第九章 「飛翔」
胸と襟に受ける風が、相変わらず乾いていた。
軍用軽地上車の車上から臨む交通路と練兵場とを隔てるフェンス越しに、体操服姿の訓練兵が並んでいた。壇上に立つ指導教官の導演に従い身体を躍動させる真白い運動服姿の男達。彼らは体操を終えればすぐさま兵営に駆け戻って装具を着用し、今度は野戦服姿で練兵場の訓練コースを這い回ることになるのだろう。
「いい気なもんだね。今日の検査が上手く行けば、後はずっとお空でブラブラしていればいいんだもんね」
アクセルを踏み締めたままの車上からハンドルを握りつつ、マリノは助手席のカズマに言った。
「そうだな」と、フェンスの向こうを無感動に眺めつつカズマも応じる。そんなカズマの態度を見逃さないかのように、マリノは口元を意地悪く歪ませた。
「同情も未練も湧かないんだ? 仮にも同じ釜の飯を食ってる仲間だろうにさ」
「…………」
カズマは無言のまま、通り過ぎようとしている練兵場に眼差しを注ぎ続けた。反論の素振りすら見せない彼の態度が、マリノをしてさらなる口撃を掻き立てる誘因になったのかもしれない。
「そっか……あんた艦隊行くんだっけ……言っとくけど、空兵隊じゃそんなの通らないから」
「ああ、空兵隊は貧乏臭くてちょっとね……」
「アアッ!!? 今何つった!!?」
怒声と共に前のめりに車が止まる。簡易シートから前のめりに跳ね上がるカズマの身体、シートベルトが無ければ今頃車の鼻先まで飛ばされていたところだ。
「危ないなアンタ!」
「…………!」
堪らず声を上げるカズマの眼前で、食いしばった歯を剥き出しにしてマリノは眼を怒らせる。それを目の当たりにして、やはりカズマは思うのだ。この女は、苦手だ――と。
再び走り出した軍用軽地上車は、第二滑走路脇の練習機用格納庫へと走っている。
感情の相克はすでに鳴りを顰め、その後には修復も和解も見出せない静寂が車上で過ぎた。助手席につい数時間前自分に恥を掻かせた男を乗せ、さらにアクセルを踏み込みながら、マリノは考えていた。
初めて顔を合わせたとき、自分より背の高い並みいる問題兵を前に一歩も引かなかったこのチビが、一瞬見せた眼の煌きは異様だった。マリノ自身はそれまでの人生で取り立てて過酷な経験をしたことが無いわけではなかったが、彼の眼の煌きが相当過酷な人生の中で形成されたものであることを彼女は「何となく」の内に感じ取ったのだ。それは、やはり命のやり取りなのだと思った。と同時に彼女が感じたのは戸惑いであった……この「少年」が? このチビが、どのような生き方をしてきたというのか?
その後に訓練兵として採用され、希望ある兵営生活という美名の下、員数合わせのために集められ、次々と課される過酷なしごきに音を上げる大勢の訓練生の中、このチビだけは驚くような適応性を見せた。あたかもこの種の過酷な経験をとっくに何処かでしてきたかのように……教官として多くの訓練兵から一歩引いてものが見える立場から、マリノはカズマの秘める「何か」に、おぼろげながら気付いていた。
そして、今日の格闘戦訓練で見せた度胸と覇気!――マリノの内心は、屈辱に沈むと共に僅かながらの感嘆の思いを芽生えさせていた。ただ、それは今のマリノにとっては受け入れ難いことだ。
何故ならこいつは、只者では無い上に、危険なやつだから――
巧みなハンドル裁きで人影や対向車を避けながらマリノは横目で助手席のカズマを睨みつけるようにした。基地内の諸施設をつなぐ道路の横手には、金網の連なりを挟んですでに広大な滑走路が広がっていた。オープントップの車内を吹き抜ける風を浴びながら、カズマはといえば練習機や輸送機の離発着する様子を飽きずにずっと眺めている。もちろん、マリノの隔意むき出しの視線には気付いていない。
――こんな子供が……!?
