第十二章 「遭遇 そして……」
夜が更けてもなお、サン‐ベルナジオス造船所は異様な熱気に包まれている。
保安体制上の最高レベルを示す「第四警戒態勢」下に置かれた第五|船渠
《ドッグ》では、油まみれの工員の代わりに完全武装の憲兵が作業場の各階層を行きかい、ドッグ間及び作業管制区画を結ぶ道路では建造資材を積んだトラックの変わりに人員を満載した軍用トラック、対空機関銃を積んだ軍用軽自動車が我が物顔に通過していた。夜空、それも彼方を伺えぬ程の雲に閉ざされた上空を照らすサーチライトがか細い手を伸ばしている様子が、言いようの無い虚しさを空を仰ぐ者に感じさせた。本来ならば定例の夜勤に取り掛かっているはずの工員はすでに家へ帰され、円滑な作業の進行を促すべく管制室の運用と後方との折衝を行う後方勤務要員でごった返している作業管制区画の事務室には、軍との連絡係として数名の造船所職員が残っているに過ぎない。
第五ドッグの主―――就工を終え、現在急ピッチで艤装作業の段階にある空母「ハンティントン」は、外の様子など、そしてこれからわが身に降りかかるかもしれない危険など我関せずとばかりに、自らの巨大な揺り籠の中で漫然と惰眠を貪っているかのように見える。その隣のドッグでは前線から回航されてきたばかりの駆逐艦が二隻、傷付いた艦体を横たえて再起の時を待っている。これらの艦から対空装備を取り外し、応急的に造船所の防衛に充てようという意見まで出ているのが現状であった。
サン‐ベルナジオス造船所は敵に狙われている――誰もがそう思っていた。この方面に散発的に侵入してきたレムリア軍が、まだ稼動状態に無いハンティントンの居所を突き止め、彼女に攻撃をかけてくることは十分に予測され得ることであった。
作業管制室へ続く、煤けた白熱灯の吊るされた廊下を、アベル‐F‐ラム中佐は歩いていた。途中ですれ違った数名のMPの敬礼に慌てて応え、シンナーの臭いが仄かに漂う、薄汚れたタラップを上ると、その突き当りに立て付けの悪いドアが目に入る。そこが作業管制室の入り口である。始めはノックに続いてやや遠慮がちにドアを開き、そして大きく引き開けた先、だだっ広い室内では手持ちぶたさの職員がコーヒーを片手に談笑していた。
「艦長、コーヒー飲みませんか?」
ラムの姿を認めた製図室主任のステアが、コーヒーの入ったケトルを見せびらかすようにした。
「紅茶がいいな、コーヒーはもう飽きた」
「紅茶はさっき切らしちまいましたよ」
それに反応する素振りを見せずに (というより混ぜ返す根気などとっくに失せていたと言った方が正しい)、ラム中佐は第五ドッグ全体を見渡すテラス状の管制区画の窓へ歩み寄った。鉄骨むき出しの、巨大なバスタブのようなドッグの底から発せられた巨大な電灯に照らされながら巨体を横たえているハンティントンの、要所々々に武装した兵士が立っている様子が、ラムには頼もしさというより微笑ましい何かを感じさせた。
「まるで……おもちゃの兵隊だな」
「中佐はどういうご用件で?」
聞いたのは、経理主任のコルトンである。
「なあに、眠れなかっただけさ」
「やはり不安ですか……」ステアが言った。
「ああ……」
自然に伸びた手が顎を撫でた。お世辞にも格好がいいとは言えないハンティントンの肢体を見る眼が知らず知らずのうちに細まっていた。巨大な芋虫を思わせる船腹の所々に覆いがしてあるのは、まだ艤装が完了していないことを見る者に示していた。こいつを眺める度に、自分が与る全てを目の中に入れて置きたくて自然と背が伸びてしまう。
……そう、こいつは鋼鉄製の巨大な芋虫だ。そして自分はいずれこいつの将来に責任を持たなければならない身になるのだ。船長としてではなく、艦長として。
「……こうして眺めてみると、結構いい女だな」
「俺もそいつに女房を連想しましたよ。ブクブクのね」コルトンが言った。周囲の職員がつられたようにどっと笑った。ラム本人といえば、別れたかつての妻を思い出し、端正な顔をやや曇らせるのだった。
女房……妻――もともと上昇志向の強いキャリアウーマンだった妻が、離婚後ラジアネス特別区の大統領府に次席補佐官として入ったということを、ラムは風の便りに聞いている。逼迫する戦況に振り回される自分たちと同じように彼女もまた、内政面であれこれと苦慮を重ねているのだろうか?
