第二章 「工廠」
……立ち上る蒸気のはるか向こうには、これから立ち上る朝日を背に、いまだ薄気味悪い闇に染まったビルディングが林立する何かのまじない塔のように、天空へ向かって群れていた。
各所の設けられたあるものは格子状、またあるものは喇叭状の排気口。そして通気口から湧き上がる得体の知れない蒸気の臭いと、くねくね曲がり絡み合った金属パイプの束が発散するオイル臭が自然の、かつ奇怪な配合でミックスされ、それはやがて、かろうじて受容できる程度の無機系の悪臭となって建造所を行きかう工員たちの嗅覚を責めたてた。
ひっきりなしに続く、火花を立てながら金属を切断する音……そそり立つ絶壁のような建造中の船体に、規則正しい間隔でボルトを打ち込む槌の音……船渠ごとに一組ずつ据え付けられている巨大なガントリークレーンが稼動するたびに、さびに覆われ、いかにも長年にわたって使い込まれたように思われる繋ぎ目から発せられる轟音。何処からともなく聞こえる推進用機関の試運転の音。周囲の喧騒をかいくぐって聞こえてくる工員たちの話し声――音はまた、この世に存在するあらゆる事象に、それ特有の独特の雰囲気を持たせる上で重要な役割を果たしているものだ。ここサン‐ベルナジオス造船所もまた例外たり得なかった。
サン‐ベルナジオスは現在、未曾有の造船景気に沸きかえっている。
とにかく、造れば売れるのだ。今から二百年近く前の航天暦一五世紀後半から現在に至るまで、世界を支配した浮遊大陸開拓熱を背景に沸き起こった膨大な船腹需要を満たすべく創立されたこの造船所は、今や悲鳴のように殺到する政府軍艦船の建造注文を捌くために、さながら大量の資材と人員を飲み込んだ不夜城と化していた。造船所二百年の歴史のどこを引っ掻き回しても、ここがこれほど忙しかったことは無かった。それはまた、ここから何千、何百空浬も離れた別の造船所。もっと言えばラジアネス中央政府に属する領域中の造船所でも繰り広げられている光景であった。
航天暦一八六六年、ラジアネス中央政府軍は、アレディカ戦役において「天空の先住者」たるレムリア同盟軍に大敗した。かつて世界の全空域にその威容を誇り、ラジアネスの名の下の平和を、武力の面で担保する支柱的存在であった航空艦隊は再起不能の大打撃を受け、少なくとも、あと一年はまとまった艦隊作戦がとれない状態にある。アレディカ戦役以前には三二隻あった主力戦艦の内、健在なものは損傷の修理、もしくは改装中でドッグ入りしているものも入れてわずか九隻。あとは総てアレディカ戦役とそれにつらなる戦闘で失われ、その埋め難い穴を埋めるべく、艦隊司令部及び中央政府航空軍総司令部は練習艦隊で余生を送っていた旧式戦艦や、退役しスクラップ寸前の艦まで引っ張り出して戦力の建て直しを図っている。
戦艦だけに留まらず、再編におおわらわなのはそれが所属する艦隊とて同じだった。
アレディカ戦役に動員されたのは航空艦隊司令部の指揮下に置かれる正規八個航空艦隊の内六個艦隊。しかし、周知のように戦闘自体は艦隊の惨憺たる敗北に終わり、かろうじて戦力としての体を成して帰還し戦力再編の対象となった第一、第三艦隊を除いた四個艦隊は戦役終結後解散した。彼らが被った損害はそれほど大きく、再戦に臨むにはまだ時間が必要であった。
したがって、航空艦隊司令部は新たな戦力編成に取り掛かった。戦役前から温存されていた第二、第六の両艦隊に、解散した四個艦隊の残存艦を振り分けて再編強化を急ぐ傍ら、旧式艦主体の練習艦隊を第一予備警備艦隊に改称して実戦部隊に加え、さらに前述の四個艦隊に替わる新たな艦隊創設を急いだのである。ここで重要な意味を持ってくるのが「バレンタイン‐プラン」であったのだ。
