第一章 「蒼穹のかなたへ」
――少年よ
あの広く蒼い大空はお前のものだ
何も恐れることはない
一千馬力の鼓動逞しく
旭日の銀翼煌かせ
果てしなき蒼穹の彼方へと征け
――その遥か先に
絶え間なき死闘の涯に
お前は真に征くべき途を
見るだろう
……昭和18年7月某日 ラバウル
名も無き先任整備兵曹の独白
幾条もの飛行機雲の連なりが、透き通るような青い空のキャンパスに鮮やかなシュプールを描いていた。子供が戯れに描いたような白線の交錯の数だけ、生と死が生まれ、輝き、そして消えていく……少なくともここ、西暦一九四五年の日本の空には、そういう世界があった。それは昨年の末から繰り広げられている光景であり、つい最近まで遠く離れたヨーロッパ大陸の上空でも繰り広げられていた光景でもあった。その情景の美しさの中に、栄光と敗北、勇気と凄惨といった共に相容れない現実を含みながら……
コバルト色の、悠久の空間を背景にひとつの白線が、急激にカーヴを描きつつ延びていく。カーヴの主を追うように、また別の白線が、緩やかなカーヴを描き延びる。それらはやがて複数の白線の交差と衝突となり、「空戦」という事象が生まれる……そうした光景を、日本帝国海軍飛行兵曹長 弦城数馬ははるか遠く離れた距離から見守っている。
「空戦……」
彼にとっては、もはや見慣れた光景であり、くぐり慣れた体験でもあった。眼下すぐに広がる重厚な雲の列をかいくぐるように数馬は愛機紫電改を滑らせてシュプールの方向へ向かった。滑るたびに微妙に位置を変える太陽光が、紫電改のコックピットに納まった彼の、落ち着いた感じの瞳を照らしかけた。視線を変えずに大きく息を吸い込むのを合図に操縦桿を倒し紫電改を右旋回、そして上昇させる。両翼端から水蒸気の束を曳き、紫電改は蒼空の高みへと駆け昇っていく――
開けたスロットルに敏感に反応して回転計、油温計が急速に跳ね上がる、と同時に数馬は機銃の安全装置を無意識のうちに外している。同時に躯に圧し掛かり、襲い来る加速の強さなどどうでもよかった。なぜなら、数馬はすでに紫電改という「兵器」の一部品であったからだ。
快調な、だが時折不整脈紛いの乱調をも覗かせるエンジン音を心臓の鼓動のように感じ、十分な高度に達した機体を失速させないようにゆっくりと引かれた操縦桿に反応した機体が、すうっと水平の姿勢に戻る。そこに数馬自身の意識が入り込む余地は無い、全ては本能によってなされた挙動だ……戦闘機乗りとしての本能によって。
「…………?」
不意に横に出現した、質量を伴う気配が数馬の注意を掻き乱す。数馬の列機が、ぐんと増速して彼よりも先に突っ込んでいく。一瞬、数馬の機体を横切ったその影が次の瞬間には、明確なまでの戦闘機のフォルムとなって敵機へと向かっていく。中隊長の機だ。数馬より年長だが、パイロットとしての経験は数馬と比してずっと浅い士官だった。
『――……――……』
酸素マスク内で反響する息使いに合わさったフッドペダルの微妙な踏み込み、操縦桿の手さばきが、紫電改のコックピットの前に新しい光景を導いていく。愛機を導く数馬が欲する光景は、照準器の前に浮かぶ敵機の背後だ。それを実現するために必要なものは、あまたの経験と、空の煉獄の中に鍛えられた己の勘と勇気のみ。
青き大地に充満する気流を切り裂く時速三百五十ノットオーバーの衝撃。翼に引き裂かれ後方に流れ行く気流の姿を、紫電改を駆る数馬の鋭敏な感覚は自然に受け入れ、感じていく。その先に現れた気流の微小なゆがみ。そこに、数馬が目指す敵機がいた。光像式照準器に浮かび上がる照星の中心に敵機が重なる一瞬――追うものを逃さない光の環に囲まれた、ヴォートF‐4Uコルセア艦上戦闘機の、ガル翼状のフォルム――囲まれた者に訪れるのは、確実なる死。
「――――!」
息を止める―― 一瞬の静と同時に、数馬はスロットルレバーに取り付けられた機銃の引き鉄を引いた。紫電改の翼部から吐き出された二十ミリ機銃四丁の弾幕が、一斉射でネイビーブルーのコルセアを貫き、その機影を粉砕した。雲海の路を背景に散る火花、そして破片――次には返り血を思わせる炎の華が、蒼穹の一点に咲いた。
一機撃墜……!
後背を顧みる。翼端から水蒸気を引いたF4Uが急旋回でこちらへ向かってくるのが見えた。反射的にフットバーが左に倒され、操縦桿が引かれた。エンジンの轟音に引っ張られるように紫電改の機首が上がる。傾いた左翼端がベイパーを引く。F4Uの足は速い。背後に迫るガル翼の黒い影に数馬は戦慄を覚えた。今までにも数え切れない程体験した感覚だが、何度感じても感じ慣れない――だが、次の瞬間には数馬は三百六十度一回の横転で軸線を逸らす。自機の加速、不意を突く機動を前に射撃の機会を失い、軽々と眼前の紫電改を抜き去ってしまうF4U。 逆に数馬は鮮やかに敵機をオーバーシュートさせ、紫電改はぴったりと敵機の後方にくっついている。再び二機の軸線が重なり、攻守が逆転する。
動きが硬い、初心者だと思う。もしくは、性能の問題?……F4Uは中高度以上の加速こそいいが、低空での運動性、そして上昇力の悪いことを数馬は幾度もの戦いで知っていた。組み易い相手だ――引き鉄が引かれた。新たな一連射がF4Uのキャノピーを吹き飛ばした。機首から黒煙が噴き出すのを数馬は見た。黒煙は空に一条の曲線を刻み、そして汚していく。
「――――!」
背面の姿勢で墜落していくF4U 。やがてその落下速度は早まり、悪性の錐揉みも加わる。もう二度と飛び上がることは無いだろう―― 一瞬の感慨を振り払いつつ、数馬は周囲を見回した。自分を狙っている敵はいないか? 未だ生残っている味方はいないか?
