第七章 「アタシとアンタの物語」
雲の海を一時間近く掛けて越えた先には、空虚なばかりの蒼が広がっていた。ジーファイター戦闘機の群は一斉に編隊の間隔を広げ、何時しかそれらは蒼の一点に浮かぶ黒点に向かい迫るひとつの列となった。列の先頭に至ってはエンジンの出力をだいぶ減らし、フラップと主脚を下しつつある……
ジーファイターの眼前で、数多の鋼材と配線、そして通信塔繋ぎ合せた芋虫の様な艦体が、その行き足を緩慢に絞りつつ艦尾を見せている。
着艦コースに入ったジーファイターは艦尾飛行甲板にその主脚を接し、次には滑走の途上で着艦制動索にフックを引っ掛けて止まった。制動索の拘束を解いたジーファイターは飛行甲板をゆっくりと滑走しつつエレベーターに乗り、そして艦の下層へと呑み込まれるように消えていく。それから再度の着艦作業が始まる。ジーファイター艦上戦闘機の機上に在って着艦に臨む側からすれば細心な操作と度胸、航空母艦「ハンティントン」飛行甲板に在って着艦を受け入れる側からすれば迅速な手際が求められる状況の始まりであった。
着艦作業の基本として、搭載機の受け入れにあたりハンティントンは楕円軌道状に航行を続け、着艦に臨む艦載機は十分な距離を保ちつつ母艦を追い越すように接触し、艦と同じ軌道をなぞる様に旋回し艦尾を追う。着艦コースたるに十分な距離を稼ぐためだ。旋回を続ける内に自然と落ちる速度、操縦士は艦尾に赴く最終旋回コースの途上でフラップと主脚、そして着艦拘束フックを下し、同じく着艦に向けた全ての操作と確認を終える。眼前に見出した艦尾飛行甲板に向かいエンジン出力を絞りつつ、ジーファイターは母艦を追い、そして追い縋る様に飛行甲板に主脚を接するというのが着艦の流れであった。当然、着艦する側から見て一度の座学や訓練で何とかなる種類の操作では無く、些細な不注意が事故へと発展する余地も存在する。
着艦コースの途上でエンジンを絞るタイミングを違え、着艦まで速度が持たずに高度が下がり再度着艦をやり直すという「失敗例」はざらで、ハンティントンの場合、艦の構造上一度主脚を付ければ、そこから艦首へと抜ける前方以外に空間の閉鎖された飛行甲板への着艦には細心の注意が必要となる。目測を誤って艦尾に衝突するとか、飛行甲板に達しても内壁に衝突した際、それは母艦の甚大な被害へと直結するであろう。そのような懸念を払拭するぐらいに着艦動作を鮮やかに終えるのは、まさに操縦士の腕の見せ所であった。
着艦とは、空を飛ぶ航空機が同じく空を飛ぶ飛行艦船に収容してもらうという操作であり、その方法はひとつに止まるものでは無い。ハンティントンのような「着艦」の他、ラジアネス軍にはそれ以前に普及した「収容」の形式があって、「スカイフック」と称されたこの形式の場合、作戦機はその機体上部に拘束用のフックを装備し、収容の際に後下方より母艦に接近、母艦の展張させた制動索に起動させたフックを引っ掛けることで母艦と繋がり、そのまま格納庫へと収容されるという運びとなっている。
簡単な設備の付設だけで後付け的に母艦機能が付与できるという利点のみによって普及が推進されたこの方式。しかし作戦機の大型化と高速化の進行を前に逆に非合理ぶりが目立つに至ったことと、何よりも自軍よりも強大な航空戦力を有する「外敵」の出現が、「スカイフック」を一気に陳腐化させてしまった。むしろレムリア軍の様に本格的な作戦機運用能力を有する艦艇の数が限られ、未だ多くの旧式機を抱えるが故に「スカイフック」は全面的な撤廃を免れている。具体的にはラジアネス艦隊は既存の飛行戦艦及び巡航艦の一部、そして徴用した大型輸送船にエアフックを付設し、旧型機と組み合わせることで急造の護衛空母を進空させ続けているのだった……
『――マザーよりレックス4へ、着艦を許可する。着艦を許可する』
「……レックス4、了解」
既に風防は開けていた。烈しく吹き込む風を胸と頬で受ける。
左に向かい銀翼を傾けたジーファイターの機上から、カズマは彼の降りるべき母艦の舳先を見遣った。航空母艦「ハンティントン」の前後を貫く飛行甲板。舳先にまで達するそれは、長さだけならば日本海軍の航空母艦のそれに匹敵するだろう。
海をゆく航空母艦と同様の質量を有する鋼鉄の塊が空に浮いている。そのようなことが自然の摂理として許される世界に、今のカズマは居る。旋回運動を続ける母艦の艦尾から吐き出される着艦誘導用の発色スモークが空に巨大な楕円を刻み、艦載機が母艦に帰り着くのに必要な指標を与えていた。
カズマは飛行空母の直上を抜け、空の一点に描かれた黄色い線をなぞる様に機を旋回させた。その導く先に自然、ハンティントンの艦尾が見えて来る。最終旋回を終えたジーファイターの眼前に、お世辞にも優美とは言い難い、ゾウの尻を思わせるハンティントンの後姿が重なる。最初に主脚を下し、次に僅かにフラップを下す。地上に降りる積りでフラップを下し過ぎると、空母の奔る高度では却って着艦コースの維持に必要な速度と高度を殺してしまう。
速度計に目を配りつつ片手で操縦桿を握り、もう一方の手で主脚を下すためのハンドルをせかせかと回している。零戦や紫電改のようにスイッチひとつで脚の上げ下げができればいいのに……と思う。それに加えて飛行甲板に滑り込めるようエンジンパワーの加減にも気を配らねばならない。ジーファイターを飛ばすには最低三本は腕が要る、と思う……いや、着艦拘束フックも下さねばならないから四本だ。
「……レックス4、着艦コースに乗った」
着艦に必要な準備全てを終えたところで、目指す飛行甲板上に設置された着艦誘導ランプの並びが、カズマがそのまま母艦に足を踏み入れるのにもう少し機首を下げる必要があることを教えていた。配置上、前中後の三列に並んだ誘導ランプが一直線上に重なった状態を視覚で維持しつつ乗機を接近させれば、機はそのまま飛行甲板に主脚を接することが出来るというわけである。少なくとも教本はそう教えている。艦尾飛行甲板の一隅、白い作業服の人影が、迫る艦載機に向い両手を広げているのをカズマは見る。着艦誘導士官だ。
