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第四章  「港街にて  前篇」

 星空の下で、雲海は風の導くまま漂泊を続けている。空に浮かぶ大陸を思わせるそれらに接せんかのように、船影は徐々に高度を落としていくのだった。


 船影の後を追うように光が瞬いている。ケーブルを以て船に曳かれ、赤青の光を瞬かせる曳航式浮標。本隊から延びた羽布織りの翼が風を拾い、それは止め処なき浮揚を繰り返していた。下層雲の上であるにしては夜空を流れる空気は生温く、それが不測の事態の到来を、浮標を曳くフネの乗員たちに予感させた。


『――左舷0‐5‐0に船影認む! 距離一二空浬』

 見張台上、双眼鏡を睨む甲板員がインカムに叫ぶ。会合に備え、昼の間ずっと光を遮断した部屋に在って夜間当直に備えた甲板員を配置したのは正解だった。夜に馴れた彼の眼は、双眼鏡の視界の中に雲海を進む船影を見出したのだ。初めは灰色の雲海から浮かび上がるように進む黒い点は、次第に彼にとって見慣れたレムリア航空艦隊所属、レーゲ‐セルト級巡洋艦の輪郭を見せつつ近付いてきた。


『――レーゲ‐セルト級と視認! 友軍です』

 見張員の弾んだ声に船橋、仮装巡航艦「ウダ‐Ⅴ」艦長 セギルタ‐エド‐アーリス少佐は傍らの副長ヒラン少尉に手振りで指示を送る。復唱替わりの命令がヒランの形のいい口から伝声管に響いた。

「発光信号を送れ。戦闘配置そのまま」

 曳航式浮標を飾る赤青の光が点滅を始める。規則正しい感覚と纏まりを維持した光の羅列――船体からではなく、わざわざ浮標から発光信号を送るのには理由がある。欺瞞効果もそうだが、発光位置が敵に露見した際、攻撃により船に及ぶ被害をなるべく抑え、回避行動の余裕を稼ぐためだ。いわば(デコイ)である。


 光の瞬きが夜空の彼方に見える。遠近の区別が量り難い暗夜にあっても赤青の光の瞬き、それが言わんとすることが手に取るようにわかる。ヒランの指揮で距離を詰めた「ウダ‐Ⅴ」は、やはり同様の運動を経たレーゲ‐セルト級巡洋艦と同航の態勢を取り、互いの腹を接するように並んだ。夜空の下であっても互いの船容、識別記号すら判る近距離だった。巡洋艦の甲板員が火薬式投射機でロープを投げ上げ、「ウダ‐Ⅴ」甲板上に在ってそれを受け取った乗員の手で両艦は繋がれる。その間も空を支配する気流に乗り、あるいは抗いつつ双方は姿勢の維持に努める。この辺りは乗員の腕の見せ所であった。

 ロープを伝い始まる燃料と物資の補給――その間、上層雲の切れ間を縫い航過する爆音が複数。接触に先駆けて巡洋艦より発進し周辺警戒を行う艦載機だ。彼らの一部はこの空域からさらにアシを延ばし、近傍に在るラジアネス軍基地への夜間偵察、あるいは交通破壊任務に赴くかもしれない。


「艦長、命令書と物品目録です」

「…………」

 補給ステーションより戻ったヒラン少尉より書類を綴ったバインダーを受け取る。物品目録に目を流すうち、セギルタの端正な表情に少し曇りが生じた。

「……補充機と操縦士は無しか?」

「はい。あの艦も四機しか積んでいないようです」

「…………」

 怪訝な目をそのままに、セギルタは併走する巡洋艦を睨む。思い当たる節はあった。当初の予想に反して侵攻作戦が順調に進んだ結果、レムリアの占領下に置かれた地域と空域が広範に過ぎたのである。それはつまり、占領地の維持防備に必要な戦力の不足を引き起こしたのだ。不足を埋め合わせるための努力は、国民及び「原住民」――占領地の住人――の強制徴集と、空戦士の大量養成方式への転換という手法で依然継続中であった。


「――――!」

 補給物資の目録の中に別の一行を見出し、セギルタの眼が一瞬険しさを増す。そこにヒランの感情を殺した声が重なる。

「短空雷を受領しました……フラゴノウム弾頭装備の短空雷が四基ほど」

「ほう……送ってくれたか。大盤振る舞いだな」

 今度は目元を(たの)しむように緩め、セギルタは目録に目を細めた。比較的小型の戦闘機でも対艦戦闘が可能なよう開発された短空雷だが、小型故にその射程は短く弾道も安定しない。さらには小型であるとは言っても単発エンジンの戦闘機では持て余す程に重いときている。奇襲ならばともかく、戦闘で使うものではない。しかも、フラゴノウム弾頭とは――それを懸念として口に出したのは、やはりヒランであった。

「少佐、空雷は一体……」

「私が注文したのだ。案ずるな」

 涼しい目付きのままセギルタはバインダーを捲り、そして命令書に添付された空図の写しに行き当たる。東南の端から南大空洋に引かれた直線が一本。それは二三度の変針を経たのちにウダ‐Ⅴの現位置に近い港に達したところで止まった。入港の日付は二日前。港の名は――

「カレースタッド……」

 名を呟くと同時に、セギルタはバインダーをヒランに放った。危うげな手付きでそれを受け取ったヒランは、不安そうな表情を隠してはいない。

「安心しろ少尉」

「はっ……!」

「アレディカの時の様にはならぬよ」

 微笑の半面、空雷に纏わる過去を直に知る者と、風聞でしかそれを知らぬ者――前者がこの船では自分独りだけであることに、今更のように時の流れの無常さを痛感するセギルタがいた。



 夜――

 カズマが、昨日部屋の整理を手伝わされた女性の大尉と行き会ったのは夕食後のこと、飛行機を見に行こうと飛行甲板へ上がる途中だった。カズマの敬礼におどけるような手つきで答礼すると、行き過ぎようとするカズマを彼女は呼び止めた。

「いつぞやの坊やね? 昨日はどうも……」

 薄い口紅に彩られた口元には、艶かしい笑窪が浮かんでいた。

「坊や扱いは止してください。一応正規の兵士ですから」

「所属は何処?」

「第187戦闘飛行隊です」

 大尉は納得するような素振りを見せた。興味を向けた積りであろうが、カズマの脚先から天辺に至るまで注がれる眼差しがやけに慣れ慣れしく、それが却って眼前の女性大尉に対する警戒心をカズマに抱かせた。訝しさから険しくなるカズマの眼元に大尉は微笑み、意に介さないかのように口を開いた。

「へぇ……坊やは戦闘機向きみたいだものね」

 カズマは、さりげなく話題を変えた。

「失礼ながら、大尉殿はどちらの科でありますか?」

戦闘情報室(CIC)指揮官のシルヴィ‐アム‐セイラス大尉です。宜しく」

 改まった口調で、大尉は自己紹介した。カズマの前で背を正した姿は凛々しく。マリノ以上の軍人らしさを醸し出しているようにカズマには見えた。

「ツルギ‐カズマ空兵であります!」

 思わず背が伸びた。そのカズマを見下ろす眼が、母性の如き甘さを滲ませた。

「名前は覚えておくわね、パイロットさん」


 歩調に勢いを付けて飛行甲板まで上がって行く若者――彼と別れ、その後姿を見送りながら、セイラス大尉は呟いた。

「……可哀相に。あと一ヶ月の命かしらね」



 売店で物品を受け取ったカズマが部屋に戻ると、すでに部屋に入っていたバクル少尉が折りたたみ式の机を引き出して書き物をしていた。


 レムリア人の亡命者が「ハンティントン」に乗り込んでいるという話はすでに夕飯時の兵員食堂にも広がっていた。傍で聞いていても、乗員の多くが敵国出身の新参者に対してあまりいい感情を持っていないことは明らかだった。ただ、風聞や先入観だけで彼に対して悪い感情を持ち出すような狭量さなどカズマは持ち合わせている積りは無かった。それでも、多少の複雑な感情はある。それはレムリアに対する悪感情というよりは、むしろ少尉の立場に対する同情の念だ。自分もこの世界では彼と同等……否、彼以上に不安定な身の上ではないか?


