第十四章 「雌虎吠ゆ」
――その機体は、巨きかった。
主翼も巨きかった。
機首も巨きかった。
胴体も巨きかった。
武装も巨きかった。
おそらく――否、確実に内に秘めた力も巨きい。
最大4800馬力、緊急出力5600馬力の高出力を叩き出す液冷エンジンと二門の機関砲を内部に閉じ込めた機首は細く、かつ長く整形され、その尖端たる丸みを帯びたスピナーは、その周縁から八翅の巨大プロペラの刃を生やしていた。機首上部より瘤のように突き出し、または主翼付根付近より口を開けた空気取り入れ口は、高高度の高速巡航に目覚しい効果を発揮する排気タービン加給機へと直結する。主翼は折り畳まれてこそいたが、それでも展張したときの広さ、長さ、そして雄雄しさの尋常ならざることを無言のうちに印象付けていた。その表面はエイの鰭のような滑らかさを持った流線型を保っている上に、その中心部より左右各二門、計四門の機関砲がその砲身を突き出している。
鮫の口を思わせる冷却空気取り入れ口は胴体中心部までに思いっきり後退し、その周囲は極限まで空気抵抗の軽減を徹底し、それは機械の一部というより魚類のエラを思わせた。その空気取り入れ口後部と同様、機首付根からも姿を覗かせる排気ダクトと冷却板もまた、威圧と優美という互いに相反する要素の絶妙な組み合わせの中に、圧倒的な存在感を漂わせている。
沈黙のまま、愛機の勇姿を見上げるセルベラに、整備指揮官の報告――
「ゼーベ‐ガルネ、出撃準備完了いたしました!」
ゼーベ‐ガルネというのが、その機体の名称であった。
ゼーベ‐ガルネは、ゼーベ‐ラナとゼーベ‐ギガといったレムリア戦闘機軍団の主力を為す二機種の上位に位置する、いわば最上級機種だ。速力、加速、上昇力、操縦性、そして武装及び艤装――そのいずれの面でも他二機種を圧倒的に引き離している。純粋な性能で、ゼーベ‐ガルネに拮抗しうる、またはそれを凌駕する戦闘機はこの世界には未だ存在してはいなかった。
一方で、破格の高性能を実現する上で犠牲にされたものもまた存在する。総力戦という状況において兵器開発の面で最も重視されねばならない量産性は、ゼーベ‐ガルネという「芸術品」をこの世に生み出すにあたり微塵たりとも反映されるべきものではなかった。精巧を極めた各種装置、限界まで細密さを追求したエンジン/電気系統、そして人間工学までも反映された操縦系統――最上級機種を構成するそれらの要素を大量生産ラインの画一化の中から生み出せるほどに、レムリアの工業生産力は未だ成熟を見てはいなかったのである。
「画一化された高性能」を実現するために、極端なまでに抑制せざるを得なかった生産数。優秀な操縦士に優秀な機体を与えて戦わせるというレムリア戦闘機軍団独特の気風。そして厳重なまでにレムリア社会を支配する階層制――それらの要素がゼーベ‐ガルネという最上級機種の背景を形成したとき、その強力な機体はまさに選ばれし者のための、選ばれし翼となった。ゼーベ‐ガルネはその生誕の瞬間から、レムリア軍の高級指揮官。それもレムリア社会の最上位を形成する頂上階級及びそれに準ずる高位階層出身者のみが搭乗し、駆ることを許された機体となったのだ。
セルベラは、その獰猛な豹を思わせる肢体を、ゼーベ‐ガルネの操縦席に沈めた。
「…………」
ゼーベ‐ガルネの操縦席は決して広いとは言えないものの、それでもセルベラの長身を受け入れ、包み込む余地は十分にあった。各種の計器は戦闘マシーンのそれとは思えないほどの機能性と流麗さとを以て配され、その中には帰投方位指示器の他、自動操縦装置すら組み込まれている。
操縦桿と自動調整装置の二つの把柄は操縦、通信、飛行……そして戦闘に必要なすべての操作を、それらを手にしたまま行えるよう全てのスイッチやダイヤルを、それらの中に見事なまでの機能美を以て収めていた。そして乗り手たるセルベラは、新機軸の自動調整装置に空戦士としての職人肌に起因する負の先入観を抱くほど、空戦士として「偏狭」ではなかった。
ヘルメットを被り、飛行に必要な全ての点検を終え、セルベラは前方へと向き直った。その灰色の瞳の先で、幅の広い照準機ファインダーが、操縦席の彼女と風防前面を隔てるかのように広がっていた。
その尋常ではない広さは、ゼーベ‐ガルネの照準機が単に前方の敵機に重ね合わせる照星のみを映し出す道具だけではないことを物語っていた。その照準機は飛行中の速度、高度、上昇率を数値化して表示することは勿論、帰投時に探知した母艦の電波の発信源を矢印化し、その中に表示することすら可能にする。そして、肝心の照準システムは敵機の翼幅から見越し角を自動的に算出し、未来位置を照星として表示するいわゆる「ジャイロ式」だ。ゼーベ‐ガルネもまたその他の試作機種と同じく、新機軸の技術や装備の試験台的な性格を持っている。