内輪の様な形状の姿勢指示指標を手にしたLSOが、カズマの前に正対し手を傾けているのが見える。カズマから見て左に傾いたLSOの腕と上半身。それは収容を求めてハンティントンに向かうカズマ機の姿勢でもあった。姿勢を修正するカズマに合わせる様に、LSOの上半身と腕もまた水平に帰る。眼前に飛行甲板の終端が迫り、航過する主翼のすぐ下に隠れた。
「――――!」
接地の衝撃!――反射的にスロットルレバーを全開へと導く。全速で出口の見えないトンネルを潜る様な感覚は、次には烈しい衝撃を伴った不意の制動となってカズマの躯を揺さぶった。拘束フックが飛行甲板に幾重にも渡された制動索の何本目かを捉え、最大出力のジーファイターを停めたのだ。何時しかジーファイターの足許に出た誘導員がハンドライトを振り、カズマにエレベーターへの前進を促した。着艦が上手く行ったことに安堵する暇は無かった。彼の後に着艦に臨む機が、あと一個中隊分はハンティントンの外にいるのだから。
主翼折り畳み装置のロックを外しつつ、カズマはジーファイターをエレベーターの位置まで滑走させた。エレベーターは収容された艦載機を直接下層の格納庫に運ぶ手筈になっている。それまでにカズマは既定の回転数までエンジンを絞り、エンジンを停止させねばならない。着艦が上手く行ったからといって充実感に浸る暇も、逆に操作を誤ったことで込み上げてくる憂鬱に我が身を委ねる暇も、飛行甲板の上には無かった。
そのカズマのジーファイターの足許では、数名の整備員が分厚い主翼を畳む作業に取り掛かっていた。エンジンが完全に止まり、カズマは用具入れを手にジーファイターの操縦席から腰を上げる。急いで降りなければ、本来飛行甲板に程近い艦橋部の待機室に赴くべきカズマもまたそのままエレベーターで下層の格納庫へと連れて行かれてしまう。迷路の様に入り組んだ艦内を踏破し待機室に戻るのは面倒臭いことこの上ない――エレベーターから離れたカズマの眼前で、完全に主翼を折り畳まれたジーファイターが警報ブザーに見送られて格納庫へと呑み込まれていく。
『――飛行甲板各員へ、再度の着艦に備え』
「…………」
三年前、最初の実施部隊に配属されて間もない頃、瀬戸内海で繰り返した練習空母「鳳翔」への着艦訓練をカズマは思い出している。
海軍の搭乗員として空母航空部隊への配属は花形とされ、いずれは自分もその列に加わりたいと思っていたものが、カズマが日本海軍において航空母艦と関わることのできた時期は、結局は着艦訓練という僅かな間でしか無かった。それはカズマが適性面で不備を晒したわけではなく、乗るべき空母も、空母が乗り出すべき海も戦いに明け暮れた三年の間に無くなってしまったからである。開戦から半年余り、太平洋からインド洋に渡って暴れ回り、一時期は世界最強の艦隊と呼んでも過言ではない陣容を誇った帝國海軍機動部隊はそれから幾度もの海戦を経た末に消耗し、遂には開戦から二年目の、レイテ沖での戦いで止めを刺されるに至ったのだ。
それから翻って海では無く空を行く航空母艦への着艦。奇異な光景に驚くよりも奇妙な廻り合せを思い、カズマは眼前の課題をこなしていった。彼個人の感触としては飛行空母への着艦は艦に収容されるというよりむしろ、空戦で大型機を追尾する様に似ているように思われた。より具体的な言い方をすれば敵の爆撃機に距離を詰め、目測の誤り様が無い近距離から銃撃を仕掛けるのに接触の手順が似ている。
飛行甲板ではすでに後続の艦載機を受け容れる準備が始まっていた。操縦士たるカズマに居場所は無く、カズマはそれを待機室に求めるしかない。艦橋部に続くラッタルに足を踏み入れた時、カズマは思わず緩み掛けた頬を引き締めんと試みる――今回の着艦が訓練ではなく、実戦であることを思い返して。
しかし――
「しまった……!」
あることを思い出し、カズマは小さく叫ぶ。既に格納庫に収められた乗機、マリノ‐カート‐マディステールに半ば押し付けられるように託された「荷物」が、機の胴体に眠っている。
「――休暇は返上だ。我々の任務は船団護衛ということになった」
カレースタッドの属するコムドリア亜空陸から、より広範な空を隔てたリューディーランド諸島に跨る空図を背景に、カレル‐T‐“レックス”‐バートランド少佐は言った。ただし週末の休暇をふいにされたことに不満を抱くでもなく、むしろ待機室で187飛行隊の面々に向き直るその顔は月下のススキのように涼しげに見えた。実戦に臨む部下と同じく、指揮官たるバートランドもまた行動を欲していた。
「――第105空母戦闘航空群はこれより船団護衛任務を行う。戦闘097はハンティントンの護衛、そして我々187は環空洋に向かう疎開船団の護衛だ。この疎開船団には途上までリューディーランド方面に向かう空兵隊の輸送船団が同航し、レムリアンの警戒圏外まで出たところで分離した後、北方からの増援を得てリューディーランドに向かうことになっている」
「北方からの増援」という一言に、最前列に陣取るジャック‐“ラムジー”‐キニー大尉を始めとする飛行隊の幹部たちがざわめくのをカズマは察した。カズマの様な異邦人でも今となっては彼らのどよめきの意味が判る。この空域から北方と言えばそれは即ち世界の中心を意味する、この世界における政治の中枢たるラジアネス特別区だ。「アレディカ戦役」以降、同胞たるラジアネス市民の目から見ても異常なほどに戦力の集積が図られている「聖域」――それを象徴する固有名詞を口に出したのは、キニー大尉であった。
「では、『クロイツェル‐ガダラ』が……」
「そうだ。『ガダラ』が出る」
バートランドは頷いた。旧型戦艦を改造した「正規空母」こと「クロイツェル‐ガダラ」は、就役そのものは「ハンティントン」よりも早かったが、就航後の完熟訓練スケジュールの都合から「アレディカ戦役」の戦禍を逃れ、以来幸か不幸か一度として防備の厳重な中部大空洋より出て来ていない。彼女の南大空洋への展開は戦力の補強であるのと同時に、ラジアネスの大空洋艦隊司令部が南大空洋における「決戦」を覚悟したことの、何よりの表れではあるまいか?
