表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/81

終章  「異空へ……」

 ――気がつくと、カズマはすでに機上の人。


 操縦席はオイルと金属の触れ合う、懐かしい匂いに満ちていた。紫電改と比べはるかに軽い操縦桿。重々しさのまるでない軽快なエンジン音――まどろみの中、眼が開ききっていないカズマにとって、一七歳になるかならぬかの歳で正規搭乗員になって以来、数多の計器類と把柄と配線の絡み合う狭い空間の中で聞いた音はまさに青春の音であり、その中で嗅いだ匂いはまさに青春の匂いであった。


 それは――零戦。

 

 今まで乗った中で最高の戦闘機だった。教育課程を終え、初めて単独で零戦の操縦桿を握ったときのことをカズマは忘れない。それ以来、カズマにとって零戦はまさに彼の青春そのものとなった。 数多くの勝利、敗北……その節々に零戦はカズマと共にあった。本土から遠く離れた南方の蒼穹の彼方。カズマは零戦の風防越しに多くの敵の最期を見、多くの戦友の死を見、彼らの終焉に関わった。


 ――光の奔流、それにより生み出された漂白のみが支配する操縦席の外。

 ――夢の世界と知りつつ、カズマは零戦の操縦席から周囲を把握しようと試みる。


 単に零戦から見える、広大な空の風景をカズマは楽しみたかった。その一方で彼は自分の意識が、現実にはどうしようもない夢の中にあることを自覚している。零戦の操縦席から外の景色を見ようとして眼を開ければ、現実の世界に引き戻されることを知っていた。


 ――そのような夢であれ、何時かは醒めねばならない。

 ――そして現在のカズマには、このまま夢を見ていたいのか、現実に戻りたいのか、わからなかった。


 零戦のエンジン音が不意に重く、不連続的なものとなった。それが零戦のエンジン音ではなく、近辺に着陸するジーファイター戦闘機のそれと悟ったときには、彼は眼を開けていた。


「――――!」


 鉄格子から差し込む日差しが、カズマの網膜を容赦なく灼いた。汚い毛布を手繰って払いのけるのと、扉の向こうから重厚な足音が聞こえてきて、自分の部屋の前で止まるのと同時だった。


「103号! 起きろ」

 憲兵の無機質な声がドアの覗き窓から漏れる。鍵でドアの小窓を開ける音がした。朝食が運び込まれたのだ――そしてカズマは、自分の試みが最終的には潰えたことを、改めて思い知らされる。



 「政府の所有物」たる鹵獲航空機の無断持ち出し、その際の意図的な命令無視――これらの罪状は、ラジアネス軍という巨大組織を支配する軍律の中にあっても、決して軽い罰で報いられるべきものでは無かった。モック‐アルベジオ基地と空母「ハンティントン」を巡る一連の攻防の締め括りとして、昨夜の帰還後にモック‐アルベジオ艦隊航空基地の司令室で報告を終えたばかりのツルギ‐カズマ訓練兵は営倉に叩き込まれ、そして拘禁の終わりは見えなかった。


 冷め切ったヌードルスープをすすりながら、カズマはぼんやりとした眼で外の様子に思いを馳せる。


 教導班の連中は元気にやっているだろうか? 今頃は確か早朝の体力練成訓練 (というよりそれに名を借りた新兵いじめ)の時間だ。特にあのイホーク‐エイクはきちんと耐え、ラジアネス軍に彼なりの居場所を見出そうとしているだろうか?……いや、今はレムリアの協力者の襲撃により基地が受けた損害の復旧作業の方が優先されていて、故に彼も、そして他の同期兵も復旧に準じる任務に駆り出されているのかもしれない。


 であればあいつも――高慢稚気に思えるあの女の顔が脳裏に浮かび、そしてカズマは眉を顰めた。あの夜、何だかんだとゴネつつも、自分と紫電改を決戦の空へと送り出してくれたマリノという女少尉の顔。