『――管制室より司令へ、ご指示をどうぞ』
「リリス‐リーダーよりルヴネスへ、随伴機は十六機。私が統括指揮する。至急準備にかかれ」
『――十六機で宜しいのですか?』
「十分だ。後の戦闘機は二十機を残し全て艦隊の防衛に回せ。二十機は攻撃予備だ。待機をさせておくように」
『――司令は直援には加わらないのでありますか?』
「私は遊撃隊の指揮を取る。艦隊前面に展開し敵攻撃隊を捜索、これを捕捉撃滅する……!」
『――ハッ……!』
交信を終えた直後、セルベラは下で待機する整備員に手信号を送った。それは、延ばした人差し指で円を描く合図――ゼーベ‐ガルネの機体は、始動に必要な電力を供給する電源供給機とケーブルで繋がれている。セルベラが示したのは、その電源を送る合図だった。そのエンジンの高出力なあまり、燃料に高電圧で着火し、その爆発力を応用しない限り始動が出来ないのだ。
下からの「了解」の合図。
そして急激に上昇する電気供給計のゲージ――
――それらを確認し、燃料噴射ポンプと始動スイッチを押す。
程無くしてキイィィィィィィ……ンと、燃料供給系統の稼動する音を聞く。それは決して、一様な戦闘機に見られる、気筒内で爆発を繰り返す燃料が織り成す野暮な鼓動ではなかった。それは冷却気が、そして過給機が空気を貪欲に吸い込む洗練された響き――
ゆっくりと回転を刻み始めるプロペラ、それに百雷の如きエンジンの爆音が続くのに、三秒も要しなかった。覚醒したエンジンの過熱を抑えるべく冷却器を稼動させる――排気ダクトより噴出す熱気は一層に視界を歪め、飛行甲板のアスファルトを灼く。防振の徹底され、洗練されたゼーベ‐ガルネの機体は、不快な――熟練した空戦士によってはごく自然のものと見做される――振動をその操縦席にまで伝えることはない。漣にも似た静かな鼓動にセルベラが身を委ねる間、機体はエレベーターとレールに運ばれ、射出口へと導かれていく。
そして――
カタパルトに固定された機体。
カタパルトの上で全開にされたスロットル。
艦上で見せることなくして久しい裂帛の気合。
「――リリス‐リーダーよりダルファロスへ、ゼーベ‐ガルネ 出るぞ!」
ゼーベ‐ガルネは空に解き放たれた。その向かう先に地獄を現出させるべく――
その紅い翼の睥睨する遥か先に、輪形陣の棚引く白い軌条の連なりを見出した瞬間。レムリア軍攻撃隊の決意は固まった。
『――ヴィレック‐リーダーより全機へ、敵艦隊発見。空母一、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦八……只今より攻撃――全機攻撃態勢を取れ!』
敵艦の艦形の判然としない遠距離。だが個々の艦の曳く航跡の大きさから瞬時に艦種を判別してしまうあたり、レムリア航空兵の練度の高さを伺えた。遥か後方で未だ繰り広げられている敵の迎撃戦闘機隊と味方の直援戦闘機隊との空戦を尻目に、百機近い攻撃機編隊は一斉に間隔を開き、速度を上げる。
だが、彼らの行程はその最後まで決して容易なものではなかった。「クロイツェル‐ガダラ」の発進させた直援戦闘機二十機が攻撃隊の針路上に立ち塞がったのだ。そこに速度を上げた随伴のレムリア軍護衛機が突っ込み、再び起こる空戦の環――それに巻き込まれ、忽ち数機の攻撃機が黒煙を吐いて編隊から脱落する。それでもかなりの数がラジアネス艦隊外縁の最終防衛線に殺到した。
「――――!?」
眼前に焔が生まれ、それは衝撃波をも伴って編隊の各機を揺らす。衝撃波は破片の拡散すら生み、それに貫かれた攻撃機から白煙が、あるいは黒煙が漏れる。見渡す限りの空に生じた破裂の連鎖がニーレ‐ガダル、ニーレ‐ダロムを絡め捕り、編隊の各所に穴を開けた。被弾し炎上する機、あるいは速度と高度を落とし、編隊から脱落する機……また機――編隊が向かう雲海の果てがピカピカと瞬き、その数だけ空に巨大な火と鉄の壁が生まれる。戦艦と重巡洋艦各一隻の主砲射撃、護衛艦からの両用速射砲弾の炸裂――それを抜けたとしても、対空機関砲の生むより濃密な弾幕が待ち構えている。
「グッピー」こと、空母「クロイツェル‐ガダラ」とその僚艦も満を持し、敵攻撃隊を待ち構えていた。
『――対空 右砲戦用――意ッ! 撃て!』
砲術統制官の号令一下、艦隊右翼外縁を固める駆逐艦各艦の主砲が瞬き、最大仰角にとられた速射砲の砲身が矢継ぎ早に火線を吐き出す。その発射速度毎分三十発という速射砲の――それも複数隻からの――弾幕に阻まれ、目標を眼前にして主翼を引き裂かれ、破片に貫かれ、急激な操縦不能に陥って空域から脱落するレムリア機が続出した。
