第十五章 「巨艦墜つ」
レムリア艦隊の戦いは終ったが、ラジアネス艦隊の戦いは未だ終ってはいなかった。ラジアネス軍にとって戦いは寧ろ、時を追うごとにその苛烈さを深めつつあったのだ。
後年、「リューディーランド空域会戦」と称されることになるこの戦いは、彼我空母機動艦隊がその砲戦能力を越えた超長距離を隔て、その保有する攻撃機戦力の全てを投射し攻勢をかけ合った史上初の戦闘として記憶されることになるが、現時点のラジアネス軍第001任務部隊にとって、単なる苦闘以上の感慨をもたらすものではなかった。
一発目の空雷を被雷後、直後に襲ってきた四度の雷撃の悉くを、ラジアネス艦隊の先頭集団の主力 空母「クロイツェル‐ガダラ」は回避し、強力な防御砲火もまた未だ健在だったが、運動性に劣る戦艦改装型の空母個艦の防御に、限界は無情にも迫りつつあった。
右旋回を続ける「グッピー」の左側面を、白い航跡を曳いた空雷が通り過ぎる。だが号令の遅れか空雷は右舷補助翼を一枚抉り、衝撃で航跡の折れ曲がった空雷は、あらぬ方向へとそのまま飛んでいく。
「戻せぇ――っ!」
号令一下、舵輪を回す操舵手の顔には、油汗すら浮かんでいた。一発目の被雷以来、「グッピー」はその体内に気化航空燃料という爆弾を抱え、危機は応急班の努力に関わらず未だ復旧を見ていない。たとえロケット弾の一発といえど、「クロイツェル‐ガダラ」は被弾すべき状況ではなかった。
『上空敵編隊! 10時方向。左砲戦用――意っ!』
艦中枢のCICに陣取る砲術長ルース少佐の指示に反応し、艦橋頭頂部の射撃指揮装置に詰める統制官が、作動させた照準鏡のファインダーを覗き捉えた敵影。立体式照準鏡の中央に攻撃機の四機編隊を捉える。捕捉――イヤホンを甲高い電子音が打つ。射撃指揮装置に組み込まれた測距レーダーもまた敵影を捉えた。
「撃て!」
直後、統制官の、発砲装置のトリガーに掛けた指に力が入り、電気回路を通じ艦橋部に配された四門の連装五インチ砲が射弾を吐き出す。数秒も経ずして、統制官の覗くファインダーの眼前で対空砲弾が炸裂し、直撃を受けた一機が四散した。そして二機目が主翼を?ぎ取られて火達磨と化し、更なる一機が姿勢を崩し錐揉みに陥る。
「どうだレムリアン!」
統制官は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「来るなら来いハエども! 五インチ砲をたっぷりと食わしてやるぜ!」
『――見張員より報告! 敵機二機、直上方向!』
「…………!?」
至近の脅威、それに対する照準修正の余裕など、対空装備として異例に巨大で鈍重な五インチ砲に在ろう筈も無かった。
全力航行を続ける「クロイツェル-ガダラ」上空に迫る二条の飛行機雲――
「あいつが見えるか? グーナ!」
『――はっきりと見えまさァ、隊長どの!』
直援戦闘機の防御網を突破し、護衛艦艇の対空砲火をも掻い潜った二機のジャグル‐ミトラの先には、凄まじい光景が広がっていた。右旋回より舵を戻し、左へと艦首を振ろうとする敵空母を俯瞰する位置に、タインたちはいた。敵空母の砲座は彼らの想像を越えて多く、それらから撃ち出される弾幕の炸裂は広範囲に広がり、さながら焔と硝煙の林を以て巨大な扁平形の艦容を飾り立てていた。それが撃墜王の敵愾心を煽り、闘志を掻き立てる。
タインは叫んだ。
「あいつをやるぞ!」
針山のように天を睨む対空機関砲の至近弾の炸裂に煽られながらも、タインは冷静にフットバーを踏み込み、ジャグル‐ミトラを滑らせた。蒼空の海原に白い航跡を曳きながら驀進と応戦を続ける敵空母を、その照準機の中心に捉えるのに苦心は要しなかった。上方より距離を詰めていくにつれ、炸裂の距離と衝撃は次第にその間隔と強さを増し、操縦者を心身両面にわたり責め立てる。
「グーナ! 付いて来ているか!?」
――カチカチ……
操縦桿の無線送受信ボタンを押す音……飛行機乗りは、余裕が無いときに名を呼ばれた場合、よくそういう手を使って応答する。逆に言えば、それだけで同僚がどういう心理状態か、どういう状況に取り巻かれているかがわかる。
「もう少しの辛抱だ!」
――カチカチ……!