マリノの隔意の根底を形成していたのは、つまるところそんな感嘆と衝撃の合わさった思いだったのかもしれない。実はカズマとマリノの年齢差はわずか一歳なのだが、彼女は多くの人間と同じくカズマが与える印象に惑わされていたのだった。
「――――!?」
格納庫から引き出され、蒼空の下で整備を受ける紫電改の機影――交通路を走る途上で、漫然とシートに身を任せていたカズマの眼が、それを捉え得た瞬間に輝きを増した。濃緑の水性塗料は完全に剥げ落ちていたが、それがむしろ山猫を思わせる精悍な機体に迫力としてのアクセントを与えている。交通路の配置から大回りに車は走り、お陰でカズマは整備を受ける紫電改の様子を、我が子のように観察する機会を得ることができた。
「あ……!」
そのカズマの眼前で完全に修復されたキャノピーが開かれ、作業服を着た男がコックピットに身を沈める。その後で、信じられないものをカズマは見た。
『エンジンが……動いた』
エンジンから黒煙を吐き、プロペラの順調な回転を生み出し続ける紫電改の様子に、カズマは思わず息を飲む。地上からの何の支援も無く、コックピットからの操作のみで覚醒したエンジン。エンジンが完全に修復されたのは勿論、始動装置に何らかの改造が施されたのは確かだ。驚愕をその場に置き忘れかねない程の勢いで、カズマは遠ざかる紫電改を凝視し続けた。
舗装の行き届いた交通路を走る車の前方に、一棟の古ぼけた格納庫が見えてきた。その傍らで列線を形成する複葉機の姿が、白銀の色彩を以てカズマの眼前に広がってきた。全面に防腐食用のアルミ塗装を施された上に所属基地を示すレターとナンバーを標された複座の複葉機。座学の時間で学んだCAウイングという、ラジアネス軍の艦上戦闘/攻撃機だとカズマは直感する。零戦や紫電改とも、あのレムリアの前翼機と比べて見ても遥かに見劣りするラジアネス軍の「実戦機」――珍しさ半分、幻滅半分でカズマは列線を凝視し、それらが今日この時、自分たちを乗せる「教材」として使われようとしていることに思い当る。車が止まり、マリノが「降りろ」と言わんばかりに顎をしゃくった。そして格納庫脇のプレハブ作りの建物を指差すと、言った。
「あたしは作業があるから、後は自分で行きな」
建物から一人の女性士官が出てきたのはそのときだ。カズマは彼女に見覚えがあった。車から降りたばかりのマリノが、手を上げて彼女を呼ぶようにした。
「後方勤務部のハーミス中尉」マリノが続けた。
「あんたも知ってるでしょ?」
カズマは無言でうなずいた。たちまちマリノの大きな手がカズマの後頭部へ伸びた。頭をわしづかみにして、マリノはカズマの耳元で唸るように囁いた。
「この馬鹿、返事しろ返事!」
「きょ、教官……胸が!」
カズマの顔の半分がマリノの豊かなバストに埋もれていた。マリノははっとして手を離した。両者の極端なまでの身長差が引き起こした「事故」だったが、そんなことを棚上げにしてマリノは頬を紅潮させて怒鳴った。
「コ、コノ変態!! なに触ってんのよ!」
「あんたたち、仲良さそうね?」
マヌエラが笑みを浮かべて歩み寄ってきた。カズマにきれいな青い眼を向けると、怪訝そうな表情で語りかけた。
「ああ、あなたがマリノをやっつけたっていう人?」
「ツルギ訓練生であります!」
カズマは敬礼した。マヌエラは答礼して笑いかけた。
「入隊のときもそうだったけど、キミ、なかなかガッツあるものね。搭乗適正検査、頑張ってね?」
「搭乗、ですか?」
マヌエラはうなずいた。
「そ、あれに乗るのよ」
彼女が指差した先に、やはりCAウイングの列線が広がっていた。マヌエラは言った。
「ま、詳しいことは中に入ってから……」