「ヨッ、カズマ。あんたクビ決定。ま、その前に軍刑務所に入ってもらうことになりそうだけどね」

「――――?」

 突然の声に、カズマはドアの方へ振り向いた。ドアにはめられた鉄格子越しに、マリノが部屋を覗き込むようにしてニタニタ笑っている。カズマは思わず怒鳴った。

「あんたさぁ! 今は訓練の時間だろ! 俺よか他の連中の心配でもしろよ!」

「あんたに同情されるほどあたしは落ちぶれてないけどね。あんたこそ自分の心配が必要でしょうが」

 それだけ言って、マリノは舌を出して見せた。

「言っとくけど、軍刑務所はキツイわよー。おかしなシュミのむさ苦しい野郎がいっぱいいるから。でも、見た目がガキっぽいあんたなら結構かわいがってもらえるかもね」

「お前が行けよ! このオトコ女」

「何だとコラ! 喧嘩売ってんのか!?」

 マリノの口調が変わった。カズマはアッカンベーをして見せた。マリノが眼を剥いた。

「コラ衛兵! 鍵を貸しなさい! 今からコイツをしばくから!」

「それは出来ません。少尉」

「貸せって言ったら、貸せ!」マリノは鉄格子を握り締めた。更にカズマは親指を鼻先に当て、手をひらひらさせた。挑発のジェスチャーだ。

「このクソガキーッ!」

「駄目なものは駄目なんです! おい一等兵、少尉を外にお連れしろ!」


 ――途中で取り押さえにかかった憲兵を三人もノックアウトした挙句、ようやくマリノは営倉の外へ放り出される……分厚い鉄格子付の扉の向こうで繰り広げられる狂乱の一幕。唖然としてカズマはその終わりに耳を欹てる。


 何しに来たんだ? あいつ。




「こいつです」

 モック‐アルベシオ基地の航空機格納庫。バートランド達がシモンズ整備兵曹長の案内に従って歩を進めた先には、地上で収容され、先程基地に運び込まれたばかりのレムリア軍機がその変わり果てた姿を横たえていた。


 その数三機。だが、完全な状態のこいつが一度空に上がれば、恐ろしいほど手ごわい敵に早代わりする。特にリーダー格の一機――モック‐アルベジオに潜入した内通者マックス‐クレア改めエゼル‐エールラーにより、鹵獲航空機収容区画より持ち出されたレムリア軍の新鋭機はそうだ。あれがエールラー本人の操縦によりモック‐アルベジオの空に上がり、模擬空戦では旧型のタマゴを問題無く一蹴する様を目の当たりにして来たバートランドには、波乱から一夜明けた現在、格納庫の一隅で晒されているそいつの変わり果てた姿が、内心では信じ難くもある。


 かつては推進式に配された高出力エンジンを備え、流麗な外観を誇ったであろうその機体は墜落の衝撃で醜く歪み、さらにキャノピーの割られた操縦席は血と泥に生々しく塗れている。アスペクト比の低い、鷲のそれを思わせる力強さを見せる翼に至っては、左側が根元から無残に叩き折られていた。何よりも所々に残る弾痕が、この機が地上に叩きつけられた理由が事故ではなく、この場に居ない第三者の介入によるものであることを、軍民問わず誰の眼にも感じさせた。


「派手にやったんだな……」

 衝撃でひん曲がり、ブレードの大部分が欠けたプロペラを撫でながら、シモンズ兵曹長が嘆息した。

「左翼は地上に激突した衝撃で吹っ飛んだんでしょう」

「いや……」

 バートランドが言い、塗装と外板の剥げた胴体に歩み寄る。かつては胴体と主翼を繋ぎ止めていた個所で屈み込み、そして胴体部に穿たれた弾痕を撫でるようにする。左翼の付け根に集中した弾痕。これが意味するものは――

「――いい腕だ。少なくとも射撃の腕はいい。ジャックはおろか俺よりも……しかも、追尾から距離を詰めて弾丸を叩き込むだけの判断力と度胸……悪魔の仕業か」

「悪魔……ですか?」

 キニー大尉が表情を強張らせた。キニーを顧みてバートランドは口元を緩める。

「少なくとも、人間に出来ることじゃない。ん? これは……」

 左翼の付け根部分にあるものを認めたバートランドが、手を伸ばして胴体に食い込んでいたそれを引き抜いた――純色(にびいろ)の徹甲弾。

「徹甲弾だ」

 指で抓み出し、それを空にかざす。弾はまだ新しく、鈍い光沢を放っていた。

「多分、回避機動中にこいつを喰らったんだろうな。それならどんな戦闘機だってバラバラになる」

「クレアの乗っていた機だけじゃない。ここに寝そべってる連中は皆同じようなもんです。十数発ぐらいぶち込まれてる。それも全部主翼の継ぎ目とか……エンジンとか……所謂急所にですよ」

