第一章 「ダルファロス」
「戦術は戦略の婢なり その逆は有り得ず」
――-A-N-ラファン (ラジアネス艦隊少将 戦略家)著 「空洋権力史論」より――
「いかに優れた戦略も、訓練された兵力と充実した兵站なしには実現され得ない。
だが、戦略なしにこれらを徒に遊弋させることほど戦略にとって危険なことはない」
――D-K-デュカキス (政治家 歴史学者)――
「指揮官の人格と用兵手腕は必ずしも比例の関係にはない。
むしろ――遺憾ながら――反比例している場合が多いのである。」
――S-R-セルヴィック (空兵隊中将)の、彼の友人に宛てた手紙より――
白みかけた空の彼方から、リューディーランドからコムドリアへとゆっくりと流れ行く雲々の輪郭が次第にその全容を顕す頃。その中でひときわ大きい、隆々とした雲の真只中にレムリア艦隊は身を潜めている。
その中の一隻――レムリア軍 南大空洋方面機動部隊旗艦「ダルファロス」が、その制圧下においたフレスル諸島を脱し、層雲の中にその巨体を投じてすでに一週間が過ぎていた。
数々の戦役を経た結果に熟成された卓越した航法技術と、変幻自在かつ過酷な空に生きる民としての経験の結晶―― 一切の視界の利かない雲中に潜み、敵地への浸透を図り、さらには敵の予測し得ない空域から奇襲攻撃をかけるのはレムリア艦隊の御家芸のようなものであった。浸透と言えば口にするのは容易いが、閉ざされた視界から雲の流れ、風の流れを読み、自艦の位置を測るのは容易なことではない。その上さらに天候、太陽の位置、自艦の姿勢保持など様々な要素が加わり、雲中の航法は一層困難なものとなる。伝統的に雲中航行を危険なものとして避ける傾向にあるラジアネス艦隊では、まず考えられないことだ。
推進器はずっと回転音を抑えたローヒッチに保っている。舷窓は灯火管制によって全て塞がれ、ここ数日の間、コムドリアへ向う偵察機以外に離着艦は行われていない。
――そして、艦内。
灯火管制の下、薄暗く照明が保たれた格納庫ではここ数日の間、翼を休める艦載機に取り付き、装備や武装を満載したカートやクレーンを操る整備員の姿は目に見えて増えていた。間近に迫った作戦行動の発起が休養――待機――配置のローテーションを狂わせ、結果として彼らを緊迫した整備作業に駆り立てている。
ただし、疲労の色が濃い整備員達の労苦が報われるまであと僅かの時間を残すのみであった。「ダルファロス」だけではない、同じく雲中に紛れ、周辺を航行している大小の各艦の格納庫でも、同様の光景が繰り広げられているはずであった。
「ダルファロス」の右舷、空浬にして目算5~7といった距離を置き、鋭角的な艦影が過った。靄のような薄い雲の向こうで幾つも蠢く艦影と真白い軌条の連なり。旗艦たる「ダルファロス」を護衛する直援艦隊を構成する巡洋艦と駆逐艦の群だ。それらもまた、艦橋から相互に光を瞬かせて意思の疎通を続けつつ、時折艦首部より搭載機を発進させ、あるいは前方警戒より帰還を果たした搭載機の収容に終始している。その本隊よりさらに数十空浬を置き、外周を固める戦隊と支援部隊が雲海の只中を遊弋している。かの「大祖国空戦」、それに続く植民都市攻略戦以来の、それは重厚な陣容であった。
巡洋艦以上の艦艇に少数機の観測機程度しか搭載していないラジアネス軍の主力艦艇と違い、レムリア軍の駆逐艦以上の艦艇は何れも五機以上の実戦機を搭載することができる。空中に浮かぶ航空基地とでも言うべき性能を持つ艦船を戦域に多数配備、展開しているところに緒戦を制したレムリア軍のハード面での優位があった。
しかも、駆逐艦から戦艦クラスに至るまで、基本性能ではレムリア軍の艦艇はラジアネス軍のそれを明らかに凌いでいた。個々の戦場においてレムリア艦は同級のラジアネス艦に比して火力、速力、運動性など様々の面で圧倒的な優位を発揮し、レムリアの軍と民に多くの勝利をもたらした。空母「ダルファロス」にしてからか最大二百機の実戦機を搭載し、個艦としての火力はラジアネス軍の通常戦艦に匹敵する。