「もう少し……!」
――カチカチ!
タインの指が、操縦桿頭頂のロケット弾発射ボタンに触れる。標準装備として、ジャグル‐ミトラは対空/対艦兼用の小型ロケット弾を主翼下に各8基ずつ搭載している。弾道特性のいい小型弾――それで敵空母に致命的な損害を与えられるわけではなかったが、その対空砲火を一瞬でも封じることが出来れば、味方には勝機が訪れる。
照準機の照星に敵空母の飛行甲板が重なった瞬間。タインの眦が決した。
「今だ!」
発射!――翼下から間隔を置き離れていく弾体の束!……投掛けられるように放たれた白い航跡は、なだらかな曲線を描きながら空母へと突き進む。命中を見届けるまでも無く機首を引き上げたタインの半身に、凄まじい加速が圧し掛かる。体中の血液が下半身に集中し、重力はタインから一切の意識を奪おうとその魔手を伸ばしてくる――それでも、常人の限界を超えた領域をタインの強靭な体躯は耐え続け、彼はやがて機体を立て直した。
「…………!」
追い縋る対空砲火と重力の井戸を振り切り、急降下から上昇――背面に転じたジャグル‐ミトラのコックピットからは、素晴らしい光景が広がっていた。敵艦の速度は決して衰えてはいなかったが、ロケット弾の命中と同時に艦橋より蒙々と上がる黒煙は艦全体を覆わんばかりに拡がり、対空砲座から視界を奪いつつあった。
グーナは?――大丈夫、ジャグル-ミトラの背面にへばりつく様に、しっかりと付いてきている。
なおも黒煙を吹き上げ続ける敵艦に視線を集中したまま背面から横転の姿勢に機体を修正し、タインは笑った。
「やったぞグーナ! 地上人の空母に一撃食らわせてやった!」
『――もっと威力のあるやつを持ってくればよかったですね』
「これで俺たちの用は済んだ。この忌々しい場所からおさらばだ」
『――了解!』
――そこに、味方攻撃隊が殺到する。
対空砲火を掻い潜り、直上方向より接近してきた二機の敵機の放ったロケット弾は、「クロイツェル‐ガダラ」の艦体そのものには何等甚大な損害を与えはしなかったものの、その被害は決して軽微なものではなかった。ロケット弾のうち数発がレーダーアンテナの至近で炸裂してアンテナを全壊させ、迎撃機の管制はもちろん、対空砲の管制射撃すら一瞬で不可能にしてしまったのである。「クロイツェル‐ガダラ」は自らの身を守る眼を失った。
ロケット弾はまた艦橋各所の、応急的に配された剥き出しの対空機銃座にも襲い掛かり、詰めていた見張り員や射手などを十数名単位で死傷させ、銃座を焔の巷と化す。被弾の衝撃はさらに艦内通話回線の一部を損傷させ、生き残りの見張員が予備回線を起動させるまでにさらに一分に近い時間が費やされる。
――そこに、艦内意思疎通上の空白が生じた。
そして――
『――右舷より敵攻撃機! 急速に接近してくる!』
『――左舷より敵機来襲! 至近!』
ほぼ同時に各舷より寄せられた報告を、遅ればせながらにして艦橋要員が聞く頃には、レムリア軍の攻撃機は挟差の態勢を文字通りに完成させつつあった。必死の防戦は、艦橋でも複数の指示と命令というかたちで顕れ、艦内回線を通じ関係各部署に対する悲鳴となって伝えられる。
「下げ舵12度! ぐずぐずするなァ!」
「下げかぁ――じ!」
「反応炉出力20落とせぇっ!」
「昇降舵トリム下げ5度!」
指揮を断絶させられた艦の対空銃座は猛烈な砲火の幕を、なおも迫り来る敵機の前に展開していたが、それからはもはや統一感と精緻さが著しく失われていた。それを掻い潜るようにして迫るニーレ-ガダル各機の機内を同一内容の号令が駆け巡り、両舷よりほぼ同時に切り落とされた空雷は獲物を前にした雷魚の如く、真白い軌条を蒼穹に描き突き進んでいく。その獲物の両側の、がら空きとなった柔らかい腹を目掛けて――
『――空雷、なおも接近中!』
頼む!……間に合え!
