第七章 「ポート‐カステル航空戦 前編」
艦隊は、真白い航跡を曳いて蒼穹を進んでいる。
輪陣形の中心を行くハンティントン、クロイツェル‐ガダラの両空母は、飛行隊の出撃を前にした活気に包まれている。規則正しい配列で飛行甲板に並んで発艦を待つ艦載機の群れ。その間を行きかう甲板員と整備員。そして乗機のコックピットに取り付くパイロット……これらの光景は、飛行甲板のキャットウォークから頬杖をついてそれを眺めるカズマに、前線へ赴く日本海軍の空母機動部隊を連想させた。
実を言えば、カズマ自身には空母部隊での勤務経験が無い。空母といえば延長教育で離着艦訓練をしたときに数えるほど乗り込んだぐらいだ。そしてカズマが全ての教育課程を終えて前線に配属されたとき、日本海軍の空母機動部隊はその働き場をほとんど失っていた。
歴戦の操縦士の多くも緒戦の激闘で主力空母とともに失われ、せっかく再建した空母飛行隊もまた、以後に続く島嶼間の制空権を巡る間断なき消耗戦に次々と投入され、失われていった。圧倒的に優勢な敵を前にし、航空機の補充もままならない状況では、次第に縮小する戦線の中でただひたすら航空戦力の消耗と再建を繰り返すことが、空母部隊に与えられた任務のようなものであったかのもしれない。
それでも漸く再建を終え、最新鋭の艦艇と艦載機。そして戦機を得た空母機動部隊の前に立ちはだかったのは、緒戦より遥かに質量ともに充実した敵機動部隊だった。日本がその再建に二年近くを要した空母機動部隊を、アメリカは同じ期間のうちに緒戦の十倍近くの規模にして再建し、強化したのである。再建を終えたばかりの味方空母部隊が強大な敵の前に一方的に打ちのめされる様子を、カズマはフィリピン航空戦を戦う零戦の操縦席から目の当たりにしたものであった。
今回の出撃に当たって、カズマは搭乗割から外されていた。傍目には先日の船団護衛戦の不首尾から、休養の要ありと見做されたためで、空母配属以来皆無であった大規模空戦の機会を逃すこととなったのは、カズマからしても不本意なもののように感じられたものだ。もっとも、十数機から三十機に亘る大編隊に参加しての空戦経験ならば、カズマはハンティトン所属はおろかラジアネス全軍の戦闘機操縦士を越える位の豊富さを誇ったことであろう。ハンティントンにいる多くの人々はそれを知る術もないから、カズマを詰る言葉も出てくる。
「あんたって、ほんっとに救い難いバカねぇ……」
勝ち誇ったような顔で、マリノは言ったものだ。
「正規の士官の地位がもう少しで手に届くって時に、あんなポカやるんだもんねー。ちったあ指導したあたしの身にもなってよねー」
「誰がお前の指導を受けたんだ?」
すかさず、マリノの手がカズマの頬に延びた。
「あんたねえ、あたしが教育隊にいたからここに来れたんでしょうがっ……この恩知らずっ!」
「イテテテテテ……」
頬を抓られるカズマの苦渋に満ちた顔を十分堪能すると、マリノは再び意地悪そうな笑みを浮かべた。
「まっ、あんたみたいなヒヨコはおフネの中で大人しくミルクでも飲んでなさいってこったね」
主翼を広げて発艦ラインに並ぶジーファイター群に向かい、待機室から出てきた操縦士が三々五々と乗機へと向かって行くのを見る。その中にクラレス‐ラグ‐ス‐バクルの姿をカズマは見出す。背負っていた落下傘をどっかと主翼の上に乗せたところで、バクルはキャットウォークを顧みた。その瞬間、見下ろすカズマと見上げるバクルの眼が合う。バクルは手を上げてカズマに笑いかけた。カズマも微笑を浮かべ、軽く手を上げて応じる。彼もまた、今日の出撃組に名を連ねていたのだった。朝、食堂で交わしたバクルとの会話がカズマには思い出された。
「――正直、カズマと一緒に飛べないと不安だな」
「――バクルは並以上に腕があるんだから、心配しなくとも大丈夫だ」
「――以前の空戦でカズマにはもう判っていると思うけど、レムリア軍は操縦士の技量を重視する。腕のいい操縦士がいれば、あの特装機のように性能優秀な機体を宛がうか、あるいは……」