――空母「ダルファロス」の艦橋。
巨大な窓から望めるのは、立ちはだかる雲の織り成す未だ果てしない闇。広大な防空指揮所もまた闇に覆われ、個々の計器の発する光と、配置に付く多数のオペレーターや連絡士官の蠢く影と話し声が、制限された視界の中に艦内の機能美と静寂を一層際立たせている。
「司令、まもなく夜明けです」
作戦が始まって三代目の飛行長の報告を、セルベラ‐ティルト‐ブルガスカは長大な指揮シートに身を沈めたまま無感動に聞いていた。つい数日前まで艦橋の一席を占めていた筈の前飛行長はすでに更迭されていた。セルベラがわざわざ手を下したわけではなく、持病の胃潰瘍が悪化して後送されたのである。物理的というより精神的な負担が、彼の持病の悪化に拍車を掛けたのだった。もっとも、そんなことでセルベラが何の痛痒をも感じるはずが無かったが……。
「第一次攻撃隊発進準備」
沈んだ、硬質な声……その一言で、艦内の雰囲気は静から動へと変わる。
艦内通信は音量と回数共に増し、指揮所を行き交う人員の流れが一層速まった。
急に活気を増した格納庫、そこに面していながらなお静寂が支配したままの操縦士控室で、何時しか眠りに身を任せていたタイン‐ドレッドソンが目を覚ましたときには、部屋には既に彼一人しかいなかった。半身を起こし、寝ぼけ眼のまま見回した先に、備え付けの煙草盆が皿の上で吸殻の山を作っている。
「…………」
ソファーから腰を上げ、控室備品の冷蔵庫まで歩く。何か夢を見ていたはずだが、上手く思い出せなかった。それでも次第に明瞭さを回復していく自身を感じながら、タイン‐ドレッドソンは冷蔵庫から取り出した水を一杯飲み干した。何度も感じた雰囲気……部屋の外で何が起こり、始まっているのかを、長年の経験からタインはすでに理解していた。
不意に、ドアが開いた。部下のタクロ‐ロイン中尉だった。
「少佐。発進準備命令出ました」
「…………」
無言でタインは手を上げる。了解の合図だ。立ち上がり、踏みしめる一歩一歩に、これから戦闘に臨む者の緊張感は無かった。
控室を出て、ロインを伴い広大な格納庫の真ん中を歩く。巨大な白熱灯が、低い天井から広さだけは有り余る艦載機格納庫を刺々しく照らし出す。交通路の両脇には、空に飛び出すための全ての準備を終えた艦載機の列線。その堂々とした景観も、機の傍らで空戦士の搭乗を待つ整備員達の、敬意の篭った視線も彼には何の感動も与えなかった。
タインの傍らを歩きながら、タクロ‐ロインは自然と押し寄せてくる緊張に身を任せているように見える。タインとは長い付き合いであるはずが、何故か払拭できない緊張だった。これまで何度もタインの列機として飛び、彼の戦法からさり気無い癖まで知り尽くしているはずが、それでも、全てをさらけ出すことのないタインを彼は知っていた。全てをさらけ出す――それは、レムリア最強の戦闘機乗りを本気にさせること――今のレムリア軍にそんな空戦士はいない。当然、操縦士と機材の質に劣るラジアネス軍には無理な相談だ。タインの発散する何かが――本気にさせる相手がいないことに対する漠然とした不満であることにロインが思い当たったとき、ロインは押し潰されるような緊張を彼に対して感じるのだった。
一方で、タインは気付いている――そうだ、俺は不満なのだ。
タインには判っていた。自分が抱えているのが何物であるのかを。俺を本気にさせる相手がいなくなったのは「アレディカ戦役」以来のことだ。性能のいい機体に乗れるようになったからではない。それ以前に、根本的に、俺を満足させる敵がこの空にはいないのだ。
何時から、こんな風になってしまったのだろう?