隙間から漏れる喧騒を気にしながら、静かにドアを開ける。
古ぼけた格納庫に隣接するブリーフィングルームにはすでに二十名の訓練生がカズマと似たような経緯で召集されており、緊張感と他愛の無い雑談をさして広いとは言えない部屋に充満させていた。幾名かの、多分に好奇心を含んだ視線が、カズマが部屋の隅に自分の席を見つけるまでの短い間、何度もカズマを撫で付けた。別にカズマが訓練生の中で取り立てて有名な存在であったからではない、どんな集まりにしろ、遅れて来た者が周囲の注意を引く存在と成り得るのは往々にしてある事だ。
その二十名の中に、以前の採用試験の時カズマに絡んできた曲技飛行士連中もいた。つい数時間前に、遅れてきたこの青年とかつて自分たちをぶっ飛ばした女性士官との間に起こったことぐらい、すでに彼らは知っていた。席へ移動する青年を見つめる彼らの眼にはかつて抱いた青年に対する敵意は半減し、代わりに増した好奇心の光が宿っていた。
「ボクはそこに座って」
黒いネクタイとカーキ色のシャツの上にすすけた皮製のフライトジャケットをラフに着こなした、長身の教官らしき士官が隅の席を指差した。胸のパイロット徽章からは、すでに新品としての光沢が失われているのをカズマは見る。室内をどっと笑いが襲った。
「こいつぁいい。坊や扱いかよ」誰かが言った。癇に障る、下卑た声だ……不満の色を隠さずに席に着くと同時に、士官は言った。
「諸君、楽にしたまえ。適性検査を開始するにあたり、只今より説明を開始する。私は君たちの訓練を統括するキニー大尉だ」
一通り部屋を見回して、大尉は言った。
「諸君らは事前の身体検査において新たに設けられた基準をクリアしており、これより行う検定飛行の結果次第では艦隊の正規操縦士として新たな訓練を受けるわけだが、あらかじめ言っておく。諸君らには非常時だからといって手を抜くようなことは許されない。ちなみに今回の入隊検査の段階で、正規の艦隊操縦士候補として要求される最低限の数値をクリアしていた者は諸君らのうちどのくらいだと思う? 君、間違っても良いから言ってみたまえ」
「自、自分ですか?」
大尉が指差したのは二列目の真ん中に座った青年だった。入隊前は郵便局専属の航空機操縦士をしていたことを、カズマは聞いたことがあった。
少し考えるそぶりを見せて、戸惑うような口調で青年は答えた。
「六割だと思います。教官殿」
大尉は人差し指を振った。
「違う、三割だ」大尉は続けた。
「要するに、君達二十人の中で艦隊の操縦士に相応しい適性を備えている者は六人いるかどうかといった状況である。それで艦隊操縦士の訓練を受けられるというのだから君達は極めて幸運な星の下にあるようだな」
「でも教官殿。俺達ゃ操縦士ですよ」
曲技飛行士の一人が言った。語尾がやや荒くなっていた。
「他の初心者どもと一緒にしないでくださいよ」
「初心者とは何だこの野郎!」
同時に軽い、ざわめくような怒号が部屋に広がった。場が、紛糾した。子供の喧嘩を思わせる低次元な感触が、末席にあっても容赦なくカズマの羞恥心を掻き立てた。
「静かにっ! 協調性も艦隊の操縦士として必要な適性の一つだ! 君達にはそれすら欠如しているようだな」
むっとした大尉の一言に、たちまち怒号は薄れていった。
大尉は、言った。
「去年の戦闘に参加した操縦士は三百二十名だ。そのうちレムリアンとの戦闘から帰還できたものはわずか二三名……五体満足で帰還できなかった者も入れてやっと二三名だ。高い競争率、厳しい訓練を突破し、乗り越えたエリート中のエリート達……ここにいる君らよりも操縦士としても人間としてもずっと上等な連中が、あのアレディカの空に消えたのだ。諸君らは今回の適性検査において何がしかの結果を出した暁にはアレディカで死んだ連中よりも短い練成期間で、連中と同じレベルのパイロットたることを要求されることになる。そのことをようく肝に銘じて置くように。では只今から離陸から着陸に至る一切の手順の説明に入る。あ、言い忘れたがもうひとつ……」