 机の日記帳から眼を離さず、そんなカズマの内面を見透かしたように少尉は言った。

「……僕はレムリア人だ。だからといって僕にどのような思いを持とうが……ぶつけようが、僕には構わない」

「どんな過去を持っていようが、共に戦えば皆戦友です。きっとそうなります」

 少尉は、カズマの方に向き直った。

「そうか……そう言ってくれれば、僕も気が楽だ。ありがとう」

「そうだ、コーラとお菓子買って来たんだった」

 手提げ袋をカズマは机に乗せた。袋には瓶入りの炭酸飲料が二本、うち一本をバクルに渡す。よく冷えた瓶の中で波打つ黒褐色の液体に、バクルは眼を細めた。

「フラ‐コーラか……僕はケネス‐ビアが好きなんだけどな」

「フラ‐コーラがメジャーみたいですね。この世界」

「…………?」

 バクルは怪訝な表情を隠さずに、カズマを見詰めた。だがそれも一瞬、内心で身構えたカズマに微笑み、折り畳み式の栓抜きを瓶に掛ける。自分のを空けた後に栓抜きをカズマに渡し、開けるよう促した。カズマからすれば、フラ‐コーラは好きな飲み物だった。炭酸の効いた、独特の甘ったるい喉越しもそうだが、ふんだんに用いられた果汁と香辛料の生む風味と清涼感が疲れた身体には堪らなかった。ケネス‐ビアの方は……少しならず味付けが濃過ぎるように思う。フラ‐コーラから果汁を抜き、その分をより多量の香辛料と砂糖で埋め合わせた様な味……と言えばいいだろうか。


「どっちにしてもレムリアにはこんな素晴らしいものはないし、味わう余裕もない」瓶の三分の一を一気に飲み干し、バクルが言う。しかも……と脳裏でカズマは補足する。ラジアネスの歴史では、コーラ、ケネス‐ビア双方とも今から遡ること半世紀前には市井に広く普及していた飲料であるとのこと。

「ところで少尉……」さりげなく、カズマは話題を転じた。このまま彼の出自に関する話をするのは、不毛な営みであるように思えた。

「操縦は、レムリアで習ったのですか?」

「そうだ。ついでに言えば、ラジアネス人も殺したことがある。この腕でね……」

 少尉の表情が少し曇りがちになる。だが、少尉の正直さに、カズマは純粋な好意を持った。

「戦闘経験も、おありなんですね」 

「ぼくは戦闘機乗りだ。ここでも、そしてレムリアでもね」

「レムリアの飛行機は、こっちのよりもずっと高性能ですね」

「ぼくはゼーベ‐ラナしか乗ったことが無いが、それでもジーファイターよりはよく旋回(まわ)るし、加速も上昇もいい。それにあれは自動調整装置(アウトゲレーヴ)がついている。だから下手なパイロットでもある程度は上手く飛ばせる」

「アウトゲレーヴ……?」

「スロットルの開度や高度計に連動して、自動的に最適の混合気比やペラヒッチを調整してくれるのさ。だからエンジンコントロールに関してはスロットルを開け閉めする以上に煩雑な操作は必要ない。そういう装置だ」

 カズマは内心で驚嘆した。正確かつ的確なエンジンコントロールは飛行機乗りにとって必須の技術だ。経験に左右されずそうした操作を容易にするレムリアの技術力の奥の深さに、同じ操縦士としても思いを馳せずに入られなかった。

「すごい戦闘機なんですね」

「ただ、ゼーベ‐ラナは高度2000以下では加速が落ちる。だからゼーベ‐ラナは高度2000以下の戦闘はなるべく避けるようにしてる。それに加えて300ノット以上の速度域では極端に操縦桿が重くなる。その領域では旋回能力はジーファイターとそれ程変わらない」

「じゃあ、そこが狙い目なのか……」

 少尉は笑みを浮かべた。

「レムリア軍のパイロットは優秀だから、そう不利な状況では戦わないよ。ベテランほど引き際をわきまえるって言うだろ? ぼくのいた頃のレムリア戦闘機隊はそういう達人がごろごろしていたものだ」

 そういう話は、カズマも聞いたことがあった。それもバクルの言うように過去形の話では無く、現在進行形の事実であろう。勝利に起因する勢いは再度の勝利を生み、同時に空戦を知る幾多の戦士が生まれる。その戦士たちの中から、図抜けた戦闘本能を持つ「ほんもの」が撃墜王として頭角を現すようになる――かつてカズマが生きた空の戦場でも起こった事実である。

知らず、カズマの眼差しが険しくなり、バクルもまた眼から柔和さを消してカズマの眼光を受け止めていた。

「すごい撃墜王がいるんでしたっけ……タイン‐ドレッドソンとかいう」

「ぼくは、彼の列機を務めたことがある」

「――――!」

 驚いて、カズマは少尉を見返した。

「彼は……タイン‐ザ‐キッドは……なんと言うかぼくらレムリアの戦闘機乗りにとっては特別な存在だ。一度ならず彼の傍で飛んだが、正直、彼の飛ぶ姿を見ていて操縦桿を握る手が震えた。彼は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男だ。おそらく彼と一対一で互角に戦えるパイロットはこの世界にはいないだろうな」

「…………」

 抑制している積りかもしれないが、バクルの語り口には熱があった。言葉を受け止めつつ、カズマは黙りこくった。そこまで強いのか、タイン‐ザ‐キッドというレムリア人は。確かに、傍を飛んでいるだけで戦闘機乗りとして他者を圧倒する強さ、気迫を感じさせるような。いわゆるオーラの持ち主はいる。例えば、カズマにとって星野分隊士はそういう戦闘機乗りだった。


「それはそうと、妙な噂を聞いたんだが」

「噂、ですか?」

「君の隊にレムリア機を六機も撃墜(おと)したって言う凄腕がいるらしいが、それは本当なのか?」

「――――!」

 びくっとして、カズマはさりげなく視線を逸らした。自分のことは確か秘密扱いだったのに、何処からそういう話が漏れたのだろうか?

「さあ……自分は少し前に着任したばかりですから」

「旧式のタマゴでレムリア機を撃墜(おと)すような強者に、会ってみたいもんだよ」

「……そうですね」

 心なしに、カズマは笑った。日記帳を閉じて、少尉は言った。

「ご馳走様ツルギ君。明日はファー‐カレースタッドにジーファーターを受領に行く。朝が早いからもう寝た方がいい」

「はい」

 すでにその指示は聞いていた。少尉の言うことはもっともだった。

 


 まだ暗さが残る朝もやを、寝ぼけ眼で舷窓越しに見ながらカズマは半身を起こしていた。同時に、下段のベッドのきしむ音がした。

「……ツルギ空兵、起きてるか?」下段にいるバクル少尉の声がした。

「おはよう御座います。少尉殿」

 眼を(こす)りながらカズマは応じる。ズボンを履き、床に通じる梯子を下りる間にも、すでにあらかた着替えを済ませた少尉は洗面台へと向かっている。軍人らしい、スキの無い挙作だ。カズマから見れば、レムリア人の方がラジアネスの人間よりも立ち居振る舞いがずっと軍人らしい。


 三時間後、食事を済ませたカズマが指定された艦載艇の発着スペースへ向かったときには、辺りはすでに同じく新型機受領のためファー‐カレースタッドへ向かうパイロットや整備員でごった返していた。

「飛行隊別に集合し、乗り込む。順番を待て!」

 飛行隊の要員は甲板士官の指示通りに並び、繋止されたまま推進器を発動している艦載艇に分乗する。艦載艇の発する排気煙が待機所にまで侵入し、甲板内にまで入り込んで来た靄の下、待機する兵員の煙に咳き込む音がそこかしこから聞こえてきた。