「乗員の遺体は?」シモンズ曹長に聞いたのはオービルマン大尉だ。

「全部収容されました。他の二機は典型的なレムリアンです。翻ってマックス‐クレア……いや、エゼル‐エールラーの方は損傷が激しくて見れたものではないと衛生班は言っていましたが」

 そこまで言って、シモンズはさりげなく話題を転じた。

「……で、誰がやったんでしょうね?」


「さあね」バートランドの口元が笑みに歪んだ。残骸から抜き出した弾丸を掌で弄びつつ隣の区画に足を転じる。今やただ一機健在な「荘厳なる緑」により占有された広大なる区画。隣接するレムリア機に比べ、全く無傷なる「荘厳なる緑」――昨日の戦闘から帰還を果たして以来、整備にはこの機にだけは一切手を触れないように厳命してある。

「あの坊やが、こいつを飛ばしたのか」と、キニーが感嘆を隠さずに言い、苦笑する。それをバートランドは窘める。

「笑いごとじゃねえよ」

 「荘厳なる緑」に歩み寄り、そして弾丸を弄ぶ指が止まった。

「……この弾丸だ。レムリアンはおろかラジアネス軍(うち)にも、この弾丸(たま)を撃つ戦闘機は存在しない」

「――――!?」

 言葉を失う部下たちを背にしたままシモンズ曹長を顧み、バートランドは言った。

「シモンズ、あいつのアクセスパネルを開けろ。機銃に通じるアクセスパネルだ」

「ハッ!」

 意を受けたシモンズが主翼に飛び乗り、工具を使い器用に外板を開く。少しの作業の後、シモンズは機銃に繋がる弾倉と思しき部品を抜き取って見せた。弾丸が床に捲かれ、それを拾い上げたキニーが驚愕に目を剥く。彼の目からしても、弾丸はレムリア機に刺さっていたものと形状が殆ど一致していた。

「決まりですね。少佐」

「あいつは……ツルギ‐カズマは確か、会敵出来ずに虚しく帰って来たんだっけか?」

「本人の供述によればそのようです」

「偽証罪……あいつの罪科がまたひとつ増えることになるな」

 弾丸を見比べつつ、バートランドの独白にも似た言葉は続いた。

「しかし、何故だろうな」

「…………?」

「何故、あいつは隠すんだ? 強いことを」

「さあ……」

「……まあいいさ。また聞けば」

「荘厳なる緑」から離れ、バートランドは言った。「そういや、こいつの処分は未だ聞いてないな」

「ラジアネス航空諮問委員会(LACA)隷下の研究機関に引き渡すそうですよ。どうも未知の要素が多すぎて此処では手に余るそうで。しかし……」

「……こいつの全てが解明された暁には、我々はレムリアンに対抗し得る戦闘機を得られるって寸法か」

 バートランドの独白は、その実的を得ていた。キニーも頷かざるを得ない。

「あの坊やのお陰で、こいつの真価がはっきりしたというわけですな。問題は今まで誰も『荘厳なる緑』の正体に気付かなかったということでしょう。我々も、そしてエゼル‐エールラーも……」

 傍らに立つ警備部隊の下士官に、バートランドは警戒の強化を命じる。格納庫から出る間際、バートランドは足を止めて言った。

「飛行隊の編成期限が早くなったそうだな?」

「はい、空母は損傷の修理とか艤装よりも先ず就役を優先させるそうですから。さすがの艦隊司令部も昨日の襲撃にビビったんでしょう。外洋(そら)に出せ出せと矢のような催促で……」

