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第五章  「港街にて  後編」

 「ヴォターズ‐ハウス」とは、ファー‐カレースタッドの歓楽街の一角に営業を始めて三十年になる老舗の飲食店である。


 酒を飲めることもさることながら、ラジアネスに本店を構える某巨大ホテルグループの系列に属する高級レストランの下働きから身を起こした主人が作る、簡易ながらも素朴さを感じさせる家庭料理は、客層の大半を占めるそれほど裕福ではないブルーカラー層に高い人気を誇っていた。

 薄汚れた内壁にピン留めされ、すでに両端から黄ばみ、破れかけている大昔の映画女優のポスター……天井から吊り下げられダラダラと回転する空調用のプロペラ……カウンターの近くに置かれた最新型のジュークボックスから、自作の配線を通じて隅に置かれた古ぼけたスピーカーを通して響き渡る流行歌……テーブルごとに濛々と立ち込める、客が吹かす煙草の煙……うらぶれた中に、活気と伝統を漂わせる店内には、艦隊の兵士に加えジャケットを羽織った艦隊のパイロット達の姿もあった。肩の標識から、その多くが攻撃飛行隊の人間のようだったが、中には戦闘機隊のそれを付けた者もちらほら見えた。


 カズマとバクル、軍服を着ていること以外にはこれといって何の特徴もない二人が広いカウンターに近づくと、先着のパイロットが席を空けてくれた。カウンターに着いたところでカズマの姿を認めた一人のパイロットが、カズマに言った。

「お前、前に酒を飲んで基地の方に担ぎ込まれた奴じゃなかったか?」

「…………?」

 バクルは、驚いたようにカズマの方を向いた。カズマは、申し訳なさそうに言った。

「おれ……酒が飲めないんです」

「そうか……悪いことしたな」

 カズマの腹が鳴った。思えば昼から何も口に入れていなかったことに、今更ながらカズマは気が付いた。バクルはクスリと笑う。

「……腹ごしらえが、先みたいだな」


 十分後、カウンターで出されたチキンピラフにぱくつくカズマを、バクルはハイコークのグラスを片手に横から面白そうに眺めていた。

 子供みたいだ。と思う。

 だが、自分の弟のような年齢のこの青年に子供らしからぬ何かを見ている自分を、バクルは知っていた。ただ一つ言えることは、実際に共に飛んで見ないと、その「何か」がわからないという事だ――戦場の空を。


 不意に、店のドアが乱暴に開かれたのはそのときだった。

息も絶え絶えに入ってきた人影に、店内の艦隊パイロットの視線が一斉に集中する。入ってきたハイロットの服は、ジャケットからズボンに至るまで破かれ、汚されていた。覚束ない足取りで数歩進み、同じく血と泥に塗れた顔に、彼は怯えた眼をギョロつかせて叫んだ。

「助けてくれ! 仲間が空兵隊にっ……!」

 それ以上の説明は必要が無かった。言い終えない内に不意に彼の身体が宙に浮いたかと思うと、パイロットはものすごい勢いで床に叩きつけられた。さらに、見るからに痛々しい艦隊の士官らしき人間が三人、ドアの向こうから半死半生の呈で床に放り出された。


 カウンターの誰かが、呻く様に言った。

「空兵隊……!?」

 カーキ色の軍服の、屈強な連なりが、雪崩れ込むようにして店内に入ってくるのに五秒も要しなかった。その中の、リーダー格らしき一人の下士官が、怒りに満ちた目つきで店内を見渡すようにした。

「――――!」

 そのリーダー格に、カズマは見覚えがあった――あいつだ! 

昼、カズマとルウに絡んできた下士官――ランディス-ヒドルは、その殺人的な視線で「ヴォターズ‐ハウス」の店内を嘗め尽くすと、声を荒げた。

「手前ら!……空兵隊の所有物(・・・)に手を付けただろう!?」

 先程床に叩きつけられた一人が、半身を上げ咳き込みながら抗弁した。

「……俺は、女を連れてあんたらの店の前を通っただけで……」

 進み出た一人、アイヴァク伍長が、有無を言わさず立ち上がりかけた彼の顎を蹴り上げる。パイロットは、糸の切れた操り人形のように床に倒れこんだ。

「……無茶苦茶だ」

 テーブル席の誰かが、呻いた。居合わせた堅気の客の中には、すでにそそくさと脱出の準備を始めている者も出ていた。

「いいか艦隊。『竜娘(ドラクル・ベル)』の半径二百スカイヤードは空兵隊の所有物だ。女だろうが、標識だろうが、道端に落ちてるチラシだろうがな! それでも持って行きたかったら……俺のケツにキスしてからにしな」

 同僚の空兵が、せせら笑った。空兵どもの言うことが、とんでもない言いがかりであることは明らかだった。もしくは明らかに艦隊との「一戦」を意図してこちらを挑発しているのだ。


 だが――

 店内にいた艦隊の連中は、皆おし黙った。空兵達は皆陸戦のスペシャリストだ。鍛え方も半端ではない。軍艦の乗員やパイロット風情がまともに立ち向かって勝てる相手ではなかった。

 ランディスの口元が、歪んだ。それは悪意にあふれた笑みだった――そう、彼らには判っていたのだ。

「何だ艦隊。怖気づいたか? そうか、お前ら艦隊ですらねえんだもんなぁ。こんなところで女の尻追い掛け回している暇があったらさっさとここから出航してレムリアンでも追い掛け回していたらどうだ?」

