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第十六章  「黄昏の中で」

「――空母が一隻、沈んだそうだ」

 宿営地から臨む斜陽に不安を感じ取った頃、悲報はツルギ‐カズマの元にも届いてきた。電文を握り締めたまま、ディクスン中佐は苦りきった顔を隠さない。お陰で電文の内容に目を通さずとも、ただそれだけで悲報の内容は判ってしまう。


「ハンティントンですか……?」

「いや……もう一隻の方だ」

 沸き起こる安堵と同時に、ハンティントンの仲間達の顔が思い出された……みんなは、無事だろうか?

バートランド隊長は? キニー大尉は? バクルは? 軍医殿は?……そして、マリノは?――ともすれば靡きかける悪い想像を打ち消さんとするかのように、カズマは眼を瞑る。その様子を中佐は硬い表情とともに見守った。別れが近いことを、彼は悟った。


 別れは、無情にも迫っているとカズマも思った。滅多なことでは、ここからは離れないと誓ったのに……

「どうする……坊や?」

「……ハンティに、還らなくちゃ」

「ああ、そうしろ。そうしたほうがいい」

 風が不意に木々をそよがせ、そよぎは一層増幅しカズマの頬を撫で、伸びた髪を靡かせた。風の匂いが火薬のそれに似ていることに、カズマは内心で驚愕した。迫り来る戦場の匂いだと、カズマは確信する……もう、破滅は避けられない?


 ……いや、まだだ。


 微かな希望とともに航空装具を纏い、カズマは再び愛機の待つ列線に駆け出した。コックピット付近に描かれたレムリア機の撃墜マークはすでに11にまで増え、それがディクスンにとっては、眼にする度に感嘆を催すのだった。


十機撃墜(ダブルエース)を越えたか……また墜とせるといいな」

「食い過ぎは腹を壊しますから、ほどほどにしておいた方がいいでしょう」

「こいつ!……年に似合わず貫禄が出てやがる」

 ディクスンは笑った。眼前の若造の「増長ぶり」を決して咎めるという風ではなく、むしろ暖かく見守っている様子だった。それが、カズマには内心で微笑ましく、実は哀しい――この人も、結局はおれを判ってはいない。おれの正体を知らない。


 でも、仕方が無いんだ――カズマは微笑を浮べたまま、夕暮れの迫る、蒼の薄れ掛けた空を見遣る。

――このおれが、弦城 数馬がほんの半年ほど前まで、此処とは違う遠い世界で育ち、そして戦い、尚且つ撃墜王と呼ばれたことなど、誰が信じるというのか? ジーファイターよりも遥かに上等な戦闘機に乗り、レムリア人に劣らず精強で、狡猾な敵と戦ってきたことを話したところで、この場の誰が心から耳を傾けてくれるのだろう? 


 ――おれは、何の因果かこの世界でも戦いの只中に身を置いた。

 おれを待つ未来は恐らく二つ――以前の世界でもそうしたようにこの世界の戦争も生き抜くか、それともやがては戦場に斃れるか……だがはっきりとしていることは、自分の存在、またはそれを主張する微かな、客観的な記憶すらやがてはこの世界の歴史の片隅に追い遣られ、風化していくだろう。


 ――何故かと言うに、おれはこの世界に過去を持っていないからだ。

 この世界の一員として生れ落ちた過去はもとより、この世界を善き子として、善き兄弟として、善き生徒として過ごした過去を、おれは持っていない。だが、この世界に来るまではさして大切とは思っていなかったもの、在って当たり前と思っていたものが、それらを向こうの世界に置いて来てしまって以来、それら全てが生きていく上で必須のものとしてこの世界にいるおれの眼前に突きつけられてくる――


