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第三章  「入港」

 艦橋から臨むはるか遠方には、残雪の白に所々を彩られた隆々たる山麓の威容を臨むことができた。


 航空母艦ハンティントンはその出航当初から伴って来た二隻のブファリス級駆逐艦に加え、途上で二隻のスタントバロ級巡洋艦、四隻のブファリス級駆逐艦と合流し、どうにか艦隊の体を為したところで最初の泊地となるカレースタッドへたどり着いた。そこで、これまで仕上げの工事に従事してきた民間の工員達を下ろし、代わりに新たな人員を補充する運びとなっていた。


 外港部に達したところで、簡易フラゴノウム炉と繋がった焼き玉機関を積んだ小舟が、港口からハンティントンと同航し、そのまま接舷する針路を取り始めた。港湾案内人(パイロット)を乗せた連絡艇だ。巨船がその入港に際し、空の航路を締めくくる儀式の始まり――

 「港湾案内人」とは、各州自治体の港湾事務所に属し出入港に際し適切な針路を指示することで、接岸から出航に至る船舶の操船補助を行う特別な要員のことだ。主に定年に達し引退した船乗りが充てられる「栄光の転職先」でもあった。円満退職するほんの三年前まで、遠距離航路の船長をしていたアルフレッド‐ルスコウにとって、この日の午前中に入港してきた巨大な軍艦の印象は、その巨大さを別として少なからぬ戸惑いを覚えるものであった。


 右に寄り、ほぼ煙突と一体化した艦橋。距離を置いても尚こちらまで轟々と響いてくる推進機のプロペラの唸り。艦体の各所から顔を覗かせる黒光りする砲身は、針のように天を向いては見る者の息を詰らせるのだった。

 まさに、空の要塞!……軍艦というものの知識にはどちらかと言えば乏しいアルフレッドでも、併進するボートに乗った自分の眼前で巨体を進めるフネが、これからの戦争の推移に重要な意味を持つであろうことぐらい容易に察しがつくのだった。


『――ハンティントンより「チドリ」へ、乗船を許可します』

 携帯無線(ハンディトーキー)を通じ、乗艦許可を伝える声が聞こえる。「きたきた」と思ったときには、ボートはすでに艦腹一杯に接舷しかけている。接舷からロープでボートを固縛する手際は初々しくも、見事なものにアルフレッドには見えた。出迎えた甲板士官の案内に従い艦橋まで上がる。ラッタルから臨む外からは、同じく出入港中の大小の船舶が周辺を行き交う様子を垣間見ることが出来た。根っからの船乗りだった彼にはとっくに見慣れた光景ではあったが、このときは何故か言い知れぬ感銘を禁じえなかった。


 そのとき、ハンティントンの上空を巨大な影が横切った。出港する貨物船と交差したのだ。迷彩を施された船体と、その船腹に据え付けられた機銃から、レムリア軍の跳梁するリューディーランド方面へ向かうフネであることぐらい容易に想像がついた。ここ二週間、カレースタッドを出て再び還って来ないフネが、目に見えて増えている。リューディーランド方面へ向かい「音信不通」となった船員の家族の、安否確認を求めて港湾事務所の窓口に詰め寄る必死な形相を目の当たりにするにつけ、同じ船乗りとして心を痛めずには居られないアルフレッドであった。これから自分が仕事をするフネは、そんな閉塞感を打破する足掛かりを作ってくれるのだろうか?


「カレースタッド港湾部のルスコウです。ようこそカレースタッドへ」

「ハンティントン艦長のラム中佐です。誘導、宜しくお願いします」

 ハンティントンの艦橋……自分に敬礼する、自分より二周りほど若く見える男に、アルフレッドは目を細める。仕事柄一般人より多く軍人に接してきた彼だったが、目の前の青年士官に軍人らしい威厳を見て取ることは出来なかった。寧ろこの艦の副長という、彼の傍らにいる太った少佐の方が艦長よりずっと軍人らしい。


 港湾事務所の管制室と無線で連絡を取りながら、艦の操舵手に適切な針路を指示する。勤務を始めて以来、すでにカレースタッド港内の地形や浮標の場所、そして風向の変り目まで自分の体のように知り尽くしているアルフレッドであった。朝飯前というやつだ。

 自分の指示に従い、前進する艦の様子を満足気に見遣りながらアルフレッドは言った。

「軍人さんも大変ですな。こうも慌しく前進を命ぜられては」

「まったくです。お上がもっとしっかりしていれば、私もこんなフネの指揮を取らずに済んだものを……」

「…………?」

 怪訝そうに、アルフレッドはラムを横目で見た。同じくその場に流れた気まずい雰囲気に気付き、ラム中佐は口元を皮肉っぽく歪ませる。

「いえ……私より優秀な艦長は他にいたでしょうから」

「ああ……なるほどね」

 頷きながら、アルフレッドは確信する。自分の横にいるこの艦長が、士官学校出身者に代表される、厳然たる「温室育ち」ではないことに。恐らくここに来る前は、民間で商船にでも乗っていたのだろう。そして時局の皮肉な廻り合わせが、彼の意に反し軍人としての道を進ませる事を強いたのだろう……その彼の直感は、大方的中していた。


 戦場……未だ軍人という自覚に乏しいアベル‐F-ラム中佐にとって、それは新鮮な響きだった。かつては民間の花形航路に身を置き、戦場の空など何処の世界の話かという程度にしか考えていなかった商船乗りは、今ではラジアネス航空艦隊全軍にとって戦略上最も重要な軍艦の長として戦場の空気にどっぷりと浸かっていた。

 不仲であるが故に、商船学校に入って以来二年間前に死んだことを知らされるまで一切の交流を絶ってきた父が今の自分の置かれた状況を知れば、どんなに自分を哂い、嘲ることだろう。彼の実家は代々の軍人であり、父もまた有体にいうところのガチガチの職業軍人だった。常に鉄塔のような高圧さと過度の威厳を以てラムたちに接し、家族に対するに言葉よりも腕力を以て諭すタイプの父を、子供心に何時の間にか憎んでいるラムがいた。その父がラムの兄に当たる二人の息子を半ば強引なやり口で士官学校(アカデミー)に入れ、そして彼もまた父の敷いた将来へと続くレールの存在を悟った時、未だ少年だったラムは無断で商船学校の試験を受け、そして合格を報せる手紙を握り締めて家を飛び出した。


 軍人なんて、絶対にならない!――その決意とともに商船学校に入り、そして卒業して二十数年……その間士官学校を経て軍籍に入った二人の兄の内一人は事故で死に、もう一人は訓練航行の途上で南方地域特有の熱病に罹患しあっけなく死んだ。後に士官学校に入ったただ一人の弟に至っては、士官候補生となって初めての訓練航行の際、乗艦していた駆逐艦が針路を誤って巨大な積乱雲に突っ込み、そのまま還ることはなかった。

 その間、度重なる実家の不幸にかかわらず、ラムは黙々とフネに乗り続けた。乗る船が豪奢な佇まいの客船でも、はたまた辺境航路を行く貧相な石炭運搬船でも良かった。地上であろうと浮遊大陸であろうと、あの父と同じ大地を踏んでいるということは、若い彼には耐えられないことだったのだ。


 長い勤務の内に船乗りとして実績を積み、個人としての生活も安定し始めた頃、ラムは結婚をした。然る豪華客船の航法長をしていたとき、船上パーティーで知り合った知的な美貌のその女性は、首都ラジアネスに近い名門大学で政治学の講師として教鞭を取っていた。半年間の公私にわたる付き合いの後、二人は家庭を持ったのだ。


 ……だが、彼らの結婚生活は世間一般で言われるような、決して「甘い」それではなかった。お互いの意思を尊重した結果として、二人は自分たちの家庭を上手く築いていくことよりも自分たちの仕事の方を優先したのだ。夫婦には子供も生まれず、従って二人の生活は何の平安も無い、そして味気のないものとなった。そこに互いの意思の縺れ合いが加わった。

 度重なる擦れ違いの末、自分たちの結婚に何の意味もないことを二人がほぼ同時に悟った時、最初に行動を起こしたのは妻だった。結婚してとうに十年を過ぎ、さる中型貨物船の船長となっていた彼は、出港して一週間後に電報の形で送られてきた離婚承諾書を、一人っきりの船長室で憮然として眺めていたものだ。逃げ場など、どこにもなかった。

 航行を終えて帰ってきたとき、ラムは妻がさる地方都市の大学に教授として迎えられ、家を去ったことを知った。現在(いま)は結婚の意味を失いかけてはいても、いずれは縒りを戻せる機会が訪れるのではないかという淡い期待は、ここで無残にも打ち砕かれた。


 そして今や自分はあれほど嫌っていた軍の、それも主力艦の艦長で階級は中佐。あの父は士官学校以来三十年以上の時間を軍に捧げながら、結局は大佐どまりだったというのに……である。軍に入りながら若くして不幸に見まわれた兄弟に至っては、佐官にすらなれなかった……! 兄弟の中で最も軍を嫌っていた自分が兄弟の中、はたまた一族で最も出世するとは、何という皮肉な廻りあわせだろうか……!


