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第六章  「追憶と感慨のあいだ」

 ツルギ‐カズマにとって、この世界に放り出されてから通算三度目の「収監」は、拍子抜けするほどの短い間に終わりを告げた。


 もっとも、被疑者に対し強引に自白を誘うとか、軍内における進退をチラつかせて脅しを掛けるような強引さからは、この世界の憲兵隊は無縁であった。何よりもカズマが取調室で釈明をしている間に、コンクリートの壁一枚を隔てた憲兵隊オフィスでは一連の騒動にまつわる種々の証言が引っ切り無しに入って来ていて、雰囲気としての釈放の気配がカズマの肌にまで伝わってきたことが、自ずと彼を安堵させていた。


 それでも、カズマや彼の知人の言う「正当防衛」の内容に、疑義を抱いた取調官が皆無であったわけではない。単に喧嘩で(あざ)を作ったり頬を腫らしたりするだけならばまだしも、鼻や足の骨を折る様な仕儀に出るのは如何なものか……というわけだ。要するにカズマはあの夜、「やりすぎた」のである。従ってカズマの行為が実際に軍法上の過失に算定され得るか否か結論を出すのに、少なからぬ時間が必要であった。その間、当然ながら本部内の営倉で寝起きするわけで、不自由であることは結局免れ得ない運びとなってしまう。モック‐アルベジオでの経験から、カズマ自身は最低でも一週間の勾留を覚悟したものだが、結局は僅か三日という、意外なほど短期の後に彼は勾留を解かれることとなった。独房は狭かったが、食事の質はモック‐アルベジオよりも良かった。


「――ツルギ空兵、釈放だ。貴官の身柄を原隊に預ける」

 営倉を出る際、看守の憲兵伍長は厳かに告げたものだ。完全な無罪放免では無い。原隊に戻って別命を待て、ということである。執行猶予か――少なくともカズマはそう理解した。訛った身体を持て余すかのように首を鳴らしつつ、晴れてオフィスの外に出たカズマを、意外な人間が待ち構えていた。

「ヨッ!」

 路肩に付けた軍用地上車の運転席から、カレル‐T‐バートランド少佐に声を掛けられた時、カズマは今の自身のなりに少なからず戸惑う。カズマの困惑を察したようにバートランドは苦笑し、助手席に乗る様手招きした。

「このバーカ」

 カズマの搭乗を見計らい、呆れた様な声と共にスターターが唸る。その後には噛み殺した笑いが続いた。

「……空兵隊(スカイヤーズ)とはおれも昔は嫌って程やりあったが、お前さんのようなワンサイドゲームは経験したことが無い。初陣にしては大したものだ」

「では少佐が……?」

「ジャックが艦長に嘆願書を書いてもらわなかったら、禁固一カ月コースもあり得ただろうな。礼ならやつに言うといい」

「申し訳ありません……」

 項垂れるカズマを、車を走らせつつバートランドは横目に見遣る――全く、あんな大立ち回りをやらかす様な顔には見えないのに。だがそこが、こいつの面白いところでもある。憲兵隊オフィスを置いていくかのように車道を走り抜け、スピードを得始めた車上で、バートランドは言った。

「謹慎二週間だ。当分飛行機には乗せられねえ。自重しろってことさ」

「……はい」

罰則(ペナルティ)とやんちゃは一本の軸に繋がれた車輪のようなものだ。どっちにしろ片方を無視すれば道を逸れちまう。ちゃんと釣り合いを取れば、道を踏み外さずに行きたい(ところ)へ行ける」


 車が走るにつれ、ハンティントンのいる埠頭からも街からも遠い場所に向かっていることをカズマは悟る。ファー‐カレースタッドの方向だという予感は、すぐに的中した。幹線道路を疾走した車が、広大な敷地の端に差掛る。滑走路を忙しげに通り抜けて上空、あるいは地上へと向かう艦載機の影――

「――それでお前さんにひとつ、やってもらいたいことがある」

「え……?」

 顔を上げたとき、ハンドルを握るバートランドが涼しげにカズマの顔を覗き込んでいる。



 暗夜に静まり返った内陸と、漆黒に染まった空岸線の各所には、明らかに人工と判る赤青……そして黄色の光が生まれていた。

 黄色の光に向かい、小舟は夜空を進んでいる。儚い舟足であった。黄色い光、規則正しく列を作って瞬く光が、空港の港内を奔る連絡艇専用の係留区域であることを小舟の主は知っている。小舟は折からの強風に煽られて左右に揺れつつも、船首を不意に曲げることも無く、船尾に在って舵を与る者に忠実であり続けた。


 係留用の埠頭、人影のすっかりと消えたそれを目前にして、小舟はその航行灯を消した。此処から先大型船は入れない。その一方、陸からは推し量れぬ闇の中に消えた小舟は人気の無い、護岸すら行われていない様な岸辺まで奔り、そこに乗り上げて止まった。飛び降りた一人が陸地に足を付け、手近な岩盤に固定用のロープを結ぶ。星明りの下でもそうと判る鮮やかな、空の暮らしに馴れた者の手際であった。雪崩を打つように複数の影が陸を踏み、彼らを見届けた後、最後の一人が悠然と、あるいは舞い降りる様に陸に一歩を標す。

「――先ずは街に入る。そこで夜を明かし、出直すことにする」

 女性の声が聞こえる。先に陸を踏んだ影の誰もが、それに対し従順であった。



 クラレス‐ラグ‐ス‐バクルは、ほぼ一週間ぶりでハンティントン艦内の通路を歩いている。

 彼の属する艦載機部隊の訓練が陸上を舞台に継続している一方で、カレースタッドにおける彼女の停泊状態もまた継続していて、その様はさながら「開店休業」という言葉を連想させた。この港に入るまでに、艦をひとつの戦闘単位として機能させるための訓練はさんざんやったそうだが、入港から二週間近くの時間が経過した今となってはその効果も薄れつつあるように見える。さらに具体的に言えば、来るべき戦闘に臨む緊張感が、平穏な後方を前にした弛緩に取って替わろうとしていた。ハンティントン自身がどう動いていいのか判らないというより、彼らの司令部も、現にハンティを与っている幹部連中もこの巨艦をどう扱えばいいのか判らない……というのが本当のところなのだろうとバクルは思っている。


 頼まれた荷物を艦内に運び込むのに、幼児の背丈ほどの大きさを有する旅行鞄一つが必要であった。武器を隠そうと思えば艦内でひと暴れ出来るくらいのそれが十分に入る大きさ。それでも乗艦口を固める衛兵に嫌な顔一つされなかったのは、バクルが飛行隊の士官であることもそうだが、ブフトル‐カラレス軍医の名を出したからだろう。

 医務室のドアを軽く叩き、気だるそうな男の声が応じるのをバクルは聞く。しかも、酒焼けした声だ。


「――女か? それとも野郎か?」

「当ててみてください」

「――何だ。野郎か」

 それはバクルにとって、入室を促す言葉に聞こえた。ドアを開けて一歩を踏み込んだ先で、赤銅色の肌をした無精髭の男が、不機嫌そうに眉を顰めて待っていた。医官であることはランニングシャツの上に羽織った(しわ)くちゃの白衣から辛うじて判った。