 カズマは思う――おれは過去を捨てたのではなく、過去を失ったのではないか?……と。

 過去を失う――それは未来を失うこと以上に恐ろしい。

 何故なら、未来とは与えられるものではなく自分で創るものだから――失いようがない。


「ボーズ!」

 突然の呼びかけに、カズマは操縦席のベルトを締める手を止め、下を見下ろすようにした。主翼の付根付近に立ったディクスンが何かを放り上げ、それは操縦席に放り込まれるようにしてカズマの手に収まった。茶褐色の液体を満たした小瓶を、カズマはまじまじと見詰めた。

「ブランデー?」

 ディクスンは操縦席の傍まで登って来た。

「餞別代りだ。1472年製の上物だよ。母艦に還ったら皆に分けてやるといい」

 カズマは笑った。硬い、戸惑い気味の笑いだった。

「喜びますよ……みんな」

「……だろ?」

 視線を巡らせ、飛行場の端で補修作業を終えたF‐21の機影をカズマが認めたとき、ディクスンは言った。

「いろんなとこから部品を掻き集めたら……何とかなった。たった一機の空軍だが、当分は格好が付くってものさ」

 カズマは頷いた。

「飛行機乗りは、やっぱり翼を持ってないと……」

「飛べない鷲は、鵞鳥にも劣る、さ……蓋し名言だよ。なあツルギ空兵……」

「はい?」

「さっきはさっさと帰れと言ったが、発進、明日に延ばせないか?」

「…………?」

「……いや、もうじき日も沈む。一人乗りじゃあ辛いだろう?」

 カズマは腿に挟み込んだチャートに眼を落とした。

「大丈夫……母艦までは、此処を出たら直ぐですから」

「そうか……じゃあ、止めん」

「もっと引き止めてくれると思ったのに……」と、カズマは戯れに膨れてみせる。エンジン始動に取り掛かるジーファイターから後ろ足に距離を置きながら、ディクスンは声を上げる。

「おれは何事に付け、サバサバしたのが好きなんでね」

 ディクスン中佐らしい言種だと、カズマは思った。



 思いをエンジン始動ボタンに篭め、ジーファイターは再び息を吹き返す。排気管より勢いよく噴出す黒煙、暖気の位置にまでエンジン出力を開かれ、安定を取り戻すプロペラの回転。地上に在ることを倦んでいるかのように軽快に滑走路へ進み出る機体……操縦席で見るもの聞くもの、そして感じ取るもの全てが、別れを迎えたカズマには新鮮だった――ジーファイター(こいつ)にも、もう十分慣れたと思っていたのに……


 見送りの搭乗員、地上員に応じ、敬礼を送る。今飛び立とうとする地上に広がる全て――その何れもカズマには懐かしく、そしていとおしい。わずか三日程度の滞在だったというのに、この感触はどうしたことだろう?……かつて、以前の世界でも絶海の孤島や放棄された拠点を去る際、何度か経験した感触だったはずが、初めてのことのように驚きを禁じえない自分がいる。


 ――やがて加速の付いた機上で、カズマはそれらを戦場の現実と捉え、そして受け容れる。

 ――加速は続き、気流の采配はジーファイターをすぐに帰路の空へと引き上げてくれる。


 機首を向けた先は、市街地の上空だった。

 風防を解放したまま、カズマは低空で機を進める。吹き込んでくる風は烈しくも心地良い。だが一旦下方に視線を転じれば、建物の屋上の悉くに機関砲や山積みの土嚢が置かれ、それらが整然とした街から平時の和やかさを奪っていた。


 ……確か、この辺りだと思ったけど。

 注意深く絞るスロットル。ゆっくりと踏み込むフットバー――緩やかな旋回を繰り返しながら、カズマはさらに下方に眼を凝らす。そして三旋回めで、カズマは上空から捜し求めていたものを見出す。


 あった……あれだ。

 ニーボードに挟んだチャートに書き込んだ箇所――カズマが機を到達させた眼下には、市の中央病院の全容が迫りつつあった。その屋上に連なるのは、対空機銃ならぬ陽光を受ける白も眩い矩形の連なり……干し出されたシーツなのだと、カズマは思った。