「――艦長、私の受け持ちはここまでです」

 アルフレッドの声でラムは回想を止め、我に帰った。

「有難う、ルスコウさん。気をつけて帰ってくださいね」

 と言い掛けて、顔を曇らせるアルフレッドに気づく。

「どうかしましたか?」

「……艦長、ここは大丈夫なんでしょうか?」

「と、言いますと?」

「レムリアンは、ここまで攻めて来るんでしょうかねえ……あたしだけじゃありませんよ。皆が不安で不安で、夜も寝られないって者までいます」

 彼の言うことはもっともだ――そう思ったラムは俯き、そして微笑みかけた。

「この艦が健在であるうちは、敵にはここに指一本触れさせませんよ」

 自分でも信じてはいないことを、ラムははっきりとした口調で言った。それでも言ったことに責任を持たねばならない立場に、この頃の彼はいた。


 港湾の深部に入ると、ハンティントンのような巨艦は接舷までタグボートによる牽引に身を任せるしかない。ハンティントンの甲板から、カズマはその接弦の様子を興味深げな風に眺めていた。

 接岸の方法は次の通りである。まず、港湾に造営されたターミナルから、二本のワイヤーロープが射出され、接弦側はそれを舷側の乗降口に設けられたアタッチメントに接続する。次に渡されたこの二本のワイヤーを主軸にして仮設の通路を通していくのである。設備の充実した地域では専用の可動式架橋を備えているところもあるが、開発途上にある多くの地域では、その方法はまだ一般的ではなかった。カズマの見ている前で作業は何の滞りもなく進み、新鮮な驚愕の内に全ての作業が終わる。ハンティントンに通された通路は大小で十にも上った。内装作業の任を解かれ、安全な北に引き上げる船を待つ工員等、最初に降りる人間の列が続いた後で、その二十分後には新規の乗員等乗り込む人間が続々と艦内に第一歩を記す様子を、カズマは無心に見つめていた。


 艦の格納庫には、搭載機の姿はほとんど無くなっていた。飛行可能な搭載機は入港の直前に全機を発艦させ、泊地郊外の飛行場に留め置くのが通例だったからだ。空母は搭載機の定数以上の乗員を抱えているのが常であるから、カズマを始め選に漏れた艦載機操縦士は上陸の許可が出るまで艦内で暇を持て余すしかない。それは、整備の人間も同じだった。しかし今回の入港は、操縦士にとってもより特別な意味を持っていた。


「アレェーッ、カズマ居残り? カッコ悪るぅーっ」

 ワザとらしい猫なで声でカズマをからかったのは、もちろんマリノである。

「お前は降りなくていいのかよ」

 カズマは言い返した。

「プカープカーと空に浮いてりゃいいあんたと違って、こっちは忙しいのヨッ!」

 マリノは舌を出して見せた。

「こんなとこで油売ってる暇があったら、自分の曲がった根性でも修理してろよ」

「んだとコラァ!」

 カズマを締め上げようと、マリノは腕を伸ばした。カズマがそれを鮮やかにかわす。だが、さらに伸びたマリノの腕は、見事にがっしとカズマの襟を掴んだ。もがくカズマを引き寄せると、後背から両腕でカズマを締め上げた。前方からの腕、後方からの豊かなバストに頭を埋もれさせ、カズマはたちまち窒息しかけた。二人の圧倒的なまでの身長差の為せるいたずらだった。

「もう逃がさないわよ。このまま殺してやるッ!」

「マリノ! 苦じいっ……!」


 そのとき、岸壁にある物を認めてマリノは腕を緩めた。かろうじて、カズマは床へずり落ちた。鼻の周りに香水とも香辛料とも判らない匂いが残った。縋る様に両手で縁を掴み、岸壁を見下ろす。そこでは傍目から見れば、かなり妙なやり取りが始まっていた。

「軍医殿、困りますよっ!」

「いやだ! 俺はやっぱり帰る!」

 ハンティントンに背を向けようとする医官と思しき大柄の中年男に、それを押しとどめようと数名の警備兵が取り付いていた。浅黒い肌と無精髭、ランニングシャツの上に無造作に羽織われた白衣の、捲り上げられた袖からは剛毛に覆われた黒く太い腕が覗いていた。ごつい外見に似合わぬ男のわめき声は、マリノのいる甲板までも届いてくる。

「酒が飲めない、女が抱けない!? そんな船に乗ってられっかよ! おまけに今から戦場にいくだと? 俺はお断りだ」

「しかし軍医殿はきちんと書類に署名を……」

「その乗艦許可証をよこせ! 火を付けてやる! だいいち俺はそんな書類に署名した覚えは無い!」

 男の挙動に、マリノは呆れたように言った。

「あいつ、出来上がってる(・・・・・・・)じゃん」

 その口ぶりから、男に酒が入っているのが一目でわかる。日ごろからあの調子なら、乗艦を承諾した記憶を無くしてしまうのも朝飯前なのだろう。「帆船時代じゃあるまいし……」とマリノの呟きをカズマは聞く。遠い昔、軍艦に乗せる水夫を集める方法として対象者にしこたま酒を飲ませて酔わせ、その状態で乗艦承諾書に署名させるという行為が行われたそうだが、この手の兵隊集めは世界が違っても似て来るものであるらしい。


 警備兵にもみくちゃにされる医官の背後に、下士官と思しき一人の男が歩み寄った。その姿を認めて、マリノは声を上げそうになった。下士官は医官よりもはるかに背の高く、肌が黒かった。毛髪の一本も無さそうな頭に目深く被られた帽子の影から、ぎょろりと大きな眼が医官を睨みつけていた。

「困りますなあ、軍医殿。これから戦場に赴く連中の士気に響きます」

 穏やかだが、ドスの利いた重厚な口調の主を、ゴネるのも忘れて医官は呆然と見上げた。下士官は続けた。

「これが前線なら敵前逃亡罪ですぞ。医官といえども即銃殺ですが?」

「…………」

 医官は湿気たように黙りこくった。無言のまま、下士官は警備兵に顎をしゃくった。「連れて行け」との合図だ。

「教官殿ーっ! お久ぁー!」

 マリノは下士官に呼びかけた。それに気付いた下士官が、笑ってマリノのほうに手を振る。

 ようやく立ち上がり、甲板に寄りかかったカズマが聞いた。

「あいつを知ってるのか?」

「あいつとは失礼ね。あたしの艦隊士官学校(アカデミー)時代の体育教官デミクーパー空兵軍曹よ。といっても今は昇進して上級曹長だったかな」

「へぇー……」

「あの人もハンティに乗るんだ……」

 感慨深げにマリノは言った。

「フネの連中、これから大変なことになるわよー」



 一通り乗員を収容した後で、乗員には交代で外出許可が出た。

外出の準備を終えたカズマが出口へ通じる通路を歩いていたとき、声をかけてきた者がいる。

「ちょっとボク、手伝ってくれない?」

 軍艦に不似合いな、艶かしい女性の声だった。振り向くと、士官室から手招きする女性士官の姿があった。「おれ?」という風にカズマが自身を指差すと、彼女は言った。

「ボクしかいないじゃない」

 口調からして完全にカズマを子供扱いしている。媚びるような緑の瞳に淡い光を湛えるその女性士官は、蕩ける様な微笑を浮かべながらカズマを見つめていた。美形に属する顔の半分に垂らされた黒髪は艶やかな光沢を放ち、そこらの男を惹きつけるのに十分な要素を満たしていた。細いボディラインを包んだ制服には、大尉の階級章が光っていた。