「――…………?」
「――精鋭を小隊、あるいは中隊単位で集めて、特別な任務に集中的に使う。例えば敵の重要施設を攻撃するとか、重要人物を殺すとか……そういう任務だ。そのための『特務部隊』がレムリアの戦闘機隊にはある」
「――一対一なら兎も角、腕がいいやつが多数では、おれでも手に余るな」
「――実は、今度の出撃で遭遇しそうな気がする。だから君とは常に近くで飛んでいたかった。僕のためにも……そしてカズマ、君のためにも。もっとも、親衛戦闘機連隊のような部隊が来たら、僕も君も一巻の終わりだろうけど……」
「――親衛戦闘機連隊って?」
「――レムリア空戦士軍団……というより、中央政府の切り札の様な連中さ。軍に属さない政府直属の戦闘機部隊。僕らの様なヒラの空戦士は『紫衣衛』って呼んでた。レムリアでも最高峰の空戦士たちだ」
「――…………」
「…………」
会話を思い返すたびに、カズマの背筋に寒いものが走る。過日の特装機にもあれだけ手を焼いたのに、あれと同様の技量を有する連中が、ことによると一個航空隊張りの戦力でこちらの戦闘機隊と克ち合うことになるというわけだ。それはひょっとすると今日かもしれない。これまで幾度か手合わせした感触として、レムリア人というのは決して弱くは無いことをカズマは十分に弁えている積りであった。
ポート‐カステルにおける物資揚陸及び住民避難作業の上空援護。それが飛行隊の任務となる。ハンティントンからは187、097の両戦闘飛行隊から合計24機が出撃する。それも、編隊は飛行隊長が直々に指揮を執る。クロイツェル‐ガダラからは32機が出る。
ハンティントンが回頭を始めた。例の如く、発艦に必要な合成風速を得るべく風上へと向っているのだ。貨物船の船体と機関をそっくりそのまま流用しているだけあって、ハンティントンの加速は至って悪い。旋回半径が間延びしたこともあるが、数分を経ずしてハンティントンは遅れて回頭に入ったクロイツェル‐ガダラにたちまち並ばれてしまう。飛行船というものに対する免疫が低いカズマにとって、そんなクロイツェル-ガダラの腰高な艦体は異様な印象を与えていた。
艦体中央を貫く回転軸。そこに並び、ゆっくりと回転する六基の巨大な八翅回転翼――艦体の半分近くを推力に使っているだけあって、どうしても居住施設とか兵装はおまけのようなものであるかのように見える。下向きに曲げられた煙突から一気に噴出す黒々とした煙が、空の蒼を仄かに灰色に染めていた。飛行甲板の切っ先から噴出す蒸気の棚引きは、発艦に良好な状態を示していた。
『――全機、発艦を開始せよ』
先頭集団を形成するジーファイターが一斉に始動を始める。スターター・モーターの威力で、あの零戦や紫電改と違いエンジンの始動には甲板からの支援は何一つ要らず、機上にいる操縦士の操作で全ては容易にことが運ぶ。始動から暖気に転じたエンジンの爆音、回転を始めたプロペラの空を切る響き、それらが混じり合わされれば、飛行甲板上で繰り広げられるのはさながら鋼と火の合奏だ。その先頭集団の中に、“レックス”‐バートランド隊長がいる。
開け放たれた風防。そこから覗くパイロットスーツ姿のバートランド少佐。ゴーグルを下ろし、自堕落に頬から酸素マスクをぶら提げた姿が妙に格好良く見える。緑色の発艦信号が瞬き、次には甲板士官のハンドシグナルに従ってブレーキを解いたジーファイターがするすると進み出、矩形に穿たれた発進口から次々と飛び立っていく
カズマが気付いたとき、キャットウォークは発艦の様子を一目見ようと集まった手空きの乗員で鈴なりになっている。外野の気楽さか、あれこれと実戦や飛行の薀蓄を並べ立てる者。他者の発艦を論評する者……様々な人間模様がキャットウォークという狭い空間の中で繰り広げられることになる。