「女みてえな顔だな……何処を直して欲しいんだ?」

「ツルギ‐カズマ空兵から、と言えば話が通じると伺っていますけど」

「――――!」

 途端に、軍医の顔に喜色が溢れ出すのをバクルは見る。物堅い表情であることは相変わらずだが、微かに開いた愁眉が彼の内面を雄弁なまでに物語っているように見えた。旅行鞄を彼に渡し、それを開いた軍医の喉が飢えた犬宜しく鳴るのをバクルは聞いた。ウイスキーのボトル。容量からして巧くやれば以後一カ月は飲み延ばせるだろう――軍医が人並みな酒量の持主であれば、だが。

「ボーズはどうした?」

「彼なら……(おか)で色々とありましてね。あと二週間くらいは艦に戻れません」

 カラレス軍医の口元が歪んだ。そして次の瞬間にそれは、堰が切れたかと思わんばかりの爆笑となった。

「ガッハッハッハ!……あいつ、あの済ました面で相当な遣り手らしいな。カレルのやつも使い甲斐があるってもんだ!」

「カレル?……187飛行隊のバートランド少佐のことで?」

「おうよ」とカラレスは頷いた。

「あいつとは学校(クラス)が一緒だったんだ。おれは二年で飛び出しちまったんで卒業までは付き合ってやれなかったんだがな」

「親しかったんですね」

士官学校第59期(クラス059)危険牌(ジョーカーズ)って言えば、結構売れてた名前だったんだがなぁ……まあ、過ぎちまったことは仕方ないか」

「…………」

 洒脱な口調にバクルは顔を綻ばせた。運命を掌る女神の采配が指一本程の差で狂っていれば、この軍医も白衣では無く艦隊の制服を着、ハンティントンの戦闘部署の何処かに立つことになったのかもしれない。薬品保管用の冷蔵庫から抜け目なくグラスと氷を取り出しカラレスはバクルに座るよう促した。冷蔵庫のドアが開いた僅かな間、薬の瓶の林立する中でチーズの塊とハム、そして鰯の油漬けの缶詰が当然のように鎮座していることに気付き、バクルは呆気に取られてしまう。


「一杯飲んでくだろ? 配送料代わりってやつだ」

「いえ……また基地に戻って訓練がありますので」

 始まったばかりの訓練の中身を考えると、アルコールを入れるのは拙かった。それ位のことがいま、ファー‐カレースタッドの空では行われている。一方ではカラレスもまた真剣なバクルの眼差しを察し、表情を引き締めてくれている。

「そうか……残念だな。じゃあボーズとカレルに宜しく頼むぜ」

 部屋を出る間際、バクルは呼び止められた。「ボーズが帰ってきたら――」

「――此処に寄るよう言っておいてくれ」

「…………」

 会釈――それが、バクルの明快な承諾の返事。



 艦の事務室に向かい所用を済ませ、バクルの足は飛行甲板へと向いた。主たる飛行機の影が完全に消えたその広範な空間は、今や留守を預かる乗員たちの肉体を苛め抜く、艦上の練兵場と化していた。何よりもハンティの場合、艦上部を占める広範な飛行甲板がそれを可能にしている。甲板の全周を走り続ける者。下士官の号令に従い体操を続ける者。艦の指揮官が非番の乗員を漫然と遊ばせておくような怠惰と無縁であることを、明快に証明する光景でもある。


「――クズども気合を入れろ! その調子ならあと二十セット追加するぞ!」

 威厳と軍歴の蓄積を具現化したような野太い声が、拡声器越しに響き渡っている。一定のリズムの下で伏せと直立を繰り返す兵士たちの列。拡声器を手に彼らの周りを歩き、動きの滞る兵士を怒鳴りつけ、あるいは激励する。ハンティントンの最先任下士官に昇格したマイロ‐O‐デミクーパー空兵隊上級曹長の場合、彼自身の精悍な容姿も重なって、兵員総体の練度底上げに打ってつけの人材であるように思われた。


 そして――


「…………」

 飛行甲板の端――筋力練成器具の置かれた一角に見出した人影に、バクルは眼元を曇らせた。

男性が持つにしても過重とわかるウエイトのベンチプレス。黙々とそれを繰り返す女が独り。確か彼女は――

「マリノといったか……」

 呟くバクルの口調には、微かな隔意がある。


「…………!」

 格納庫を見下ろすように配されたキャットウォークの一隅に見出した「レムリアン」を、マリノはベンチプレスの台から見据えた。眼が合うのも一瞬――否、それすら合ったかどうかも判らない内に――「レムリアン」は踵を返し、飛行甲板の外へと歩いていく。ダンベルを収め、マリノはクラレス‐ラグ‐ス‐バクルを目で追うように半身を起こした。滝の様に流れる汗のせいで、濃緑色のシャツがどす黒く濡れていた。

 タオルで顔の汗を拭いつつマリノは鉄棒へと向かう。今はとにかく、何も考えず身体を動かしていたかった。懸垂の要領で両脚を鉄棒に掛けて背を逸らし、勢いを付け腹に力を入れる。鍛え上げられた腹筋は、彼女の上半身を軽々と上へと持ち上げてくれる。


 嫌でも込み上げてくる思念――転属願を書くべきだろうか……マリノは今、そのようなことを考えていた。

 ツルギ‐カズマが収監から僅か三日で自由の身となり、今ではファー‐カレースタッドで謹慎状態にあることをマリノは人伝に知った。「兄弟」の仇を討つための試みは結局のところ頓挫し、その後には拭い様の無い憤り、そして後悔が残った――やっぱり、あのとき殴り殺しておけばよかったという後悔。拘引されたにも拘らずあいつは飛行資格を取り上げられることも無く、飛行隊から追い出されることも無く、今も着々と軍内における足場を固めつつある。

 なんて嫌なやつ……逆さまの状態で腹筋を五十回続けたところで、マリノは彼女の考えをまとめた。腹筋が悲鳴を上げるも、マリノはそれを無視して満身の力を込めて半身を擡げる。苦痛と意志を脳内で分離することに彼女は人生のごく早い段階から馴れていた――要するに、苦痛を無視することに。その代わり、一層別の雑念が入って来る余地が精神の何処かに生まれてしまっている。


 ツルギ‐カズマを自分の周囲から()う試みはこれで三度目だったか……その何れもが結局は失敗した。そして自分があいつの追い落としを試みる度に、あいつのこの狭い世界における立ち位置は強くなっているように見える。軍隊という狭い世界――何時しか腹筋のピッチが上がり、回数が三ケタを超える。同時に、苦痛が無視出来得る水準線を越えて自身の肉体を蝕みつつあることにマリノは気付く。


「――――!」

 脱力!――大量の汗が、見上げた先の床で池を作っている。限界に達した身体が重力に引っ張られたまま動かない。辛い――

「クソ……!」

 此処に居ない誰かを罵り、歯を食いしばり再び腹筋に力を入れようとしてもがく。


 そして彼女はふと考える――そういえば、軍隊(ここ)に入る前のあいつは、何処に居たのだろう?


