獄界(6)
すくっと立ち上がった霊奈の鉄拳が片膝をついていた俺の脳天を直撃した。
「な、何をしやがる! 俺が一体何をした?」
俺も立ち上がって霊奈に詰め寄った。
「白々しい。自分の格好を見てみなさいよ!」
俺の格好……。俺が視線を下に降ろすと、そこには……、着ていたはずの服がなくなっていた! 何で、また素っ裸になっているんだ。俺は?
とりあえず両手で股間は隠した。
「早く服をイメージしなさいよ!」
「お、おう」
俺はさっきまで着ていた普段着をイメージした。
――しかし、服は現れなかった。
「早くしなさいよ! それとも私にその貧弱な体をもっと見せびらかしたいの?」
俺の体のどこを見て貧弱って言っているんだよ? まあ、確かに自信は無いけどさ。
「ち、違うよ。服が出ないんだ」
「そんな馬鹿な! 死んでからも変態的欲望を満たそうとするあんたは地獄で浄化させる価値もないわよ!」
霊奈は俺の左頬にビンタを喰らわした。
くそっ、何で俺が何回も霊奈に叩かれなければならないんだ?
「あのなあ、何で……」
俺は霊奈に文句を言おうとしたが、霊奈の不思議そうな顔つきに言葉を繋げることができなかった。
「…………………」
霊奈は俺の顔を凝視しながら呆然と立ち尽くしていた。一体どうしたのかと思っていたら、今度は、両手で俺の頬をピシャピシャと軽くはたいた。
「えっ? え~っ! ど、どうして?」
何なんだ、一体?
「あ、あんた……。霊魂じゃなかったの?」
「いや、霊奈がそう言うから、そのつもりだったけど、……違うのか?」
「あんた、私がぶん殴ることができるじゃない。叩くことができるじゃない」
俺もやっと気がついた。霊奈は今、肉体と一体化している。俺が霊魂なら話すことはできても、殴るどころか触れることもできないはずだ。
「そんな馬鹿な……。トランスポイントは肉体を持ったままだと通過できないはず。だからあんたは霊魂だったはずよ。それなのに……」
そうだ。霊奈が自分の肉体と一体化した後、俺は霊奈に触れることはできなかった。その後、あの黒ローブの男が襲って来て…………。
あれ? そう言えば、その黒ローブの男は?
「霊奈。それよりあいつは?」
――そうだ。こんなことをしているうちに大鎌を持って近くに迫っているかもしれない。
霊奈も思い出したようで、霊奈とともに用心深く辺りを見渡してみたが人影は見えなかった。黒ローブの男が立っていたと思われる場所まで行ってみると、黒いローブが地面に落ちていたが、その中身はどこにもいなかった。
「逃げたのかな?」
俺は霊奈に訊いてみたが、霊奈も見当が付きかねているようだった。
「さあ、……そうかもね」
霊奈は、俺から顔を背けながら、黒いローブを指さして言った。
「と、とにかくそれでも羽織りなさいよ。見苦しいたらありゃしない」
何だよ。貧弱の次は見苦しいかよ。まあ、ギリシャ彫刻のような洗練された肉体美とはいえないだろうが……。
もっとも俺も露出狂の趣味は無いので、とりあえず黒ローブを羽織った。他人が着ていたものを素肌に直に着るのは若干抵抗があったが、変な臭いはしなかった。
俺が服を着て、霊奈も少し冷静になったのか、腕組みをしながら考え込んでいた。
「あんたはトランスポイントを通過した時点では確かに霊魂だった。獄界に来てから黒ローブの男に襲われた。それから、……あの衝撃」
霊奈は俺の顔を見ながら話を続けた。
「これは一つの仮説だけれども、……黒ローブの男が落雷の直撃を受けて即死した。あんたはその一瞬の隙に黒ローブの男の肉体を乗っ取ってしまったのかも……。うん、この状況はそう考えざるを得ないわ」
「ちょ、ちょっと待て!」
俺は辺りをきょろきょろと見渡して、鏡のように俺の姿を映してくれるものを探したが見当たらなかった。しかし、月が川面に写っているのに気づき、水際まで歩いて行った。一瞬、中学校の時に川に落ちた時のことが脳裏をよぎって不安感に駆られたが、ゆっくりと上半身を川面に写してみた。
月と星の明かりで川面に写っていたのは、…………間違いない。俺だ。俺の顔だ。
それからちょっと黒ローブをはだけて体も確認してみたが、俺の体に間違いなかった。
俺は振り返って再び霊奈の側に近づいて行った。
「俺は俺だ。顔も体は何も変わっていないぞ」
「あんたは浄化されていない霊魂だったんだから、黒ローブの男の体を自分の記憶している容姿に変えたのかもしれないわね」
まったく分からない。「浄化されていない霊魂」って何だ? 俺は整形外科の医者でもないのに、黒ローブの男の体を自分の姿形に変えたって言うのか?