「飛行隊の定数と人員は、こっちの裁量で自由に決められるんだろ?」

「少佐まさか……」キニーとオービルマン、ふたりの顔色が同時に血色を失う。部下の狼狽を楽しげに見遣り、バートランドは微笑んだ。

「……その、まさかだよ」




「――『ウダ‐Ⅴ』は任務に失敗したようです。傍受した敵の暗号通信によると、ラジアネス軍の空母は健在です」

 通信士官の報告が続く。緊張の色を隠さない彼の背後に、岩盤を繰り抜き、あるいは浮遊岩を繋ぎ合せて造られた人工の船渠が並んでいる。レムリア軍の艦隊前線基地タナト。薄暗い電灯に照らされた自身の執務室で、第208戦闘航空団司令から昇格を果たした艦隊作戦参謀セルベラ‐ティルト‐ブルガスカ大佐は通信士官の報告を聞いていた。目深く被られた軍帽を貫くように、不機嫌そうに通信士官を睨みつける鷹のような眼と、黒檀のデスクに突き出された美脚を覆う堅いブーツが、見る者に名状しがたい威圧感を与えていた。


「……それで、アーリス少佐は何と言っている?」

 倦怠と苛立ちの混じった、だが物理的な寒気すら招来しそうな美声が、通信士官をして報告書の文面から顔を上げさせた。正対から一転、頬杖をつき彼とは明後日の方向に灰色の眼差しを注ぐ女性士官がひとり、それを通信士官は、純粋な畏怖の宿った眼でしばし凝視する。

「申し上げます……願わくば我をして、任務完遂の機会を与えせしめ給え。同志復仇の機会を得さしめ給え……回答を待つ。以上であります」

「……任務には、失敗したのだな?」

「……そういうことに、なります」

 正視から転じ、今度は上目遣いに通信士官は彼の上官を伺う。世に倦んだ様な、つまらなそうな口調……それでも、氷の揺らぎを音声化すればこういう声になるのではないかと彼は本気で思う。

「好きにさせてやれ。それと……」

「ハッ……!」

「今すぐに此処から出せる艦は?」

「――――!」

 予期せぬ下問に、通信士官の思考が一瞬漂白し、彼は自身の把握し得る限りにおいて艦名を挙げた。

「……巡洋艦『レーゲ‐ドナ』及び駆逐艦『レーゲ‐アデム』、『レーゲ‐アニ』……以上三隻であります……!」

「『レーゲ‐ドナ』でよかろう」

「は……?」

「アーリスの許に向かわせろと言っている」

「ハッ!……作戦支援でありますね」

「督戦だ」

「――――!」

 士官の背を、戦慄が走った。そして彼は、この部屋に入ってから今までの自らの挙動を、その実部屋の主に見透かされていたことを悟る。暗中に聳える得体の知れない巨像、それに直面したかのような恐怖が、改めて士官の胸中を悪性の病疫のように支配し始める。ただし士官を咎める風でもなく、セルベラは単に白手袋に覆われた手を振り、彼に遇する。去ってよし――恐縮しきりの通信士官を退出させると、セルベラは背後に設けられた窓に椅子ごと向き直る。


 一本の枠も見出せない、一面ガラス張りの窓からは、タナト浮遊島特有の広大な環礁地帯に設けられた泊地を行き交う艦船の様子を手に取るように一望できた。

 本土や各地の戦線から結集した、甲殻類の一種を思わせる特異な形状をしたレムリア艦隊の艦船の数は、「ウダ‐Ⅴ」が出航した数週間前とは比較にならないほど増大していた。訓練や哨戒のために基地を発進する戦闘機や攻撃機の編隊がひっきりなしに上空を通過しては、入れ替わるように任務を終えた別の編隊が戻ってくる光景もまた、ここ数日の内ですでに日常のものとなっている。


 新たな作戦の発起が近い。


 その主目的はラジアネスの残存艦隊を誘き出し、決戦を挑み再び壊滅的な打撃を与えることにあった。特に空母の戦略的価値は高い。これを捕捉し、破壊してしまえば以降の地上世界への侵攻作戦はスムーズに進む。

 ラジアネスは現在必死で戦力の回復を図っている。そしてその目論見はほとんど成功している。彼らの圧倒的な工業生産力は枯渇することを知らないかのように大量の艦船、航空機、補給物資を前線に送り出しているのだ。各空域に拡散する軽攻撃艦艇による通商破壊作戦にも限界がある。この辺で後顧の憂いを絶っておくべきだった。

