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第十章  「あいつがいない風景」

 最初の戦闘は呆気無く、そして最悪の形で終った。それから一時間も経たぬうちに、ラジアネス軍第001任務部隊もまた、数百空浬を隔てた向こうで起こった大規模な戦闘に無関係ではいられなくなってしまう。


「来たぞ!」

 飛行甲板より一人の誘導員の指差す先――雲の彼方を乗り越えてくるようにして接近してくる一機の機影。それは次の瞬間には帰還を果たしたジーファイターβ 艦上戦闘機のずんぐりとした機体となって迫ってきた。


 事前の通告に従い、飛行甲板からは一切の機材、そして障害物は取り除かれている。戦闘による損傷、または搭乗員への被弾等でコントロールを失いかけたまま着艦態勢に入る搭載機への、それは最大限の配慮だった。フラップを一杯に開き、主脚を下したジーファイターは、修正のため小刻みに主翼を揺らしながら、吸い付くようにしてハンティントンの艦尾へと滑り込んで来る。


 着艦の瞬間、接地の衝撃と踏み込まれたブレーキとで甲板に散る火花……それに続く二、三度の大きなバウンドの後、ジーファイターは着艦フックに五本目の――最後の――アレスティング‐ワイヤーを上手く拾い上げ、そこで停止した。同時にエンジンもまた、大きく黒煙を吹き上げた直後に、不気味な唸り声を上げて止まる。

「…………」

 操縦席には、胸を撫で下ろすように大きく息を付く操縦士の姿――操縦席に慌てて駆け寄った整備員は、計器盤を覗き込んだ直後に、顔を強張らせる。その視線の先には、もはや(EMP)の目盛を振り切った燃料計。ワイヤーを拾えなかった際の再発艦に備えた燃料を、彼の機はもはや持ち合わせていなかったのだ。


 飛行甲板上で繰り広げられている狂騒は未だ止むことなく、彼から帰還の安堵を噛み締めさせる余裕を奪いつつあった。続々と駆け込むように着艦コースに入ってくる戦闘機が一機……また一機――現在、ハンティントンは戦闘を経て、熱気と活気との入り混じった独特の雰囲気に包まれている。甲板士官の誘導に従い、フラップを目一杯に開きながら矩形の入り口に滑り込んでくるジーファイターの列は未だ留まるところが無かった。


 ポート‐カステル上空で繰り広げられた空戦の結果は、戦闘経過の報告によりすでに母艦へともたらされ、飛行隊の生還により、一層に真実味を持つに至った。戦果より損害の多いそれらは当然、搭載機を送り出した各空母でその去就を待つ飛行要員たちに少なからぬ動揺をもたらしていた。

 主脚を下ろしきれぬまま飛行甲板にへたり込み、火花を散らしながら滑り込んで止まったジーファイターの操縦席から、傷ついた操縦士を担ぎ出す救護班の血相を欠いた姿。その操縦席は、未だ整備を受けぬまま鮮血が各部を彩り、見る者の戦慣れしない眼を責め立てる。負傷の度合いからして、操縦士は後送を免れないだろう。そしてもはや飛行できぬ機は未だ使える部品を全て取り除いた後に、艦上より投棄されることになる。


 空戦により一方的な攻撃を受け、損傷してもなお独力で帰還を果たしたジーファイター。エンジンをカットしたものの、プロペラ回転が収まらぬ内に主翼を畳み格納庫へ手際よく引き込んでいく整備員達の顔は青ざめ、常日頃の賑やかさは、拭いようもない苦渋に席を譲っていた。突如として突きつけられた現実に対する焦燥が、甲板を行き交う者に些細なことから罵声を吐き出させ、刺々しい雰囲気を一層引き立たせていく。


 十二機の未帰還機――これは一方では同数の戦果を報告したレムリア軍操縦士の戦況把握能力の高さを示していた――その内ハンティントンから出た七機の未帰還機は、母艦で待つ連中の予想をはるかに超えた損害だった。レムリア軍の強さは以前の様々な経過からすでにわかりきったことではあったが、何の実戦らしき経験すらしたことがない若者達にとって、実際にその結果を目の当たりにするまで実感することなど、結局のところできようはずがなかった。その未帰還機の中に、戦闘飛行隊の指揮官をはじめ、少なからぬ中~小隊長クラスの士官が含まれていたことも、悲観的な展望に拍車を掛けていた。


「――敵が強すぎるのか、それともこっちが弱すぎるのか……どっちなんだ?」

「――多分両方じゃないかな」

「――やれやれ……救われないぜ」


 特に整備員たちは、憮然としたものだ。戦果は――ハンティントンの隊だけでも八機を撃墜。それとて、戦況を直接体験していない母艦の側からすれば、確証に足るものではない。空戦に於ける戦果――特に撃墜――は、当人の申告のみならず必ず第三者の証言と確認が必要になる。撃墜機数は敵戦力の把握だけではなく軍内の賞罰、そして部隊と操縦士個人の名誉に直結する問題だけに、この点を必ず明確にしておくことの重要性は、戦前より広く認識されているところであった。しかし帰還した操縦士たちの報告がまた、何とも心もとない。


 多方向から同時に攻撃を掛けた敵機を、それぞれで撃墜した敵機として申告する者がいる。さらには墜落していく味方を敵機と誤認する。未熟な操縦士のみならず混乱した戦況の中で戦果を誤認することはよくあることで、特に熟練操縦士が少なく、操縦士の大量養成体制が端緒に至ったばかりの現状では、そうした負の要素を割り引いて実際の戦果をはじき出す必要があった。それも今となっては、一層艦の将兵に悲愴なまでの空気をもたらしてしまっている。