「空兵隊の護衛を『クロイツェル‐ガダラ』が引き受ける。ハンティントンはコムドリア東方空域及び航路の安全を確保し、ガダラの任務を支援する」
今まで中部大空洋に停め置かれたこともあり、ハンティントン側にとって『クロイツェル‐ガダラ』は乗員、そして飛行隊の訓練面ではハンティントンよりも恵まれた状況下にある様に見え、それは恐らくは真実であった。
「つまるところ、艦隊の作戦としては貴重な正規空母二隻を別々の戦域で行動させ、レムリアンの判断を狂わせることにある。やつらが空母攻撃に使う戦力の振り分けを躊躇わせるための小細工ってわけだ。古人曰く、二兎を追う者は一兎も得ずと」
「そう上手くいくでしょうか? レムリアンの指揮官が正常ならばこう考えるのではないですか? 最も攻撃し易い位置に在る一隻を、その持てる全力を注いで叩く、あわよくば返す刀で残存のもう一隻を……と」
「そうであってもレムリアンの反応次第によっては奴らがこの広大な南大空洋の何処に居て、フレスルの次にリューディーランドとリムドリアの何処を狙っているかってことだけはわかる。連中の位置によってはガダラが狙われることもあれば、矛先がハンティに向くこともあり得るだろうが……」
「それに……」と、バートランドは続ける。
「……別に空母だけ働けって言ってるわけじゃない。カレースタッドには編成途上の飛行隊もいるし駐留艦隊もいる。北方の船団護衛でもリューディーランドの航空戦力が協力してくれるし、中部大空洋方面からの艦艇も付く。まあこっちは一時的なものだろうが」
反応は無い。背景の空図を見遣り、バートランドは状況説明を締め括る。
「……おれとしては、レムリアンの指揮官が優柔不断であることを祈るだけだ。迷えば迷うだけ攻撃は徹底を欠くってものだからな」
「ボーズ、ちょっと話がある」
状況説明を散会させて間もない内に、カズマはバートランドに停め置かれた。深刻な話という風でも無いことは、眉一つ動かない隊長の表情から察せられた。
「着艦の様子を見ていたが、ブランクがありながら教科書通りにやってのけるのは大したもんだ。何かコツでも掴んだか?」
「自分としては空戦で敵機を追尾する様な感覚で着艦コースを取る様にしています。それならばすんなりと飛行甲板に入れますので。あとは……ジーファイターの安定性がいいのかな、と……」
「謙遜だな。おれは実はジーは好きじゃないんだよ……風を感じられないからな」
カズマには思い当たる節があった。隊長は余程の時以外は風防を開けてジーファイターを飛ばしている。複葉機時代の、風を胸に受けて飛ぶ感覚から逃れられないでいるのだ。強いて言えばカズマ自身の癖もバートランドに近かった。離着陸時には大抵風防を開けているし、空戦訓練でも状況によっては風防を開ける。個人的な指向というより風防に視界を塞がれる様な感覚が、カズマには「見張り」の邪魔に思えてしまうからであった――経験の蓄積が、カズマに空を「直に見る」ことを心掛けさせている。
「お前さんは、おれとは別の理由で風防をオープンにしているみたいだな……」
「…………」
ふたりは暫し、互いの顔を見詰める。沈黙を破る様に口火を切ったのはバートランドの方だ。「そこで本題だが……」
「……お前さんの機付を替えようと思うんだが。どう思う?」
「マリノのことですか?」
バートランドは頷いた。
「『荘厳なる緑』のこともあるし、彼女が技術者として優秀なのは認める。だがカレースタッドでの件から察するに、傍目から見てもお前さんと彼女がこれから巧くやっていけるとは思えないな」
「じゃあやっぱり……」
「……お前さんを憲兵にチクったのは、少尉だ」
「…………」
傍目から見ても拙い関係に見えるのだから、出会ってからこれまでの相克を顧みても修復の望めない間柄になりつつあるのをカズマは自覚している。それを承知でマリノとペアを組み続けるのは愚直というものなのであろうか?……とカズマは迷う。
「それで……自分がマリノと切れるとして、彼女はどうなるんですか?」
「空母を降りることになるだろうな。その後は教育部隊の教官に逆戻りというのが順当なコースだ。別に彼女のキャリアに傷が付くというわけじゃない」
「だから心配するな」という目をバートランドはした。注がれる眼差しを正面から受け止めきれず、カズマは横目遣いに考え込む。
「マリノと話をして決めたいのですが……構いませんか?」
それを否定する意見をバートランドは持たなかった。話が終わり、待機室を出る間際にバートランドの足が止まる。「ああそうだ……」
「……ブフトルが、お前さんに顔を出せってよ」
「ブフトル?」
「ブフトル‐カラレス軍医長がな、お前さんに礼をしたいそうだ。ついでにおれからもこの場を借りて礼を言う。戦術立案の件と、あとは……」
そう言って、バートランドはグラスを呷る仕草を見せて笑った。悪戯っぽい目だとカズマは思った。そういえばバクルにも、同じことを言われた気がする。
まるで作戦行動とは思えぬ静寂が、夜陰に包まれつつ飛ぶハンティントンの内外を覆い始めていた。その巨体は遠方からの視認を妨げるべく薄雲の棚引きに身を任せていたが、艦体の各所で瞬く航行灯が彼女の試みを悉く無に帰してしまっている。敵の跳梁こそ皆の共有する情報となっていたが、正直なところ、敵と接触するという予感は艦内の誰もが持ち合わせていなかった。そのような雰囲気を孕みつつ、ハンティントンはカレースタッドから一路東に進んでいる。