その中には、マリノの姿もあった。売店で仕入れたのか、紙袋一杯に詰め込んだハンバーガーをコーラで口に流し込んでいる。戦闘機を整備しているときとカズマをいびっているとき以外は、何かを食べている彼女の姿しか見たことが無いのに、カズマはこのとき気付いた。食ってばかりいるから、あんなに胸がでかくなるのか――呆れるより、カズマはむしろ感心する。
慌ただしい発艦の時間は短く過ぎた。最後の機が飛び立つのを見届けたかのように、ハンティントンの巨体が細かく振動を始める。回頭に入る予兆のようなものだ。急速な回頭に抗う気流の抵抗に対し、巨大な艦体が悲鳴を上げている。
ハンティントンは、再び輪の中に戻ろうとしていた。
リューディーランドの空は、もはやレムリアのものだ。
縦横無尽に空中を動き回る小編隊の連なりは、一路リューディーランドの州都カステルへと向っていた。出撃してから一時間近く経ち、途中で幾度も編隊を組み替えてもなお纏まった編隊を維持している様子には、今までの訓練と実戦で積み上げられた技量の高さを伺えた。しかし編隊を指揮するタインにとって、それは見慣れた光景で、特別に感慨を抱かせるには経験を積みすぎたといって良い。
『――先行小隊より編隊長へ。我カステル市西端へ到達。阻塞気球の存在を確認』
「編隊長より先行小隊へ。高度を上げ、ポート‐カステルに向え。街に用は無い」
タインは続けた。
「――我々の任務はポート‐カステルの制圧にある。街には……手を出すなよ」
『――了解……!』
間を置いた部下の返事。タインは周囲を見回した。雁状に並ぶ編隊が妙に活気付くのをタインは感じた。
『――先行小隊より編隊長へ。対空砲の攻撃を受けている。連中、街中に高射砲を置いてやがる……!』
「アホが……」
タインにとってそのような敵の振る舞いは、卑怯と罵る以前に侮蔑の対象でしかない。
「攻撃するな、そのまま突っ切って港へ向え。訓練通りに回避機動を取れば問題ない。地上人の射撃は下手くそだ」
『――了解』
『――隊長。何故攻撃しないのでありますか?』
ロインの声だ。タインは言った。
「俺たちは光輝あるレムリア軍だ。どのような形であれ民間人への攻撃は許さん」
『――ところで隊長。居残り組みはちゃんと仕事をしたでしょうか?』
「したに決まってるだろう。何たって、エド坊やがいるんだぜ。態度に相応しい働きをしてもらわなきゃあなぁ」
タインの編隊は、発進してからすぐにラジアネス軍の攻撃隊とすれ違っている。グーナが攻撃を求めたが、タインは即座に却下した。そうでなくては直援隊のいる意味が無い。それに攻撃隊と直援隊が分裂するのはまずい。先日の船団攻撃で集合と連携の拙さから攻撃機に損害が出たことは、すでに戦訓のひとつとなっている……特に、ラジアネスの空母が近辺をうろついている状況では。
俺のかわいいダルファロスに傷ひとつでもつけてみろ。ダルファロスから下界へ突き落としてやる……その思いを、タインは胸の奥で強く握りつぶした。編隊本隊はすでにカステル市の西端を眼下に見下ろしていた。アドバルーンのようにいくつも打ち上げられた阻塞気球。その頭上を飾るように打ち上げられた高射砲弾の真っ黒い花が咲いていた。
「地上人は所詮地上人だな。浅ましすぎるぜ」
『――お仕置きしてやりますか? 隊長』
「ああ、港の方でたっぷりお痛を食らわしてやるさ」
タインは編隊に散開を命じた。一瞬にして編隊は広がり、速度を増した編隊はすでにカステル市の全容を見渡せる位置に達していた。空襲を知らせるサイレンが、ここまで聞こえてくるようだった。先行小隊の四機が翼を翻して戻ってきたのはそのときだった。
『――こちら先行小隊。敵編隊の接近を確認。八時方向』
「ほう……」
タインの顔が綻んだ。次の瞬間には無線機でヴィガズを呼んでいた。
「ヴィガズ……」
『何でしょうか?』
「攻撃隊の援護はお前に任せる。地上人の奴らを引き付けるんだ。わかるな?」
『――了解』
少しの会話で、ヴィガズはタインの意思を感じ取った。最後尾を飛んでいたヴィガズの中隊が、一気に編隊の前面に進み出る。それを見届けると、タインは言った。