 というより――

 あいつは、何処から来たのだろう?



 一歩を踏み入れた時に比べ、港は喧騒に満ち溢れていた。

 特にブルーパインピークと称される小高い山を跨ぐ一角はそうだ。カレースタッドの港湾を一望できるそこにはおよそ五十年前、カレースタッド特産の硝石採掘で財を為した人物が居を構えていたのだが、今となっては山の頂上一帯を占める(やしき)と庭園が残るのみとなっている。一代で財を為した彼個人の実業家としての才幹が、彼の血脈と共に後世に受け継がれることが無かったこともあるが、何よりも独立独歩を旨とする叩き上げの実業家らしく、中央政府への隷属を善しとしなかった彼の態度が、実業家としての彼の大成に陰を刺したことを指摘する者も決して少なくは無かった。その実業家、オリックス‐カリバーは、カレースタッドをもその領域に包含するコムドリア共和国建国運動の熱心な推進者の一人であり。彼の主義は必然的にラジアネスの拡大と衝突する運命にあったのだ。衝突は、当時のラジアネスを揺るがした「エルグリム戦争」の勃発とも重なり、結果的に中央政府の彼に対する心証の悪化は、そのまま富豪カリバー家の衰亡に直結したというわけであった。


 足を踏み入れたのが漆黒の闇が支配する時間帯ではあったが、一度日が昇れば、港は圧倒的な景観と威容とを以て侵入者たちの眼を驚かす。ラジアネスの首都から遠く離れた辺境の港とは聞いていたが、タンカーは元よりドッグ船や貨物船を改造した移動式修理施設の存在は想定外だった。港の中央埠頭を寝床とする「最優先目標」――ラジアネス軍航空母艦「ハンティントン」――が霞んで見える程、様々な攻撃目標に目移りしてしまうのだ。あれらの中のどれを破壊すれば、我々の戦争に好影響を与え得るのだろうか?……と。


「…………」

 双眼鏡が、最初にそれを向けたハンティントンに戻り、そこで男は双眼鏡を覗くのを止めた。ハンティントン周囲の警戒は決して厳重ではないが、入り組んだ埠頭故に短空雷で攻撃するのは難しい。より具体的に言えば、地形的な制約を突破して攻撃位置に付けるのが難しい。彼自身歴戦の操縦士である男は、何よりもそれを痛感していた。

「…………?」

 足元に何かが触れたのを察し、男は下を見る。発条仕掛けの熊のぬいぐるみがひとつ。彼の足を乗り越えようとしてもがいている。息を弾ませて駆け寄ってきた幼児がひとり、男の足に向かい覚束ない足取りで駆け寄って来た。見下ろす男の訝しむ視線に気づき、幼児は頭を上げて男に顔を強張らせた――泣き顔。だがそれは、ぬいぐるみを手にし膝を屈した男の、慈しむ様な笑顔により容易に霧散してしまう。

「大事にしないとな」

 直にぬいぐるみを抱かせ。男は幼児に言った。そして幼児に親元へ戻るよう促す。それだけで幼児は踵を返し、再び元来た道を走り去っていく。

「子供は可愛いもんですね。レムリア人も地上人(ガリフ)も……」

「……まあな」

 ズボンの砂を払いつつ男は部下に応じた。その睨む先には、人間の海が広がっていた。決して広いとは言えない庭園。だがそこを溢れさせんばかりの数を誇る地上人の群、また群。しかも一目で独りと判る者はいない。彼らの何れも上等な服を着、彼または彼女の伴侶と睦まじく邸内を歩き回り、あるいは港の眺望に眼を遊ばせている――その眺望故に閉鎖されることも無ければ、警備兵ひとりとしていない展望台の情景。


 男は思った――こいつら、自分たちが戦争をしていることを忘れてるんじゃないのか? 俺たちとの戦争を。

 そのとき、内陸の方向から爆音が微かに聞こえ、それが男達の注意を惹いた。爆音は空から迫り、そして展望台の傍を近距離で航過するラジアネス軍の機影となる。

「攻撃機か……」誰かが言った。一機に続き二機、それに続いて機影は三機、四機の纏まりを個々に為して港の上空を通過し、外目だけは立派な編隊を形成しようとしている。その姿に、男は眼を瞬かせた――機体の識別章が新しい。


「新編された飛行隊か……」呟き、そして思い当る。地上人はいま、新しい機材を陸上で慣熟させているが、空母飛行隊である以上いずれは外空に出る必要が生じる。あるいは無理やりにでも空母の出航を促す状況を作れば、攻撃の機会はより増すかもしれない。こちらの襲撃を迎え撃とうにも、彼らに離着艦に習熟した操縦士は少なく、それ故に空母固有の戦闘力もまだ低い筈である。

「ルヴィ准尉!」

 人ごみから離れたところで、一人の部下が息せき切って駆け寄ってくる。小脇に抱えたスケッチブックを開き、その青年は言った。

「これでどうでしょうか?」

 スケッチブックを取り上げて一瞥し、ルヴィ准尉と呼ばれた男は相好を崩した。青年の画風が彼らの目的に合致したことの、それは何よりの表れであった。

「警戒が厳重では無いことを知っていたらカメラを持って来ていたところだが……よく描けてるぞ」

 青年は気恥かしげに笑った。頂上から一望したカレースタッド港の全景、その中心にはしっかりとハンティントンの艦体が収まっている……さり気無く腕時計を覗き、ルヴィ准尉は部下たちを顧みる。

「時間だ。隊長と合流する」



 長閑さの中にも一定の活気を保った街中を抜け、軍用地上車は郊外へと通じる道を走り続けている。

 胸に風を受けて走らせる内、クラレス‐ラグ‐ス‐バクルは、幹線道路から見渡せる外の変化に思わず我が目を見開いている。以前走った時にはただ荒廃たるに任されていた平地が、今では魁偉な形状の装軌車両が走り回る演習場と化していた。

 空兵隊か――過日の苦い記憶と、現在目の当たりにしている光景が微妙なブレンドで脳内に渦巻いている。無限軌道のお化けのような上陸輸送車(LVT)の車体が傾斜を昇り、そして降りる度に烈しく揺れ、停止した車体後部からは完全武装の空兵隊員が吐き出されるようにして散開していく……そう言えば、現在飛行隊が展開しているファー‐カレースタッド飛行場でも空兵隊の士官の姿を頻繁に見る様になった。


 航空支援(エアサポート)という、上級司令部の経由を介さない直接的な対地攻撃の形態を試行し、確立させるための研究と言っていたっけ……講堂に集まったバクルら操縦士を前に、筋骨逞しい空兵隊の士官は熱っぽく彼の構想を語っていた。航空機と直接交信可能な無線機を持つ空兵隊員を前線に配置し、作戦機はその誘導に従い地上の目標を攻撃する……以前に衝突した空兵隊兵士と違い、頑健な体躯の中にも知性を湛えた士官の言葉は、今でもその概要を諳んずることが出来る程、バクルの脳裏に入ってしまっている。