ハンティントンの下層――格納庫では、航法訓練も兼ねた夜間哨戒飛行に臨むBDウイング艦上攻撃機の一群が、整備員に取巻かれて上層の飛行甲板に向かおうとしている。ロケット弾や空雷といった対艦兵装は施されていなかった。飛行の目的を艦隊の前方警戒と敵艦の捜索に絞ったこともあるが、夜間故に味方の艦船や民間船への誤爆を恐れた向きもある。攻撃飛行隊の搭乗員は夜間飛行の経験こそ十分に積んでいるだろうが、それが夜空の下で敵味方の識別経験をも含むという確証は何処にもなかった。現に帰艦時のブリーフィングの席上で名前の出たもう一隻の正規空母「クロイツェル‐ガダラ」所属の攻撃機が、民間船を敵の工作船と誤認し「やらかした」ことをカズマはすでに知らされている。一線級の戦術単位を練成する以上この手の事故は付き物だが、巻き込まれた民間人からすれば堪ったものではないだろう。
格納庫の隅に追いやられた戦闘機群に近付く、若い操縦士のことに注意を払う者は攻撃飛行隊の中にはいなかった。照明の届かない格納庫の隅を、カズマは工具を手に乗機を探り当てる。何気なく見上げた格納庫の天井、薄暗い中に分解された補用機の胴体や主翼、他の予備部品が縛られ、所在無げにぶら下がっているのが見えた。その殺風景な様にカズマは気圧され、そして気を取り直しつつ胴体のアクセスパネルに工具を差し込み、こじ開ける――
考えることは、みんな一緒か――胴体内の空洞に半身を乗り出して引き摺り出した「荷物」を抱え、カズマは嘆息した。外目は軍用の背嚢だが、内容物はキャンパス生地越しの感触から何となく察せられる。物陰で封を開いたその中にあったのはやはり琥珀色の酒瓶と葉巻の束、そして軽食の類だった。
背嚢を背負って居住区に向かう途上でカズマは思う――これじゃあまるで便利屋だな、と。だがこれが正面切って話をする切欠に転じたのは幸いというべきか……
「カズマ!」
「…………!?」
聞き慣れた声であっても、状況が状況だけに背筋をびくつかせることに変わりは無かった。カズマが振り向いたその先で、クラレス‐ラグ‐ス‐バクルが息せき切って駆け寄ってくる。当然の如く弾んだ息からは、仄かにアルコールの匂いがした。
「軍医どのが呼んでるぞ。カズマにハーランチーズをご馳走したいってさ」
ハーランチーズ?……この世界の高級食材だったっけ?……などと考えつつ、カズマはバクルに向き直る。
「早速はじめてるんだ?」
「バートランド少佐も来てるぞ。医務室は今やちょっとした士官クラブさ、飛行隊のワルどもの溜まり場も同然だな」
「それはいい」
「他人事みたいに言うなよ。カズマも創業者の一人なんだぜ? 『ブフトル‐カラレス商店』のな」
カズマはばつ悪そうに俯いた。同時にカズマが背負う背嚢に気付き、バクルは表情を曇らせる。
「……商売ごっこも、程々にな」
カズマは苦笑しつつ頷き、再び通路を歩き始める。
当初は一歩踏み入るだけでも迷路の只中に在る様な困惑を強いられた飛行空母の艦内であったが、今では我が家とはいかぬまでも住み慣れた場所の様な居心地の良さすら感じるまでになっていた。兵員居住区を抜け、一般士官専用の居住区域へとカズマは歩を進めている。居住区の一番奥にあるマリノの「個室」は、本来なら相部屋のところを空兵隊の威力で同室の主計士官を大部屋へ追い出したと専らの噂だった。
「マリノ様専用 勝手に入ったらコロス」
そのマリノの部屋の入口。赤いスプレーで殴り書きされ、ケバケバしく落書きされたドアをカズマは呆然として見つめた。気を取り直してドアに手を伸ばすのに多少の勇気が要った。
「…………?」
ドアを叩いたが反応はない。この時間帯は部屋に居るって聞いていたのに……
「マリノ……?」
ドアの向こうに人間の気配が感じられないこと、単にものを届けるだけだという軽い気持ちが、カズマに覗きを誘わせた。
それでも静かにドアを開ける。その途端に部屋から湧くように飛び込んできた強烈な匂いに、カズマは思わず咳き込んだ。部屋に充満した煙草の臭いであることぐらいすぐに判った。かつての海軍時代も、ヘビースモーカの多いベテランパイロットに接することで良く嗅いだ匂いだったが、これは何度嗅いでも嗅ぎ慣れない。カズマは煙草が嫌いだった。同僚の手前、格好だけ吸おうと思っても、肺が嫌悪するので結局は諦めた。
点けっぱなし、だが薄暗く保たれた白熱灯の周囲では、もやもやとした煙が複雑にのた打ち回っていた。壁一面に張られた名前も知らない俳優やバンドのポスターはほとんど黄ばみかけ、雑誌や教本が山積みされたガラステーブルの上では、灰皿に盛られた吸殻が未だ紫色の煙を燻らせていた。ガラステーブル――軍人の部屋というにはあまりに生活感があり過ぎる調度だ。
「…………?」
教本――カズマはテーブルの一冊を手に取った。それは整備や工学に関するものではなく、航法に関する教本だった。かなり読み込まれ、各所に傍線の引かれたページをぱらぱらと捲る内、カズマには思い当たるものがあった。
「マリノ……操縦志望だったんだ」
整備員から搭乗員を目指す人間の存在は、この世界でも共通のものらしい。普段はあれほど性格の悪さを印象付けている一方で、人知れず努力しているマリノのことがカズマには微笑ましかった。もしそのままモック‐アルベジオに残っていれば、より充実した環境で勉学に励むことが出来たのかもしれなかった。それを思えば、ハンティントンに配属が決まったときの荒れようも理解できようというものだ。
そこまで考えて、カズマは溜めていた息を吐き出した。マリノがここへ来たのは、その大本を辿れば彼女の下で訓練を受けていた自分にも責任の一端があったのかもしれなかった。今更ながら込み上げて来る後味の悪さに、カズマは自然と口元を引き締めた。机の片隅。何か光るものを視線の片隅に認めたのは。そのときのことだ。教本とか雑誌類とは明らかに趣の異なる分厚い装丁の書物の上に、見慣れない装飾を施した首飾りが乗っていた。
「…………?」
十字架かと思ったが、少し違った。地金特有の鈍い光沢を放つ、一方向に向かい曲線状に捻じ曲がった十字架。そのデザインはカズマにあの「鍵十字」を思い起こさせた。ゆっくりと延ばした手が首飾りを取り、書物の一ページを捲る。