もしこの世に戦争の女神というものが存在するとすれば、グロス大佐の痛切な願いを、彼女はその素足で踏みにじった形となった。
艦首を下げ、反応炉の浮遊力を落とすことで得られた急激な降下は、至近の脅威に対し何等効力を発揮し得なかった。左舷より殺到した空雷は一基、それは後部飛行甲板を側面より直撃し、対空銃座及びキャットウォークに詰めていた対空要員や整備要員を吹飛ばし、彼らの悉くが、ある者は五体満足なまま、またある者は生命を失った肉塊と化し艦より寄る辺の無い虚空へと投げ出された。被雷と爆発の衝撃で後部飛行甲板は大きく捲れ上がり、艦載機の着艦をも不可能にする。
そして、右舷より迫ったさらなる一発――
『――総員、衝撃対応体勢を取れ!』
その被雷の瞬間、グロス艦長は自らも掴んだ羅針儀に力を篭め、眼を瞑った。
ズウゥゥゥゥゥ……ン!
――命中の衝撃。
――それに続く舷側装甲の裂ける悲鳴にも似た響き。
――一瞬の静寂の後、最悪の事態は訪れた。
命中箇所に咲いた黄色い焔――気化ガスの引火――は、瞬く間に艦の各区画を突き破り、それは航空燃料庫及び弾薬庫にまで達した。直後に巻き起こった大音響は量感ある衝撃を伴って艦橋にまで達し、その瞬間、艦橋の誰もが絶望の淵へと叩き落される。
「グッピー」は、その空母としての機能を、完膚なきまでに失った。
『――駆逐艦「ウォード」より入電、「クロイツェル‐ガダラ」大破。戦闘続行不能!』
「どういうことだ……!?」
空母「ハンティントン」艦橋、第001任務部隊指揮官 ヴァルシクール中将は、将官専用指揮シートの上で、無表情を保ったまま声を荒げた。
『――被雷の衝撃が原因で、艦内に充満したガスが引火し、瞬間的に戦闘能力を奪われたようです』
「ガダラは今どうなっている?」
『――推進機は全て停止し依然沈降中。反応炉が機能不全に陥ったようです』
「復旧の見込みは?」と先任参謀のシフ大佐。
『グロス艦長は、退艦命令を出したようですが……』
「馬鹿な!……浮いている内に護衛艦に曳航なりさせるべきだろう!?」
「いや……」
と、大佐を遮るように言ったのは、ラム艦長だった。
「お言葉を返すようですが、浮いている間だからこそ、乗員の退避を優先したのでしょう。大きなフネほど、一度失った浮力を回復するのは難しい……ましてや大破という状態では……」
「貴様……!」
ラムに眼を剥きかけた参謀を制するようにしたのは、ヴァルシクールだった。
「ラム艦長の言や善し。問題は今後の対応だ」
そのとき、艦橋見張員を通じ入ってきた新たな報告――
『――雲を抜けました!……一時方向にガダラを視認! 嘘だろ?……信じられない!』
「…………!」
一斉に転じられた雲海の一点――その先には、これまで戦闘を知らなかった彼らにとって衝撃的な光景が広がっていた。
「あれが……『グッピー』?」
断末魔の艦より湧き上がる黒煙は、天を突くかのように拡がり、蒼穹を暗黒に染めんかという勢いだった。その根元で、「グッピー」は艦を大きく左に傾斜させ、外板や物資らしき黒点がぼろぼろとその巨体より零れ落ちていた。見えざる重力の腕は、衰えゆく艦のフラゴノウム反応炉に徐々に打ち克ちつつあり、その巨体を緩慢に、だが確実に雲海のその下へと飲み込もうとしている。
艦体を貫くように配された巨大推進器はその全てが停止し、補助推進機の一部もまた、延焼によりすでに焔の塊と化していた。引火した弾薬が、艦の各所よりあたかも活火山のように赤い尾を曳いて吹き上がり、何時崩壊するとも知れぬバランスも相まって、周囲の護衛艦も容易に接近できない状態となっていた。その瞬間、幕僚の多くが曳航と修復への僅かな望みをその脳裏で断ち切った。
「身代りになったんだ……俺たちの」
と、艦橋要員の誰かが言った。
ラム中佐は一歩、ヴァルシクールの前へ進み出た。
「提督、本艦に救助活動の許可を下さい」