一機のニーレ‐ガダルが複数の砲火の交差に貫かれ、次の瞬間に発火する。それを乗り越えるように敵艦隊へ接近したもう一機もまた、炸裂弾の直撃に片翼を切り裂かれた直後に錐揉みに陥り、変わり果てた機体から焔を引き摺りながら雲間に沈んでいく――かの「アレディカ戦役」以来、飛躍的な充実を見たラジアネス艦の対空砲火は、攻撃隊が陣形内に侵入を果さないうちに、猛烈な火線と炸裂の壁を以て彼らの前方に立ち塞がった。ラジアネス艦隊はそれまで艦隊を構成する各艦の砲術長に任せていた|個艦防御《ポイント‐ディフェンス》を、主力艦またはレーダー‐ピケット艦に設置された観測指揮所に火力統制の指令を集中させることで、艦隊全体の防空能力へと向上させたのである。
さらには空母を中心とした球形陣もまた濃密な火網形成に威力を発揮した。球形――左右上方下方……どの方向から接近しても敵機は斜形陣より成る隙の無い対空砲火に晒されることになるのだ。対空砲火の壁に阻まれ墜落していくレムリア軍攻撃隊――後に「戦闘防護陣形」とも称されることになるそれが、机上の構想と現実の実証を経て最初に威力を発揮した瞬間だった。
――だが、それも現時点ではまだ完成を見たわけではなかった。
間欠泉のように対空銃火を吐き出す駆逐艦の直上に達した一機のニーレ‐ダロム攻撃機が、無防備に近い上方より逆落としに迫る。その胴体下には、黒光りする小型砲――
『――上空攻撃機っ!』
見張員の絶叫も間に合わず、ニーレ‐ダロムの小型砲が唸る。白煙を曳いて吐き出された三発のそれは、うち二発が駆逐艦の薄い装甲を貫き、機関室に達した。高熱を帯び、かつ高速で飛来した射弾は機関室のボイラーを破壊し、高圧蒸気の奔流を以て乗員を薙ぎ倒すと同時に艦の機動力を急激に低下させる。出力の低下は飛行艦より浮力を奪い、徐々に速度を落とていく駆逐艦は、強固な防御陣に穿たれた間隙となった。
そこに、攻撃隊は殺到する。手負いの猛牛に殺到するハイエナの群れの如く間断ない銃撃に晒され、駆逐艦「アッシュ」は艦体に穿たれた穴という穴より白煙を噴出し、蜂の巣となった艦首より徐々に雲海に沈みゆく――
味方の壮絶な犠牲の上に防御ラインを乗り越えた数機が目指す先は、紛れも無く一隻の空母!……殺到する侵入者をレーダーと見張員の報告より察知したクロイツェル‐ガダラは、その対空砲火を一斉に指向し、それらはあたかも南方のスコールのようにレムリア機に降りかかった。それはまさに鉄と火のスコールだ。
『――撃て!』
高い艦舷の各所に設けられた機銃座が、射撃指揮装置の捉えた敵影の方向を一斉に指向し、簾の如く弾幕を吐き出す。先頭集団の二機が忽ち火網に囚われ、火球となって墜落していった。それに続く二機が翼端より白煙を噴出し、それは忽ち濃い黒煙となって退避に転じた機体の針路を歪めていく――
――リステス‐ヴュガ曹長の駆るニーレ-ガダルもまた、火網の中にあった。
『――距離1000! 針路そのまま!』
機首の専用席に納まる雷撃手グラネン軍曹の声がインカムに響き渡る。ニーレ‐ガダル攻撃機は三人乗り、機首に航法士兼雷撃手、そのすぐ後方に操縦手、最後尾の席に通信手兼銃手が座る。
『――距離800!』
怒声にも近いグラネン曹長の報告は、機体周囲を取り囲むように炸裂と擦過とを繰り返す猛烈な弾幕への恐怖を打ち消そうとしているかのように、ヴュガ曹長には思われた。そして彼自身もまた、恐怖と戦っていた。
機首の雷撃席、軍曹の覗く可動式の望遠鏡式雷撃照準機の挙動に合わせ、ヴュガ曹長の陣取る操縦席計器盤の雷撃運動指示計の針が動く。それに追針を合わせるように操縦すれば、ニーレ‐ガダルの機体は正確な雷撃コースに乗るという機構になっている。
機構こそ単純だが、それでも正確かつ的確な雷撃に最も必要な要素が、操縦士と雷撃手の絶妙の連携にあることに些かの揺らぎもなかった。そして曹長と軍曹は、厳しい訓練と度重なる実戦で強固なまでの連携を培っていた。
『――距離700!』
「信管起動!……時計を発動せよ!」
『――信管起動 了解』
その照準から発射まで、雷撃機ニーレ-ガダルでは最も重要な瞬間の全てが、俗称「舳先のやつ」こと雷撃手の担うところとなっている。雷撃諸元入力装置はもとより、信管起動及び空雷発射装置もまた「舳先のやつ」が一手に操作するのだ。喩え階級、飛行経験で上位の者が操縦桿を握っていようとそれは変わらない。操縦士はただ雷撃手の導くがまま、機体の姿勢を一定に保ち続けることを要求されるのみだ――永遠とも思えるその瞬間が過ぎ去るそのときまで。
――そして、瞬間は絶頂に達した。