 その傍らに、カズマは人影を見出す。

 それが彼の注意を喚起する。


 そして……

 研ぎ澄まされた視力で人影の詳細を掴んだ瞬間、カズマは軽く声を上げる。

「あっ……」

 そこにいたのは、紛れも無くルウだった。

 垂直旋回に転じたジーファイターの操縦席から見上げた先――ジーファイターの姿に気付いたのか、慌てて欄干に駆け寄るルウの姿を認め、カズマの口元が綻んだ。


 さようなら……ルウ。

 心の中で別れを言い、再び開かれたスロットル――ジーファイターのずんぐりとした機体は燕のような鮮やかさで舞い上がり、上昇に転じた操縦席の背後に広がる陸地は、徐々に小さくなっていく。


 あとは、帰るだけだ――何気なく、背後を振り返ろうとカズマが背筋を歪めたとき――

「…………!?」

 蒼穹と浮遊大陸との間を割るように広がる雲間。

 そこに蠢く無数の輝点。

 カズマの天性とでも言うべき視力は蒼穹の微かな歪みとして、それを感じ取った。

 同時に、蓄積された経験がそれを機影と察知した。

 数は?……二機、三……六……八機いる?

 敵は?……こちらに気付いている?

「…………」

 程無くして、急速に迫り来るそれが、あの敵戦闘機の機影と一致した瞬間、カズマは覚悟を決める。




『――見つけた! 七時下方――』

 本隊より低い高度を飛ぶ部下の報告を、エドゥアン‐ソイリングは火器管制装置の安全装置(セーフティ)を外しながら聞いた。

「二分隊、そのまま報告を続けろ」

 雲中に潜み、出てくる敵機をひたすらに待ったのは正解だった。狩りは此方から積極的に打って出るよりも、獲物を絶好の位置に引き摺り出す方が上手く行く……それも、伏撃に適した位置に――それが判らないのは、あのタイン‐ドレッドソンぐらいなものだろう。


 確かにドレッドソンの腕はいい。だが、編隊指揮官として重要な、戦闘時の駆け引きの冴えに欠ける――とエドゥアンは思っている。そしてこうも……自分には未だ腕がない。それでもいずれは強くなる。


 ……さらには、自分にはやつ(・・)にはない叡智がある!

 高度と速度を殺さぬよう、エドゥアンは慎重にゼーベ‐ギルスを滑らせた。そして、再び操縦桿の無線通話ボタンを抑える。垂直旋回に転じたギルスのキャノピーから広がる地表の一点に、彼もまた既に敵影を捉えていた。


「リーダーより全機へ、やつを視認した。未だやつを追尾するな。狐狩りと一緒だ。下へと追い込んでいけばいい――」

『――了解!』

 その後は俺がやる……という言葉を、エドゥアンは喉元に出かかったところで抑えた。その代わり、彼はこう命令する。

「二分隊、三分隊、やつを追い込め!」

 命令は、即座に実行された。一斉に横転し降下に転じる四機、黄色く塗装されたゼーベ‐ラナの機首が、さながら猛禽の嘴の様に下方のジーファイターを指向した。即座に四機はジーファイターを上方から取り囲むような円陣となり、一列の縦陣となって襲い掛かる。



 迫り来る黄色い機首――敵機の正面を見出したとき、カズマの腹は決まった。

 敵機の主翼前縁の煌き、投掛けられる光と破壊の数珠を、カズマは反射的に左フットバーを蹴ってかわす。右翼端スレスレに空を切って流れゆく弾幕。それに見とれる間も無く、新たな敵機が上方から迫って来る。


「…………!」

 再び舵を効かせ、カズマは機を左へ、また左へと滑らせる。敵の射撃は再びカズマの右を流れ、敵機は攻撃で崩れた体勢を立て直そうとジーファイターより離れ上昇する。敵機の攻撃は単調だった。それに対するカズマの対処もまた、単調。立て続けに襲ってきた敵機を悉く回避したとき、カズマの胸中に複雑な感情が込上げてくる。


 何て下手な射撃だ!……カズマは驚嘆すると同時に情けなさすら覚える。だがそのおれは、こんな下手くそどもに、反撃の機会すら与えられず無様にも追い回されているのだ!