「バレンタイン‐プラン」とは民間船建造に当たって国防省が建造費の四十パーセントを負担し、その見返りとして有事には軍事目的への転換を認めさせるという計画だ。もちろん、軍事目的への転換を容易にするため、設計段階から民間サイドと国防省サイドである程度の調整が為されることもあった。つまり少しの改造で有事にも使えるような「つぶしの効く」船を造らせるのである。一種の戦時急造計画とも言える。
これはもともとアレディカ以前から実行されていた計画だったが、アレディカ以降には別の面でも重要な意味を持つようになった。戦艦、巡洋艦のような主力艦に比べ構造が単純で、安価な駆逐艦、哨戒艦の大量建造、配備が、「バレンタイン‐プラン」の一翼を担うようになったのである。戦力の充実云々というよりも、ただ数をそろえることこそが現在の艦隊司令部の至上命題だった。
だが、ここでもうひとつの問題が発生する。それは新しく軍艦を建造して配備するよりもはるかに重要で、かつ困難な問題であった――つまり、艦を動かす人間が足りない。人材が払底してしまっている。
なぜか?――これもあの忌まわしいアレディカ戦役のなせる業であった。未曾有の敗北は多数の軍艦もろとも、大量の人命を戦場となった空のかなたに飲み込んでいったのである。特に艦を運用する上で必要不可欠な技術士官や上級士官の数が足りない。したがって、そのしわ寄せは本来軍事面とは何の関連も無い分野にやってくる。それが戦争というものだ。そして近代の戦争の勝敗は社会において、戦争による負の効果を受容できる余裕の有無によって決まるといってよい。
今朝早く、サン‐ベルナジオス造船所の土を踏んだアベル‐F‐ラム中佐は、そんな「しわ寄せ」の生きた実例とも言える。元来南コールネア航路を往く豪華客船の副船長をしていた彼は、アレディカ戦役直後に召集を受け、短期の練成教育を経て艦隊中佐に昇進した後、ここサン‐ベルナジオス造船所で艤装が進行している新型艦の艤装委員長の辞令を受けてやってきたのだ。艤装委員長は、艦の艤装がある程度進行し、無事就役の運びとなればその地位は半ば自動的に初代艦長へとスライドする。それでも情勢は商船学校出の即製高級士官にとって、喜ぶべきことか否か、未だ判断の材料を持たせることは無かった。
彼を乗せた車が、事務所からこれから彼が指揮を執ることになる船が横たわる船渠まで行くのに一〇分の時間を要した。それほどこの造船所の敷地は広い。ちなみに桟橋とは言っても、そこに海があるわけではない。第一、造っているのが空中を航行する「船」であるから、完成すればただ上にあげればいいだけなのである。つまり「進水」ではなく「進空」させるのだ。
建造技術、材料技術の発達、さらに浮遊力の発生源たるフラゴノウム反射炉の高効率化によって従来より大量の物資、人員の輸送を可能とした大型航空船の建造が本格化すると、それまで航空路と大陸間の主要な輸送手段を二分してきた船舶による海洋航路は徐々に縮小し、衰退していった。したがっていままで航洋用の船舶を建造していたところは事業転換か倒産かの二者択一を迫られ、その大部分が航空用船舶の建造所として生き延びる途を選んだ。
空路を使い大量の物資と人員の輸送が可能になったという事実は、陸上交通においても当然革命的な変化をもたらし、それは一方では陸続きの国家、共同体間の急速な統合をもたらす結果を生んだわけで、「空の路は並べてラジアネスに通ず」とは、翻って見ればラジアネスによる急速な地上世界の統合が、空路開拓事業の拡大無しには有り得なかったことを端的に示す言葉と言えよう。
「あれが『ハンティントン』ですよ」