距離は詰り、雷撃手席からの視界全体を塞ぐかのように広がる異様な形状の敵空母に、躊躇うべき意思を彼らは持たなかった。
『――距離500! テェッ!』
グラネン軍曹が雷撃照準機取手付根の雷撃ボタンを押した直後、不意に飛び込んできた機銃弾が機首風防ガラスを砕いて炸裂し、雷撃手席を血と肉片の桶と化した。相棒の即死に驚く間も無く曹長は操縦桿を引き上げ、「クロイツェル‐ガダラ」艦腹より投掛けられる弾幕の束が空を舞い敵機に追い縋る。
そして――ニーレ‐ガダルの胴体を離れた空雷は瞬時にその動力系統を起動させ、あたかもグラネン軍曹の意思が乗り移ったかのようにまっしぐらに巨艦の艦腹へと向かっていった――
『――三時方向より空雷!……急速に接近中!』
見張員よりの報告。空母「クロイツェル‐ガダラ」艦長 ネイサン‐グロス大佐は艦橋右端の艦長席より空雷の迫る方角に双眼鏡を巡らせる。被弾しながらも此方へと向かってくる母機と思しき敵攻撃機の姿を認めた瞬間、彼の判断は決した。
「面舵一杯!」
『――面舵一杯!』
艦全体を彩るかのように搭載された各砲塔、そして機銃座は、その間も霰の様な弾幕を吐き出し続けている。艦橋前後に各二基、背負い式に装備された連装五インチ砲は間断なく右側面へ砲火を注ぎ、もはや砲塔基部では射撃の度に砲塔から吐き出され続ける空薬莢が鳶色の山を為していた。その周囲を取り巻くように配された二連装25㎜機銃は、一斉に唸り声を上げて光の矢束を遮るもののない虚空へと投掛け、その埋め尽くす中に入った敵機を焔の手で絡め獲り、遥か下方の海原へと叩き落していく。
回頭に入った艦は不快な軋みを立て、それは各部署で配置に付く乗員に戦闘の帰趨への不安を投掛けるのだった。乗員達はそれを自らの脳裏より振り払わんと自らを一層に射撃に、そして各任務にへと専念させる――
『――十時方向より敵攻撃機!……三機!』
「舵そのまま! 旋回を続けろ!」
我々の防御陣には、まだまだ改良の余地がありそうだと、グロス艦長は未だ冷静さを保っている脳裏で考えていた。此方が敵機を相当墜としたのは明らかだが、殺到する敵の数はあまりに多く、護衛艦の対応も十分とは言えない。
『――空雷 右舷通過!』
「戻せぇ――!」
『舵戻せぇ――っ!』
航法長の復唱は伝声管を伝い、すぐさま艦橋下部の操舵室へと伝えられる。操舵手は指示に基づき、並みの大人の上半身程も直径のある舵輪を回し、その回転角度は角度指示器の指し示す数値となって即座に艦橋へ返信される。舵角が回復したのを見計らい、再びグロス艦長の指示が飛んだ。
「取り舵二十度!」
『取り舵二十度!』
大艦ほど舵が効き難く、操舵に熟練を要するのは洋上を行く船も空を行くフネもまた変わらない。そして艦橋深奥の戦闘情報室では、艦の対空戦闘の一切を掌る砲術長の檄が飛んでいた。
「左砲戦用意!」と、砲術長のルース少佐がインカム片手に怒鳴る。クロイツェル‐ガダラを中心に置いたレーダースクリーン。その中で「グッピー」にとって、至急の脅威はレムリア軍攻撃機の姿を借り左舷に迫っていた。躊躇する間などなかった。
『――左舷より敵機三機接近中!』
『――左砲戦用意!……照準次第撃てっ!』
艦橋頭頂部の射撃指揮装置が敵機をそのレンジファインダーに収め、旋回角、仰角等瞬時にして算定された諸元が方位盤に入力される。そこで弾き出された数値の導くまま目標へ照準が合わされ、四基の連装五インチ砲は新たな目標へ一斉に射撃を始める。水を汲み上げる電動ポンプの勢いに、それは似ていた。
空を打つ乾いた射撃音。
軽妙なまでの間隔で撃ち出される砲弾。
断続的に吐き出される薬莢。
空を汚す硝煙。
敵機の針路に立ち塞がる時限信管の炸裂――それに捕らわれた一機が四散し、もう一機がエンジンより黒煙を吐き出し、それは直後に安定を失って焔を引き摺る凧となり、戦域の遥か下方へと流されてゆく。
だが、戦友の惨死を乗り越えるように接近してきた最後の一機の胴体より空雷は切り離され、それは無情にもグッピーへと向かい疾駆する。そして――
『――上方、敵機!』
悲鳴にも似た見張員の報告に、艦橋のグロス艦長は反射的に指揮シートより身を乗り出した。艦橋上部の見張所で、見張員はその眼差しの先に太陽を背に迫り来る一機の敵影を捉えていたのだ。甲板上に配された対空機銃用射撃指揮装置が一斉に上空を指向し、弾幕の槍衾が機影へと集中する。
機影より発する被弾の火焔!――その瞬間、「グッピー」の誰もが危機の回避を確信する。
だが――
敵影より切り離された四条の槍衾――それはクロイツェル-ガダラの飛行甲板へ向かいレムリア軍戦闘機が放った四発のロケット弾!