 だが、カズマにはわかっている――敵は撃墜を意図しているのではなく、むしろこちらを反撃の出来ない低空に追い込むことを狙っている。


 そして、カズマにはわかる――敵の手法、それは正しい。

 周囲を舞う紅い翼。それカズマにとって、空を舞う狼の群れだった。そして狼は狡猾にも、此方が弱るのを待って止めを刺そうとしている。


 否――もう判断しているかもしれない……手を出してもいい頃合だと。

 背後に付く一機。座席越しにそれを睨むカズマの眼前で、黄色いスピナーが徐々に距離を詰めていく。

 徐々に距離を詰めてくる機首――


「…………」

 瞬時にして、そして冷静にカズマは感じ取る。

 こいつはやる気だ。

 こいつは判っている……判っているからこそ距離を詰め、あらゆる誤差を修正した一撃を放ってくる。レムリア軍戦闘機乗りの技量の高さ、状況判断の巧みさに、カズマは今更のように舌を巻く。


 ――敵は多数ではないぞ。弦城。

「――――!?」

 星野分隊士の声を、カズマは聞いたように思った。

 そして、思い出された記憶――




 ――昭和十九年の暮れ。

 横須賀に来襲してきた米艦載機群を迎え撃つ戦闘機隊の中に、カズマはいた。

当初は迎撃側に有利な状況から始まった空戦は次第に混戦の度合いを深め、零戦、グラマンF6F……全く趣の異なる銀翼の入り乱れる騒乱の巷と化していた。敵の数は多く、只でさえ数の少ない味方は当初の優位を完全に失い、混戦の中で一機、また一機と消えていった。


 そんな中、五機のグラマンに囲まれた一機の零戦――格闘戦の末白煙を吐かせたF6Fを追っていたカズマは、一瞥でそれを星野分隊士だと直感する。

『…………!』

 分隊士が危ない!――カズマの驚愕は、直後に裏切られた。

 優位な位置から攻撃を加えながらも、なかなか捕捉できない零戦に業を煮やしたグラマンが距離を開いたのを、分隊士は見逃さなかった。上昇反転の頂点で姿勢を水平に戻した零戦は、鮮やかな機動で編隊の間隙に割り込むと巧みにグラマンの後背に回りこみ、忽ち二機に白煙を噴かせた。

「…………!?」

 怯んだ一機の主翼に撃ち込まれた20ミリの一連射で、操縦系を破壊されたグラマンは錐揉みに入り、幾重も雲を貫き急降下していく。さらに反撃に転じた一機と交差、一瞬の後、擦れ違いざまに正面から放たれた射撃に火達磨と化したのはグラマンの方だった。慌てて退避に入る最後の一機を、応援に駆けつけた数機の零戦が取り囲み、四方より浴びせ掛けられた射弾により各所から白煙を吐き出したグラマンは地上に激突、四散する。


 墜落地点上空を航過し、再び上昇に転じる分隊士の零戦に、カズマは目を見張る。

 ――あの人には……敗北はないのか?