大尉が語を次いだ。『くどいな……』とカズマは思い始めている。カズマならずともそう思ったに違いない。
「……諸君らの代わりはこの基地だけではなく、ここの外にも幾らでもいるということを忘れるな!」
――二十分後、例のごとく単純な胴衣とパラシュートから成るラジアネス軍制式飛行服に身を包んだカズマは、ぼんやりとCAウイング艦上戦闘/攻撃機の列線を眺めていた。複葉機には珍しい密閉式の風防と引込み式の主脚以外に目新しい部分の無い、戦闘機とも爆撃機ともはたまた偵察機とも判らぬふやけた飛行機。しかも座学であいつの素性について教えてくれた工学教官は、艦隊防空と攻撃、偵察全ての任務を一機種で代替し得る戦闘機史上画期的な機体と、半ば肯定的な話をしカズマを愕然とさせた。愕然とするのにもきちんと理由があった。造りの古めかしさも然ることながら、何より飛行機の世界に「万能」という特性など有り得ないことを、カズマは実戦で身を以て知っていたから――正直あれに乗って命を削れと言われれば、喩え死亡必至の特攻でも躊躇われるかもしれない。
黄色の救命胴衣と白い飛行帽、そして胴衣に繋ぐパラシュート――ラジアネス軍の航空機を操縦するに当たり、それら以外の装備はこれと言って必要とされない。極端な話、全裸でも無い限り普段の軍服や作業服の上から前記の装具を着けるだけで、操縦士としての体裁は整うという訳であった。事実過去の野外課業の際、隣接する飛行場で制服の上に装具を纏い、自ら連絡機を操縦して離陸していく幹部の姿をカズマはよく目にしている。
バンドやらパラシュートやらを作業服の上から着込むのにそれほど時間は掛からなかったし、助けも必要なかった。やはりこういう要領の良さは慣れがものをいうと言いたいところだが、着脱自体がカズマの知る飛行服や落下傘以上に容易で、だが全てが確実に動作するよう作られている。「地上世界における唯一政体」たるラジアネスの国力、技術力を見せ付けられる瞬間でもある。機材はぼろいが、それを動かす仕組みには、組織としてのラジアネス軍の風通しの良さが感じられた。
検定飛行用にあてがわれた飛行場は、一面の芝生から成っていた。
本来は不時着用地として整備された場所で、壮大な草地を長方形に区画し、脇に仮設の管制塔を一本据え付けただけ……というのが実像である。仮設の格納庫の横まで引き出されるCAウイングの傍、空の青と、地上の緑がカズマの視覚を優しく撫でる。微かに立ち込める芝生の香りが、空を求める気分を高揚させた。機材はお世辞にも格好がいいとは言えない。ただ複葉機というなりが、カズマにとっては訓練生時代に親しんだ「赤とんぼ」――九三式中間練習機――の姿と重なり、それは同時に祖国日本に対する郷愁を喚起したのも事実であった。
引率の下士官に案内されて待機所まで歩く途上、整備作業でCAウイングに取り付いている要員の中にマリノの姿を見る。部下の整備兵に采配を与え、自身も開いたエンジンカウルの奥に手を入れている。カズマと目を合わせた瞬間、彼女は露骨に不機嫌な顔をし、早く行けとばかりに彼女は形の良いあごをしゃくって見せた。同じくCAウイングの周囲に同じく航空軍装に身を包んだ訓練生がざわざわと集まっているのを見る。中にはCAウイングの足下で、芝生の上に腰を下ろして談笑している者もいる。視界を転じると、反対側の一隅にも一団が集まってなにやら話し込んでいる。こちらの方は訓練生とは違う、硬い雰囲気から、教官クラスであるように思われた。ただし――