「…………」
空戦の環は、いたるところに広がっていた。そんな中で、墜とされてゆく機の敵味方の識別は鮮やかなほど一目瞭然だった。真っ赤な炎を上げ、それを引き摺りつつ派手に墜ちていくのが味方で、すうっと白い煙を引いているのが敵機なのだ。そして、墜ちていく機の多くが味方であるように数馬には思われた。この時点で終息しかけていた空戦の環に数馬が入る余地など、もはや無かった。敵はぼつぼつと離脱を始めていた。本土からそう遠くない洋上で待つ空母に還るのだ。そして現在の日本軍にこれらを邀撃する組織だった戦闘力など、もはや無かったのだった。
無線機に繋がったイヤホンに、帰投を命令する声が飛び込んできた。同時に入ってくる雑音を感じながら、数馬は背面から浅い角度で降下に転じた。時速四百ノットに迫る速度で一千メートルほど降下したところで、機体を水平に戻した。F4Uはいい飛行機だ。水平速度でも時速四百ノットは確実に出る上に、急降下時に時速五百ノットを出してもビクともしないと数馬は聞いたことがある。機体強度の都合上同じ状況で時速四百ノットそこそこしか出せない零戦とはえらい違いだ。他部隊のある熟練パイロットが、もし乗機がF4Uならばもっと撃墜スコアが稼げるのにと言っていたのを数馬は思い出す。その彼も先日来襲してきたF4Uとの空戦で戦死してしまったのだが……。
F4Uだけではない、広大な太平洋を舞台に戦争が始まってから二年も経たずして、敵国アメリカは日本をはるかに凌ぐ工業生産力に物を言わせ、次々と新手の機体を繰り出してきた。グラマンF6Fヘルキャット、ロッキードP‐38ライトニング、リパブリックP‐47サンダーボルト、ノースアメリカンP‐51ムスタングは、前線に投入されるや否や、その圧倒的な性能と数量を以て、連戦に告ぐ連戦で機材と人員を消耗し戦力更新もままならない日本陸海軍航空部隊に襲い掛かり、やがては日本軍の航空戦における優位は完全に失われてしまった。丁度その破滅が始まった頃に、数馬は戦闘機搭乗員として南方の最前線に送り出されたのだった。
短縮に次ぐ短縮の末に乗り越えた訓練期間の末に掴んだ海鷲の名誉。だがその実相は若干十七歳。零式艦上戦闘機の操縦桿を握るのもやっとの、吹けば飛ぶような、北も南も判らないような、いち航空兵――その一航空兵として当時の最前線たる南方の地ラバウルに赴任して以来、二年近くを数馬は次第に後退していく前線で過ごしてきた。多くの修羅場をくぐった。多くの死を見た。中部太平洋防衛……比島決戦……そして本土決戦……数馬が降り立ち、今でも戦っている戦場からは、もはや戦略は失われていた。
多くの者にとっては、ただ、日々を生き抜くことがすべてだった。そのために、ひたすら腕を磨いたし、技量も自然とあがった。そうでなければ、生き残れなかった。帝国海軍に身を投じた十代前半の頃から背負わされ、叩き込まれてきた国家の威信やら、昔ながらの武士道やらが介在する余地など南の戦場には無かった。逆説めくが、ほんの少しでも、それらのことを考える余力のある者の方が、苦悩と焦燥感の中で命を落としていった。
その間、日本軍の前線は次第に縮小していった。予科練の同期生も、多くが若い命をアメリカ軍の反攻作戦の前に散らした。遅かれ早かれ自分も往く……そう考えないでもなかった。そのときまでに、できる限り多くの敵と戦ってこれを倒すべきだと思っていた。
やがて、最前線は本土に移った。日本がかつて緒戦で連合国軍を撃破し、東南アジア全域に覇を唱えた時代は、もはや忘却のかなたに追いやられたようだった。そんな中、苛烈なフィリピン航空戦を経て本土に帰還し、本土決戦に備えた練習航空隊の教員の任に付いていた数馬に転勤命令が下った。通例ではありえない、数馬本人を名指しした「指名転勤」だった。
――343空に転勤を命ず。
その辞令は、数馬が新たな戦いに身を投じるということを意味した。第343海軍航空隊、またの名を「剣部隊」。各地の戦場に散らばっていた生き残りの精鋭搭乗員を集め、乗機には新鋭戦闘機「紫電改」を使用する。本土決戦のために結成された最後にして最強の戦闘機隊の一員に、数馬は迎えられたのだった。
確かに、紫電改はいい飛行機だ。数馬は、特に二十ミリ機銃四丁の重武装と良好な加速、パイロットの思い通りに動く操縦性の良さを買っていた。だが、この紫電改を以てして戦局挽回が可能だとまでは信じていなかった。強力な戦闘機によって得られる制空権が、空は元より地上海上におけるあらゆる作戦に自由をもたらすという事実は、第二次世界大戦以前の段階では各国軍首脳の共通認識となっていた。問題は、その共通認識を自軍の作戦、編成にどのように生かすかということだったが、日本陸海軍の首脳はそれに失敗したようだ。
――それがもたらしたものは、挽回しがたい窮状と国家の危機。そして膨大な人命の浪費。
――再び、数馬の操縦席。
風防越しの空の風景が右に、左にと流れていく。豊かな雲を掻き分けるように、数馬は紫電改を舞わせている。スロットルをやや絞る。緩やかな降下とともに、地上の景色が次第に広がってくる。それは、青々とした田圃の隅々までの連なりだった。そのずっと向こうに、B‐29重爆撃機による徹底した戦略爆撃の結果、荒廃した市街地が広がっていることを数馬は知っている。それらの景色を乗機から見下ろすたびに数馬は思う。地上の人々をろくに守れないような戦闘機乗りの飛行と存在そのものに、何の意味があるのだろうか……と。
かつては自分も、地上から飛行機を見上げる多数の中の一人であった。空を飛ぶ飛行機の勇姿に心を動かされない少年はいない。だからこそ国力の粋を集めた飛行機の操縦席を目指して多くの少年が厳しい競争をくぐるのだ。その過程で多くが振り落とされるが、その栄光の立ち位置へ辿り着いた数馬たちを待っていたのもまた、過酷な空の戦場であった。時代が、世界中の空を地獄に変えていた。
高度を落とす中で下層雲を抜け、その辺りからぽつぽつと合流する機が増え始める。全く無傷の紫電改、その一方で機体のところどころに穴が穿たれ、エンジンから黒煙を吐き出しながら今にも失速しそうに機首を上下し、翼を振る紫電改……その群れの中には、先ほど数馬の前に突入した士官の機もいる。さらにその隣には、ひどく傷ついた機が並んでいる。それは数馬の後輩、志摩上飛曹の駆る機だった。よって見ると、いたるところにうがたれた弾痕、割れた風防ガラス、どす黒く煤けた痛々しい様子が手に取るように判った。機体を寄せ「大丈夫か?」と手信号で聞いて見ると、遠目にも判る程煤けた顔にニヤッと笑顔を浮かべて手を上げている。その一方で、士官の機の身綺麗さがやはり印象的に映える。