横たわる巨大な鋼鉄の塊を、車を運転していた職員が指差した。船体を覆った艤装用のビニール袋の端々から、迷彩を施された船体やひときわ大きく聳え立つ煙突がのぞいていた。傍のクレーンが、船に備え付ける高射砲を抱えていた。艤装中の船内から漂ってくるオイルやシンナーの臭いが、車から身を乗り出したラム中佐の嗅覚をわずかに刺激した。
アベル‐F‐ラムという人物に軍人的な要素を見る者は少ない。元来商船乗りであった彼は、四〇代半ばの年齢を感じさせない、常に若々しい、それでいて物静かな印象を発する男で、その紳士的な立ち居振る舞いとあいまって女性の人気も高かった。そんな彼に軍艦の艦長としての未来も、離婚経験者としての過去をも感じ取る者はまず皆無であろう。
「中佐はタバコをお吸いになりますか?」
「いや……」
「それは賢明です。何せこんなところで吸っては引火を起こしますからな」
自分で作った冗談がよほど面白かったのか、案内の職員は爆笑した。
作業が完了していない船内では、無造作に置かれた資材の切れ端や配線の完了していない導線が散乱していた。それらに足をとられないよう身長に歩を進めると、五分ほどで恐ろしく広い、がらんどうとした場所に出た。もし案内の職員なしではとてもこうスムーズにそこへ出ることは出来なかったであろう。それほど船内は複雑に入り組み、迷宮のような歪な広がりを有している。
船内を貫通するように設けられた広大な空間。この空間が存在するという事実を取り上げるだけでも、コンテナ貨物船を改造したこの艦が、いかなる目的を持って作られたかがわかるというものだ。
「ここが格納庫です。中佐」
「ここから、発進するのかね?」
一通り周囲を見回して、前方に向かって矩形にうがたれた射出口に眼を留めたとき、ラムはそう呟くように言った。
「艤装は未だ終わっていませんが、空母としてはもう十分使えますよ」
「そうみたいだ」
「しかしお気の毒ですな艦隊さんも……ああもこっぴどくやられては必死になるのも無理はない」
「つい去年まで私には関係ないことだったんだが……」
「…………?」
職員の訝しげな顔をよそに、ラムは射出口へ歩み寄った。ラム自身は気付かなかったが、彼はラムをごく普通の「女泣かせの艦隊士官」と思い込んでいたのだった。
格納庫の床を兼ねた飛行甲板の端からは、とてもすばらしいとは言えない、煤と錆に、そして煙にまみれた造船所の全景が一望できた。格納庫の側面が閉鎖されず一部に巨大な開放口を残してあるのは、その方が物資や機材の搬入に便利である他、上甲板を貫通した爆弾の炸裂時に発生する衝撃波を此処から逃がし、艦体への負荷を出来る限り抑えるという意図に基づいている。その開放口から臨む足元からは、ドッグの底を行きかう工員の姿が、蟻のように細かく見え、眼がくらみそうになるのをラムは必死に堪えなければならなかった。大きな、黒い影がラムと彼が立っている「ハンティントン」の飛行甲板を横切ったのはそのときだった。
「連絡船……?」
そのみすぼらしいが、見覚えのある姿を見上げながら、ラムはふと口を漏らした。後を追ってきた職員が言った。
「あれは……『奴隷船』ですな」
「奴隷船……とは?」
「工員の輸送船のことですよ。そろそろ交替の時間らしい……」
推進器の発する振動に、湧いた赤錆をぼろぼろ落としながらゆっくりと桟橋に降下していく連絡船の後姿を、ラムは拍子抜けしたように見送った。
「さあ降りろ野郎ども! 休憩時間は終わりだ!」
接舷を知らせるベルが鳴ったのと、現場監督の怒声が響いたのとは同時だった。とうの昔にドアの欠落した入り口から、ヘルメットと薄汚れたシャツに身を包んだ工員達が、口々に不平を漏らしながらぞろぞろと桟橋を渡っていった……それも連絡船の収容人数をはるかに越えた数である。