「……もうひと押しせねば、なるまい」

 声にならない呟きを発して、セルベラは眼を細めた。




 タナトの艦隊司令部から遠くはなれた急造飛行場。


 訓練を終えたジャグル‐ミトラは見事な三点着陸を見せて滑走路を暫く走り、減速し駐機場まで進んできた。

 ジャグル‐ミトラは、長距離要撃作戦用に少数が試作された双発の重戦闘機だ。滑らかに整形された細い胴体、高出力の液冷エンジン、排気タービンの組み合わせは高い上昇性能と加速力を弾き出し、その上に機首に集中配置された機関砲六門の威力が合わさって絶大な空戦性能を発揮する。レムリア軍は優秀な前線指揮官のみならず少数の撃墜王(イクスペルテ)にジャグル‐ミトラをはじめ多くの試作高性能戦闘機を与え、実戦運用させてさらに戦果を挙げさせていた。


 左右のエンジンが完全に止まり、ジャグル‐ミトラの特徴あるバブルキャノピーが開く。コックピットからはフルフェイスのヘルメットに包まれたパイロットの頭が駆け寄ってくる地上の整備員の様子を見下ろしていた。特に、整備員の中でリーダー格らしき汚らしい小男が、薄汚れたシャツからはみ出したどす黒い、太い腹を丸出しにコックピットの方へ近付いてきた。小男は妙な顔をしていた。具体的に言えば、男には眼が無かった。さらに正確に言えは、眼に当たる部分が無機質な金属製の眼鏡に覆われていた。


 他の地上員の手でコックピットに掛けられた梯子を握ると、小男は所々が欠けた、黒っぽい歯を丸出しにして、パイロットに笑いかけた。

「調子はどうです? 旦那」

 「旦那」と呼ばれた男は無言でヘルメットを脱いだ。次の瞬間、彫の深い、端正なマスクが小男を見つめていた。小男と同じく、男の右目を無機質な光を放つレンズが覆っていた。ヘルメットを小男に預け、よく整えられた金髪をざっと撫で付けると、男は身軽な挙作で梯子を伝って地面に着地した。男の背は高く、赤い繋ぎの飛行服の下であってもがっしりとした肉体の輪郭を伺うことが出来た。それでいて筋肉質に過ぎるという訳ではなく。むしろ精悍さの方が際立っていると言える。


 小男の差し出した飛行記録簿にサインと加筆を加えつつ、隻眼の操縦士は言った。

「エンジンプラグを交換しろ。燃費が悪くて叶わん。あと、プラスGでエンジンが息をつくのは何とかならんのか?」

「それはエンジンの問題じゃありませんぜ。給気管の巡りをちょっと調節してやれば巧くいくでしょう」

「成程……(うえ)と此処との気温差の問題か。それもあるだろうな」


 あとの整備を部下に任せ、二人は歩き出した。ややあって小男が煙草の箱を差し出した。占領した殖民都市で調達した上質の葉巻だった。差し出された数本から慎重に形のいい物を選ぶと、取り出して口に銜える。小男が身を乗り出すようにしてマッチを差し出し、男は頭を屈めて火をつけた。

 歩きながら一服し、男は言った。

「ところでレグエネン。今日のメシは何だ?」

「へえ旦那、キロル羊のシチューと、カニとポテトのサラダです」

 タナト島に新設された滑走路に沿って単発機、ゼーベ‐ラナ主力戦闘機が列線を形成していた。機体の傍で打ち合わせやら世間話やらをしているパイロットや整備員が、歩いて来る二人の姿を眼にするや否や、一斉に沈黙して視線を二人に転じた。彼らの眼に、二人に対する否定的な要素など微塵も見られなかった。好奇と畏敬の念が彼らの視線に多分に含まれていた。