「……天に益します我らが主よ。我らエルグリム一同あなたに全てを委ね、あなたの意のままに闘争に赴かん。悪魔を滅し、エルグリムの敵を平らぐことに永遠の平安を見い出させ給え」
エルグリム?……さらにページを捲ろうとしたカズマの背後に伸びる腕に、カズマは気付かなかった。
「――――!?」
凄まじい力で襟を掴まれ、その次に天地が逆転する。三半規管が抗議の声を上げるまでも無く伸びた足――それは躊躇なくカズマの顔面に振り下され、衝撃と共に彼の僅かな意識を消し飛ばした。
――炎天下のグラウンドを、少年達はずっと走り続けていた。
一人の学生が無造作に収納棚に押し込んだハンモック。それを上海陸戦隊にも参加したことがあるという、歴戦の勇士たる教班長は見逃さなかった。
「先に巣立って行った先輩達が皇国のために前線で血の汗を流しているというのに、このザマは何だ! 予科練の名を泣かすつもりか!?」
班の全員を予科練のグラウンドに並ばせ、一通り説教を打つ教班長の節くれ立った手には、樫の木の長い棒。通称「直心棒」が握られていた。それを、根元から折れるぐらいの勢いで練習生の尻に振り下ろすのである。
その痛みに耐えてもなお、カズマの属する班は解散を許されなかった。予科練の一年生達は教班長の号令一下、グラウンドを延々と走らされた。終わるのは教班長の気分次第なのだ。学生をしごき上げるのに、正当な理由など必要なかった。教班長の仕事とは、予科練の隊門をくぐって間もない娑婆っ気の抜けない学生達を、何かと理由を見つけ、あるいは理由を作ってはしごき上げ、苛め抜くことにあったのだ。
何時終わるとも知れない苦役に耐えかねて歩調を乱し、倒れこむ同期生のことに構っている暇などなかった。が、半死半生の体で苦役を耐え抜き、倒れこむようにグラウンドに滑り込んだカズマに、災難は再び訪れた。解散し、身体を引き摺るようにして宿舎に戻る途中ですれ違った上級生の一群に対する敬礼を怠ったのである。教班長と同様、上級生に対する服従もまた、予科練の学生達には要求されていたのだった。それに反した者に対する制裁もまた、同じく過酷だった。
――日が沈みかけた予科練の宿舎の裏手ではなく、空を征く飛行空母の艦内のどこか。
背中に直に伝わってくる機関の振動で、カズマはゆっくりと目を開けようとした。それでも、晴れ上がった左目がいうことを聞かなかった。今度は舌打ちし、口の中に血の味を感じながら、カズマはゆっくりと壁から半身を起こそうと試みる。身体の節々がいやな軋みを立て、カズマの顔を歪ませた。動かない身体に鞭打ってとった胡坐の姿勢のまま、カズマは呆然と甲板の一点を見つめ続けた。口を拭った手には、既に固まりかけ黒ずんだ血がこびり付いていた。空調ダクトから吹き込んでくる気流に、散々掴まれて乱された髪の毛が揺れた。
背後から身体の平衡を崩した後の、駄目押しの蹴り――そこまでは覚えている。恐怖は無かった。カズマにとってそのようなものは海軍に入隊した初年から連日の殴打と懲罰で摩耗してしまっている。戦場の不条理に馴れ、恐怖心を無くすという意味では、ああした懲罰は確かに意味があったのだ。それを今更のように感じていることに、おれはこの世界に長居し過ぎたのだなとカズマは漠然と思う。
辛うじて開けた右目の先に人影が見える。見えた瞬間はひとつだった像がぼんやりと左右に別れ、時間を掛けてさらに鮮明な像を紡ぐ――つい先刻まで自分が探し求めていた人影を認め、カズマは胸のむかつきを覚えた。
人影の傍で火が生まれ、それは濃い紫煙の棚引きとなってカズマの嗅覚を擽る。そして硬いブーツの歩みが近付いてきた。
「――――!」
激情に任せたブーツが壁を蹴り、それは凄まじい振動と音をカズマの頭の傍に生んだ。カズマはと言えば漸く効き始めた片目を薄く開き、ただ呆然と蹴りの主を見上げていた。煙草を咥えた無表情な女の顔――それが何故か悲しく、儚いものに見えて仕方が無かった。
「起きた?」
感情の無い、じっとりとした瞳が傷付いた男の顔を伺う。自分の反応が、彼女の不本意なものであったことにカズマは気付く。マリノ‐カート‐マディステールは見たかったのだ――不条理な暴力の行使の前に怯え、助けを請う自分の姿を……
「……残念だったな」
「ハァ?」
怒りに満ちた反問が、カズマを抉る様に見返す。その語尾が震えていた。怒りというよりは衝撃のなせる業であるようにカズマには聞こえた。
「アンタ、見たでしょ?」
「何を?」
「シルエクロスとドール」
と、マリノは言った。ああ、あれか……ガラステーブルの上に置いてあった歪な形の十字、そして古ぼけた書物をカズマは思い出す。
「只の飾りじゃないか……」
「……見たのね?」
「…………」
「だからっ!……見たんだろうがっ!」
再び突き下されたブーツが、強かに壁を打つ。マリノから目を逸らし、カズマは言う。
「見たところで何なんだよ?」
素直では無い、と自分のことを思う。そこでマリノの動きが止まり、彼女が発散する空気が変わるのをカズマは感じる。直線的な殺意が薄れ、逡巡が漂って来た。彼女自身も自覚している逡巡が嫌で、マリノは話を変えたのがカズマにはわかった。
「まあいい……いい機会だ。アンタとは、少し話したかった」
マリノの目線が下がり、カズマのそれに並ぶ。脚を開いた中腰の姿勢から野放図に豊かな胸、引き締まった腹筋、丸い肉付きの腰がありありと眼前に迫って来るのが見える。だがその持主は、万物に対し冷酷な程にじっとりとした瞳を輝かせていた。兵士の眼と似ているが、兵士の眼では無い……戦場の兵士よりもずっと人間の闇の部分の深淵を見て来た目だと、カズマは思う。
「アンタ、生まれは何処?」
「…………」
「言いたくないか……軍隊に来る前は流しの造船工だっけ?……まあ、色々とあったみたいだしね。レムリアンじゃないことは確かだろうね。こんな貧弱な背丈のレムリアンなんて聞いたこともないし。でも……」