夜――全てが闇の中で過ぎるようになって、気の遠くなるような時間が過ぎてもなお、羽虫の群がる白熱灯の下で男達の深刻な会話が続いている。
「――いま一度手順を確認する」
リッチー‐スヴェージの会話の輪の中心には地図が広げられていた。入手したばかりのモック‐アルベジオ艦隊航空基地及び軍港の全容図。その中で航空基地に近い一角を指差し、スヴェージの言葉が続く。
「――正面入り口はウォーバン、お前に一二人を任せる。但し突入しようなどと思うな。哨処を燃やすぐらいで丁度いい。これでだいぶ引き付けられる筈だ」
ウォーバンと呼ばれた影が頷く。スヴェージの指が地図上を廻り、新たな地点で止まった。
「――西口はレノ、八人を率いて行け。補給車両の通過時間帯に合わせて待ち伏せ、これを襲撃するのだ。西口前の交通を遮断し基地内の警備兵力を引き摺り出すのがお前の役目だ。それが終われば迅速に離脱しろ。いいな?」
「……わかった」
レノと呼ばれた人影が応じた。表情は平静を装ってはいるが、脂汗として滲みでる緊張はさすがに拭えない様子だった。
「ベノワ……街の準備はどうだ?」
地図から指を離し、スヴェージは卓上の一隅に向かい顔を上げる。ベノワと言われたハンチングキャップの男が、俯き加減に声を漏らした。
「場所の目星はだいたい付いた。あとは実行するだけだ。これが終わり次第始める」
「よし……頼んだぞ」
スヴェージの口元が笑いに引き攣った。精神の平衡を失い掛けた、狂気の地平へと向かう男の笑み――
「背徳の街を焼き払うのだ。我々が地上に在った最後の記憶とともに――」
「…………」
地下室の隅に在って、エゼル‐エールラーは地上人どもの談合を見守っていた。否、見守るというよりもそれは単なる傍観であるのに近かった。下界の人間どもが深刻に、あるいは熱っぽく密談を交わしたところで、それが神を殺す算段であろう筈がない……そういう意味での、全くの無関心に基づく傍観である――地上に君臨する神の立場からの傍観。
マックス‐クレアという仮の名前と、彼の有する政府軍少佐という肩書は、今のところ計画を遂行するに当たり有効に機能しているように思われる。でなければモック‐アルベジオの管理事務所に出入りし、堂々と敷地内の見取り図を持ち出すという芸当など出来なかったはずである。それでも見取り図は、地上人どもにとっては過分なまでに明るい道標だ。我らレムリア人の導きの灯たる見取り図。協力者はそれに従って行くべき途を進めばよいのだ――喩えその先に、レムリア新市民としての輝かしい未来が待っているわけではないとしても。だいいち地上世界の落伍者たるこいつらに、択ばれしレムリアの民たるを名乗る資格があるだろうか? 彼らは自分たちが才幹に溢れているが故に世に嫉まれ、その結果地上と決別するを願うに至ったと言っているが、空を越えた先に広がるレムリア人の世界には、自分たちの安住の地があると無条件で思っているらしい……全く、笑止なことだ。
精々上手く踊ってくれよ――心中で囁き、エールラーは笑った。
お前たちは前座、その夜限りの前座だ。前座とは、主演が舞台に登場するまで観客に気を持たせるためにあるのだから……
「――ホラ起きろ。起きろっての」
畳み掛けるような、聞き覚えのある声がする。耳に走る激痛。乳白色のまどろみの、豊かな胸からカズマを引き離したのはまた別の豊かな胸の持主、マリノ‐カート‐マディステールの声と耳を引っ張る豪腕だった。
「痛ッ、痛いって……」
ブラインド越しに刺し込む、まだ早朝特有の赤みを含んだ日差しに抗うように、うつ伏せの状態からカズマは眼を開けた。病室のベッドの白いシーツと、分厚い、無造作に開かれたままのジーファイターの操縦教本が、待ち構えていた様にカズマの視界に広がる。
そうか……カズマは気付いた。自分は昨夜、教本を開いたまま寝こんでしまっていたのだ。しおれた柳のように半身を起こしたカズマの、焦点の定まらない眼の先に、例のごとく無感動なマリノの顔が広がっていた。耳を掴んでいた指が、とっさに頬へと伸び、新たな痛みがカズマを襲った。
「コラ、お前は教官に対してオハヨウゴザイマスが言えないのか? 言ってみろ」
「ウウッ……お早う御座います。教官殿」
「殿は付けるなっつったろ……って、あんた!」
あわててマリノは枕元の教本に手を伸ばした。ジーファイターの教本の、開かれっぱなしのページの一隅が、寝よだれで湿っぽい池を作っていた。マリノは眼を剥いてカズマを怒鳴りつけた。
「このバカっ、何汚してんのよ! アーア、これ高いのよ。あんたの安月給じゃ買えないんだから……てゆうか第三級軍事機密資料だし……!」
「え……そうなの?」
俯いた姿勢で眼をこすりながら、カズマは言った。マリノの両手がカズマの両の頬に伸びてつね上げる、マリノは端正な顔をカズマの汚い顔を圧迫するように近づけた。
「教官殿……痛い……!」
「あんたね、これは本来は部外秘の公文書なの! これを持って来るのにどれほど苦労したか判ってんの? 始末書書かされるのあたしなんだからね!」
女性の匂いがカズマの鼻腔を擽る。こういう化物のような女でも、一丁前に女の匂いを発するのかと内心で驚嘆する。昨日の検定飛行の際、マリノに組み付かれたときの光景が、明確な輪郭を伴ってカズマの脳裏に浮かんでくる。
「…………」
それを振り払うかのように、カズマはマリノから目を逸らす。別に意識してやったことではない。
「汚ったなー、全くもう……何てことしてくれんのようっ……!」