 カズマは周囲を見回した。確かに、誰もいない。

「荷物を持ち上げるのよ」

 本来中級士官には与えられないはずの個室に放り出されたバッグの山を指差して、彼女は言った。

 士官の持ち物にしてはあまりにも多いバッグやスーツケースの封を開き、必要な着替えや身の回りの品を取り出した後で収納棚へ仕舞い込む。言われるがままにスーツケースを持ち上げながら彼女の方に眼をやると、彼女は取り出した肌着を見せびらかすように広げ、ニコリと微笑んだ。

 紫色のレースも鮮やかな、肌も顕わなデザインのそれは、男どもの気を惹くには十分過ぎた。男によっては、それを眼にするだけで助平な想像にのぼせ上ってしまうであろう。其処までいかずとも、頬を赤らめて視線を逸らしたカズマに、女性士官は微笑みかけた。

「坊やには、まだ早いかしらね」

「からかわないで下さい」

 手早く仕事を終え、部屋を出ようとしたカズマを女性は呼び止めた。カズマに近寄り、嘗め回すような、もしくは慈しむ様な視線でカズマをつま先から頭の上まで見回すと、尋ねるように言った。

「ボク、パイロットなの?」

「はい」

「フーン……」

 女性はカズマの顔を覗き込むようにした。値踏みする様な目だとカズマは思った。延びた手がカズマの胸を伝うように這い、パイロット徽章に触れたところで止まった。仄かな、甘い香水の香りがカズマの鼻をついた。

「世も末ね……キミみたいな子が前線に出るなんて」

「それ、よく言われます」

「かわいいって、言われない?」

「……それは、言われたことがありません」

 女性は、少し頷くようにした。

「退出していいわよ。ボク?」




 ――二十分後、カズマは外出を楽しむ乗員達を満載してカレースタッドの市街地へ通じるハイウェイを行くバスの中にいた。近年新たに舗装されたばかりというハイウェイを通る民間の車はそれほど見受けられず。かえって都市近辺に展開している部隊に属する緑色の軍用車の姿が目立っていた。

 カレースタッドは、コムドリア亜大陸に属する港湾都市だ。南大空洋(サウ-パシフィカ)における通商航路の玄関口として整備されてすでに二百年近い歴史を持っている。広い湾口に面した丘陵地帯に沿って石造りの古い街並みが広がり、ここで一旦陸揚げされた物資は、コムドリア亜大陸を東西に貫くように整備された高速道路網によって迅速に西方の物資輸送拠点であるポート‐シグリを始めとする亜大陸の主要港へ運ばれるようになっていた。


 物資の集積地が人口の集中地であるという側面を持つことは当然の帰結である。カレースタッドもご多分に漏れず八十万の人口を誇り、その内三割が物資の流通、船舶への補給整備、乗員の休養などの港湾関係の仕事に従事している。特に戦争が始まりラジアネスの防衛線がこの空域一帯にまで拡大した現在、カレースタッドにとっては敵の侵攻という未曾有の危機であり、経済的拡大への好機でもあった。南大空洋を防衛すべくラジアネスの艦隊がここに集結するなどという事例は前者、そして後者の典型的な一例といえよう。何時死ぬとも知れぬ身ではあっても、あの世に持って行き用のないカネをたんまり渡された若者たちが、軍務で散々溜め込んだやり場の無い鬱憤を放出させるべく大挙して夜の街に繰り出してくるのである。そして彼らの溜め込んだなけなしの給与もまた、夜の街で様々な欲望を満足するべく放出される。


 バスの窓から見える山がちな地形、その斜面に列を為す二、三階建て集合住宅の瀟洒な姿が見受けられた。その上空――港湾から出航した中小の輸送船が、近辺の上空でぽつりぽつりと集合し、やがてはひとつの大船団を形成する様を、カズマは何時しか無心に眺めていた。青空の一点に苦も無く浮かぶ鋼鉄の塊、それはひとつではなく無数に連なり、回遊魚の様な群を作って一定の方向へと上昇していく……


「あれは、リューディーラントへ行くんだな」

 隣席のエドウィン‐“スピン”‐コルテ少尉が言った。と、いうことは遥か西方ということになる。以前にそこへ向かった船団がレムリア軍機動部隊の攻撃を受けて壊滅したという話を、カズマは既に聞いていた。

「民間の人たちも大変ですね」

「ああ、艦隊に入っておいて良かったよ。俺は商船大学と艦隊士官学校(アカデミー)の併願で、艦隊の方を取ったからなぁ」

「でも、自分たちもリューディーラントへ行くことになるんでしょう?」

「そこが思案のしどころって奴だな。まあ、今の俺たちに必要なのは命の洗濯だがな」

 そう言って少尉は笑いかけた。

「カズマは幸運だぞ、何てったって艦隊のパイロットは女の子にもてるからなあ。当面俺らを待ち構えているのはレムリアンじゃなくておめかしした女の子さ」

 少尉は自分のフライトジャケットをパンパンと叩いた。胸の操縦徽章と皮製のジャケットは艦隊のパイロットの証だった。街角の初心な少女を釣る最高の餌、というわけだ。使い込まれ、所々に皺の寄った少尉のそれに対し、カズマのそれは皺ひとつ無い新品そのものの光沢を放っている。


 すでに夜へと向かう黄昏の暖かい腕に身を委ねた市の中央部、市と言うより島で唯一の歓楽街がそこには広がっている。ハンティントン乗員を満載したバスはその前まで来たところで停まった。乗員を吐き出したバスが去ると、置いて行かれた者の前には街随一の上客の落とす金に群がろうとする連中が、あの手この手で自らの店へ引きずり込もうと待ち構えている別世界が広がっているという寸法だった。来訪者を前にして、稼げるときに稼がないのは彼らの商道徳からすれば許しがたい犯罪行為なのであろう。


 周囲はすでに艦隊の制服を着た人影に埋め尽くされていた。予め連絡を付けていたのか何処からとも無くやってきた着飾った女性達と腕を絡ませ合い、街の奥へ消えていく兵士、そして士官……カズマが気付いた時には、そうした光景がいたるところで繰り広げられていた。

「艦隊のパイロットは港ごとに行きつけの店を持っているのさ」

 コルテ少尉はそう教えてくれた。人ごみを掻き分けて奥まった路地裏まで歩を進めた先。やがて目当てのバーの、淡い蛍光灯の輝きに飾られたマボガニーの扉が姿を現す。

「もっとすごい奴は、港ごとに女もいるけどな」



 「黒鴎(ガル-ディ‐ノワーレ)」――いかめしいブラックレタ―を掲げた看板の向こうには、抑制の効いた照明の下、広いとは言いがたい店内を間断なく循環する煙草とアルコールの香り、嬌声と笑い声とが入り混じった世界が広がっていた。

「オウ、来たか」

 奥まったところにあるカウンターから、聞き覚えのある声がした。芯を抜いた軍帽を目深く被ったバートランドが、グラスを片手に二人を手招きしている。彼のみならず、店のカウンターは第187飛行隊の面々に見事なまでに占拠されていた。おそらく搭載機を下ろした飛行場から直行して来たのだろう。事前にここで落ち合うように艦内居残り組みのパイロットと打ち合わせをしていたのだ。カウンターの隅では、数人の肌もあらわな姿の女性がパイロットたちに寄り添うように座り、談笑している様子まで手に取るように判った。

「ボーズはここだ」

 バートランドは自分の隣の席を空けてくれた。カズマが席に着くのを見届けると、バーテンダーを呼ぶ。

「こいつに『パワーダイヴ』を一杯」

「いいんですか 少佐?」バーテンダーが呆れたように言った。「見たところ、未成年者のようですが?」

「構わん、許す」

「パワーダイヴ……?」

 カズマは怪訝そうにバートランドを見た。バーテンダーはカズマを横目でちらりと見ると、慣れた手つきでシェークを振り始めた。数秒の間を置いて、グラスに並々と注がれた透明な液体がカズマの前に姿を現す。