語を継ぎ、マリノは声を低くした。
「何かは判らないけど、とんでもないことをやってきたって顔だ……アンタは」
「…………」
カズマはマリノから目を逸らす。この世界ではカズマの過去は未だ、カズマ一人の占有物であるべきだった。
「『荘厳なる緑』……あの時アンタはあれを自分のものだって言った。本当?」
「本当だ……それ以上は何も言えない」
応じると同時に、炎に包まれるモック‐アルベジオを紫電改で離陸した記憶が脳裏を過ぎる。そこにマリノの冷たい言葉が追い縋る。
「いま此処で、アタシに殺されても?」
「ああ、殺されても」
自分でもわからない内に、カズマは微笑っていた。自分でも嫌な顔だと思った。何時しか何度か生命の危機に陥る度、このような顔をするようになっている。嫌な癖だと思う。
「アタシも、ここまで来るのに色々とあったクチでね」
マリノは笑った。並びのいい、白い歯がカズマの眼を僅かに和ませた。それであっても親愛の情など微塵も感じられない、常人ならば正視に堪えない笑いだ……カズマは眦から感情を消した。不意に、自分をこのような状況に追い込んだ女に対する怒りが込み上げてきた。
「…………」
無表情……だが、険しさを増すカズマの眼光に怯んだ様子も見せず、マリノはその場に腰を下ろした。と同時に、二人の視線が同じ高さで正対し、そして交叉する。
「アタシは……この世に生まれた瞬間に這い上がり様のない闇の底に墜とされた。まともな方法じゃ這い上がることすらできない永遠の闇。実際、一番大切なものを棄てない限り此処まで来ることなんて、アタシには出来やしなかった」
「…………」
「とにかく、生きるために考え付く限りのことはアタシは何でもやった。そうでないと野良犬のように惨めに野垂れ死んで行くだけだったもの。それもこれも皆、あの戦争のお陰……ラジアネスの地上人に吹っ掛けられた意味のない戦争で、二度と立ち上がれないくらいに叩きのめされた結果さ」
「…………」
「……まあそれはいい。当事者の都合なんて、あの頃母親の胎の中にいたアタシには関係のないことさ。でも……ドブ塗れの地べたを舐めさせられるようなあの暮らし……連邦捜査局に怯えながら、政府の犬や変態どもに怯えながら生きてきた日々……あれは今思い出すだけでも腹が立つ!」
カズマは何も言わなかった。言おうにもマリノの独白が、結果的に今では完全にカズマを彼女自身の意識の外に置いていることをカズマは察している。
「新しい人生を掴んで、政府軍の士官になって、やっとこさあの戦争の呪縛から解放されたと思ったらまた戦争……あんたら地上人って、ひょっとして救い難い位の大馬鹿なんじゃないの? 他人の領域に平気で土足で踏み行って、正義だの自由だのを呪文のように唱えるだけでどんなことをやっても許されるとアンタ達は思ってる。殴り返されるまで、アンタ達以外の未開人は簡単にひれ伏して、言うことを聞くものと思い込んでる……!」
「ガイ……アン……?」
「驚いた……歴史の教科書を読み返してみることだね。レムリアンの言う地上人とおんなじさ。ひょっとしてアンタ、ハイスクールで歴史の単位落としたくち?」
そこまで言って、マリノは表情を怒らせた。自分の言葉がカズマに伝わっていないことに今更ながら気付いたかのようであり、それは事実であった。しかしカズマの無知に、マリノは怒ることすらできなかった。呆れるように息を漏らし、マリノは再び口を開いた。
「ホントのことを言うとさ……アタシとアンタのこれまでなんて、今のアタシにとっちゃもうどうでもいいんだ……アンタがどうやって此処まで来たのか、これから此処で何をしようかなんてアタシには興味はない。ただし、シルエクロスとドールのことみんなにバラしたら――」
笑顔が消え、虚無が端正な顔に浮び出る。
「――アンタをコロすから」
マリノは立ち上がった。しかしカズマをそのままに部屋を出ようとしたマリノは、そこで予期せぬ声を掛けられる。
「マリノ」
「…………?」
「おまえ、ハンティントンから降りるのか?」
「…………」
「やりたいことがあるんだろ? じゃあ、これまでのままでいいじゃないか。でも……」
「でも……なに?」
「この作戦が終わるまでの間は、おれの機を見てやって欲しいんだ」
「嫌だって言ったら?」声に、苛立ちが聞こえた。
「おれの機付きでいろよ」
何も言わずに部屋から硬いブーツが遠ざかる。その歩調は、最初の時よりも慌しくカズマには聞こえた。取り残されたという空虚と、ボイラー音と空調の稼働音のみが生み出す静寂の中で、カズマは抗い難い眠気に身を委ねつつ呟くのだ。
「マリノ……おれは今日はそれが言いたかったんだよ」
夜も更け、他に使う者のいない士官用のシャワー室で、温水の奔流が虚しい響きを奏で続けている。剥き出しの配管が縦横無尽に張り巡らされた天井から勢い良く噴出す温水に、マリノは先程からずっとその長身を委ねて立ち尽くしていた。拳を叩き付けられたタイルが割れ、微かではあるが切れた拳から流れる朱に染まっていた。
温水にも拘らず、血の滲んだ拳が未だにわなわなと震えていた。形の良い口を真一文字に結んだまま、焦点の定まらないブラウンの瞳が、彼女が普段見せない狼狽振りを如実に物語っていた。豊かな上に、先端からピンと張ったバストと、芸術的なまでに括れたボディラインが、土砂降りのように降りかかる水を小気味よく弾き返していた。筋肉質と瑞々しさの均整の上に完成された流線型を、彼女は最良の形で持っていたのだった。多くの男たちがマリノにそれを意識しないのは、それを意識する以前の段階で、彼らの嗜好の範囲を超えた彼女の長身に圧倒される余り、一切の性的歓心を削がれてしまうためであるからに過ぎない。
「チキショウ……!」
シャワーで流し落そうとしても落ちない衝撃、シャワーの雨の中でマリノはそれを拭おうとしてもがいている。
