第十章 「急襲 前篇」
鉱石運搬船「ガムタナ」ことレムリア軍仮装偵察艦「ウダ‐Ⅴ」は、南アルベシオ沖上空を、立ち上る雲を掻き分けるようにして進んでいた。もちろん、この船を運用する人間達の用語で空域を指す「沖」のことではなく、れっきとした海の上空である。
高空より臨む弓なりに曲がった、光り輝く水平線ではっきりと区切られた太陽と海原のコントラストが、今までそんな光景すら想像したことも無い天空世界の住人に特別な感銘を与えて久しい。工作船の搭乗員の中には、そのような素晴らしい「地上世界」の光景を本土の家族に見せたいがため、わざわざ写真機を持ち込んでいる者もいた。太陽を背に進路を取るのは何も乗組員に対する演出ではなく、他の船や航空機にフネの輪郭を悟られないようにするためだ。戦闘機が奇襲のために太陽を背にするのと良く似ている。
「――本艦の推進器回転三分の五。テラ‐イリスのエンジン始動を開始せよ」
セギルタの指示を受け、副官のヒラン少尉が計基盤上の赤いボタンを押した。ボタンは格納庫の搭載機に発進準備を指示するブザーに通じている。ブザー音を合図に、テラ‐イリス複座偵察機のコックピットに陣取る整備員がサイドパネルの一隅、エンジン点火トグルスイッチを捻り、続けてエンジンスピナーの先端に接続されたエンジン始動機がゆっくりと長大な四翅プロペラを回し始める。
回転数が既定の数値に達したところで接断機レバーを引きプロペラシャフトとエンジンを直結する。直後、テラ‐イリスの空冷エンジンが特徴ある目覚めの響きとともに黒煙を吐き出した。黒煙は換気装置により強制的に煙突まで誘導され、船外に吐き出される。従って、普通に航行している限りでは、外見上「ガムタナ」の内部で何が行われているのか察することなどまず不可能に近い。
ヘルメットを被った操縦士が足早に歩み寄る。操縦士は整備員の肩を叩いて交替を促し、整備員はスロットルを暖気の位置にまで押し開きコックピットから身を乗り出して外に出た。パイロットは回転計と電圧計が既定の位置に達するまで計器盤を注視し、コックピットから出た整備員がベルトで座席と操縦士を繋ぐ。あとは折り畳んだままの主翼を展張し、出撃の合図を待つだけだ。
その間も、報告は続く。
「推進器回転五分の二。ここで発進させますか? 艦長」
「いや、もう少し近づく。フラゴノウム反応炉出力三十単位を維持」
「艦長」ヒラン少尉が言った。「それでは急激に高度が下がります。目標に接近し過ぎですが……」
セギルタは微笑んだ。「構わない」
「我々は一蓮托生だ。飛び立っていく同志を是が非でも拾おうとする気概を見せなくてどうする?」
「ハッ……!」
「……それに、地上人共が気づく頃には、我々はずっと遠くにいる」
船橋をヒラン少尉に任せ、セギルタは薄暗い船腹へと続く階段を降りた。格納庫へ入ると、広い主翼を折りたたんだ状態でエンジン始動を終えた4機のテラ‐イリス複座偵察機の、剣のようなプロペラが掻き乱す猛烈な風圧の奔流がたちまちセギルタの肢体を包む。それらに抗うように手すりにもたれかかるうち、着ていたポロシャツがめくり上げられ、たちまち無地の背中が顕わになる。
テラ‐イリスはキラ‐ノルズと同じくレムリアが製作した数多くの試作航空機の一つだ。敵地に侵入し、敵迎撃機との交戦も想定した強行偵察機として設計されている。ただ、純粋に高性能を追求したワンオフ機たるキラ‐ノルズと違い、テラ‐イリスは量産も考慮して設計されているため、前者と違い構造、性能は比較的平凡だ。だが、偵察機でありながら機首二挺、主翼四挺の機銃から成る固有武装は強力で、速度、上昇力ともにラジアネス軍のジーファイターに引けをとらない。