苦々しげに顔を歪めながら、マリノはひったくるようにしてカズマから教本を取り上げた。
「……んで、今日は何の用でありますか。教官殿? むにゃ……」
「殿は付けなくていいっつってんだろ!」
ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げると、押し殺すような口調でマリノは言った。
「退院の許可が出たわよ」
「えっ、本当?」
「がっかりした?」
「いや、別に」
マリノはむっとした。面白みの無い奴、とでも思ったのかもしれない。そして続けた。
「三時間後に飛行装具を着用し、中央飛行場に待機。これが何を意味するかわかる?」
「乗せてくれるのか? 戦闘機に」
カズマの目つきが変わった。眠気に澱んだ、生気に乏しい眼が、一気に日頃の快活な少年、いや、一端の飛行気乗りの眼になった。
「そーゆーこと、でも勘違いしないでね。正規のパイロット扱いじゃないんだからね。ちょっとでも変な飛び方したら……これだから」
マリノは人差し指で首を切る素振りをして見せた。
「あんたがそうさせるんだろ? 昨日みたいに」
「かーっ、可愛くねーっ、どんな教育受けたらそんなんなるわけ?」
「それはこっちの台詞だろ」と言いたいのをこらえてカズマは作業服の入った簡易クローゼットを弄り始めた。退院するからには準備が要る。それに、隣室のスワノット中尉にも退院の挨拶をしないと……だが、目的が出来るというのはいいことだ。それが飛行に関わる事柄ならば特にそうだ。
――三時間後、例の如く簡易な飛行軍装に身を包んだカズマは、「ウォッチタワー」こと第三管制塔の真下にじっと立ち尽くしている。
「ウォッチタワー」の頂上から臨む一帯――つまり、カズマの眼前に広がる一帯が、モック‐アルベジオ基地の主滑走路と各種支援施設を構成している。格納庫、補助管制室、|集会室《ブリーフィング‐ルーム》……そして今日になって新設された対空陣地……早朝に拘らずそれら諸施設に携わる人々の織り成す喧騒が、独特の熱気となってカズマの心に吹き込んでくるようだった。
スワノット中尉への挨拶は、果たせなかった。まだ早朝であり、彼自身がぐっすり眠っていたこともあったが、看病疲れか彼の傍らに寄り添うようにして眠っている彼の新妻の、まだ少女の面影を残す寝顔を目にしたとき、その意思は完全に失せた。結局、看護士に言伝を頼むのが精一杯だった。
航空装具の格納庫に隣接する更衣室で装具の着用を済ませると、カズマはマリノの運転する軍用地上車で送られた。クッションの無い、実用性むき出しの座席にお決まりの様に交通路を揺られる。断続的に腰と背中を直撃する嫌がらせのように荒い運転が五分ほど続いた後、
「あんたみたいな奴が戦闘機に乗るなんて世も末だと思うけど、ま、せいぜい頑張ることね。あたしは訓練があるから」
と言い捨てて去っていった。要するに置いてきぼりにされたのだ。不条理な境遇とも言えるが、自分がこの基地で最後に為すべきことを考えれば、今のところは全ては順調に進んでいるともとれる。
特徴のある重々しいエンジン音が、複葉戦闘機の形を伴ってカズマの前方を滑走する。黒煙をはきながらの滑走が次第に速くなり、幅の広い主翼がずんぐりとした胴体を青みがかった空に浮遊させた。最初に見えたのは一機だけだったが、その後すぐに二機だとわかった。列機が見えなかったのは、眼前の機体にそれが隠れていたからだ。ウレスティアン‐タマゴ戦闘機だとわかった。この基地に来たとき初めて目にした飛行機がそれだったし、今でもこの基地ではどんな飛行機よりも眼にする頻度が高い。紫電改や零戦とは比べるべくもない旧型の複葉機。それでも自然と胸の鼓動が高まるのを覚える。遠ざかりゆく二機を雲の彼方まで見送るうち、胸中に混在する緊張と興奮が頬を熱くする。そういえば、初めて零戦の操縦桿を握ったときもこういう感じだったっけ……
「よう! ボーズ。朝飯はちゃんと食ったか?」
感慨を破ったのは、パイロットを満載したカートから呼びかけるバートランドの言葉だった。
カートを止めさせると、バートランドは逆手に手招きした。カズマが腰下の落下傘を気にしながらカートに駆け寄ると、一人の士官が手を伸ばしてカズマが乗り込むのを手伝った。席に座ると、カートは再び動き出した。その先には、先程のウレスティアン‐タマゴの列線。
「あいつでジーファイターを取りに行くんだ」
列線を指差して、一人のパイロットが教えてくれた。カズマと同じく民間から徴用されたパイロットの一人だった。周りを見れば、軍のパイロットに混じって昨日の飛行検定のときに見た顔が二人ほどいた。彼らもまた、バートランドたちに付いて空を飛ぶのだろうか……とカズマは考える。
「かわいい飛行機ですね」とカズマが言うと、一同はどっと笑った。
「あいつにそんな言い方をしたのはお前が初めてだ」誰かが言った。
「フラップは、付いてませんよね?」
「ああ、そんな贅沢なもんは付いてない。引き込み脚は付いてるがね。だが安心しろ、ブレーキぐらいは付いてるぞ」
「それは良かった」
「あいつは中古品だが、だからといって壊すんじゃないぞ。払い下げ対象は確実だからな。坊や」
と言ったのはコルテ少尉だ。彼の顔は見たことがある。先日の検定飛行の際、教官たちの中に在って訓練兵をからかっていた若者だ。事実、彼はこの基地の現役パイロット中の最年少だったが、実は彼の年齢はカズマのそれと大して変わらないということを二人とも知らない。というのはカズマのあまりにも少年っぽい面影が、周囲のパイロットたちの間に一種の「誤認」を起こさせたのである。その一方で、バートランドは個人資料からカズマの実年齢を知っていたから、二人の遣り取りを前に内心でほくそえんでいた。