 だが――そんな中で、操縦士の誰もが認める戦果があった。

「――うちの隊に六機もレムリアンを撃墜した奴がいるそうだ。それも一戦でだぜ?」

 奇跡にも似た急報は、又聞きの形をとって帰還した操縦士達の集まるブリーフィングの待機室のドアから飛び出すや否や、瞬く間にハンティントンの艦内を駆け巡る。

「――おい誰だよそいつは?」

「――187飛行隊の、ツルギって航空兵だそうだ」

「――あの坊やか?」

 ツルギ‐カズマを知る者は、およそ「信じられない」という表情で互いに顔を見合わせた。それはあの小柄な、未だ少年の面影を背負っているかのような「訓練生」に似合う戦いぶりではなかった。

 戦闘に参加した操縦士が整備員の前で漏らした戦闘状況が、彼らの驚愕振りに一層の拍車を掛けた。異口同音に、操縦士達は自分の目にした範囲で、熱の篭った口調でカズマの戦いぶりを語った。それは操縦士や地上員の口を介し、語を次ぐ度に誇張され、一層に乗員の興味を喚起する。


「――撃墜王に、乾杯」

 私室も兼ねた診療室のデスクで、ブフトル‐カラレス軍医長はささやかな乾杯のグラスを掲げた。「見どころのある坊や」の活躍に捧げられたものではあったが、彼の向かい側に、当のカズマの姿はなかった。


 一方でその日の、ラム艦長を交えた第001任務部隊の幕僚団の夕食会で、第十二艦隊司令フョードル‐ダオ‐“D”‐ヴァルシクール中将は言った。

「ハンティントンの戦闘機隊に、撃墜王(エース)が誕生したそうだな?」

 反応を確かめるように振られた視線に気付くと、ラム中佐はナプキンで口を拭った。

「はい、そのようです」

「その操縦士の飛行経験はどれくらいかね?」

「航空団司令の話では、まだ操縦桿を握って三ヶ月そこそこだそうですが……」

 ラム中佐の言葉に、幕僚たちの間から感嘆の声が漏れた。傍目から見れば少ない飛行経験と、性能に劣る戦闘機で、それ程の戦果を挙げられたことに対する純粋な賞賛の篭った反応だった。

「彼は今どうしている?」

「帰還できずにポート‐カステルへ向ったようです」

「そうか、戻ってきたらお祝いでもしてやらにゃいかんな」

 満足げに、中将は頷いたものだ。


 その様子が、司令部付き幹部として食卓の末席で遣り取りを伺っていたマヌエラ‐シュナ‐ハーミス中尉には微笑ましい。夕食の後で、取って返したように向った士官食堂で、マヌエラはすぐに彼女の親友の姿を見出した。

「マリノッ……!」

 弾んだ呼びかけは、その末尾でやや萎みかけた……というのは、意に反して無表情な顔で並々と盛られた肉料理の山をつつくマリノの姿に、マヌエラは気付いたからである。

「何さ……?」少なくとも、その声にはなんら陽性の要素は含まれていなかった。

 気を取り直すように伸びた手が、ポンとマリノの肩を叩いた。

「あの子、有名人になってるわよ?」

「ああ……あいつのことね」

 マリノの口元が、苦々しく歪んだ。

「機付整備員でしかも指導係でしょ。嬉しくないの?」

「別にぃ~~~ってあんたっ、あたしゃ何時からあいつの指導係になったのよ!」

「みんなそう思ってるみたいだけど?」

 面白く無さそうに眉を顰めて、マリノは(トレイ)に向き直った。

「あたし、マヌエラが思ってるほどあいつとは仲良しじゃないから」

「じゃあ、あの子のこと、嫌いなの?」

「……大嫌い」

 まだ半分ほど残った盆を引っつかむと、マリノは怪訝な表情のマヌエラを振り切るかのように足早に席を立った。

「ちょっと……!」

マリノを追おうと席を立ちかけたマヌエラの傍で、盆を抱えた二人の女性士官が嬌声を上げて席に着いた。

「今日のセイラス大尉、やけに若作りしてなかった?」

「前に乗っていた艦で、大尉に付けられた仇名って、知ってる?」

「確か……『男食い』でしょ。でも、ここに目ぼしいいい男なんているのかしら」

「うちにはヒーローがいるじゃない。あの飛行士さん、大尉の好みらしいよ。だからさ、彼が還って来たらきっと……」

 二人は顔を見合わせた。

「『食う』気なのね」




「嫌い……だもん」

 引き篭もった自室の、脂臭いベッドの上で何度呟いたかわからない。

 薄暗く照明を保った部屋の、天井に滞留する濃い煙草の煙が、マリノの部屋に定住を始めてかなりの期間が経っていた。具合悪そうに何度も寝返りを打ちながら、マリノはハンティントンから遠く離れた陸地で同じ夜を過ごしているであろう「あいつ」のことを考えていた。

 ベッドの端に無造作に置かれた灰皿には、部屋に引き篭もって一時間も経たないうちに吸殻の山ができていた。ベッドの黄ばみかけたシーツには、煙草の焦げ痕が点々と黒い染みを作っていた。うつ伏せのまま未だ燻る吸殻の山を、彼女の茶色い瞳は呆然と捉えていた。


「…………」

 自ずと、あいつと最初に会った時の頃――モック‐アルベシオで、タチの悪い志願者達を相手に一歩も引かなかったあいつの姿――がマリノには思い出された。そのとき彼女は意識していなかったが、以後あの瞬間を思い返す度に、彼女自身の、何か本能的な所で震えるものがあったのだった。今のマリノにとってそれは受け容れるのにあまりに不快な感覚で、彼女はそれを振り払いたかった。