格納庫を見渡すように配された管制室に入り、管制要員から手渡されたヘッドセットを被ると、セギルタは一息ついて言った。
「アスラディからエヴェルへ、感明どうか?」
アスラディとは「ウダ‐Ⅴ」の秘匿コードだ。エヴェルはこれから発進させる偵察隊のコールサインである。
『――エヴェル‐リーダーからアスラディへ、感明良好』
発進する偵察隊のリーダーはドクテン曹長だ。彼とは去年の植民地侵攻作戦以来の付き合いでもある。パイロットとしての技量の高さも折り紙つきだ。
『――こちらエヴェル2、異常なし』
『――こちらエヴェル3、いつでも出れます』
『――こちらエヴェル4、ご命令をどうぞ』
一番機の操縦席に座るドクテン曹長と眼があった。フルフェイスのヘルメットで顔の表情は良くわからなかったが、任務に賭ける決意だけは感じられた。その頼もしさにセギルタは顔を綻ばせた。彼女が親指を突き立てて見せると、彼もコックピットから腕を挙げて親指を突き上げて見せる。
「ハッチを開き、以後は順次発進させろ。後は任せる」
微笑――それだけを言うと、セギルタはヘッドセットを放って管制官に渡し、船橋へとまた来た道を引き返した。
機体がおかしいという感覚は、滑走のときからあった。
滑走時、充て舵を入れようとフットバーを踏んだとき、感じた微かな違和感……長い間飛ぶことから離れていた身体でも、機体の反応を読み取る自信は十分にあった。特にこのような「入門機」程度なら――
『――機体が……左に傾く?』
充て舵を限界まで取っているのにもかかわらず、機首が未だに左を指向し続ける上に、機体が右翼から自然と浮こうとするのだ。その反動として、機首もさらに左に向こうとする。かと言って右に踏むべき舵の余裕は、もう無かった。
補助翼に問題?……そう感じたときには、反射的に操縦桿を右に傾けて修正していた。口で言うとか、頭の中で考えるだけなら簡単な動作だが、初飛行の者なら言うに及ばず、初心者でもこのように行かない。
CAウイングはやや右に機首を向けて走り出した。左に曲がろうとする反動が強く、到底真っ直ぐには飛ばせない。さらに悪いことには、操縦系統は教官の座る前席と連動している。カズマの奇妙な操作に気づいた中尉が言った。
『坊やどうした? どうして右に曲がろうとする』
「すみません教官。いつもの癖です……大丈夫」
内心、カズマは教官の程度の怪しさに驚く。どうやら彼は、カズマの操作を知る立場にありながら、自分の乗り込んでいる飛行機の異状に気付いていないようなのだ。離陸時に、こんなおかしな挙動をする飛行機が何処にあるというのか?
疑念を口に出す代わりに、それを抱く自分を無理に納得させようとカズマは試みる。まあ、こんなのもありなのだろう……という感じに。
「エンジン回転。燃料流入……全て順調」
平静を装った声で報告する。「この程度」の機体の状態なら、彼の技量では別に困ったというわけではない。空中に上がり、十分な速度が出るまで何とか誤魔化すつもりだった。
「あのう教官、トリムを調整しても構いませんか?」
ひょっとすれば、操縦者のクセか何かの原因で、トリム‐タブの調整がカズマに合っていないのかもしれない。
『そこの隅のハンドルだ。トリム調整ハンドルを使え』
教えられるまま、カズマはハンドルに手を延ばした。そこでカズマの表情が凍る――手応えがない。操作索が切れている?