かつて風に翼を委ね、空を舞うだけで満足していた若者は、度重なる戦闘の末、現在では純粋に戦いを求める戦士に変わっていた。
そして現在――もう、あの頃には戻れないのではないかとタインは思っている。それは諦観であった。
タインの足が止まった。その先では部下の空戦士が整列して彼らの指揮官を待ち構えていた。
「我らが指揮官に敬礼!」
先任搭乗員ロラン‐グーナ中尉の号令一下、赤い操縦服に身を包んだ空戦士たちが背を糺しタインに敬礼する。答礼しながら、タインはいつものように視線を巡らせた。タインが預かる隊だけに限れば、開戦以来、グーナ中尉を筆頭に、部隊の顔ぶれは全く変わっていなかった。彼らの顔ぶれが変わるということは、ラジアネス軍がよほどの抵抗をしない限りあり得ないはずだ。
よほどの抵抗――タインの口元が、皮肉に歪んだ。
そんなものなど、いまだかつて無かった。性能に劣る戦闘機。技量に劣る操縦士。稚拙な戦術――思えば、それらに助けられて我々はここまで来たのではなかったか?……だとすれば、実はこれほど虚しいことは無い。我々は平等だ……平等に不満なのだ。その単純で、深刻な真理に思い当たったとき、整列する部下達を前に、タインは嘆息した。
「聴け」
部下達が再び背を正すのを、生身の左目と機械の右目で見届けてから、タインは続けた。
「間もなく作戦が始まる。俺たちに課せられているのはまた何時かのように、攻撃やら空戦やらで島の上を蝙蝠みたいに飛び回るあのくだらん任務だ。それがまたしばらく続く。地上人の奴らもあのオンボロ飛行機で性懲りも無くのこのこ上がってくるだろう……わざわざ俺たちの的になりにな」
皆がどっと笑った。彼らの反応を確かめるように視線を一巡させると、再び続ける。
「俺たちの思いはただひとつ。願わくは、手ごたえのある敵と一戦交えんことを……そうだろ、エドゥアン‐ソイリング」
「…………!?」
名指しされたエドゥアン‐ソイリング中尉は、ハッとしてタインを見返した。見返した先、タインの生身の左目に宿る不敵な光を、エドゥアンは見逃さなかった。
「勿論であります。タイン‐ドレッドソン編隊長殿!」
「殿」の一言に力を篭めて、美青年は応えた。それに気に食わない上官に対する揶揄の念を感じ取った者は、少なからずいたはずだ。
「そうこなくっちゃあなあ。エド」
不敵な眼光は、一層強さを増した。
『――第一次攻撃隊。発進準備完了しました』
全身を預けた指揮官席から無言のまま、セルベラ‐ティルト‐ブルガスカは細い、しなやかな腕を上げた。やや自堕落な挙作ながら手から上がった親指。それが合図だった。指図さえすれば、あとは艦長イズメイ中佐はじめ艦の幹部たちがこの巨艦を、搭載機発進に必要な態勢にまで持って行ってくれる。
『――上げ舵20度』
『――推進機回転2500に固定。プロペラヒッチそのまま』
その瞬間、これまでの無線封止を破り、ダルファロス発の符号が、彼女の周囲に散るレムリア艦隊全艦の通信回線を駆け巡った。
――我に続航せよ。
上昇の姿勢に転じ、振動と共に後ろに傾く艦橋。
千切れ飛ぶ雲。それを吹き飛ばす気流の乱れ――あたかも水面に飛び上がる巨鯨にように、ダルファロスは仮の棲家としていた層雲を突き破った。巨大な甲殻類のようなフォルムが、追いすがる水蒸気の腕を振り払いながら碧みの薄い朝の空へ飛び上がっていく。それらはダルファロスだけの光景ではなかった。ダルファロスを取り巻く空域の各所でレムリア軍の艦艇が今まで潜んでいた雲を割り、その重厚さと流麗さの織り交ざった姿を現し始めていた。
ダルファロスから二空哩ほど離れた前方に展開する四隻の前衛。その先頭を征くダルファロスを一回り細身にしたような巨艦――レグナ‐ガーダ級機動戦艦の一隻。「レグナ‐ヴァーダ」だ。