 初期訓練担当の教官としての彼女の眼から見て、あいつは軍隊での暮らしに信じられないまでの順応性を見せた。これまで娑婆でブラブラしていたとは到底思えないほど、またはあたかも軍隊生活の何たるかを知り尽くしているかのように、あいつは見事に振舞った。当人は隠しているつもりだっただろうが、傍目から全てを見ていた彼女にはすぐに分かった――あいつは、只者じゃない。


 そして――小柄な身体に似合わない腕っ節の強さ……あいつがその辺の格闘技スクールでは、まず身に付かない戦闘技術の持主であることを、マリノは自分の身をもってしても感じ取っていた。レムリアのスパイかとも思ったが、その割には完璧すぎるが故にあまりにも目立つ挙作が、その考えを打ち消した……だが、それでもあいつは「何か」を隠している――何かとてつもない秘密を。


 モック‐アルベジオの訓練飛行の件などは、今思い起こせば重大な伏線だった。あれは偶然なんかじゃない。あいつは飛行機の操縦に関しても、とてつもない技量を持っている。そして現在に至るまで、それをずうっと隠し通してきたのだ。レムリアンを何機も撃墜したのも偶然や運じゃない。あいつにかかれば、レムリアンの戦闘機であろうと関係なかったのだ。


 しかし当の彼女自身、カズマの活躍をこうして目の当たりにするまでは半信半疑だった。かつてモック‐アルベジオにレムリアンが急襲をかけ、撃退された時に流れた奇怪な噂――サン‐ベルナジオス造船所を襲撃し、市を離脱した三機が、翌日遠く離れた耕地帯で全機墜落した姿で見つかったこと……そのうち一機は、アルベジオを襲撃した反連邦主義者と警備部隊の戦闘に乗じ、レムリアのスパイにより持ち出された「鹵獲機」であったこと――それらの真相については何故か厳重な緘口令が敷かれたことを、マリノは思い返した。


 もっとも、墜落した三機の内二機からして造船所襲撃の実行犯だという確証も無かった。造船所と墜落地点の距離が離れ過ぎている。寄り道をしたのにしてはあまりに不自然な飛行経路だった。あいつは自分の言ったとおりにちゃんとあの機体――「荘厳なる緑」――を、何の戦果も無く持って帰って来たが、あのとき、あの空では何が起こったというのだろう?……あいつは事の真相を教えてくれず、緘口令がやがては真実を知る術を封じた。当のあいつは機体の無断持ち出しについて、一日営倉で暮らした以外になんら譴責された痕跡がない。


 そしてその後のあいつへの厚遇ぶり……バートランド少佐たちは、あいつについて何かを知っている。恐らく、あいつが何者であるのかを!――

 ――それでも、そう考えるようになった現在までずっと、彼女は何か得体の知れない幸運が、カズマを護ってきたように考えてきた。ただ運のいいだけの小僧。あいつがレムリアンの魔手を掻い潜って生還を果たしたのも、非常時とはいえ練習生として当然踏むべき手順を飛び越えて実戦部隊に配属されたのも、運命の女神の気まぐれが、ずっとあいつを護ってきたからに他ならない……それが、いままでマリノのカズマに対する目を支配してきたし、マリノには気に食わなかった。


 ――だから、彼の真の実力が周知のものとなった今、マリノはカズマに対して平静ではいられなくなった。


 ――あの日の夜……今思えばそれは決定的な瞬間だった。

 あいつが抱えていたのと同じくらい、否、さらに深刻とも言える自分の秘密が、あいつのものともなったあの夜。何度思い返しても、湧くのは怒り――自分の真実を覗いたあいつと、迂闊にもそれを許した彼女自身に対する――だった。あの日以来、マリノは自分があいつにたいして著しく不利な立場に落されたと感じていた。自分が如何にあいつに対して隔意を剥き出しにしようとも、あいつは意に介するどころか、あの日の話を持ち出せば、この艦はおろか軍にも自分の居場所は無くなるかもしれないのだ……!

自分はあいつが何者であるのかを知らないが、あいつは自分が何者であるのかを知っている。


「……チキショウ」

 ベッドの上で、マリノは形のいい唇を噛み締めた。思えばあの時点で、あいつを殺しておくべきだったのかもしれない。実際、殺す寸前まで行った。あいつも恐らくあの時、自分の死を覚悟したはずだ……だが、あいつは逃げなかった、怯えなかった。恐らくそうでなかったら、彼女は自分の感じる不利を、かなり軽減できるように思えただろう。彼女に跪き命乞いをするあいつの姿に、彼女はわずかではあっても優越感を取り戻すことができたかもしれない。

 あいつは逃げなかった……そうだ。逃げなかったからこそ、自分はあいつを殺すところだった。

「何なんだよ。あいつ……!」

 うつ伏せのまま、湿っぽい鼻声交じりにマリノは呟いた。透き通るような茶色の瞳を、目元から湧き出した湿っぽいものが覆っていた――ベッドに肢体を横たえた脳裏に浮かぶのは、十数年前の「あの日」の光景――





 ――見渡すばかりに残骸の蓄積する荒野の真ん中に、襤褸を纏った少女が裸足で独り佇んでいた。

「…………」

 呆然と見上げた先、鉛色の、今にも雨の降り注ぎそうな空の向こうに、少女の大きな、茶色い瞳は絶望を捉えていた。暗鬱な空の下、あちこちに広がる廃棄物の山の頂上を飛び交うハゲタカの群がりは、ここが廃棄物のみならず死体の捨て場所となって以来、一層に勢力を増しているかのように思われた。


――ここは、「あの戦い」以来急速に天空、地上世界を覆うに至った物質文明の残滓たる廃棄物集積地。

――ここは、まさにこの世の終わりの情景。


 そこの何処を穿り返したところで、希望など一片も見出すことが出来るわけがなかった。それでも、少女はその幼心の中に、決して絶望や恐怖を抱いてはいなかった。その日暮らしに必要な量の鉄屑を詰め込んだズタ袋と、挟みを掴む小さな手は微かに震えていたが、それは決して怯惰によるものではなかった。少女にとって屑拾いのその日暮らしは、成人した者は男ならもの獲りかヤクの売人、女なら売春婦になるしか途の無いこの街から抜け出すための、通過点に過ぎなかったのだ。


 挫けかけた心を落ち着かせる心の声を、少女は聞く。

 ――エズラ?