「…………」
安全圏まで出て、溜息――数馬は酸素マスクを外す。少年の趣を残した端正な顔が飛行帽と白いマフラーに覆われていた。
戦闘機を降りた素顔の弦城 数馬 飛行兵曹長の風貌に違和感を覚える者は多い。若々しさと静穏さの最適な調和を感じさせる印象に多くの者が好感を覚えるが、その一方でどことなく感じられる違和感――日本人らしくなさ――が、その印象を強烈とは言わぬまでも強いものにしていた。そして、精鋭343空の隊員誰もが認める戦闘機乗りとしての高い技量。彼の上げた戦果は個人、共同を含めて百機を超える撃墜数を誇る。その多くが、最初の赴任地ラバウルにおける激烈な航空戦で上げたものだった。「死ななければ還れない。」といわれた、この空の死闘から生還したパイロットは、数馬を含め少数。九死に一生を得て内地に帰り着いた彼らの多くが343空に編入されたが、やはり大半がこれまでの本土防空戦で死んでいる……。
速度計表示で七五ノット/時。出力の大きさに比して紫電改の最適着陸速度は余りに低く、それが離着陸の容易さとなって現れている。それでも下した主脚を滑走路に接地させた瞬間、あるものを見出し数馬は顔を曇らせざるを得ない。下した脚もそのままにひっくり返り、起き上がれないままの骸を路肩に晒しているかつての僚機――主脚と尾輪をほぼ同時に接地させ、数馬はスロットルを絞りつつ駐機場へと機を滑らせる。こちらには未だ弾薬の余裕がある。ともすれば再び燃料を補給して基地上空の警戒を命ぜられるかもしれない。過日に目にした惨劇が数馬の脳裏を反芻する――ある日の防空任務の終わり。今まさに着陸しようとしている紫電改の背後を、層雲を裂き襲いかかって来たグラマンの機影。次の瞬間、地上に在った数馬の眼前でその紫電改は炎上し、破片を撒き散らしつつ滑走路を切る様に叩き付けられる――ラバウル時代からの戦友にして、百機を越える撃墜機数を誇った歴戦の勇士の命が、呆気なく失われた光景。
「弦城さん!」
息を弾ませた志摩上飛曹が愛機を降りたばかりの数馬の方へ駆け寄ってきた。
「見ていましたよ弦城さん、見事な二機撃墜でしたね」
「よく生きてたな、黒焦げの志摩を見たときは俺もドキッとしたよ……嗚呼、志摩もお六時になっちまったかって」
「なあに、自分はまだ死にませんよ。ところで、菅田少尉と筒井飛長がまだ還ってないんですが……」志摩の表情が曇りがちになった。
「墜ちたところを見ましたか?」
「何機か火を噴いたのは見たけど……ところで志摩はどうだった?」
「ついてませんねぇ、一機を追いかけて煙を吹かせたんですけどね、もう少しってところで後ろから別の奴にくいつかれまして……」と、苦笑交じりに話す志摩の肩を、数馬は抱くようにした。
「墜とすチャンスはまたいくらでもあるさ」と言って慰める。上空警戒の命令は出なかった。
その足で指揮所に入ると、果たして、部隊の幹部達が嬉々とした表情で数馬の到着を待っていた。
「弦城兵曹、二機撃墜だそうだな、よくやってくれた!」飛行長が、数馬の手を取って包むように握り締めた。しかし、数馬の表情は冴えない。
「こちらも二名未帰還だと聞きましたが……」
一瞬、飛行長の顔が曇ったが、すぐ気を取り直したように続けた。
「山田大尉も二機墜とした。四対二で、今日のところは、まあこちらの勝ちといってもいいんじゃないか?」彼は、数馬の列機だった士官の名を出した。その背後では、当の山田大尉が、変に作ったような笑みを浮かべている。数馬が彼と眼を合わせるようにすると、あわてて彼は目を逸らそうとする……それがやけに印象に残る。彼だけではなく、ここのところ数馬は、味方の主張する戦果をあまり信用できないでいた。いや、それ以前から――
連日本土に殺到する米軍機との戦闘による味方――特に、歴戦のベテラン搭乗員――の被害の増加は、そのまま各部隊の技量レベルの低下につながっている。ベテランが抜けた穴を埋めるべく本来なら実用機の操縦桿を握ることすらかなわないような飛行時間で未熟なパイロットが、まるで判で押したように戦線へ送り出されては同じく空の戦場に消えていく……それは数馬の属する343空といえどももはや例外ではなくなっていた。技量の低下は、当然冷静な判断力の低下にもつながる。そんな状況で、はたして個々の搭乗員に確実な戦果確認ができるだろうか?
そう思いつつ、数馬は下士官搭乗員の宿舎へ向かう。未帰還となった二人の遺品整理をするためであった。宿舎に着いてみると、まるでタコ部屋のような畳張りの大部屋のひとすみで、志摩上飛曹をはじめ、数馬の後輩パイロット達が車座になってなにやらひそひそ話をしている。数馬に気付いた志摩が手招きをした。
「どうした?」
言うが早いが、車座の中に数馬は招き入れられた。
「弦城さん、山田大尉ですが、今日の戦闘であの人どこにいましたか?」
「すまん、おれは見てない。あの人は俺からすぐにはぐれるからな。はじめは何度も注意したんだが、ぜんぜん聞いてくれん」
「弦城さん、その山田大尉ですけどね……」志摩の声が、やけにくぐもった。
「こいつが見たって」志摩が、一人の袖を引いた。先週隊に配属された飛長だった。まだ18歳、どうして此処に来れたのか判らない程その腕には疑問があるし、当の飛長自身その自覚がある。弦城を見据えて、意を決したように彼は口を開いた。
「……俺、見たんです」
「見たって……何を?」
「今日の空戦で、自分も小隊からはぐれたんです。そのとき一機上昇している味方が見えたんで合流しようと後ろから近づいてみたら……」
「みたら、どうした?」
「いきなりそいつは何もいない上空に向かって弾が切れるまで機銃をぶっ放したんです。よく見たらそいつは……大尉殿の機でした」
「貴様、自分が何を言っているか判っているのか?」ぎょっとして、数馬は声を荒げた。
「はい、間違いなく大尉の機でした。あのときの中隊長は大尉でしょう? 標識は中隊長のものでしたから……」
「間違いじゃないのか……」という数馬の声に、苦々しさが加わる。戦闘中の大尉の不審な挙動については、思い当たる節が無いわけではなかったのだ。今まで何も言わずに来たのは、大尉が隊の幹部連中と同じく海軍兵学校の出身であり、幹部内でも将来を期待された存在と見なされていることへの遠慮があったからだ。