 パイロット専用食堂へ向かう路の途中で、さりげなくその小男――レグエネン上等整備兵は話題を転じた。

「アーリス少佐が、下手を打ったそうですよ。何でも、地上人の空母を撃ち漏らしたとかで」

「当然だな」

 レグエネンは、はっとして彼の上司――否、主人――を見返した。その後に続いた言葉がさらに素っ気なく、だが意外であった。

「工作艦一隻でどうにかなる任務(やま)じゃねえよ……セギルタは貧乏くじを引かされたのさ」

「成程……」

 納得の表情を浮かべるレグエネンの眼前で、まだ十分な長さを残した葉巻が空を舞う。円を描く葉巻の向かう先に、上昇出港体勢のまま空へと昇る飛行巡洋艦の艦影が陽光を遮る。ふたりの前に影が生まれ、そして通り過ぎていく。


「緊急発進……セギルタ絡みか」

「作戦支援でしょうかね……ならばいいんだけど」

「ばか……督戦だ」

「…………」

 男の言葉は素っ気なかったが、レグエネンの精神の肺腑を抉る刺々しさが含まれていた。彼――タイン‐ドレッドソンは送り出した方と出された方、両方の女性についてはともに知った仲だったから、それ故に送り出した方の女性については終始平静ではいられない。

「雌虎も罪なことをしやがる」

 巡洋艦が遠ざかる空に向かい、「雌虎」ことセルベラ‐ティルト‐ブルガスカをタインは詰る。だがそれも虚しい言葉であることをこの場の誰よりも彼自身が知っている。

「レグエネン、もうすぐ作戦が始まるな?」

「そうみたいですぜ。旦那」

「骨のある相手と空戦(やり)たいもんだ……」

 そこまで言って再び立ち止まると、タイン‐ドレッドソンは再び空を仰いだ。巨影が消え去り、どこまでも透明な白色に澄み切った空のかなたを、灰色の眼と銀灰色の義眼が不敵に睨みつけていた。




「搭乗割が出たぞ!」

 司令部の置かれた建物の前に立てられた掲示板にパイロットや整備員が集まるのに1分もかからなかった。戦況の逼迫したこのご時世では、この掲示板に自分の名前が書かれているか否かによってその後の当人の人生が決まると思われても過言ではない。だからこそ必死にもなる。ただしその必死のベクトルというものが、モック‐アルベジオに限らずラジアネス軍では多種多様であった。


 モック‐アルベシオ艦隊航空基地の艦艇用ドッグには、どうにか「就役」を果たし、昨夜回航を果たしたばかりの新鋭空母「ハンティントン」がその灰色の巨体を横たえている。三日前のレムリア機による造船所襲撃で損傷した上甲板の所々に、補修中を示すカンバスを掛けられている光景が痛々しくも、戦況挽回に賭ける艦隊司令部の不屈の意思を主張しているかのように思われた。これより日を置かずして「ハンティントン」は出港し、各地の基地より物資と人員の補充を受けつつ訓練航行に入ることになる。であるにしても、出航に際し運用に必要な最低限の人員を、モック‐アルベジオから集めるというのはどういう料簡なのだろうかと訝る声も、基地の内外にはある。


 ハンティントンは乗員の練成と損害の補修、残りの工程を行いながら前線へ向かう。そしていずれは前線で残存する主力艦隊と合流し、新たな作戦に臨むことになる。本来なら基地で十分な訓練を施し、それを完了してから空母に乗り込むはずが、予定が急遽繰り上がり同時並行の形となったわけだ。



 多数の将兵が掲示板を囲む様子を、おやつ代わりにサンドイッチを頬張りながらマリノ‐カート‐マディステールは遠巻きに眺めていた。


 空母に乗る?――それは教育隊の教官として、そして空兵隊員として、自分には関係の無いことだった……はずであった。艦隊の連中が一喜一憂する様子を見るのは忍びないが、これも人生というものだ。そう、マリノにとって現在眼前で繰り広げられている光景は、文字通り他人事だった……はずであった。自分はといえばこの基地に残り、いずれ再び来る航空機搭乗員適性試験の機会が廻って来るまで、只管勉強と研鑽に励むだけで事足りる。

