第八章 「この女は、苦手だ」
――モック‐アルベシオ艦隊航空隊基地の士官食堂
時刻は、すでに正午を回っていた。午前の勤務を終えたマヌエラ‐シュナ‐ハーミス中尉がランチを載せた盆を両手に、同じく昼食を採る士官連中でごった返す中を泳ぐようにして席を探していたとき、その一隅で山々と盛られたパスタをつつくマリノ‐カート‐マディステール少尉の姿が目に入った。その瞬間、マヌエラの顔はやや綻んだ。親友の隣の席が空席だったこともあるが、これから彼女が取り掛かる予定のとある手続きにマリノの指導する訓練班が関係していたためでもある。
ただ、テーブルまで少し歩み寄るのと同時にマヌエラの足が止まった。マヌエラは戸惑った。友人ではあっても、テーブルを共にする様な雰囲気ではなかった。不機嫌な表情を崩さず、それを口に入れることもせずただ黙々とフォークで皿いっぱいに盛られたパスタの山を掘り進めているマリノ。その容貌が端正なだけに、彼女の表情はいっそう険悪さを際立たせているようにマヌエラには思われた。
予定表によれば今日の午前中の教練は確か格闘術の訓練だったはずだ。格闘といえばマリノが最も得意な科目だ。士官学校で教えられてきた全ての格闘術、戦闘技術において、マリノは優等生だった。射撃の成績は常に上位であり、空兵隊内の銃剣術対抗戦で優勝した経験もあり、そのときの予選では彼女と当たった選手全員が病院送りとなったという「伝説」まで残っている。
そんなマリノの個人技の冴えに対し、マヌエラ個人の感触を言えばこうだ……体格面で恵まれている点も然ることながら、何と言えばいいだろうか、マリノは入隊前からこの手のセンスに恵まれているように見えた。ただし彼女の場合、それが天性と言えるものなのか、それとも入隊以前に培われた後天的な要素が強いものなのか、マヌエラとしてもより詳しく論評することはさすがにできなかったが……
マヌエラはさり気無く盆をテーブルに置き、マリノは顔を上げて同席者を見遣る。
「どうしたのよ? 浮かない顔して」
「…………」
むっつりとした表情を崩さずにマリノはマヌエラを凝視する。円らなブラウンの瞳が眼鏡越しに憤懣やる方ないといった感じの光を湛えている。しばらくマヌエラを見詰めていたかと思うと、気に食わないといった風にマリノは彼女から目を逸らすようにした。
「別に……」
「今日の教練どうだった?」
マヌエラは聞いた。マリノは沈黙に身を任せたまま。握られたフォークがカタカタ震えているのは、湧き起こる怒りに彼女の理性が抗っているためだろうか?
「全員殺してやったわよ……一人を除いてね……!」
「と、ところでさマリノ、午後からの特別航空適性検査のことなんだけど……」
「適性検査ぁ?」
「あんたのD班にも操縦経験者がいたわよね?」
「いたっけか……」と素っ気ない返事の一方で、マリノの柳眉が険しくなるのが判った。思い当る名前があるが、それに対し何か含むところがあるといったところか……と、マヌエラは邪推する。それでも言い出さないことには話が進まないという、こみいった立場に自分は踏み入りつつある。
「名前は確か……ツルギ……ツルギ‐カズマっていったかな……」
「ツルギ……!?」
マリノが呻いた瞬間、ものすごい音と共にフォークの先端がテーブルにめり込んだ。周囲にいた士官たちの驚きの視線がたちまち二人を取り囲んだ。
「あのくそムカツクチビがどうしたのさ……!?」
搾り出される声の端々が震えているのは、明らかに烈しい怒りの成せる技だ。ブラウンの瞳の煌めきが、一切の感情から超越した空虚を湛え始めるのにマヌエラは気付く。暴力を揮うに当たり、自分の友人がそのような眼をすることをマヌエラは長い付き合いから知っていた。「何があったの?」とは死んでも聞ける状況ではない。怒ったマリノの恐ろしさを、彼女は友人として誰よりも良く知っているつもりだった。以前何かの拍子でマリノを怒らせた不良グループが、鉄パイプやナイフで完全武装しているにもかかわらずわずか数分、それも素手で全員撃沈されてしまったこともあるくらいだ。
その一方で、マヌエラとてマリノを怒らせてしまった訓練生に興味を持たなかったわけではない。そのツルギ‐カズマという名の訓練生に対する興味を隠さずにマヌエラは言った。