「ヴィガズ」
『――は?』
「生き残れよ……後でビールを奢ってやる」
『はい……』
歴戦の勇者にはどうでもいい無用の言葉に、ヴィガズの戸惑う顔が眼に浮かぶようだった。だが、言ってみずにはいられなかったのだ。
タインは天を仰いだ。
「先行小隊誘導しろ。ロインとグーナの隊は俺について来い」
『了解……!』
編隊は一斉に銀翼を煌かせ、空の高みへと昇っていった。敵を地獄へ叩き込むための、最良の位置を目指して。
バートランドは、持参した魔法瓶の口を覗き込むようにした。口から込み上げて来る水蒸気とコーヒー豆の香りに、バートランドは思わず目を細めた。魔法瓶は、まだ十分な量のコーヒーを残していた……一戦した帰りに味わうのに十分な量のコーヒーを。
バートランドの率いる第187飛行隊十二機から雲ひとつ飛び越えた側を、ランデル‐K‐ディクソン少佐の率いる第097飛行隊十二機が飛んでいる。さらにその向こうをクロイツェル‐ガダラから発進した三十二機が飛んでいる。その三十二機も飛行隊によって数も位置もバラバラ。数が多いのは結構だが、こんなに距離を置いていてはまとまった戦力としての機能は期待できない。経験が浅く、まともな編隊飛行ができないこともあるが、飛行隊同士の対抗意識からか統一された総指揮官も置かれず、各指揮官の裁量に丸投げされてしまったのだ。従って各隊の指揮官ごとにバラバラの隊形と方針を持ったまま、彼らは前線へと向ったのである。編隊は分散し、それは熟練した敵から見れば各個撃破の絶好の対象となる。
せめて今次の出撃については自身が編隊の統一指揮を執る旨、バートランドは上官の第105空母戦闘航空群司令クラレンス‐D‐ハッセル中佐に進言したのだが、進言は却下された。ハッセル中佐が軍人としての彼個人の判断から部下の進言を却下したのではなく、同僚のディクソンに反対されたのである。次の出撃ではディクソンが指揮を取ればいいと、バートランド自身、まるでラジアネス中枢の官僚の様だと思えるような妥協を示しても、ディクソンは自身の指揮に拘った。
後輩格、しかし戦闘経験の面で一日の長があるバートランドへの対抗心の為せる業かもしれない。あるいはブリーフィングの前日に行われた航空科上級幹部の打ち合わせの際、「編隊を指揮して向こうで一回でも飛べば、議会名誉勲章は兎も角、艦隊殊勲章ぐらいは貰えるかもしれないぞ」という、誰かが飛ばした冗談を真に受けたのかもしれない。勲章が欲しいばかりに飛行記録を改竄したり、戦闘記録をでっち上げたりする古参幹部がいることをバートランドは知っている。勲章そのものに価値があるというより、それを履歴書代りに大企業や政府系組織に天下りする元佐官や元将官が多いのだ。
こんなことをしている場合ではない、とバートランドは思うのだが、向こうはどうもそういう考えがないらしい。唯一の救いといえば、クロイツェル‐ガダラを根城とする第184戦闘飛行隊隊長のフィル‐W‐フィルバースト少佐が部下を率いて出撃しているということぐらいだ。フィルバーストはバートランドの艦隊士官学校の一年後輩で、その頃から互いによく知る間柄だった。共に戦闘機に進み、教官職として机を並べたこともある。腕もいい。こちらの飛行隊のキニー、オービルマン両大尉と並んで頼りになる男だった。
「おいジャック」
バートランドは、傍らの小隊を率いるキニー大尉を呼んだ。
『――何でしょう隊長』
「ボーズも、連れてくりゃあよかったなあ」
『――そうですね。今度連れて来る時は殿をやってもらいましょう』
「その前に、敵の数を減らしておかなくてはな」
バートランドは笑った。低い、乾いた笑いだった。目的地のポート‐カステルがレムリア軍機の攻撃を受けているという通信が入ったのは、そのときだった。
次第に見えてきた沿岸部の輪郭に眼を凝らすと、黒煙が立ち昇る下にチカチカと何かが光っている。その上空を、死骸に集るハエのように黒い影が舞っていた。
「…………?」