アレディカ戦役に伴って高騰した造船需要は、当然雇用の大幅な創出という経済効果をも生み出していた。少なくとも、戦争が終わるまで当面この状況は続くというのが大方の経済筋の見方であった。また、そうした傾向は何も造船分野にもとどまらず、兵器はもとより自動車、衣料、金属、天然資源など、およそ戦争の遂行に関連するあらゆる産業分野に広がりつつあった。一方で、戦時における「労働力」の需要と供給の法則の一致は一般社会のみならず、戦争を遂行する上での「現場」つまり軍隊でもみられるわけで、愛国心の有無に関わらず軍隊への志願者数もまた、ここのところ増加傾向にあるのだった。
「カズマ! 何ぼさっとしてる! さっさと降りねえか!」
監督が一人の工員を怒鳴りつけた。カズマと呼ばれた工員は、一言も発せずにうなずくと、そそくさと「奴隷船」から桟橋へ飛び降りた。軽妙な早足で桟橋のコンクリートを踏締める小柄な背丈の青年。その顔立ちは未だハイスクールに籍を置いているのではないかと思われる程初々しく、細身の体躯をすっぽりと包む作業服の着こなしもぎこちなく見えた。
「おめえは俺について来い」
カズマという名の工員は控えめな笑みを浮かべ、頷いた。現場監督は以前、この一見華奢でこの場には不相応な端正な顔立ちの新人工員に危ないところを救われたのだった。それ以来、彼はカズマをそばにおいて離そうとしなかったのだ。
現場監督は、すでに四〇年この造船所で働いている。家庭の経済的事情からハイスクールを中退し、日雇いの一工員から腕一本で現場監督の地位まで上り詰め、なおかつ二人の息子を大学にまで行かせたことが彼の自慢の種だった。彼が、どこかの聞いたこともないような浮遊島にある村から出てきたというカズマという名の若者に特別眼をかけているのも、この若者が自分の息子達とだぶって見えるためかもしれなかった。
自分の身を助けただけでなく、その外見からは想像できないくらいよく働くという点でもカズマは監督に眼をかけられる存在であった。一番遅くまで現場に残って働き、きつい作業にも率先して参加する一方でその手際の良さは熟練の工員をも手放しで感心させた。病気で働けない工員の頼みも快く聞いて当人の分も作業に参加し、やり遂げたときに至っては、もはや多くの工員が彼を単なる日雇いの坊やと見なくなっていたのだった。
たいていの工員が酒と女の話にうつつを抜かしている食事時も、カズマだけは黙って航空船の図面を眺めている。時には図書室に在って、航空工学に関する専門書は元より航空機の図面やエンジンの構造図などに見入っている姿も散見されていた。この種の工場に良くいる「勤労学生」というやつだろうか……とある熟練工が、食事の席でそれとなくカズマに聞いてみたことがある。
「おまえ、図面が読めるのか?」
「いえ……まだ勉強中で」
「じゃあ飛行機は? 図書室で結構好きそうに見ているじゃないか」
「実家に飛行機があるんです。どうせならば自分で修理しようと思って……」
カズマという名の工員の言葉は、あっけらかんとしたものだった。