「練習機に乗せて適性を見るんだって。そのツルギって訓練生、どんな人? あんたを怒らせた程だから、相当ひどい奴なのね」
「ひどいも何も!……あいつ!……あたしのことを皆の前で散々コケにしくさってぇ!!」
大きな声でそこまで叫んだとき、マリノははっとして口を塞いだ。マヌエラはマリノの顔を覗き込んだ。驚嘆と微笑ましさが、蒼い瞳と口元に絶妙のブレンドで宿る。
「へぇー、あんたに勝つ男って……いるんだ」
「……そういう訳じゃないんだけど……さぁ」
マリノはばつが悪そうにマヌエラから目を逸らした。つい数時間前の格闘戦訓練の苦い記憶が、彼女の脳裏を掠めていた。
軍隊における食堂が昼夜食の時間帯における慰労の場であると同時に、基地内に生じた怨嗟や風聞の交易場たるを免れ得ない宿命をも併せ持っているという点では、モック‐アルベジオもまた例外たり得なかった。モック‐アルベジオ基地の場合、兵員食堂――基地勤務の一般兵から訓練期間中の新兵に対する糧食供給を与るその空間は三箇所存在する。ただこの日、心身に堪える教練を終えたばかりの訓練兵でごった返すこの場所は、単に変わらぬ日常の一コマとは片付けられない程の、異様なまでの熱気が生まれていた。
「あのD班の教官と一対一で勝った奴がいるらしいぜ」
「へぇ、何で勝ったんだい? ギャンブルか? それともジャンケンでか?」
「……それが……格闘術だそうだ」
話をする度に、訓練生達は信じられない、といった感じのきょとんとした顔をお互いに見合わせた。要するに「地獄のD班」の教官――マリノの「悪名」はそれほど訓練生達の間で知られていたのである。
「……で、その教官に勝った奴ってのは誰なんだ?」
そんな質問が出るたびに、応える誰かの人差し指が食堂の一席を指し示す。その先には、午前中の格闘訓練の生傷も痛々しいD班の面々の中でただ一人涼しい顔でランチにぱくついている「少年」――
「あのガキがか……?」
「少年」ことカズマを見た誰もが、好奇の視線を隠さない。そんな彼らの様子には、カズマ本人もうすうす気付いていた。
営倉で一晩を過ごした翌日の夜に、カズマは急に勾留を解かれ訓練隊への復帰を許された。但し二週間の外出禁止措置という土産とともに。
その頃には訓練隊中にカズマの「武勇伝」は広まっており、D班の面々は黙々と寝台の整頓に取り掛かるカズマを注視したものだ。言い換えれば、カズマは未来の同僚たちに一辺に顔を覚えられることになった――その翌日たる今日の出来事に至っては、正に駄目押しと言ってもよかった。そして当のカズマは、翌日と今日の出来事に起因する自身への注目から、終始超然としているように見えた。
野菜入りのオムレツとマッシュポテト、そして生野菜のサラダにチョコレートケーキがひとつ……カズマの盆に乗っている昼の献立は、本来ならばここに更にミートソーススパゲティとミートローフが供される。カズマの場合、これらの献立が無いのは何も罰としてそれを食することを禁じられているからでは無く、ビュッフェ形式の食堂に於いて、カズマが意図的にそれらを択ばなかったからである。ラジアネス軍の食事は少食のカズマからすれば量が多すぎるきらいがあり、そして毎日のように供される肉々しい献立に、カズマは内心で辟易していた……それに、今日の献立は特に口に沁みる。
そのカズマと対面する形で、イホーク‐エイクが子供のようにミートソースを頬張っている。変わったと言えば、昨夜の時点でそれまで冷淡さの勝っていた彼の態度も変わった。むしろカズマを自分とは生まれ育った「世界」の違う人間と見做したが故の、いわば「畏怖」が勝る様になったのかもしれない。そしてイホークは恐らく畏怖の一方で、元々そのような「世界」に憧れをも抱いていたのだろう。
「カズマ……」
「ん……?」
躊躇いがちではあるが、先に口を開いたのはイホークの方だ。先程の教練で腫れ上がった片目の周りが痛々しい。経験を積んでいないからか不用意に突っ込んだ途端にマリノに足を払われ、その上銃剣訓練用の棒でしたたかに顔面を張られたのだ。
「まだ痛むよ。視力が落ちたらどうしよう……」
カズマにとって、イホークの心配は単なる泣き言には聞こえなかった。
「あの教官、見境なしに殴るからな」
「ところでカズマ……」イホークが眼を細めた。
「何だよ?」