 列の中で順番を待つカズマと、隣の列で、今まさに艦載艇に乗り込もうとするバクル少尉の眼が合った。

 少尉はカズマに微笑みかけた。

 手を上げて、カズマは応えた。


 カズマが艇内に足を踏み入れたときには、内部に設けられた席はあらかた埋まってしまっていた。空いている席を探そうと頭を巡らせている内に、ひとつの空席が眼に留まった。その隣席には、マリノがいた。

 二人の眼が合うや否や、マリノはさっと鞄を取り出して隣席に置くと、カズマに向かって舌を出した。

 可愛くねー!――すでに判りきったことながら、今更ながらに痛感する。

 お返しに、マリノの席を通り過ぎる間際に「バカ」と呟くように言い捨てた。反射的に立ち上がったマリノの拳骨がカズマの後頭部を強かにごついた。

 たちまち、甲板士官の怒声が響く。

「コラッ、そこの二人、喧嘩をするな!」

 座り直そうと背後を振り向いたマリノが眼を剥いた。席を立った拍子に、他の士官に座られてしまったのだ。さらには後からやってきた大尉に鞄を除けられ、もう一方の席に座られたとあっては彼女の戻るべき席はもはや無くなってしまう……結局、二人は艦載艇に立ったまま乗るしかなかった。そうしている間にも、港湾管理局の誘導艇に先導されながら、のんびりとした速度で艦載艇は梯団を組んでファー‐カレースタッドへと針路を取る。その数は六隻。

「バカ、バカ、このバーカカズマ! 死ねっ!」マリノの恨みがましい呻きなど、カズマはもはや聞いてはいなかった。

 彼の眼はただ、丸い窓から臨む外の蒼に集中している。それにしても、本当に緩慢な動きだ。相当高度を取って進んでいることもあるだろうが、下の風景が全く動いていないかのような、ただ浮いているだけのような感覚に陥る。

「おい、艦隊の攻撃機だ」

 誰かが、窓を指差して言った。カズマをはじめ、数人が窓から外の風景を窺うようにした。BDウイング艦上攻撃機の編隊だ。訓練空域に向かう途中なのだろう。内四機が艦載艇の梯団を掠めるように進路を交叉した瞬間、艦載艇の艇体がかすかに揺れた。

 艇長の准士官が怒鳴った。

 「バッカ野郎! ニアミスじゃねえか。殺す気か!?」

 「あれは隊長だな」

と、誰かが言った。乗り合わせていた第177攻撃飛行隊の隊員だった。三機を引き連れて、緩降下の姿勢のまま遠ざかっていくバットネン少佐機の後姿を、カズマはじっと目で追った。たとえ単なる直線飛行でも、ある一定の領域に達したパイロットから見ればその腕の程がわかるというものだ。カズマはそのことを知っていた。だだ、カズマは自分がそういう領域に達しているかどうか、未だ確信を持てないでいる。それでも、持てない確信に裏付けられた自らの視点を信用するならば、あの隊長は腕がいい。

 いつの間にか、梯団はカレースタッド市の郊外に入りつつあった。



 その日、ルウ‐カルベラ‐アルノーは早めに目覚めた。ネグリジェの薄い生地越しに伝わる胸の高鳴りと、大きな黒い瞳の輝きは、目覚めたばかりの人間のそれではなかった。想いを巡らせた微笑とともに彼女はベッドから降りると、小走りに洗面室に駆け寄った。

 女子寮の洗面室に面した窓からは、目に見える高さまで上りきった朝日が柔らかな光を注いでいた。手早く洗顔を済ませ櫛で髪を梳かしながら、自然と流行のラヴソングを口ずさんでいた。


『――私の心はすでにあなたのもの

あなたの輝く空へ私の心からの愛の言葉が届きますように

銀翼きらめかせて、熱い戦いの場へ赴くあなたの元へ

私の心からのエールがとどきますように――』


 あの人が来る!……彼女にとってはただそれだけで十分だった。パイロットスーツに身を包んだ、自分と大して背の変わらないあの人。あの少年っぽい外見とは裏腹に鮮やかな手際でコックピットに身を滑り込ませ、蒼空のかなたへと向かう渡り鳥のように自在に空を舞うあの人……あの人のはにかんだような笑顔を思い浮かべるたびに、ルウの小鹿のような胸は感激に張り裂けそうになるのだった。

 着替えを済ませると。ルウは窓辺へと歩を進めた。ファー‐カレースタッド基地の敷地内に設けられた、女子職員専用の寮の二階にある彼女の部屋からは、遠くに広がる主飛行場の全景を見渡すことが出来た。


 ルウの目が大きく見開かれた。それは今までに見たことの無い光景だった。飛行場のエプロンに広がる従来にも増して広く、重厚な艦隊の戦闘機の列線。窓を開けた途端に頬を伝う、ひんやりとした風に乗って聞こえてくる試運転のエンジン音が、想いを秘めた胸には心地良い。心地良さをそのままに朝食をとりに向かった食堂では、据え付けの古ぼけたラジオが深刻な情勢を伝えていた。


『――南大空洋(サウ-パシフィカ)ではレムリア軍の活動が活発化しています。統合作戦本部の発表によりますと、現在判明しているだけで既に二十三隻の商船、十四隻の輸送船がレムリア軍の攻撃により同地域を航行中に撃沈されており、五つの主要港が攻撃を受けた模様です。国防省では近々レムリア軍の大規模攻勢の発起が近いものとして該当地域に警戒を呼びかけています』


「私たち、これからどうなるのかなぁ……」

 ルウと同じテーブルについていた一人の看護婦が言った。

「あんたもしかして、ここまでレムリア軍が攻めてくると思ってる?」

 「きっと攻めてくるわよ」

 不安そうな表情を浮かべて、ルウは言った。

「ここが占領されたら、男たちは皆殺されて……女はきっと……」

 その瞬間、周囲の空気が止まった。きっとルウを睨みつける者、頬を赤らめる者……反応はそれぞれだ。

 ルウは慌てて弁解した。

「……いや、あくまで仮定だから」

「そ、そうだよね。いくらなんでも政府軍もそこまで弱くは無いよ」

 作り笑いを浮かべながら、ルウは外へと目を転じた。

 遠くに見える滑走路では、攻撃機らしき大型の飛行機が、並んで滑走を始めていた。


 あの人も、レムリア軍と戦うことになるのだろうか――それを思う度にルウのあどけない顔は曇る。曇りが晴れる日は、未だ遠いように思われた。


 

 カズマとその他の要員がファー‐カレースタッド基地に到着して最初の三時間は、新型のジーファイターの機体及び装備の取り扱いの説明に費やされた。カズマが室内に足を踏み入れたとき、基地内のブリーフィングルームでは、先に入っていたバクルが自分の隣に席を空けて待ってくれていた。室内は狭く、やって来たばかりの艦内待機組で埋まるのにそれほど時間はかからなかった。外部に据え付けられた空調システムの立てる重厚な唸り声が、心地よい冷風とともに耳障りな音を運んでいた。


 講義は、中央から出向してきた艦隊航空工廠の技官によって行われた。初歩的な飛行理論に始まり、あとは旧型との比較点、操縦性、新装備の説明が延々と続く。すでにジーファイターβの特性を、身をもって知っていたカズマにとって、それはもはや大して意味を持っていなかった。

 だから、寝た。

 隣のバクルは苦笑した。このような場でも寝ていられるカズマの豪胆さ、というか無神経さに呆れるのを通り越してただにやけるほか無かった。

 最初は、バクルはカズマを起こそうとした。だが、カズマの肩に手をかけたところでやめた……隣の青年の満ち足りた寝顔が、彼に起こすのを躊躇わせたのである。寝息も静かだし、他人に迷惑を掛けているわけではないから由とするか……机に突っ伏しているカズマをそのままに、バクルは黒板へ向かった。確かにカズマは誰にも迷惑を掛けていないし、この場の誰もが彼に迷惑を掛けられているとは思っていなかった……若干一人を除いては。