軽金属モノコック構造のCAウイングは軽く、普通ならモック‐アルベシオ基地の滑走路ならば全体の三分の一程度の滑走距離で離陸することが出来る筈である。だが、カズマを戸惑わせる点がここにもあった。機体の反応を確かめるように握った操縦桿を通じ、やけに重たい昇降舵の感触には滑走時から気付いてはいたが、一旦離陸を始めるとそれは顕著になった。上昇しようにも満身の力を篭めて操縦桿を引かねばならないし、降下時に加速がつけば、最悪の場合引き起こしが間に合わずに地上に激突する。
「…………」
半ば焦燥の赴くまま、方向舵トリムタブの調整ハンドルに手が延びる――駄目だ。やはりこちらも手応えが無い。
どうなってるんだ?――それでも加速の付いた「カザリン」は翼に揚力を拾い、地上を蹴って飛び上がった。普通ならありえない緩慢さで。
機体が浮いた瞬間に反射的に舵を左に戻したものの、それでも右方向に飛び出すように上昇した機は、やはり滑走路を大幅に右へはみ出していた。自機が右端で、隣に他の機がいなかったのは不幸中の幸いと言えよう。それでも傍目から見れば何とも覚束ない、フラフラとした離陸に見えたことだろう。自分の離陸ぶりを地上で笑っている連中の顔が眼に浮かぶようだった。
だがもしこれが未熟なパイロットなら――離陸すら出来たかどうか疑わしい。なにしろ操縦桿が重きに過ぎ、フットバーもまた同じ、このままでは反応に操作が追い付かず、下手をすれば離陸するまでも無く地上に叩き付けられていたことすら考えられた。
内心でカズマは驚愕する――トリム‐タブが壊れてる? 久しぶりに操縦桿を握ることができたと思ったらこれか!
『――どうだ? 上手くいきそうか?』インターコム越しに間の抜けた声が聞こえる。カズマはさらに焦る。教官のくせに訓練兵の操作をオーバーライドすらしようとしないのか!?――しかし見方によっては、それは好機であるのかもしれない。今回の飛行に特殊機動は要求されていないのだから、このまま操作を続ければ全ては丸く収まるかもしれないという点に、カズマは賭けた。
「はい……何とか」
『――ウォッチタワーより5号機。針路0-7-5』管制塔の声がした。
「了解」
機首をやや下げ気味に、スロットルは全開のまま――フットバーをじりじりと右に動かす。加速を付け、僅かな舵操作で旋回を終えるための操作だった。不意に、フットバーに力が加わりカズマはかろうじて踏ん張った。カズマの操作を怪訝に思った教官が、舵を修正しようとしたのだ。
「教官、これは自己流ですから安心して下さい。大丈夫。すぐ曲がります」
『――そうか?……パワーダイヴの兆候があったようだが』
「教官、針路0-7-5に固定」
教官の疑念を遮るようにカズマは言った。内心は心穏やかではない。機体の癖かな? それとも整備のミスかな?――実のところ、未だ判断は付きかねていた。指定された針路に転じ、なおも緩降下の姿勢を維持しつつ速度を稼ぐ。操縦桿を僅かに引き、水平飛行に転じる。あとはエンジンの馬力と加速の余力だけで、それまでに失った高度を取り戻してくれる。
『――よーし坊や、上手いぞ。テンポは遅いが今のところはいい。その調子で行こう』
カズマの苦労を知ってか知らずか、能天気なことを中尉は言う。
『――5号機。高度4000まで上昇。以後2分間直線飛行を行え。旋回のタイミングはこちらで指示する』管制塔の声だ。
『――坊や、聞いたとおりだ。他の奴みたいに派手なことをしようとは考えないようにな』
「了解」
腫れ物にでも触るような気持ちで、少し操縦桿を引いた。操作に反応し、機体はゆっくりと上昇していく。かったるいほど緩慢な動作だが、機体のバランス特性上これ以上急激な機動に入るのは正直まずい。それに重い操縦桿では、知らず知らずの内に引き起こしが過ぎるということもある。