「弦城さん、あんただけじゃない、みんな気付いてるんですよ」数馬の苦渋を察したように、志摩が言った。
「戦場から逃げるだけならともかく……戦果もごまかしていたとはな……まあ、後はおれに任せろ。なんとかする」
数馬が言えることはそれだけだった。
夜が迫っている。西に沈み行く太陽の色は、今日の戦闘で敵味方が流した血の色のように思われた。列線に並ぶ紫電改が、それに映えて独特の力強さをいっそう醸し出していた。機体に取り付いて点検に励む整備員達の様子とその此処から地面に延びる影の蠢きが、今日戦闘があったという余韻を、盛り行く夏と共に漂わせていた。
志摩たち後輩搭乗員はすでに外出している。思い当たる節は十分過ぎる程あった。殺伐とした状況下で、彼らがひと時の憩いを酒や女に求めるのも、自然な成り行きであろう。特に明日をも知れぬ身なればこそ……だが、数馬はそんなことには一向に興味が無かった。
数馬は、ゆっくりと愛機に近づいた。数馬とともに数々の激戦を潜り抜けた紫電改は、ところどころに憔悴を漂わせているかのようだった。何時かはこいつを枕に、空に散る時が来るのかも知れない――数馬もまた、知らず憔悴していた。
そっと、数馬の手が愛機に触れた。名状しがたい想いが、数馬から紫電改を通り抜け、やがて空のかなたへ消えた。唇の細かな震えが、やがて憂いをこめた歌になった。
はかなき眠りは
かりそめの一夜に
若き命を
まことに尽くして
明日の調べは
たそがれに留めて
雄雄しき翼を
まどろみの中に癒して
――母が、赤ん坊の頃から数馬を寝かしつけるときによく口ずさんでいた。女手一つで数馬を育て上げた母の記憶の貴重な一つ――
――数馬は、父の顔を知らない。ただ数馬が生まれる少し前に死んでしまったのだと、母は数馬が聞く度に言った――その度に、母は悲しい顔をした――だから、数馬は父の事を聞くのをもうやめた――
――だが
――数馬には、「記憶」があった――それは、おぼろげながら、決して振り払うことのできない「記憶」――
――数馬、という名がその頃にはもうついていたのかは判らない――
――気がついたときには、数馬は横になっていた――というより、そうせざるを得ない赤ん坊の状態だった――
――そこが、どこかは判らない。ただ、なんともいえない、強い、しかし受け入れやすい、不思議な感じの木の香りがした――
――そんな数馬の視線の先には、赤ん坊がいた。その赤ん坊も、数馬を見つめていた――
――強い愛おしさを彼女に感じた。「彼女」というのは、なんとなく女の子だと感じるからだ――
――愛おしさは、血のつながったものに対する感情だとわかった――
――その彼女が、手を伸ばした。彼女は、こぼれんばかりの、無垢な笑みに満たされた顔を、数馬に向けていた――
――手を伸ばしたのは、数馬の方にだった――
――数馬も、手を伸ばした――
――二人の、小さな手が絡まろうとしたそのとき――
――不気味な振動とともに、二人の寝床を影が覆った――
――人ではなかった。何か、とてつもなく巨大で不吉な――
――そこで、数馬の記憶は途切れた――
父の死に関して、母が何かを知っているという感触はあった。なぜなら、父のことを語るとき、母は決まってこういったからだ。
「母さんと父さんはね、ここからずっと遠い国で出会ったのよ……」
「ここから歩いてどのくらい?」
「歩いていけないくらい、遠いわね……」
そのような会話が交わされる中、かつて父と母の間に何があったのか知らないまま、数馬は長い期間を過ごしてきた。ほかの家庭に比べ、何かと気苦労の多い母子家庭では、数馬もまた例外ではありえなかったから、いつも自分の出生についてあれこれ詮索していられる余裕など無かったということも、真実から数馬を遠ざけてきたといえるかもしれない。
――そして、数馬を取り巻く時代もまた、数馬から真実を知る機会を奪おうとしていた。
国際協調を無視した日本の大陸進出策が、中華民国との軍事衝突を引き起こしたのは、数馬がまだ小学生の頃だった。「自衛戦争」の名の下、日本の国家体制がひとつの戦争遂行単位へと転換していく中、数馬もまた、体制へ組み込まれていく国民の一人でしかなかった。
どうせ戦うなら、華々しいところがいい――日の丸の小旗を振る群集の「万歳!」の声に見送られ、続々と戦地へ出征していく大人達を遠巻きに見送りながら、少年は決心した。華々しい戦い――少年にとって、それは空の上にあった。
数馬は、航空兵を志願した。
海軍飛行予科練習生を志願する希望を伝えたときの母の驚きを、数馬は忘れたことが無い。母は反対した。その反対振りがまた尋常ではなかった。そのとき、数馬は自分の母の秘密の一端を垣間見たような気がした。
「あなたも父さんと同じところに行こうとするのね……?」
それきり、母は黙ってしまった。
後日、それでも予科練の入隊試験を受けに行こうとする数馬を母は止めなかった。そして数馬は十倍単位もの高い競争率と、厳しい入隊試験をくぐりぬけ、練習生に採用された。
数馬が予科練の隊門をくぐるその日、母はお守りと称して中央に青い宝石が埋め込まれた腕環を数馬に握らせた。不思議そうに母を見つめる数馬に、彼女は言った。
「父さんの形見よ」その日の母は、穏やかな顔をしていた。まるで自分自身、いや、自分の息子の選んだ途に運命の存在を悟り、受け入れたかのように……
……そう、運命は数馬に空に生きる者としての途を与えたのだった。
それから三年以上経った今でも、腕環は紫電改をなでる数馬の手にあった。夕方の暖かい光を吸い込んで淡く輝く腕輪。数馬は信じていた。数々の勝利と生還をもたらしてくれた「蒼い腕輪」のご利益を……
ラバウルでは、周りを百機以上の敵機に囲まれたこともある。
南太平洋では米軍の爆撃機と衝突し、片翼を飛ばされても必死に愛機を操り生還したこともある。
移り変わりの激しい南方特有の気象に、危うく機位を失いかけたこともある。
指揮官クラスがほとんど戦死してしまったがため、隊内で最も若い自分が経験を買われ、四、五〇機の味方編隊の指揮を執ったこともある。
フィリピンでは神風特別攻撃隊に指名され、あわや出撃というところで、内地召還の命令が下った。
此処まで生きて来られたこと自体が奇跡――だが、奇跡もじきに終わる。