 すかさず、ブロックス伍長が茶々を入れる。

「ランディ、そいつぁ無茶ってもんだ。戦場に出たらこいつら逆にレムリアンに追い掛け回されるに決まってる」

 ストロープ上等兵長が、笑った。

「いっそのこと、艦隊の皆さんにはカレースタッドに引きこもってもらって、俺らがレムリアン退治にでも出向くとするかな」

 ランディスは言った。

「そうだな……ここにいる連中の大半がどうせもともと正規の軍人ですらないんだろうし……そいつの方が足手まといになるよりずっといいだろうなぁ」

 カズマは周囲を見渡した。ここに居る艦隊の連中が、闖入者どもの醸し出す迫力に圧倒されていることを、彼は沈黙に沈んだ店内の雰囲気に見出していた。中には、歯を食いしばって空兵達を睨みつけている者、怒りにわなわなと震えている者もいた。だが、それらの感情が場の総意に至っていないのだ。


 カズマは、意を決した。ここは何か一つ言っておくべきだと思った。

 が、先に席を立ったのは、バクルのほうだった。


 バクルは、カウンターから離れると、勝ち誇る空兵達の方へ歩み寄った。その顔に恐怖や卑屈といった要素は全く浮かんでいなかった。

「何だ。お前?」

 ランディスは、圧倒的な身長差からバクルを見下ろした。

「今の発言、取り消してもらえないか?」

「あ……?」

 アイヴァクがおどけたように、耳を向けた。アイヴァクには眼もくれず、バクルは続けた。

「今の発言は、艦隊に対する侮辱だ。我々にも国を守る戦闘部隊としてのプライドがある。今の発言を取り消し、我々に謝れ」

「艦隊も堕ちたな。お前みたいなもやしっ子が、少尉殿か?」

 ランディスが、からかうように言った。

 バクルは、続けた。その眼は凛としてランディスを睨みつけていた。

「上官として命令する。発言を撤回し、謝罪したまえ!」

 返礼は、振り上げられた拳だった。

 バクルがそれを避けるには、距離が近すぎた。

 頬に拳を受け、バクルは倒れこんだ。それも側頭に近い位置だ。思わず、カズマは叫んだ。

「少尉っ!?」

 足許をぐらつかせつつ立ち上がろうとするバクルの頭を、ランディスの軍靴がぎっと踏みにじる。苦悶に顔をゆがめるバクルを、ランディスは哀れむように見下ろした。

「アホ。空兵隊の下士官が何で艦隊の士官の命令に従わなきゃいけねえんだ。相手を見てモノを言えよ」

「ギャハハハハ馬鹿かっての!」

 アイヴァクが嘲る様に嘯く。続けざまにランディスの脚がバクルの腹部にめり込んだ。その反動でバクルは蹲ったまま二メートルを滑り、空いたテーブルを一基倒したところで止まった。

「少尉!」

 カズマはバクルの方へ駆け寄った。それを見たバクルが、「来るな」という素振りを見せた。

「何だぁー? あの時のガキじゃねえか」

 カズマは、バクルを抱き起こした。したたかに打たれた口元が、血に染まっていた。

「少尉、しっかり!」

「カズマ!……駄目だ……来ちゃ駄目だ!」

「何を言ってるんですか少尉!」

 ランディスが声を荒げた。

「小僧ーっ また逃げたほうがいいぞぉー? 野郎なんか助けたって一銭の得にもなんねえだろうが」

 その言葉に、カズマは固まった。決して恐怖に駆られたわけではない。そしてこの空兵たちは決して越えてはいけない一線を、知らず知らずの内に踏み越えてしまったことに気付かなかった。

「誰が逃げるって?」

 カズマは、振り向きもせずに言った。先程とは、声のトーンが明らかに違っていた。沈んだ、だが不気味なほど感情の消えた声。

「お前が逃げるんだよ。女一人満足にエスコートできねえ臆病モンがよぉ!」

「おい空兵」

「何だぁ? 誰に向かって言ってんだぁ? このヘボ艦隊のニワトリ野郎」

 嘲るように言ったのはブロックスだ。

「……お前らだよ、この筋肉バカ」

「――――!?」

 途端に、空兵達の様子が変わった。視線が単なる悪意から憎悪を含んだものに変わる。他者を嘲り、詰ることには慣れていても、他者の反抗を安易に聞き流す程、彼らの精神の沃野は肥沃では無かったのだ。

「バカ空兵ども、この場ですぐ決めろ。おれの友達に謝ってこの場を去るか……それとも、この場でおれにぶち殺されるか……どっちだ?」

「カズマ……!?」

 バクルの浮腫んだ顔がカズマを見上げる。カズマは、無表情のまま空兵達を睨みつけていた。その彼の端正な無表情の中に、バクルは静かに燃え上がる怒りの炎を見ていた。

「友達だぁ? こんなところで青春ごっこか? このバカ!」

ランディスが声を荒げる。

「バカは、お前だろう」

事も無くカズマは言い放った。ランディスの心の奥で何かが弾けたのはそのときだった。

「てめえら……手ぇ出すなよ。俺が()る」

 ランディスが、一歩を踏みしめた。その途端、少なからぬ驚愕が彼を襲った。

 ランディスが気付いたときにはカズマは、すでに驚くほど近くにいた。眼と鼻の先に、その「生意気な小僧」は立ってランディスを無表情のまま見上げていた。

 すかさず、ランディスの拳が伸びた。砲丸でも投げるような、もの凄い勢いだ。

 周囲は、カズマの終わりを覚悟した。

 振り上げられた拳は、カズマの頬をしたたかに打った。ランディスは勝利を確信した。

 ……が、確信は早すぎたのだ。

 今度は、ランディスだけではなくその場の全員が驚愕する番だった。

 拳の反動で顔を横に向けたまま、カズマは立ってランディスを見上げていた。口元を切り、垂れる血をそのままに彼を睨みつける眼が、未だに爛々と怒りの光を湛えていた。

カズマは、言った。

「……そうか、半殺し希望か」

「な……!?」

 沸騰する怒りに身を任せたランディスの更なる一撃を、カズマは片腕で受けた。

 その場の全員が、息を呑んだ。

 ランディスの拳は、震えたまま動かなかった。力比べか、とその場の誰もが思ったが、それは実のところ少し違った。

 ……どうなってんだ!?……拳が……動かねえ……!