将来、大空洋の何処かで上陸作戦が行われるとすれば、上陸の先鋒を担う空兵隊に航空支援を提供するのは空母飛行隊の役割となるだろう。ただし飛行隊の側とて現状ではレムリア艦隊への対処に忙殺されており、その将来が何処まで延びるのか知れたものでは無かった。そこにバクルの懸念がある。


 ファー‐カレースタッドに通じる車の流れは(まば)らだが、行き合う車の姿には華があった。自家用車の比率は此処だけでは無くラジアネスの施政権の及ぶ土地では高い。それがバクルには、レムリアからラジアネスに旗の色を換えて一年近くが過ぎた今でもなお新鮮に見える。彼が生まれ育ったレムリアでは最下層民が乗用車を所有することは許されず、庶民でも車を入手までに幾度かの「審査」がいる。そして当人が実際に車のハンドルを握れるようになるまでには優に五年近くの歳月が掛かるのだ。ひと四人乗るのがやっとの、綿と紙バルブを混ぜた繊維材製の「標準大衆車」――車体のデザインから内装に至るまで全てが殺風景なまでに画一的なそれが、今のバクルには何故か懐かしく思えて来た。何故ならそれが、バクル自身がレムリアに残して来た少年期の情景のひとつであったのだから――



 ――バクルがまだ幼い時分、父は「神により導かれし地」レムリアの外からやってきて、寛大なるレムリアの配慮によりこの地で生きることを許されたのだと息子に言った。それが地上世界よりレムリアにとって有用な人間を略取し、生涯レムリアに奉仕させるのを意味することに息子たるバクルが気付くのに、それから十年も要しなかった。地上世界に在って当時最新の飛行船舶用推進機関の研究に携わっていたバクルの父は、それ故に「土台人」――レムリアの協力者たる地上人――に目を付けられ、囚われの身となった末にレムリアまで拉致されて来るに至ったのだ。


 技術者一家としてのバクル家の暮らし向きは、「客人」として階級的な配慮もなされていたこともあり、地上人というレムリアでも異端の出自にそぐわず、決して悪いものでは無かった。レムリアでも北の涯、閉鎖された工業都市にバクルが生を享ける前から父はその街で政府の計画に従事し、レムリア人の母と出逢い結ばれた。異邦人の技術者と下級労働者の取り合せ――それは結ばれたというより(あて)がわれたと言った方が正しいのかもしれない。それでも夫婦は互いを愛そうと努め、結果としてバクル家には常に円満さが備わっていた。父がそうであるように、バクルと姉は成長し軍籍に入るまで生まれた街から出ることは無かった。父の他、街にはやはり地上から連れて来られた人々が政府の工場や研究所で働いていて、バクルは彼らからまだ見ぬ地上世界の様子、そして生活について聞くことが出来た。監視役のレムリア人の手前明白にそうとは言わなかったが、彼らの大半が自由意志に基づかないままここに暮らしていること、レムリア人の教師や友人が言う「穢れた地上世界」が、その実全くの虚構であることをバクル少年は子供心に感じ取ったのである。ただしその感慨を、バクルは両親に対してすら口に出すことは無く、ずっと胸の奥に秘め続けた。


 学業の傍らで少年期のバクルは研究所に詰める父の手伝いをし、同時に父の研究の一環として飛行機の操縦を教わった……とは言ってもバクル少年が街で飛ばすことを許されたのはグライダーに毛の生えた程度の軽量動力機でしかなかったが、その事実は、地上人の血の流れる息子に翼を与えてやれるくらいに、当時の父がレムリア人の信頼を得ていたことの何よりの証明であったのかもしれなかった。

 やがてレムリアの軍はより多くの空戦士――戦闘機操縦士――を欲し、父と懇意であった軍の技術将校の推薦を得たことが、バクルをして街の外の世界へと旅立たしめる切欠となった。学業でも飛行士としても弟より優れた――少なくとも、弟はそう思った――姉はバクルより一足早く街の研究員から軍の士官候補生へと進み、弟は空戦士生徒として父母に見送られて街を出、飛行学校に進んだ。実技と学科において良好な成績を見せる一方で、バクルが街では決して見ることの出来なかった……否、街に閉じ込められることで巧妙に隠されてきた「真のレムリア」に直面したのは、このときのことであったのだ。


 自分が、レムリアという世界において「異端者」であることを思い知らされ、叩きのめされた瞬間――将校の振り上げた拳がバクルの顔を正面から捉え、バクル青年は漸く抱き掛けたレムリア人としての自意識と共に泥濘に崩れ落ちる。

合いの子(デガリフ)め! 分を弁えろ!」

 純粋なレムリア人、出身階層でもバクルより上の教導飛行隊の幹部は、バクルを見下ろし無感動に吐き捨てた。上層部の方針に意見し、若年の空戦士生徒に操縦に関する助言をしていたという、レムリア人として至極真っ当な行為の結果として、バクル青年はレムリア社会の不条理に晒されることとなったのだ。「合いの子」という自身に投掛けられる蔑称を知ると同時に、街にいた時よりも激しい好奇、あるいはそれ以上に激しい軽侮の視線にバクルは晒された。純粋なレムリア人でないが故に、レムリア人よりも劣等とされる地上人の血が流れているが故に、バクルはレムリアに対する忠誠心と操縦技術の程を疑われ、操縦資格を取り上げられそうになったこともある。それでも精神に挫折を抱くことなくバクルが空戦士の称号を掴み得たのは、レムリアが地上に対する開戦の意思を固め、それがバクルの周囲では空戦士教育期間の短縮に繋がったこともあるが、何より外の世界に在って接するに至った「地上人」の境遇に、怒りを覚えたからでもあった。


 不条理に対する、若い怒り――

 地上人は、あの街だけではなく外の世界にもいて――


「父さん……」

 追憶交じりの呟きは、対向車を認めた瞬間、絶句へと装いを変える。

「――――!?」

 オープントップの車が一台。赤いスポーツタイプの車だ。バクルが我が目を疑ったのはその流麗な外見ではなく、その後席から対向車たる軍用車に視線を流す女性――

「隊長……!?」

「――――!?」

 銀髪の美女――此処に居る筈のない女性の姿を見出し、さらには眼が合った。動揺がバクルをして急ブレーキを踏ましめ、ホイールをロックした車は路肩まで危うげに滑って止まった。一方であの女性もまた運転席の自分を見出し、驚愕を隠さなかったことをバクルは悟っていた。

「そんな……嘘だろ?」

 恐る恐る背後を顧みつつ、バクルは呟いた。赤い車は、すでにカーヴの向こう側に消えていた。



「……今のは、ラグ‐ス‐バクルではなかったか?」

 既に通り過ぎたカーヴを顧み、セギルタ‐エド‐アーリスは言った。ただし表情に生じた動揺は、潮が引く様にすぐに消えた。その一方で前席にあってハンドルを握る部下の様子は違った。バックミラー越しにハンドルを握る男の顔は、未だ青白い。

「しかし信じられません……やつは前年のエラン攻略戦で死んだと聞きましたが」

「彼の最期を見た者はいない。彼を指揮する立場であった私と(いえど)もな……」

 それは事実であった。セギルタにとって、クラレス‐ラグ‐ス‐バクルは飛行中隊時代の部下であり、それも優秀で忠実な部下であった。彼自身の身体に流れる地上人の血故に、心無い同胞の猜疑と悪意に晒されつつもレムリア空戦士としての忠節を全うした筈の青年の顔がありありと思い出され、そして先刻の軍用車の主と重なる――本当に、彼であったのか?