『…………?』

 ――エズラ……わたしの可愛い娘

『…………!』

 ――エズラ、あなたは選ばれた子なの

 その胸から引き離される間際、彼女の母親が投掛けた一言を、ポツリポツリと冷たいものが落ち始めた荒野の真ん中で、少女は噛み締めていた。それこそが巡り巡る苦難の末この貧民街まで幼い身で流れ着いた少女を現在に至るまで支えていた言葉――そして少女は、自らをこの場に堕としたもの、ひいては自身を自らの母親より引き裂いたものの正体を知っていた。そして、それに復讐するまで、幼い彼女は決して斃れるわけにはいかなかった。

 やがて降り来った驟雨――雨は、この最果ての地に埋もれた有害な化学物質と反応し、地上より猛毒の瘴気を吹き上げる。それを知っていた少女は、彼女の飯の糧を掴み駆け出した。

駆けながら少女は、幼心に決心する――必ず、ここから這い上がるんだ!

 


「――――ッ!」

 ――目覚めたときには、マリノはうつ伏せのまま寝台に身を沈めていた。

枕には、眠ったまま流した涙が丁度二つに並んだ染みを作っていた。億劫そうに半身を擡げ、マリノは腫らした目で辺りを見回した。舷窓を開くや、雲の海原を透かし、地平線の彼方から生まれ出たばかりの朝日が、半開きの舷窓を貫き彼女の部屋までその赤い手を延ばし掛けていた。

「マズイッ!」

 当直勤務であることに思い当たったマリノが、用具を引っ掴んで艦橋に駆け込んだときには、予定時刻を五分も過ぎていた。そこに、艦の先任下士官たるマイロ‐O‐デミクーパー上級曹長の怒声が容赦なく降り注ぐ。

「たるんどるぞお前!」

「申し訳ありません! 教官どの!」

 職種は整備員でも、れっきとした艦隊士官学校(アカデミー)出であるマリノにもまた、艦隊士官の務めたる艦上での当直勤務は平等に巡ってくる。気の緩んだ自分に喝を入れる意味で、マリノは強風の吹き荒れるデッキに出て双眼鏡を構えた。常夏帯に展開しているとはいっても朝方の空は悴むほど寒く、見張りには分厚い防寒着を必要とする。用意を整えた彼女が他の甲板員に混じり配置に付いたときには、艦橋より遥か下層に広がる飛行甲板ですでに上空警戒の戦闘機隊が発艦を始めている。


 その航行高度と位置からして、ハンティントンはこの南大空洋で一番先に陽光を浴びる位置にあったのかもしれない。堰を切ったように延びゆく光の腕は、一帯の空域を漂う雲々を鮮やかなオレンジに染め上げ、艦載機を発艦させるべく回頭を始めたハンティントンにも暖かさと眩しさを投掛けてくる。雲海と同じ高度を飛ぶハンティントンの影が層雲に映し出され、影の歪みはさながら空中に浮かぶ城のような魁偉さを見る者に感じさせていた。艦が動くにつれ、光に包まれていた空間が影となり、その逆の現象もまた艦橋要員たちに感慨を投掛ける。


 推進器の轟音の高まり――プロペラの重奏曲に乗って、ハンティントンはゆっくりと、だが確実な歩みで加速する。発艦に必要な風速を得るためだ。それに併走する護衛の駆逐艦。その上甲板は空母の発艦作業を見ようと多くの乗員でごった返している。その艦橋から、大した用もないのに盛んに光を煌かせているのは、互いの信号員が戯れに発光信号機で挨拶でもしているのだろう。もしくは悪口の応酬か……

やがて、飛行甲板を蹴ったジーファイターの一番機が、少しの直線飛行の後、ゆっくりと上昇に転じ始めた。先日の「敗戦」の後も、飛行隊は何事も無かったかのように淡々と任務をこなしている。


 その数は四機、それらは上を見上げたマリノの眼前で艦上空にフィンガーチップ編隊で集合すると、螺旋状に旋回を繰り返しながら艦隊のさらに上方へと上がっていく。

「…………」

 陽光を吸い込み煌く翼の連なりを、彼女の茶色の瞳は、羨望の篭った眼差しで眺めていた。そしておそらくは、この場の幾人かが彼女と同じ視線で艦載機を追ったはずだ。

 マリノと同じ見張員、信号灯を操作する要員、突発的な敵機の襲来に備えた機関砲手……露天のデッキでもこれほどの人間でごった返している。それが艦艇独特の緊迫感、かつ安定感を空の上で漂わせている。戦闘機に続き発艦したのは一機のBDウイング艦上攻撃機、単機であるところを見れば、おそらくは艦隊前方に進出しての気象偵察だろう。