「ゴラァッ! カズマーッ 寝るなぁっ!!」

 後列の一角から上がった怒声に、その場の全員の視線が集中した。声の主らしき背の高い女性士官が、怒声とともに立ち上がってカズマの方へ消しゴムを投げつけた。

 マリノだった。投げつけられた消しゴムはカズマの後ろの席でバウンドし、見事にカズマの頭をヒットした。

 が、相変わらずカズマは目を開けず、すやすやと寝息を立てている。それを見たバクルから、思わず笑みが漏れた。それが一層マリノの怒気を刺激する。

「このバカァーッ! 起きろ!」

「うるさいぞそこ!」

 堪らず怒鳴りつけた技官の一喝に、マリノは渋々座り込んだ。周囲の嘲笑がすでに彼女を包んでいた。

 カズマが頭を上げたのは、そのときだった。寝ぼけ眼で、カズマは周囲を見回した。

「少尉、何かあったんですか? むにゃ……」

「い、いや……」

 応える一方で、バクルは沸き起こって来る笑いを抑えるのに必死だった。



 ――ファー‐カレースタッドの主飛行場。

 晴れ渡った空の向こうには、南方特有の高い太陽が、刺すように暑い光を飛行場のアスファルトの上に注いでいた。

 先程まで乗機まで向かうパイロット達を満載していた軍用車が、軽快な走りで列線から遠ざかっていく。

 ブリーフィングの後、航空装具を着用したカズマは列線を形成するジーファイターβの重厚なフォルムをじっと立ちすくんだまま眺めていた。

カズマは知っていた―― 一切の憂いも、恐れも、一度乗機と一体化したときには瞬時に霧散し、翼を翻した機体の中で空の一点を睨むその瞳にあるのは、ただ蒼穹へ挑む闘志のみ。

 戦闘機は、空に昇る勇気を顕示するのに最良の道具であり、相棒なのだとカズマは改めて思う。ジーファイターは、そのための「冒険」に打ってつけの相棒だ。

 α型より空力的に洗練され、丸みを帯びた容姿となったβ型を眺める瞳が、凛と煌めく。


 しばしの感傷――それは振り下ろされた拳骨によって破られた。

 ゴン!――鈍い音とともに、カズマはその場に頭を抱えてうずくまった。

「いってぇ……!」

 いつの間にか、傍らにはマリノがいた。憤怒に満ちた眼で、彼女はカズマを見下ろしていた。

「な、何だよ……?」

「自分で考えな。このバカ!」

 振り返らず、整備道具の入った箱を片手にズカズカと歩いて離れていくマリノの後姿を、カズマは憮然として眺めた。少しはなれたところから二人の様子を伺っていたバクルが口を押さえて笑っていた。

 飛行前の最終確認のためのブリーフィングに向かう途中で、バクルは言った。

「君達はどういう関係なんだ?」

「地上で訓練を受けていたときの教官です」

「そうか……だから遠慮が無いんだな」

「今でもよく苛められるんです。ああやって……」

 やれやれ……という風な顔でカズマは言った。バクルは言った。

「きっと君のことが可愛いんだろう」

 カズマはギョッとした。「変なことを言わないでください」

 バクルは笑った。

「君らを見ていると、姉を思い出すよ」

「姉?」

「ああ……子供の頃、よくああいう風にどやしつけられたものさ」

「家族がいらっしゃるんですか?」

 途端に、バクルの顔が曇った。

「母と姉が……レムリアにいる。生きていれば、ね」

 気まずい雰囲気が二人を覆った。二人はそれ以上口を開かず、灼けたアスファルトの地面を歩いて行くのだった。



 空母「ハンティントン」配備の第105空母戦闘航空群司令クラレンス‐D‐ハッセル中佐。バートランドの指揮する第187戦闘飛行隊と同じくその傘下にある第097戦闘飛行隊隊長ランデル‐K‐ディクソン少佐。バートランドにとって前者は艦隊士官学校(アカデミー)の四期、後者は二期先輩に当たる。だからといって、二人とバートランドの仲は決して親密というわけではない。むしろ、本来なら同窓の先輩として尊敬すべき存在である二人を、バートランドは嫌悪していた――もちろん、内心で。


 ハッセルは――いかなるときでも飛行学校の教本そのままの飛行をする。という意味で――腕がいい。パイロットとして着任した後は専ら教官職として各地の教育飛行隊を渡り歩き、ここに赴任する以前は中央にあって基地や前線部隊に如何に適正な規模と水準の航空機とパイロットを割り当てるかの適正解を導き出すべく「机を操縦していた」男だ。そこに持ってきて空母の全戦闘機部隊を束ねる手腕と見識に欠ける。杓子定規過ぎて指揮に柔軟性を欠くことが多々あるように思えるのだ。


 ディクソンに至っては……元来対空砲科専門の男で、パイロットとして訓練を受け実戦配置についてまだ六年も経っていない――まあそれでも「飛行時間」だけをとってみれば現在では相当なベテラン扱いなのだが。その経験が戦闘機パイロットとしての技量にどれほど反映できているのかは大いに疑わしい。しかも、部下の人望が絶望的に無い。同窓の士官パイロットを優遇するあまり部隊の過半を占める一般兵科や民間出身のパイロットの反目を買っているのだ。ただでさえ士官パイロットは数がなく、戦力の多くをそうした「アマチュア」に頼らなければならないというのに、である。


 半分以上が燃えつきかけた煙草を片手にバートランドは頭を抱え込んだ。こういうことを考えるのは、当人に少なからぬ労力を強いるものだ――物理的というより精神的な。

「隊長、時間ですよ」

 いつの間にか、傍らにはキニーがいた。飛行直前の打ち合わせをする予定が迫っていた。

「あいよ」手を振って先に行くように指示をした後で、バートランドはゆっくりと腰を上げた。カレースタッドに到着した当初からジーファイターβで飛行を始めていた彼らにとって、今日は朝方に続いて二回目の飛行だった。朝方は烈しい空中機動訓練に終始していたが、今からの飛行は新参組の完熟飛行を兼ねた編隊飛行訓練だ。

 身体の節々が上げる苦悶の響きを苦笑とともに感じながら、バートランドは航空装具のバンドを締めなおした。


 今年でどれくらい飛んだっけ――銀翼とともに歩んだ二〇年近くの年月を、彼は思った。

 使い込まれ、色あせた皮製ジャケットと、芯を抜いた軍帽以上に、節くれだった腕と目元と口元に刻まれた皺が、飛行士としての彼の、現在に至るまでの経験の蓄積を雄弁に物語っていた。煙草盆に煙草を押し付けるようにして消すと、バートランドはゆっくりと歩き出した。

 飛行機にオートスターターが無く、手動でクランクを回しエンジンを始動させていたのは何時のことだろう。

 チョコレートと卵を交換しようと、複葉練習機で地上に広がる農場の広大な敷地に直接乗り付けていたのは何時のことだろう。

 まだ結婚する前、恋人だった妻をこっそりと乗機の胴体に乗せてそのまま離陸し、上から大目玉を喰らったこともあったっけ……若い頃はいろいろと無茶をやったものだ。


 危険な空に飛び込む者は、地上の生活を大いに楽しむ権利がある。若い頃の自分はそう信じて疑わなかった。現在でも、そうだ……飛行機乗りとしての経歴に自分の手で引導を渡すか、抗えない運命が空のかなたに自分自身を飲み込むその日まで。

 バートランドと同じく、空に生きる場を見出した同期生の中にも体力的な限界を感じて前者の途を選ぶ者もボツボツ出始めている。過去には後者の列に連なった者が少なからずいる。あの「アレディカ戦役」で戦死した艦隊のパイロットの飛行隊長級の多くがバートランドの同期か一、二期違いのベテラン級の人間だった。そのさらに多くが職場においては優秀なパイロットであり、有能な指揮官であり、家庭においてはよき夫でありよき父となっていた……バートランド自身は違う。夫婦の間に子供はできず、遠く離れた街にある官舎には妻の姿はもう無い。出版社に勤務している妻とはここ数年間はすれ違いが続いている。その結果として別居状態が続いている。