それが敵機の襲撃を受けて燃え上がった港湾施設であることに思い当たったとき、バートランドは主翼をバンクさせた。「散開」の合図だ。
高度を下げ、加速をつけて接近するにつれ、敵機の輪郭が次第に顕わになってくる。攻撃機とそれを守る戦闘機隊ともに低空をぐるぐる回っているところを見れば、迎撃機が来ないことに安心して攻撃に専念しすぎたせいであろう。バートランドは舌なめずりした。
上方に視線を巡らせる。頭上に広がる雲ひとつ無い青空に、敵機の影など一点も見られなかった。横に眼を廻らせると、ついさっきまで遠くを飛んでいた他の隊のジーファイターが一本棒になってこちらへぐっと機体を寄せ、港湾へ向って行く。さほど広いとはいえない港湾に、互いの識別番号を確認できるぐらい多数の戦闘機が犇きながら突っ込んでいく様は、普段豪胆で冷静なバートランドの肝を危うく潰しかけるほどだった。列機の誰かが舌打ちする音を、バートランドは聞いた。
「隊長機より全機へ。増槽を落とせ!」
命じるが早いがレバーを引く。ガコンという響きを残し残存燃料の糸を引いて下界へまっさかさまに落ちていく燃料タンク。機体が身軽になるのを、バートランドは操縦桿越しに感じた。
港湾の外で攻撃を受け、炎を上げるフネをすり抜けて編隊は突っ込んでいく。衝撃でフネから切り離された阻塞気球が、糸の切れた凧のように周囲を漂っていた。
敵戦闘機の動きが、急に慌しくなった。こちらに接近に気付いたのかもしれない。
だが、もう遅い――バートランド機の照準器の環に、一機の双発攻撃機の影が重なっていた。
『――隊長っ! 六時上方より敵機!』
「…………っ!?」
はっとして、バートランドは後背へ目を剥いた。座席越しではあったが、背後の雲を飛び越えるように、縦横無尽な白い航跡を曳いてせり上がって来る無数の光点を、バートランドは見た。それは、獲物の背後に突如として現れた巨大な白蛇の群れだった。
そしてバートランドたちは、白蛇の罠に掛かった哀れな獲物。
情勢が急変したのは、飛行隊がポート‐カステルに到達してすぐのことだ。飛行管制室はその慌しさを増し。付近を行き来する通信要員の数もまたにわかに増えた。
『――待機中の戦闘機操縦士は全員飛行装具を着用の上、飛行甲板に集合せよ。繰返す――』
艦内放送を、カズマは自室のベッドに身を横たえて聞いた。二三度寝返りを打って躊躇い、そして寝床から下りるまいと決める。待機中のパイロットに用があるというのなら、いわゆる「謹慎中」のカズマに関係があるわけではない。それにカズマの立場は未だに、そしてあくまで士官候補生であって正規の隊員ではなかった。ということもある。それでも、先んじて前線に飛んだ隊長たちやバクルのことを考えると、ひょっとして飛行隊に問題が起こったのかと不安にもなる――その不安の赴くがまま、カズマは寝台から飛び降りた。
「あ……」
「…………」
部屋を出ようとして、入口を塞ぐように立つ人影に思わず仰け反る。無表情に自身を見下ろすマリノ‐C‐マディステールと眼が合ったとき、カズマは思わず彼女を睨みつける様にした。
「何だ?」
「あんたこそ、何よ?」
暫く睨み合う。そこに、新たな艦内放送が響いた。
『――全戦闘機操縦士は待機。戦闘待機。待機室及び航空管制室に集合せよ。繰返す――』
「こんな時に寝てたら、永遠に起きられなくしてやろうって思ってさ」
マリノは平然と言い、あごを杓った。早足で歩くマリノの背中と尻を、目で追う様にカズマも歩く。歩幅の問題か、早足で歩いてもマリノとの距離が中々縮まらなかった。航空管制室。スピーカーに流される戦闘機隊との切迫した遣り取りに、カズマの足が止まった。街頭放送に集る群衆宜しく、飛行隊の徽章を付けた男たちが一つしかないスピーカーの前に犇めき合っている。
『――だめだっ……敵機を振り切れないっ!』
『――われ被弾! これより離脱する……!』
『――助けてくれっ……味方は何処にいるんだ!?』
『――エンジン停止……脱出する!』