 艦載機の発進を終えたハンティントンが、艦隊に復帰するべく回頭を始める瞬間は、肌に感じる風向きが変わるのですぐにわかる。五十階建てビルの全高に匹敵する巨体の旋回に気流が乱され、乱れた気流は突風にも似た空気の動きとなり甲板上の乗員に襲い掛かるのだ。それをいかにやり過ごせるかが、ある意味軍艦乗りのみならず船乗りの練度を量る指数のようなものとなっていた。


 吹き込む強風に耐え、双眼鏡を構え続けるマリノ。彼女の傍にいた数名の兵が風に抗いきれずに倒れ、あるいは姿勢を崩して屈み込んだが、彼女の長身は強風の只中にひたすら立ち尽くし、耐え続けた。

 旋回を続ける艦首の飛行甲板の縁から白い煙が吹き上がり、それは程なくして幻想的な眩さを伴った幕となってハンティントンの艦体を包んだ。旋回に伴う気流と艦体の発する摩擦とが水蒸気を生み、かくのごとき光景を現出する。南方でも空気温度の低い朝方や、寒風吹き荒ぶ北方空域を航行しているとき、条件に恵まれれば見ることのできる現象である。


 ――あいつ……今頃どうしているだろう?

 一人の男の顔を思い浮かべかけたところで、マリノは慌てて頭を振った。昨日にレムリアンを向こうに回し圧倒的な戦果を上げたというあいつのことだ、昨夜はリューディーランドでさぞかし美味い酒を飲み、散々に酔いつぶれていることだろう……いやいや、あいつは全くの下戸(ライトウェイト)だったっけ。たった一杯の酒でぶっ倒れ、ほんの少し煙草の煙を吸い込んだだけで激しく咳き込むあいつの無様な姿を知っているマリノからすれば、現在のあいつの活躍ぶりは予想も出来なかったし、やはり……未だに信じることもできてはいなかった。


 当直の時間は漫然とした空気の中で過ぎ、やがて次への引継ぎを終えた要員は、遅い朝食までの僅かな時間を利用し、その多くが艦橋下の待機所に集り一服するのが常であった。

 マリノもまた例に漏れず、多くの将兵に混じりこの日最初の煙草に火を点け、莫大な肺活量をフル稼働させ煙を吸い込み、そして吐き出した。普段ならばベッドから起きたところで一服するのが常のマリノにとって、ここ賑やかな待機所での最初の一服は、ある種の新鮮さすら感じさせた。


「――坊や、また記録を伸ばすかな?」

「――どうだかな……昨日のはまぐれさ」

「――提督、早く坊やを戻したがってるみたいだぜ?」

「――死なせるのが惜しいってか……羨ましいよ」


 兵士たちの会話に耳をそばだてる内、待機所まで伝わってくる何かがぶつかってくるような重い振動――それは幾度も続き、程無くして鈍い軋みとともに艦が傾き出すのをマリノは体感する。上空警戒の戦闘機が帰還してきたのだと、彼女は直感する。


 待機所を離れ、朝食を取りに食堂へと向かう道すがらに立ち寄った飛行甲板。そこでは既に着艦を終え、主翼を折り畳んだジーファイターが、整備員により後続の邪魔にならぬよう艦首方向へと押し出されている。その傍では機より降りた操縦士が、駆けつけた機付長と機体の状態についてなにやら引き継ぎを行っているのを、マリノはキャットウォークから見下ろしていた。金髪、そして灰色の目をした操縦士の端正な顔には、見覚えがあった。

「…………」

 バクルとかいう名前の、あいつと仲のいいレムリア人は、機付長と二、三技術的な会話を交わし、パイロット専用ロッカールームへと足早に戻っていった。あのレムリアンもまた、昨日はあいつと翼を並べ、かつての同志であったレムリア軍と戦ったはずだ。あのバクルは、あいつの戦いぶりについて、何か知っているのだろうか?



 ――ピークを過ぎた朝食時の士官食堂。

 スクランブルエッグにべーグル、ソーセージとマッシュポテト――大盛りの盆を手に、マリノはさり気無く彼の向かいに座る。彼はといえば、向かいに座った人影に関心を示す風でもなく、ベーグルを齧りながら、午後の偵察飛行に備え計算尺を回し、チャートにペンを走らせている。


「ねえ……あいつ、本当に撃墜したの?」

 向かい側からの突然の言葉に、クラレス‐ズ‐バクルは動かしていたペンを止め、灰色の瞳を上げた。

「…………?」

「だから……あんた、あいつの墜としたところ、見たの?」

 マリノの言葉に、バクルは無言のまま、その灰色の瞳を一層に細めた。質問の主とその内容の組み合わせに、彼なりに何か納得を覚えたかのようだった。

「見たよ。見事な撃墜だった」

「…………」

「念のために言っておけば、見たのは僕だけじゃない。僕だけが見たと言っても、意味を成さないだろう?」

「……ああ、レムリアンじゃねぇ」

「…………」

 敵手たるレムリアからの亡命者という、自らの出自を謗る言葉を、バクルは艦隊に身を置いた瞬間から覚悟していたし、実際に何度も浴びせられた。だから傷付く謂れはなかった。その代わりにバクルは僅かに苦笑を浮かべ、言った。

