序章 「ふたつの故郷」
――私の父がはるか遠い「もうひとつの世界」の、父の育った国から見て「南方」と呼ばれていた地に、国軍の一員として出征していた頃、私が生まれた「この世界」でも、大規模な戦乱の足音が刻々と近づきつつあったのでした。時をほぼ同じくして「もうひとつの世界」に起こり、やがては父の育った国をも、そしてついには父自身をも巻き込んで「この世界」へ導くきっかけとなった大戦争と同じく、私の生まれる数年前に終結した「大空洋戦争」もまた、国同士の因縁、価値観、利害、そしてこれらを包括する歴史的経緯の歪んだ相克の結果として後世に記憶されるべきものとなったのです。
――空を自由自在に飛び回る……父が育った世界においては――それが天然に存在しないがゆえに――つい四、五〇年前まで空想の世界の発想に過ぎなかったというこの技術を、飛行鉱石フラゴノウムの抱熱浮遊性を応用した空中航行制御技術を確立することによって、「この世界」の人々は今から二〇〇〇年近くも前に試行錯誤の末、実用に供することに成功したのでした。この年を以て人々はそれ以前の暦を捨て、新たに「航天暦」元年を制定したのでした。
長年鳥類と神々の独占してきた天空世界を人々が制する術を得た。という事実はまた、それまで地上に暮らし、その生から死までを地上に存在するもののみに囲まれてきた人々にとってそれまであるときには好奇の、またあるときには畏敬の対象であり、ただ地上よりそれを見上げ、「神の住処」として敬うだけの対象であった数多の「浮遊大陸」が、航天暦元年以降、もはや地上の海洋に点在する大小の島々と同じく、人々にとってはただそこに足跡を標し、入植する対象に成り下がったというもう一方の事実をも雄弁に物語ることとなったのでした。以降、人々の歴史はそのまま一方では地上の人々に翼を与えたフラゴノウムの加工、制御、それに伴う空中輸送技術の発達の歴史となり、もう一方では浮遊大陸を巡る航路開拓、殖民事業の歴史となったのです。
人々が早期に空を巡る手段を得た。という事実はまた、いままで地理的な条件の下に成り立ってきた、地上に拡散して存立するさまざまな規模の社会単位の統合を急速に推し進める上で極めて大きな利点として歴史上有効に作用してきたという点を私達は見逃してはなりません。航天暦一四八〇年に地上世界の一都市ラジアネスを首府として成立したラジアネス中央政府はこれ以前に行われた各地上世界間の、平和的、非平和的な各種統合運動の一応の成果であり、一四八〇年以降は統合の名目及び手段として機能したのです。そしてこれと前後して地上に存在する地理、風土を一通り「征服」した人々は、その余りある征服欲、開拓精神の対象に、それまでほぼ手付かずのまま置かれた広大な浮遊大陸を見ることになったのです。従って、それまで微々たる物でしかなかった浮遊大陸開発の速度は一気に増大することになりました。人々は競って未開発の浮遊大陸に、未開拓の空中航路に船を乗り入れ、これらの航路を管轄する航路運営会社の株式は文字通り天井知らずの上昇を続けることとなったのです。また、「最後のフロンティア」としての浮遊大陸に新たな生活の基盤を求めた多くの人々は、移民として新たな土地の新たな生活に対する希望と不安をない交ぜにしながら、開発が始まったばかりの新大陸にその第一歩を記すことになったのでした。
人々がまだ火の存在さえも知らなかったようなはるかな昔、巨大なフラゴノウム鉱脈を含む大地が、地熱、フラゴノウムの自然発熱などの様々な自然条件によって次第に重力に反発して浮遊を始め、気の遠くなるような時間をかけて合体、分裂を繰り返した結果形成された浮遊大陸に人々が初めて足跡をしるして一〇世紀。そして本格的な殖民事業が始まって四世紀が過ぎようとしていた頃。地上と天空をつなぐ発展の内面で、後の「大空洋戦争」へと繋がる伏線となる流れがゆっくりと、そして確実に醸成されつつあったことに多くの人々が気づくことはなかったのでした。「終わりなき開拓」(E‐L‐セデリア)の言葉に酔ったこの世界の人々が進取と希望の精神の下に未曾有の繁栄を享受する一方、彼らの多くが空を往く手段を得る以前から地上に語り伝えられてきたひとつの伝説の存在を忘れ去っていたのです。それこそが、「選ばれし先駆者」と呼ばれる人々と、天空の神に導かれるままに彼らがたどり着き、独自の国家を建設した伝説の浮遊大陸「レムリア」の存在を裏付けるものだったのでした。