 ランディスの拳を握るカズマの腕に力が加わったのは、その直後だった。突如腕に走った激痛!――どうしたことか腕が、あらぬ方向に捻られるのだ。最初は耐えられたが、次第に加わっていく力に耐え切れず、ランディスは顔に苦渋を滲ませ、少しずつ腰を落としていった。

 ……何だこのガキ、凄まじいパワーだ!

 まったく予想外だった。悪く言えば、ランディスはカズマを内心から舐めきっていたのだ。

 苦渋の表情を浮かべるランディスに、無表情のまま、カズマは刺すような口調で言った。

「おい……足がお留守だぞ」

「――――!?」

 その瞬間、凄まじい激痛がランディスの防護されていない左脛を襲った。ただ前に突き出されだけの蹴り。だがそれはランディスの脛を直撃し、正面からの衝撃に脆弱な脛骨を折るのに十分な威力を持っていた。足が折れる鈍い音が、戦慄となって周囲に響いた。

「…………!!?」

 声にならない絶叫を上げて、ランディスは姿勢を崩し床に倒れこみかけた。カズマはそこを見逃さなかった。ランディスの懐に飛び込んだ掌打の一撃、それは掬い上げるようにランディスの鼻をヒットし、今度は鼻柱を砕いた――瞬時に顔面に襲い掛かる耐え難い激痛!

「ハッ鼻がぁー!! 鼻がぁーっ!」

 その場の全員が、凍りついた。

 絶叫とも泣き声ともつかない声で、恥も外聞も無くランディスは鼻を押さえて床を転げまわった。

「う……嘘だろ?」

 アイヴァク伍長が、(かぶり)を振りつつ呟いた。ランディスは空兵隊内のレスリング競技のチャンピョンだ。彼に正面からぶつかって勝てる人間などいるはずは無いと、アイヴァクはじめ空兵の誰もが信じていた。それが……いともあっさりと、しかも文字通りグロッキーになるまで痛めつけられるとは!

「おい……どうする?」

 誰かが、声を振り絞るようにして言った。空兵の全員が、明らかに混乱していた。

「コラ空兵ども……」

 先に口を開いたのは、カズマだ。惨劇の到来までは何の痛痒も感じなかった筈が、声がした途端、それは新たな戦慄となって屈強な空兵たちの心胆を握り潰さんとする。

「……次は、誰だ?」

 苦悶するランディスにはもはや目もくれず、カズマは無表情に空兵たちを見つめている。それが一層空兵達の恐慌を煽った。

 ブロックスが言った。

「おい! 皆でやっちまおうぜ。俺たちでかかれば怖くはないさ!」

 行動を起こすのは、早かった。空兵たちは一斉にカズマに突進した。一人に対し、多数で襲い掛かる――もはやその光景に、彼らの先達が築いた栄光や伝統など微塵も見られなかった。

 ブロックスが最初に、カズマの襟を掴んだ。その瞬間、ブロックスの視界で上下が逆転した。鮮やかな背負い投げで、カズマより頭二つほども背が高いブロックスは、気付いたときには頭から汚れた床への接吻を強いられていた。

 二人目はアイヴァクだった。カズマの肩に両腕を掛けたまでは良かったが、そこに伸びたカズマの腕に篭った力は耐えがたい激痛となってアイヴァクの両腕に襲い掛かった。「腕がぁー!!」絶叫とともに体制を崩したアイヴァクの下腹部に伸びた無慈悲な蹴り!……それのもたらした腕以上に深刻な衝撃は、アイヴァクを悶絶させた挙句失神させた。

 ストロープはカズマの背後に回りこんだ。だが同じく背後に回りこんだ人影に足を払われ、派手に転倒した。

 バクルだった。カズマが礼を言う暇も無く、バクルもまた襲い掛かってくる空兵たちに敢然と挑みかかった。

「やっちまえーっ!!」

 バクルだけではなかった。「ヴォターズ‐ハウス」に居合わせた艦隊の兵士、パイロット達が一斉に空兵目指して踊りかかってきた。手に手にビール瓶と椅子を持って。

「お前らぁー! わしの店をどうする気だぁーっ!!」

 店主ハリー‐P‐ヴォターズ三世の絶叫を他所に、次の瞬間には天井に皿が飛び、ビールのジョッキが宙を舞った。複数の艦隊パイロットに組み付かれた空兵隊員が昏倒し、空兵隊員の一撃で数名の艦隊兵士が跳ね飛ばされた。騒乱には堅気の客までもが加わり気に食わない闖入者の顔に頼んだばかりのミートソースをぶちまけ、後頭部にビール瓶を叩きつけた。


 宴もたけなわになった頃――

「おい! 憲兵(MP)が来たぞ!」

 誰かが叫んだ。混乱はさらに深まった。憲兵(MP)の追及を逃れるべく出口に殺到しようとする兵士、客……混乱の中、人ごみを掻き分けて同じく出口に向かおうとしたカズマの腕を、バクルは掴んだ。

「カズマ! こっちだ!」

 彼が指し示したのは、厨房へと続くドアだった。

 


 一度路を曲がると、行き交う人影の波はさらにその量感を増していた。

 店を出る間際に、ストレートでがぶ飲みしたラム酒がまだ、胃を灼いていた。その豊かな胸に、少なからぬ不安を詰まらせながら、マリノは車を運転していた。周囲の様子は、最初に車で通ったほんの数時間前からすれば明らかに大きく様変わりしていた。まるで暴動でも起こったかのようだ。