 敵がどんなに多数であろうと、攻撃できる機は一機だけだ――帰還を果たした飛行場でその表情を隠さないカズマに、分隊士は言った。

「――それを知っているのと知らないのとでは心構えが違ってくる。知っているやつは耐え続ける。耐え 続けて、敵が襤褸を出すのをひたすら待つ。そして耐えかねた敵が手を替える瞬間を見逃さず、逆襲に転じることができる。だが知らないやつは自分で自分を追い込み、やがては死ぬ」

「自分に……できるかな?」

 はにかみ気味に、呟くように言ったカズマに、分隊士はさらに言う。

「……空を、常に心の中に抱いていれば、できる」

「空を……抱く?」

「前にも言わなかったか? 在るがままの空を受け容れろ、と」

 覚えてはいたものの、その意味を未だ図りかねているカズマだった。キョトンとするカズマに、分隊士は微かに笑う。そして何時ものごとく伸びた手がカズマの頭髪をクシャクシャにし、彼は去っていく――



 在るがままの、空?――左旋回を続け、回避を繰り返しながら、カズマはいつの間にか考えていた。

 考えながらフットバーを踏み、ジーファイターを滑らせ、追い縋る敵機を振り切った。一方で敵機はあいも変わらず、代わる代わるカズマの背後に付いては、射線に付こうと追尾し、その度にかわされる。


 在るがままの、空……?

 何度も振り切るうち、止め処なく浮かんできたのは、心の平安――それがカズマには驚きだった。驚きとともにカズマは回避を続け、敵機はカズマを捉え切れず、カズマの上空で旋回を続けるばかり……

ふと、カズマは思った――そうだ、永遠じゃないんだ。

おれはここで永遠に旋回を続けるわけじゃない。


 おれは今、味方の上空にいる。

 だが連中は違う。

 いずれは燃料弾薬ともに尽き、帰路に付かねばならない。

 そこに、彼我の決定的な差がある。

 カズマは、思った――否、確信した。

 おれは、あきらめない。

 あきらめちゃ……いけない!


 旋回するジーファイターの操縦席に身を委ねながら、カズマは酸素マスクに覆われた口元で呟き続ける。

 ――アルガママノソラ……アルガママノソラ……在るがままの、空。

 在るがままの、空……!

 

 迷夢から醒めたかのように、カズマの瞳に輝きが戻る。

 


「二分隊、三分隊……何をやっている?」

 エドゥアン‐ソイリングにとって、それはあまりにも意外な光景だった。

本当ならば、既に彼はあのあわれな地上人の背後に占位し、必殺の射弾を叩き込んでいるはずなのに!……彼の部下は未だジーファイターを追い込むことすら出来もせず、ただ徒に追尾と旋回とを繰り返している。


「愚かな……」

 こちらは圧倒的な優位にあるはずなのに!――気が付けば、操縦桿を握る手が焦燥に震えていた。焦燥はそれに慣れぬ若者を責め立て、下方のジーファイターへの敵愾心を嫌が応にも掻き立てる。


 だが……

 敵愾心と機を同じくして沸き起こる感覚――それは、小賢しい敵手に対する感嘆。

 と同時に、部下から逃げ回るジーファイターの塗装と徽章に、見覚えがあることにエドゥアンは気付く。

 感嘆は、純粋な驚愕へと席を譲る。

 ――あいつか?

 ――やはり、あいつなのか?

 ――過日、自分の中隊を愚弄するかのように翻弄したあいつ。

 ――あいつに対するに、当てつけ同然に避難民を銃撃することでしか報いてやれなかったあいつ。


 ――あいつが?

 ――あいつが、我々の戦闘機を多数撃墜し、我が軍の誇る撃墜王(イクスペルテ)すら葬ったというのか?

 そこまで思い当たった時、フルフェイスの中で浮べた苦渋の表情は、解き放たれたような笑みへと変わった。


 エドゥアンは悟った――敵に復讐し、敵の撃墜王を斃すという、空戦士としての最高の名誉を得られる好機を、神はエドゥアン‐ソイリングの前に用意してくれたのだ!