「救助?……どうするというのかね?」
数刻の後、ラムの献策に驚愕の色を隠さないヴァルシクールの姿があった。
戦域を取り巻くように広がっていた層雲の只中から、のっそりと出現したもう一隻の敵空母の姿を、タインは愛機の操縦席から苦笑交じりに眺めていた。
『――運がいいな。あいつ…』
「グーナ、帰るぞ。また攻撃隊を送って叩き潰すさ。雌虎ならやる」
レムリア軍攻撃隊の大半がその任務を果して、また果せずしてこの空域から消え去り、残余の機もいまや帰路に付こうとしている。彼らはもはや、唐突に出現したこの新参の敵に対し投下すべき空雷も、撃ち込むべき弾も持ってはいなかった。結果的に言えば、今まさに空母を失おうとしているこの艦隊は、こちらの攻撃を効果的に吸収したとも言える。何故なら攻めるレムリア軍の損害も、決して少なくはなかったから……空母一隻を沈めるのに失った数十機という損害は、実のところタインたち歴戦のパイロットに少なからぬ動揺をももたらしていた。それまでは大した損害もなく、もっと上手くいっていたのに――
「ロス准尉!」
気を取り直すかのように、隊で最先任の准士官の名をタインは呼んだ。一機の傷付いたゼーベ‐ギガが姿を見せ、馴れた動作でタインたちの横に距離を詰めて占位するのに、時間はさほど要しなかった。
その姿に、タインは舌打ちする。こいつらも手酷くやられたか……だが、こいつらの戦闘はもう終った。
「おれたちはこれから別行動を取る。残余の隊を率いて先に帰還しろ。わかったな?」
『――ですが、飛行長どのには何と言って置きましょう? 少佐のことに関しては司令も五月蝿いでしょうし……』
「雌虎にはこう伝えて置けばいいさ、ドレッドソン少佐どのが、『今日は夕飯は要らない』と言っていたとでもな……」
『――ハッ!』
日頃物堅い准尉の相好が崩れるのを、タインは通信回線越しに感じ取る。これで、一応の義理立ては済んだ。付き従うジャグル-ミトラのグーナに手信号を送る。直後、二機のジャグル‐ミトラは、全く同時に、その巨体に似合わぬ俊敏な横転で、雲海の只中へと沈んでいく――
「クロイツェル‐ガダラ」は死に瀕していた。
艦橋の指揮所こそ外見は戦闘前の壮健さを保ってはいたが、そこに配された装置や計器の殆どがいまや使い物にならなくなっている。機関部と断絶されたテレグラフ、切断された艦内電話、電源を失い稼動を停止したエレベーター……「グッピー」の巨体の中で、CICと並び最も重要な指揮拠点だったはずの艦橋は、いまや空の只中に浮かぶ人口の孤島と化していた。
『――総員上甲板。繰り返す、総員上甲板』
退艦準備を告げる放送など、艦内通信回線がほぼ壊滅してしまった現状ではどれ程の効力を発揮するのかわかったものではなかった。従って健在な部署から志願により伝令が選ばれ、彼らは安全な場所が殆ど失われた艦内各区画を走り回ることになった……その伝令の半分近くが、結局は艦から還らなかった。
たとえ伝令が到達し、艦橋の指示が伝えられたところで、取残された乗員が未だ安全な場所に歩を進めるのにはそれ以上の困難が伴っていた。もはや組織立った応急処置体系は崩壊している。火災や艦内気圧の急減により塞がれた通路を避け、未だ安全な通路に人間が殺到し、そこに新たな混乱が生まれた。そして混乱を乗り越えた先に、救いが存在する確証など存在しなかったのだ。
だが――
「あれを見ろ!」
艦橋見張所で一人の下士官が指差した先、悠然と迫り来る艦影に、その場ならずとも上甲板にいた誰もが眼を丸くしたのに違いない。
「『ハンティ』だ……!」
それは信じられない光景に思えた。「グッピー」に勝るとも劣らぬ威容を誇る艦影が、すでにその艦番号がはっきりと見えるまでに瀕死の「グッピー」に迫りつつあったのだ。それを眼にした誰もが僚艦の真意を測りかねた。
「機関停止――」