『――坊や、遠慮することは無い。もう少し操縦桿を引いていいぞ』
「すみません、慣れないもので……ところで、教官の専修は何ですか?」
さりげなく話題を逸らす。せめて着陸するまで持たせなければ……
『僕か、僕は攻撃機だよ。空母に乗ったことは無いが』
「でも、立派な仕事ですよ」
『ありがとう。坊やも攻撃機に乗るといい。あれは楽だぞ、戦闘機みたいに特殊飛行を勉強しなくてもいいし、それに……』
「それに……?」
『どんな飛行機に乗っていようと、艦隊のパイロットと言えば女の子にもてるからなぁ……』
正直、教官がおとなしい人で助かった。活発な教官なら、口よりも先に手が操縦桿に伸びて文字通り手が着けられないことになっていただろう。
しかし――カズマは思った。
――こんな飛行機に毎回乗せられたら、嫌でも上手くなるな。
「全機順調に飛行中。問題ありません」
練習機用の滑走路に待機していた地上管制要員の報告を、バートランドは無言で聞いていた。
「今度の組はまともみたいだな」
「さっきの組の方が異常だったんですよ」
管制塔と練習機間の通話を雑音交じりに流す無線通信機。それを前にした管制員達の会話を聞きながら、ジャケットから取り出した葉巻を口に銜え、行きつけのバーの名が箱に刻まれたマッチで火をつけ、紫煙を一気に吐き出す。
……さて、どこまで行けるかな。
バートランドの口が微妙に歪んだ。地上と練習機とのやり取りを聞いている間、彼の脳裏には次第に彼自身の訓練生時代の情景が浮かんできた。
――あの頃はどうにか飛び上がるのがやっとの、羽布張りの複葉初級練習機に乗せられ、あの「エルグリム戦争」に参加したこともあるという歴戦の勇者でもある教官に、後席から馬鹿だの糞だの言われ、引っこ抜いた操縦桿で頭を殴られながら飛んだものだ。それも二十年近くも前、まだ艦隊士官学校を出たてで、空に上がったところで右も左もわからない「ヒナ鷲」時代の話だ。
少なくとも、昔の俺らの三分の一ぐらいは苦しんでもらわないとな……
今回の飛行は序の口ですらない。この「儀式」を無事にくぐった暁にはアレディカで死んでいった連中の半分ぐらいは使えるように育て上げてやるつもりだ。あとの半分はどうしろって? 彼らには申し訳ないが自分で身に付けるべきだろう……戦闘を生き抜くことで。
『――ウォッチタワーより5号機へ、右旋回準備』
『――こちら5号機。右旋回準備いつでもどうぞ』
通信機に中継される会話を。マヌエラは黙って聞いていた。記録用紙の挟まったボードを抱える手に知らずの内に力が入っていた。最初のきわどい離陸にはハラハラさせられたが、その後は何の問題も起こしていないところを見ると、彼はどうやらホンモノのようだ。このまま順調に飛べれば今回の検査には間違いなく通過するだろう。
「あの子、大丈夫みたいね。マリノ……」
と言いかけてマヌエラは口をつぐんだ。マリノは無言のまま、無表情を崩さずに空の一点を見つめていた。無表情と沈黙――何かしら困惑したときにマリノがそのような表情をすることを長年の付き合いからマヌエラは知っていた。端正な顔立ちだけに、その無表情が一層マヌエラの疑念を誘った。
「……どうなってんのよ」
マリノの搾り出すように出た呟きは、マヌエラには聞こえなかった。
――編隊がそれぞれの目的地へ散開して、すでに三十分が過ぎている。
自動操縦装置に一切の操作を任せ、肉入りパイとコーヒーの遅い昼食をのどに流し込みながら、テラ-イリス複座偵察機のパイロット、ドクテン曹長は眼下に広がる壮大な層雲の絨毯を眺めていた。