「ラグ‐ス‐バクル……彼の儚い立場には注意を払って来た積りだったが」

「ではやはり……」

「いや……他人の空似であろう」

 素っ気なくセギルタは言った。過去を顧みる余裕など当面は無い筈だ。それは全てが終わってから為すべきであった……その全てで、今の戦争の帰趨は決まる。




 南大空洋(サウ・パシフィカ)西端 フレスル諸島――


 浮遊島の子供達は空腹を忘れ、自分たちの遥か上空で繰り広げられている情景に目を奪われていた。子供達の頭上いっぱいに広がる蒼い空間には、幾つもの白い軌条が個々の集団ごとに間隔を維持しつつ様々な方向へ直進し、曲がりくねり、運動の結果として名状しがたい幾何学的な模様を描き出していた。


 ほんの一週間前に、後方での戦力再編を名目にここフローネン島の属するフレスル諸島の防衛を放棄し、住民を置き去りにしてラジアネス政府軍の守備部隊が撤退してしまって以来、この空域における空の往来は途絶した。本格的な入植活動が始まった二十年前から食糧供給の過半を外部からの移入に頼ってきたこの島において、それは深刻な事態ではあった。そして一週間が過ぎ、今度はレムリア軍の機動部隊が近辺の空域に侵入してきた。


『先行隊よりタイン‐リーターへ、島近辺に目立った動きはありません』

 フローネン島上空を先行する戦闘機中隊の報告を聞き流しながら、タイン‐ドレッドソンはジャグル‐ミトラをゆっくりと旋回させた。タインの直接率いる小隊のはるか下には、十数条の飛行機雲が地面を這う蛇の群れのように蠢いていた。銀翼を翻して周辺を飛んでいるのは全て彼の指揮下にある戦闘機で、個人的な反目こそあれ、これだけの数の戦闘機隊の指揮に関し一切の自由な裁量を任せたセルベラの意図を、内心では図りかねている彼がいることもまた事実だった。


 編隊主力の後方に回り込む途上、速度を調整するために少しずつスロットルを絞ると。水平の姿勢に戻ったジャグル‐ミトラはちょうど編隊を背後から見下ろす姿勢になる。多数の編隊を作戦空域の最上層から指揮する身分でありながら、実のところタインはこの任務にあまり乗り気ではなかった。自分が出るまでも無い、経験の浅い幹部が指揮に馴れるのに打ってつけの任務だと思った。ただし、自分に戦闘機二個中隊を与えてこの島に送り出したセルベラ‐ティルト‐ブルガスカの真意も判らないでは無い。何よりこの島々はカレースタッドという港から七百空浬あまりの距離でしか無い。そしてカレースタッドという港には、ラジアネス軍で唯一の稼働空母がいる。俺たち――レムリア機動部隊――の進出を受けて、空母はどう出るだろうか?


 より安全な空域まで退くにしろ、レムリア軍との決戦を欲するにしろ、地上人の空母は港を出ることになるだろう。ただしタインたちがセギルタ‐エド‐アーリスのために出来得るのはここまでであった。別方面での新たな攻勢に備えた戦力の保全がその理由であった。


 攻勢の目標は、浮遊大陸リューディーランド。

 現在制圧下にあるフレスル諸島とコムドリア亜大陸の中間に位置するその浮遊大陸は、また同時にリムドリア亜大陸と中部大空洋(セン・パシフィカ)とを結ぶ中間地点でもある。リューディーランドを抑えることは、それら両者の交通を遮断することにも繋がるし、そして何よりも、その北方に広がる中部大空洋(セン・パシフィカ)の地上には、首都ラジアネスがある。敵とて無能ではなく、自らの首都を敵の眼前に晒すような状況を放って置く訳が無い。リューディーランドにレムリア艦隊が迫って来たというだけで、防衛のためその貴重な艦隊を動かさずにはいられないはずだ……侵攻が始まれば連中は、必ずなけなしの艦隊を繰り出してくる。そこを待ち構え、我々は叩く。つまりリューディーランドへの侵攻作戦自体。セルベラからすれば敵艦隊主力を誘き出す餌であった。


 本来ならば、ラジアネス軍唯一の正規空母だるハンティントンの撃滅は、このリューディーランド侵攻に先駆けて為されるべきものであった。空の傘の無い艦隊が如何に陣容を誇ったところで、長距離を高速で踏破し接近して来る攻撃機群の前に脆弱であることは、先の大祖国空戦――ラジアネス側呼称「アレディカ戦役」――で空前の損害を以て証明されている事実である。このまま決戦へと段階が移行すれば、ラジアネスの残存艦隊に有効な空の傘と矛を提供すべき役割は、ハンティントン一隻に帰されるべきものとなるであろう。


 艦艇の絶対数で劣勢なレムリア艦隊が地上人に対し完全な優位を確保するためにも、ハンティントンの命脈は絶っておくべきであった……が、刺客というべき襲撃隊は過日アルベジオ港において、未だ船渠という名の揺籃(ゆりかご)から這い出ることあたわぬ状態にあったハンティントンの破壊に失敗し、尚もカレースタッドの近傍に潜み機会を伺っている状況である。敵を弱小と侮り、襲撃に注ぐ戦力を小出しにしたことが、現在の予定の遅延を生んだ。それを取り返すべく、今やこの空域の全部隊が四苦八苦している。



「――レーゲ‐ドナはどうか?」

 レムリア軍航空母艦「ダルファロス」。今では機動部隊全軍を統括するその防空指揮所にあって、戦隊司令官セルベラ‐ティルト‐ブルガスカは言った。それを待ち構えていた様に、指揮シート階下に詰めていた飛行長が告げる。

「『レーゲ‐ドナ』作戦行動開始よりすでに二時間経過。戦果……中型貨物船二隻、大型タンカー一隻撃沈であります」

「少ない……予備機も投じ掃討を徹底させよ」

「しかし司令、不意の敵艦との遭遇にも備える必要があります。希少な新鋭艦を危機に晒すのは如何なものかと……」

「敵艦は出て来ない」

 セルベラの回答は即座で、そして断固としている。

地上人(やつら)に迎撃の意志があるのであれば、『レーゲ‐ドナ』はおろかウダ‐Ⅴの浸透も叶わぬ夢で終わった筈だ。それをしない上にフレスルの放棄までしたとあっては、地上人は艦隊の温存に徹したということであろう……我らが去った後に空域へ出て、退いた我らを逐った振りぐらいは見せるであろうがな」