戦局が、もうどうにもならないところまで進行している事ぐらい、一兵卒でしかない数馬にも十分わかっていた。本土まで達した激戦は、無尽蔵に、そして無差別に多くの命を飲み込んでゆく――四月から始まった苛烈な沖縄戦。先年から間断なく続く戦略爆撃。そして、今月に入って広島、長崎の二都市に投下された二発の「新型爆弾」は、一瞬にして数十万の命を奪った――
おれも、近々往く。
その想いを飲み込んだまま、ここ数ヶ月の間数馬は戦っている。
死ぬことが怖いのか、怖くないのか、数馬には判らなかった。しかし、どうせ死ぬのなら、空の上――蒼穹のかなた――で死にたいと、彼は思う。
一人のパイロットの姿を、数馬は脳裏に思い浮かべる。
ある時のことだった。
「貴様なんか、殺したって死ぬものか。一丁前の口をたたくな。あと十年もすれば貴様は生きて俺の墓の世話でもしてるさ」
そう言ってくれた先輩がいた。先輩といっても、かの日華事変前から戦闘機乗りとして名の通った人で、数馬のような「戦中組」からすれば「雲の上の人」である。
ひょんなことから、二人はラバウルで出会った。当時新参者だった数馬に対し、彼は先年からそこで飛んでいた古株だった。
彼は恐ろしく腕の立つ男だった。オンボロの零戦二一型を駆り、瞬時に複数の敵機を葬り去る腕の冴えに、数馬は味方でありながら戦慄を覚えたほどだった。彼の個人撃墜機数はすでに二〇〇機を越えているという噂と、その鬼気迫る戦いぶりから、「鬼」と呼ばれていることを数馬は知った。
丸い黒眼鏡の奥に、獲物を狙う猛禽のようにぎらぎらと光る眼を隠し、「さくら」をくゆらせた形のよい口元に、ニヒルな笑みを浮かべる歴戦の勇士。戦闘機乗りとしての実力が伴わないくせに、常に士官風をふかす海兵出の指揮官たちですら、彼には一目も二目も置いていた。それ以来、数馬と彼は、行く先々で一緒になった。後進に積極的に技を伝授するというタイプでは、彼はなかったが、戦闘で常に傍にいるだけでも、数馬には得るものはあった。
ある時、二人は語り合った。
「どうしようが死ぬ奴は死ぬ、生き残る奴が生き残る。俺だって例外じゃない。戦争ってのはそんなもんだ」
彼はそういう言い方をした。
「生きる努力なんか、関係ない。分隊士はそうおっしゃるんですか?」
「貴様がそう思う、思わないは貴様の自由だ」
「それが……分隊士の悟りなんですね?」
「悟りか……なるほど、そうかも知れんな」
練達の剣士は、たゆまぬ修練を経、そして数々の死線を越えた末に、やがては全てを鳥瞰し、全てを超越した感性―――悟りの境地―――に至ることがある。
昔、そんな話を数馬は聞いたことがあった。
その男――――分隊士もまた、苛烈な戦いの末に、彼なりの悟りの境地に達した一人ではないだろうか? 言葉ではなく、彼の漂わせる雰囲気と彼の発揮する戦場での圧倒的な強さが、数馬にそう思わせたのだった。
彼のようになりたい――純粋に数馬は思った。生死の感性も忘却のかなたに追いやられるほどの苛酷な環境の中で、数馬は自分の生きる目標、そして戦う目標を見つけたのだ。
「俺のようになりたい……だと?」
……数馬がその旨を明かしたとき、彼――星野分隊士は黒眼鏡をぎらつかせて数馬を見つめた……不思議な笑みをたたえながら……
数馬は、彼の目に引き込まれるかのように分隊士を見据えた。数馬の瞳が、静かに緑色の炎をたたえているのを星野は見逃さなかった……緑の炎は、意志の強い証であることを彼は知っていた。
……しばしの沈黙の後、彼は言った。
「……そいつは無理だ」
「何故? なぜ無理なんです?」
「そうなる前に、貴様は死ぬかも知れんぞ」
「分隊士は、自分は……弦城は死なないとおっしゃいました!」
「戦局が変わったんだ。貴様の腕なら、これ以上無茶をしなくとも生きていける。死なずに済む法だけを考えろ」
「分隊士……?」弦城は、悲しい目をした。それに気付いた星野の表情が、曇った。
「自分は……弦城は、分隊士と同じ眼で世界を見たいのであります。分隊士と同じ腕を持てばそれができます。自分は違う世界を見たいと思うから……分隊士のようになりたい」
「ほう……」星野の顔から笑みが消えた。黒眼鏡の奥は、しっかりと若者をとらえて離さなかった。
「高みへ行きたいか? 弦城」
弦城は歯を食いしばった。生半可な答えを、この男は許さない。
「意地でも行きます!」
「じゃあ生き抜いてみることだな。生きて還ってこれるだけでも価値のある戦だ。それができない奴に高みへ行く資格はない」
「生き抜きます!」
「貴様が生きて内地に還ってこれたら、稽古をつけてやるよ」
星野の手が、数馬の頭に触れた。数馬をなでる手の感触と、数馬の三〇センチ頭上から注がれる星野の眼が、温かかった。
――それから四ヵ月後、九死に一生を得て本土に還りついた弦城の眼前に星野分隊士は現れた。開口一番、彼は言った。
「生きて還ったな弦城。じゃ、始めようか」
――こうして、数馬が星野分隊士の下で修行を始めてしばらくの間、驚愕と自信喪失が交互に数馬を襲った。
二人の腕に、格段の開きがあったのだ。
数馬は、自分の腕に関して絶対の自信を持っていた。それは南方に苛烈な空の戦いの中で鍛えられ、研ぎ澄まされた己が技量に対する揺らぐことのない信仰であった。それが無ければあの地獄では生きていけなかったのだ。たとえ些細な理由でも、それを亡くした者がいかなる末路をたどるかをも、数馬は知っていた。だからちょっとやそっとの立ち回りでは分隊士に負けない自信もあったのだ。
しかし、そんな数馬の確信に近い希望は最初の時点で根底から打ち砕かれた。
腕が違いすぎる!! どうしてあんな飛び方ができるんだ!?
本業の練習航空隊の教員勤務の傍らで繰り返される緩急自在なドッグファイト。下の学生や地上員達は面白がって見ていたが、一戦が終わるたびに数馬の身体は驚愕と屈辱に震えた。上位、下位、同位……どんな状況下でも、数馬の五二型零戦は星野の二一型零戦を捉えるどころかバックを取ることすらできなかったのだ。機体の違いといえばそれまでだが、それ以上の何かを数馬は理解していたからこそ、何度も星野に立ち向かい、何度も「撃墜」された。
『身体が硬い!』『もっと足を使え!』『貴様の眼は節穴か!』
空戦訓練の最中にも、的確、かつ辛辣な指導が数馬を襲った。しかしもっと数馬が驚愕したのは、星野の次のような一言だった。
「――貴様が何を考えているか、俺にははっきりと見える」
わかる、では無い、見える、と彼は言ったのだ。もしそんなパイロットが敵にいて、数馬と対戦していたら……?