「奴隷船」から降り、カズマは徒歩で持ち場へと向かう。現在艤装作業中という政府軍の航空母艦、その船体の内装工事が今日と言わず当面のカズマ達に与えられた仕事であった。配線の手を休めることなく、カズマは現在自分のおかれた状況についてあれこれと思案を巡らせている。そのまま二時間が過ぎて小休止を迎え、疲れ果てた工員たちが艦内の思い思いの場所に腰を下ろして談笑を始める。カズマの足は彼らの環から離れ、仕事場の艦橋位置にまで向かう。「ハンティントン」の艦橋から臨む造船所の全容がカズマは好きだった。艦橋の右端、艦橋の指揮所全体を見渡せる椅子にカズマは深々と腰を下す。恐らくは艦長専用の椅子なのだろう。被せられたビニールも真新しく、同時に塗料や薬品の刺激臭が嗅覚を擽る。シートを降り、小休止終了のベルを聞きつつ持ち場へ戻る間際、ふと振り返ったカズマの眼差しはそこから保護テープが張られたままのガラス越しに、ドッグの直上を覆う重い曇天へと向かう。「違った空」を凝視する内、濁りきった空の景色に、カズマの晴れぬ思いが重なった。
『おれは、一度死んだ……ことになるのだろうか?』
二ヶ月前のこと、ツルギ‐カズマ――弦城 数馬はこの世界にやってきたのだった。人智を超えた何者かの力によって、戦闘で負傷したカズマとその愛機が流れ着いた先は、カズマが今まで見たことも聞いたこともない、背筋を振わせる程の奇妙な世界だった。
空に浮かぶ島……空を飛ぶ船……地上から天空にまたがる全世界を支配する統一政府の存在……まるでカズマが子供の頃、夢中で読んだ「少年画報」や「少年倶楽部」に載っていた空想科学小説でしか見たことのないような世界が、カズマの眼前に次々と飛び込んできては、走馬灯のように向こうに消えていった。そのあとに残されたもの――ぬぐいようのない隔絶感と虚無感は、やがてカズマの胸中で自分の置かれた異様な世界で生きる決意に取って代わった……いつの日か、生きて祖国日本に戻るための。
幸いにも、不時着に適した陸地を見付け、そこは人里離れた山間部でもあった。傷付いた紫電改を隠した上でカズマは山奥から街へと出る。生を繋ぐ宛ては不安に反してすぐに見つかった。辺境の街中であってもそれとなく感じられた「戦争」の空気が、素性の知れない若者ですら職にありつける道を開いていた。
この世界には何処にでもいる「渡り」の工員という、その真偽すら一顧だにされない、だが数だけは揃えるのに丁度いい身分。造船所の工員として飛行軍艦の躯体にビスを打ち、あるいは溶接機を向ける日々の始まり――カズマは造船所に工員として潜り込み、そして勤める傍ら、出来る限り突如自分の放り込まれたこの世界について、さらに情報を集めようと試みた。その結果として、カズマはひとつの感慨にも似た思いに行き着いたのだった。
『この世界にも、戦争があるのか……』
レムリアとか言う、この世界に突如出現した勢力の軍隊に政府軍が大敗し、そのレムリアは戦勝の勢いを駆って各地の天空植民都市に対して侵略を繰り返している。しかし大打撃を受けた政府軍は戦力の建て直しと防衛線の構築に手一杯で出反撃する余裕もない、といったこの世界の一通りの状況をカズマはすでに知っていた。
しかしそんなことは実のところカズマにとってどうでもいいことだった――少なくとも現在の段階では――むしろ、この世界でも、戦争で死ぬ人間がいる。そういう意味では、自分はまだ死んでいないのだ……そう思えばなんとなく、いずれ日本に帰れるかもしれないという希望も湧いてくるというわけだった。カズマは、自分はこの世界ではあくまで「異邦人」とも言うべき存在であって、したがってむやみにこの世界のことに関わるのは避けたいと思っている。それに、少なくともまともに働けば食べていけるという点では、この「異世界」も自分のいた世界と同じだったし、当のラジアネス政府軍が基本的に志願制とあっては戦争に引っ張り出されて死ぬ心配をしなくてもいい。
だが――
――俺のいとこも艦隊に志願したよ。
――俺の友達はアレディカ戦の帰還兵だ。あすこでは散々な目にあったらしい。
――製図部のほうから一人空兵隊に行くそうだ。