「成程……」応じる飛行長の語尾には、嘲弄めいた苦笑が交じっている。

「…………」

 両眼を瞑り、セルベラは沈思した。あるいはカレースタッド近傍にちらつくセギルタの影に、地上人の艦隊は怯えているのかもしれない――カレースタッド浸透直前に起こったという、ラジアネスの駆逐艦隊との遭遇戦の報告がセルベラの脳裏を掠めた。あの戦闘ではセギルタの駆るキラ‐ノルズ一機の前に二隻の地上人の駆逐艦が翻弄され、結果として地上人は駆逐艦一隻撃沈、一隻大破の憂き目を見せられることとなった。一時はこれでラジアネス軍の警戒が強まるのではないかという懸念が艦隊司令部には生じたが、それはどうやら杞憂のようだ。状況から察する限り、彼らはセギルタの反撃に驚きかつ怯え、後はひたすら消極的な対応に徹している。


 飛行長が言った。

「『ハンティントン』……地上人の空母は出て来るでしょうか?」

「彼らはいま、その心胆を震わせつつ迷っているところであろう。港より出でて安全な空域を目指すべきか、それとも港に引きこもり港湾と住民を盾に防備に徹するべきか。何れにしろ……」

セギルタの灰色の眼が一瞬、宝石の様に光った。

「……彼らが針の(むしろ)の上に在るということは確かであろうな」




 針の筵の上――今の政府軍はまさにその状態にあると、窓から広がる風景を見遣りつつルウ‐カウベラ‐アルノーは思った。ファー‐カレースタッド基地の正門から敷地内に滑り込む車が二台。いずれも市政府に属する公用車だった。彼らが基地司令に何を言いに来たのか、ルウのようないち看護士でもすぐに判る。何よりもラジオや地元紙を通じてじんわりと延びつつあるレムリアンの影が、市中に暗い影を落としつつある。


 ここ一週間の間に、それ以前は遠い空の話でしかなかったレムリアンによる民間船への襲撃がカレースタッド近傍で発生し、ついには続発するに至った。急襲とでも言うべき周辺空域への侵犯を前に市政府は今更のように恐慌を来し、市中にあっては未だレムリアンの手の及ばない空域への疎開ラッシュと食料品価格の高騰を招来した。市政府はカレースタッドに所在する艦隊、空兵隊基地に対し防衛体制の強化を請願し、それは現在入港中の航空母艦「ハンティントン」にも及んだのである。そう、ハンティントン――ルウにとっては「あの人」が乗って来た艦の名前だ。市の人々は防衛部隊としての基地、空兵隊、ひいてはハンティントンの存在意義に疑問を呈し、そして彼らは市民の不安を完全には払拭できないでいる。


 市政府の要人が用も無く基地司令部に入り、それから二時間余りを雑談に費やすのは、今ではお馴染みの風景となっていた。漏れ聞く話では、カレースタッドの防衛体制の進捗をこの目で確かめるため――お偉いさん達はそう言っているそうだが、その実際が窮地に瀕した鬱憤晴らし同然に市庁舎に押し寄せて来る市民の群れから逃げ、自らも抱える不安を軍人の言葉を聞くことにより鎮静させる意図の促すところであるらしい。卒業した短期大学で僅かながら齧った心理学の中に、そのような心理状態を表す言葉があった様に思いだされたが、それ以上に回想を深める余裕を、カレースタッドを取巻く情勢はルウには与えてくれなかった。何よりも今のルウにはひとつ、為しておかねばならないことがあった。「あの人」に朝食を届けてあげなければならない。


 基地司令部本庁舎から離れた、飛行場に面した第二棟。その隅の一室に向かいルウは廊下を歩いている。飛行場に面した窓ガラスが、その外を戦闘機が爆音を引き摺って滑走する度に小刻みに揺れている。並の板ガラスではプロペラの生む風圧で直ぐに割れてしまうため、通常より分厚い強化ガラスが使われている一画だ。その窓から広がる飛行場の光景は、ハンティントンが入港して以来活況を呈している。それまでたまに連絡機や哨戒機が発着する以外に小規模な民間飛行学校が間借りしていた滑走路は、今や母艦から進出して来た艦載機の獰猛な翼が犇めく巷と化していた。


「…………」

 ドアの前に立ち、ルウは深呼吸した。小振りな胸が微かに震えるのを自覚する。昨日飛行場で見た女空兵さんの豊満さには及ぶべくもないが、胸の形には自信があった。だがあの人にはそのような外見の印象は通用しない……というより、あの人が女性を外見や身体付きで判断する様な人間だと、ルウは考えたくなかった。それがここ一週間あまり隅の部屋で「謹慎中」のあの人に対し、食事を運び続けた末にルウが得た感慨――指先にまで注意を篭めて伸ばした拳が、薄いドアを叩く。返事は無かった。

「……カズマさん?」

 声を掛けても返事が無く、意を決した手がドアノブを回し微かに開いた間からルウは部屋を覗く――机の上に突っ伏し、寝息を立てつつ動かないあの人を見出した瞬間、ルウは眼を慈しませて微笑んだ。机の上、乱雑に積み上げられた空図や報告書の山の間にノートが無造作に広げられている。インクに薄汚れ皺が寄った、推敲の跡が痛々しいノートの記述と略図……そのさらに上に、戦闘機の模型が転がっている。前に部屋を覗き見た時、あの人は手にした模型を、玩具を弄る子供の様に色々と動かしてみては、やはり子供の様に首を傾げていたっけ……脳裏に浮かんだ光景が、ルウの目許をさらに緩ませた。謹慎の理由が、先週の夜に自分と別れた後、乱暴者の空兵と大立ち回りを演じたが故であることを、ルウは最近知ると同時に烈しい後悔に苛まれている……


「……カズマ……さん?」

「……ん?」

 囁く様に呼び掛けられ、カズマの目が開く。少し休むつもりが、窓から広がる星空はすでに寝ぼけ眼には辛い青空に天の主座を譲り渡していた。

 顔を上げると、毎日のように食事を届けてくれる看護婦が心配そうに自分を見下ろしていることに気付く。それがやがて気まずい……否、気後れした表情に変わるのをカズマは見上げながらに観察する。ルウという名の看護婦は、毎日そういう顔で食事を運んでくる。彼女の気後れに心当たりがあるといえば、あった。それでも別段声を掛けないでいたのは、気後れはカズマの方でも覚えていたし、何よりも――言い換えれば、不謹慎にも女の子を困らせるのは面白いものだと、カズマは思い始めている。この世界に来てから、やけに女性との接点が増えたようにカズマには感じられていた。だから女の扱いには戸惑っている面もある。