レグナ‐ガーダ級戦艦はその流線型の艦体に三連装主砲塔六基。艦体両舷に大型カタパルトを有するレムリア艦隊の主力戦艦だ。カタパルトを装備している通り、作戦機を最大三十機搭載することができるという空母的な機能を持っているが、それでも単艦での性能はラジアネス軍のクロイツェル‐メラティカーラ級をも凌駕する。
そのレグナ‐ヴァーダを、十分な距離を置いて取り巻く三隻――レーゲ‐セルト級巡航艦が、翼を広げた鷲のような威容を浮かべていた。
レーゲ‐セルト級はレムリア軍の主力巡航艦だ。ラジアネス軍の同級艦以上の攻撃力、機動力を持ちながら。最大八機の作戦機を搭載することが出来る。その勢力、性能共に現在のレムリア艦隊の中核的な存在だった。
――それら四隻のはるか後方に位置する艦隊主力十二隻。
距離を置いて旗艦ダルファロスを取り巻く三隻のレーゲ‐セルト級巡航艦とともに航行する八隻――レーゲ‐ザラ級駆逐艦が雁行陣で突き進んでいる。このタイプも最大四機の作戦機を積み、運用する。
レーゲ‐ザラ級の形状は独創的だ。艦底構造物から艦首に向けて、格納庫と一体化したカタパルトが張り出している。側面から見れば艦隊の制式カラーも相まって、鋭角的な印象の際立つ艦影は、作戦機搭載空間の確保と、航空兵装の強化の両立から生じた苦渋の決断の産物だったが、実際のところ此処から発進する空戦士はもとより運用する航空要員の評判も、やはり芳しくない。
その艦隊主力からさらに三空哩離れた空域に、レーゲ‐セルト級二隻。レーゲ‐ザラ級五隻の計七隻、そして支援艦艇八隻が展開する。その総数、二八隻。これほどの艦隊が一度に動くのは緒戦以来のことだ。
前進するレーゲ‐ザラはすでに搭載機の発進を始めていた。攻撃隊ではない、艦隊を護衛する戦闘機隊であった。空中に射出されたゼーベ‐ギガやゼーベ‐ラナといった戦闘機群は暫くの間を、速度を稼ぐための降下と直進に費やして上昇に転じ、艦隊の上空で編隊を形成する。その手際の良さがレムリア艦隊の搭乗員の熟練振りと技量の高さを覗わせた。侵入者を寄せ付けない、艦隊を幾重にも取り巻く空の壁、それが形成されるのを見計らい、「ダルファロス」の新たな指示が暗号電となって巡る。
――攻撃隊 発艦準備。
ダルファロスの艦底、主発進口へと通じる巨大な下部格納庫では、すでに多数の作戦機がエンジンの始動を始めていた。 主翼を折り畳み、逆落としの姿勢を保ったレムリア機の機能美あふれるフォルムはあたかも、想像上の怪物が今まさにそのグロテスクな姿で地上へ生れ落ちんとする光景を連想させた。密閉された空間に充満する轟音と排気ガス。特に後者によって操縦席内では空戦士は酸素供給装置の作動を余儀なくされ、格納庫内に縦横無尽に張り巡らされたキャットウォークを駆け抜ける整備員は全て防護マスク着用を強いられる。一応下部格納庫内には強力な換気装置が搭載されているが、それを以ってしても稼動するエンジンから発生する有毒ガスを除去することは不可能に近かったのである。
直援のゼーベ‐ラナ、ゼーベ‐ギガの混成隊がアームによって一段と下へ下げられる。発進時の接触を避けるためだ。戦闘機群はそこで主翼を展長する。それを見届けたかのように上方に控える攻撃機の一群が一斉に主翼を展開する。全機の異常無しを確認した整備員が、一斉に退避を始めている。
絶叫を思わせる轟音を立てて、下界へと通じる艦底が真っ二つに開かれる。
タテ一文字に差し込んでくる外界の光が空戦士達の網膜を灼く。
スロットルを握る腕に、力が入る。
攻撃隊発艦!――号令一下、艦底が完全に開かれるのと、先行する戦闘機隊が切り離されるのと、ほとんど同時だった。
洞窟の暗闇から這い出る蝙蝠の大群の如く、あるいは封印を解かれた悪霊の獲物に群がるが如く、銀翼の猛禽たちは降下姿勢から一斉に上昇に転じ、ダルファロスの前方を塞ぐように展開していく。