「喧嘩……艦隊……空兵隊」

 騒がしさを増した歩道からは以上の三種類の単語が飛び交い、不必要な興味に駆られた人々を現場へと駆り立てていた。だからマリノは、人の波を車から辿ることにより、騒ぎの震源を見つけ出すことに多少の自信を持つことができた。

「やらかしたな……」

 心当たりは、ありすぎるほどあった。それは空兵隊行きつけのバー「竜娘(ドラクル・ベル)」で、艦隊のパイロットの話が酒の席に上ったときのことだ。あっという間に度数の強いリキュールの瓶を五本も空けたところで、到底活字化し難い汚い言葉で一通り艦隊の無能振りを罵り嘲ったところで、誰かが言ったのだ。

「おい、これから艦隊の連中にご挨拶に行ってやんねえか?」

「止めときな。艦隊なんかほっときゃいいって」

 マリノは苦笑しながら言った。内心では、本気にしていなかったのだ。

 だが、会話を聞きつけたその場の数人が賛同してマリノ達のテーブルに集まってきた。連中は口々に言った。

「艦隊の奴ら促成のくせにでかい面しやがって、ムカつくんだよ」

「あんな奴らと一緒にされちゃあたまらんからな、ここで一つ軍隊じゃ誰が上位か教えてやらねえとな」

「じゃあ、決まりだ」そう言ったのは、ランディスだ。

 マリノは、呆れたように言った。

「……あんたら、艦隊の溜まり場をちゃんと知ってんかい?」

 席を立ちかけたランディスが、こともなげに言う。

「その辺の艦隊野郎を捕まえれば、すぐに判るだろうよ。安心しろ、すぐに帰るって」

「ま、安心してやるけどねえ――」


 ――それから、一時間以上が過ぎた。

 意に反して、帰りが遅い連中を心配したマリノが車を走らせ始めてすでに二十分が過ぎる頃には、一帯にはすでにサイレンの音が鳴り響いている。サイレンの音には聞き覚えがあった。軍の救急車両の音だ。マリノの運転する車の背後から、荷台に白い制服を着た憲兵(MP)を満載したトラックが重厚なディーゼル音を立てて抜き去って行った。これ幸いとトラックの跡をつけるべく、一気にアクセルを踏む。予想に反してあまり走らないうちに、トラックは街の一角で停止した。マリノの不安は、的中した。


「何よこれ……」

 「ヴォターズ‐ハウス」と銘打たれたネオンサインの前には、すでに黒山の人だかりが出来ている。軍の救急車両が、天辺で回転するサイレンだけ出して人ごみに埋もれていた。

 ランディス達、暴れ過ぎたか――車から降り、人ごみを掻き分けるようにして進んだ先には、予想を超え衝撃的な光景が広がっていた。

 担架に乗せられ、今にも搬入されようとするランディスの姿が、そこにはあった。彼は鼻からどす黒い血を流し、片足には促成の充て木が巻かれていた。昔から喧嘩慣れした彼を知っているマリノにしてみれば、それは信じられない姿だった。

「このバカ! 空兵隊が殴りこみを仕掛けて返り討ちにあうなんて聞いたことないわよ!」

「…………」ランディスが、何かを呻いた。マリノは眼を剥いた。

「聞こえない! 何人がかりでやられたのよ!?」

「……一対一(タイマン)だよ」

ランディスの傍らに付き添うストロープが、放心したように言った。頭に巻かれた包帯は血で汚れ、片目が痛々しく腫れ上がっていた。

「ハア?」

「あいつ……人間じゃねえよ。ほんの数撃でランディスの脚と鼻を折りやがった……バケモンか何かだ」

「あいつって……誰よ?」

 ストロープは声を荒げた。

「ハンティントンのパイロットだよ! 一人とんでもなく強い奴がいたんだよ!」

 ストロープは続けた。

「ブロックスは脳震盪起こして先に担ぎ込まれたし、アイヴァクは危うく金玉を潰されるところだったんだ! 全部、ランディスを()った奴が一人でやったんだ! 信じらんねえよ。空兵が素手でパイロットに負けるなんて!」

 マリノの脳裏で、何かが弾けた。

「まさか……!」

「心当たりが、あるのか?」ストロープが聞いた。

「そいつって……チビじゃなかった?」

「ああ……こいつがどうしてパイロットなのか不思議なくらいのガキだったぜ」

「カズマ……!」マリノの呟きは、ストロープには聞こえなかった。

 ランディスを乗せた救急車が、人ごみの中を縫うようにして少しずつ動き始めた。

「そこ離れて! 見世物じゃないんだぞ!」

 交通整理にあたる憲兵(MP)の怒声が、虚しく聞こえた。

 


 コックの怒声を背に受けて厨房を通り裏口を抜けたあと、どれぐらい走ったのかは判らない。

 溝臭い、入り組んだ路を何度か曲がると、鉄条網を上に巻いた金網を挟んだその先に、公園の広い芝生が広がっていた――行き止まり。

「……どうしよう」

 逡巡するカズマの表情を読み取ると。バクルは黙ってジャケットを脱いで鉄条網の上へ投げ、被せ掛けた。カズマも、それに習う。

 金網を乗り越えた後で、落ちるように着地したのは二人とも同時だった。疲労に侵食された身体を引きずるようにして芝生を走り、ついには木々の立ち並んでいる一帯に転がりこむようにして二人は寝そべった。