「君すごいな。あの空兵女相手に一歩も退かなかったんだもの」
「大したことじゃないよ」と、伏せ目がちにカズマは応じる。食物を咀嚼する内に、切った口に広がる疼痛がじんわりと消えていく。
「カズマはすごいな……やっぱ場数が違うからかな……」
「そんな問題じゃ……」
苦笑交じりにカズマは言った。実はそれは嘘だ。彼は銃剣術を知っていた。教わったのはもちろん予科練の教練においてのことだ。カズマが予科練に入ったばかりの頃は、すでに国が中国との全面戦争に突入していたこともあり、パイロット教育の速成化が戦争とは関係が無い普通学の時間短縮、削減の形で進んでいたが、軍事学、武道などの専門教育、実技はまだまだ一人前に課されていた。その武道の方は自分ではそんなに強いとは思っていなかった。ただ予科練の教官からは「筋がいい」とだけは言われたことがあったが……
「…………」
胸のあたりがじんわりと痛む。今更か……と。同時にあのときの自分の判断に、戸惑いを覚えようとしているカズマがいる。これでよかったのか……と。
「――ツルギ訓練生、次はあんたの番……!」
訓練用の棒を投げ出し、マリノは高い身長差から文字通りカズマを見下していた。
彼女の足元には、すでに四人の訓練生が徹底的に打ちのめされて地面にうずくまっている。その内一人はイホークだった。病院行きにならない程度に、相手に耐えがたい苦痛を与えられるほどあの女の銃剣裁きは巧妙で、かつ姑息であることにカズマはすでに気付いていた。初対面の印象通りに暴力を揮うに当たり抜け目なく、そして容赦を知らないやつ――帝都の貧民窟を根城にするゴロツキどころではなく、海軍にもこういう嫌味な先輩や上官がいたものだ。そこでカズマは、彼女が訓練の最初から自分に目を付け、この機会を待っていたことを悟る。
「お前な……」
闘場に進み出、棒を拾う。土浦海軍航空隊の練兵場で木銃、あるいは本物の38式小銃を抱えて陸戦教練に勤しんだ日々が、カズマの脳裏に押し寄せる様にして思い出される。後を顧みれば、未だマリノの「実地指導」を受けていない幸運な者を除いて、カズマの周囲には頭に瘤を作り、顔を腫れ上がらせた訓練生が痛々しげな眼をカズマに向けていた。黙ってマリノを見つめるカズマの様子に、マリノは涼しげな笑みを浮かべつつも噛み付いた。
「怖気づいた? チビ」
「…………」
「黙ってちゃわかんねえだろうが、ナントカ言ってみろチビ」
呻き声を上げながら地面から起き上がろうとするイホークの頭を、マリノは踏みつけ、抑えつけた。苦悶の表情を浮かべるイホークに唾を吐きかけてマリノは続けた。
「全く近頃の男はだらしない!……このザマで飛行機に乗ってレムリアンをやっつけようってんだからますます救われないねえ……大体迷惑なんだよ、お前らみたいな屑に興味本位で艦隊に入ってこられちゃあ……いっそのこと辞めて、レムリアンの軍隊にでも志願すれば?」
教練用の棒を持て余しつつ、カズマは嘆息する。
「頭冷やせよ。バカ」
「ハァ……!?」
敵意に満ちた眼で睨みつけるマリノを尻目に、カズマは無表情を保ったまま訓練棒を握った。そのまま前へ進み出ると、カズマは慣れた手つきで訓練棒を構え直した。重さにして実銃と同じである筈の訓練棒を、バトンか何かの様に軽々しく扱う辺り、秘めた膂力の高さが伺えた。
「こっちのことです。少尉どの」
「……少しは使えるみたいだね。ま、あんたみたいなチビ、確実に秒殺だけど……」
「…………」
進み出つつ、カズマは考えた。紫電改のことを……である。あの夜、こいつは紫電改の傍にいた。再び組み上がりつつある紫電改にとって、彼女の力が必要なこともまた事実なのだ。
であれば――
「――――!」
マリノの眼が一瞬煌いた――来るっ!――闘志の煌きをカズマは感じ取り、為すべきと思ったことを為す。
「――――!?」
刺突――放たれた一撃は、それが急所に達する瞬間に身を捻らせたカズマの胸を貫いた。苦悶の表情を作りつつカズマは背中から床に倒れ込む。受け流そうと試み、それに成功したが、それでも完全に受け流し切れるわけではない程に彼女の突きは速く、重かった。
「――――!」
意識こそは保っていたが、鼻がきな臭く感じる。悪い兆候だと思った。同時に舌打ちを聞いた。その後には嘲る様な声が続いた。