「これは……?」

「『パワーダイヴ』だ……飛行機乗りなら知ってるお約束だと思うが」

 バートランドは顎をしゃくった。「呑め」という仕種(しぐさ)だった。グラスを鼻に近づけると、漂ってくるアルコールの半端ではない強烈な匂いにカズマは顔を顰めた。周りを見回すと、バートランドやキニー大尉を始め飛行隊の面々がじっと押し殺すようにこちらへ眼を注いでいた。今度は困惑と共に、カズマはグラスの中の透明に向き直る。

「…………」

 カズマは酒が飲めない。ただ、海軍にいた頃は付き合い程度には無理をして飲んだ。その度に戻したり、卒倒したりしては周囲の笑いと同情を誘い、海軍流に言えば「カーブを下げて」いたものだ。一度空に上がれば雲霞の如く押し寄せる米軍機相手に一歩も引かない空の勇士が、実は下戸だったというのは意外というか、結構笑えない話であったかもしれない。


 しばらくじっとグラスを見つめた後で唾をゴクリと飲み込むと、意を決したようにカズマは液体をぐっと飲み込んだ。強烈なアルコールがカズマの喉を、そして胃を灼熱の坩堝に叩き込んだ。こみ上げる嘔吐感に、カズマは喉を押さえながら必死で堪えた。必死で飲みきったところで、弾けんばかりの歓声がカズマの周囲に沸き起こった。

「えらいぞ坊や! その意気だ」

 キニー大尉が肩を叩いて笑いかけた。カズマは気付いた。これは新入りに対する「通過儀礼」だったのだ。「パワーダイヴ」はアルコール度数の強い酒をまた別の古酒で割り、そこに数種類の香辛料を加えた特製カクテルのことで、レシピによっては酢かバターを加える場合もある。ただしバターは口当たりを和らげるので臆病者の作法と見做され、この場合好まれる配合では無かった。艦隊の飛行隊の中には、新人操縦士に歓迎と縁起担ぎの意を込めてこれを飲ませる部隊があるのだ。「儀式」の終わりに、殻になったグラスにバートランドが火のついたマッチを落とす。涙目になったカズマの眼前で、残ったアルコールがグラスの中で勢いよく燃え上がった。それが、「儀式」の終わりを告げる合図だった。

「きれいだ……」

 炎の淡い輝きを前にして、何となく出た呟きが、カズマのこの夜最後の記憶だった。




 ――ゆっくりと開いた眼のはるか先には、まばゆいばかりの四つの光が連なっていた。

 自分が横になっているという感覚は、眼を開くずっと前からあった。動けないのは、抜けきらないアルコールの抵抗が、カズマから未だに一切の呼吸と運動の自由を奪っていたからだった。それでも少なからぬ努力の末、カズマは眼を開くことに成功した。と同時に、真上にある室内の電灯の投げかける淡い光があふれんばかりの奔流にも似た勢いを以ってカズマの瞳に飛び込んできた。

「……眩しい」

 ベッドから半身を起こそうとして途中までやりかけたところで、強烈な疼痛がカズマの頭を襲った。耐え切れずカズマは崩れ落ちるようにベッドに倒れこんだ。舌打ちしつつ寝返りを打ったカズマが、ベッドの傍に影の存在を見出すのにさほど時間はかからなかった。人影は、窓を開けようとしていた。

「お目覚めですか?」

 振り返った影が、女性の声で語りかけて来る。言葉の端々から感じられるあどけなさと戸惑いに、カズマは頭痛が和らぐような気がした。少し躊躇い、カズマは頭を上げた。再び脳裏に広がる鈍痛――医務室らしき部屋の窓からは朝方特有の柔らかな光が差し込んでいて、その光を背景に清楚な看護服に包まれた線の細い肢体が、草原に遊ぶ小鹿を思わせる優美なラインを形作っていた。


 まだ少女の面影を残す美貌に、肩まで伸びた豊かな黒髪、バラのように紅い頬、透き通るような黒い瞳の取り合わせが、谷間に咲いた百合のように控えめだが、思わず手を延ばしたくなるくらいに見る者の目を惹く美しさを醸し出していた。看護婦は、形の良い薔薇色の唇から陽光のような微笑をベッドのカズマに投げかけていた。


「ここは……?」

「ファー‐カレースタッド艦隊航空基地ですよ」

 その名は知っている。ハンティントンの搭載機が駐留している基地だ。飛行隊の面々も心得たもので、途上で着任した乗員の乗艦が続き騒がしいハンティントンを避け、地上の基地までカズマを運んでくれたようであった。

「君は?」

「看護士のルウ‐カルベラ‐アルノーです。といってもまだ見習いですけど……ルウって呼んでくださいね」

「カズマ。ツルギ‐カズマだ……よろしく」たどたどしい口調で、カズマは言った。目の前の女性に浮かれた様子で起き上がった途端、再び襲い掛かる頭痛にカズマは頭を抱え込む。カズマを心配するようにルウは言った。

「あなたは昨夜ここに担ぎこまれたのですよ。お酒は程々にしてくださいね」


 ……そうだった。

 確かあのどぎつい酒を飲まされて以来、意識がない。カズマはルウを覗き込むようにした。カズマをじっと見つめる彼女の黒い瞳は見る者に対する純粋な憂いを湛えていた。お互いの視線に熱がこもるのを感じて、ほぼ同時に二人は目を逸らすようにした。

「パイロットってのは、無茶ばっかりやるから……」

 そう言って、カズマは苦笑した。自然とバートランド少佐以下、187飛行隊の面々の顔が浮かんできた。脳を直接殴りつけてくるような痛みは、すでに何処かへ消えていた。

「ええ、存じています。父が、艦隊のパイロットでしたから」

「もう、失礼しないと……これ以上お世話を掛けるわけにはいかないし」

 カズマは足を下ろし、靴を履いた。ややおぼつかない足取りで部屋の出口まで来て立ち止まると、カズマはルウの方を振り返った。

「ありがとう」

「……ウフッ」

 あふれんばかりのルウの微笑みが、何よりの良薬であるようにカズマには思われた。


 生まれ変わったばかりの青空の下。医務室から足を向けたファー‐カレースタッド基地の飛行場では、すでに数機のジーファイターが滑走路へ出て試運転を始めている。

 旧来のα型ではない、α型より強力なエンジンを積み、垂直尾翼と機首を改設計し、コックピットをバブルキャノピーで覆った最新のβ型。これまで運用して来た旧型機と入れ替わる形で供給が始まった新しい機体を前に、自ずと笑みが漏れるというものだった。

「ようボーズ! もう寝てなくていいのか?」

 振り向くと、航空軍装に身を包んだバートランドの姿があった。

「ご迷惑をおかけしました。少佐」

 カズマは頭を下げた。バートランドはニヤリと笑い言った。

「いや、『パワーダイヴ』はちとやり過ぎだった。謝るのはこっちさ。ところでボーズ……」

 バートランドは続けた。

「せっかく来たんだ。ジーファイター、乗ってみるか?」

「はい!」

「よっしゃ、五分以内に準備し、滑走路に来い。先に向こうで待ってるぞ」


 ――五分後、颯爽と航空軍装を羽織るように着込んだカズマが列線に出てみると、準備されたジーファイターβが操縦席を空けて乗り手の到着を待っていた。整備員に手伝ってもらい操縦席に身を滑らせたカズマを、その傍らに並ぶジーファイターからバートランドは眩しげに見つめていた。

 

『――不思議な坊やですな……』

 無線の声の主は、同じく機上で離陸を待つキニー大尉だ。

「何が?」

『――誰があんな外見のどこに、あれほどの腕があると想像できるのやら……』

「俺はあの坊やが何処であれほどの腕を身に付けたのか、そっちの方に興味があるがね」

『――というより、天性の問題でしょう』

「天性も本番を潜らなきゃ開花しない。あの坊やの眼は、本番を知っている奴の眼だ。ずっと前からな……」

『――ずっと前?』

「……そう、ずっと前だ」

 そう言うバートランドの視線の先には、搭乗を終え、無線機のコードを繋ぎ終えたカズマの姿があった。すかさず、バートランドはカズマに呼びかける。

『――どうだ? 席に着いた感想は』

「αと変わりませんね……大方のところは」

 ラジオに繋いだばかりのレシーバーから流れるバートランドの声を受け流すかのように、カズマは計器板へ視線を落とした。アルベジオを出港して以来母艦上で続いた完熟訓練の傍ら、ジーファイターαには何度か乗ったことがある。それに比べて新造のβ型は回転計と速度計の目盛がαと比べ若干増えていた。改設計の結果制限速度が緩和されたのだろうか?……が、カズマの眼を停めた大きな変化は、計器板の一番上を占める一角にあった。