耳を欹て無くとも、食堂、休憩所、シャワー室など、造船所内のあらゆる場所でそのような会話が聞こえてくる。話の出処は同僚の工員達だった。戦争の推移が日常の世界に影を落としてゆくという事実は、この世界でも変わらない。そういえば、今自分が工事に参加しているこの船も、進空してまもない艦隊の航空母艦なのだ。現場監督も、この先軍艦の建造がさらに多くなるだろうと言っていた。事実早出や残業という形で造船所内での拘束時間はうなぎ上りに増えている。それに比してきちんと給料を貰えるというのはもちろん嬉しかった……できれば紫電改の修理が完成するまでに、こんな日々が続いていて欲しい――かといって、どうやって帰るのか、という点では未だに拭えない焦燥を覚えることがある。更に二時間ほど続いていた作業は、小休止を告げるベルによって中断され、カズマは進空の暁には士官食堂と呼ばれることになる広大な区画で、同僚と共に暫しの休息に入った。
「カズマ、調子はどうだ?」
不意に、カズマを呼ぶ声がした。現場監督だった。カズマの同意を求めることをせずに、カズマの隣に腰掛けると、彼は続けた。
「カズマ、ここはいい職場だろう?」
「ええ……まあ、ね」
「仕事はきついが、地道に働けばちゃんと稼げるし、頑張ればいずれはいいポジションにだって就けるんだ。俺みたいにな。それに、戦艦や輸送船を作るのも国のために働く立派な仕事のひとつだ。そうだろう?」
「そうですね……」監督の言葉の後半部分が、何となく気になった。監督の独白にも似た言葉は続いた。
「……それなのに、俺の息子は大学を休学して空兵隊なんぞに志願しやがった……大学で遊んでいればいいものを、何が悲しくて戦争なんかに首を突っ込むのやら……俺は息子を兵隊にするつもりで大学にやったんじゃないんだ。先に艦隊に入隊した息子の友達の中には戦死した奴もいるってのに……」
「…………」
監督の口調が、わずかだが怒りの色を含んでいるのに、カズマは気付いた。それが何に対する怒りなのか、彼には何となくわかった。
「カズマ、おめえはまだ若い。血気にはやることもあるだろうが、命あっての物種って奴だ。名誉なんか追い求めなくとも生きてまじめに働いてさえいればいいことがある。カズマ……俺の言いたいことは、わかるよな?」
カズマは無言でうつむく……確かに、彼の言うことはわかるのだ。ただ、日本にいた頃と打って変わり、平穏そのものの現在にひとり佇んでいるという戸惑いが、今のカズマにはある。
作業の大部分が終了する頃には、日はすでにその一端を地平線のかなたに触れ、一層紅い輝きを増しつつあった。作業の最中、通気口に身を横たえながら、浸透するように眼に映る落日のかもし出す余韻と、それに照らされる造船所の林立する煙突、クレーンの作り出す光と影のコントラストに満ちた荘厳な光景に、カズマはただ無心に囚われていた。いつの間にか、カズマの組の終業を知らせるベルが、船内に鳴り響いていた。
「カズマ、今日の作業はもう終わりだろう? よかったら晩飯を俺んとこで食べていかないか」
「いえ……自分は残業がありますから」
「そうか……頑張りすぎると体に悪いぞ。ほどほどにな……」
作業が終わり、監督とこのような会話が交わされた後、カズマは出入りする工員に染み付いた汗と油の臭い、そして無数の話し声と隣接する調理場の発する蒸気と食物の匂いに満ちた工員食堂にいた。食事の後、また二時間程他所の区画の応援に行って、それからシャワーを浴びて帰る。丁度明日から週末に入る。週末には山間部へ向かい、秘匿した紫電改と共に過ごすのが彼の習慣のようになっていた。