「…………」
戦争を知ってるって顔じゃないな……と、カズマは察する。そのようなものを期待していたわけではないが、ただ操縦資格を得て以来、単に飛行教官だけを続けて来た様な、垢抜けない顔をした面々。こういう種類の操縦士に、カズマは今まで遭ったことが無かった。この国はレムリアンと戦争をしているが、戦争の余波は未だ此処には及んでいないようだ。
「はい! 並んで」チャートを脇に挟んだキニー大尉が、畳み掛けるようにして言った。
「今回の検定飛行をクリアした者は優先的に操縦訓練を受け、他の連中より一足先に第一線へ送られることになる。クリアできなかったものは他の大多数と同じく地上訓練から受け直しだ。君達も一人前の飛行機乗りたらんとするなら、これくらいはクリアしてほしいものだな」
「くどい野郎だぜ」
誰かが言った。聞こえたのか否かキニー大尉は目を細めて訓練生を見渡すと、CAウイングの列線を後ろ手に指差した。
「使用空域及び飛行経路はブリーフィングで教えたとおりだ。では、行こうか」
「大尉殿、今日一緒に飛ぶひよこどもはそいつらですか?」
列線から若い声がした。航空軍装を纏ったパイロットだ。階級章から少尉であることがわかった。おそらく正規の艦隊操縦士なのだろう。これから適性検査を受けるパイロット連中と比べればずっと若いかもしれない。その声には明らかにこちらを嘲弄する要素――とは言わぬまでも訓練兵に対する優越感――が含まれていた。
「おい、俺らがひよこだとよ!」
「訓練生だからといってなめやがって!」
「一泡吹かせてやろうじゃねえか。」
訓練生達――その中でもやはり、操縦に心得のある連中――がざわめき始めた。キニー大尉はこちらを振り向かずに、まるで彼らの悪態など聞いていないかのように歩を進めている。カズマは挙手して言った。
「大尉殿、質問!」
「何かね、坊や」
最後の「坊や」が引っ掛かったが、それでもカズマは続けた。
「ここのパイロットはきちんと教官の資格を持っているのですか?」
「ここには数えるほどしかいないな。何せそういう人材は去年の戦闘でほとんど死んじゃったから」
大尉はぶっきらぼうに言った。余裕があるとはいえない現状に対する諦めからこういう口調になったように感じられた。
「じゃ、あの程度の戦闘で死ぬような連中を俺らは税金で養わされていたってことだな」
「要するに艦隊の連中はトンボ野郎の集まりってことよ」
「トンボじゃなくて鶏野郎だろ」
言ったのは例の曲技飛行士の連中だ。
「貴様! 口を慎め!」大尉の口調が荒くなった。当然の流れだろう。
「君達の中の誰かもいずれそうなるかも知れんのだぞ? 飛行機乗りなら、同業者に対する同情の念ぐらいは持ってほしいものだな」
大尉の言うことはもっともだった。いつの間にか、数名のパイロットがCAウイングの近くにまで集まってきている。おそらく今回の適性検査に同乗者として付き合う予定なのだろう。訓練兵たちを並ばせ、キニー大尉は改まった口調で言った。
「総員整列! 今回君達の適性検査飛行に同乗する検査員だ。失礼の無いようにな」
同乗するパイロット達の視線が幾重にも重なり、訓練生たちへ向かい交錯する。平時なら招かれざる新参者に対する好奇心と侮蔑の念、そして優越感が彼らの視線にこめられているように皆には感じられた。カズマもまた列内の男たちをさり気無く見回す……訓練生たちの表情が硬い。おそらく自分たちが場違いな場所に来てしまったことにいまさらながら思い当たったのかもしれなかった。実戦経験の有無は別として、教官たちの技量は決して低くは無いとカズマは感じる。