「マリノッ!」

 彼女の姿を認めたマヌエラが、息せき切って駆け寄ってきた。

「搭乗割、見た?」

 マリノは頭を振った。

「あんた搭乗割に載ってるわよ!」

「ハァッ!?」

 慌ててマリノは掲示板へ駆け寄った。長身と豪腕の威力で怒声を上げる男たちを尻目にあっという間に掲示板の眼前へたどり着き、整備班枠の中に自分の名を見出す。マリノは愕然として掲示板にかじりついた。

「嘘でしょーっ!」

 陸戦訓練で優等を取りながらも整備科を選んだのは、いずれは自分も操縦資格を取得するためだ。モック‐アルベジオという辺境の基地勤務はその目的を達するために好都合だったし、その目的を達するまでは、前線に向かうことはできるだけ避けなければならなかった。


 それなのに!――悄然として、マリノは視線を落とした。その視線を落としたパイロット枠の隅に、一人の名を認めて絶句した。

「カズマ!?」

 つぶらな、茶色い瞳が大きく見開かれた。




「103号、釈放だ」

 憲兵からそう言われたとき、カズマは営倉の一室で熟睡していた。追い立てられるように寝ぼけ眼のまま部屋から出ると、カズマは憲兵に聞いた。

「おれ、除隊なのかな? それとも刑務所?」

「さあね」

 カズマの寝ぼけ顔に、憲兵は呆れ顔で言った。

「あんなに良く寝る囚人なんて、お前が初めてだよ」

 確かに、寝るか、食うかしか営倉での記憶は無い。

 憲兵に囲まれて営倉の入り口を跨ぐと、暖かい南風を胸に受けながらカズマは深呼吸をした。新鮮な空気が体中に浸透するかのようにカズマの肺を満たし、全ての憂いを流し去っていくかのようであった。シャツとズボンだけの簡素な服装が、見る者に眼を見張るような新鮮さをカズマに与えていた。

「迎えが来るから、ここで待て」

 それだけ言って、憲兵は去って行った。


 ――また一人ぼっちかよ。


 営倉の入り口に通ずる階段に、カズマは座り込んだ。営倉の入り口から外は殺風景なコンクリートの広場になっていて、車の乗り入れも出来るようになっている。カズマは思った。誰が来ようと、もう驚くことは無いだろう、と。カズマの想像を超える出来事が、この世界にはあまりにも多過ぎる。今更ながら、一生分の驚きを使い果たしたような気がした。


 ふと、左手に巻かれた「蒼い腕環」をじっと見つめた。空の全てを封じ込めたような蒼さで、宝石の輝きはカズマを見返していた。カズマはこの腕環を信じていた。この腕環をお守りと信じる限り、自分は全ての困難を乗り越えられるはずだった。