「何だろこれ……」

 照準器の形状が変更されている。本体はα型のそれより一回り大きく、普通なら一つだけのはずの、反射ガラスに照星を映し出すレンズが二つ横に並んでいた。構造もまた複雑なものであるように思われた。

「新型の照準器ですか? 少佐」

『――気付いたかボーズ』

 通信回線の向こう、バートランドの曰くありげに笑いかける声が聞こえた。

『――うちらの新兵器だよ』

「新兵器?」

『――管制塔よりβ小隊へ、離陸を許可する』

 始動を終え、暖気運転に入るのと同時に、ラジオに抑揚に乏しい女性の声が割り込んできた。文字通り飛行許可が下りたのだ。同じ列線を形成していたバートランド機が前に出たのはその直後のことだ。

『――カズマ、飛んで見ればわかるよ』コルテ少尉の声だ。

 β小隊の三機――バートランド、キニー、コルテの各機が滑走路上に出て滑走を始めたところで、カズマは踏んでいたブレーキを緩めた。と同時にスロットルレバーをわずかに開き、少しずつ機体を前進させる。カズマが滑走路の中央に達したとき、三機はすでに滑走を終え、最後尾のコルテ機は閉じかけたフラップをそのままに離陸から直線飛行に移っていた。


 開かれたスロットルに対する反応はタマゴよりも、そしてジーファイターαよりもずっといい。ジーファイターβ型は次第に滑走速度を増していく。泡沫型キャノピーを開けっ放しのコックピットに吹き込んでくる風も、その量感をいっそう増してカズマの身体に迫って来る。

 前から後ろへと突き抜けていく基地内の建造物、駐機している飛行機、敷地を行きかう人々――横目にそれらの風景を感じ、広い滑走路の三分の一まで来たときに、ガコンというかすかな振動とともに、機体が水平の姿勢になった。機尾が宙に浮いたのだ。フラップを上げつつ、そのままじわりじわりと操縦桿を中央に戻すと。あっけなくジーファイターは宙に浮いた。


 操縦桿が軽い――それが、最初の感覚だった。

 かつて乗ったα型の操縦桿は重い、というよりどっしりとした感触があった。しかしβ型にはそれが無かった。主翼の方へ眼をやって、カズマはすぐにその理由に気付いた。α型のエルロンとラダー、エレベーターが張布張りであったのに対し、β型のそれは金属製になっているのだ。これなら、三舵の効きが速度や加重などの外部からの影響を受ける度合いは小さくて済む。エンジンの反応、低空での舵の効きに至っては紫電改に近いようにも思われる。ただし水平飛行時の加速はじれったい程鈍い。この辺りはエンジン出力の問題なのかもしれない。

 十分な高度に達したところで主脚を収納する、こちらの方はα型と同じくハンドルで巻き上げるしかない。主脚を収納し、キャノピーを締める動作を一通り行いながらも、眼と頭は周囲の見張りに間断なくあちこちへ動いている。普段の癖で肩ベルトを外そうと手が伸びかけたが、踏み止まりもう少し優等生の飛び方に徹しようと思う。さらに高度を上げ、キャノピーの横隅に先程離陸した三機を捉えたとき、管制塔の指示が飛んだ。


『――β四番機、貴機の八時上方向に小隊がいる。至急合流せよ』

 要らぬお世話だ。と言いたいのをこらえて、カズマは操縦桿を前に傾けた。機首を突っ込み、旋回と上昇に十分な機速を稼ぐためだ。そのとき、照準器のスイッチに手を延ばした。間を置いてぼぉっと浮き上がった黄色い照星が、すでに始まっていた機体の旋回に合わせて右に振れ出すのが目に入った

「少佐、照星が動き出しましたけど」

『――スイッチを入れたのか? ボーズ』

「はい少佐」

『――そのまま旋回し。俺の後背に付けてみろ。お前さんなら理由はすぐにわかる』

「…………?」

 カズマは、先行する三機を上に見ながら上昇した。スロットルを徐々に開いて接近し、やや前下方にバートランド達三機を照準器に捉えたとき、カズマはバートランドの言葉の意味に気付いた。

「そうか……!」

 カズマの位置は、前方の三機を狙うには十分な位置だ。ただし、そのまま照準器のど真ん中に目標を入れて撃つだけでは命中は期しがたい。風向、目標の運動速度、運動方向、そして自機の運動方向など内外のあらゆる要素が弾道を狂わせ、目測を誤らせるからだ。


 ジーファイターは武装として左右各三丁、計六丁の機銃を装備しているが、それは攻撃力を高めると同時に目標の方向に多数の弾幕をばら撒いて必中を期すという発想に基づいている。これとは逆に、少数ながら威力の高い大口径、炸薬量の多い銃を装備し、一発あたりの破壊力を高めるという考え方もある。例えば二十ミリ機関砲を翼内に搭載した零戦などはそういう発想だった。

 では、こうした状況で命中率を高めるにはどうするか?……それには目標に出来るだけ接近する外に、自機の状態を把握した上で目標の進行方向、速度から目標の未来位置を読むための独自の工夫が必要となる。裏を返せば、そうした工夫が出来るパイロットこそ真のベテランといえた。経験の蓄積も然ることながら卓越した反射神経、度胸と忍耐力の他に、そうした「見越し射撃」が出来ることはベテランにとって必須の条件だ――そして現在、その「見越し射撃」を行い得る位置に、カズマの機はいた。先ほどまで目まぐるしく動いていた照星が、ぴったりと前方の三機に重なるようにして留まっている。従来型の照準器ではこの「未来位置」を指し示せないことをカズマは理解していた。


『――ボーズ、スロットルのボタンだ』

「……え、これ?」

 スロットルレバーにボタンが付いているが見える。『――俺を照準に入れたまま押してみろ』――言われるがまま、ボタンを押し込む。

「――――!」

 照星の枠が狭まり、それが照準器の中のバートランド機の翼幅に触れたところでカズマは思わずボタンを押すのを停めた。枠の移動とともに変わる照星の位置――それが射撃に最適な射点の位置であることをカズマは経験から察する。驚愕――照準器が、相手の翼幅から自動的に距離と見越し角を計算したのだとカズマは察する。

『――判ったか? ボーズ』

「すごいですね。これ」知らず、純粋な感嘆がカズマの口調の端々に篭っている。

 正式名称Fs24ガンサイト。自機の姿勢と敵機の翼幅から見越し角を自動的に算出し、理想的な照準を導出できるそれは、戦前からの基礎研究を経て開戦により開発が加速し、現在に至ってジーファイターβ型に初めて搭載されることとなった。Fs24の普及は、経験に左右されること無く目標に対する正確な射撃が可能となることを意味する。これは大きな進歩といえた。


 そのまま距離を詰めた。グラマラスなジーファイターの三機編隊が、カズマの直前から側面いっぱいを占めるのにさして時間はかからない。気が付いた時には四機の発する重厚なエンジン音が四重奏よろしくコックピットいっぱいに充満してカズマの鼓膜を圧倒していた。

 カズマにはそれが、来るべき反攻への序曲であるように思われた。




 飛行場から少し離れた医務室の窓から、若い看護婦達は折り重なるようにして飛行場の真上を通過していく四機のジーファイターを眺めていた。


 あどけなさを色濃く残したその顔は瑞々しく、清潔感あふれる制服が生来の初々しさを一層引き立たせていた。丸っこい瞳に一切の不純な輝きは見られなかった。彼女達の関心は、見事なフィンガーチップ編隊で上空を通過する戦闘機ではなく、むしろその操縦席の中にあったかもしれない。