「君は、貧しいんだな」

「貧しいって……なに?」

「心根が、貧しいんだな……って」

「貧しいのには、理由があるのよ」

 マリノは、鼻で苦笑する。

「生まれた瞬間から、心根の貧しいやつなんていないもの」

「それと同じさ、彼が強いのにも、理由がある」

「理由……?」

「始めから強者なんて、この世にはいない。僕が思うに彼は……カズマは、君の知らない、強者しか生残れない空で生きてきたから、強者なんだ」

「はあ……!?」

 呆けたように目を見開くマリノに微かに微笑みかけ、バクルは席を立った。目の前の彼にとってあいつは、掛け替えの無い友になっていることをマリノはこの瞬間確信する。

「あいつが……」

 取り残されたところでマリノは呟いた。フォークを握り締めたまま、彼女は自分でも知らない内に主を失った向かいの席に、憤りを篭めた視線を注いでいた。

「あいつが……どんな目に遭って来たって言うんだよ……!」



 ――正午に近付いた頃、ハンティントン艦内は俄かに緊迫の度合いを深めていた。

 先日の空戦で不時着した艦隊飛行隊の一部の留まるヒュイック方面で、再び空戦が始まったという報がもたらされたのが、緊迫の発端であった。現地のADFは残り少ない戦力を糾合し、母艦へと合流を図る艦隊航空隊の援護に回り、来襲するレムリア軍と烈しい空戦を繰り広げているらしかった。


「戦闘機を上げますか?」

 ハンティントン艦長アベル‐F‐ラム中佐の問いに、第001任務部隊司令官フョードル‐ダオ‐“D”‐ヴァルシクール中将は頷いた。ラム中佐の真意が、艦隊の直援ではなく合流組の援護にあることを提督は瞬時の内に察している。


 ヴァルシクールはヴァルシクールで、兵力の結集を促す艦隊司令部からの命令にも似た督促に、内心では憤懣を抱きつつある。機動部隊結成時に想定された本来の任務とは趣の異なる通商航路の護衛任務は、陸上もしくは浮遊大陸との連携無しには存立し得ない広範囲な内容を孕むことが多い。当然、局面によっては艦隊航空部隊を陸上に展開させる選択も考慮に入れねばならないのに、一方的な撤収にも似た命令は徒に陸上と艦隊の連携を削ぐばかりか、相互不信の種をばら撒くのも同じである。


 今必要なのは航路の護衛ではなく、積極的に敵艦隊を探し出し、これに攻撃を加え打撃を与えることではないのか? このまま航路護衛という名の下に漫然と制空戦闘で日を過ごしていれば、折角の母艦飛行隊も徐々に消耗し失われてしまう……だが、そのような不満を口には出さず、ヴァルシクールが言ったのは次の指示のみであった。

「戦力の裁量は各艦の航空群司令に任せる。すぐに戦闘機隊をポート‐カステル方面へ進出させ、合流を支援させよう」


 主翼の展張を終え、飛行甲板狭しと犇めき合うジーファイターに駆け寄る操縦士の一団。ハンティントンの場合、097飛行隊長ディクソン中佐が先日の空戦で戦死し、飛行隊最先任のオリア大尉が指揮を継承していた。今日の出撃ではそのオリア大尉が、ハンティントンから抽出された八機の指揮を取る。

 バクルもその八機の中にいた。本来午後の上空警戒飛行に赴くはずだった彼が、予定を急変しこの緊急性の高い任務飛行に加わったのは、当のオリア大尉に請われたからで、バクルとしてはかつて敵軍に身を置いていた彼自身の境遇と知識とを正当に評価してくれる上官を、ハンティントンに身を置き初めて仰ぐ形となった。


『――こちらフィルバースト、われ空戦域より離脱し母艦へ帰投中。援護を要請――』

 苦闘に喘ぐ僚友の通信を、バートランド少佐たち上空直援組は操縦士の待機室(レディルーム)で聞いた。混信する通話の端々から、ADFや艦隊の苦闘を容易に窺い知る事ができる立場に彼らはいた。その立場が却って、残る者たちの焦燥を深めていく。待機室には操縦士の他、手空きの乗員や整備員すら集り、切迫した交信に耳を(そばだて)てていた。


 マリノもその中にいた。フーセンガムをクチャクチャ噛みながら、彼女は空電音交じりの声に耳を済ませていた。被弾の振動、加速に耐える操縦士の呻き、仲間の名を懸命に呼ぶ操縦士の声――何度聞いても聞き慣れることの無い、生々しい声の連なりをマリノは無心の内に受け止め、そして無心のうちにピンクのフーセンを膨らませる。

「…………」

 ……だが、その交信の端々から、何時の間にか「気に食わないあいつ」の動きを追っている自分に気付き、不愉快な感情に囚われるマリノもいた。同時に据付けの受信機を通じ場に訪れる沈黙――それはその場の皆に空戦の終わりを告げる静寂だったが、戦闘の帰趨までは教えてくれない。


『――こちらオリア、フィルバースト隊と合流――』

 途端、張り詰めた静寂は木洩れ日のような安堵へと席を譲る。出撃前のような賑やかさを取り戻した待機室で、大きく息を吐いたバートランドは椅子に背を凭れかけた。

「気を揉ませやがる……」

「とにかく……みんな無事で良かったですよ」

 キニー大尉の差し出した手を、バートランドは力を入れ握る。

「ロムはどうしてる? また飛べそうか?」

「意識こそ戻ってますが重傷ですよ。マーヴルンへの後送が必要でしょう」

「そうか……痛いな」

 先日の空戦で負傷し、必死に機を操り帰投を果たしたエドウィン‐“スピン”‐コルテ少尉のことを反芻し、バートランドは苦りきった顔を浮べた。貴重な、かつ気心の知れた戦力に抜けられるのは痛い。負傷者は未帰還者よりも多く、うち半分は彼と同じく後方での療養を必要としている。代わり映えしない現状の深刻さの中でも、多くの人間が束の間の和みを見出しかけたそのとき――

『――全機無事を確認……いや、一機足りない』

 通報と同時に、膨らませたフーセンが割れた。柳眉を顰め、マリノは受信機を睨むようにする――まさか……あいつ?