「君は……大した男だな」

 仰向けの姿勢のまま、疲労に息を乱しながらバクルは呼びかけた。カズマも、同じ姿勢のまま応じる。

「少尉も……お見事でした!」

「何処で格闘術を習った?」

 傍らで一部始終を見ていたバクルは気付いていた。カズマの闘い方は、本能に身を任せた単なる「喧嘩戦法」ではなく……尋常ならざる訓練の下で形成された「戦闘技術」であることに。

「…………」

 それには答えず、カズマはバクルから眼を逸らすようにした。空戦技術とともに、訓練の片手間に星野分隊士に教わった合気柔術がこんなところで役に立つとは思わなかった。中学時代に無理をして講道館柔道の段位を取っておいたことも幸いしたのかもしれない。それら以前に、決まりごとの無い喧嘩には少なからず心得があった。その手の行為に馴れた人間が、物心付いたばかりのカズマの周囲には沢山いたのだ――それに、戦闘機に乗って生命を削っている限り身体は嫌でも一般人離れしていくもので、今夜の騒ぎでカズマ自身それを思い知らされた形であった。

「……まあいいさ」

 バクルは笑いかけた。

「とにかく君が、喧嘩に強いということぐらいはわかった。あとは情に厚いということもね」

「情に厚いだなんて……そんな」

 カズマは苦笑した。バクルは半身を起こした。遠くからサイレンのうなる音が近づいてきた。そのリズムから憲兵隊のパトロールカーであることがわかった。バクルは言った。

「今日はもう基地に戻ったほうがいいな……外が喧しい」

 異存は無かった。半身を起こし、土埃を払おうとジャケットに手を伸ばしたとき、カズマはジャケットが酷く煤けているのに気付いた。まるで、使い古されたベテランパイロットのそれを思わせた。

 ジャケットを撫でるカズマの端正な顔が、心なしか綻んだ。


 検問エリアを抜け、鮮やかなハンドルさばきで駐車場に乗り付けると、目の前には軍病院の広大な病棟が広がっていた。運転席のマリノは車を降りると、助手席の人物に視線を転じた。

「こちらです、教官」

「うむ」

「教官」と呼ばれた男――マイロ‐O‐デミクーパー空兵隊上級曹長は、目深に被った帽子から白い目をギョロつかせながら頷いた。口ひげを蓄えたその顔には、空兵隊で積上げた年季を示すかのように幾条もの太い皺が刻まれてはいたが、その浅黒い肌に包まれた長身は未だ他を寄せ付けない屈強さを漂わせていた。

 窓口にたどり着いて姓名と階級を申告し、そしてここに搬送された急患の名を出すと、すぐに病室を教えてくれた。病室の外では、比較的軽症だったアイヴァク伍長と右手を首から垂らしたストロープ上等兵長が待っていた。

「教官殿……!」

 敬礼しようとした二人を、片手を少し上げて制するようにして開口一番、デミクーパーは言った。野太い、よく通る声だった。

「ヒドル軍曹とブロックス伍長は?」

「病室にいます」

 病室に入ったデミクーパーの顔が、苦渋に少し歪んだ。

 デミクーパーを迎えたランディスの鼻は、包帯で覆われていた。片足のひざから下には、真白いギブスが捲かれていた。

 隣のベッドに横たわっていたブロックスの首は、きつく固定されている。一目で鞭打ち症であることがわかった。

 ブロックスが、言った。

「申し訳ありません、教官」

 デミクーパーは、呆れたように言った。

「話はバーと憲兵隊の連中から聞いている。災難だったな」

 怒鳴られるかと思った二人は、内心で胸をなでおろした、だが、安心するにはまだ早すぎたのだ。

「空兵隊員ともあろう人間が、自分から喧嘩を仕掛けておいて負けるとは何たる様か! 貴様らそれでも精強なる空兵隊員か!?」

 二人は、黙って俯いた。デミクーパーは続けた。

「ヒドル軍曹! 喧嘩に関して本官が教えたことを復唱してみろ!」

「『いかなる闘いであろうと、貴官の敗北は空兵隊の敗北である』であります。サー!」

「そうだ、だが貴様は負けた!」デミクーパーは、隣のブロックスに向き直った。

「アイヴァク伍長! 状況を説明せよ」

「最初に、ランディス軍曹が戦い、倒されました。自分は軍曹の敵を討つべくその兵士に立ち向かったのであります。しかし、自分は自分でも何がなんだか判らないうちに倒されました!」

「アイヴァク伍長、どうか?」

 アイヴァクが進み出た。

「自分も、ランディス軍曹の仇を取るべくそいつに立ち向かいました。しかし腕を折られ、急所を蹴り上げられたのであります!」

 デミクーパーの顔に、不審の色が浮かんだのはそのときだった。

「ちょっと待て貴様ら、相手はそいつ一人だったのか?」

「ハッ! 最初は一人でありました!」

 そう叫んだところでストロープが、「しまった」というような顔をした。空兵たちは腫れ物にでも触れられたかのように顔を顰め、デミクーパーから視線を逸らす。

「この空兵隊の恥晒しが! 貴様らそんなことをしたのか!? この馬鹿者が!」

 かつての教え子達が、醜態を冒したことを確信したデミクーパーは、眼を剥いて叫んだ。場末の喧嘩で、一人に対して多数で立ち向かうことなど誇りある空兵隊員にあるまじき卑怯な振る舞いだ。


 ――傷付いた身には拷問まがいの説教が終わり、ハンティントンへ戻る車の中でデミクーパーは口を開いた。

「少尉」

「ハッ?」

 艦隊士官学校から士官候補生時代に跨って教わった教官の前では、マリノも改まった口調になる。

「ランディス達を倒したパイロットに、心当たりは?」

「187飛行隊に、一人います」

「強いのか?」

「はい! とてつもなく無茶苦茶な男であります」マリノは嘯くように言った。

「そいつは入隊するところを間違えたな。空兵隊(うち)の地域連絡部は何をやってるんだ……!」

 マリノの、ハンドルを握る手に力がこもった。冷静を装う反面内心で、マリノの方では腸が煮えくり返る思いだったのだ。


 あんのガキャー……!!