機銃手の絶叫――「ダメだ! 回避できない!」
蜘蛛の足のように伸びたそれらは、全弾が寸分違わず「クロイツェル‐ガダラ」の飛行甲板上に着弾し、生じた爆風により上甲板に詰めていた少なからぬ機銃員が虚空へと投げ出された。さらにうち一発は跳弾となり搭載機揚収エレベーターを貫通、直下の第一格納庫で爆発した。爆風と火焔の奔流は格納庫に詰めていた乗員と補用機の悉くを薙ぎ倒し、直後に弾薬庫への延焼を防ごうと展開した応急班の死闘の巷と化す。
被弾によりもたらされた混乱は艦の指揮系統を一時断絶させ、そこに生じた間隙に飛び込んできた一本の空雷――回避する余裕を、「グッピー」は持っていなかった。
ズウゥゥゥゥ……ン!
『――空雷被弾! 応急班は至急損傷箇所へ向かえ!』
元が防御力の高い戦艦であることもあってか、被弾の衝撃は決して大きくは無かった。だが被雷の瞬間、グロス艦長の胸中に深刻なまでの不安が暗雲となり立ち込め始める。それは即座に命令の形となって艦長の口から飛び出した。
「各区画に下令、各部の被害点検を急がせろ。些細な不都合も全て報告!」
熟練した艦長は、自らの操る艦を、その切先から艦尾まであたかも自らの手足のように感じ取ることが出来るという。もしそれが事実ならば、「グッピー」はこの瞬間、深刻なダメージを負ったのかもしれない……果たして、グロス艦長の懸念は、運用長の悲痛な報告を通じ、そのまま顕在化した直感の証明となって現れた。
『――燃料供給パイプより気化した燃料が漏れ出しています。どうやら被雷の衝撃でパイプに亀裂が生じたようです』
「……なんてこった」
目の前が真っ暗になるとは、こういうことなのか……恐るべき事態の到来に愕然としながらも、グロス艦長は冷静だった。
「該当区画への電源供給を停止。それと換気及び補修作業を急がせろ」
「ハッ……!」
電気の供給を停止したのは、電気機器のスパークが引火を引き起こすことを恐れたためである。被弾した飛行甲板は攻撃隊の帰還までに何とか復旧できるだろう。だが引火したが最後、その瞬間に「グッピー」の空母としての機能は完全に失われてしまう。
『――左舷より敵攻撃機! 二機接近中!』
「射点に入る前に墜とせ! 絶対にやつらを近付けるな!」
何てことだ……まだ戦闘は終っていないというのに!――命令を下しながら、グロス艦長の胸を見えざる手が締め上げる。
――発進からすでに三十分余り。
攻撃隊は複数の小集団に分裂し、もはや編隊の体を為していない。意図あってのことではない。彼らに先行した第一次攻撃隊と同じく、彼らもまた大規模な編隊を維持するのに相応の技量と経験を有してはいなかったのだ。
第二次攻撃隊七十二機の内、二十八機の直援戦闘機の一機に加わっているバクルには、それが痛いほど伝わってくる。実戦のそのときまでにラジアネス軍の各飛行隊に与えられた錬成の時間はきわめて少なく、まともな編隊を組めるほどにラジアネス軍の各飛行隊の技量は決して高くはない。
「…………!」
バクルは歯噛みする。敵艦隊攻撃にもっとも効果を発揮するのは、纏った数による位置と圧力を生かした突進であるはずだ……だが現在の状況で攻撃態勢に入れば、効果的な戦果を上げることなど不可能に近いことはおろか、敵側にとって絶好の確固撃破の対象となるだろう。否……敵手たるレムリア軍に積極的な意思があれば、向こうから打って出て攻撃隊を探し出し、もしくはその進撃ルートを予測し待ち構えようとするかもしれない。
黒童女……何気なく呟いた直後、戦慄にも似た震えが背中を走るのをバクルは覚えた。
かつて自らも参加した緒戦の植民都市進攻作戦の折、そうした待ち伏せ戦術を多用し、何度もラジアネス軍戦闘機隊を殲滅させた飛行隊が存在していたことを、バクルはその脳裏に想起させたのだった。「ブラック-リリス」隊と呼ばれたその部隊は、その作戦の巧妙さと敵に対する苛烈なまでの戦いぶりから、敵手はおろか味方からも恐れられ、畏敬の念を抱かれていた。
その精強さと圧倒的な戦果の悉くが、指揮官一人の資質に負われていたかのようにバクルは記憶している。冷厳なまでに寡黙で、およそ女性離れした長身と対象を貫くような眼光が印象的だった女指揮官は、個人としても空戦技術に優れていることは勿論、天性とも言うべき勘の冴えを持ち、あたかも老獪な虎の如く敵の居場所を探り当て、敵を追い詰めた挙句に無慈悲な一撃を振り下ろすのが常だった。