「貴様は、なすすべも無く、恐怖と戸惑いの中で死んでた」
数馬の疑問に、星野はにべも無く答えて見せた。
「そんな強い奴が敵にいるとは思えません!」
数馬の強がりにも似た物言いを、星野は見逃さなかった。
「弦城、何故空戦では強い奴から先に死んでいくかわかるか?」
「…………!?」
「強い奴ってのは、敵機を多く落とした奴のことだ。敵を殺して、場数を踏んだ奴ほど戦場での勘が鋭くなって、研ぎ澄まされていく。しかし、その一方で場数を踏むほどだんだん鈍くなっていく感覚もある。それが鈍くなるほど、パイロットにとっては致命的な弱点となっていく。それが何だかわかるか?」
「……わかりません」
「死への覚悟だ」
「死への覚悟……?」
「場数を踏むにしたがって、そいつは、自分だけはどんなときでも死なない、どんな状況でも生き残れる。そう思い、やがては自分を軽んずるようになる。そんな死への覚悟が欠けた奴が実際死へ直面したときどうなるか……」
「…………?」
「弦城、これだけは覚えておけ。死に直面するってことは、まだ死んじゃいねえ、まだ生き残る望みがあるってことだ。死への覚悟がある奴にはそれがわかる。自分が死ぬときは死ぬとはっきりとわかるんだ。だから簡単には死なない。しかし死への覚悟が無い奴は死に直面した時どうすればいいのかわからねえ、だから助かるはずのてめえの命も救えねえ……そして、そいつはただの強い奴で終わる……」
「…………」数馬の顔が、紅潮してきた。いままでの自分に思い当たることばかりだったからだ。
「……やっとわかったようだな、弦城」星野は、続けた。
「死んでいくのは、ただの強い奴、そして生き残るのが、真に強い奴だ。ただの強い奴なら誰でもなれる。だが、それ以上を目指すのは難しい……俺はその手助けをしてやっているに過ぎないし、それ以上のことはしてやれない。真に強い奴には自分の力でなるんだ。弦城、貴様ならきっと真に強い奴になれる」
「分隊士は、『真に強い奴』ではないのですか?」
「……俺は、わからん。ただ、これだけは言える。てめえが何者であるかを決めるのはてめえじゃねえ。それは他人しかいない。実力もなく自分を強い奴と思い込んだ時が、そいつの終わりだ。昔の俺もそれで死に掛けた」
……それ以来、星野の言葉は、数馬に重くのしかかった。それはまた、数馬を未知の段階へ飛躍させるばねでもあった。
さらに度重なる修練の末、数馬は釈然と「何か」を悟った。何度か翼を交えた後、数馬の変化に気付いた星野は数馬を呼んで、言った。
「……いい眼をしている」面と向かい合う二人。星野の眼は、蓄積された修練の末に現れた数馬の変化を見逃していなかった。
「俺の腕はもう貴様には必要ないだろう。新部隊の小隊長に推薦しておいた。館山へ行くといい」
「しかし分隊士、自分はまだ修行の身です」
「言ったはずだ弦城、真に強い奴になりたいのなら、てめえの力でなるしかない、と」
「分隊士……」
「ついでに言っておくが弦城、この戦争は日本の負けで終わる。俺は多分それまで生きちゃいないだろう……相当殺したからな。だが、貴様はこんなくだらん戦に生き残る資格と義務がある」
「分隊士……!?」数馬の眼に涙があふれた。別れの予感が、何も言い返すことを許さなかった。
星野の手が、数馬の頬に伸びた……静かに、優しく。
「涙を拭け、貴様には似合わんぜ……」星野は、笑っている……慈しむかのように……。
「分隊士、自分は……自分は、生き残ります……絶対に!」
「弦城兵曹!」星野の口調があらたまった、硬質なものに変わった。数馬は涙を振り払うかのように、背を正した。
「貴様は何としても生きて終戦を迎えるんだ。これは命令だ。いいな!」
海軍式の敬礼が、約束の証だった。
――蒼い腕輪の他、一枚の写真を、数馬は常に肌身離さず持っている。ラフな三種軍装に身を包み、気取ったポーズで椅子に腰掛ける数馬。彼を見守るように背後から数馬の肩に手をかける星野分隊士……その眼は、子の成長を見守る親のような優しさの一方で、自身の命運に対する諦観と逼迫する戦局への悲壮感を多分に含んでいた……。
……写真を撮って三日後、星野分隊士は死んだ。その頃には、数馬は343空、星野は302空と、それぞれ別の飛行隊に所属し、相次いで本土へ来襲する米軍機に対する邀撃戦に参加していた。そして日々激化してゆく戦闘の中、星野は多くの未帰還者達とともにその中に呑み込まれ、消えていった。
星野 譲治が空のかなたに消えたその日、彼の率いる小隊が戦場から離脱する味方の中隊を援護しようとしたまさにそのとき、新手の敵機の大群に上方から襲われ、列機がそれらを振り切ったときにはすでに星野の姿は無かったとか、乱戦の最中に星野の乗機が敵機と空中衝突したのを見たと言う者。錐揉みの姿勢のまま積乱雲の中へ突っ込んでいくのを見たという者まで、星野の死に関しては諸説流れたが、結局数馬は彼の死の状況を知る事はできなかった……
――その夜、下士官専用の宿舎で、固い布団に身を横たえた数馬は、その時の写真をじっと眺めていた。自分の身を省みず、数馬に生きろと言ってくれた分隊士も、今はもういない。
『分隊士……』心の中で、数馬は語りかける。星野に語りかけるように、そして、自分自身に語りかけるように……
『分隊士は自分に生きろとおっしゃいました……しかし、自分はこれ以上生きるには敵を殺し過ぎたし、同じようにたくさんの仲間を失いました……もう疲れた……それでも分隊士は自分に生きろとおっしゃいますか?』
想いはやがて、数馬を眠りの世界へ導いていく。
防空壕の一隅――
まどろみに身を任せる内に日が換わり、すでに差し込む光が防空壕の入口を明るく染めている。光は黄色いが、すでに刺す様な暑さを伴っていた。
「…………」
薄く、黄ばんだ布団の上で、弦城 数馬はその眼を開けた。幸先のいい目覚めとは残念ながら言えなかった。何よりも頭が重かった。思い通りに思考が働かない。喉が酷く乾いている。枕元に佇む湯呑、そして焼酎の酒瓶は未だ半分以上量を残していた。数馬は、酒が飲めない。だが寝付けない時は無理をして一杯呷ってから眠る様にしている。そういう夜がもう何日も続いている。
外の洗面所で、勢いよく流れる水道の水で喉を潤し、そして頭から水の奔流を受けて酩酊の残滓を洗い流す。伸びた頭髪が水飛沫を受けて跳ね上がり、男ならぬ色気をも漂わせる時がある。数馬自身そう自覚しているわけではなく、特に志摩上飛曹にそう言われる。当然、真に受けてはいない。子供の頃、周囲の大人たちや学校の同級生から半ば冗談、半ば本気とも取れる口調で女形になれと言われたことがあるが、それは今の数馬にとってはどちらかと言えば苦い記憶だった。
人心地を取り戻して見上げた向こうで、胴体に穿たれた弾痕も痛々しい艦上偵察機「彩雲」が、間抜けな姿勢で機首から滑走路につんのめっているのを数馬は見る。昨夜の偵察行から必死の思いで還りついたのだろう。しかし、根拠地にはたどり着けず、緊急措置として此処に滑り込んだのだ。そう彼には思われた。