「朝御飯の準備……しますね」

「顔を洗って来るよ」

 億劫そうに椅子から腰を上げ、カズマは隣り合う洗面所に向かって歩く。「謹慎」に当たって、今では廃止された基地主計官専用の執務室をバートランド隊長は宛がってくれた。謹慎に名を借りて課せられた任務を、カズマは一歩も部屋を出ることなく黙々と続けている。決して退屈な任務では無かったから、その点今の自分は恵まれていると思う。だが――

「――――!」

 不意に競り上がって来たレシプロエンジンの爆音が、禍々しく窓ガラスを震わせる。飛行場を離陸し直線飛行で空を過ぎる機影が独つ――洗面台から顔を上げたカズマの眼はそれを追い、機影が雲海の中に融け行くまで見送っている。

 カズマは、飛ぶことに飢えていた。



 缶詰のランチョンミートと粉末卵のスクランブルエッグ、同じく缶詰入りのパンと粉末のオレンジジュース……顔を洗う間にルウが用意してくれた朝食、一週間前から変わり映えしないメニューの朝食を、カズマはただ黙って口に運ぶ。ボリュームこそあるが塩辛い缶詰肉と水っぽい乾燥卵、まともに食べられるのはパンぐらいなもので、オレンジジュースに至っては単に甘いだけ、そして漢方薬のような匂いがする――それらを差し引いてもラジアネスという国では下っ端の兵隊でも、補給が行き届いているとは言い難い最前線でも毎日の様に肉や卵を食べられるのだ。今の自分の境遇が、それを物語っている。


 メニューが変わらない理由――それも、保存に適した缶詰や粉末を多用している事情――をカズマは知っている。カレースタッド近傍からこの島に繋がる空路がレムリア人に脅かされた結果、市中に深刻な物資の窮乏が予想されたためだ。軍は備蓄している食料を配給という形で住民に配り始めているという話を、カズマは時折様子を見に来るクラレス‐ラグ‐ス‐バクルから聞いていた。敵の侵攻を前に民心を繋ぎ止めるための一策。特に長期の防衛戦に際し保存が効かない生鮮食料品が優先的に放出されている。カズマのみならずカレースタッド等の基地、そして艦隊はその割を食った形だった。


「あの……」

「ん……?」

 躊躇いがちに声を掛けて来たルウを、食物を口に入れたままカズマは見遣る。その小さな口を何度か開き掛けては閉じ、ルウはカズマに言葉を絞り出した。

「お味……如何ですか?」

「おいしいよ」

 にっこりと笑い。カズマは言う。同時にルウの顔から躊躇が消え、小鳥の囀りを思わせる言葉が続いた。

「カズマ……さん、キャセロール、お好きですか?」

「キャセロール?……ああ、コキールのこと?」

 コキール?――ああ、結構ハイソな家の出なのかな……とルウは思う。家族で談笑しつつ囲む大皿料理のキャセロールに対する、コース料理のひとつとしての小皿料理のコキール――今のところ、ルウにはそれぐらいの知識しかなかったというわけだ。

「わたし、こう見えて料理得意なんですよ。子供の頃に母からいっぱい教わったから……キャセロールなんか、自信があるんです」

「それで……?」

 邪険にする口調では無い、むしろ純粋な興味をそそられてカズマは聞く。

「平和な時期だったら……ご馳走して差し上げられたのに」

「ご馳走? きみが……おれに?」

 ルウは頷いた。その後に決心が続いた。

「明日……わたし、カレースタッドを出るの」

「疎開か?」

 カズマは口調から緩みを消した。ルウは頭を振り、そして俯き気味に言葉を紡ぐ。

「……リューディーランド行きに志願したの。前線に行きます」

「…………」

 スクランブルエッグをつつくフォークが、止まった。それがルウに更なる心情の吐露を誘う。

「あのときは……御免なさい」

「…………」

 それだけを言いたくて、一週間通い詰めだったのかな……とカズマは察する。同時に困惑がカズマの顔を曇らせる。ルウの表情も自ずと曇ってしまう。

「リューディーランドに、カフェはあるかな……」

「え……?」

「リューディーランドで、またルウと一緒にお茶を飲みたいなって思って」

「…………!」

 涙に腫れた眼が、カズマに向い光る。生気を取り戻した煌びやかな瞳。それをもっと見ていたくて、カズマは言葉を重ねる。

「今度は、おれに驕らせておくれよ」

「はい……!」



 あいつのいる部屋から人影が出るのが見える――またあの女だと、マリノ‐カート‐マディステールは思った。

 恋人然として毎日のようにあいつの部屋に食事を運んでいく従軍看護婦。背丈はあいつと同じ位、大きな瞳と癖の馴染んだ長髪。おまけに顔立ちもあいつとお似合いと言っていいほどに幼く見える。女との駆け引きに疎い、軟弱な男の心を掴んで離さない要素を、その看護婦は外見だけならば十分に満たしている。


 マリノは訝る――あいつ、どうやってあんなの捕まえた……否、捕まったのだろう?

 マリノは訝る――あいつは、あんなのが好みなのか?


「ロリコンが……」

 反射的に侮蔑に満ちた呟きが漏れる。分厚い書類入りの封筒を小脇に、マリノは長い廊下を再び歩き始める。看護婦と間合いが詰まるにつれ、彼女が紅潮した頬もそのままに顔を微笑(わらわ)せているのが判る。

「――――!」

 舌打ち――小説に書いてあるプラトニックな恋愛で満足している様な、満ち足りた少女の表情がマリノの癇に障った。癇に障りつつ、マリノと看護婦は行き合い、そして擦れ違った。そこからさらに数歩を進んだところでマリノの背後の気配が動きを停める。軽い困惑と不安が向けられるのをマリノは背中に察する。今更のように自分があいつに何をする積りなのか、あるいはあいつと自分がどういう間柄なのか、考えあぐねているかもしれない……それを無視してマリノは歩調を速める。


 部屋に入るに当たり、あいつの名前を呼ぶ必要も、ノックをする必要もマリノは認めていなかった。ただ空兵隊の隊容検査のノリでマリノがドアを開けた先、あいつ――ツルギ‐カズマはただ黙然と窓から広がる飛行場を眺めている。マリノの入室など、関心の外といった様子であった。無表情が脹れっ面に転じ、マリノは開けっ放しのドアを叩く。

「……カズマ」

搭乗()りたいな……あれに」

 マリノに応じるでもなく、カズマは飛行場の一角を見下ろしている。訓練飛行に臨む艦載機を前に、野外でブリーフィングが始まっていた。軽いブリーフィングの後、三々五々と乗機に散っていく操縦士たち……カズマを凝視するマリノの口元に、意地の悪い笑みが滲んだ。

「いい気味だね」

 鼻で笑い、さらに一歩を踏み込み、机に書類の封筒を置く。封筒を開けたカズマの表情が、嘆息混じりの困惑に染まる。マリノにはそれを見るのが愉しくて、ここ数日はずっとカズマの部屋に足を運んでいる。「訓練記録(トレーニングレポート)」――そう銘打たれた書類の束が封筒の口から顔を覗かせる……唯一の用事を終え、マリノは応接用ソファーにどっかと腰を下した。まるで彼女自身の家に在るかのような振る舞い。取り出した煙草に火を点け、そして煙を勢いよく天井に向けて吐き出す。本来の主たるカズマはと言えば、取り纏めた別の書類をマリノの前に置き、紫煙に咳き込みつつ訓練記録の黙読に取り掛かっていた。

 わずか一服で半分近く減った煙草を手に、マリノは横目にその様を観察する……要するに連絡に名を借りた「さぼり」だが、当初の猜疑に満ちた眼差しが、興味に満ちた視線に転じてどれくらいの時が過ぎただろうか?