あれは彼女がこの世界に生まれ出て以来、ずっと隠す事を強いられ、隠し通してきた秘密だった。人間誰しも一つくらいは他人に知られたくない秘密を持つ。だがマリノの場合は少し事情が違った。一度外に漏れれば、パイロットという自分の将来の志望はおろか、今まで気付いてきた社会的地位さえも否定されかねない秘密……それを彼女はこの世に生を享けたときから持っていたのだった。あのマヌエラ‐シュナ‐ハーミスにすら、気のいい空兵隊の仲間達にすら、マリノは自分の秘密――というより正体を打ち明けたことがなかった。
「チキショウ……」
打って変わり、怒気の消えた声でマリノは呻き、涙を流す。
自分の秘密、それを……あいつはいともすんなりと知る立場になってしまった。あいつ、あいつっ……あの、ツルギ‐カズマがっ……! あの時自分は明らかに混乱した。初めて会ったときから、自分に欠けている何かを、あの生意気な少年のような若者が全て持っていることを自分は本能的に悟っていた。
マリノはそれを否定したかった。あいつには負けたくなかった。だから、あの時は混乱して、あいつを締め上げた。普段持ち出すことのない階級と腕力に物を言わせて髪の毛を掴み上げ、普段誰も通らない第三機関室側の補修財置場で、徹底的に殴り、蹴り上げた。
しかしあいつは――あの時の光景を思い返し、マリノは肩を震わせて泣く。
おれの機付きでいろよ――あの時、聞き間違えの無い言葉をマリノは聞き、脳裏で反芻する度に震える。
不本意な言葉、だがその言葉はマリノをその芯から揺さぶった。振り下ろされる拳の前に倒れ込んだあいつが許しを乞うたならば、自分の優越感は満たされ、自分の怒りはすぐに収まったはずなのに、あいつはそうしなかった。反抗しようと思えば出来たのに、それすらもしなかった。最後まで、あいつはある意味有りの侭の自分を受け容れたのだ……そこまで思い当たったとき、マリノの瞳から熱いものが溢れてくる。止めようがなかった。結果として自分は、あいつの前で余計なことまで口走ってしまった。それも、これまで秘めてきた憤懣まで――
どうして!? なぜ!? どうして!?
困惑が更なる激発を誘い、激発に任せ振り下ろされた拳が壁のタイルを打った。何度も……何度も……壁の一点がたちまち朱に染まり、勢いを増す拳が皹を拡げていく。
翌朝、二日酔いですっかり食欲の失せたマリノは、士官食堂で食べたくもない盆をフォークで突付いていた。部屋に置かれていた酒類の包みが全ての始まりであったことに気付くのと同時に、マリノはそのうち一本を一晩で空にすることで忌まわしい体験を消そうと試みたのだ――が、結局は徒労に終わった。憤懣を晴らす――否、破滅の待つであろう明日を忘れるのに、禁制のバーボンひと瓶を空けてもなお足りなかった。
明らかにアルコールが入ったとしか思えない彼女の様子に気付いた者はその場に少なからずいたが、空兵隊、それも艦内でトップクラスの格闘技術の持ち主に、わざわざ注意するような命知らずなどいるわけがない。しかしそれが彼女には意外だった。彼女の「秘密」が公になった結果として、皆が敵意を向ける風でもなく、それでいて避ける風でもない。もう取り戻せないと思ったいつもの風景が、今日もそこに存在し続けていたのだ。それでも、声をかけてきた者は、いた。
「君、ちょっといいか?」
険しい眼つきで歩み寄ってきたその好青年が、レムリアからの亡命者であることを、マリノは知っていた。そして、あいつと同室であることも……
「何さ? レムリアンの少尉さん」
「昨日、カズマに何をした?」
その口調に、友好的な要素など全く含まれていなかったが、強烈なまでの隔意もまた、含まれてはいなかった。マリノは、目を逸らすようにした。
「勝手にあたしの部屋に入ってきたんで、ぶっとばしたやったわよっ」
「やっぱりそうか……」口調に苦々しさが一層に募るのをマリノは聞く。
「あいつ……何か言ってた?」
「階段から落ちた……そうだ」
「そう……他には?」
「なに?」
「だから……他に何か言ってたかって聞いてんのよ」
「何も……それにしても、やりすぎだっ……!」
「仕方ないじゃん……あたし、空兵隊なんだから」
青年の荒い語気を前に、マリノは目付きを虚無に委ねる。正対した者を気押し、見る者によっては正視することすらあたわなくさせるじっとりとした眼差し――だが今となってはこの眼を前に一寸も怯まなかったあいつと、あいつ以外の男を比べるという選択肢がごく自然にマリノの心中に備わってしまっている。このレムリアンはどうだろう?……と。ブラウンの瞳の中に広がる虚無、静かだが、精神の芯を握り潰さんとする程の気迫を前にバクルは眉を顰めつつ踏み止まり……やがては汚いものを見たように眼を逸らすのだった――マリノは失望する。思えば男ってやつはみんなこうだ……あいつ以外の男は。
「愚かなことをする」吐き捨て、憮然として離れて行くバクルの後姿を見届けると。マリノは溜めていた息を吐き出した。
そうか……バラしてないのか――濃霧を貫く日差しのような安堵感がマリノの胸を満たし始めていた。
その朝、昨夜から部屋に姿を見せなかったカズマの変わりようは、やはりバクルを驚かせた。老婆心からあれこれ事情を汲もうとする彼を言いくるめるのは、敵機を撃墜す以上に難事であるようにカズマには思われた。
どうにかその場を乗り切り、兵員食堂へ向う途中で、もう一人、カズマに声をかけてきた者がいた。
「坊やじゃないか。その顔はどうした?」
酒臭い息を吐きながら、カラレス軍医長はカズマの肩を叩いた。苦笑して黙りこくったカズマの顔を、軍医は覗き込んだ。
「医務室に来た方がいいな。せっかくの美形が台無しじゃないか」
「今日にでも行こうと思ってたんです」
「よし、じゃあ今行こう」
「飛行が終わってから行きますから……」