「リーダーより二分隊、三分隊へ」

 一息つき、エドゥアンは続ける。

「やつから離れろ。こちらが仕留める」

 言うが早いが、跳ね上がるような急横転とともにゼーベ‐ギルスは空戦の輪の中へと突っ込んでいく。列機もまた、それに続く。



 好機は、唐突に訪れた。

 急に距離を取り始める敵機。それを睨みつつ、カズマは操縦桿を曳いた。敵手が敵の急変に気付いたときには、駿足で上昇反転を終えたジーファイターは彼らの眼前にまで迫っていた。

「何……?」

 エドゥアンが目を見張る前方で、忽ち逆転した攻守――上昇した敵機は部下四機の下後方に潜り込み、それに気付いたゼーベ‐ラナは盛んに主翼を左右に振り下を伺おうとしている。その敵機は、盛んに機を左右に滑らせ、彼らの視認を巧みにかわし、刺客よろしく追尾し距離を縮めている?


「テッ……!」

 ――裂帛の気合。

 ――カズマが睨む照準器の中央には、真白い敵機の下腹部。

 間髪入れず放たれる一連射――光の槍衾が一点に集中し、それは敵機の尾翼をもぎ取った。

さらにもう一機――追い縋る二連射が、回避の遅れたゼーベ‐ラナを焔の塊と化す。

 上昇に回った三機目を追い、急角度に捻り込んだ先――照準機に入った敵機の左翼付根に撃ち込んだ一連射は、急機動で負荷の掛かったゼーベ‐ラナから左翼を吹飛ばし、急激な錐揉みに追い込んだ。


 なんてやつ!――エドゥアンは絶句する。

 加速のついたゼーベ‐ギルスの鼻先には、三機を葬り、今まさに最後の一機に遅いかからんとする敵戦闘機の機影。そしてギルスは、すでに敵に対し絶好の位置にいた。


「終らせてやる」

 高鳴る鼓動。

 これまでいかなる敵機を葬っても感じ得なかった身を震わす鼓動。

 嫌な気分ではない。

 嫌な緊張ではない。

 ――むしろ、嬉しい。

 喜ばしい。

 敵を眼にし、エドゥアンの目に残酷な煌きが宿る。

 はやる心とともに、もう少しで照準にそれを収めようとした瞬間――


 唐突に眩く輝く側面に慌てて視線を転じ、エドゥアンの頬から血色が引いた。がら空きとなった背後より攻撃を受け、焔に包まれた列機の姿だった。

「…………!?」

 後方に眼を遣り、迫り来る機影に愕然とする。譲り渡す形となった上方には、いないはずの敵機がいた! 

 何時の間に……!?

「馬鹿な!」

 エドゥアンの驚愕の前で、白銀のF‐21の突進――浴びせ掛けられた二連射でもう一機が火達磨と化し、空中に破片を撒き散らしながら姿勢を崩す。


「ディクスン中佐!」

 四機目のゼーベ‐ラナに黒煙を噴かせた直後、突如訪れた異変にカズマは目を見張った。中佐が援護に来た!

『やったぞ坊主! 二機だ! 二機()った!』

 何時もと変わらない、弾んだ声がレシーバーを打つ。カズマは操縦桿を倒し、左旋回から上昇に転じる。だがカズマの視線の先で攻守は逆転し、中佐は忽ち追う側から追われる側へと回る。

「中佐!……逃げてっ!」

 叫ぶカズマの眼前で、敵機は機銃を放った。そしてカズマの前にも、迫り来る敵影――


「お前の相手はこの俺だ!」

 エドゥアンは叫んだ。叫びとともに放った一連射がカズマの傍を霞めた。

「…………!」

 それが合図だった。

 反射的に踏み込んだフットバー。

 反射的に傾けた操縦桿。

 全開にしたスロットル。

 ジーファイターは、横へと跳んだ。


 エドゥアンは低い声で叫んだ。

「速い……!」

 直感――バレルロール……!?