――広大な雲の下に広がるは、我が征くべき母なる地上。
最近前線の兵士達の間で歌われるようになった軍歌の一節が思い出された。この雲の下に、地上人共の住む「母なる地上」があるのだ……そう思うと、柄にもなく何かこみ上げてくるものがある。
――はるかな古代、我々の先祖はこの汚れた地上に別れを告げ、長い航行の末たどりついた「約束の地」レムリアに新たな新天地を築いた。そして長い刻が過ぎ去った現在、その子孫である我々はこの「母なる地上」に再び降り立ち、地上人共の穢れた手から天空世界を守り、未だ混迷と汚濁に身を委ねて安穏としている地上人共を掃滅して「母なる地上」を「清浄化」しなければならないのだ。
それは天空の大神ティルナードのため、我が愛する祖国レムリアのため、そして――
――コックピットの一隅に貼り付けられた写真に、曹長は目を移した。黒地に黄色の徽章をあしらったレムリア国防軍の一種軍装に身を包んだ曹長に寄り添うようにもたれかかるうら若い女性。まだ少女らしいあどけなさをその笑顔に残す彼女のお腹は、眼に見えて膨らんでいた。明るさと気丈さを写真機の前で精一杯主張としようとしているかのように振舞う彼女がいる一方で、似合わない軍服の袖に手を通し、写真に戸惑うように眼を泳がせる自分の姿には、何度見ても苦笑させられる。
出撃する一週間前に、恋人にせがまれて撮影した写真だった。胎内に自分の分身を宿したこの恋人との結婚を、曹長はまだ果たしてない。この任務から無事帰還できればそれをする約束だった……約束を果たすためには、生きて祖国に還らねばならない。何がしかの戦功を上げられれば尚いいだろう。
リーシャ、待っていてくれ――写真の女性を、曹長は撫でるように触った。
『――曹長、まもなくモック‐アルベジオの航空管制網に接触します』
後席偵察士のクーリオ軍曹が言った。次の瞬間、ドクテン曹長はレムリア軍人に戻った。
「了解。自動操縦装置を解除。降下する」
プロペラ‐ヒッチを「巡航」から「戦闘」に転じる。自動操縦装置が解除され、気流に煽られる機を、操縦桿を握りあやす。
燃料混合比を増加した。
スロットルを全開にした。
操縦桿を前に倒した。
急激に層雲が前方に広がっていく。テラ‐イリスは一気に雲の海に突っ込み、包まれた。
腿のニーパッドには、今回の任務の目的地であるモック‐アルベジオ ラジアネス艦隊航空基地及びその周辺の地形図が挟み込まれている。あらかじめ地上に潜伏した協力者の情報収集活動によって作られた精密な地形図だ。滑走路、格納庫等の基地施設はもとより、新設の兵舎や対空陣地に至るまで正確に書き込まれている。
協力者――彼らは地上に縛られることを厭い、レムリアに対する献身の代価として天空に昇る日を夢見る地上人だ。このような協力者はサン‐サウロ市の造船所にも潜んでいて、現在ラジアネス軍が艤装中の新鋭空母の正確な所在が明らかになれば、すぐにでも南アルベジオ空域近辺を遊弋中の工作船に報告する手筈にもなっている。
――そう、その工作船とは、ウダ‐Ⅴのことだ。
そして、今回ドクテン曹長たちに課せられた任務の真意がそこにあった。空母の所在地に程近い基地を襲撃し、基地の航空戦力をウダ‐Ⅴの追跡に振り向かせる。基地部隊には韜晦針路と欺瞞を繰り返すことで応じ、それによって生じるであろう防衛戦力の空白を突き空母を撃つ。基地の戦力が手薄になれば、基地内に潜伏する工作員もキラ‐ノルズの奪回が容易になるだろう……という計算もある。