 ただのチビではないとは思っていたが、正直あれほどの騒ぎを起こすような度胸があるとも思っていなかった。男として、喧嘩が出来るのは必須の条件だとマリノは考えている。だからカズマが個人的に喧嘩をするは別にいい。相手が自分の友人だろうが何だろうが別に止めはしない。それにランディ達の度を越えた挑発行為が今回の騒ぎを引き起こしたのも確かだ。だが……

 今回のはやり過ぎだ。と思う。現に三人は空兵として当分は「使えなく」なったのだ。銃兵(ライフルマン)として戦場の第一線の先頭に立つことを無上の誇りとする空兵にとってこれはあまりにも屈辱的な仕打ちだった。

「あのバカ……いやあいつは本官に任せてください。帰ったら徹底的に締め上げてやりますから!」

「口ぶりからして彼のことをよく知っているようだが、友達かね?」

「違います!!」

 助手席のデミクーパーが一瞬仰け反るくらい大きな声でマリノは否定した。



 眼の覚めるような月明かりの下を、夜行バスはファー‐カレースタッド基地へ通じる路を走っていた。

 足元をほのかに照らす程度に照明が保たれた車内に、乗客はカズマとバクルを含め数えるほどしかいない。未だ遊び足りない者。そして一夜限りの伴侶と共に夜の街の奥深くへと消えて行った者の方が、律儀に基地に戻ってきた者よりも遥かに多かった。周囲の闇に吸い込まれるような静寂が車内に満ち、それが一層の静寂を誘発しているかのようだった。


 当のカズマは、バクルの隣で窓に寄りかかるようにして静かに寝息を立てている。傍らからカズマを見つめるバクルにとって、その寝姿はとてもいじらしく貴重な光景であるように思われた。まるで月光に導かれ、夜の下界に降り立った伝説の智天使(レヴィフィム)のようだ……バクルには、そう見えた。この若者が素手で三人の屈強な男を叩き潰したという事実に、そして現役の戦闘機パイロットであるという事実に思い当たる者が、果たしてこの世界の何処にいるだろうか? 感慨と共に、バクルの口元には自然と笑みが漏れるのだった。


 バスは、基地の正門の前で止まった。気付いたときには、バクルたちが最後の乗客となっていた。先に料金を払った後で、バクルはカズマを背負って基地の正門へと一歩を踏み出した。



 ――翌朝、カズマは兵員居住区のベッドの上で眼を覚ました。隣接する窓からは、すでに高く上った日光が暖かい光を薄いカーテン越しに投げかけていた。掛けられた毛布が、母の胸のような暖かさと柔らかな感触を以てカズマの眠気を引き止めようとする。それを振り切るかのように身体を起こして周囲を見渡す……周りに並ぶベッドの半分近くが、きれいに整えられた、手付かずの状態を保っていた。おそらくベッドの主の多くが昨日基地を出たきりまだ帰って来ていないのだろう。時刻はすでに朝の7時を回っていた。これが通常の配置だったならば寝坊もいいところだ。

洗顔を済ませた後で空腹を覚えたカズマが食堂へと向かうその途中のことだった。突然に前方に立ちはだかった人影に、カズマの足が止まった。

「マリノ?」

「あんた!……昨夜(きのう)はあたしのダチをよくもやってくれたわね」

 ブラウンの瞳が、怒りに煌めいていた。柳眉を逆立て、マリノはゆっくりとカズマに歩み寄った。ぐっと握られた拳には太い血管が浮いていた。カズマは、覚束ない口調で抗弁を試みた。彼女に対する名状しがたい苦手意識が、カズマにはあった。それは決して単純に彼女が嫌い、というわけではないのだが……

「あいつらから仕掛けてきたんだ! あんたに怒鳴られる云われはないじゃないか」

「物事にも限度ちゅーのがあるだろうが! この馬鹿カズマァ!」

 ヤバイ……と本気でカズマは思った。こんな感覚は、ラバウル上空でグラマンの大群に追い掛け回されたとき以来だ。

 マリノの長身は、眼と鼻の先に迫っていた。長い腕がカズマの襟に伸び、カズマの胸を強引に引き寄せた。

「覚悟は出来てるんでしょーねぇ?」

 残酷な笑みがマリノの口元に浮かぶ。思わず、カズマは眼を閉じた。

 暫しの間の後……不意に拘束は解かれた。いきなり開放されよろめくカズマの耳に、微かではあるがリズムの狂った口笛の音が聞こえてきた。


 バクルが、とぼけたように口笛を吹きながら向こうから歩いて来るのが見えた。それに気付いたマリノは舌打ちしてカズマから離れていく。

「お早う、カズマ」

 離れて行くマリノの後姿を見送るようにしながら、バクルはカズマに話しかけてきた。カズマの肩を叩き、小さな声で囁く。

「危なかったな」

 苦笑し、満更でもないという風に首を傾げてカズマは言った。

「援護、感謝します少尉」

 バクルは笑った。

「『ヴォターズ‐ハウス』の英雄も、女の子の前では形無しだな」

 その口調に悪意は無かった。カズマは恥ずかしそうに俯いた。

 バクルと別れ、兵員食堂に足を踏み入れたカズマを兵士達の視線が待っていた。決して悪意ある目つきではなかった。むしろ仏様とかスポーツの試合で勝利に貢献したチームメイトを見るような目を、その場の皆がカズマに向けていた。(トレイ)の上に朝食を取り分けている最中にも、一人の調理員が声をかけてきた。