 ……そして現在の空は、空の戦いに臨む若者達から、地に足をつけていることを楽しむ権利を奪おうとしているかのようだ。

「総員気を付けっ!」

 キニーの号令が、バートランドを迎えた。少し離れて広がるジーファイターの列線を背景に、バートランドを囲むように並ぶ187飛行隊のパイロット達。その多くが自分よりはるかに若く、中にはつい最近まで戦争そのものに何の縁もなかった者もいる。その技量の程はようやく離着艦を覚えたばかり――彼らを、バートランドはゆっくりと見渡した。


 自分が若い頃にしていた覚えのある顔ばかりが並んでいることに思い当たって、彼は苦笑した。一通り視線を巡らせ、一番隅の人影を認めて目を細める。その先には、カズマがいた。静かな、落ち着いた感じの瞳が、男をじっと見据えている。

『いい眼をしている』

 バートランドは知っている。自分がこの青年と同じ年の頃、こういう眼を持つことは無かったということを。この青年の眼は空に生きる者のそれではなく、空を生き抜いた(・・・・・)者のそれであるということも……やがて正面に向き直ると、バートランドは言った。


「これより飛行訓練を始める。1124より第一小隊から順次発進。時間と編成、コースは頭に入れてあるだろうな? 憶えてないやつぁ置いていくぞ」

 また、視線を巡らす……反応は無い。彼らから視線を逸らすように、バートランドはチャートに眼を落とした。

「ま……わかってるだろうが作戦が近い。これから、忙しくなる」

 滑走路の隅に置かれた風向測定器がガラガラと音を立てながら左右に首を降り始めたのは、そのときだった。


 風向きが、変わろうとしている。



 この日、訓練は基本的な編隊飛行に終始した。

 すでに一度乗り組んだだけに、ジーファイターを乗りこなせるだけの自信は十分についていた。構造が単純な割には、よく飛ぶというのがこれまでの実感だった。特に最新のβ型はα型に比べ旋回性能に劣る半面横転速度と加速性が著しく改善されているという。だが、これらの真価を体感することになるのは実戦に出てからのことになるだろう。特に今回のような「慣らし飛行」まがいの訓練では体感するすべも無い。


 訓練を終えて基地に降り立った隊員を、昼以降の自由外出が待っていた。門限は明朝九時という大盤振る舞いである。カズマの場合、駐機場に滑り込ませた乗機から身軽に飛び降り、迎えの地上車に乗り合わせて向かった指揮所で報告を済ませたときに、朗報はコルテの口を借りてもたらされた。話の後で、

「……言いにくいことだが、最後の上陸になるかも知れんな」

 と、コルテは言葉を濁した。

「作戦が始まるんですか?」

「詳しいことは判らないんだが、敵さんの活動が活発になってきているらしい」

「……じゃ、年貢の納め時ですね」

 さりげなく、カズマは言った。コルテは苦笑した。

「……おいおい、冗談はよしてくれよ」

 ――報告を済ませて指揮所の外に出たカズマの眼前を、外出する兵士を満載したトラックが数台、土埃を巻き上げながら通過していった。同じく報告を済ませ指揮所から出たバクルの姿を認めたとき、カズマは声を上げて彼を呼んだ。彼の隊とは飛行時間とコースが少しずれていたこともあって、カズマは彼の飛ぶ様子を見ていない。

「少尉、外出は?」

「行くさ。もちろん」

 二人そろって、ロッカールームへ向かう。ロッカールームで航空軍装を解いた後、バクルはカズマをシャワーに誘った。

「帰ってから浴びますから」

「遊びに行く前に、仕事の汗を落としておいたほうがいい」

 バクルの言うことは、尤もだった。が、実のところカズマは内心では気が進まなかった。シャワーを浴びるというより人前でおおっぴらに肌を晒すということが……意を決するようにシャツを脱いだカズマの半身へ何となく視線を転じたバクルは、思わず眼を剥いた。

「傷か……」

 切り傷とか、打撲の跡とかいったようなただの傷ではなかった。レムリア軍人として少なからぬ実戦に参加した経験上、空戦や対空砲火で負傷した同僚を彼はかつて何度も見た。背が低いながらも均整の取れたカズマの体躯に刻まれていたのはそうした傷だった。それも複数。

 バクルは、戸惑いの色を隠せなかった。それでもあえて隠そうとするかのように、言った。

「……いろいろと、あったみたいだな」

「ええ、いろいろとね……」

 カズマは穏やかな笑顔で応じた。そのアンバランスさがさらにバクルの疑念を深めた。

 昨日。初めて会ったときから、只者ではないことは判っていた。

 それが確信に近いことを、バクルは今悟った。

 何故なら、彼はかつて、初対面でカズマと同じような、あるいは近い感触を抱いた人間を、一人知っていたからだ。

 タイン‐ドレッドソン――戸惑いの理由が両者の外見上の相違にあると悟ったときには、すでに彼の脳裏では今自分の眼前にいるこの青年と、自分の知っている最高のパイロットの姿が重なっていた。シャワーを浴び、着替えてロッカールームから出た後で、二人の足はそのまま兵員輸送トラックの駐車場へと向かっていた。


 他愛の無い世間話をしながら途の半ばまで歩いたとき、向こうにこちらを伺う人影を認めたカズマの歩みが止まった。ゆっくりとカズマの前に進み出てくる看護服に身を包んだ少女の姿を眼にしたふたり。バクルが放心したように呟く。

「かわいい……」

 ルウ‐カルベラ‐アルノーの丸い大きな瞳が、真直ぐにカズマを見据えていた。小振りな、繊細な手は同じく小さな、か弱い胸をかばうように組まれていた。大きい眼に比して小さな口から搾り出すような声で、ルウはカズマに語りかけた。

「来てくれたんですね……」

 無言でカズマは頷く。しばらくの間、二人は無言のままお互いの瞳を覗き込むようにした。その場の雰囲気を察したのか、バクルは笑みを浮かべてカズマの肩を軽く叩いて離れて行った。バクルを追うようにカズマが振り返ろうとしたのと、意を決したルウが口を開くのと同時だった。

「あの……!」

「え……?」

「今日……お暇ですか?」

「え……まあ」

 慌てて、ルウから視線を逸らすようにするカズマ。その瞳には明らかに狼狽の色が浮かんでいた。

「よろしかったら、お昼をご一緒にいかがですか?……いい店、知ってるんですよ」

 ルウはカズマを覗き込むようにした。大きな黒い瞳が、不安の光を湛えていた。

「ダメ……?」

「そうだね……」

 カズマは考えるようなそぶりをして見せた。次第にルウの表情が曇っていくのが、カズマにはわかった。好悪の念に関わらず、女性を失望させる様なことはしたくなかった。

「じゃあ……一緒に行こう、か」

「…………!」

 歓喜を満面の笑みに変え、少女は頷く。久しぶりで間近に接した無垢なる笑顔にカズマは心を奪われかけ、そして戸惑う。




 ランディス‐ヒドル空兵二等軍曹は、三人の同僚を連れてファー‐カレースタッドの中央街を歩いていた。彼らが色取り取りのモザイクに彩られた歩行者専用路を一歩一歩踏み締める度に、同じく歩道を歩く周囲の人間が表情を強張らせ彼らから距離を置く様に道の隅に寄って歩く。何せ何れも身長百八十センチ以上の、まるで筋肉の塊のような身体を軍服に包んだ男どもが数人、外聞も弁えない大声でぺちゃくちゃ話しながら固まって歩いているのである。まともな神経の持ち主なら誰だってこう思うであろう――こういう連中とはお近づきになりたくない、と。


 ランディス達は、所属していた空兵第117連隊の移動に伴い先月ここカレースタッドに転勤してきた。任務はカレースタッドも含めたコムドリア亜大陸全域の防衛である。敵の来襲が当分無いとは言え、艦隊随伴の陸戦部隊である空兵隊に属する以上、厳しい訓練に身を置かねばならないことには変わりは無い。たとえこの地上、天空世界の何処にいようとも、だ。