ダルファロスだけではない。ダルファロスに続く各艦もまた攻撃隊の発艦を始めていた。上昇し艦隊の上空に占位するそれらの引き摺る真白い飛行機雲は幾重にも連なり、幾何学的なまでに空の青みを鮮やかに彩った。
あたかも、翼を得て空を泳ぐ白蛇の群れ――しかも白蛇には毒牙があった。
側方のカタパルトから発艦したタイン‐ドレッドソンは、愛機ジャグル‐ミトラの操縦席から、編隊を形成する集団をはるか眼下に見下ろしていた。余裕溢れる笑顔のまま、彼は後方を振り返った。いつもと変わらぬ、しかし最も頼りになる顔ぶれ……ロイン、グーナ、そしてヴィガス。いずれも「アレディカ戦役」以来の部下であり、友であった。その彼らの駆る三機のジャグル‐ミトラが、しっかりとタイン機の側面に、そして後方に追従を決め込んでいる。最高のチームだと思う。
戦闘機に守られながら隊形を組む攻撃機……機首と一体化した流線型のキャノピーに三座式のコックピットを覆い。胴体下部に設けられた専用のアタッチメントに空雷を固定した姿は、外敵に針を突き出すスズメバチを思わせる。コンパクトに纏められた胴体に双発液怜エンジンを搭載したそれは、主力攻撃機ニーレ‐ガダルだった。「アレディカ戦役」で初陣を飾り、以降レムリア軍の主力艦上攻撃機として君臨している。胴体に抱えた空雷の威力は、一発で大型戦艦に致命傷を負わせるほど強力だ。
ガダルと同じく双発、しかし前翼式の機体もまた、編隊を為して艦隊の上空に存在感を示していた。分厚く広い主翼。そこから前方に突き出る二基の高出力空冷エンジン。さらに目を惹く特長には、機体下部から槍のように突き出る速射砲の砲身――高速で撃ち出されるタングステン製弾芯の砲弾は、駆逐艦クラスの装甲ならば一発で貫通する。このニーレ‐ダロムもまた、レムリア機動艦隊の打撃力の一翼を担う主力機だ。
上空を戦闘機に守られながら蒼穹を行くこれら攻撃機の何れにも、船舶撃破を示す赤いマークが描かれていることを、タインは知っている。ダルファロスを母艦とするどの攻撃機でも、最低一つは描かれているのだ。このフネではそれほど多くの機体が、そして空戦士が実戦をくぐっているのだ。
戦いは、何時まで続くのだろう?――ずっと抱いていた漠然としたその思いが、やがて近い将来に対する不安へと変わりつつあることに、タインは気付いていなかった。
「――第一次攻撃隊百二十五機。全機発艦しました」
四代目飛行長の、抗いがたい緊張の入り混じった報告には目もくれず、セルベラは「ダルファロス」防空指揮所の指揮シートに身を沈め、愛用の腕時計を覗き込んだまま物思いに耽っている。
始まったか――直接には自分が命令したことである筈なのに、セルべラにはまるで人事のように思えた。
直進する艦艇の推進器の曳く太い飛行機雲。自在に空を舞う攻撃隊、直援隊の各機の曳く緩急自在な形状の飛行機雲――それらの連なりと交わりは見る者に感銘を与えずにはいられない。目深に被った軍帽から覗くセルベラの氷のような視線もまた、前方に広がる空の一大キャンバスへと向いていたが、そこに一切の感情を伺い知ることはできなかった。
その胸の奥に沸き起こっているわだかまりに、セルベラは唇をきゅっと結ぶようにした。リューディーランド自体への攻撃と占領に、彼女は実のところ何の関心も持たなかった。あたかも牛刀を以て鶏を潰すが如き作戦。真に撃つべきはリューディーランド自体ではなく、その救援に駆けつけて来る――来ざるを得ない――ラジアネス艦隊の主力であるのに。