パイロットの集まりの中にはマヌエラ‐シュナ‐ハーミス中尉の姿も見えた。傍目に見てむさくるしい航空軍装とは対照的な、爽やかさを前面に押し出したような彼女の制服姿。カズマにはそれが、何かとてつもなく貴重で、迂闊に触れ難いものに見えた。あるいは未だ、軍事基地という場に女性がいるという点に、カズマは未だ馴れていなかったのかもしれない。
マヌエラが訓練兵の列に向かって進み出、搭乗割を読み上げ始める――適性検査は基本的に訓練生四名ずつ、五回に分けて行う。要するに一人の検査員パイロットで五名の訓練生を担当することになる。カズマは五回目、つまり最後の組だった。
スワノットという中尉がカズマの班の担当だった。背が高い、ひょろっとした赤ら顔の軍隊のパイロットというより小学校の先生のような感じの男。三週間前に結婚したばかりという彼の左の薬指には例のプラチナリングが填まっていて、線の細い風貌も相まってカズマには彼がどうしても軍人には思えなかった。
「まあ硬くならずに、気楽にいこう。成績が悪くてもクビってわけじゃないから。それにここは年中お天気だし、飛ぶには絶好のロケーションだよ」
後半は、訓練とはあまり関係ない話であるように思われた。
「中尉、時間が無いんで搭乗準備お願いします」整備員の声がした。
「ああすんません。今やります。ええっと、一人目は誰だったけか……」
検査の内容は基本動作、編隊飛行、基本的な空中運動からなる。教官の補助を受けた状態ではあるが、一般の操縦士にも要求されるようなこれら の動作を一通りこなせれば検査は合格とされる。要するに一般の飛行士など即戦力になりそうな人間を促成訓練の美名の下で特別扱いする理由を作るのに、検定飛行なるものをでっち上げたわけだが、単に有事を想定した搭乗員の大量養成計画をこれまで全く考慮してこなかったツケが、今になって回ってきたということかもしれない。
一方で、地上――轟音を立てながら軽々と飛び立っていくCAウイングの一個小隊四機を眼で追うようにして、地上の人間達が思い思いに自分勝手な批評を始めるのがこういう場面の常である。
「あいつは下手くそだな。もう少し舵を使わなきゃあ……あの曲がり方じゃあ実戦で使えんよ」
「……おいおい、あいつ今接触しそうになったぞ」
「あいつ何張り切ってるんだ? きりもみなんて演目に無かったぞ」
「……おい待て。回復できないんじゃぁ……」
離陸から周回飛行に転じた一機を眼前に、場がざわめきだした。そのCAウイングはきりもみを続けながら降下し、もう少しで地上に激突するというところで回復、滑走路を嘗めるように直線飛行に転じ上昇した。もちろんそんな運動は演目に無い。カズマの記憶が正しければ、確か曲技飛行士の一人があの機体に乗っていたはず――
「馬鹿め……!」
地上の歓声を浴びながら上昇していくCAウイングを、滑走路に近い基地内の第三管制塔からカレル‐T‐バートランドは苦々しげに眺めていた。
検定飛行は要求されたことをきちんとこなせる人間を選定する場だ。それができない人間は当然排除されるか「再教育」の対象となる。お前たちはただ要求された演目を大過なくこなして見せればいいのだ。ただ「自分」をめいっぱい表現すれば事足りる芸能界のオーディションとは違う。それが理解できないのか!?――だが、連中の振る舞いを見ている限り、そんなことなど全く意に介していないかのように見える。むしろ空の上で腕前を見せ付け、自分を表現すればするほど今後のポジションが有利なものへと約束されているかのように、彼らは勝手に思い込んでいるのだ。
その肝心の動作も、全くなっていない……!