地上世界の荒廃と不信心を憎み、人知れず未知の空域へと乗り出した人々が流れ着き、そして作り上げた独自の天空文明たるレムリア、その人民たるレムリアン――航天暦一八六五年が訪れるまで、それらは単なる伝説であり、そして市井に数多創られた空想物語の産物であり、題材であるのに過ぎなかったレムリアの地と民。しかし、二〇〇〇年近くに喃喃とする航天時代の間に、「空想」と言う言葉だけでは片付けられない、いわゆる「レムリアの影」(E‐K‐サラス)のちらつきが、当時の人々の無視に足るものであったと言い切るには、実のところ多くの人々が戸惑いを覚えていたのでした。何の前触れも、考えられる要因も持たず航路上で消息を絶ち、後全ての乗員が消失した状態で発見された船。住民が丸ごと消失した開拓村。そして地上に「降臨」した何者かによってもたらされた多くの奇異な出来事……地上世界の様々な地域、時代を通じて起こったこれらの事件の背後に、当時の人々が、自分たちがいまだ見ることすらあたわない「神々の土地」を見たとしてもなんら不自然なことではなかったのです。
航天暦一八六五年。考えてみれば、それは不幸な出会いでありました。なぜならラジアネス中央政府とレムリア――正確には、レムリア同盟共和国――との航天暦制定以来初の接触は、双方の軍事力同士の突発的衝突のかたちをとって歴史に記されることになったからです。
後に「トスモス空域事件」と呼ばれたその衝突の全容は、ラジアネス中央政府の施政権の及ぶ最果ての空域であったトスモス航路上において、機関の故障により漂流していた中央政府側の商船を拿捕すべく接近してきたレムリア軍哨戒艇と、異変を察知して駆けつけてきた中央政府軍駆逐艦との交戦であり、その結果は哨戒艇一隻大破自爆、駆逐艦一隻中破という衝撃的な報告として世界全土を駆け巡り、人々の耳目を大いに刺激したのでした。そして人々は、今まで神秘に対する畏敬と好奇の入り混じった感覚で捉えてきたレムリアという存在が、その実際は厳重な統制と断固とした武断に重きを置く民族集団であることを「トスモス空域事件」直後にそれ以上に衝撃的な形で思い知らされることになったのです。
トスモス空域の突発的衝突における「英雄的戦闘」の結果、同胞を失ったレムリアはまさにこの事実そのものを口実として、周辺の殖民都市群に対する武力侵攻を開始したのでした。それは、紛争後の事態静穏化をもくろんだラジアネスの期待と予測を大きく裏切るものだったのです。植民都市を防衛する政府軍駐留部隊の微小な反撃は、ハード、ソフトの両面において彼らの想像をはるかに絶するレムリア侵攻軍の前に粉砕され、わずか一ヶ月の間に二〇を超える空域、三〇もの殖民都市がレムリアの軍門に下ったのでした。ここにいたって、事態はそれまで必死にこの天空の民との融和を模索してきたラジアネス首脳部を以て、「侵略者」レムリアとの対決を決意させたのでした。後の世に言う「大空洋戦争」が始まったのです。
航天暦一八六六年。この年は、「大空洋戦争」初期の両陣営の勢力圏を決定付けたという意味で重要な意味を持つことになります。ラジアネスは今次大戦の趨勢を短期のうちに決すべく、アレディカ空域に総勢一五〇隻もの大艦隊を集結させました。しかし政府軍は艦隊の主力たる戦艦、巡洋艦を充実させたその陣容こそ堂々たるものでしたが、戦術は従来の艦隊決戦の域を出ず、さらに悪いことには本来レムリアのような大敵と戦う上で重要な、長期的な展望に基づいた戦略を欠いていました。また、当時の政府軍首脳の中に、ラジアネスと比してまだ見ぬレムリア軍の実力を過小に見る風潮が少なからず蔓延していたことも見逃せません。これは、事あるを予期して万全の備えでラジアネスとの戦闘に臨んだレムリアとは全く対照的だったのです。
果たして、「アレディカ戦役」はこの空域に展開したラジアネス艦隊の、一方的な敗退の記録として歴史の一ページに刻まれることになります。アールブイ島の外洋艦隊基地を勝利への確信とともに出航し、艱難辛苦の末はるばる長大な航路を遠征してきたラジアネスの大艦隊の前に現れたものは、機動性に優れた小艦艇による度重なる奇襲攻撃と、これと対を成す小型航空機群による大規模な波状攻撃でした。そして政府軍は、この新しい戦争への有効な対抗手段をろくに持ち合わせていなかったのです。
戦闘第一日目で、撃沈されたり以後の戦闘続行不可能となった艦は全軍の半分に上りました。もともと少数だった直援の戦闘機隊もまた、機体の性能と操縦士の技量ではるかに勝るレムリア軍戦闘機軍団との戦闘でその戦力の大半を失った上に、還り着くべき母艦をも撃沈されあえなく壊滅したのです。この日を境に戦闘の攻守は逆転し、ラジアネス軍は敵軍を追う側から深手を負って追われる側へと転落し、生き残ったわずかな艦が無残な姿で味方の勢力圏へ還りついたのでした。
ここに、事実上「アレディカ戦役」は終結し、ラジアネスはこの戦いでその保有艦艇の過半を失ったのでした。かといって勝利したレムリア軍にも敗残のラジアネス艦隊をこれ以上追撃する余力は無く、以後は占領地と本国を結ぶ補給、防衛網の構築に全力を注ぐことになります。これ以降戦線は膠着状態に陥り、しばしの小康状態の後、態勢を整えつつあった双方が再び戦端を開こうとするまさにそのとき、私の父はこの世界へと導かれたのです。