一気に雲海を突き抜け、山腹を舐めるような超低空飛行でラジアネスの警戒機の眼を晦まさんと飛ぶ。そこに夢にまで見た地上世界の情景を、空の高みから堪能する余裕など、ない――だが、それはずっと後でいくらでも出来ることだ。少なくとも、我がレムリアがいつの日か天空世界に覇を唱え、地上世界を空から支配するその時には――
山地を一気に駆け抜けると、平坦な田園地帯が地平線の向こうまで広がっているのが見えた。ニーボードに挟んだ地図中の目印と田園地帯中の建造物の像が重なる。地図に従い今の針路と速度を維持すれば、後二十分で編隊はラジアネス軍の基地上空に到達する。
「軍曹、航空写真機の準備を開始せよ」
『――了解……天空のいと高きに居ます我らが主よ――』
曹長の詠唱が聞こえる――我らをして悪魔を討たしめ給え。我らをして主の宸襟を安んじ奉る力を与え給え。それを咎める気にはなれなかった。詠唱が終わる間、ドクテンは計器盤とサイドパネルに指を走らせて戦闘に備える。
「機銃安全装置解除。搭載兵装管制装置解除。燃料タンクを主から副に切り替える……軍曹、準備できてるか?」
『――いつでもどうぞ、曹長……』と言いかけて、口をつぐむクーリオ軍曹。
「クーリオ、どうした?」
『十時上方に敵機!』
「――――!?」
確かに、いた。十時方向……自機よりはるか上方だ。日頃から地上人の軍用機のシルエットは何度も頭に叩き込んである。ドクテンはそれが旧型の複葉機であることに一目で気付いた。あいつとはあの栄光の「大祖国空戦」でも、その後に続く植民地解放戦でも戦ったことがある。戦闘機と呼ぶのも気恥かしい、低速で非力な飛行機――気位の高い上位階級出身の戦闘機操縦士の中には、あいつを撃墜スコアのひとつと数えなかった者もいた位に組みし易い相手だったことを、ドクテンは憶えている。
『――曹長、どうします?』
その語感から、軍曹が暗に撃墜を示唆していることぐらい、ドクテンにはわかった。敵機の様子からして連中が自分たちに気付いていないのは明らかだった。もし気付かれたら、通報されるのは明らかだ。
曹長は周りを見回した。そして舌打ちした。はるか前方に幾重もの黒い点が空を蠢いているのが見えた。機影が味方のものではないのは当然、後方基地であることをこれ幸いに、何の警戒もせず訓練か何かでのこのこと空に上がってきたのだろうと察する。
どうするか――そう思ったところで、ドクテンはほくそえんだ。地上人の基地への出撃を志願したのは自分ではないか。むしろこう来なくては。
「軍曹、現針路を維持。このまま突っ切るぞ」
『――曹長! さっきの敵機が接近してきます』
反射的にフットバーを右に踏み、操縦桿を左に倒す。機体を滑らせ、相手の反応を見るべく距離をとるためだ。久しぶりでの敵機撃墜の機会を前にして、ひしひしとアドレナリンが湧き出るのを感じる。同時に後席のクーリオ軍曹が、何やらごそごそとし動いているのを察する。金属の触れ合う物音から偵察用カメラの他、機銃を準備していることぐらいすぐにわかった。
気付かれたか――そう思ったときには、一気にスロットルを閉じ、フットバーを左に戻していた。敵機をやり過ごしその後背を取るつもりが、今度はその敵機が高度を下げ始めたことに気付く。エンジン全開状態での降下。加速して逃げる気かと思う。
再びスロットルを開いたことにより、じわりじわりと距離がつまる。光像式照準器に複葉機の影が入りきるのに時間は掛からない。それぐらいイリスとあの複葉機には抗えぬ性能差がある。
「…………」
光の照準輪に複葉機が重なり、機首から頭一つ上の位置で照星を止める。発射後に後落する機銃弾が機体を直撃し得る角度だ。
一気にスロットルを開き、距離を詰めた。そのとき、後ろを振り向いた練習機の後席パイロットとドクテンの眼があった。
悪く思うな。
操縦桿の引鉄が引かれた。