ラム中佐の声からは、誰が聴いたところで緊張や恐れといった負の要素など微塵も感じられなかった。
『――ガダラまでの距離20……10……』 むしろ恐怖は、各所より上がってくる甲板員の報告に含まれている。彼らの緊張が頂点に達し掛けた瞬間、ラム中佐の新たな指示が飛んだ。
「当て舵二度、機関逆進……停止」
逆進により惰性を殺し、その次に訪れた静寂――ハンティントンはガダラに併走する形で接近を終えると、今度はその距離を少しずつ、だが着実に狭め始めた。時折巻き起こる爆発の余波など、巨艦の前には何等痛痒を感じるものではなかった。
『――放水始め!』
号令一下、消火用ホースより勢いよく吐き出される水の束が、死にゆくガダラに癒しを与えるかのように投掛けられる。火焔の勢いが弱まったところに、今度は火薬カタパルトにより複数本のロープが投掛けられ、それは忽ちにして両艦を繋ぐスロープを形成した。その手際の良さと操艦の冴え、どう見たところで未熟な指揮官と乗員の為せる業ではなかった。
「ハンティの艦長、いい腕ですね」
と、副長モイヤー中佐は、その操艦技術に感嘆の声を隠さない。
「商船学校出の艦長さんは、軍のフネを貨物船か何かと勘違いしているらしい」
出身の違い故か喜びを素直に表さない艦長に、中佐は苦笑を禁じえない。その内心を知って知らずか、彼の眼前で艦長は最後の命令を下した。
「ハンティントンに退避だ。本艦は間も無く沈む。作業を急がせろ!」
『――収容を開始します!』
という甲板士官の報告に、ラムはただ無感動に頷いた。
彼の眼は、少しずつ数値を下げつつある羅針高度計の針に注がれていた。敵の再攻勢が予想される中、高度が1000を切ればハンティントンは全ての防御オプションを奪われることになり危険だ。その1000に達するまでにまだ余裕はあった。機関部には、毎分2パーセントずつ反応炉出力を下げるよう指示を送ってある。
問題はガダラのバランスだ。
左傾したまま姿勢を回復していないことから、姿勢制御装置の働いていないことは明らかだった。救助作業のただ中で左傾が進行すれば、接舷したハンティントンも巻き添えを食らいかねない。そしてバランスの崩壊を予測する術を、この場の誰も持ち合わせてはいなかった。慎重な艦長ならば、このような危険な状況下で艦そのものを横付けし、乗員を拾い上げようなどという大胆な、言い換えれば無謀な策を考えようともしないだろう。
だが……アベル‐F‐ラムという艦長はそれを選んだ。
幾つも渡されたシューターを潜る人影――進捗する救助作業を見遣りながら、ヴァルシクールは言った。
「ラム艦長」
「はっ?」
「何故、進んで助けようと考えた?」
問われ、ばつ悪そうに頭髪を掻きながらラムは言う。
「あのフネに残っている人間は、我々が助けねば誰も助けてはくれないでしょう。それだけははっきりとしている。ですがガダラが横転し我々がその巻き添えを食うかどうかは運の問題であります……ならば、最後まで最善を尽くし助けるべきでしょう」
「なるほど……」
ヴァルシクールは笑った。歴戦の勇者らしい、皺に彩られた硬い表情に似合わぬ、爽やかさの滲み出た笑みであるようにラムには思えた。
「運か……ラム艦長、君はポーカーをやるかね?」
「お恥ずかしいことに、小官は大抵カモ担当でして……」
と、ラムは苦笑する。その表情は、どう見ても一艦の命運を預かる指揮官のそれではなかった。だが、それがヴァルシクールには内心で微笑ましい。彼は頷き、再び艦外の作業へと向き直った。
「では……そろそろ勝ち運が回ってくる頃だろうな。」
ヴァルシクールは作業の状況に、さらに眼を細める。
――緩やかに、だが確実に左へと傾斜を始める「クロイツェル‐ガダラ」の艦橋で、グロス艦長はただ呆然と立ち尽くしていた。侵入してくる黒煙と熱気は、いまや勝利に奢った大軍の如く艦橋指揮所にまで到達し、忌々しいまでに艦長の視覚と嗅覚を責め立てていた。活火山の如く引火と炸裂とを交互に繰り返す弾薬の煌きが、窓を通じ外から指揮所を赤黒く照らし出していた。