 近い将来に予想されるレムリア軍戦闘機との衝突、それを見越した戦闘機隊の新しい戦法の構築が今のカズマの仕事であった。

 事実、カズマが謹慎を名目にこの部屋に籠り始めた翌日から、カレースタッドの空には少なからぬ変化が始まっている。特筆すべきは、それまで一対一の旋回格闘戦を以て基本としていた空戦訓練の形態が、二対一――二機を以て一機を逐う形態に変わった。二機は前後に間隔を開いて一機の仮設敵に当たり、旋回と機位変換を多用して一機の追尾を晦まし、あるいは相互の射線上に誘い込むのだ。一例を上げれば、二機は相互に旋回を繰り返して仮設敵の接近を待ち、仮設敵が二機のうちいずれかの後背に喰い付いたところをもう一機が背後から撃つ……といった感じだ。


 訓練が始まってからまる四日がその反復に費やされ、先々日からはさらなる訓練が始まっていた。二対一という構図は変わらない。ただし今度は二機は飛行時に許されるスロットル出力を全開の半分にまで抑えられた状態で、その制約のない一機に対峙する――モック‐アルベジオで行われていた旧来の単機格闘戦を見慣れていたマリノからすれば、それは余りに異常な光景に見えたが、同時に訓練がマリノの様な操縦の素人ですら息を飲むほどに実践的であることを認めざるを得ない。単にエンジン出力の許容量に制限を設けるだけで、高性能のレムリア機一機に連携で対するラジアネス機二機という構図を、訓練を計画した人間はファー‐カレースタッドの空に現出させてしまった。飛行隊では一連の訓練を、バートランド少佐を始めとする飛行隊の幹部が考案した連携戦術と言っていたが、今のマリノはそれを頭から信じることが出来ずにいる。ベテランだが、こんなものを考え出す程彼らは「戦慣れ」していない。


 やっぱり今までのことは全部こいつが――カズマに流す横眼が、猜疑から好奇に傾きつつあるのを自覚した途端、マリノの表情は再び険しくなる。

「…………」

「何だよ?」

「別に」

 込み上げてくる新たな猜疑(さいぎ)に細まった眼を、書類から顔を上げたカズマに見返され、マリノはやり場無くついにはドアの方向に向ける。一方でカズマは戦闘機の模型を子供が弄ぶように上下左右に動かし、そして首を捻っては、次には納得した様な顔をして飛行記録に朱筆で何やら書き加えている……再びカズマに向き直り、神妙な顔でそれを凝視している内、この部屋が、やけに居心地がいい事にマリノは気付く。しかし自分がこいつにした事を思えば、それは妙な感覚だった。あたしは、こいつに嫌われていないのだろうか。あるいは――

「――あの看護婦」

「ん……?」

「どこまでいった?」

「ルウのことか」と言い、カズマは再び書類にペンを走らせる。

「次に会った時、一緒にお茶を飲む約束をした」

「それだけ?」

「それ以上に、何をするんだ?」

「――――!」

 失笑――吸い込んだ紫煙に咽つつ、マリノは辛うじて嘲笑を踏みとどまる。

「あんたオトコでしょ? 生物としてやるべきことはやっとかないとさ」

「生物? やるべき……こと?」

「…………!」

 真顔で返され、呆れるというより怒りが込み上げて来た。言い換えれば失望……かもしれない。モック‐アルベジオではレムリアンの襲来を前に一歩も退かなかった男、そしてカレースタッドでは屈強な空兵を前に「やらかした」男が、外見だけならば可憐な女、男に対しそれ程免疫の無さそうな小娘を攻めあぐねて(・・・・・・)いるように見えることに、マリノは内心で苛立ちを覚えている。

「このご時勢、何時死ぬか判らないのに……なに考えてんだ……!」

「怒る程のことか?」

 カズマには、わけがわからない。

 乱暴に煙草を灰皿に押し潰し、マリノは二本目を口に咥える。挙動が苛立ちを隠せないでいるのを、彼女は自覚している。何度ライターの点火を試みても火が点かないのに焦る。

「同じ死ぬなら……身も心も綺麗なままで死んだ方が、後腐れが無くていいだろう」

「――――!」

 火が点かないのと同時に、マリノの眼底で何かが弾け飛んだ。抑えきれぬ激発に引き摺られるがまま、マリノは立ち上がった。気配の急変に気付いたカズマの眼が、怒りに上気したマリノの顔を捉え、困惑に揺れた。

「なんでぇ?」

「てめえ!……聖職者にでもなった積りかよ!」

 並びのいい歯を剥き出しにして、マリノはカズマを睨む。睨む内にまた募る怒気の赴くがまま、マリノがカズマに更なる一括を叩き付けようとした時――


 ――コンコン

 薄いドアを叩く音はカズマを救ったのと同時に、恐らくはマリノをも救ったのかもしれない。

「カズマ!」ドアを開け切らない内に弾んだ声が部屋に届く。クラレス‐ラグ‐ス‐バクルだ。ただし笑顔は彼がマリノの姿を認めた途端、引き攣る運命にあった。マリノに怪訝な視線を向けつつ、バクルはまるでジャングルで肉食獣と鉢合わせしたかのような、恐る恐ると言った歩調でカズマの机に歩み寄る。当のマリノはといえば、仏頂面をそのままに二人の様子を伺うようにする。

「喜べ、謹慎は解除だ。飛行隊はハンティに戻ることになった」

「本当か?」

 カズマの顔に驚き、ついでに喜色が浮かぶ。バクルには期待通りの反応。だがマリノはその瞬間に無言で踵を返し、部屋を出ようと試みる――

「マリノ!」

 声を掛けられたのも意外だったが、その次に掛けられた言葉は、全くにマリノの予想を裏切った。

「……おれのジーファイター、見てくれるんだよな?」

「は……?」

「……マリノが居てくれないと、おれ、飛べないだろ?」

「……知るか。バカ!」

 何も言わず、マリノは勢いを付けドアを閉めて外に出る。後はずっと目に見えない階段を昇り続けている様な感触――苛立ちでは無く困惑が自分の表情を動かし始めていることが、マリノにはやはり悔しかった。



次話投稿は来年1/5(月)を予定しています。皆様、よいお年を。

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