「フライトってお前……」
「じゃあ、そういうことで」
軍医を振り切り、待機室に滑り込んだカズマにとって午前中のブリーフィングもまた、やはり苦痛だった。投影機に哨戒飛行の飛行経路を映し出し、任務内容を説明するバートランド少佐の視線が、三十秒に一遍の割合でこちらへ廻って来る。他の隊員たちの視線もまた、それに準じている。夜間の哨戒を担当する攻撃機隊の一方で、戦闘機隊は昼間の前方警戒及び周辺空域の哨戒を担当している。艦が実際に敵影を見出し得る空域まで未だ距離がある。そのことが艦内の雰囲気に有事でありながら、平時に対する近似値を取らせつつあった。このような空気の中では、カズマの変わりようなど茫漠たる大洋の中に佇む孤島の如くに際立ってしまう。
……ブリーフィングが終わると、カズマはやはりバートランドに呼ばれた。
「どうしたボーズ?」
「自分は……あの……」弁解を試みる度に舌が縺れるのは口内を切ったせいだけではなかった。困惑と狼狽をその表情で点滅させるうち、バートランドは苦々しい表情を作って見せた。
「……階段からでも、落ちたか?」
カズマを凝視するバートランドの目が、不思議な光を湛えているのにカズマは気付く。必死に悪戯を隠そうとしている生徒を生暖かく見守る教師。といった印象をカズマは受けた。
「はい……階段から、落ちました」
「下手すりゃ飛行機に乗れなくなるからな……程々にしとけよボーズ。ひょっとして……」
「は……?」
「……空兵少尉とその拳で話し合いをしたんじゃないだろうな?」
「いえ……」伏し目がちに、カズマは応じる。それでもバートランドの表情には苦笑が残っていた。
「……ならばいいんだ。彼女は空中観念はからきしだが、地を這って相手を半殺し以上に追い込む天性には恵まれている。並の空兵のつもりで付き合うと痛い目を見るぞ」
「わかっています」
「彼女の場合、作戦が終わってからの転属も決まっていることだし、機付きを変えるか?」
「いえ、彼女……いや少尉はそのままに置いて頂きたくあります」
「いいのか?」
「お願いします……!」
カズマの顔が上がり、凛とした眼光が、未だ腫れの退かない瞼の下に宿るのをバートランドは見る。それは彼にとって、部下の決心への同意を誘われるよりむしろ、決心に対する困惑を以て受け止められる光であった。
飛行甲板で待つジーファイターの側では、既に多くの整備員が取り付いていた。
主翼を折り畳んだ機体を牽引機で的確な位置まで牽引し、エンジンカバーを開けてはオイルやプラグの状態を点検する……飛行前の、そのいつもの光景の中にマリノもいた。朝一番に覚悟した任務解除の指示は、ついに下りなかった。それ故に抱いた夢の中に居る様な気分に、作業に集中する意識が格納庫で時を過ごすにつれて勝りはじめ、彼女はそのまま飛行甲板上の喧騒を織り成すいち要素として艦内に融け込んでいた。
待機室のある区画から装具とパラシュートを担いだまま飛行甲板に一歩を踏み出すパイロットの一群を、マリノはジーファイターの狭い操縦席に陣取り、スイッチ類の点検を終わらせたところで認めた。自分があの環の中に混じるのを当然と思ってきた日々が、今となっては遠い昔のことであるように彼女には思われた。軍隊に入りたてのあの頃、決して不可能ではないように思われた空への希望が、地平線の彼方にまで遠ざかろうとしているのだろうか?……それは未だ認めたくはなかった。
希望に満ちた操縦士たちの環。その中に平然とジーファイターの列線に向かい歩を進めるあいつの姿を見出した時、マリノは軽く声を上げる。だがその声は発進に臨む飛行甲板上の号令や機械音の交差に吸い込まれ、そのまま消えた。そしてあいつは仲間と別れ、危なげのない歩調でまっすぐと此方に向かって来る。
「…………」
マリノの凝視する先で、胴体からコックピットへと続く足掛けを昇るカズマ――何の躊躇いもわだかまりも表に出さずにカズマはコックピットへと手を掛け、マリノもまた腰を上げて席を譲った。操縦席がそこに座るべき者の占めるところとなり、カズマは何も言わずベルトを使い座席に自身を繋ぐ。そのカズマの横顔を、マリノは操縦席のすぐ外に在って無言の内に見守る。
最初に口を開いたのは、マリノの方だ。
「昨日のこと……バラさなかったんだ」
「……何のことだよ」
「え……?」
「……女にぶっ飛ばされたなんて、恥ずかしくて皆に言えるはずないだろ」
計器板から眼を離さないまま、カズマは呟くように言った。マリノは目を細めた。それからさらに無言のままカズマの横顔を伺っていた。
面白く無さそうにカズマは呟いた。
「あっちいけよ……こんな見っとも無い顔の……ドコが面白いんだよ」
「アンタ……」
何故か、目の前の男に対する隔意など消えていた。自分の置かれた情景に対する漠然とした微笑ましさが、マリノの胸中を覆っていた。今までこの艦に至る彼女の人生で、少しも抱いたことのない心からの安寧をも伴っていた。
ゆっくりと、マリノはコックピットから離れた。その場を離れるのに勇気が要った。甲板に足を下ろして数歩進んだところで、マリノは歩みを止めた。後ろを振り返らずに、彼女は言った。
「何故……どうして、殴り返さなかったの?」
「だって……悪いのおれじゃん。勝手に人の部屋に入ってさ……罰ぐらい、ちゃんと受けなきゃあ」
「罰……なるほど、罰ね」
「でも、あの蹴りは効いたなぁ……」
後に続く乾いた笑いを、マリノは確かに聞いた。再び少し歩いて、再びゆっくりと、というより恐る恐るといった感じで彼女は背後を振り向いた。その視線の先には、何時ものように計器類に熱心に目を通しているあの小柄な青年の姿があった。発進第一陣の中で、離陸に臨んでもあいつだけは風防を閉めないことにマリノは気付いた。機上で浴びる風の心地良さを知っている者の挙作だ。
後ろ髪を惹かれるような思いを、彼女は初めて知った。