 空兵隊は、ラジアネス連合国家において精強無比の戦闘集団として知られている。


 航天暦一四九八年の創設以来、空兵隊は四百年近くの歴史を数え切れないほどの死闘と流血、そして勝利の栄光で彩ってきた。元来、軍艦に強制的に徴用された船員の逃亡を防ぐために設置された警備部隊に始まり、後に投降した空賊集団の構成員を恩赦と引き換えに入隊させることでその戦力を増強させた。その副産物として敵船に移乗しこれを制圧する接弦戦術、それに付随する近接格闘術は、現在に至るまで不滅の伝統として受け継がれている。


 その激闘の歴史は、かの「エルグリム戦争」において一つの頂点に達した。


 エルグリム軍は、国力においてはるかに勝るラジアネスに対抗する必要上、民間船を武装した大量の私掠船を天空航路の広範囲に放つことで天空世界の物流の混乱を狙った。この戦略により少なからぬ打撃を被ったラジアネスもまた民間の船舶を武装させ、さらには警備要員として空兵隊員を乗り込ませることでエルグリムに対抗したのである。物資目当てに船舶の接収を図る私掠船とそれらから船舶を守るために乗船した空兵隊との間で繰り広げられた数々の死闘は、その壮烈さゆえ後世に至るまで語り草となり、多くの小説や映画の題材となったものだ。


 当然、入隊は難しく訓練は厳しい。

 一例を挙げれば、入隊して三十日間は、新兵は外出はおろか銃に触れることさえ許されない。この間、厳格な基礎体力練成訓練によりひたすら自らの身体を苛め抜くのである。そして三十日が過ぎて初めて銃を扱うことが許される。同時に、新兵は自身に割り当てられた銃とラジアネス連合憲章に誓いを立てる。このとき初めて新兵は栄えあるラジアネス空兵隊の一員として認められるのである。ヒラの志願兵であろうと艦隊士官学校(アカデミー)を出たばかりの士官候補生であろうと、空兵隊を志望した誰もが必ずこの「儀式」を通過する。


 その身体を弾幕の交錯する最前線に晒し、敵陣突破を図る空兵にとって銃こそが自らの頼れる相棒であり、兄弟である。そのことを基礎訓練段階から徹底的に叩き込まれる。空兵隊において第一線の銃兵(ライフルマン)こそが至高の兵科であり、その他の兵科は例え戦車兵であろうとパイロットであろうと銃兵を引き立てる脇役であるに過ぎない。その一方で空兵隊が艦隊に並び立つ独自の軍事集団として形成されていくにつれ、艦隊に対する独立性に加え、厳格な選抜、訓練体系に起因する選ばれた者同士の強固な連帯意識が、やがて艦隊に対する対抗意識と優越感に取って代わっていったのも無理からぬことであるのかもしれない。


 ――話を戻す。

 敵の来襲は考えられないものの、部隊に近々移動の噂があることは確かだった。それも、よくない噂である。

「――近々、増援としてリューディーランドに送られるらしい」

 リューディーランド諸島といえば、ここコムドリアからさらに二千空浬はなれた浮遊島だ。そこ一帯の空域はすでにレムリア軍の行動範囲に入っていて、付近を航行する船が無差別に襲撃されていることはもとより、付近の島々もレムリア軍機動部隊による間断ない空爆を受けているとランディスは聞いていた。今朝も、ラジオでその種のニュースが流れていたはずだ。要するに、ランディス達は最前線へ行かされるのである。


 「四月(ジープ‐ディ)の羊(アープリレ)」という看板を掲げた、こじんまりとした喫茶店 兼食堂。ランディスたち四人の足は、その前で止まった。

「い……いらっしゃいませ」

 と、躊躇いがちに声をかけるウェイトレスを無視するかのように、ずかずかと一番奥、店内から外の様子を隅々まで見渡せる席まで歩を進める。席には、先客がいた。学生らしい、気の弱そうな二人組みの男だった。

 その内の一人と、傍から圧倒的な体格差で二人を見下ろすようにしているランディスの眼が合った。ランディスは男を睨みつけるようにした。

 一瞬にして、二人は困惑したような表情を浮かべ、お互いの顔を見合わせる。やがて――

「――よろしかったら……どうぞ」

 と、そそくさと席を立った。ランディスの目論みは、成功した。

 四人が空いた (正確に言えば、空けさせた)席にどっかと座り込み、レコードから流れてくるポピュラーソングをBGMにコーヒーを注文したところで同僚の一人、アイヴァク伍長が口を開いた。

「なあ……俺たちやっぱり前線に行かされるのかなあ」

「そうみたいだぞ、諦めろ」

 そう言いながら、メニュー表を覗くようにしているランディスの視線は、何気なく店内の様子を探っていた。

 この店を選んだ理由は別に無い。ただ、「ハンティントン」にいる仲間と落ち合って歓楽街に繰り出すまでの時間つぶしがしたかっただけである。思えば、ここカレースタッドに入港して来て日が浅い空母に乗っている彼女ら(・・・)と会うのは四ヶ月ぶりだった。

 もう一人、ブロックス伍長が話題を転じた。

「少尉殿はどうしているかな……」

「また、一回り大きくなっているかもな……胸が」

「ついでにケツもな」

 下卑た笑いが一斉、他人の眼を気にしないかのように店内に響いた。ストロープ上等兵長が、出された冷水に口をつけて言った。

「しかし……空母にいる兄弟も可哀相だぜ。何せあすこはフネそのものが小学校みたいだっていうからな」

 「兄弟」とは、空兵隊の仲間内で「同僚」を指す隠語である。

「俺は幼稚園って聞いたぜ」

「艦隊艦隊ってお高く留まってた結果が、あのザマだもんな。いい気味だぜ」

「その尻拭いを俺らがやらされるってわけだ。リューディーランドでな」

「艦長に至っちゃもともと軍人ですらねえんだろ?」

「おまけに女房に逃げられたって話だぜ」

「へえ……どういう理由で?」

「決まってるだろ……あっちの方がダメダメだからさ」

 三人は、また一斉に笑った。

 ドアが開いたのを示すベルの音に、ランディスの眼が反応したのは、そのときだ。

 客は二人、ジャケットを羽織った小柄な少年兵と、彼と同じぐらいの背丈の少女。カップルのようだ。

 あのジャケットは、艦隊航空隊のものだ。縫い付けられた腕章から「ハンティントン」の部隊であることがわかる。ジャケットは見たところ比較的新しい、おそらく実戦部隊に配属されて間もないのだろう。まあ、それぐらいはジャケットを見ずとも少年兵の顔を見ていれば判る。


 艦隊のパイロットか――ランディスの口元が悪意に歪んだ。

 カウンターに付いたカップルは、すぐに話し始めた。メニューを手にウェイトレスを呼び、少年兵に話しかけるその様子から見て、主導権は少女にあるようだった。男の方は、おそらくここに来ること自体初めてなのだろう。二人を見つめるランディスの様子に気付いたストロープが言った。

「ランディ、どうした?」

 視線を転じたブロックスが口を開く

「ありゃあ、艦隊だな。それにしても……ガキじゃないか」

「しかも、パイロットだ」

 アイヴァクが言った。

「いい気なもんだぜ。俺達は前線に行かされるってのに。艦隊のやつらはこんなところで女漁りか」

 ランディスが、言った。

「ここの主人が誰か、教えてやらねえとな」

 三人の視線が、一斉にランディスに集中した。



「ここのランチ、すっごく美味しいんですよ」

 と、はしゃぐ様にルウはカズマに語りかけた。カズマをこの店に連れて来れたことが、本当に嬉しいのだろう。

「ここには、よく来るの?」

「友達と、ね」

「ふうん……」

 カズマはルウの顔を見つめた。眼を合わせた途端、頬を赤らめうつむくルウ。この表情に心を動かされない男などいないであろう……カズマも、満更ではないかのように視線を逸らす。