「やってくれたな坊や。基地中で評判になってるぞ」

 ウインクとともに、調理員は教えてくれたのだ。カウンターから離れて大方埋まってしまった席を探そうとウロウロしている最中にも、先に席に着いていた兵士が自分の隣の席を空けて誘ってきた。すかさず誰かが言った。

「みんな見ろ。こいつだ。こいつが一人で空兵隊の一個分隊(・・・・)を叩きのめしたんだぜ!」

 あっという間に、周囲の兵士が(トレイ)を寄せてきた。どうやらカズマ自身の与り知らぬところで、「ヴォターズ‐ハウス」の一件が誇張して伝わったらしい。

「よう坊や、君の武勇伝とやらを聞かせてくれないか?」と聞いてくる者。「坊やはパイロットだろ。もっと背を伸ばさなきゃ駄目だ。俺のを食え」と自分の(トレイ)から惣菜を取ってカズマの(トレイ)に移そうとする者――慌てるカズマの周囲に人だかりが出来上がるのにさほど時間がかからなかった。

「まるで、フラウ‐リンのサイン会だぜ」

 誰かが、ふざけた口調で言った。

 一夜明けて訪れた予想外の事態に、カズマは赤面するしかない。



 187飛行隊の待機室(レディルーム)では、それ以上の歓声がカズマを待ち構えていた。

「カズマッ! 新入りの分際で俺の先を越しやがって!」

 カズマの頬をつねるコルテの目が笑っている。同じように次々と隊員たちの手が延びては、カズマの髪の毛をクシャクシャにしてくる。その度に広がる歓声で、ただでさえ狭い待機室が一層騒がしくなっていく。こういうとき、そのような顔をすればいいのだろう?

昨夜(きのう)から顔を見ないと思ったら、他の店で空兵と一戦交えていたとはなあ……抜け目が無いやっちゃ」

「何でも、空兵を三人病院送りにしたそうな」

「空兵隊の奴ら、何時でも何処でもでかい面しやがるからな。いい気味ってもんさ」

 会話を聞き流しながら、航空装具を着用していたその時……

「ツルギ‐カズマ空兵! ツルギ‐カズマ空兵はいるか!?」

 高圧的な声が、堅いブーツと共にロッカールームに踏み込んで来た。カズマの姿を見出すや否や、四人分の白い戦闘服と白いヘルメットが警棒を持ちカズマの四周を取り囲む。居合わせた仲間たちにそれを咎める術は無かった。白衣の上腕に巻かれた「憲兵(MP)」の腕章が、彼らに割って入ることを躊躇わせたのだ。

「ツルギ‐カズマ空兵だな?」

 指揮官らしき白衣がカズマを見据えた。階級は曹長。感情の無い、空虚な眼差しだった。

「そうですけど……」

「昨夜の市内で起こった乱闘の件で、貴官に聞きたいことがある。一緒に本部まで来てもらおう」

「待て!」

 声を上げ近付いたのはバクルだった。灰色の瞳が指揮官を睨み、バクルは隔意剥き出しの声を階級の優位を使い吐き出した。

「おれも彼と一緒だった。何故彼だけなんだ?」

「艦隊側の当事者は、彼だけだと聞いている」

 にべも無く、憲兵曹長はバクルに言った。バクルも負けてはいない。

「じゃあおれは共犯だ。一緒に連れて行け」

「罪を認めようと言うのか?」

「違う。正当な対応だったと証言するためだ」

 眼を険しくするバクルの前で、憲兵曹長が謹厳な顔付きを崩し掛けるのをカズマは察した。彼が、この期に及んで抵抗する者が出ることを予測していなかったのがまるわかりだ。だがその後には地位を背景にした抗弁が待っていた。

「先ずはツルギ空兵から事情を聴く。我々の業務に対する干渉は止めてもらおう!」

 言うが早いが、曹長は部下に目配せした。その後に起こったことは誰の目から見ても強引に過ぎた。憲兵に両脇を抑えられ、引き摺られるようにロッカールームから出されるカズマの躯――――憲兵隊の四輪駆動車まで連行される途上、視界に触れた人影にカズマは思わず我が目を見開いた。


 マリノ――?


 兵舎の壁に背を預け、煙草を咥えた長身の女――マリノ‐カート‐マディステールの眼が、(わら)っていた。



 咆哮はやがて回転するプロペラで奏でられる一つの協奏曲となり、飛行場一帯に響き渡った。爆音を生む銀翼が誘導路を走り、そして管制塔の指示に従い離陸を始める。全機の離陸まで二十分――飛行場のアスファルトを蹴った編隊は既にファー‐カレースタッド市街の上空を離れつつあった。

既に機上の人となっていたカレル‐T‐“レックス”‐バートランド少佐は時計で時間の経過を確認すると、無線周波数のダイヤルをわずかにずらした。緊急時を除いて勝手に事前に打ち合わせた周波数を変更するのは本来ならご法度だが、普段から気心の知れた同僚と秘密の回線を使い――大抵の場合、訓練に関係のない――通話をするのはベテランの特権というやつだ。


 完熟飛行の訓練スケジュールは順調に消化しているが、状況は切迫しており、話したいことは山ほどある。決めておいた数値に周波数を合わせると、わずかな間を置いて側方、第二中隊を率いるキニー大尉の声が飛び込んで来た。