確か、その指揮官の名は――声にならない声で、「セルベラ」という名を呟きながら後上方へ視線を巡らせた直後。ゴーグルのガラス越しの灰色の瞳の先、蒼穹を覆い尽くそうとするかのような層雲の隙間に在るべきでない何かを認め、バクルは声を失った。
「…………!?」
層雲を取り巻くように延びる一条の白い飛行機雲は、バクルがそれを認めるのと期を同じくして急激にその数を増し、軌条は蒼穹の只中に幾何学的な紋様を描き出した。ラジアネス軍の通信回線を、バクルを始め敵の接近に気付いた複数の報告が駆け巡り、それはむしろ編隊を動揺させる――その恐慌こそ、いままさに「獲物」を睥睨する位置に達したばかりのセルベラの望む所だった。
蒼の空間の只中に聳え立つ真白き層雲の断崖から、セルベラの編隊はラジアネス軍の攻撃隊を見下ろしていた。
遥か上空より俯瞰すれば、白銀を背景にしたラジアネス軍機のネイビーブルーでは、却ってその容姿を際立たせてしまう。そして雲海を縫うように進撃を続けるラジアネス軍の隊列――どう見ても、編隊というより隊列と呼んだ方が、前後に拡散した敵軍は表現し易かった――を、その無機的な灰色の瞳の中に見出した瞬間、セルベラは操縦桿の機銃発射装置のカバーを跳ね上げ、同じく操縦桿の中に配された機銃装填ボタンに指を充てていた。そのまま三秒以上押し続ければモーターが作動し、自動的に機銃弾を装填するのだ。
『リリス‐リーダーより全機へ――』
ゼーベ‐ガルネの機上。セルベラの眼は照準機の広角ディスプレイの中に、列を乱す編隊をすでに捉えている。
「敵編隊は九時下方。逃がすな。殲滅せよ……!」
半横転に転じると同時にスロットルを開く。
ディスプレイ上の速度を表示する数字が上昇に転じる。
ディスプレイの中には、すでに一機の敵影。ゼーベ‐ガルネは、それを直上より一気に捉える態勢――急速な加速。だが、急激な加速と不安定な姿勢にも関わらず、三舵の手応えはそれを掌中に収め、あるいは踏みしめるセルベラの手足の中で異常なまでの安定を見せている。
再び閉じかけたスロットルレバー上のボタンに、指が触れる。
環型の照準輝点が急速に狭まり、眼前に捉えた小さな敵影を翼端から囲み込んだところでボタンから指を離す。直後、弾道計算機は目標の翼幅から射撃に適正な迎角を算出し、それは照準輝点の位置に反映される。
――つまり、狙えば中る。
距離を詰めるに従い、当初は蝿のような黒点の連なりに過ぎなかった敵影が、急速に飛行機の形となっていく。環型の照準輝点は、その中にラジアネス軍のBDウイング攻撃機の機影をすっぽりと収めていた。
彼我の距離二百……経験と天性に基づいたセルベラの目算は、戦慄するほど正しかった。
発射ボタンに触れる人差し指に篭る力――機首と主翼、併せて六丁の機関砲が火を噴くのに、ゼーベ‐ガルネではそれだけしか要さない。
ゼーベ‐ガルネを彩る煌き――射撃は僅か一秒――弾丸の雨は真上から槍衾のようにBTウイングを貫き、そして一瞬にして四散させる。
降下の姿勢から操縦桿を引く――重く、加速のついたゼーベ-ガルネを一度で引き起こすことなど、並大抵の腕力では勤まらない――機首が上がると同時に翼端より噴出す白い水蒸気の膜。それは美しく、かつ勇壮に紅き猛虎を飾り立てる。
体勢を戻すや否や、高度を殺すことなく、むしろ気速の余韻を駆り、セルベラは新たな敵機を見出した。再び射撃――背後に付かれたBDウイングは回避が間に合わず、火矢にも似た一連射で左翼を根元から折られ、そのまま錐揉みに転じ墜ちていく。
セルベラの列機もまた、優位な態勢からラジアネス軍の後上方よりなだれ込み、次の瞬間には巨大な空戦の環が出来上がっていた――
――第一撃で四機が墜とされ、三機が煙を吐くのをバクルは見ていた。
彼自身、敵機発見と同時に、咄嗟にフットバーを左に蹴り上げていなかったらどうなっていたかわからない。それまで彼のすぐ傍を飛んでいたストロープ中尉は敵の急襲を前に回避が間に合わず、バクルの眼前で上方より投掛けられた弾幕により幾重もの穴を穿たれ、力尽きたかのように機体を分解させながら墜ちていったのだ。
すでに状況が混戦に陥っていることを、バクルは悟った。見回せば何処も敵、敵、また敵……!