「オイオイ……もう少し楽しませとくれよ。あんたがメインなんだから」
脚に力が入る。よかった……と思いつつ立ち上がろうと試みる。さり気無く顔を上げて勝ち誇るマリノを見る。立ち上がるのを待ち構えていたかのように、あの芯を震わせる空虚な眼が突進するのを察する。常人を越えた気迫!――それと共に繰り出されたさらなる一撃はカズマの頬を抉り、再び昏倒させた。
「――――!」
意識が飛び、次に目を見開いた。
追い打ち!?――顔面に向け振り下される棒の先端を、手が反射的に掴む。
口の中に、血の味を感じた。
「――――!?」
棒の先端は、カズマの鼻柱に僅かの距離を残し、止まった。それ自体がマリノには計算外だった。刺突の一撃で折れる鼻、そこから噴き出す鮮血……それのみを期待し、あるいは確信して彼女は格闘戦訓練用の棒を取り回し、あいつを突き倒し、そしてあいつの顔面に向け振り下したのではなかったか?――が、そうはならなかった。
「…………?」
動かない――倒れたカズマの掌中に捉われたままの棒を、マリノは半ば呆然として凝視した。まるで巌に挟まれたかのように、引っ張っても、押しても棒は微動だにしなかった。その棒の先、鼻っ柱から紙一重の差で棒を握り締めているカズマの眼――マリノは漂白しかけた思考を、引き戻さんと内心で足掻く。切れた口元から滲む血、それ以上に、少年の様な顔に似合わない、歪な笑みに歪んだ口元――
こいつ!……何て顔をしてやがる――内心で、マリノは気圧された。
こいつは今、明らかに自分に対し反抗している。だがこいつの眼は自分の知る暴力を揮う者特有の、「壊れた」眼とは明らかに光が異なる。予測し得ない対応への困惑というより、ツルギ‐カズマというこの訓練兵の放つ眼光を、精神の芯から恐れている自分がいる。何故――?
「――――!」
気迫だと理解した――人をひとりふたり殺した程度の経験では、絶対に生まれない眼光――それを発する人間とこのような場所で会うことを、マリノは今まで想像だにしたことが無かった。森に於いて狼は捕食者だが、その狼すら、より大きく強い虎の前には行く先を譲らざるを得ない――自分が狼であること、というよりカズマが虎であることを、心から認めることのできないマリノがいる。その虎が次には犬歯すら剥き出しにし、さらに笑みを歪める。その笑みが、マリノには怖かった。
「もう……やめとけよ」
「――――!」
横たわったまま掛けられた声は小さかった。だがマリノの精神に直接語り掛けて来るほどの明瞭さ、そして重さをカズマの声は持っていた。棒を握るマリノの手が緩み、そしてカズマは仰向けのままマリノの手から棒を奪い取る。
「この野郎……!」
カズマは立ち上がった。無表情。手にした棒を、話す術さえ失ったように見えるマリノに向けて差し出す素振りを見せる。呆然とする彼女から反応が無いのに気付き、今度はマリノの手を取り、棒をしっかと握らせた。上官を前にした遠慮も、そして躊躇も一連の動きの中には見られなかった。何時しか闘場の全員が、息を飲んで二人の対峙を見守っていることに、彼女は気付く。
「待てコラ!」
一礼し、闘場から出ようとするカズマをマリノは呼び止めようとした。我に返った瞬間、羞恥の念が押しとどめようがない程に込み上げて来た。吹けば飛ぶような新兵、それも多くの訓練兵の前で、自分は明らかに恥をかかされたと、マリノは思った。
「待てっつってんだよ! ビビってんのか!?」
涙さえ滲み始めたマリノの眼差し――それでも、遠ざかりゆくカズマの足を止めることはできなかった。
――考え込みつつ盆の上でフォークを弄ぶカズマに、イホークが笑った。
「あのときの教官の口惜しそうな顔、面白いったら無かったよ。まるで狐にでもつままれたような顔してさ……」
「おれ、やっぱりあんな事するべきじゃなかったな……後味悪いったらありゃしない……」
「じゃあ、何故あんな事したんだよ?」
「あの人のやることに腹が立ったのさ。でも、今思えば普通にやって負けとくべきだったなぁ……」
「気にすることないよカズマ。内心じゃみんな喜んでるんだぜ?」
イホークは少しムキになっているようだった。強い口調からそれがわかる。事実カズマの胸中は苦々しい。「負けてやる」つもりが、結果的にはそれよりも拙い展開になったように思われた。怒ったあの少尉が、紫電改に鬱憤をぶつける様な展開を、カズマは心底恐れている。