 願望にも似た予感は、外れた。本来の母艦たるクロイツェル‐ガダラではなく、ハンティントンに愛機を滑り込ませた第184戦闘飛行隊隊長のフィルバースト少佐は、出迎えたバートランドに、息を弾ませ戦況を報告した。それが、艦内に新たな話題をもたらしたのだ。

「あなたの隊のツルギ‐カズマ……あの坊やは大したもんですよ。本官が確認しただけで坊やは特装機を一機撃墜しています。よく直援を務めてくれましたよ」

「そうか! ボーズのやつ、またやりやがったか!……で、ボーズはどうした?」

「燃料が足りずに引き返しました。これから戻ってくるというのは……もう無理でしょうね」

「…………」

 バートランドたちの苦りきった表情を他所に、苦境の中で歓喜は当然のように飛行甲板から艦内を駆け巡る。やがてはマリノですら、そのような熱狂からは無関係ではいられなくなった。


「ツルギ‐カズマって、どんなやつなんだ?」

 カズマの機付長として、自分が著しく微妙な立場に置かれた事に気付いたときには、マリノもまた艦の将兵から興味の目で見られる存在になっている。誰もが機付長たる彼女の口を通じ、唐突に出現したヒーローの人となりを推し量ろうとした。

「彼って、どうなの? 性格は? 好きな食べ物とか……」

「そ、それは……」

 同性の同僚に真顔で尋ねられたとき、マリノはそれに対する言葉を持ち合わせていない自分に気付いた。つまりは、彼女は四六時中ツルギ‐カズマと接しながら、当の彼の事を全く知らない自分に気付いたというわけだ。だがそれを想起したところで、マリノの心中で益々高まりゆくのは、あいつに対する穏やかならざる隔意でしかなく、誰もいない場所で、マリノは呟くしかなかった。

「なんで……!」

 ――なんで……あたしがあいつのことを知らなきゃいけねえんだよ!



 苦痛と煩悶を胸に向かった夕刻の士官食堂もまた、マリノの与り知らないところで噂話の井戸と化していた。一度も面と向かって話をしたことはおろか会ったことすらない撃墜王についてあれこれ想像を巡らせる女性士官の嬌声漂うテーブルで、黙々と食事を掻き込む彼女の向かいに座る人影があった。纏った制服からマヌエラかと思ったが、その直感はものの見事に裏切られた。

「ねえ、あなた」

「…………?」

 向かいから掛けられた媚びるような声に、顔を上げた先に認めた人物を、マリノは意外さを隠さずに注視する。

「…………」

 唖然と見開かれた茶色の瞳の先では、ハンティントン戦闘情報室チーフのシルヴィ‐アム‐セイラス大尉が艶かしさ溢れる笑みを浮べていた。自分より二階級上のこの女性が、ある意味悪い癖の持主であることぐらい、マリノもすでに知っていた。マリノの距離を置くような、微妙な視線に気付いたのかどうかはわからなかったが、セイラス大尉は言った。

「あなた、あの子の機付長なんでしょう?」

「そうですけど?」

「あの子とは、どういう関係なの?」

「はは……」

 マリノは苦笑した。だがその内心は蓄積された苛立ちで煮えくり返っている。

「ちょっと……誤解してませんか、大尉?」

 セイラス大尉は、身を乗り出すようにした。

「あなたみたいなナイスバディ、普通の男が見逃すわけ無いじゃない」

「あいつ……普通じゃないんですよ」

「え……?」

「あいつはあたしの身体をよくからかうけど、興味はないみたい」

「興味が無い?」

「だから……あいつにとってあたしは、単なる同僚でしかないってこと」

「フーン……」

 頬杖をつき、大尉はマリノに目を細めた。緑色の瞳が、先程とは違う光を湛え始めていることに、マリノは気付いた。

「な、何ですか……?」

「じゃあー……他の誰かがあの子にアプローチしても、あなたは何とも感じないのね?」

「まあ……そういうことかな」




 夜――翌日の出撃に備え、整備作業の今なお続く格納庫の中にマリノはいる。厳密に言えば、夜間にも哨戒機が出るから、本土の基地に入渠でもしない限り、航空母艦の格納庫が休まる暇は無い。

 機材の点検、オイルの交換、部品の換装――自分の受け持ちではない機体の整備に関し、それを理由に手を抜くような人間では、マリノは決してなかった。だが、豆電球を手にBDウイングの太い胴体内に潜り込み、配線を点検している最中も、言葉は彼女の意思に関係なく脳裏で反響を続けていた。


 ――彼って、どうなの? 性格は? 好きな食べ物とか……

 ――じゃあー……他の誰かがあの子にアプローチしても、あなたは何とも感じないのね?


 そんなんじゃないんだって!……反発と苛立ちが、スパナを握る手に力を篭めた。要らぬと思うことを考える度、人間は余計に仕事をしたいと思うものだ。この晩マリノは力仕事も含め並みの整備員の五人分の仕事をこなし、その結果として疲労困憊した彼女はシャワーを浴びるとすぐに、自室のベッドに襤褸切れのように倒れ込んだ。

「チキショウ……」

 疲れは汗や油と一緒に温水で洗い流したはずが、ベッドに潜り込んだ途端、別の意味で不快な疲労と倦怠感はそれまで息を潜めていたかのように襲い掛かってくる。ベッドの重みに潰れかけた煙草を一本取り出して火を点けるのと、艦の外が堰を切ったように騒がしくなるのとほぼ同時だった。


 ――スコール……?