整備兵曹の運転するカートが、ちょうど上手い具合にタマゴの列線の前で止まると、それを合図にパイロット達は一斉に降りて列線の前で並んだ。カズマも遅れじと彼らに続く。
「新入り、お前達は列外だ」
キニー大尉の一声で、カズマを含む三人が列外に出された。大尉は、バートランドに続いて列の前へ出た。総勢11名。これで今から空を飛ぶのならかなりの仕事になる。
キニー大尉が言った。
「気を付けっ!」
号令一下、列内に一気に緊張が走るのをカズマは見た。チャートを脇に抱えたバートランドが進み出、言った。「楽にしろお前ら」
緊張が解かれるのを確認すると、彼は続けた。
「これより我々は新型機を受領に向かう。お前ら喜べ、要するに敵さんが来てくれたからこそ新型機の配備が早まったということだ。レムリアンに感謝しなくてはな」
苦笑するもの、どっと笑うもの……反応はそれぞれだ。
「感謝の印に、ジーファイターを受領した暁には大いに連中を歓迎してやろうじゃないか。二度と連中のお国に帰る気を起こさせることのないぐらいにな」
バートランドが目配せし、キニーが解散を命じる。飛行計画の方は彼らだけ事前に打ち合わせをしていたのかもしれない。それでも先に正規のパイロットを解散させると、バートランドは四人の前に進み出た。
「君達はまだ民間人扱いだ。最後にもう一度意思を確認しておくが、我々と一緒に飛ぶかね? 無理強いはしない」
「はい! 共に行きます!」
三人が一斉に言った。三人の顔を一回見渡すと、彼は続けた
「よろしい。我々の目的地はロドネル艦隊航空機工廠だ。そこでジーファイターを受領し次第。すぐにモック‐アルベジオへ帰還する。我々の指示通りに飛べ。万が一のことを考え機銃には実弾を装填しある。だが君達は民間人だ。戦闘機乗りではない。敵に遭遇しても決して変な気を起こすなよ。ま、起こさないとは思うが」
「…………」
バートランドはカズマを見据えた。カズマの内面の何かを探り出そうとしているかのように、バートランドはその鷲のような目を細めた。しばらく二人の視線が繋がった状態が続いた後、彼は続けた。
「今からチャートを支給する。安心しろ、そんなに遠くは無いし地上の目印が見えない高度までは上がらない。ピクニックにでも行くと思えばいい。官費でな。だが、残念ながら君らには飛行手当ては付かない。公務災害補償金は出るが……」
最後の方はバートランドらしいジョークだった。キニー大尉が三人に直接チャートを配り出した。
「キニー大尉が君達を誘導する。では、解散!」
搭乗を待ち兼ねているのか、軽快なエンジン音が協奏曲のように周囲を圧している。列線に駆け寄ってタマゴ戦闘機の操縦席に身を滑らせる。タマゴの操縦席は小柄なカズマから見ても狭く感じられた。さらには実戦機でありながら、計器盤に填められた計器類の数は先日登場したCAウイングよりも少なく、周囲に配されたレバー類の数も必要最低限のものしか見出すことができない。それ故に操縦操作も簡易なることを予想させ、ニーパッドに張り付けたマニュアルに目を通す内、胸中に余裕が頭を擡げて来る。整備員がバンドを締めるのを手伝った後、機体の特性、機銃の操作法を一通り教えてくれた。機銃については「まあ、使うことは無いだろうけど」と彼は言っていたが……別の整備員が地上から手を上げてカズマに始動準備を促した。外部からの始動という、まどろっこしい手順はラジアネス軍という組織には存在しない。それがカズマには有難い。但しバッテリー容量の問題から三度始動に失敗すればお仕舞い、と釘を刺されてはいるが……
コックを捻り、燃料タンクを翼内に選択する。
燃料が流れ出したのを燃料計で確認し、スロットルレバーを「始動」の位置に押し上げる。
操縦席のすぐ外に在って一連の操作を見届けた整備員がタマゴから降りた。始動を許可する合図だ。
全閉状態の潤滑油冷却器のシャッターを半分開き、トグル型スイッチを動かしスターターモーターを起動させる。
プロペラがゆっくりとではあるが回り始める。その間、バッテリー電圧計の数値が安定したところを見計らい、レバーを引きスターターモーターとエンジンを繋ぐ。
プラグから燃料に点火――黒煙を噴き出し、プロペラが勢いを付けて回転を刻み始める。油温に問題は無かった。
未だ一定しないエンジン回転計の数値に目を転じ、暖気に必要な回転数に達するまでを待ちつつ無線機のコードを繋ぎ、無線スイッチを入れる。一瞬の空電を置いて管制塔と他の機とのやり取りが聞こえてきた。第一陣の四機がすでに滑走を始めているのがむき出しの操縦席から見えた。教導機を示す胴体に巻かれた赤い帯から、先頭を行くのがバートランド少佐であることがわかった。
その反面、一、二機のタマゴが、回転を止めたエンジンから白煙を発するのが見える。暖気運転までの途上に必要な操作を忘れたのか、あるいは故意に手順を飛ばすという横着をやらかしたのか――その間も、離陸の時は近付いていた。
回転計の数値が安定し、カズマはスロットルを一段先、暖気の位置に押し上げて止めた。不安定なエンジンの振動が、断続的な律動に転じるのに若干の間が必要だった。以前の世界では発進に専用の始動機を使わなければならなかったカズマにとって、ボタンひとつでエンジンが動くというのはある意味感動的な光景だ。紫電改にもまた、このような改造が施されているのだろうか?