食堂は見渡す限りの全てが油や脂で黄色く染まり、あるいは黒ずんでいた。換気扇の羽根が時折乱調気味に唸っては静まり、緩慢に回る天井扇は食堂内に冷気の循環をもたらすどころか食堂に滞留し続ける濁った空気を悪臭と共に掻き乱す程度の効果しか与えていない。造船所の敷地外に出ればずっと人並みな環境下で飯が食えるのだが、当然値が張る。紫電改の補修という目的を持って給料を貯めているカズマの脳裏から、外食は選択肢として半ば自動的に外されていた。
隅に置かれた巨大なラジオ受信機からは、くたびれたコイルスピーカーを通じて、没個性的なアナウンサーの声が空電音交じりに国防省を通じてもたらされる戦況を伝えていた。
『――四日未明、大型輸送船七隻、駆逐艦三隻、護衛駆逐艦四隻から成る、前線への補給物資を輸送中の艦隊の輸送船隊が、レムリア軍攻撃機の波状攻撃を受け、全滅しました。政府軍の生存者数は現在不明――』
『――統合作戦本部は本日午後四時を持ってコーラム島に展開する空兵隊の撤退を決定。撤退作戦は――』
『――レムリア軍の侵攻に伴う植民市からの避難民は増大の一途をたどり、各地に設営された難民キャンプの収容能力が限界に達しつつあることが政府の発表で明らかになりました。政府は新たに一二箇所の新設を決定し――』
誰かが、選局用つまみを回した。しばらくの雑音を経て、堅苦しいアナウンサーの声が一変し、やがて明るい女性の声での歌謡曲に取って代わった。
『――明日は楽しいデート
寝る前に少しおめかしをしたの
うっすらと塗った口紅が
きれいねと鏡の向こうの私が
語りかけてきそうな雰囲気に
私は眠気をわすれたわ――』
メニューの配膳を待つ列に連なったまま、カズマは何時しかラジオから流れる歌謡曲に聞き入っていた。高い、コンクリートむき出しの天井から無造作につるされた薄暗い電灯に、細かい羽虫が群がっては、その周りをくるくる回っていた。こんなところに、一流レストランはおろかファミレス並みの水準の献立を期待するのはまず無理であろう。が、食物に関しては質より量を重視する嗜好を持つ者が大半を占める造船所の工員連中にとって、そんなことは別にどうでもいいことであった。個人的な感想を述べれば、肉体労働に従事する者向け応分の塩辛さがカズマの舌に合わない……それでも、無表情に眼前に盛られた惣菜を取りながら、カズマは室内の掲示板に何気なく眼を走らせた。日常の業務連絡や事務的取次ぎ、当たり障りのない標語のほか、新しい張り紙が、そのときカズマの眼に入った。その張り紙は、カズマの手と足を止めた。
『ラジアネスは、君を求めている!! 今すぐ艦隊へ、空兵隊へ、航空隊へ志願しよう!!』
黄ばみ、隅がぼろぼろになった造船所の張り紙と違い、「国防省発行」の押印がなされたそれは、紙質からして明らかに違っていた。周囲には、興味を持った若い工員が二、三名集まって張り紙に見入っていた。もっと見ようと眼を凝らしたときに、後ろが詰まっているのに気付いてカズマはいそいそと列から離れた。盆を抱えて掲示板の前に立つと、下段に細かい字で詳細が記されていた。その中で航空隊の項目にある一節にカズマは気付き、目を凝らした。
『モック‐アルベジオ航空基地 新兵教育隊開設 志願兵募集
待遇:三か月の訓練課程を経て一等兵に任官 以後一年ごとに契約更新
職種:基地警備、航空機整備、航空機操縦、艦船勤務』
「へぇー……」
思わず、口に出た。悪くない話のように思えた。まる五分間、カズマは掲示板の前に立ち尽くした。職種に操縦があるのならば、この世界で飛行機の操縦桿を握るのもいいかも……という思いが頭を過ぎる。しかしそれは、最悪この世界での戦いに巻き込まれることに繋がるだろう。それが戦争であり、軍隊というものだ。