 引き締まった長身を自堕落にベッドに横たえ、半開きの唇に煙草をだらしなく咥えたまま、マリノは呟いた。航法を誤ったのか、それとも意図あってのことか、この南大空洋(サウ‐パシフィカ)でハンティントンのみならず艦船が分厚い雨雲の中に突っ込むというのは珍しいことだった。時を経るにつれて艦舷を打つ雨音は一層にその大きさを増し、彼女を思い出したくも無い過去へと誘う――



 ――早まり行く雨足は廃墟と化した楽園を容赦なく打ち据え、暗闇とともに子供達を恐怖させていた。

 一台しかないベッドの上で、子供達は折り重なるようにして抱き合い、風雨と周囲の悪意に耐えているかのように少女には思われた。限られた数の毛布を数名で共有し、深まり行く寒さ、そして飢えと疥癬に苦しみ、それらが子供達から安眠を奪っていた。


 ――それは、未だ幼かった少女が、最果ての地へと足を踏み入れる遥か前の記憶。

 ――それは、未だ幼かった少女が、その母の胸より引き離され間もない頃の記憶。

 ――そして少女は今では、同じ境遇の少女を姉と仰ぎ、その胸に縋っていた。


 ベッドから距離を置いた部屋の一隅で二人は肩を寄せ合い、辛うじて寒さを凌げるかどうかというぐらい薄手の襤褸切れを纏い、子供達の寝台に目を細めた。

「…………」

 少女の虚ろな眼差しの先には少女と「姉」、ひいては寝台の子供達との絆を繋ぐ流星架(シルエクロス)――彗星の尾の様に一方向に曲がりくねった十字架の鎖を、二人は互いの手を重ねしっかと握り緊めていた。流星架は窓から差し込む自然の灯りの下でも、微かに鈍い輝きを放っていた。


 全てを失い、奪われた結果に残った小さなそれが、今の少女達の心の拠所だった。

「お姉ちゃん……?」

 襤褸切れから顔を擡げ、少女は「姉」を仰いだ。外から差し込む光に青白く染まった頬が、少女を幼心に戦慄させる。少女を胸に抱いたまま窓に顔を向ける「姉」は息を呑むほど美しく、傍で見ているだけで少女には安堵すら沸き起こるのだった。

「お姉ちゃん?」

 長く豊かな金髪は、永遠とも思える暗闇の中で、少女には信じられないほどの眩きを放っていた。だが、「姉」の長い睫毛越しに覗く瞳が、止め処ない憂いを湛えているのを、少女は見逃さなかった。

 瞳に宿る光が一瞬揺らぐやいなや、次には「姉」はその胸に抱く少女の顔を、覗き込むようにした。

「エズラ?」

「お姉ちゃん?」

「……あとを、お願いね」

「お姉ちゃん……!」

 「姉」は微笑みとともに少女に流星架を握らせた。声を荒げる少女を他所に、彼女は立ち上がった。部屋のドアを挟み迫り来る人の気配……それを察しドアへと歩み寄る「姉」。楽園が崩壊し、少女達がここに取り残された後、ここ暫くの間毎晩のようにドアの向こうに訪れる何かを、何よりも恐れている少女が、そこにいた。そんな夜が始まって以来、「姉」がこれまでになく憔悴し始めたように少女には思われた。「姉」は女性として、ひいては人間として守るべき大切な何かを、徐々に失おうとしていた。少女にとってもそれは苦痛であり、恐怖だった。


 ――そして、「姉」は何時ものようにドアの向こうに消えた。

 時を置き、ドアの向こうから微かに漏れる喘ぎ声――まただ!……咄嗟に少女は耳を塞ぎ、頭から襤褸を被った。それは少女にとってあまりに残酷な現実だった。このような窮乏の中でも女神の如き清純さを漂わせている「姉」が、ドアの向こうで何をしているのか少女はおぼろげながら理解しかけていたのだ。

 ――そして、少女は今になってはっきりと理解している。

 ――あのときの「姉」にとって、憂いは決意とともに在った。

 決意――それは、自分の目の前の子供達を、どんなことがあっても守り抜くという強い意思。

そして「姉」が身を挺し悲壮なまでの決意を秘めたその瞬間から、自分には決意に応える義務が生じたと、少女は信じた。



 ――電気を消した室内では、舷窓から飛び込んでくる星明りだけが唯一の光。それはあの夜の「姉」のように、マリノの頬を青白く照らし出していた。


「…………」

 起き上がり、すっかり醒めた目でマリノは枕元の灰皿へと視線を転じた。生気を失いかけた茶色の瞳は、それでも灰皿に出来た煙草の山の輪郭をしっかりと捉えていた。嫌な夢でも見た後のように、すっかり乱れた髪を掻き毟りながら、マリノは大きく息を吐き出す。


 何時の間に、自分は眠り込んでしまったのだろう?……些細な疑念を一瞬で振り払い、マリノは煙草を取り出した。昨日以来、目立って煙草の量は増えている――そのことに気付き、彼女は口に咥えかけた煙草を忌々しげに灰皿に押しつぶした。そして、再び横になった。

「お姉ちゃん……」

 流星架を鼻先に掲げ、マリノは力なく呟いた。あの時からずっとマリノとともにある流星架は、舷窓から差込む微かな光を吸い込み、やはりあの時と同じ光を放っている。


 鼻先に近づけた流星架を、マリノは額に押し当てるようにした。その行為が彼女の瞳に光るものをもたらすのに、時間はかからなかった。昔のように「姉」の胸に抱かれたあの時と同じ感触を思い起こしながら、かつては少女だった誰かが再び眠りについた頃、ハンティントンは漸く雨雲を脱し、忌まわしい記憶も混濁した意識の奥に消えていく――



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