『――ハロー、聞こえますか? 少佐』

「聞こえてるよ。ジャック」

『――では何の話からしますか? 訓練のこと? 敵情? それとも……坊やのこと?』

「ボーズの話からしよう」

 言うが早いが、バートランドは機体を傾けた。金属外皮の補助翼の効きはいい。ジーファイターβの機体を、上昇させながらに軽々と目指す外空の方向へと導いてくれる。空母での運用に備えた長距離飛行訓練。浮遊島の各所に設置されたビーコンを搭載受信器で辿りつつ設定した空路を飛ぶ。航法に慣れたバートランドとキニーにとっては、落ち着いて会話を交わすのに又とない好機とも言える。


『――坊やならば、今は市内の憲兵本部にいます。幸いにも人並みの扱いは受けているようです』

「それは俺も知っている。バットから聞いた。あいつはボーズが空兵隊の預かりにならぬよう骨も折ってくれた」

『――そんなことが……』

 キニーの絶句を、バートランドは苦笑と共に聞く――セシル‐E‐“バット”‐バットネンに返すべき借りがまたひとつ出来たと、彼は改めて自覚する。

「それでジャック、犯人の目星は付いたか?」

『――当ててみますか? 隊長が睨んでいるのと同じ人物だと思いますが』

「やはり、マディステール少尉か?」

『――』

 苦笑交じりの沈黙――イヤホンの向こうでそれを聞き、バートランドは口元を苦々しく歪ませた。彼の推測は正しかった。まる一夜が過ぎた後とはいえ、あんなに手際よく基地に憲兵隊が踏み込んで来る筈がない。基地にいる誰かの「手引き」――言い換えれば垂れ込み――あってのことだろう。

「ふたりの間に何があったかなんぞ知りたくもないが、操縦士と機付きの仲が悪いというのは拙いな。下手すりゃレムリアンと戦う前にボーズが死んでしまう」

『――機付を替えさせますか?』

「当面保留だな。あと……ボーズはどれくらいで出られそうだ?」

『――正当防衛が証明されたとしても、二週間は掛るのではないかと』

「証明はできそうか?」

『――空兵隊の「人徳」ってやつでしょうかね。証言できる者には不自由してませんのでご安心を。それに乱闘現場のオーナーからも証言を取っているところです。離陸前に聞いた途中経過だと、正当防衛の可能性大ですな。あと戦闘097にもひとり……』

「ボーズと一緒に暴れたっていう、レムリアンか?」

『――そうそう……そのレムリアンです。レムリアンであることを差し引いても、彼の証言は特に決定的ですよ』

「いいぞジャック。そこまで聞けば十分だ。敵情の話をしよう……」

『――了解』


 応答を聞いた後、編隊は最初の返針点に差掛る。横隊からエシュロン隊形への変換、信号周波数の切換えと次の返針点の方向まで左旋回で向かうよう全機に命じ、そこでバートランドの話が始まった。

「断片的な情報を総合するに、レムリアンの工作船がこの空域内に潜んでいる。連中、まだハンティにご執心らしい」

『――監視ですか? それともモック‐アルベジオの復仇?』

「後者だろうな」迷いなく応じ、バートランドはニーパッドに挟んだ資料に目を走らせた。定期哨戒に出た護衛艦の哨戒航路とその日時、各地に配された電波傍受施設の位置とその成果が、まだ見ぬ敵の姿を輪郭のはっきりとした影として空図上に映し出していた。特に民間船等の目撃情報から勘案するに、工作船は「ハンティ」こと空母ハンティントンの航跡を愚直なまでに追っているように見えた。


「攻撃部隊の戦力不足はアルベジオの戦いで痛感した筈だ。現地の『土台人』に協力を仰ごうにもカレースタッドには空兵隊がいる。いま一度ハンティを叩くとしたら……」

『――増援を呼ぶってわけですか?』

「あるいは……もう来ているのかもしれんな。この空域の何処かに」

 そう言い、バートランドは太陽の方向を睨む。直線飛行の間に高度を上げたジーファイターは完全に下層雲を睥睨し、上層雲の領域に達しようとしている。警戒網を敷く必要があるのかもしれない。幸いにも手駒は揃っている。艦載機の索敵、航法訓練という名目でそれは容易に為される筈であった。別にハンティントンからではなくファー‐カレースタッドから飛ばせば十分に事足りる……


「……ジャック、最後に訓練の件だが」

『――はっ!』

「特に戦闘機隊に関してなんだが、絶対に意見を聞いて置きたいやつがいる。それが出来るか否かはお前さんに掛かっているんだ」

『――ハハハ、ここで最初の件にループってわけですか?』

「そうだ。よく判ってるじゃないか」

『――可能な限り早く、坊やを牢から出す必要がありますね』

「おれが駆け合って艦長名の嘆願書も付けてやる。どうだ? できるか?」

『――パーフェクトに、というわけには行かんでしょうが、坊やが臭い飯を食わないようにはできるでしょう』

「よし! それでいい」

 年齢に似合わない声を弾ませる。いままで絨毯のように一帯に広がっていた下層雲が今や霧が晴れた様に途切れがちになり、次には茫漠たる海原を直に見渡せる位置に編隊は在った。バートランドは散開を命じ、一個小隊四機ごとに散った各機へ高度を下げるよう指示する。加速は、バートランドがこれまでに搭乗したタマゴよりも、ジーファイターαよりも良好だった。安定感もある。だがこいつであっても――


「――未だ及ばない」と、交信を打ち切った機内でバートランドは独りごちた。レムリアの戦闘機に対して、である。彼らに対しラジアネスの戦闘機が性能的に追い付くまでには更なる時間を要するであろう。であれば、今在る駒の使い方によって打開の途を探るべきであった。


 であるからこそ――


「――痛えなあ……ボーズが抜けるのは」

 ぼやきつつ、横転から下層雲に向かい高度をさらに落とす。とにかく、今のバートランドにとって、全ては自分とともに空の上に居ない一人の人間の、か細い双肩に掛かっているのだ。



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