だが今、鶏に牛刀を振るわねば真の獲物はこちらにやってこない。それがどちらかと言えば拙速なる用兵を尊ぶセルベラには少なからぬ煩悶を強いる。かと言って本土の参謀部がリューディーランド侵攻と占領に必要な戦力を融通してくれる時期まで彼女は待つ積りは無かった。その間敵手たるラジアネスもまた反抗に十分な戦力を準備し、すぐさまリューディーランド方面に投入してくるであろう……ラジアネス相手に時を浪費することは即ち、敗北を意味する。
セルベラは、腕時計を覗きこんだ。
「五分か……」
混じりっ気のない氷の共鳴するような響きの声に、飛行長は無意識の内に背を正した。彼の心臓を、氷塊が滑り落ちていた。彼には眼もくれず、セルベラはポツリと口を開いた。
「……悪くない」
セルベラの口元に笑みが宿るのを、飛行長は安堵とともに見た。
複葉機は、風に乗って緑の丘陵を飛び越えていた。
顔に風を受けて飛ぶのは気持ちがいい。鳥になった気分を覚えるのだ。朝の冷気を切り裂くような快調な空冷エンジンの響き。大概の飛行機乗りはそれだけで心に満足を覚えるのだ。まるで飛び切りの美人を抱いた後。ベッドの上で味わう余韻のように。
それが前席に陣取って教習を受けるジム‐ローバックの、後席から指示を出す老女の教官には判らないかもしれない。まあ、別の、もっと普遍的な表現もあるだろうが、いまのところジムにはその感覚を味わうだけで精一杯といったところだ。
十七歳のジムが、町の外れにある飛行学校で操縦を習い始めてすでに二週間が過ぎていた。うまく行けばあと一週間ほどで念願の単独飛行が許されるはずだった。彼の教育を担当しているのは、飛行歴二十年にして飛行時間三千という老婆で、教官になる前は草創期の艦隊の女性飛行士の一人として、艦載連絡機を飛ばしていたということだった。そのキャリアは立派なのだが、ジムにしてみればその年齢からして飛行中に心臓発作でも起こすかと思うと冷や汗ものだ。
「ジム。操縦桿が固いわよ」
口調は老人らしく柔らかだが、結構厳しいことも言う。ジムだって、機上で何度「適性無し」と詰られたか判ったものではない。機体姿勢の安定と制御は、未だジムの苦手とするところだった。
こういうときは……ジムは、後席に感付かれぬ様にそうっと操縦桿から手を放した。フットペダルから足を離した。すると――
「そう、その調子よ。やれば出来るじゃない」
機体のクセなのか、どういうわけか機体が安定するのだ。まっすぐ飛んでくれるのだ。この機に乗って何度か飛んでいるうちに気付いたことだった。教習を受けている他の人間の多くもこれを知っていた。
こうなると、操縦に専念していた身としては周囲のことに気を配る余裕が出てくる。悪く言えば、注意が散漫になる。
いつの間にか、下翼越しの眼下にはなだらかな丘陵が波打つように広がっていた。ジムの顔が、思わず綻んだ。
「ジム! 余所見はダメ!」
背後からの一喝に、思わずジムは背を正した。空の彼方に浮かんだ不審な影に彼が気付いたのはそのときだった。
「先生……あれ、何?」
「んー?」
視線を一巡させた教官も、一機の機影を捉えた。ただ、ジムが目にしたのとは全く違う方向だった。
「おかしいわね……今朝は私たちだけのはずなのに」
真横に何がしかの気配を感じた教官が、再び視線を転じた瞬間。飛び込んできた光景に老女の心臓がジャンプした。
「…………!」
戦闘機!?――ラジアネス軍のそれではなかった。それも二機。
枠の無い、流線型の風防に包まれた操縦席から、フルフェイスのヘルメットが二人を覗き込んでいた。前席で、ジムは唖然として並行して距離を詰めてくるレムリアの戦闘機を見つめた。あんぐりと開いた口に、冷たい空気が入り込んできた。
「……操縦を替わりなさいっ!」
言うが早いが、ジムの眼前で視界が回転した。老女の駆る練習機に身を任せる一方で、ジムの背後を冷たいものが滑り落ちた。急激な機動のせいではなかった。目まぐるしく動く操縦席から見渡す限りの一帯に、レムリアの戦闘機がいた。