食堂に入ると、志摩上飛曹たちが席を開けて待っていた。皆が一様にやつれた表情をしているのが、数馬にはわかった。「貴様ら、遊びすぎだぞ」数馬は平然と言いつつ、膳をテーブルに置く。実を言うと女遊びは嫌いだった。学生の時分、親類の仕事の関係でカフェーの女給や私娼がよく家に来た。男に阿ることで生を繋ぐ彼女らの横顔が、当時の数馬の感性には何処か寂しげで、自分だけは女にあの様な顔をさせたくないという思いが、カズマの精神の何処かに未だにあるのだ。それでいて、その種の擦れた女と関わるのは今の数馬には抵抗がある……というのは身勝手かもしれない。
「自分、昨夜は久しぶりになじみのエスと……えへへ」にたにたしている志摩の顔が、数馬にはなんとなく気に障った。しかし、表立って表情には出さない。
「お前の乗った戦闘機には乗りたくないな。病気が移る」数馬の言葉に、一同が笑った。すかさず、志摩が言った。
「どうです弦城さんも、いい娘を紹介しますよ」
「間に合ってるよ」
「いやあ、置屋の連中が言うんですよ。弦城兵曹はいつ来てくれるのかって……弦城さん置屋に行かないのに人気があるからなあ……」
「どういうこと?」
「置屋じゃあ、誰が最初に弦城さんと寝るか噂で持ちきりですよ」
「……勝手に噂を作るな。志摩」思わず頬を赤らめ、眼を伏せがちになる数馬に、他の隊員が追い討ちをかけた。
「弦城さん、結構女にもてるのに、もったいないなあ……ひょっとして弦城さん、まさか……」
数馬は、沈黙した。紅潮した頬に、子供のような戸惑いの表情……一瞬の間を置いて、周囲の好奇の視線が、数馬に注がれる。彼らは、自分たちの頼れる先輩に、彼らにとって「意外な」側面を見たのだった。意味ありげなにやけ顔を浮かべる者、笑いを押し殺そうとして失敗する者もいた。
「な、何だよ……」
威圧的なサイレンの響きが、飛行場に広がる。からりと晴れた青空に支配された正午のことだった。
談笑する搭乗員と地上員……まだ白煙を吐き出す吸殻の山を盛った煙草盆……指しかけの将棋……翼を休める紫電改の列線――それまでののどかな風景が、まるでスイッチが切り替わったように一変し、次にのどかな光景を迎える頃には多くの命が失われている……そんな日々が、今までにどれほど繰り返されてきたことだろう……愛機のコックピットに小柄な身を滑らせながら、数馬はそんなことを考えていた。数馬の搭乗を見届けた整備員が紫電改の四隅に散り、数馬は手早くスイッチ類が所定の位置に収まっているか、計器類に異常が無いかを指を巡らせつつ確認する……見慣れない紙切れが、照準器に貼り付けてあるのに気付いたのは、そのときのことだ。めくってみると、それは見たことのある筆跡だった。
『今日還れたら、チェリーボーイ卒業のお手伝いをさせて頂きます。 志摩より』
こいつ!……苦笑を隠しきれずに、数馬は隣の志摩機を睨んだ。隣のコックピットでは、志摩が悪戯っぽい笑顔を数馬に向けている。してやったり、との憎めない表情が、今日はやけに眩しく見えた。
始動――数馬に敬礼し、飛行場へ滑走して行く志摩機を見送りながら、数馬は慣れた手つきでバンドを締め、下で待機する整備員に始動機の回転を促した。整備員が二人がかりで内蔵始動機に繋がるクランク軸を回す。エンジン始動可能な回転数に達するまでの間に操縦桿を動かし、フットバーを左右に踏み、操縦系に問題が無いか点検する。地上の整備員が、始動機が所定の回転数に達したことを数馬に告げた。それまで握っていた操縦桿を後ろに引き込み足に挟み込む。スロットルレバーを始動位置まで少し開き、エンジンプラグに通電する接断機スイッチに当てた指に力を入れた。
「コンタクト!」
エンジン点火……覚醒を思わせる振動は烈しかったが、それを越えてしまえば順調な鼓動が訪れる。躊躇いがちに四枚羽根のプロペラが二、三度回る――中島「誉」二一型空冷星型複列18気筒一九九〇馬力エンジンの、獣の目覚めを告げるかのような咆哮が計器盤を伝い、やがてコックピットを圧した。
プロペラの回転が急激に勢いを増し、巻き上がる砂埃がこれから戦いへ赴く者に神が示した道標を思わせた。油圧計の指す数値を凝視しつつ、それが安定値に達した処でスロットルをアイドルの位置にまで開く。頭まで上げられた数馬の両手が、ぱっと開かれるように動いた。主脚を支えるチョークを外す合図だ。そしてスロットルを握る左手にさらに力が籠る。飛行眼鏡を下ろすのと、ブレーキを解かれた愛機が勢いよく滑走を始めるのは同時だった。
「死への覚悟……」
自然に、口元が引き締まった。滑走路を愛機で駆け抜けていく中、数馬は思った。
その時が来たら……俺は、納得して死ねるだろうか?
『指揮所より全機へ――』
数馬が高度三千メートルに達したとき、耳障りな空電音に纏わり付かれた声がイヤホンに聞こえてくる。風防越しには、各地に分散された飛行場から発進した紫電改によって、幾群もの梯団が形成されているのが見えた。それらはまるで一体の生き物のように空間を自在に動き回り、他の梯団とくっついたり、離れたりを繰り返している。
『――編隊は……紀伊半島……南西……を移動中……激せよ……』
イライラするほどの空電音の連続。またか!……数馬は歯噛みした。航空無線の性能の悪さはすでに判りきっていたことだった。地上で使う分にはさして問題ないのだが、肝心の飛行中になると途端に本性を現すのだから始末が悪い。しかし、重量増加を嫌って零戦から無線機を取り外していたラバウル時代と比べれば、「聞こえる」無線機があるということは長足の進歩といっていいのかもしれない。それに、地上のレーダーから指揮所を通じて迎撃機を効率的に運用するようになったこと自体、つい去年までは考えられないことではあった。
『――敵は戦爆連合……B‐29と……れる……』
通信を聞き流しながら、数馬は山田大尉の機を探していた。何度か周囲を見回した後、数馬は中隊長の標識を付けた一機を見つけた。ゆっくりと背後から接近すると、はたして、乗っていたのは本人だった。
「ビンゴ……!」
その時、傍らを飛行する編隊が一気に増速した。
気が付くと、数馬たちのはるか上空を、幾条もの白線が覆い尽くしていた。あるものは規則正しく四条に並び、またあるものはその四条にまとわり付くように自在な軌道を描いている。それが何を意味するか数馬にはわかった。
「敵――!」
前方の山田大尉機が左に急旋回した。
『どこへ行く気だ……!?』
そう思いながら大尉の航跡を追跡する。その方法は、ただ大尉の操縦を真似ればいいだけだ。しかしそれにしても――
「――なんて下手な操縦だ」
思わず、口に出た。しかし戦いを避ける彼の行動もまた、この救いようの無い戦況を生き抜くための方便のひとつかもしれない……そんな思いが、彼に対する敵意を和らげようとしていた。
死んでいくのは、ただの強い奴。と星野分隊士は言った。では彼のように「弱い奴」が、生き残るのだろうか?――上昇していく大尉の機をしっかり追尾しながら、数馬はそんなことを考えていた。『……いや、違う!』
そんなことあるものか! あんな卑怯者だけが生き残って他の奴は戦いの中に苦しみ、死んでいく……そんな不公平なことってあるか!