 ま、なるようになるさ……


 前方に人の気配を感じた。頭を上げると、肩を怒らせたマリノがこちらを睨みつけていた。お迎えって、こいつのことか――呆然とし、そしてカズマは苦笑する。

「カズマァー!!」

 マリノの怒声が、広場一帯に響き渡った。ズカズカと早足で歩み寄ると、拳骨の痛烈な一撃をカズマの頭上に振り下ろした。

「痛ってぇーっ!!」

 眼から火花が出るような痛さに、カズマは思わず頭を抑えて蹲った。カズマの襟元を両腕で掴み挙げ、自分の目線にまで持ち上げると、カズマの両足が余裕で地面から浮いた。

「この疫病神っ!……あんたのせいであたしは戦場に送られることになったんだからね!」

「ハァ?」

「ハァじゃない! あんたがここに来なけりゃあたしはずっと後方で勉強してられたのに! あんたが飛行隊に行くことになったから全部ぶち壊しじゃない!」

「飛行隊? 何の事?」

「あんたは飛行隊に配属されることになったのよ! あんたは実戦部隊に行くの! ハンティントンの!」

 おれが……実戦部隊!? 空母に乗る?――マリノの豪腕の中で、カズマは自分のあずかり知らぬところで自分の運命が決められたことを自覚する。そこに新たな人影が現れ――


「――よぉお二人さん。お熱いねえ」

「…………!?」

 突然の声に、マリノは思わず手を離した。

 バートランドが、渋い笑みを浮かべてこちらを見ていた。カズマとバートランドの目が合い、バートランドの笑った眼を、カズマは一転し険しさに満ちた眼で睨み返す。

「なんて眼をしてやがるボーズ。別にお前さんをとって食うわけじゃないぞ」

 カズマの方へ歩み寄ると、バートランドは言った。

「ボーズ、俺がお前さんを預かることになった。187飛行隊隊長のバートランドだ。よろしくな」

「しかし自分は……」

 カズマが抗弁しようとするのを、バートランドはさえぎるように言った。

「残念だが、お前さんの志望を叶えることは出来ん。お前さんはフェリー飛行より戦闘に向いているようだからな。あきらめろ」

「え……?」

 驚いてマリノはカズマを見返した。こいつが、戦闘機乗り?

「自分は……戦いたくありません」

 カズマは沈んだ口調で言った。ふてくされた少年の姿がカズマのそれに重なった。途端に、バートランドの手がカズマの襟に伸びた。その勢いの凄さに、マリノは思わず引いた。

「甘ったれるな小僧。じゃあ刑務所にぶち込むだけだ。官給品横領と偽証罪でな」

「――――!?」」

「弾を撃っただろう? 敢えて何のために撃ったかは聞かん。だがあれも政府の所有物だ。官給品といって軍が国民の税金で買ってくるんだ。立派な偽証罪だよな?」

 バートランドが言っていることが、とんでもない言いがかりであることぐらい、マリノにもわかった。だが、何故彼がそこまでカズマに執着するのか、それが彼女にはわからなかった。唖然とするマリノの眼前でカズマの襟を掴んだまま、バートランドが彼の耳元で何か囁いた。しばらくその状態が続いた直後にカズマから手を離して、バートランドは続けた。


「――というわけだボーズ。お前さんにはハンティントンに乗ってもらう。俺と、このマディステール少尉と一緒にな」

 カズマは呆然と立ち尽くした。そのとき、重層的な轟音とともに、三人の頭上を強大な影が包んだ。

 空を仰いだバートランドが、カズマに言った。

「ボーズ、あれがハンティントンだ。当分お前さんと俺たちの家になる。そしてあいつで、レムリアンと戦うことになる」

 複数の砲塔と無軌道に林立するアンテナや電線に彩られた、巨塔を横に倒したような船体は下から見ればとてつもなく威圧的に見えた。姿勢維持のため、魚の鰭のような巨大な昇降舵や方向舵がゆっくりと動く様は、見る者にとって驚異的ですらあった。艦橋部(アイランド)の半分以上を占める、巨大なHの字を描いた煙突からは濛々と直結するフラゴノウム反応炉が吐き出す蒸気が立ち込めていた。公試運転を開始したのだろう。巨大な、複数の推進プロペラが織り成す気流の乱れがマリノのスカートと髪の毛を巻き上げた。気流に軍帽を取られないように頭を庇いながら、バートランドは二人についてくるよう促した。カズマは悄然として、彼の後を追うしかない。


 彼のさらに後を追い、追い付きつつ、マリノがカズマに囁いた。

「ねぇ、少佐はさっき何て言ったのよ?」

「え……?」

「だから、さっき耳元で何か言ったじゃない?」

「ああ、あれね……」

 カズマは目を逸らすようにした。

『――タマゴにガン‐カメラが付いていたのを知らなかったようだな。おかげでいい教材ができたぜ。あんがとよ――それにお前さんはレムリアンをもう五機も撃墜(おと)したんだ。悪い様にはしないさ』

 バートランドの言葉が、カズマの心の中でいつまでも反響していた。自ずと湧く新たな感情に、カズマは背筋を震わせる。


 ――また、戦うしかないな。


 ハンティントンの巨体が通り過ぎようとしている空を、カズマは仰ぐ。

 その眼差しの遥か先に広がる碧の大地は、この世界でもやはり戦場。

 その蒼穹のかなたへ、自分は再び戻っていく。また戦うために――

 これも「蒼い腕環」の導くところなのだろうか?

 そして、その導く先に何が――待っているのだろうか?



 その「何か」を見たいと、カズマは思う。たとえその「何か」が、自分の死と共に顕れるとしても――


 ――カズマの周りを一陣の風が巡り、蒼穹のかなたへと還ってゆく。





――――――第一部 終――――――



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