 やがて、ウェイトレスがランチを運んで来た。ポテトグラタンとコンソメスープ、野菜サラダとコーヒー。一皿の上に充実した三つのメニュー。確かに献立としては悪くない。

「へぇ、美味しそうだね」と思わず声が漏れた。背後に威圧的な気配を感じたのは、そのときのことだ。

「…………?」

 背後には、制服に身を包んだ屈強そうな男が立っていた。カズマを見下ろす男の眼に、対象に対する正の感情を読み取ることは出来なかった。男の纏ったカーキ色の制服を、カズマは知っていた。空兵隊。それも上官――素性を図る一方で、男の尋常ならざる表情をカズマは瞬時に読み取っていた。男の浮かべる薄ら笑いが、自分に向けられた剃刀の刃を連想させた。笑ってはいるが、人は笑顔を向けた相手に敵意を滾らせるという器用なことができる生き物だ。ルウが、カズマのジャケットの袖を掴んだ。「構わない方がいい」という合図なのだろう。

 男が、口を開いた。

「お前、何処の隊だ?」

「ハンティントンの、187戦闘飛行隊ですけど」

「ほう……あの隊には俺の友達もいる。お前、戦闘機乗りか?」

 カズマは、無言で頷いた。

 男――ランディスは、カズマに笑いかけた。

「驚いたな、今時はハイスクールもろくに出ていないような子供(ガキ)が戦闘機に乗れるのか……」

 友好的でない上に攻撃的な口調だと察した時、カズマの眼が自ずと険しさを増した。カズマの表情の変化など意に介しないかのように、ランディスはさらに続けた。

「ハンティントンにいる連中も可哀相に、こんなガキのお守りをしながらレムリアンと戦わなくちゃならねえんだからなぁ……同情するぜ」

「…………」

 カズマは、無言でランディスを見つめた。表情を消したその顔がランディスの癇に障った。カウンターに手を伸ばし、コンソメスープの入ったカップに手を伸ばすと、それをゆっくりと、挑発するかのように床へとぶちまける。

「お前に食わせるくらいなら、床に飲ませた方がましってもんだぜ」

 その様子を見ていた同僚の空兵達が、どっと笑う。

「ちょっとあなた!」

 堪らず声を上げたのは、ルウだ。周囲が騒然とする中を、ランディスは言った。

「なんだぁー?……怖気づいたか、小僧」

 さらに声を上げようとするルウを、カズマは遮るようにした。

「カズマさん!」

「いいから……」と、カズマはルウに微笑みかけた。

「何をくっちゃべってんだぁ? 女とは話は出来ても同業の俺とはお話ししたくねえってぇのか」

 カズマは、さりげなく床へ眼をやる。その先には。先程こぼされたスープが、薄茶色の水溜りを作っていた。

「あーあ……勿体ねえなぁ……」

 カズマは我関せず、という風に呟いた。怒りはおろか関心すら向けられないという態度に、ランディスの顔が怒りに歪んだ。衝動的にカウンターの水差しを鷲掴みにすると、カズマの頭からそれをぶっ掛けた。

「てめえ目障りなんだよ。俺の気が変わらんうちにさっさと消えろ。ヘボ艦隊の(チキン)野郎……!」

「――――!?」


 (チキン)野郎!――――艦隊のパイロットを父に持つルウは、その言葉の重大さを知っている。「鶏」とは、飛行士に対する最悪の侮辱だった。こう呼ばれて黙っているようなパイロットは艦隊のパイロットじゃない……確か父は昔、そう言っていたはずだ。驚いてルウはカズマへ顔を向けた。

髪の毛からジャケットに至るまでが濡れている。それでもカズマは、ランディスを無視するかのように黙ってハンカチを出して濡れた身体を拭っている。その顔に、一切の怒りや屈辱といった負の感情は浮かんでいなかった。少なくとも、ルウにはそう見えた。

 カズマが、言った。

「ルウ、出ようか」

「え……?」

 意外な反応にルウが驚いたときには、カズマは財布を出してレジに向かっていた。

「ここはおれが払うよ」

 あっけにとられる店員の前で代金を払い終え、足早に店を出るカズマ、その後を追うように、空兵たちを睨みつけるようにして店を出るルウ。店を出る二人を、ランディスのぎらついた眼は勝ち誇ったような笑みとともにいつまでも追っていた。

 その様子を見ていた同僚達が、爆笑した。

「ヒャッヒャッヒャッヒャ! こいつあいい! 傑作だったぜランディ!」

「まあ、賢明な判断だったろうよ。あのランディ相手に喧嘩を吹っかけようなんて命知らずはそういるもんじゃないさ」

 ランディスは笑った。

「気に食わなかっただけさ……生意気そうな奴だったが、存外、ヘタレだったな。ま、どっちにしてもぶっ殺してやるつもりだったが……」

 制服の襟を整え直すと、ランディスは元の席へと戻って行った。

「……拍子抜けってやつだぜ」


 

 ネオンサインの連なりに足元を照らされた夜空は、すでに街の躍動を引き立てる脇役でしかなかった。

 近来に無い喧騒に彩られたファー‐カレースタッドの歓楽街を横目に見ながら、マリノ‐カート‐マディステールは軍用車を走らせていた。


 普段、空母の整備分隊長補佐として様々な雑事に追われている彼女の場合、今回が初めて直にカレースタッドの街並に接する最初の夜となっていた。それでもこれまでの軍隊生活の中で、このような街に繰り出す経験が無かったわけでは無い彼女にとって、既視感を伴う街の雰囲気は別段感動をもたらすものではなかった。街なんて、一度フネから降りれば何処も同じだ。道があって、公園があって、商店があって、馬鹿面を晒した住民が歩いていて……そして酒を飲む処、賭博に興じる処、女を抱く処がある。唯一の例外が、それらの街に比べるのもおこがましいぐらい規格外に大きい「LY(ルグ・ヨーク)」をはじめとする、一握りの「指定都市」ぐらいなものだろう。

 口に銜えた煙草は、運転を始めてからすでに三本目である。

 車には、同じくハンティントン配属の三人の空兵隊員を乗せている。いずれも艦の保安要員。一人が女性で、後二人が男性だ。ここ三十分ぐらい運転に専念しているマリノを尻目に、勝手に車内で盛り上がっている。

 ガキじゃん……と、内心では思う。

 歓楽街に入ってしばらく経たない内に、車道は次第に客待ちのタクシーやら路肩駐車の車やらで埋め尽くされるため、車の速度は鈍りがちになる。だが、待ち合わせをしている他部隊の「兄弟」を見つけるのには、うってつけの状況であるかもしれない。


 事実そうであることは、歓楽街に入って三分ほどで明らかになった。

 夜が更け、混雑の度が一層増していく街の真ん中で自分の名を呼ぶ男の声を聞いたと思ったときには、すでに足はブレーキペダルに触れていた。後続の車を運転していた見るからに柄の悪い男が、耳障りなクラクションの連発をBGMに、マリノの車を怒鳴りつけた

「コラー! てめえ、勝手に止まんじゃねえよ! ぶっ殺すぞ!」

「あ゛?」

 マリノは、男を睨み付けた。元から端正な顔をしているだけあって、眼つきは他を圧倒する迫力があった。前の車を運転する大柄な女性の鬼気迫る眼光に、男はたちまち蛇に睨まれた蛙のように首を引っ込めた。

 マリノの予感は、的中した。空兵隊の制服に屈強なガタイを包んだ男どもが四人。他車のバンパーを蹴り上げ、ボンネットを乗り越えながら、歓声を上げて走り寄ってきたからだ。

「お久しぶりであります少尉殿!」

 ブロックス伍長ら三人が、オープントップの後席に飛び乗ってきた。不意に襲った揺れに、最初から乗っていた三人が思わず声を上げる。彼らとは空兵隊の基礎訓練課程にいた頃から階級を越えた付き合いだ。そして……