「いい腕ですね」
ふと、傍らで飛行の様子を見ていた管制要員の下士官が言った。バートランドは肩をすくめた。
「あれがいい腕というのなら、俺達はみすみすレムリアンどもに喰い付きのいいエサを提供してやっているようなもんだな」
「え……?」
「……いや、何でもない」
傍に置かれた無線通信機が、いつの間にか空電混じりに練習機内の会話をがなりたて始めていた。検定が終わり、これを飛行記録として再び聞き取り、書類を作らねばならないことを思えば、正直気が滅入る。
『――この馬鹿! 誰がそんな操縦をしていいと言った?』
『――針路2-7-0はそっちじゃないだろ! あんたそれでも飛行機乗りか?』
『――方向舵の使い方も知らんのか! 飛行学校からやり直せ!』
『――いけねぇ! 危うく接触するところだった』
『――危ない! 操縦替われ!』
『――助けてくれ! 殺される!』
「……何ですか? これ」
管制官も、呆然として通信機の計器類を見詰めている。バートランドが、堪り兼ねた様に息を吐き出す。部屋を出ようとする彼を、管制士官が呼び止めた。
「少佐、どちらへ?」
「向こうに行ってる」バートランドは、練習機の方向を指差した。
「あれがまだきちんと飛んでいる間に向こうへ行っておかんとな、下手すりゃこちらの責任問題になりそうだ」
一通り飛行が終了し、荒っぽい着陸を見せたCAウイングから転がるようにして飛び降りた検査官が、同乗の訓練生を烈しく罵った。
「この馬鹿たれ! 貴様何故言われたように飛ばない!? 軍務に何か不満でもあんのか?」
「腕を見せただけでさぁ。少尉殿」
訓練生が後席から検査官を見下ろすようにしてにたにた笑っている。先程禁制のきりもみ降下をやってのけた曲技飛行士だ。
「あのな! これは検定飛行なんだよ! 競技会なら他でやってくれ!」
「で、検査の結果はどうです?」
「クビだ! クビ! 今すぐこっから出て行け!」
後から着陸してきた組で繰り広げられた光景も、これと似たり寄ったりの状況だった。訓練生の中にはこの検定飛行で正規の操縦士ではないことが露見した者までいた。要するに経歴を詐称したのだ。驚いたことに、スワノット中尉が同乗した訓練生もその口だった。
「操縦士って名乗っといた方が後々有利だと思ったもので……」
その訓練生は、苦笑して頭を下げた。中尉は言った。
「他の人、違うよね? 早めに言っといた方がいいよ?」
更に驚いたことには、カズマ以外の班全員がそうだった。結局彼らを入れて合計六人が検定飛行から「脱落」し、カズマの順番は当然繰り上がる。新たに発表された搭乗割に反応するかのようにカズマは飛行帽を被り直した。意外と早い……しかし、やることをやってしまえばこちらとしても早めに道が開けるというものだ。無線機用のイヤホン、そして機内通話装置のケーブルと一体化した飛行帽は帝國海軍のそれよりもずっと上等で、被った感触も悪くは無かった。同乗の教官に続いてパラシュートを担ぎつつ、今回の検定飛行を監督する幹部連の詰める一角まで歩く。その幹部たちの中にマヌエラと、そしてマリノがいた。
「頑張って下さいね。ツルギ練習生」
マヌエラが励ましてくれた。微笑で彼女の励ましに応える。無心にカズマを見送るマヌエラの傍らで、マリノがだらしなく煙草を咥えている。
マリノの煙草を咥える口、その口元に宿る歪んだ笑み――不審の琴線に触れたそれを敢えて無視し、カズマはそのまま軽快な足取りでCAウイングまで駆け寄った。抱えていたパラシュートを下翼に投げ出し、台替わりにして腰に繋ぐ。教官のスワノット中尉はすでに前席に搭乗して、整備員と技術的な会話を交わしている。手短に会話を終え、整備員を下がらせると、中尉は地上で待つカズマに声を掛けた。
「ツルギ訓練生。搭乗を許可する! 急ぎたまえ」
主翼上のステップを踏み、後席に身体を滑り込ませる。待ち構えていた機付整備員がバンドを締めるのを手伝ってくれた。
「頑張れよ。ボーズ」
「ありがとう」
カズマは頷いた。前席を覗き込むようにして見ると、中尉が耳元を指差しているのがわかった。伝声管を繋ぐと、中尉の声がくぐもりがちに聞こえてきた。