「どんな人が乗っているのかな……」

 ルウ‐カルベラ‐アルノーの隣にいた少女が言った。すかさず、一人が応じる。

「かっこいい男に決まっているじゃない」

 もう一人が、混ぜ返した。

「でも、艦隊のパイロットってオッサンが多いって聞いたよ」

「でも、若い人もいるんでしょ?」

「ルウのパパはつい三年前まで艦隊の飛行機に乗ってたんだって」

 たちまち、数人の視線が、ルウに集中する。みんなの目が、「どうなの?」と聞いている。ルウは戸惑うような表情を浮かべた。

「んー……オジサンが三割で後七割が若い人みたい……パパによると、ね」

「ルウのママは、その七割を、どうやってゲットしたの?」

「え……?」

「だからさ、パイロットの彼氏をゲットする秘訣が聞きたいわけよ。あたしとしては」

 いつの間にか、皆がルウへ顔を寄せるように迫っている。

「さ、さあ……」

 その時、誰かが叫んだ。

「あっ! 宙返りだ」

 途端に、全員の視線が窓へ動いた。編隊を崩さないまま上昇し、背面の姿勢から見事に円を描ききる戦闘機の様子を、少女達は感嘆の思いで見つめた。

「あの中で、一番かっこいい人って誰かなぁ……」

「先頭を飛んでる人に決まってるじゃない」

「わたし、四番機だと思うな……」ルウが言った。

 その場の全員が、怪訝な眼でルウを見つめた。一機の行く先を、熱を帯びた眼で追っていては、もはや仲間たちに対する目のやり場も無い。勘の良さは母譲りだった。女の勘が、彼女に四番機の搭乗員が誰であるのかを確信させていた。

 ルウの透き通るような黒い瞳が、じっと空の彼方を見据えている。


「下じゃ面白がって見てるんだ。ヘマやるんじゃないぞ。」

 β小隊の一番機――バートランドの指示は明快だった。ファー‐カレースタッド基地の上空。一斉に加速した四機のジーファイターは、フィンガーチップの体勢を崩さず、見事な宙返りをやってのけた。

「ワオ!」コルテが歓声を上げた。

「『艦隊曲技飛行隊(スカイチェッカーズ)』みたいだぜ!」

 宙返りを終えたところで、バートランドは二番機のキニー大尉を見た。同じくこちらを伺っていたキニーが、人差し指をくるくる回している。リクエストの合図だ。

「β小隊へ、もう一度やるぞ」

『――リョーカイ!』

 バートランドは、次に四番機の方へ眼をやった。四番機――カズマの眼が、笑いかけるように「もう一度やろう」と言っていた。それを感じ取ったときには、バートランドはスロットルを全開に機首を上げていた。


 ――機体を上昇させる中で、沸きあがる高揚感に身を委ねながら、カズマは初めて宙返り飛行を目の当たりにした頃のことを思い出していた。

 ――それは今思えばずっと昔のことのように思えた。祖国日本が未だ大陸の戦火に身を投じずにいられた幸せな年代。折からの観艦式により広大な東京湾一帯は、帝國連合艦隊の誇る大小の主力艦艇によって埋め尽くされていた。

 軍楽隊の演奏による「軍艦マーチ」「連合艦隊行進曲」の鳴り響く中で、少年と呼ばれた時分のカズマが見物客に埋め尽くされた埠頭にようやく潜り込んだときには、艦隊の上空を複葉の戦闘機から双発の飛行艇まで、海軍航空部隊に所属する様々な種類の航空機が幾重もの梯団を組んで通過を始めていた。銀翼の群れが上空を圧する荘厳なまでの威圧感を海側からの潮風に感じながら、少年は何気なく瞳を蒼空の一点へ移した。


 大小のプロペラ音が交錯する空の上――こちらへ向かってくる複葉機の三機編隊がカズマの眼前に飛び込んできたのは、そのときだった。

「海軍の戦闘機だ!」

「『源田サーカス』だ!」

 誰とも無く声が上がっている。周囲の様子を見る限りでは、海軍航空隊の曲技飛行は前々からかなりの評判があるようだった。地上の反応を楽しむかのように、三機編隊は見事に編隊を崩さずに大きな垂直旋回を終えると、一気に上昇を始めた。

 垂直上昇の限界に達したところで三機同時に宙返りの姿勢をとる様を、カズマは無心に眺めていた。宙返りを連続させる度、降り注ぐ朝日の下、銀翼を抜き身の日本刀のようにきらめかせた機体が艶かしいまでの光沢を以って機首を自分に向けて来るように思えた。

 三回も見事に息の合った宙返りを終えると、軽快なエンジン音を残して編隊は一直線に洋上を通過して行った。ゴーグルと白マフラーに覆われた操縦士の顔が何故か強く印象に残った。

 ――その三機の内の一機を操縦していたのが、実は戦闘機乗りとして駆け出しの頃の星野分隊士だったというのは、ずっと後になって知ったことだ。



 ――再び、ジーファイター。

 ――機体同士の距離に気を配りながらも操縦桿、スロットルレバーを握る左右の手は小刻みに動いている。宙返りの頂点を過ぎかけた所でスロットルを徐々に絞る間も、カズマの目は隣のキニー機に向いていた。機首の先に広がる地上の飛行場が、見る見る速度を増してこちらへと迫ってくる。高度計の針がそれほど動かないのは、地上の受けをねらったのか宙返りを開始する高度を安全圏ぎりぎりに設定したからだ。

 地上から、わずかな高度を残してジーファイターは通過した。宙返りはα型よりはるかにやり易いように出来ていた。

 一番機のバートランドが指示を出した。編隊をフィンガーチップからエシュロンに変換するのだ。少しの間を置いて、四機はバートランドを先頭に見事なエシュロン編隊で並んでいた。

「遊びは終わりだ。編隊を解散し、順次着陸せよ」

 バートランドから先に機体を滑らせ、曲線状の動きで高度を下げていく。二番機、三番機、そしてカズマの四番機がそれに続く。

 前下方に広がり、ややもすれば機首に隠れがちな飛行場を、背を乗り出して確認しながら、徐々にスロットルを絞る。この間にもハンドルで脚を下げ、フラップを下ろしたりと慣れていないとめまぐるしく感じられるほどの作業が続く。余裕が出来れば、緊急時に脱出が容易なようにキャノピーも開く。艦上機だけあって、ジーファイターの失速特性は良好だ。高度も危うげない程度の速さで下がりつつある。地上の光景が大方判別できるほどの高度にまで下がった乗機のコックピットで、カズマは左右に横を向きながらジーファイターを地上に滑り込ませるように侵入させた。キャノピーを開き、開放されたコックピットに吹き込んでくる風が、非日常の領域から還ってきたカズマに日常の匂いを運んできた。

 軽い振動が、カズマを襲った。車輪が接地したのだ。スロットルをさらに絞り、速度が落ちたところでわずかにブレーキを踏む。

 鮮やかな三点着陸で、カズマは飛行場に滑り込んだ。


 教本通りの滑空を経て滑走路に帰り着くジーファイターが一機、それを地上から眺めていた攻撃機隊のパイロットが言った。

「あいつ、変な方向を向いててよく着陸が出来るな」

「違うな、横の風景で高度を確認しているんだ。背が低い奴とか、下が見えないくらいでかい飛行機の操縦士がよくやる手だ」

「へぇー……」

 妙に納得する部下達を他所に、セシル‐E‐“バット”‐バットネンは着陸してそのままエプロンへと滑り込むカズマを凝視している。対象に対する純粋な賞賛が、彼の胸中にあった。

『あの顔で、ああいうことをやってしまうのか……』

 横の風景、言い換えれば地上の目標を頼りに着陸する……言うのは容易いが、実際にやるとなるとこれが難しい。それを、あの坊やは何の苦も無くやってのけた。それも三点着陸。三点着陸は空母部隊のパイロットに必須の技量だ。バートランドの教育がよほど行き届いているのか、それとも――

「お見事でした!」

 エプロンに機体を滑り込ませたカズマに駆け寄ってきた整備員が、握手を求めてきた。

「ツルギ空兵、君は早くハンティに帰れ。向こうには外泊許可を取っておいたから安心しろ」

 報告を済ませた後で、キニー大尉が教えてくれた。カズマは、言った。

「あの……外泊の理由は何と……」

「そうだなぁ……いい女を連れて街中に消えて行ったとでも言っておいたよ」

「えっ!」

「冗談だ。本当のことを伝えておいた。だが飲みすぎて(・・・・・)ぶっ倒れたやつは君だけじゃないみたいだから気を落とすなよ」

「そうですか……」

 安堵こそ覚えたが、どっちにしてもカズマはうなだれるしかなかった。マリノの顔が脳裏に浮かんだ。

 ……こりゃ、またからかわれるな。



 航空装具を返却し終えて、基地の通用門へと続く通路を歩いていた途中で、カズマは世話になった医務室の傍を通り過ぎる。広いベランダで、ルウがシーツを干している最中だった。先にカズマの姿を認めたのは、ルウの方だ。微笑みかけると、ルウは小走りにベランダを下りてカズマの方へ駆け寄ってきた。