「…………」
グロス艦長はおもむろに防弾ヘルメットを脱ぐと、煤に塗れたそれを放心したように床に投げ落とした。それが、彼が敗北を受け容れた瞬間だった。先年この地位に就いて以来、僅か一年で彼は自分の持ちフネを失おうとしていた。艦隊の損害は大きく、善戦が無駄に終ったことを彼は知った。
「艦長!」
と、モイヤー副長が息せき切って艦橋へと駆け込んでくる。生気を抜かれたかのような目付きもそのままに、グロス艦長は自分の副長へと向き直る。
「生存者全員、『ハンティントン』への収容終りました!」
「そうか……」
「あとは艦長だけです。退艦を……」
「先に行っていてくれないか? 副長」
「艦長……!」
色を為し、副長は艦で唯一の彼の上官に声を荒げた。彼が艦と運命を共にするつもりであることを察したからだ。そして彼は、艦長がそんな途を選ぶまでも無く、十分に最善を尽くした事を知っていた。
グロス艦長は言った。
「私は指揮の誤りから大勢の部下を殺し、貴重なフネを沈めた。その責任を取らねばならん。これ以上生きていて、何の意味がある?」
「じゃあ、今日死んだ連中以上に、大勢のレムリアンを殺してから死ぬべきでしょう」
「…………?」
モイヤー副長の言葉は、明らかにグロス艦長の機先を制したのだった。モイヤーはさらに言った。
「今度は我々があのゴロツキどもに思い知らせてやるんです。徹底的に叩きのめしてやるんです。それが我々に課せられた責務ではありませんか?」
「……では、君の言う通りそうするとしよう。」
グロスは力強く頷き、その目には生気と闘志が戻っていく――早足に指揮所から二人の人影が退出した直後、引火による延焼はついに指揮所にまで達し、傾斜はさらに深まっていく……
『――ガダラ、急速に左傾していきます!』
艦橋からの報告は、もはや切迫の度合いを深めている。
「生存者は全員収容したのだな?」と、ラム。
『――グロス艦長は連絡艇により脱出されています。確認が取れています』
「逆進、推進機出力全開! 早くガダラより距離を取れ」
そこまで指示を下した後に、ラムは僚艦を見遣った。クロイツェル‐ガダラの傾斜は急激に進み、まさにこちらに圧し掛からんとするかのようにその巨体は迫りつつあった。死に瀕した巨艦より零れ落ちる資材や外板、そして焔の塊は一層にその数を増し、艦の崩壊速度の尋常ならざることを見る者の目に焼き付ける。
ハンティントンでも未だ戦いは続いていた。自艦とガダラとを繋ぐスループを回収する暇はもはや無く、甲板員たちは斧を揮い手ずからロープを切断していったのだ。
マリノもその中にいた。手空きの整備員は、戦闘航行時には対空戦闘、応急処置、伝令等の雑務において文字通りの応急要員として活動することが期待されている。彼女もまた例外ではなかった。
隣接する巨艦の全重量を吸収しようと延びきるロープの只中に、眦を決したマリノが斧を振り下ろすや、切断され、緊張より解き放たれたそれはあたかも蛇のように撓り、ハンティントンの甲板上を烈しく波打ちながら空へと投げ出されていった。僅か一撃でロープを次々と両断していく彼女の勇姿に、周囲の甲板員の中には感嘆の目を注ぐ者もいた。
「少尉お見事っ!」
こと自分の担当する限り、全てのロープを断ち切ったところでマリノは斧を揮う手を止め、迫り来るガダラの参上へと眼を凝らす。
「ひどい……!」
昔日の面影を失い、さながら浮べる廃墟と化した空母を、彼女の茶色の瞳はただ呆然と映し出していた。特徴的な巨大推進器はすでに稼動を止め、舷側に配された補助推進器の一部のみが、虚しく回転を刻み続けている。急速に動きを止めていく姿勢制御装置、そして艦の深奥で徐々に途絶えゆくフラゴノウムの蒼い灯――