『――ツルギ訓練生、離陸は出来るよね?』
「ハイ」
『――本機の操縦は初めてだろうから、空中での操作は本官がフォローする。管制室から指示があったら、速やかに離陸するように』
「……リョーカイ」
『――では後席の点検に入りたまえ』
「……ツルギ訓練生、点検に掛かります」
点検とは言っても、計器が在るべき位置に在り、サイドパネルのトグルスイッチが在るべき場所に収まっているかを見るだけの手順でしかない。そしてCAウイングには前席の正操縦士が負傷、もしくは死亡等の事由で操作が出来なくなった時に備え後席にも操縦桿があり、フットバーがあり、スロットルレバーがある。単なる非常用と言うには余りにも機能が揃い過ぎた後席は、本機が実用機の他、練習機としての役割も期待されていたが故であったのかもしれない。
「ツルギ訓練生、点検終わり」
『――始動!』
前席からコール一声でエンジンに火が入り、そしてプロペラが回り出す。紫電改と同じだ。操縦席からの操作ひとつでエンジンが回り、そして暖気に落ち着くのが計器の動き、そして前席と連動するスロットルレバーの開閉から判る。暖気が安定するにつれ、それまで微かにしか感じられなかったガソリンの臭いが、急に濃くなり始めるのを覚える。前席のスワノット中尉が開けっ放しの風防から手を出し、地上に向けて合図を送る。車輪止めを外す合図だ。
コックピットが烈しく振動し、誘導路を滑走し始めた。他の練習機に続き、あるいは並んで滑走路まで走るCAウイング。停止線の位置でそれらは列を整え、そして止まる。
『――ツルギ訓練兵、管制塔が見えるか?』
「……見えます!」
応急仮設用の簡易管制塔、その天辺に人影が立つのをカズマは認める。その手に、信号銃が握られていることも――
『――準備が出来次第、管制塔から信号銃を発射する。それが離陸の合図だ。健闘を祈る』
「了解」
カズマはスロットルレバーを握り直した。思えば久しぶりの飛行だった。空に昇ろうとするとき必ず沸き起こってくる、名状しがたい高揚感と冷静さの入り混じった感覚が、指先までひしひしと満ち溢れてくる。呼吸を整えて周りを見回すと、他の機も同じようにエンジンを廻しながら今か今かと離陸の指示を伺っている。不安、自信、諦観……それぞれの微妙な感情が練習機それぞれに同乗し、訓練生の能力と合わさってその真価を空の上で試されようとしているかのようであった。そういえば昔、練習機の後席に乗せられて初めて空を飛んだとき。エンジンが稼動しているのにもかかわらず、やけに周囲が静かに感じられたのを思い出した。緊張のためだということぐらい、あの頃でもすぐにわかった。今の感覚が、それに似ていた。別に飛行に関しては新人というわけではないのに?カズマはくすっと笑った。苦笑というよりそんな自分が可笑しかったのだ。
緊張の裏にある余裕。余裕と共存できる緊張――大丈夫、おれは十分に飛べる。
管制塔――信号銃が天に向かう。
撃発――銃口から延びた赤い光が、蒼空を飾る。
スロットルを開いた。
ブレーキを緩めた。ゆっくりと、機体が滑走していく……共に空へ向かう翼と等間隔を維持しつつ、滑走路を走る。ニーパッドに張り付けた緒元表の示す速度まで機を加速し、浮き上がったその後はハンドルで主脚を引き上げて……などと、走りつつ脳裏に反芻する飛行への手順――
格納庫でマヌエラは、徐々に滑走速度を上げていくカズマの機体を格納庫から見守っていた。
傍らには、年季の入った、馬鹿でかい鉄製の扉にその長身をもたれさせたマリノが、太い腕を豊かな胸に組んで気だるそうな眼でカズマを眼で追っている。チューインガムを含んだ形の良い口もとが咀嚼のたびに微妙に揺れていた。
「あのカズマって子。問題無いみたいね」
マヌエラが言った。その声に何気に無邪気な好意が含まれているのをマリノは見逃さない。
「……問題が無いなら、作るまでってね」
「え……?」
マヌエラが表情を曇らせた。
「まあ見てなって……」マリノは続けた。
「……落とし前はつけとかなきゃね」
マリノの意味ありげな微笑は、膨らませたガムに隠れてマヌエラには見えなかった。
大きな薄茶色の瞳が、一瞬じっとりと光った。