「…………」
「命拾いしたわね……あんた」
「…………」
「世の中って……不公平だよね」
「みんな、ああやって苦しんでるのに、勝手な行動を取ったあんただけこうやってのうのうとしてさ……!」
「…………」
「何とか言えよ。チビ」
「この、ま○こめ」
「――――っ!?」
有無も言わさず突き出された拳が、カズマの鼻柱を正面から貫いた。殴ると同時に後方に弾き飛ばされるかとマリノは思ったが、カズマは踏み止まった。真っ赤になった鼻、目を泣かせてもなお、カズマはマリノを睨み続けた。
「マリノ」
「…………?」
「おれは、臆病者なんかじゃない」
カズマは、再び歩き出した。早足で。
「おいっ、カズマ!」
気圧されるうちにカズマとの距離が開く。それがマリノを内心で慌てさせ、自ずと後を追わせた。
飛行甲板では、待機組の戦闘機操縦士が集合し、ちょっとした人だかりを作っている。集合しようにも命令が無いと次の行動に移ることができない。それが軍隊であるが、命令を下すべき当人は、自身がその権限を有する立場にあることをとうの昔に忘れ去っているように見えた。
人だかりの中央、ハンティントン配備の第184、097の両戦闘飛行隊を束ねる第105空母戦闘航空群司令クラレンス‐D‐ハッセル中佐の姿があった。航空図を片手に部下達と議論を交わしている様子を、カズマは人ごみの間から垣間見ることができた――背丈で優る操縦士の肩越しに飛び上がってハッセル中佐の様子を垣間見るというのなら、垣間見る、と言えるのかもしれない。
「――ディクソンが死んだそうだ」
「――どのコースを辿ればいい? どう飛ぶ?」
「――このコースはダメです。敵が待ち伏せている恐れがある」
「――私は母艦に残って航空団全般の指揮を執らなきゃいかん。だから君が一個中隊を連れて行ってくれ」
「――私はダメです。医者から飛行を止められてまして……」
議論が堂々巡りというより、責任回避に夢中であるように見える。わざわざ意を決するまでもなかった。人ごみを掻き分け、カズマはハッセル中佐の前に進み出た。まるで直立歩行するコアラでも見出したかのように、ハッセル中佐は自身より頭一つ分背丈の低い操縦士を凝視した。
「何だ貴官は?」
「司令、出撃許可を出してください」
「は……?」
驚いたのか、呆れたのか……釈然としない表情を浮かべ、中佐はカズマを見返した。
「こうしているうちにも、皆殺されていきますよ?」
「下手に空に出たら、敵機を補足するどころか、返り討ちに合うだろうがっ!」
中佐は語気を荒げた。目の前の若造に対して純粋に怒りを覚えたためではなかった。若者の発する静かなうちにもこちらを圧迫するような意気に、彼は内心で気圧されまいと虚勢を張っていたのだった。
「我々の任務はもはや敵を撃墜することではありません。味方を安全圏まで逃がして再起を図ることです。違いますか? であれば、攻撃機にも一緒に飛んでもらえばいい! 遠くから見ればジーファイターと区別が付きません。大編隊で押し掛ける振りをすれば敵も怯えて逃げます! 空戦もせずに済みます!」
「貴官はわたしが怯えているというのか!? レムリアンとの空戦を避けているとでも言うのか!?」
「だったら何で出撃しねえんだコノヤローッ!!」
「――――!!?」
中佐どころではなく、居合わせた全ての人間が言葉を失った。
「貴様……!」
「戦闘機乗りである以上、死ぬのが怖いなんて在り得ない! 自分だけではない、この場の皆がそうです! 司令、みんなで一緒に死にましょう。そうすれば誰もが我々に続きます。敵機敵艦に飛行機をぶつけてでもレムリア人をぶっ潰そうって者がたくさん出てくる。そうすればこの戦争には勝てます! 我々は英雄になれます! 歴史の教科書に載りますよ」
「無茶苦茶を言うな小僧!」
延びた手がカズマの襟首を掴み上げる。
「いや、坊やの言うことには一理あります」
「…………!?」