「いや……」
……そんな人間じゃないか、とカズマは気を取り直す。彼女がけじめを取るとすればそれは紫電改に対してではなくおれ自身に対してだろう……それに、紫電改と自分の関係には、彼女はまだ気付いていない筈――沈思に傾き掛けたカズマを現実に引き戻したのは、暫しの沈黙を取り繕う様なイホークの言葉だった
「おれ、考え直したんだけど、カズマはやっぱ航空隊に行くべきだよ。特に戦闘機向きだな」
「え……?」
おれが?……と言いたげな顔で、カズマは自身を指差した。当然と言わんばかりにイホークは頷き、続けた。
「カズマってさ、冷静沈着っていうか……度胸があるっていうか……戦闘機パイロットに必要な素質があると思うな」
そこまで弾んだ声で言って、「おれには無いけど」と、沈んだ小声でイホークは続ける。かと言って現実に直面した青年の絶望の声を簡単に聞き流してしまいそうになる程、カズマは余りに多くを経験し過ぎていた。彼程度の絶望ならば、今や遠くなった南方の戦場には履いて棄てる程存在するのだ。
「操縦桿を握れるようになれれば当然上々だけど、頑張って生きていればそれ以上に素晴らしい経験もできるさ」
取り繕うように口に出しつつも、カズマは考える。
こんな時、自分はどうするべきだろうか? マリノ少尉のことも、イホークのことも、他人事として見過ごしていいことだろうか? カズマは少し悩んでしまう。そんな時カズマの胸中には自然と高度な操縦技術とともに、一人の人間としていかにあるべきかを教えてくれた星野分隊士の顔が思い出されるのであった。分隊士がいればこんな時どうすればいいか聞きたいところだ。
分隊士は今頃どうしているだろうか。最近、とみにカズマはそう思うようになっている。
しかし考えてみればそれはおかしな考えだった。なぜなら、カズマが以前にいた世界では分隊士はもう死んでしまったはずだからだ。だが、カズマが今こうして今まで存在していた世界から「戦死」と言う状況を経て人智を超えた何らかの理由で隔絶され、この「異世界」に生きることを強いられているという事実は、星野分隊士の消息について自然とカズマにある種の希望を見出させるに至ったのであった……ひょっとしたら、分隊士も自分のようにこの世界のどこか、もしくはこの異世界とは全く違うもうひとつの異世界のどこかに流れ着き、彼なりに強く生きているのではないだろうか……と。
「――カズマ、どうしたんだ?」
イホークの問いに、カズマはその場を取り繕うようにお茶を飲み干す。
「別に、少し疲れただけさ……」カズマはさり気無く笑って見せた。イホークも相槌を打つように応じる。
「そんなに深刻に捉えることは無いよ。未来永劫、あの空兵女と一緒にいるわけじゃないんだから――」
背後に人の気配を感じる。笑って席を立とうとしたイホークが次の瞬間、何か恐ろしいものを見たように顔を引きつらせた。
「教官殿……!」
振り向いた先に広がるダークグリーンの作業服。その襟から覗くシャツに包まれた豊かな胸――最初にカズマの眼に入ったのは、頭二つほど上から彼を見下ろすマリノの無表情な顔ではなかった。
ブラウンの瞳から発する、眼鏡を貫くような視線は揺らぐことも無くカズマをその先に収めていた。瞳の奥に、強く、淡い光の揺らめきをカズマは見た。
またあの眼だ。とカズマは思った。
つい数時間前対峙したときに感じたあの空虚な眼――かつての初陣のとき、眼前に現れた敵機を前に感じたのと同じ戸惑いが、急速にカズマの内面を支配しようとしていた。正直、少し震えた。
「あんた、肉嫌いなの?」
「まあね……」
「フーン……あんた、女みたいな飯の食い方するんだ」
カズマの盆を見遣り、マリノは無感動に言った。感心しているのか嘲っているのか……確実に後者であろう。命令下達を察し姿勢を正すカズマの前で、マリノの顔から完全に表情が消えた。
「ツルギ訓練生」
「……はい、教官殿」
「本官について来い。それと……」
「…………?」
「殿は付けんじゃねーよ。チビ」
背を向ける間際、マリノは言い放つ。眼鏡越しの目付きが険しく、それは対峙した時以上にカズマの胸中に不安を惹起させる。そしてカズマは思うのだ。この女は、苦手だ――と。