「君には、世話になったね」

カズマは、軽く頭を下げた。ルウはクスッと笑った。

「先程のアクロバット。すごくかっこよかったですよ」

「あれ、おれだってわかったんだ」

「あなたが、一番上手だった」

「そうかな……」

 ばつ悪そうに、カズマは首をかしげる。その顔の中に躊躇を一瞬見せ、意を決したようにルウは言った。

「あの……いつ……今度は……いつ来ます?」

「近い内に新型機の受領講習があるから、きっとその時にまた……」

 ルウは顔を上げ、カズマを覗き込むようにした。蕾のような唇が言葉をつむぎだすのがやっとだった。

「また……また訪ねて来てくださいね……きっとですよ……!」

 カズマは頷いた。その時、ルウは複数の視線を感じて眼を医務室の方へ転じた。医務室の窓から、窓を突き破らんばかりに数人の看護婦が張り付いてこちらを伺っていた。それに気付いたルウの黒い瞳に狼狽の色が広がり、白い頬がたちまち紅潮した。

 

 ハンティントンの艦内に足を踏み入れるのには多少の勇気が要った。兵員居住区へ行く途中、兵員食堂の傍を通り過ぎようとしたとき、半開きのドアからもれ伝わってくる賑やかさに、思わずカズマの足が止まった。

「フランツ、負けんな! 10クレジット掛かってんだぞ!」

「班長しっかり!」

 怒声と歓声、掛け声――異常な喧騒がカズマの興味を惹いた。腕相撲だった。両者の勝敗に少なからぬ額の金銭が動いているという事情が喧騒を加熱させているようだった。

「…………」

 一度食堂を覗き見たところで、カズマは呆然とする。観衆の環の中央にはマリノがいた。見るからに屈強そうな男とがっちり腕を組み合わせ押したり引いたりを繰り返すその姿が、妙にさまになっている。少なくともカズマにはそう思えた。男の苦悶の表情が濃い。じりじりと男の豪腕が、マリノの腕に押されていった結果、男の手の甲は勢いをつけてテーブルに叩きつけられた。

 どっと上がる歓声。テーブルの軍帽に捻り込まれる掛け金の山。マリノのガッツポーズ。

「ゴルァーッ男ども! あたしに勝とうなんて10世紀早いわよっ!」

 掛け金を出し渋る兵士から金を徴収してまわっていたマリノが、何気なくに食堂の出入口を振り向いた――その瞬間、カズマは食堂を離れ、再び自分の目的地へと歩を進める。



 岸壁とハンティントンとを繋ぐ通用口から兵員居住区に向かう途上にある、こじんまりとした窓口とカウンターが、いわゆる「酒保」であることにカズマが気付いたのはつい先々日のことであった。何故判ったのかと言えば、カウンターに置かれた菓子類の袋と果物の缶詰が、言わば市井の商店の見本の様に山を作っていたからだ。但しその時点では経理処理の関係で酒保の使用許可は下りていなかった。


 そして今日、嗜好品を山積みにした窓口の傍らでは、艦内電源に繋がれたコーラの自動販売機が保冷器特有の重々しいコンプレッサー音を一帯に撒き散らしていた。それを眼前にして、訓練と入港準備が立て続けに行われたことにより暫く冷たいコーラを堪能していなかったことを思い出し、カズマは思わず喉を鳴らした。その一方で彼の眼はすぐさまカウンターに向かい、主計員と押し問答を続ける白衣姿に釘付けとなってしまう。白衣の下からでもはっきりそうと判る恰幅の良さには、カズマは見覚えがあった。埠頭で警備兵に囲まれつつこの艦に連行されてきた酔いどれ医官だ。

「なあ頼むよ。一本だけでいいんだ。受領のサインは俺が書いてやるから……医薬品扱いにすれば何とか……」

「医薬品扱いで1ガロンボトルのウイスキーなんて、一体何の治療に使うんですか? 消毒用アルコールとはわけが違うんですよドクター?」

「だから、俺はここの医者になった積りは無いって……!」

「あいにくとこの艦には、無任所の幹部を乗せる余裕はないそうですよ。酒が飲めない代わりにアイスクリームやコーラならほら、うちにはふんだんに揃えてますがね」

「ドリーミーランドじゃあるまいし。大人には子供と違ってまた別の……ほら、もう少しスピリチュアルに関わる慰安が欲しいんだよ。おまえらもそうだろう?」

「では煙草で我慢することですな」

 有名な子供向けの巨大遊園地のことだっけ……話に出て来たドリーミーランドのことを脳裏でそう反芻し、カズマは売店に割り込むように身を乗り出す。それまで白衣の相手をしていた下士官が、窓口から怪訝そうにカズマの顔を覗き込むようにした。

「ねえ、ここもう開いてるの?」

「これに欲しいもの書いて。晩飯の時間までには揃えておくから」

 複写式の物品購入用紙をカズマに渡し、下士官は窓口の傍を指差した。売店で扱っている物品、そして値段の一覧がボードに刻まれ、張り付けられていた。用紙に物品を記入して主計員に渡せば彼らがそれらを揃えてくれ、カズマ当人は指定された時刻に売店に来て物品を受け取りに来ればよい、という寸法である。料金は後日、給料から差し引かれることとなっていた。


 内壁を支えに黙々と記入を始めるカズマを、それまで神妙な表情で見守っていた白衣が、鬼瓦のような顔を綻ばせてカズマに話し掛けて来た。赤銅色の肌、角張った顎に無精髭を生やした中年の男――――年齢の程はバートランド隊長と同じくらいか? とカズマは推し量る。吐く息からは僅かではあるが、アルコールの臭いがした。

「なあ坊主……いや少年兵、今度の上陸は何時だい?」

「明日ですけど?」

「少年兵、ちょっと来い!」

 毛むくじゃらの太い腕が、有無を言わさずにカズマの手を掴んで引っ張る。通路の角まで来たところで、白衣の男はポケットを弄り皺くちゃになった紙幣を数枚、カズマに握らせた。

「上陸の時、こいつで買えるだけの酒を買って来て欲しいんだ。ウイスキーとか……ジンの類でもいい」

「…………」

 握らされた紙幣を一度まじまじと見詰め、そしてカズマは訝しむように白衣の男を見返した。ラジアネス軍では艦内での飲酒、あるいは酒類の持込みは禁止されている。モック‐アルベジオ基地での新兵教育時に教えられた事項が、今更ながらにカズマの脳裏に頭を擡げる……カズマに凝視された男の表情が苦渋に歪み、そして卑屈なまでの愛想笑いに転じた。

「釣りはあげるから、さ」

「…………」

 嘆息――それ以上は何も言わず、カズマは紙幣をジャケットに押し込む。飛行場を出る間際にルウ‐カウベラ‐アルノーと交わした約束が思い出された。ルウならば街のことに詳しいかもしれないし、話題造りにもなるだろう……という計算が、カズマの胸中にはある。医官の顔が綻び、男臭い笑顔となるのをカズマは見た。

「俺の名はカラレス。ブフトル‐カラレスだ。医務室の場所はわかるよな?」

 カズマは頷いた。兵員居住区画と士官居住区の中間に位置する医務室、この日まで主がいなかった広い部屋が思い出された。

「じゃあ健闘を祈る。他のやつに見られないよう、上手くやれよ」


 カズマは、そのまま兵員居住区へと足を向けた。

 工事が進んだ艦内は、当初の乱雑さから見違えるほどに一新されていた。床に放り出されたままの配線はすでに何処かへ消え、ビニールの覆いが取り除かれた先には、軍艦らしい機能性重視の内装が顕わになっている。ハンティントンはようやく戦えるフネに生まれ変わりつつあるようだ。一方で、これから皆を待つであろう新たな訓練の日々を思うと、気が引き締まる思いがする。