――そして彼女の眼前で、巨艦はその鼓動を止める。
不意に訪れた静寂とともに、マリノは終焉を知る。
「…………!」
左傾はそのまま横転となり、横転は豪快な、それでいて悲愴な錐揉みとなった。
地響きにも似た艦体の軋みと掻き乱される風圧の生み出す衝撃波――それはまさしく、巨艦の断末魔の悲鳴。
ゆっくりと自転しながら艦首を下に傾けた巨艦、そのまま雲海に対して垂直になり、引き込まれるように墜ちゆく巨艦……もう、回復の手段はなかった。
呆気ない――
驚愕と拍子抜けの入り混じった表情もそのままに、解放された舷門より、マリノは雲海に沈み行く巨艦をいつまでも目で追っていた。
「クロイツェル‐ガダラに敬礼!」
敬礼――僚艦の最期を看取るハンティントンの艦橋にはすでに葬礼そのものの厳粛な空気が生まれ、漂っている。
遥か下方へと艦体を沈め行くガダラに注がれる視線のどれにも、憂いを帯びたものは無い。寧ろ決別の敬礼を贈る彼らの胸には、現状に対する悲観よりもむしろ将来の復仇への念が芽生えつつあったのだ。そしてラジアネス軍にとって復仇の機会は、ごく近い将来に訪れるべきだった。
そして、遠巻きに母艦の最期を見送る連絡艇――
「…………」
流れゆく涙もそのままに、「クロイツェル‐ガダラ」の幹部たちは自分たちの手の届かない処へ墜ちゆく艦を、連絡艇の舷窓からいつまでも見送っていた。この期に及んで、落涙しない者など誰もいない。熱の篭った視線で死にゆく艦を睨みつける内、グロス大佐の胸中には、名状し難い煩悶にも似た感情が込上げてきた。
今に見るがいい!……レムリアン。
必ず俺はこの空に戻ってくる。そしてこの借りは絶対に、何十倍にもして返してやる!
――ときに航天暦1867年7月12日 午後4時39分。空母「クロイツェル‐ガダラ」戦没。
出撃時の乗員2768名の内、艦より生還した者1343名。過半に当たる残余の1425名が艦と運命を共にした。航天暦1886年の進空から僅か1年あまりの、軍艦としてもあまりに短く、烈しい生――ラジアネス軍は、貴重な正規空母二隻の内一隻を失った。
それは決して軽微とは言えぬ、むしろ深刻な損害。
――そして、自軍が損害に似合う戦果を得たのか、ラジアネス艦隊にとってこの時点では未だ判然とはしていなかった。
――一方、衝撃は形を変えレムリア軍機動部隊にも降りかかろうとしていた。
攻撃行より帰還した各隊の指揮官を集めた戦況報告の場で、セルベラは自分の直感が正しかった事を知った。だが撤退命令が降りた以上、その報告はすでに遅きに失した観があった。
攻撃隊の指揮官グロウアン中佐が言った。
「間違いありません、空母はもう一隻展開しております。一隻撃沈は確実ですが、あと一隻あの空域に潜んでいたのです」
「何故見つけられなかった?」
無表情の中にも射る様な視線が、歴戦の指揮官を怯ませ、更なる報告を促す。
「層雲に隠れていたのです。発見したときにはすでに、我々から攻撃オプションは失われておりました。これは我々の不備であります」
「そうだ……貴公らの不備だ」
セルベラは、背後の巨大な半球状の舷窓に視線を移した。あたかも無能な部下への関心を失い、切り捨てようとするかのような挙動に、中佐は油汗を浮べた頬もそのままに食い下がる。
「後生であります、司令」
「…………?」
「我々に今一度、攻撃命令を出してください。今度は必ず仕留めて御覧に入れます」
したり顔で二人の間に割って入る飛行長が、彼に言を荒げた。
「上級司令部より現空域からの撤退命令が出ている。第二次攻撃隊に関する具申は認められない」
「今しばらく待て」
「…………?」
狐に抓まれたかのような表情もそのままに、飛行長は彼の上官を省みた。舷窓から広がる光景――戦闘前の陣形を回復したレムリア艦隊の勇姿に視線を注いだまま、セルベラは言った。
「今度は仕留めて見せるか?」