操縦士たちが声の主を顧み、そして一斉に硬直する。ハンティントン展開の第177空兵攻撃/偵察飛行隊隊長 セシル‐E‐“バット”‐バットネン少佐。その髭面が、微かに航空団司令を嗤っている様にカズマには見えた。
「坊やの言うとおり、うちのBDウイングを並べて押し立てて行きゃあ、レムリアンにははったりになるでしょうよ?」
「しかし……攻撃機だぞ」
「速度は劣るが、うちのBDは旋回性能はレムリアンのくそ戦闘機には負けんのですがねえ……それに、機銃が後ろにもありますし」
気が付けば、バットネンに付き従う積りか空兵隊の操縦士が彼の背後に集まり始めている。中には気の早いことに、飛行装具を身に付けている者すらいた。
「司令!」
「……わかった。出撃許可を出そう」
準備は早かった。発艦のために並べられたジーファイターの周囲はにわかに活気を増し、パイロット達は思い思いの機に身を滑り込ませていく。もはや建制も、編成も必要は無かった。整備員達の顔も心なしか明るい。自分たちが送り出した隊の陥っている苦境は、何もせずに聞くにはあまりにも辛すぎたのだ。何かせずにはいられない、やるせない気分が、戦闘機隊が飛び立っただだっ広い飛行甲板を覆っていたのだった。兎に角数の力で押し掛け、レムリアンを追っ払うということで方針は一致している。犠牲は出るだろうが、その犠牲の中に自分が入るかもしれないと考える者は、もはや艦内にはいなくなっていた。
搭乗の間際、カズマはバットネンに礼を言った。バットネンはただ歯を見せて笑い、言った。
「レックスのやつには少なからず貸しがあるんだ。先に死んでもらっては不良債権になっちまう」
鼻白んだカズマを凝視し、バットネンは続けた。
「ガダラの攻撃隊にももう話は通してある。おれ達が撃墜される心配はせずに、思いっきり暴れて来い。多数で編隊を組んでいる限り、おれたちはレムリアンにはそう簡単に食われねえよ」
「後席機銃があるから?」
バットネンは頷いた。「空兵隊には射撃の名手が多い。航空部隊の銃手も例外じゃないってことを、レムリアンに教えてやらんとな」
カズマは敬礼し、バットネンも答礼する。乗機に駆け出すカズマを見送り、バットネンはそれまで黙って飛行士たちの喧騒を見つめていたマリノを顧みた。
「まったく……ただの艦隊操縦士にしとくには勿体ない坊やだぜ。あれは間違いなく空兵隊向きだな」
「…………」
不機嫌そうに、マリノはバットネンから目を逸らす。その挙動に秘めたマリノの心中を察する必要性を、バットネンは感じていなかった。
ジーファイターの周囲で、整備員たちが主翼の展張に取り掛かっている。マリノは勢いを付けて主翼に飛び乗り、操縦席に組み付いた。装具を纏ったカズマはと言えば、操縦席に片足を突っ込み、今まさに腰を下ろさんとしている。
信じられないことだが、こいつの一声でハンティの雰囲気は一変した。ぽっと出の士官もどきのやることではなかった。一方ではそれを認めたく無くて、マリノは声を振り絞る。
「あんた、また昨日みたいなヘマやったら承知しないから……!」
カズマの足が、止まった。
「おう……!」
カズマは頷いた。至近で凄まれ、半ば気圧されたかのような表情は隠しようが無かった。間髪いれず、マリノの掌が勢いよくカズマの尻を叩く。「行ってこい」の合図だった。飛び上がるように、カズマは腰をシートに沈めた。
「ツルギ航空兵。準備よーしっ!」
マリノの声は、飛行甲板いっぱいに響き渡った。
――敵を優位な位置から見下ろすに当たって、指揮官の意図は一つしかない。タインの場合、それは次のような命令に集約される。
「全機へ、準備はいいか?」
編隊の最上層に位置するジャグル‐ミトラを駆るタインの口元が冷酷に歪む。返事は無い。もとより全員の意思は決まっている。
「狩りの時間だ……!」
それが合図だった。戦闘機は一斉に編隊を解くと、高度差から加速を付けて眼下の敵機へ突っ込んでいく。ジャグル‐ミトラはその優速を生かして一気に味方機を追い抜き、編隊の先頭に達した。地上人どもは?――