 それでも今日は、どうやら穏やかな日になりそうだ。

そう思いつつ、居住区へたどり着く直前――

「あれぇー、カズマさん(・・)外泊からいつ帰ってきたのかなぁー? 一空兵の分際で朝帰りとは、いいご身分ですねぇー」

 しまった……カズマはため息をついた。後ろを振り返りたくなかったが顧みざるを得ない。その背後ではやはり、カズマの姿を認めたマリノがニタニタと笑っている。それも毒のある笑みだ。

「そっかぁ、飲み過ぎてぶっ倒れたんだっけー。戦闘機乗りのくせに酒に弱いなんてどーゆーことよ」

 彼女は外泊の件を何処からか感づいたようだ。

「戦闘機と酒とどういう関係があるんだよ?」

 肩越しにマリノを振り返った目に、暖かい光は宿っていなかった。

「酒に飲まれるような奴がどうして敵機を撃墜せるのよ? バッカじゃないの」

「酒なんて飲めなくとも(・・・・・・)敵機ぐらい撃墜せる!」

「あんた、酒飲めないの?」

 しまった……と思ったときにはさっと延びた手がカズマの鼻を掴んでいた。

「へぇー……あんた、酒飲めないのに飛行機乗ってるわけー?」

「い゛だだだだ……」

 鼻をつままれ、苦悶の表情を浮かべるカズマをじっと見つめながら、マリノは続けた。

「飛行機乗りってのはねぇ、酒好き女好き危険好きって三拍子そろってるもんなの。特に戦闘機はそう。それなのにあんたときたら酒が飲めない、女にもてない。オマケに戦闘じゃ役に立たないみたいだし……立派にビンゴじゃない?」

『そこまで言うかよ。普通……』

 そう思ったが、口には出さなかった。鼻を掴む手に、一層力がこもった。

「何か言ってみぃ、カズマァー?」

「少尉殿、何をやっているのでありますか?」

 不意に男の声がした。その声もやはり聞き覚えがある声だった。

「きょ、教官殿……?」

 恰幅のいい黒い肌をした長身。昨日カラレス軍医を脅しつけた下士官だと直感する。確かデミクーパー上級曹長と言ったか……そのカズマの眼前で、曹長と正対したマリノの目に、明らかな狼狽の色が満ち始めるのが見えた。

「いけませんなあマディステール少尉殿。手空きでいくらやることが無いとはいえ、新兵いじめに精を出してもらっては……」

 マリノに勝るとも劣らない長身がマリノに向い一歩を踏み込む。曹長はマリノを呆れたように睨み付けていた。マリノの手が離れ、途端にカズマは鼻を押さえて座り込む。

「兵士の教育は我々の仕事であります。空兵士官たるあなたにはもっと有益な事に時間を割いてもらわないと……わかったか?」

 曹長の口調が変わり、次には険しい眼差しがマリノに向う。マリノがのけぞった。

「コラ、何とか言わんか? マディステール生徒(・・)

「教官……あの、その……」

 さっきまで快活だったマリノが、しどろもどろになっている。その様子を見上げていたカズマに、笑いがこみ上げてきた。マリノが眼を剥いた。

「カズマッ! 笑うな!」

「いい加減にせんか! そうやってお前は昔からいろいろと悪さを――」


 どうやらこの場だけ、士官学校時代に戻ったようだった。曹長の、かつての教え子に対するお説教が延々と続く中で、カズマは気配を消し抜け出すように歩を進めた。

 


「君は引越しだ。荷物をまとめて士官居住区に移れ」

 兵員居住区へたどり着いたカズマに、上段のベッドで仲間とカードをやっていた同室の兵士の一人が言った。

「え、どうして?」

「さあ……先任からはそう伝えろって言われたけど……」

 とにかく、命令が下りたのだ。身の回りの品をまとめて、指示された部屋に向かうことにする。

 士官居住区に設けられた下級士官用の一室。一兵卒のカズマが宛がわれたのはその部屋であった。自分だけ特別扱いなのかといえばそうではなく、乗員の増加に伴い居住用のスペースに不足が目立ち始めたのが実情のようだ。実際、後で聞いたことには機関員や事務員、炊事係など通常の戦闘とは関係の無い兵士が部屋を移動していた。居住区の整理を図っただけでは足りず、本来ならば居住区ではない筈の予備倉庫や通路上にベッドを置き、仮の居住空間としている程で……そこで兵員室に新しい乗員を入れる代わりに、兵士ながらパイロットのカズマが、士官室へと追い立てられる形となったわけだ。

「ツルギ空兵、入ります!」

「どうぞ」

 二人一組の相部屋である下級士官室では、すでに一人の士官が私物の梱包を解いていた。カレースタッドで乗り組んだ組だとカズマは察する。皮製のジャケットに輝く徽章が、同じパイロットであることを示していた。ただし所属部隊は違った。

 士官の姿を眼にするや、カズマは背を正した。

「今度同室となりました。戦闘187のツルギ空兵であります」

 士官は無言で、珍しいものでも面白がるような眼つきでカズマを見つめた。灰色の瞳が淡い光を湛えてその対象を撫で回していた。長身とくすんだ金髪と端正な容貌の内に、カズマはこの男に只ならぬ所を感じ取る――ただのパイロットじゃない……だが、悪い人ではないようだった。

「……そうか、兵員室から追い出されたんだよな?」

 男は、微笑んだ。正確に言えば、苦笑した。

「はい」

「楽にしてくれ、僕はそんなに階級にはこだわらない」

 士官は、カズマに座るよう勧めた。

「僕は戦闘097のバクル。クラレス‐ラグ‐ス‐バクル少尉だ。よろしくな」

 第097戦闘飛行隊といえば「アレディカ戦役」にも参加した部隊だ。戦闘では戦力の過半を失い。戦力の再編成のため早々に後方に下げられたと聞いていたが……カズマの疑念を察したように、バクル少尉は言った。

「こっちの上層部も必死なようだ。一応飛行機を飛ばせればいいというぐらいの基準でパイロットを集めている。表面上は歴戦の部隊でも、実際は寄り合い所帯さ」

「…………」

 こっちの上層部?……おかしな言い方をする。とカズマは思った。

「まあ、離着陸がやっと、というよりはマシですよ」

「それは言えてる。だが、長期的に見た場合そうなるのはラジアネスじゃなくてレムリアさ」

「ベテランほど先に死んで行くって言いますからね……彼らの勢いも長く続くかどうか」

 ふと、日本のことが脳裏に浮かんだ。ラジアネスに総合的な国力の面で大きく劣るレムリアが緒戦の勢いを維持できるという展望には、どちらかと言えばカズマは否定的ではあった。レムリアにそのような数的劣位を払拭し得る技術や戦略があれば、話はまた別であるのだろうが……

 少尉は、カズマを見返した。

「……君は、わかったようなことを言うんだな」

 言い過ぎたかな――内心で心胆を震わせ、カズマは視線を逸らすようにした。少尉は、訝しげにカズマを見据えた。カズマを見遣る目付きは険しいものでは無かったが、それ故に居心地の悪さをカズマは覚える。カズマを見詰めていた少尉の目から柔和さが消える……カズマに対する隔意では無く、むしろ疑念が少尉の目を険しくしたことにはカズマはさすがに思い当らなかった。

「その顔立ち……ひょっとして君は、始祖人か?」

「始祖人……って、何です?」

「まさかな……」

 少尉は言い掛け、頭を振った。会った時同様の柔和な目付きが戻っていた。

「……いや、忘れてくれ。何でもないんだ」



 ――少尉との挨拶が済み部屋を出ると、通路で立ち話をする二人の士官の姿が目に入った。二人は部屋を出たカズマへちらりと眼をやると、また話を続けた。

「04号室のやつ、レムリア人らしいな」

「何でも、亡命して来たんだと」

「亡命者だか何だか知らんが、レムリアンはレムリアンだ。信用できるものか」

「同室のやつ、とんだ災難だな」

「――――!」

 はっとして、カズマは振り返る。二人と眼があった瞬間、二人の士官は「まずい」というような表情をして眼を逸らした。カズマは、また歩き出した……悪意に満ちた囁きを、背に受けながら。

「可哀相に、あいつらしいぞ……」


もう、後ろを振り返ることは無かった。



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