整備員が列線上の全ての機体から車止めを取っ払っていく。エンジン回転数を最小に保ち、ブレーキを踏みながら離陸の許可が出るのを待つ。操縦桿を弄び、舵の反応を確かめながら、カズマはじっと離陸のときを待った。操縦桿の手応えは、悪いものでは無かった。
管制塔から青い信号弾が昇る。第二小隊の三機が、ゆっくりと滑走路に通じる走路を滑り出した。オービルマン大尉の率いる小隊だ。続けて黄色い信号弾が昇れば、カズマの属する第三小隊にお鉢が廻って来る。
『――第三小隊各機へ、応答しろ』
『――ハックス少尉、感明よし』
「ツルギ訓練兵、感明良好」
『――ようしツルギ訓練兵、離陸時は脚を上げるのを忘れるなよ』
「…………?」
『――どうした坊や、返事をしろ』
「ツルギ訓練兵、了解」
直後に、小隊を組む二機の間に笑い声が交差する。同僚ではなく「客人」として遇されているかのような、座りの悪い感触を今更のように抱く。先日の芝生ではなく、アスファルト敷きの広範な滑走路の端で三機は停まる。管制塔上の士官が信号銃に再度弾を篭め、銃を天に向けるのをカズマは見た。時間だ。
引鉄が引かれ、黄色い信号弾が上がる――前進の合図。
再度の出撃に備え欺瞞針路を繰返した結果、雲中に入った「ウダ‐Ⅴ」の、船底奥深くまで通じる狭く薄暗い通路をドクテンは歩いていた。乱雑な配線を掻い潜り、隔壁を跨ぎながら歩を進めていくと、やがて眼前に鉄製のドアが立ちはだかってくる。
ドアを軽くごつくと、ドクテンは言った。
「テミル、入るぞ」
ドアを開けると、白布をかけられた死体と、それに向き合うようにして座り込む男の姿が目に入った。若い、おそらくまだ二十歳にもなっていないかもしれない。「エヴェル3」こと、「ウダ‐Ⅴ」偵察飛行隊三番機のペアの偵察員テミル伍長だ。
そして、彼の前方で白布に包まれ横たわっているのが操縦士のデレック軍曹だ。昨日の特殊任務に出撃したが、帰路で敵機の不意の迎撃に遇い自らの体に被弾しながらも必死に機体を操って帰投を果たし、そこで力尽きたのだ。
「……いい付き合いだったんだな」
「はい……親友でした」
「ミスをしたのは貴公じゃない。我々だ。自分を責めるな。でないと、次の任務に響く」
「……判っております」
「判ったら出撃の準備をしろ。20分後にブリーフィングだ」
それだけを言って、部屋を出ようとしたドクテンをテミル伍長は呼び止めた。
「あの、自分は誰と組めば……」
「ヒラン少尉が志願してくれた。デレックには悪いが、羨ましい限りだ。気を落とすなよ」
口元を笑みで歪めて見せ、ドクテンは部屋を出た。
部屋を出て薄暗い通路を少し歩いたところで、セギルタと行き合ってドクテンは反射的に背を伸ばした。セギルタは軽いそぶりでドクテンの動きを制すると、言った。
「どうだ、伍長の様子は?」
「相当沈んでいましたが……いいんですよ、放っておいて」
「冷たいのだな」
「この稼業を選んだ以上、若いうちには誰だって経験するんです。じきに立ち直ります」
「……確かにそうだな」
セギルタは微笑んだ。ポケットから潰れた煙草の袋を取り出すと、一本を銜え、ドクテンにも勧めた。
「遠慮をするな」
「……では、頂きます」
――少し一服したところで、セギルタは言った。
「エールラー少佐から通信が入った。今夜、現地協力者がモック‐アルベジオを襲撃する」
「――!」
驚いて顔を上げるドクテン。それを無視するかのようにセギルタは続けた。
「我々は彼らに呼応し、ドッグの敵空母に攻撃を加えるべく出撃することになる。空母を撃破し、エールラーを回収する……それが我々の最後の任務となるだろう。祖国へ帰れるぞ」
「…………」
「……どうした、何か言いたそうだな。ドクテン」
「いえ……」
「許す、言ってみろ」
「……自分には、最近わからんのであります」
「…………」
セギルタは黙りこくった。その沈黙が、ドクテンに発言を促しているように見える。
「確かに、次の任務で敵の空母は破壊できるでしょう。ですが、その次はどうなります?」
「言いたいことが判らんな」
「奴らは、地上人はまた新しい空母を作るでしょう。どんどん船を、戦闘機を作って我々にぶつけてくるでしょう。そしてまた我々はそいつを撃破する……結局はその繰り返しです。しかし、作っては壊しの繰り返しには限度がある……果たしてわが国はそんな繰り返しに耐えられるのでしょうか?」
「貴公の言っていることは、偉大なる母国レムリアに対する侮辱に値するな」
「…………!?」
「おそらく、現在作戦参謀をやっている私の同期がこれを聞いたらその場で貴公を射殺しているところだ」
「お許しください。少佐。自分はただ……」
「……だが、私は彼女ではない。幸運だったな」そこまで言って、セギルタは笑った。
「それはおそらく貴公だけの考えではない。だが戦争が終わるまでその考えは貴公の心の奥にしまっておけ。その方が賢明だ」
「ハッ!」
「どんなことであれ、終わってしまえば何を言おうが許されるものだ……」
それだけ言うと、ドクテンに背を向け、セギルタは黙ってもと来た路を歩きだした。
「直近の任務に集中する……それが雑念を払う何よりの途だ」
飛行を始めて、すでに一時間近くは経っただろうか……
二番機からはすでに距離を置いていた。飛び上がってからもあれこれと速度や高度の微調整を繰り返すので、秩序だった編隊を組むことなど不可能だった。それにいちいち付き合ってエンジンを弄ってばかりいては貴重な燃料の無駄になる。どちらかといえば貧乏性のカズマに、そんなことなど耐えられないことだったのだ。
すでに高度は三千以上を指している。そろそろ酸素マスクが必要な高度だ。速度計の数値は百八十。零戦や紫電改の高速に慣れたカズマにとっては這うような速度である。ジーファイターだとこれより多少はましになるのだろう。まあ、「遊覧飛行」にはもってこいの速度といったところか……
エンジンに負担をかけない程度に混合気比率調整レバーを極限まで絞りながら、カズマは周囲へ視線を巡らせた。
空に流したように自機に迫っては通り過ぎて行く雲の途切れ途切れに、かなりの距離を置いて二番機が飛んでいる。自機のはるか前方には、小隊長機が熊ん蜂のようにずんぐりとした後姿を見せている。この小隊長機ですら頻繁に速度と高度が変わるので、距離を詰めるのは危険だと判断したが故だった。これがもはや編隊の形を為していないことぐらい、幼稚園児にもわかる。