不条理に対する純粋な怒りが、酸素マスクの呼吸を荒くした。数馬のずっと背後では侵入してきたB‐29を囲んですでに激しい空戦の環が生まれていた。
烈しい感情の発露と、「誉」エンジンの咆哮が重なった。
突然、大尉機の両翼がきらめきだした。きらめきから発し、後方に流れていく白い煙、何も無い空間に向かって注がれていく光の束……それだけでも数馬の前方にいる男が今何をしているかわかるというものだった。
その時、大尉が、後方を振り向いた。
後方にしっかりと占位した数馬と眼が合った。
大尉の顔が、驚愕に歪んだ。数馬の眼が、怒りにぎらついた。
驚愕のあまり、大尉は前方に対する警戒を怠っていた。それが、大尉の運命を決した。
一瞬の間を置いて、交差した弾幕が大尉の紫電改を引き裂いた。
引き裂かれながらも、大尉機は太陽に向かってきらめく破片を撒き散らしながら、炎を吹きながらなおも上昇し、そのまま宙返りの頂点に達した所でついに力尽きたかのように吹き飛んだ。おそらく彼は自分の身に何が起こったのか悟る間もなかっただろう。
『P‐51!』
ぎらつくジュラルミン地肌が自分を襲う刃のように見えた。直上から降ってきた二機のP‐51Dムスタングが、獲物を大尉から数馬に定めるのに時間はかからなかった。はっきり言って強敵だ。それも二機……!
上昇を続ける数馬と二機の翼が背後を取り合うべく交錯した。P‐51の一本の枠も見出せないバブルキャノピーの中に、酸素マスクとゴーグルに覆われたパイロットの顔が一瞬見えた。その直後、数馬は左にフットバーを踏み込み、同時に操縦桿を左に一気に引いた。
一瞬にして数馬は急降下から回復しようとする一機の後背を捉えた。照準器がP‐51を捉えるや否や、反射的に放たれた光弾が一機のエンジンから煙を吐かせた。被弾した敵機のプロペラが止まるのを見るのも一瞬、そこから瞬時に左上方へ上昇し、斜め宙返りに転じた紫電改の背後を追うP‐51の数は、あっという間に三機に増えていた……それらを座席の防弾板越しに横目に見遣りながら、カズマはあらためて敵機の連携の良さを痛感する。煙を曳いてカズマの眼前を追い抜いていく弾幕の矢にも、カズマは怯まなかった。旋回を続けながらの射撃は、滅多に当たらないものだ。
逆転にはまず縦の機動に持ち込むことこそが肝要。そして数馬の眼は、何れ敵機が狙いを付けるべく飛び込んでくるであろう左後方へと集中している。目端の利くやつなら、鼻先を押さえられるこの位置に占位し、カズマの未来位置を撃ってくる。
P‐51の尖った機首が、左後方に飛び込んできた。「撃つ……!」と直感したときには操縦桿を右に倒し、フットバーを左に踏んでいた。機首を左に向けたまま右に滑る紫電改……その旋回半径が膨らみ、やはり後背より放たれた敵の射弾が虚しく空を斬る。そのまま左斜めに上昇に入った瞬間。数馬は立て続けに右フットバーを踏んだ。
『…………!?』
何度目かの宙返りを終え、その眼前に在るべき紫電改を見出せずに敵は驚愕する。数馬の腕の冴えと「捻り込み」。そして新機軸の自動空戦フラップが、紫電改に信じられないほど狭い旋回半径で宙返りを終えさせ、追尾する敵機をオーバーシュートさせたのだ。それは飛行時の加速度をセンサーで感知し、最適な旋回に必要なフラップ開度を自動的に設定してくれる。
「―――――!?」
驚愕も一瞬。後上方からの数連射でたちまち一機が尾翼を折られ、錐揉みとともに銀色の破片を撒き散らしながら雲海奥深くへと突っ込んでいく。そして次の一機は、すでに紫電改の照準機の照星と重なっていた。
だが――
唐突に背後から襲い来る衝撃に、数馬は頭を伏せた。前方の敵機に気をとられるあまり後方から忍び寄った敵のペアに気付かなかったのだ。普通ならありえない過ちだった。
ガン!ガン!ガン!という音が風防を無残に砕き割り、冷たく、荒々しい強風がコックピットを荒れ狂った。浴びせかけられた弾幕が機体の上といわず下といわず暴れまわり、紫電改を傷つけた。コックピットに乱入した一弾が酸素マスクのチューブを引きちぎり、酸素の供給を断った時、『母さん!』それを最後に、数馬の意識は吸い込まれるようにして、消えた。
……それから数分が過ぎた。
空戦はすでに終わりかけ、空を翔る機影は、だだっ広いテーブルの上にまかれたゴマ粒のようにまばらだった。
意識を失った主を乗せた断末魔の紫電改。その向かう先には輝くばかりの白い雲が広がっていた。数馬を狙ったP‐51はすでにいなかった。おそらく数馬の乗った紫電改を撃墜したと見做し、空戦域より離脱したのだろう。緩やかに降下し、その前方に聳える層雲に突っ込もうとする紫電改。だがその向かう先では、天界ならぬ何かが輝き、そして一機の戦闘機に対し空の路を開き始めていた――光は紫電改を取り込み、そして包む。
その荒れ果てたコックピットの中では、数馬の腕にしっかりと撒かれた腕輪が、蒼く静かなきらめきを湛え始めていた。
煌めきはやがて光の触手となって数馬を包み、やがて傷ついた紫電改を包み込んだ。白く分厚い雲が、蒼い光の塊と化した紫電改を、母親のように迎え入れた……そして、数馬と愛機が雲から出てくることはもう無かった――昭和二〇年八月一二日 午後0時未明 海軍飛行兵曹長 弦城数馬 戦死 享年二〇歳 死後海軍少尉
母の胸のような暖かさは、やがて振り下ろされる剣のようなまぶしさに取って代わった。
――まぶしい。
――俺は、生きているのか?
手が、ぼろぼろになった風防に伸びた。伸ばした手の先に、頬に、烈しい風を感じた。
身体の感覚が、機体が上昇しているのを教えていた……機体が、上昇している?
薄い瞼越しに光と温かさを感じる――太陽に気を使いながら、恐る恐る眼を開いてみた。
「…………」
その先には――空があった。どこまでも、無限に広がる大空。
――それは、数馬に与えられた戦いの場。
――蒼穹のかなたに生き、蒼穹のかなたに死す――そう決めて、数馬は蒼穹のかなたを駆けてきた。
――だが、何かが違う。
――不思議な、とらえどころの無い静けさが、数馬を戸惑わせていた。
――辺りは、いままで聞いたことの無い風の音をしていた。数馬にはそう感じられたのだ。
――姿勢を戻さなくては。
――数馬が姿勢を戻そうとしたその時――
――――!?
「島」が、見えた。
水平に戻った紫電改の眼下に、島が広がっていた。その様子に、数馬はわが目を疑った。
「浮かぶ……島?」
雲を割りながら空を漂う巨大な島が、圧倒的な量感を持って数馬の眼前に迫ってきた……操縦桿を握る手が、震えた。いつの間にか眼前に豊かな緑の衣を纏った山々が迫っていた。その上を様々に彩られた鳥の群れが飛び交っていた。そのいずれもが、数馬が初めて眼にするものだった。
「本当に、おれは、生きているのか?」
思わず口に出た。眼の前の、眼下に、後方に、流れてゆく全てのものに対して数馬は無知だった。
「ここは何処なんだ!?」
数馬は思わず天を仰いだ。
蒼穹のかなたに広がる全てのものが、飛び続ける数馬には信じられないでいる。