回避機動を終えかけ、相当に高度を下げたときに、バクルはストロープ中尉機を墜とした敵機を見た。ゼーベ‐ラナだった。勝利の余韻に酔っていたのか、撃墜の後緩慢な垂直旋回に転じたそれを、バクルは見逃さなかった。
後下方より追い縋り、旋回半径を稼ぐべくスロットルを絞る。
急激に落ちる速度。
それに続き機体を襲う小刻みな振動――迫り来る失速の予兆――に耐えながら、バクルは機首を振り照準機に必死で機影を捉え続けた。
未だだ……未だ……未だ遠い……焦燥とともに睨む輝点の中心が、ゼーベ‐ラナの灰色の腹部に重なる。だがそれは次の瞬間には引き離される。そしてバクルも操縦桿を手繰るように引き、追い縋る。位置エネルギーやエンジン出力の面で、敵の旋回にはまだ余裕があり、一方で此方には殆ど無い。
それでもバクルは追い縋る。追従をやめれば、今度はこちらが背後をとられ、旋回を続けた末に速度を失いかけたジーファイターでは為す術も無く墜とされる。
「クッ……!」
重力の豪腕に身体を拘束され、視界を奪われかけながらも、反射的に押し続けた射撃ボタン。白煙を曳き噴出す弾幕が、重力に曲げられ虚しく空を切る。それでも発射ボタンを押す。三度目かで数発が敵の腹部で火花を散らすのを見る。そして四度目の射撃で尾翼から外板が弾け飛び、ゼーベ‐ラナは姿勢を崩し背面に転じた。
直後、吹っ切れたようにバクルが姿勢を戻した瞬間、彼は未来永劫に敵機の行く末を確かめる術を失い、今度は追われる側に回る。バクルはその背後に二機のゼーベ‐ラナを背負い込み、雲海の只中に逃げ込むしかなかった。恐らくさっき撃破したゼーベ-ラナが呼び寄せたのだろう。敵の来援がもう少し早ければ、自分の生命はほんの少し前に失われていたかもしれない。
――そして、バクルは未だ独力で自分の未来を守りぬかねばならない状態に置かれ続ける。
向かい合いざまに放った一連射は正面よりジーファイターのエンジンを捉え、次の瞬間には焔の塊と化す。追うジーファイターを急上昇で引き離し、捻り込みの頂点より逆に追尾に転じ、更なる一連射――六門の機関砲の威力はもの凄く、それだけで戦闘機としては頑丈な部類に属するジーファイターを粉砕してしまう。獲物を捕えることに飽き、ついには獲物を虐げ、殺すことに目覚めた虎のようにゼーベ‐ガルネは蒼空を駆け、一機、また一機と葬り去っていく。指揮官の勇躍は瞬く間に麾下全機に伝播し、戦果を拡大していくのだ。
一方、ラジアネス軍の直援戦闘機隊はひたすら防勢に追われ、もはや攻撃機を守るどころではなくなっていた。直援されるべき攻撃機もまた、各個の防戦に追われ、中には空雷を投棄し離脱に走るものさえ出る有様だった。
「貴様ら、怯むな!」
自らも一機のゼーベ‐ギガに追尾されながらも、ラジアネス軍第二次攻撃隊指揮官 アーヴィン‐ベルツ中佐は喉頭式のマイクに声を張り上げ、未だ空域に留まり続ける列機を叱咤する。
「敵艦隊は近い。前進! 繰り返す、前進せよ!」
鼻先を向け襲い来るゼーベ‐ギガ、変針と上昇下降を繰り返すBDウイングの機内より銃手の必死の防戦、連装機銃より放たれる数珠のような弾幕を掻い潜り、さらに距離を詰めたゼーベ‐ギガの放った機銃弾は、内数発が中佐機の右翼燃料タンクを撃ち抜き、気化した燃料は白煙となり鮮血の如く孔より噴出した。
「…………!」
絶句とともに、反射的に延びた手が燃料タンク切換装置のコックを捻り、損傷箇所からの燃料供給をカットする。そのとき――
『――編隊長!』
悲鳴にも似た航法士キッドウェル少尉の声。
『――これ以上の作戦続行は無理です! 空雷を切り離して母艦に戻りましょう!』
「貴様何を言うか!?」
ベルツは目を合わせることすら叶わぬ背後にいるペアに目を剥いた。
「レムリアンの艦はここからそう遠くない場所にいるんだぞ! 今殺らないで何時殺るんだ!?」
『――ですが……!』
「今戻ったところで、俺たちにもう安住の場所はない!」
『――……!?』
「わからんか? 敵の数を見てみろ。この分じゃ愛しのグッピーも瀕死の状態だ。俺らが還るころにはとっくに消えてなくなってるさ!」
『――そんな……!』
絶句するキッドウェル少尉の側面を、弾幕の束が黄色く煌きながら飛び越えて行った。後席連装機銃の照準を、敵機に撃ちながらに合わせる。銃口から吐き出される弾丸が意図せぬ方向に曲がり、敵機が更に機を滑らせるのが見える。回避の積りか、次には再び軸線に近付こうとするだろう。敵はさらに距離を詰め、今にもその黄色い鼻先をこちらの尾翼に接せんとするかのような勢いだ。
――ちきしょう! 何てしつこいんだ!