「ハッ!……身命を賭し、攻撃に当たります」
「…………」
――沈黙の後、セルベラはゆっくりと、だが厳かに口を開く。
「飛行長、攻撃隊の編成を急がせろ」
「は……?」
「いま一度、攻撃隊を出す。夜間作戦飛行の可能な者を厳選し、第二次攻撃隊を編成するのだ」
「しかし、司令部の命令が……」
「司令部……!?」
反射的に注がれた刺す様な眼差しが、飛行長の抗弁を制した。
「…………!」
「だからこそだ。今ここで敵空母を逃せば、我等の失策は将来的に司令部の失策となる。それも、永久に挽回すること叶わぬ失策だ。貴官はそれを望んでいるのか?」
「……いえ」
「……では、追撃に徹せねばならぬ」
不承不承引き下がる飛行長を背後に感じながら、セルベラは彼女なりに打算を巡らせていた。
司令部の考えはわかっている――端的に言えば、彼らは恐れている。戦略上重要な空母を失うことに――だからこそ、ダルファロスが戦闘で損傷したという報を受け、慌てて引き上げに掛かったのだ。
レムリア軍とて現状ではともかく、将来にわたりその強さを保証されるべき存在ではない。それが今回の戦闘ではっきりとした形となった。現に自軍は空母一隻撃沈、駆逐艦一隻撃沈、二隻撃破、巡洋艦一隻撃破の戦果を上げながらも今次の戦闘では敵艦隊の防御砲火が予想外に烈しく、我が軍は攻撃隊百二十機の内四十二機をそれで失った。敵はやはり「アレディカ戦役」から学んでいたのだ。
攻撃を終えて帰還した七十八機もまた被弾損傷が多く、実に三十機が着艦の際に失われている。収容された四十八機もまた、短時間で再度使用可能な機は辛うじてその半分に達するかどうかといったところだ。これらの損失を入れれば、実に一回の攻撃で百機近くの作戦機を喪失したことになる。搭乗員たる空戦士の死傷も多い。敵の抵抗を前に、文字通り半死半生で母艦に辿り着いた空戦士が今次の作戦では数多い。
機材だけならばまだいい。セルベラにしてみればそれ以上に植民都市攻略戦以来の熟練搭乗員を多数失ったことが痛い。このまま戦闘が続けばどうなるか……レムリア軍機動部隊の優位は次第に失われ、急追するラジアネス軍との距離は狭まり、やがてはこちらが逆に引き離されるのは目に見えている。その点に関し、セルベラと後方の司令部の認識はほぼ同意を見ていた。
……では、司令部の求めるように、これ以上損害が出る前に撤退すべきか?
……否、だからこそ、自軍に力があるうちに徹底的に攻勢を継続し、敵軍に消耗を強いる必要があるのだとセルベラは考える。
長期に渡り戦闘が続く限り、搭乗員と機材の損失は避けられない。だがその戦略目標と空母一隻の喪失とを天秤に掛ければ、空母一隻など決して惜しくは無いと考えるセルベラだった。空母は希少とはいえダルファロス一隻だけではなく、レムリア軍にはその代わりを務められる艦はいくらでも存在するのだから――思索を巡らせる中、飛行長がセルベラに後ろめたそうな表情をそのままに呼びかける。
「ドレッドソン……タイン‐ドレッドソン少佐とその部下が還って来ていないようですが?」
「あやつらはもういい」
セルベラは小さな声で、吐き捨てるように言った。それで全ては終った。
「攻撃隊の編成はどうなっている?」
「飛行時間二千以上の者を中心に搭乗割を構成させているところであります。ですがいかんせん数が少なく、編成には苦慮しているところです」
「一千時間以上の者も加えろ。許可する」
驚愕――だが平静を保ったまま、飛行長は頭を上げた。
「宜しいのですか?……司令」
「本官が最初の夜間作戦に参加したのは、飛行時間が一千に達してからのことだった。それ以上は一人前と見てよい」
「ハッ……!」
感情の篭らない口調に篭められた決意を感じ取ったのか、飛行長の了解に、さらに力が入った。
――確かに、レムリア軍は今日の「戦闘」に勝った。
――だが「戦争」には、未だ勝ってはいない。