 そう思った時には、エドゥアンもまたカズマに倣った。

 そして――

「中佐?」

 バレルロールを終えた瞬間、飛び込んできた光景をカズマは信じることが出来ずにいた――

 二機の機影の交差――その後に散る破片。

 機体設計を超えた無理な急旋回の末、失速したF‐21の尾部に、急追したゼーベ‐ラナが速度を落とさずに突っ込んできたのだ。尾翼を削られたF‐21とエンジンより発火したゼーベ‐ラナは縺れ合い、互いに回転しながら眼下の街中へと吸い込まれるようにして落下していく。


「中佐……?」

 その瞬間、カズマの脳裏で何かが――切れた。


 ウアァァァァァァァァァッ!!


 絶叫とともに左上昇旋回――その後を追う紅い翼、黄色いスピナーが、陽光を受け獰猛に光る。

 宙返り?――馬鹿か? こいつ。

 エドゥアンは勝利を確信した――上昇性能で地上人(ガリフ)の戦闘機がゼーベ‐ギルスに勝てるはずがないではないか! 勝負を投げたか?


 エドゥアンは計算を廻らせる――

 宙返りの頂点――降下――降下に転じたときに、距離を詰めて仕留めてやる!

 上昇――前を行く敵機との間で、一層距離が縮む。

 宙返りの頂点。スロットルを絞る。

 背面の姿勢。再び開かれたスロットル。

 

 舌なめずり。

 引鉄に、人差し指を充て直す。

 上昇……宙返り――エドゥアンの目算は、それらを終えた瞬間に裏切られた。


 いない?

 覗き込んだ照準機には、敵機の姿は破片すら残ってはいなかった。

 宙返りを経て暖降下に転じたゼーベ‐ギルス。

 その機首の先にいるはずの敵機は、いなかった。

 混乱と同時に沸き起こるのは、とめどない恐怖。

 震える背筋が、彼に背後への注意を喚起させる。


 突き動かされるように振り向いた先――


「ばかな……!」

 攻守は逆転した。エドゥアンの与り知らないところで――

 静寂――


 射弾――

 火と鉄の突風はエドゥアンをその背後より襲い掛かり、追尾されるゼーベ‐ギルスを翻弄する。

 百雷の如き着弾――

 穿たれる穴――

 噴出す燃料――

 捲れ上がる外皮――

 燃料が焔に替わり、ギルスの肢体を醜く包み込む。


 エドゥアンもまた貫かれた。ジーファイターより放たれた一連射は操縦席背後の防弾板を貫き、エドゥアンをも背後から打ち抜いた。降下より回復しない愛機。噴出した鮮血と肉片に染まった操縦席の中で、薄れゆく意識を総動員しエドゥアンの思いは巡る――


 おれ……敗けたのか?

 おれ……死ぬのか?


 エドゥアンは、思い出した――

 飛行学校を巣立つ間際、老境に達した教官が掛けてくれた言葉――

 ――お前たちは新しい世代として強い敵、老いた敵に引導を渡すためにここから旅立つことになる。そして戦いの中でいつの日か……お前たちの中の誰かの前に、お前たちより新しく、強い敵手が現れ、そいつに引導を渡すことになるだろう。そのときが来るまで、精一杯生き抜け。生き抜いて戦え――


 新しく、そして強い敵……そいつは確かに存在した!

 でも……でも、現れるのは俺の前じゃなくともいいだろう!?

 それを思い、エドゥアンの目から一筋の光が零れる。

エドゥアンは、はじめて敗北を悟った。

悟り――背後からの更なる一連射が、空の只中で死に瀕したゼーベ‐ギルスを、その乗り手とともに粉砕する。 


「…………」

 最後の射撃で粉砕した敵機の、脆くも崩れゆく姿を、カズマは放心したように何時までも見詰めていた。


 反芻――

 左上昇――

 捻り込み――

 下降――


 そして、攻撃――自分を追尾した敵機は恐らく、自分の身に何が起こったのか知ることもなく散ったのに違いない。そしてカズマもまた、戦闘機乗りとして培われた本能の導くままに機を操り、その結果として気付いた時には敵を葬っていた。