『――中佐! 敵機右方向!』
インカムの声に反応し、BDウイングは左へと滑るように飛ぶ。がら空きになった右方向を、腰溜めに放たれた二連射が虚しく通り過ぎていく。逆に銃手席から身を乗り出したキッドウェルの放った一連射は、風圧に流れるような軌道を描いてゼーベ‐ギガの機首と交差し、エンジン部より黒煙を噴かせた。
「やった! 命中!」
『――ジェイクッ、よくやった!』
快哉を叫ぶのと同時に、中佐は彼が求めるものを眼前に見出した。雲海を背景に棚引く一条の黒煙。その麓に陽光を吸い込み紅く映える巨大な艦影。乱戦の最中、奇しくも中佐の機はレムリア艦隊の前方警戒線をすり抜けすり抜け、敵艦隊主力側方に到達していたのだ。
「あれは……!」
ベルツ中佐は言葉を失う。視線を転じた翼下では、一斉に回頭に入る敵艦艇の曳く飛行機雲が、雄大な空域の各所に広がり、空に鮮やかな円を描いていた。特に舷側より黒煙を曳く艦は周囲を固める他の艦艇より一際大きく、そして魁偉な姿を空の一点に漂わせていた。状況からして、先行した第一次攻撃隊は敵主力艦に何がしかの打撃を与えたのに違いない……!
「タリホー! あのでかいのをやるぞ!」
歓喜を堪えきれずに叫び、前方へ向き直った直後、烈しい衝撃と同時に機体が凄まじい勢いで錐揉みに入り、中佐は声にならない絶叫を上げ操縦席シートへと押し付けられた。
「…………!?」
必死で操縦桿を握る。手応えの無いことに気付いた瞬間。鳥肌の立つのを感じる。手の内より離れた操縦に加え、操縦席に急激に流れ込み荒れ狂う寒気は、不意打ちにも似た被弾により、機体に孔を穿たれた何よりの証だった。
『――機長! 姿勢を回復してください!』
「だめだっ……操縦系に被弾した!」
錐揉みは一層にその勢いを増し、三半規管の上げる悲鳴に耐えかねた中佐が神の名を叫んだ直後、被弾したBDウイングは胴体から真っ二つに折れ、直後に燃料と空雷に引火し紅蓮の火球と化す――
――直上より機関砲の一連射を撃ち込んだBDウイングが急激に高度を落とし、やがて艦隊の遥か下で爆発するのを、セルベラはゼーベ‐ガルネの操縦席から無機的な眼光を細め見守る――すでに、大勢は決した。
軽く主翼を傾け、横転に入ったゼーベ‐ガルネ――
正面から、滑らかなバブルキャノピー越しにきつい光を投掛ける太陽に、セルベラは思わず顔を背ける。その間も、耳は未だ掃討戦にかかずらっている味方の交信を拾おうと、自然と感覚を集中させている。
荒ぶる奔馬をあやすように、ゆっくりと最大値にまで押し込まれたスロットルレバーを戻す。エンジンに負担を掛ける緊急加速装置を使ったのはこれが最初だった。だから後のエンジンコントロールには慎重にならざるを得ない。
……だが、敵がこちらの邀撃を掻い潜り艦隊至近にまで達したのは、セルベラといえど計算外のことだったのだ。それが、まず使うまいと思い込んでいた緊急加速装置にセルベラの手を触れさせた。
ラジアネス軍には、未だ闘志に溢れた部隊がいる――徐々に静穏さを取り戻す操縦席。機首、八翅のプロペラブレードがはっきりと視認できるまでに回転が落ちてもなお、ゼーベ‐ガルネはなお400スカイノット近くの速度を維持している。敵の姿は完全に掻き消え、ただ味方の直援戦闘機のみが虚しく空を行き交っている。
カウルフラップを少し開き、冷却機を作動させる。途端に、解放された熱気が機首排気管と共通した放熱ダクトより一気に放出され、ゼーベ‐ガルネの魁偉な機影を強烈なまでの存在感とともに彩るのだった。
――それは、天空の神が虚空に君臨する女王に、勝利への餞に贈った法衣にも見えた。
――勝利の余韻からは、セルベラといえども超然たるを保つことは出来ない。
心地良い疲労に任せるがまま、セルベラは操縦桿を引く。ゼーベ‐ラナの鋼鉄の心臓は、乗り手に微塵もストレスを感じさせること無く、流麗な機体を蒼空の高みへと駆け上らせる。
再び開いたスロットル。
高まる回転――プロペラブレードの回転は、もはや機首の尖端で残像を刻むのみだ。
耳奥に微かに轟く金属音――高度計が一定の数値を越えるや、自動的に作動した排気タービン過給機が、飛翔への協奏曲を奏で始めている。
上昇を続ける操縦席よりさり気無く映した視線――横目に眺めた白色の天球の輪郭は、セルベラの眼前でさながら女神の腰のような曲線を、無限とも思える奥行きを以て広げていた。
『――リリス-リーダーへ、応答願えますか。司令』
「こちらリリス-リーダー。何か?」
『――司令部より通信が入っております。攻撃隊収容の後、迅速に現空域を離脱、泊地へ帰投せよと』
白皙の頬が、微かに曇った。
「……損害報告をしたのか? 艦長」
『――本官は、司令部の下問に応じ、事実を述べただけのことです。司令』
「…………」
微かな舌打ちは、通信回線の向こう側には聞こえなかった。