ふと見ると、二番機のエンジンの一端から白い煙が曳いているのが見える。カズマにはそれが何を意味するかすぐにわかった。混合気が濃すぎるのだ。混合気の調整を忘れているか、あるいは操作が必要という事実すら判っていないのか。単に飛ばすだけならばともかく、混合気比率の調整もろくに出来ないようでは実戦では使えない。エンジンコントロールは軍用機に限らず、操縦の上で基本の「き」ではないか。接敵する前にガス欠で墜落では眼も当てられない。自分がレムリアの戦闘機乗りなら、編隊の後方から接近し、端っこの機から一機ずつ確実に片付けていくだろう……などと、カズマは自身の経験に照らし合わせて考える。それ以前に――
こいつら、本当に軍人か?――カズマは嘆息した。れっきとした正規操縦士が編隊も組めない、おまけに真っ直ぐ飛ばすことすらできないときている。訓練兵を即興で空輸要員に仕立て上げる以前に、彼らの再教育が必要なのではないのか? これでは日本と全く同じだ。まともな搭乗員は開戦から三年も立たないうちにそのほとんどが死んでしまった。残ったのは、やっと離着陸が出来るようになったばかりの、実戦には到底出せないような未熟者ばかり……さらに本来一時しのぎの方策に過ぎなかった特攻が恒常化するに及んではその傾向は急速に進行した。
お偉方の言い分はこうだ――離陸さえ出来れば、後は敵艦に突っ込むだけでよい。特攻に行く者に着陸など必要ない――年端の行かない十七、八歳の少年兵や、自分と年の大して変わらない学窓から徴集された予備学生……そうしたお偉方の無策の犠牲となったのはこうした若者達だった。
『――三小隊各機へ、何をやっている? もう少しこっちに寄れ』
キニー大尉の苛立った声がイヤホンを打った。それは苛々するだろう。ろくに編隊も組めないのだから――
はいはい……今やりますよ――スロットルと混合気比調整レバーを同時に開いて増速する。キニー大尉の機は自分たちに合わせて速度を抑えてくれていたらしく。たちまち追いついた。ちょうどいい具合に長機、二番機用の間隔を残しキニー大尉機のやや後ろ下にぴったりと付く。
『――へぇ、訓練兵か? 上手いもんだな』
その直後に強風がタマゴを揺らした。反射的にフットバーをずらして対応する。斜め前の位置に入りかけていた二番機が途端にバランスを崩して高度を急激に下げた。二番機の追突を恐れ、長機がいきなり反転して離れていくのが見えた。急接近と強風に驚き、思わず舵を切ったのだろう。そこに負の加速が掛かりエンジン停止。再始動をしている間にさらに高度が下がる――その様を見守るキニー大尉が舌打ちする音が、イヤホンを通じて聞こえてきた。
カズマはきちんと現位置を保っている。前方のキニー大尉が、むき出しのコックピットからこちらを覗きこむようにして振り向いた。
『――いいぞ坊や。その調子で行こう』
大尉が親指を立てているのが見えた。そのとき――
『――地上監視班より報告。エリア25に所属不明機の侵入を確認。二機!』
「…………!」
カズマは後方を振り向いた。後方とは限らない筈が、反射的に目がそちらに行く。何故なら今こそ一番狙い易い瞬間であるのだから――空を成す菫色の一点、それも烈しい陽光の下から現れた機影を、カズマの眼は捉えた。
黒点がきらきらと輝く光点へと変わる。
敵機が後背から急速に上昇し接近してくる。
見慣れない機影がふたつ、それが単葉機の影であることを察した瞬間、キニー大尉は舌打ちした。敵機だ。やつらはまるで、獲物を見出した狩人の様に太陽の下という死角から距離を詰めて来る。遅れて飛んでいる二機が危ないと思ったときには、フットバーを左に蹴っていた。追従しようとする四番機――カズマを、大尉は怒鳴りつけた。
「敵機発見! 六時方向!……坊やは先行しろ! あいつらは本官が何とかする!」
『――しかし……!』
「君がいては足手まといだ! 命令に従え!」
大尉の言うことは正論だ。カズマは唇をかんだ。
ここでは、自分は「民間人」であり「初心者」なのだ。この世界では――
『――敵機発見! 曹長、どうします?』
ドクテンの指示は明確だった。「許可する、全機片付けろ!」
テラ‐イリスは増速した。降下による加速も手伝って機体速度は一気にタマゴの最高速度を上回る。
敵は三機、異常に広すぎる間隔からして編隊を組んでいない。または組めないのか……ドクテンはほくそえんだ。
「スタール!」
ドクテンは僚機の操縦士スタール軍曹を呼んだ。
「敵は三機だ。二分で片付けろ!」
『――承知!』
スタール軍曹の駆るテラ‐イリスの照準器にタマゴの機影が重なる。それは二番機だった。
慌てて旋回を開始する二番機を、キニー大尉は怒鳴りつけた。
「馬鹿! タイミングが早すぎる!」
複葉機だけあってタマゴの旋回半径は小さい。裏を返せば、それだけがタマゴがテラ‐イリスに勝る唯一の性能だった。だが、敵を十分にひきつけて旋回しないとその特性はむしろ逆効果になる。大尉の懸念は、現実のものとなった。
旋回を終えたところを、弾幕に貫かれ瞬時に燃え上がる二番機。外板を引き裂かれ、炎の柱を引きずりながら無残な姿勢で降下していくタマゴには眼もくれず、テラ‐イリスは次なる獲物に突っ込んでいく。別小隊の機だ。
『――助けてくれっ! 誰か!』
悲鳴にも似た声が回線に響いたのと、キニー大尉機とテラ‐イリスの機影が交錯するのと同時だった。垂直旋回でテラ‐イリスの後背に付けると、機首の二丁の機銃をぶっ放した。もとより命中など期待していない。敵の注意を逸らし、「どうしようもない訓練生と新人」に離脱の機会を作ってやるためだ。
ドクテンが、それを見逃すわけが無かった。もちろん彼は長年の経験と勘から、すぐにキニー大尉の意図に気付いた。そして反射的に思った……こいつは手練だ。真っ先に始末すべきやつだ。この目障りな奴を始末すれば、あとは万事上手くいく。ドクテンは勝ちを確信した。
「――――!?」
黄色い礫のような弾幕が上空から降りかかるように襲い、驚愕にドクテンの心臓がジャンプするのと、フットバーを反射的に蹴るのと同時だった。あと少し回避が遅れれば命中していた。
誰だ――!?