「在るがままの……空」

 呟きながら、カズマは急に静けさに染まった空を覗うようにした。何かに浮かされたような空虚な瞳で――そこで、カズマの全ては現実に引き戻される。


「ディクスン中佐?」

 ……返事はない。

「ディクスン中佐!」

 ……レシーバーに入ってくる空電音が、カズマの耳を苛んだ。逸る心の任せるままスロットルを叩き、元来た途を引き返そうとしたとき――


『――ツルギ士官候補生、無事ですか?』

「…………?」

 逡巡の後、カズマは無線に応じた。

『――こちらヒュイック基地、中佐の伝言をお伝えします。自分に構わず、母艦に戻れと』

「中佐は生きている……?」

『――中佐殿は、あなたが戦っているという報を聞いて出撃したんです。出撃前に自分に何かあれば、ツルギ空兵にそう伝えるように……と』

「…………」

 カズマは言葉を失う。瞑目……これも何度か経験したはずなのに、決して慣れることはない。

 だがカズマには、もう判った。


 ――慣れるんじゃない。乗り越えるんだ。

 再びの逡巡を経てカズマは頭を上げ、薄れ掛けた蒼を仰いだ――その澄み切った瞳の先が、彼の行くべき途。

「行くんだ……」

 ジーファイターはみるみる加速し、やがて虚空に佇む大陸を後にする。

 



 二機は十分過ぎるほどの間隔を置き、ヒュイックの尖端に踏み入ろうとしていた。

「…………?」

 ジャグル‐ミトラの操縦席から臨む空の一点――いままさにカズマのジーファイターが通過しようとしていた空の彼方を、タインは睨むようにした。直感――空を駆ける狩人としての直感――の導くまま、無言のまま雲の壁に閉ざされた一角を睨み続けるうち、沈黙をいぶかしむ部下の声をレシーバーに聞く。


『――どうしました。隊長?』

「いや……」

 我に帰ったかのように、タインは前方に向き直る。浮遊大陸の「空岸線」を眼下に収めるにつれ、不安にも似た感覚は、タインの胸中で一層浸透の度合いを強くする。


 何だ?……この感覚は。


 何か得体の知れない、だが重要なことを見落としたかのような釈然としない感情をタインは覚えていた。それもヒュイック(ここ)に差し掛かってすぐのことだ。僅かな間だったが、それだけでもタインを困惑させるのに十分だった。



 果して――ヒュイック上空。

 区画の判然としない街並の一角から上がる八条の黒煙に、最初に声を上げたのはグーナだった。

『――これは?』

「…………」

『――隊長……何ですかこれは? 何が起こったんでありますか?』

 驚きのあまり声を荒げるグーナを他所に、タインはジャグル‐ミトラを螺旋状に降下させる。反射的にグーナが上昇し上空からの敵機に備える。この点、経験に裏打ちされた二機の連携は完全だった。

舐めるように低空を飛び、街の詳細に目を凝らすにつれ、タインの表情にも次第に苦渋が宿り始める。


「食われたか……バカめ」

 ジャグル‐ミトラを上昇させ、タインは言った。その表情から苦渋は消え、いつもの平然とした顔に戻っている。

『――どうします? 隊長』

「グーナ、戻るぞ」

『――隊長?』

 タインは、元来た空を顧みるようにした。

「行き違ったな……もう、間に合わん」

『――無駄足でしたか?』

「いや……そうでもないさ」


 編隊を組んだグーナ機と手信号で引き上げを命じながら、タインは内心でほくそ笑む。

 これではっきりとした――間違いなく、やつ(・・)はこの広い空の何処かにいる。

 やつは、実在する。

 そして、やつが俺に出くわすのはそう遠くない。


 そのときこそ――俺がやつを撃墜(おと)す!



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