「よっ、待たせたなマリノ」

「ランディ……!」

 助手席に乗り込んだ人影に、マリノの顔が綻んだ。中でも現在二等軍曹のランディス‐ヒドルは特別な存在だった。彼とは空兵隊入隊はもとより艦隊士官学校入学以前からの付き合いであったから――――

「相変わらずみたいだな。マリノ」

「よくあたしが判ったわね?」

「君は外見からしていやでも目立つからな……デカいから」

「こいつ」というマリノの眼は笑っている。ランディスの恰幅のいい胸元からは、ほのかにアルコールの香りが漂ってきた。落ち合うのを待ちきれずにどこかで一杯引っ掛けてきたのだろう。

「小学校生活は楽しいか?」

「小学校」とはハンティントンの別称だ。ここカレースタッドの空兵隊が寄り合い所帯に等しい状態にあるハンティントンをそう呼んで揶揄していることは、すでにマリノの耳に入っていた。マリノは被りを振った。

「バカばっかりだと、張り合いが無くてねえ……」

「そいつぁ言えてる。そういや今日の昼過ぎにな……」

 アイヴァク伍長が、口を挟んだ。

「こいつ、アホな艦隊のパイロットを喫茶店から叩き出しやがった。小僧の分際で女を連れてたのが気に食わなかったんだと」

 マリノは笑った。

「アハハハ! カッコ悪―っ そいつ何処の隊よ?」

「隊名なんて飲んでるうちに忘れちまったよぉ! とにかく馬鹿っぽいガキだったなぁ。ランディに水をぶっ掛けられても何も反応しねえ。あんな弱虫がパイロットやってるってぇんだから、艦隊もヤキが回ったってもんだぜ」


 マリノは煙草を放り投げた。

「そういやあたしの隊にも、すごいムカツク奴がいるのよね」

 ウイスキーの小瓶を手に、ランディスが言った。

「珍しいな……うちの少尉殿をそれほど怒らせている奴ってのはどういう野郎だい?」

「新入りの戦闘機乗りよ。ちょっとばかし操縦が上手いからっていい気になるなっての」

「整備なんだろ。エンジンに細工でもすりゃあ万事解決じゃねえのか?」とランディスは冗談半分に言った。

 マリノは笑った。

「やったけど……死ななかったのよ!」

 歓楽街の奥まで行くと、通行する車の数も少なくなってくる。それに反比例するようにいかがわしいロゴや絵柄を刻んだネオンが数を増してくる。車は速度を落とさぬまま、次第に入り組んだ、汚らしい路を進み始めた。この先に、空兵隊行きつけの店「竜娘(ドラクル‐ベル)」がある。



 もうどれほど歩いたのかは、判らない。

 カレースタッドの街中を何回廻ったのかも数えないまま、気付いたときにはカズマは街中の広場にたどり着いていた。別れ際の彼女の言葉に心の奥から揺り動かされながら、カズマは夜まで街をさ迷っていたことになる。


 あのとき、ルウは言った。

「あなたは……卑怯です」

 返す言葉は、無かった。

「飛行機乗りなら、あれだけ侮辱されて何故闘わないの? あなたは艦隊の飛行機乗りじゃない……敗けたっていい……艦隊の飛行機乗りなら闘うべきよ……!」

 その大きな瞳に大粒の涙を溜めて、ルウは言った。言う、というより訴えるといったほうが正しかった。

 弁解はしない……代わりに、じっと、無表情のまま彼女を見つめるしかなかった。それがルウの気持ちを一層高ぶらせたようだった。

 唇を噛み締めたルウの、か細い手で作った小さな拳が、鈍い痛みとともにカズマの胸に伸びた――何度も……何度も。

 彼女が、自分のためを思って言ってくれていることはよく判る。

判るからこそ、辛い。カズマはその辛さを心の奥底に余裕で押し殺せるほど大人では無かった。


 薄汚れたアーク灯の下、脱力したようにベンチに座り込むと、湿っぽいため息が漏れた。こうしてじっとしていると、あたりを行きかう人や車、そして過剰すぎるほどの電飾の騒がしい連なりが、遠い世界の出来事のように思えてくる。

 アーク灯に照らされた影が不自然に揺らいだかと思った次の瞬間、空気を噛み潰す重厚な機関の音を立てながら飛行船が低空で通過していった……それは、天空世界の辺境に位置する街ならばさほど珍しくない光景ではある。広場のそこ彼処に刻まれた意味不明の落書きは、放置されるようになってすでに久しい。遠くへ視線を転じれば、乗り捨てられた車の歪みきったボンネットの上で、野良猫が媚びるように鳴いている。


 無性に、日本のことが思い出された。

 母は、無事でいるだろうか?

 あの元気者の志摩上飛曹はどうしているだろう。連日の戦闘を生き延びているだろうか? 343空は未だに存続して、敵の侵攻から本土の空を守っているのだろうか……それ以前に、日本という国そのものがまだ存在しているのだろうか?


 無意識のうち、カズマの記憶がさらに遡る――あれは、二年近くも前のことだ。

 先年の末から始まった戦争はあっという間に太平洋全域に拡大し、すでに総力戦の域を超えた段階にまで達していた。

 延長教育を終え、南方への配属が決まったカズマは入隊以来初めての休暇を許された。休暇といっても、僅か二泊三日。急行列車を乗り継いでも母の待つ家には一日しかいられなかった。それでも、海軍の戦闘機乗りとなって初めての休暇は、一人前の飛行機乗りとして気兼ねなく振舞えるという点でカズマには嬉しかった。

 休暇を告げていないにも拘らず、母は家で待っていてくれていた。女の勘というやつだろうか? 

 航空兵になることにあれほど反対した母は、微笑とともにカズマを迎えてくれた。それが、カズマには何よりも嬉しかった。

 久しぶりの心尽くしの食事の後……薄暗い電灯の下、夜遅くまで母と語り明かしたあの夜……軍隊のつらい生活……風を胸に受けて飛んだ練習航空隊の思い出……飛行機から見る空からの素晴らしい眺め……考えもしないのに、母の前では今まで溜めていた思いが自分でも驚くほど口をついで出たのだった。ただ、これから前線へ赴くことについては触れなかった。母を心配させたくなかった。

 ……いつの間にか、旅の疲れに寝入っていたカズマを目覚めさせたのは、耳に心地良い豆を炒る音だった。掛けられた毛布の中で悶えながら、眼を開けた先に、母はいなかった。

「……母さん?」

 台所から戻った母から無言で渡されたのは、炒り豆の詰まった袋だった。母はあのときからずっと起きて、息子のために豆を炒っていた――――母は、息子の旅発ちを判っていたのだ。

 二人で早い朝食をとった頃には、外はすでに白みかけていた。これが、母と食べる最後の食事になるのかもしれなかった。そう思って、一口一口かみ締めるようにして食べた。


 いよいよ家を発つとき、母は玄関まで見送ってくれた。駅まで見送ろうかと母は言ってくれたのだが、カズマが固辞したのだ。

 母は、言った。

「さあ……行きなさい」

 カズマは、無言で頷いた。母に対するこみ上げてくる思いに胸を詰まらせたまま背を向けると、脱兎のごとく駆け出した。

 もう、後ろは振り向かなかった。



 ――そして、もうあの時には戻れない。

 そのことを、カズマは知っている。

 人の気配を感じて顔を上げると、目の前にはバクルの姿があった。どういう経緯でここまで辿り着いたのかは判らないが、慈しむ様な眼でカズマを見つめるその姿に、カズマは救われたような気がした。

「少尉……」

「何も言わなくていいよ……ツルギ‐カズマ」

 表情からデートの結末を彼なりに察してくれたようだ。

 バクルは、言った。

「いい店を知ってるんだ。君も来ないか?」

「はい……!」

 カズマに背を向ける間際、バクルは手招きした。カズマは立ち上がると、勢いよく駆け出した。その一歩一歩に、一片の迷いをも見出すことは出来なかった――母の元を発った、あの時のように。



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