戦争に於いて全ては、それに関わる個人の意思を越えて進行するものであることをカズマは実体験から知っている。すぐに醒めたカズマの一方で、ポスターの文章に見入るカズマと同年代の若者たちに至っては、気が早いことに自分なら戦闘機操縦士になるだの、自分は艦船勤務の方がいいだのと、未だ見ぬ将来について気が早くも話を始めていた。軍隊に入り、軍艦に乗れば、工場にいるよりも同年代の他者に語れるだけの多くを見聞きすることができる。だからこそ――この世界に限らず――多くを持たない若者は軍隊を目指すのだ。彼らが死を恐れないのは、戦場に於いてまさか死神が自分の肩に手を掛けるとは思っていないからという、只それだけである。
「…………」
距離を置いて暫く彼らの様子を伺った後、カズマはトレイを手に掲示板を後にする。若者が軍隊に興味を持つだけの経験を、戦争の現実と共にカズマは今では遠くなった世界で、痛いほど味わっている。その点では、カズマはこの工場にいる同年代の若者以上に世間を達観しており、そして戦争に関わる宣伝というものに対し冷淡だった。あるいは、仕事が終わったら直ぐに家に帰って、朝早くに「隠れ家」へ向かうためのバイクの整備をして――戦闘以外のことで色々と思考を巡らせることに、それまで遊ぶことを知らなかった若者は新鮮さを抱きつつあった。
「市役所、造船所、学校、考えられるすべての場所にポスターを貼ってきましてね、おかげで新品の靴がだいぶ磨り減りましたよ」
「俺んとこなんか学校に入るのを断られたぜ。うちの生徒からは一人たりとも戦場には出さないってさ」
「君んとこなんかまだいいよ。俺なんか卵投げつけられたぜ」
「大体いまどき好き好んで戦争に行くような若者なんかいるのかねえ……東の町なんかボーイスカウトと間違えて入隊した馬鹿がいたらしいぜ」
深刻な内容ではあるには違いないが、当の広報担当の下士官達の会話はその様子からして談笑の域を出ていなかった。
背後にサン‐ベルナジオス造船所を抱える町、サルトンクに設けられた中央政府軍地方連絡本部の休憩室。冷め切ったコーヒーカップを片手に、アベル‐F‐ラム中佐は下士官達の会話を聞いていた。
下士官の一人が言った。
「ところで、聞いたか?」
「何を?」
「今、パイロットが足りないそうだ。特に艦隊の……」
「艦隊のパイロットは高度な技術がいる。着艦は必修だろう。しかし腕があるパイロットは皆アレディカで殺されちまったからな、どうなることやら……」
「特に今向こうで造ってる空母に乗せる飛行隊なんか絶望的に人間が足りないらしいぜ」
「その話しは聞いたなあ、だからあちこちからかき集めているんでしょう? 一応操縦できる奴を……」
「艦隊じゃ基礎訓練からやらなきゃならんだろうってんで艦隊教育隊の教育要員を引き抜いたり、空兵隊辺りから鬼教官を連れてきたりと、大変らしいな」
「うちにも定期便のパイロットをやってるって奴が一人志願して来たが……何せひどいデブでね、対応に困ったよ。しかもそいつは戦闘機に乗せてくれないと嫌だっていうんだぜ?」
そのあとに続く下士官達の爆笑に、いままでじっと聞いていたラムは内心頭を抱え込んだ。ただ艦の指揮を執るまでならまだしも、空母の性質上将来配属されてくるであろうそのような連中の面倒をも自分が見なければならないのだろう。だいいち航空機の操縦はおろか艦隊での勤務経験もない自分が、航空母艦という艦隊の主力艦の指揮を任されたこと自体間違いなのだ。
なんてことだ……
ラムは、窓から広がる町の夜景に目を向けた。単なる地方都市に過ぎないサルトンクに訪れる闇の広がりは早い。そんな窓の向こうの闇が、まるで自分とハンティントンの行く末を暗示しているかのようにラムには思われた。
これで……戦争に勝てるのか?