「曹長! 地上人の戦闘機が突っ込んできます。」
後席のクーリオ軍曹が叫んだ。
どこの命知らずだ!ドクテンは機体を上昇させた。上昇した姿勢の視界の左端上に、逆落としに突っ込んでくるタマゴが見えた。むき出しの闘志そのままに操縦桿を引きタマゴの後背に付こうとした。両者の翼が交差するその瞬間、戦慄がドクテンを襲った。
手強い!――戦場で感じた初めての感覚だった。
すでに機体はタマゴの背後を追っていた。だが旋回中に弾が当たることなど、まずない。戦慄を振り払うかのように、ドクテンはタマゴを追った。タマゴを左上に見ながら、ドクテンは襲い掛かる加速に必死で耐えた。旋回速度はこちらが上だ。相手のペースに無理に追従せず、速度を利して大回りに追い込んで押さえ込めば勝てる。
『――こちらエヴェル2。敵を始末した』
勝ち誇った声が、ドクテンのイヤホンに伝わってきた。一方でこちらは敵を追い込むには至っていない。だが、じきに終わる。こんなところで焦燥感をあらわにするほど彼は未熟ではないはずだった。
前を飛ぶタマゴとの距離が次第に狭まっていく。それでも次第に敵のペースにはまりつつあることを、ドクテンの意識の及ばない何処かで何者かが警告していた。不快感は旋回を重ねる毎に募り、そこに恐慌と紙一重の焦りが募る。
そろそろ決着を付けねば――距離をとるべく、じわりじわりとスロットルを絞る手に力が入った。照準器に地上人の戦闘機の、ずんぐりとした機影が、明確な輪郭をもって迫ってくる。
今だ!――獲物を追う狩人の気分で、操縦桿の引鉄に指を掛ける。
急上昇――獲物の示した挙動のあまりの急激さに、一瞬追従するのが遅れた……というより未知の相手にそのような余力が残っていた事の方が彼には驚きだった。あの複葉機は、あんな飛び方が出来る飛行機だったか?
さらに追わんとスロットルを開いた。操縦桿を引いた――だが。照準器からその小賢しい獲物の姿が消えていることに、ドクテンは何も無い空に向き合って初めて気付く。
『フェイク――?』
前に出過ぎた!――そう思ったとき。ドクテンは自分が死神の掌中に入ったことを知った。
『曹長!!……後方!』
クーリオ軍曹の絶叫が、彼の最後の記憶だった。
――どれくらい飛んだだろうか。
かなぐり捨てるように酸素マスクを外し、漏れたオイルに塗れた顔を拭うと、キニー大尉は計器類を確認した。破損したエンジンから間断なく噴き出すオイルの黒い滴が風防、さらには操縦者の顔すら醜く彩る。それを止める術を、今のキニー大尉は持っていなかった。
オイル温度上昇、エンジン回転数下降、油圧計は……銃弾の直撃を受け見事なまでにぶっ壊れている。弾があと数センチずれていたら自分が危なかった。
主翼といわず胴体といわず、機体の各所が銃撃で所々が穿たれ、抉れていた。支柱も二本折られている。これでよく飛べるものだ。もう飛べないと判断したからこそ、敵も見逃してくれたのだろう。もしくは離脱命令でも受けたのか――どっちにしても、幸運だったことには変わらない。正面から戦うどころでは無い。追われては回避し、回避しては追われる……ジャック‐“ラムジー”‐キニーにとって、時間にして今に至る僅か五分余りはそのようにして過ぎ去った。自分が操縦している限りでは、どんな敵機がやって来ても負けることは無いという矜持もまた、完膚なきまでに打ち砕かれた。
仲間は?――大尉は周囲を見回した。そこで新たな絶望が頭を擡げるのを彼は自覚する。
二番機、三番機は何処にもいない。結局自分はあの未熟者どもを救えなかったのだと思い至る。何も無い空のかなたに、大尉は負けを悟った。
「こいつはスクラップ確定だな……」
無線機を使おうとして大尉は止めた。機能していれば常に聞こえている低い空電音がさっぱり聞こえていない。要するに先程の空戦でぶっ壊れたのだ。機体の優劣など関係ない、結局自分は最善を尽くせなかった。
「…………」
湿っぽく嘆息して、何気なく横を振り向いたそのとき、大尉は思わず感嘆の声を漏らした。
「坊やじゃないか!」
ツルギ‐カズマの駆るタマゴがそこにいた。彼がさらに驚いたことには、機体は先程空戦があったことなど感じさせないかのように、まっさらの無傷だった。コックピットのカズマがマスクとゴーグルを外したその端正な顔に、静かな笑みを浮かべていた。それが大尉に名状しがたい安心感を与えた。
「無事か?」と大尉は手信号を送った。
「大丈夫」と手信号でカズマ。
死闘からの開放感からか、自ずと大尉の口元から白い歯が覗く。
エンジンの出力低下で失速寸前の機体をあやしながら、大尉がロドネル艦隊航空機工廠の広大な敷地に面した狭い滑走路に無事たどり着く。先着していた同僚が歓声を上げて大尉の機を囲んだ。生還への祝福かと大尉は思ったが、それは違った。
「先を越されたぜ、ジャック」
笑ってキニーの頬を抓り、名前を呼んだのはバートランドである。
「何のことでしょう?」
「ダメですよ大尉。とぼけちゃあ」
コルテ少尉が肩を叩いて言った。
「レムリアン二機撃墜。快挙ですよ?」
大尉は愕然とした。あの連中は墜落したのか?
