦観が頭を擡げてくる。

 おれの仲間も、こういう風にして死んでいったのか――カズマはふと、そう思った。


 かつての太平洋方面の戦闘で、戦闘による損傷、針路の失探により行程半ばにして南海の真っ只中に不時着水し、そのまま二度と戻らなかった戦友のことを彼は思い出していた。帝国軍人らしく自爆するだけの余力を残した者はまだ幸せだった。大抵の者は洋上に身を委ねたまま、孤独の内に蒼い波間に弄ばれ、やがては力尽き飲み込まれていったのだ。


 それを思い、カズマは軽い後悔を覚えた。

 自分も着水などせず、そのまま海中に突入してしまった方がいくらかマシな死に方ができたかもしれない。

 おれは死んでいく――誰にも知られず、誰にも見取られることなく。

 それをいままで恐れていながら、直面している今では不思議と怖いとは思わないカズマがいた。

 もう、いいんだ――再び、カズマは上空を見上げる。


『――――!?』

 カズマは、驚愕した。

 蒼い光が海原の一点から生まれ、直後にカズマを取り巻く周囲に広がった。

 光の源は――腕環。

 更なる驚愕――腕環は汲めども尽きぬ泉のように蒼い光を湛え、それが顔といわず衣服といわずカズマの全てを照らし出すのに時間は掛からなかった。

「光……?」

 あまりのことに戸惑い、表情を固めるカズマの上空を巨大な影が通り過ぎた。

 それに気付き反射的に顔を上げたカズマの視線の先を、見覚えのある影が浮遊し、探照灯を下方へと翳しながら再び近付いてくる――



 ――それは、艦隊の連絡艇だった。




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