「――見苦しいぜ……!」
編隊を崩し、右往左往する一機を、ジャグル-ミトラの照準器は瞬時に捉えた。ネイビーブルーの太い胴体に白い識別帯を巻いた一機。気速度を生かして接近し、照準器いっぱいに左主翼を捉えた瞬間。タインはトリガーを引いていた。それが指揮官機であること――そしてそれを撃墜すことの重要性――を、タインは知っていた。
数発の太い光弾が主翼付根に吸い込まれた瞬間。炸裂する弾幕に主翼を折られた機体は急激なスピンに入り、綺羅光する破片を撒き散らしながら高度を下げていった。タインは知らなかったが、それは第097飛行隊長ディクソン少佐の機だった。
『――お見事。隊長!』
その頃には、タインはすでに二機目の獲物に取り掛かっていた。優速を生かし、スロットルを絞りがちに回り込んだ鼻先――そこで同じく数発でジーファイターのエンジンを打ち抜き、ガクンと機首を下げた機体は炎を上げ、錐揉みしながら眼下の雲へ突っ込んでいく。そのはるか上空を行き、新たな獲物に飛び掛ろうと横転の姿勢に入るジャグル-ミトラの翼端が、図太いベイパーを曳いていた。
バクルは混乱の中にいた。
小隊からはぐれた彼のジーファイターは何度もレムリア軍の戦闘機に食いつかれ、追尾をはぐらかすだけで精一杯だった。それほど敵は数が多く、優位な姿勢から攻撃をかけてきた。追うレムリア軍は狼の群れ、逃げるラジアネス軍は羊の群れだった。
乗機を左右に滑らせながら、バクルは背後へ眼をやった。炸裂弾の破片でキャノピーには穴が穿たれ、機体の所々が傷付いていた。二機のゼーベ‐ラナが彼の背後をしつこく追っていた。敵機の放つ機銃弾が白煙を引いて座席越しにバクルの鼻先を飛び越え、何度も機体を掠った。
『――助けてくれっ。敵機に食いつかれた!』
『――エンジンに被弾!……駄目だっ逃げられない!』
『――我燃料タンクに被弾。燃料漏れが激しい。戦場を離脱しカステルに向う』
レシーバーに入ってくるのは、情報というよりもはや悲鳴に近かった。機体を滑らせる操作を休めずに、バクルは眼下に広がる海原へ眼をやった。速度を稼ぐため下へ逃げるという方法は、そろそろ限界に近づいていた。下手に機首を下げると海面に激突する。ジーファイターの高度計はそういう高度を指し示していた。港を守るという当初の目的が誰にも達せ無いことはもはや明らかだった。
眼を凝らせば、黒煙を曳く機。炎に包まれ、破片を撒き散らしながら力なく高度を落としていく機。一度に数機の敵機に追われ反撃もままならない機――それは全て味方のジーファイターだった。
ポート‐カステルを我が物顔で飛び交う敵編隊に攻撃を掛ける直前。バクルはディクソン隊長に具申していた。
「隊長。一個小隊を後方に残すべきです」
『――何を言ってる少尉?』
「後方から襲ってくる敵に備えるべきです」
『――後方? そんなところに敵はいない。敵は眼の前にいるじゃないか』
「しかし……!」
『――レムリアンの戦術に詳しいからといっていい気になるな』
「…………!」
バクルを無視するかのように、ディクソンは一気に増速した。他の機もそれに習う。バクルにとってその遣り取りは部外者としての自分の位置の脆さを再確認した瞬間でしかなかった。
結果として、自分は正しかった。だが……もう遅い。バクルは唇を噛み締めた。海は眼前に迫っていた。ジーファイターはすでに海の上を滑るように飛んでいたのだ。照りつける太陽と地上の気温でジーファイターのコックピットはいつの間にかむっとする熱気に包まれていた。額からだらだらと零れ落ちる汗に、バクルは眉を顰めた。なおも追いすがる光弾が水面を弾き、風防ガラスには飛沫が飛び散った。
もう駄目か……疲労に軋む腕に入らぬ力を込めたまま、バクルは心中で唸った。ゼーベ-ラナ特有の雷鳴のようなエンジン音をシート越しから聞き取れるほど、敵は背後に接近していた。距離を詰めて止めを刺すつもりなのだと、バクルは直感した。
そのとき、カズマはバクルの姿を見出した。