「状況を教えてくれませんか?」
大尉の様子に、バートランドは怪訝な表情を浮かべたが、言った。
「四分前にここに連絡が入ってなぁ、レムリアンの戦闘機の墜落が確認された。お前の通信が途絶したんで冷や冷やしたが、とにかく生きてて良かった。それに、レムリアンに墜とされた二機とも乗員は脱出して無事だ。今地上部隊のトラックでこっちに向かってる」
「……それは良かった」
胸を撫で下ろすようにして、大尉はカズマの方を見た。大尉を中心にした人の環から一歩距離を置いたところで、彼はそれを見守っていた。大尉と眼が合うと、カズマはあの時と同じく物静かな笑みを見せ、離れて行く。
「――――!」
まさか!――思うのと同時に、キニーの表情から血の気が引く。
「おい坊や! 待てよ!」
彼の声は、人ごみに押されて聞こえなかった。
「――駄目です。応答しません」
「ウダ‐Ⅴ」の通信室。チャンネルを調整し、イヤホンを抑える通信員の表情には焦燥感が漂っている。
「どうします?」
赤いパイロットスーツに身を包んだセギルタは腕を組んだまま、室内の一点を見つめている。威力偵察と陽動を兼ねてドクテンの分隊が出撃し、敵機との交戦中を告げる通信を残してすでに二時間、とうに帰投予定時刻を過ぎている。
『――曹長が殺られた!……信じられない!』
『――我有力な敵機と交戦中……くそッ!……後ろをとられた!』
『――敵機に撃たれている!……レンドが殺られた!……エンジンに被――』
通信の途絶する間際に、分隊の二番機セギル軍曹の発した通信は信じられないほど不可解なものだった。その軍曹ですら、戦闘の始めの段階では二機撃墜の勝利に酔っていたのだ。いったい何が起こったのだ? 有力な敵機とは我々の知らない敵の新型戦闘機のことか? それとも敵に相当な使い手がいるということなのか?
ドクテンは撃墜されたのか? いや、あのドクテンに限ってそのようなことは無い。無い筈だ。何が起こった?
セギルタは無言で押し黙った。薄暗い通信室に備えられたわずかばかりの電灯に照らされた彼女の美貌が、不気味なまでに淡い輝きを放っていた。
「仕方が無い。通信を切れ」
それだけ言い捨てて、セギルタは格納庫へ降りた。まるで部下の死など一片も解さないような、軽い足取りだった。
専用のハンガーで整備、補給を完了したキラ‐ノルズの優美なフォルムが赤い光沢を放ってセギルタの灰色の瞳に飛び込んできた。同じく赤いパイロットスーツに身を包んだヒランが、セギルタの姿を認めて敬礼した。
「ドクテン曹長は……」
不安げな表情でそれだけ言いかけたヒランを遮るようにして、セギルタは言った。
「予定通りに出撃だ。準備はいいか?」
「はい!」
出撃隊の搭乗員が、セギルタの周りに集まってきた。いずれも神妙な表情でセギルタを見つめている。一同を見渡すと、セギルタは微笑みかけた。すでに、普段どおりの彼女の姿に戻っている。
「何を変な顔をしている……大事業に犠牲はつきものではないか」そして、続けた。
「我々は本日1500を期して出撃。目標はサン‐ベルナジオス造船所の第五ドッグだ。造船所の配置図はすでに持っているな」
協力者が目標の位置とともに、造船所の配置図まで電送してくれたのは有難かった。もっとも、その直後挙動不審なところを警備の兵士に見咎められ、逃走を図ったものの、銃撃戦の末死亡したという情報が民間放送局のラジオ放送の傍受によってもたらされたが――
「――我々は尊い犠牲に報いるためにも出撃し、任務を果たさねばならない。いつの日か、この汚れきった地上が我々レムリア人の降臨によって清められるその日まで……!」
セギルタの眼が、きらりと光った。
「総員解散! かかれ!」
出撃隊を配置に付かせた後、セギルタは最先任者の機関長ルヴィ准尉を呼んだ。
「予定時刻までに戻らないときは……わかるな?」
「よろしいのですか? 少佐」
オイルに汚れた顔を不安にぎらつかせながら、准尉は聞いた。セギルタは頷いた。
「帰還できなかったらそれまでのことだ。我々に万が一のことがあった場合にはこの船の皆を連れて帰還せよ。それが貴官の任務だ」
「ハッ……!」
准尉を帰すと、セギルタはキラ‐ノルズを見据えた。この新鋭機と、指揮官としての自分の真価が今問われようとしていることをセギルタは知っていた。地上人の戦闘機など、このキラ‐ノルズの前では物の数ではない。そしてモック‐アルベジオの上空に達した時、この新鋭機が最良の操縦士の手によりもう一機加わるのだ。地上人どもの慌てふためく顔を見てやりたい。
――そう、決着を付ける!
すでに五人の部下を失った。これまで卒無く数々の任務を果たしてきたセギルタにとって、実のところそれは予想外の損害だった。この落とし前は必ずつける!
セギルタの瞳が獣じみた光を湛え、獲物を追う鷹のように険しくなる。