「すまん、霊奈。俺は霊奈の言っていることがまったく理解できないんだが」
「当たり前よ。あんたは地界から来たんだから」
「いや、そういう意味じゃなくて、説明してほしいんだけど。『浄化されていない霊魂』って何だ?」
「そうね。……あんたはもう地獄に行く必要はなくなったはずだけど、私も至急、上に報告をしなければならないし、実際、あんたを連れて行って説明をした方が話が早いと思うから、あんたも一緒に地獄に来て」
「霊魂じゃなくなっても地獄に行って良いのか?」
「別に地獄は秘密の場所でなくて、見学者用のコースも完備されているくらいだから」
「そ、そうなのか」
獄界の修学旅行なんかでは必ず見学コースに入っているんだろうか?
「『浄化されていない霊魂』の説明は……」
「地獄に行く間にしてあげるわよ。あっ、それから、……さっきはありがとう」
ちょっとはにかんだ霊奈に何故か胸がときめいてしまった。
――こいつも可愛いところがあるじゃねえか。最初からそういう態度でいてくれたら俺は尻尾を振ってついて来たのに。
――でも、俺、お礼を言われることをしたかな? 思い当たることといえば、黒ローブの男に向かって行ったことくらいだが……。しかし俺が助けたわけじゃないし……。
「結局、俺は何もしていないって……」
「ううん。……とにかく行こうか」
そう言うと霊奈は、最初に行こうとしていた堤防の上に続く道を先に歩き出した。俺も霊奈の後に続いて堤防の上まで行くと、そこには一台の白いスクーターが停めてあった。俺が乗っていた原付スクーターよりも大きい。一二五ccくらいの大きさだな。しかし、先進的なスタイルだなあ、タイヤが無いなんて………………。
いや、タイヤが無ければスクーターじゃないだろ! 何なんだ、この乗り物は。
霊奈はそのスクーターもどきの乗り物に近づくと、右手をハンドルの中央付近にかざした。すると、モーターが回るような音が微かに聞こえてきた。
「これは?」
「私達ソウルハンター専用の乗り物よ。『エア・スクーター』っていうの」
「エア・スクーターっていうことは、ひょっとして空を飛べるとか?」
「そうよ。この後部座席の下には霊魂を固定することができる霊魂シートベルトが装備されていて、回収した霊魂をこれで地獄まで運ぶのよ」
「俺はもう霊魂じゃないみたいだが、乗れるのか?」
「まあ、普通に二人乗りもできるから」
霊奈が運転席に足を揃えて座ると、俺は後部座席に跨った。
「それじゃ、ちゃんと掴まってってよ」
そう言い終わるまでに、エア・スクーターは助走をすることもなく、夜空に向かって急上昇した。俺は後ろにひっくり返りそうになって、思わず霊奈のお腹に両手を回してしがみついた。
「ちょっと、どこ触っているのよ!」
霊奈の奴、上半身だけ振り返って、本気モードの鉄拳を俺の脳天に食らわしてくれやがった。今日、何発目だ?
「掴むところが無いんだよ!」
「後ろにあるでしょ!」
よく見ると後部座席の後ろにバーがあった。俺は両手を後ろに回してバーを掴んだが、吹っ飛ばされそうになることは変わらなかった。飛ばしすぎだ、霊奈。俺はヘルメットも被っていないし、パラシュートだって背負っていないんだぞ!