三姉妹(14)
――――俺が獄界に来てから数日が過ぎた。
学校の勉強はまったく楽にならなかった。慣れていないだけというのは単なる言い訳にすぎず、やっぱりレベルが高すぎだ。
かといって居候させてもらって学校にも通わせてもらっている手前、地界にいた時の三倍は勉強をした。いや、俺にとっては一生分をまとめてしたと言っても過言ではない。これまでほとんど使わなかった脳を酷使しただけに疲労困憊って感じだ。
しかし獄界にも土曜日と日曜日があった。――だが、待てよ。一週間って聖書から来ているんじゃなかったっけ? 獄界の創造主も七日目には疲れたってことなんだろうか?
まあ、そんなことはどうでも良い。獄界に来て初めての休日だ。久しぶりに朝寝坊するかなと思って目覚まし時計をセットしないでいたのに、いつもと同じ時間に自然と目が覚めてしまった。
もう少し寝ようとしていたら、ドアがノックされた。
「真生さん、朝ご飯ができましたよ」
「あっ、は~い。今、起きます」
幽奈さんの優しい声で起こされると起きざるを得ないだろう。霊奈の声だったら無視して寝てるけどね。
パジャマのままダイニングに行くと、妖奈ちゃんが今日はちゃんと洋服に着替えて朝食を食べていた。今日は休日だからか、珍しくトーストとベーコンエッグ、サラダに紅茶という洋食メニューだった。
「あっ、お早う、真生兄ちゃん!」
「お早う。今日は学校休みなのに早いんだね」
「そろそろ迎えの車が来るはずなの。学校が休みの時は番組の収録とかレコーディングとかの書き入れ時だから」
――そうか。ちゃんと中学校にも通っている妖奈ちゃんがまとまって芸能活動のための時間が取れるのは学校の休日しか無いよな。
間もなく玄関のチャイムが鳴った。どうやら妖奈ちゃんの芸能事務所の迎えの車が来たようだ。
「それじゃあ、行ってきま~す」
妖奈ちゃんはトーストを一欠片持ったまま席を立った。
「妖奈、大丈夫?」
幽奈さんが妖奈ちゃんの側に寄りながら心配そうに声を掛けた。
「大丈夫だって。トースト二枚も食べちゃったし」
「無理しないようにね。晩ご飯は?」
「たぶん間に合わないと思うから用意しなくていいよ」
「分かった。行ってらっしゃい」
「じゃあね、真生兄ちゃん」
妖奈ちゃんはニコニコと俺に手を振りながらダイニングから出て行った。
幽奈さんが妖奈ちゃんの食器を片付け始めると食卓にはもう俺の食器しかなかった。
「幽奈さん。霊奈は? ひょっとしてまだ寝ているんですか?」
「霊奈も今日はお仕事があると言って、もう出かけましたよ」
「仕事って、死神の仕事ですか?」
「ふふふふ。そうですよ。でも死神って面白いネーミングですね」
いや、俺が付けた名前じゃないんですけど……。
「霊奈は晩ご飯までには帰って来るって言っていましたよ」
「そうですか。……それじゃ龍岳さんは?」
「お父様も党本部に出かけています」
「……そうですか」
ということは今日は幽奈さんと二人きり。…………俺、ちゃんと理性が保てるかな?
――いやいや、そんなことより、この家族はみんなが休日も働いている。幽奈さんも家事を一手に引き受けている。居候の俺が何もしていないことがちょっと後ろめたくなってきた。せめて幽奈さんの手伝いでもしようかな。
「幽奈さん。俺、今日はずっと暇ですから何かお手伝いできることがあれば言ってください。お使いでも掃除でも何でもしますよ」
「ありがとうございます。でも真生さんにやっていただくと私の仕事が無くなってしまいます。真生さんもせっかくこっちの世界にやって来たんですから、色々と見学に出かけられたらいいんじゃないですか」
――良いな、幽奈さん。断り方にも暖かさがあるというか、品があるというか。
「それじゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと出かけてみます」
「ええ、どうぞ。……あっ、そうだ」
幽奈さんは、何かを思い出したかのように一旦ダイニングから出ていったが、すぐに携帯電話を一つ持って戻ってきた。
「これ、真生さんの携帯です。家族みんなの番号も登録していますから持っててください。出かけられて困ったことがあったら、すぐに連絡をしてくださいね。私は今日はずっと家にいますから」
幽奈さんとのホットラインゲット!
「それから、これも……」
幽奈さんは紙幣を何枚か俺にくれた。
「お金が無いと困るでしょう」
「こんなに良いんですか?」
「自分の気に入った服とかもそれで買ってください」
とっとと俺を放り出そうとした誰かさんとは大違いだぜ。
俺は出掛ける前にネットで獄界の地図を確認してみた。並列世界だけあって、その地形は地界とまったく同じであり、違うのは地図上に国境が無い事だけだった。そして、一つの国でもある獄界の首都は、エンマのある所、地界での東京と同じ位置にある、その名も「エンマシティ」であった。龍岳さんの家もエンマシティの郊外にあった。
俺は印刷した地図をポケットに入れて家を出た。学校までの通学路は何回か通ったが、それ以外の場所には一人で行ったことが無い。玄関の前でまずはこの近辺の地図を見ながら辺りを見渡してみた。……まずはここから歩いて五分くらいの所にある地下鉄の駅に向かうとするか。
――んっ、何だ、ありゃ?
駅に向かって歩こうとした俺は電柱の影から突き出ていた大きなカメラのレンズが引っ込むのを見た。……今度は隠し撮りか? 何で俺って獄界ではこんなにモテるんだ?
俺はしらばっくれて、その電柱の方向に歩いて行った。電柱を通り過ぎると見せ掛けて、急いで振り返ると、大きなカメラを持った男が逃げようとしていた。
「待て! どうして逃げる?」
俺はすぐにその男を捕まえて首根っこを押さえ付けた。
「おい、人の家の前で何を撮影しているんだ?」
「すみません、すみません。何にも撮影なんかしていません」
既に涙声になっているそいつの顔をみて驚いた。
「狐林じゃないか!」
「あっ、真生の旦那」
狐林の奴、地獄で仏を見たような安堵の表情を浮かべやがった。でも、いくら友人でも許されることと許されないことがあるぞ。
「何しているんだ、こんな所で? しかも、そんな大きなカメラを持ちやがって」
「いや~、この辺りの風景も良いでがすね。言い忘れていましたけど、あっしは写真を撮ることが趣味なんでがすよ」
「この住宅街のどこにカメラマンの芸術心を煽るような風景があるというんだ。お前、まさか俺の家、というか霊奈の家を盗撮しようとして隠れていたんじゃないだろうな? 返答次第では俺も怒るぞ!」
俺は狐林の胸ぐらを掴んで締め上げた。
「ひえ~、ご勘弁を。けっして風呂場を覗こうとかカーテンの隙間から寝室を覗こうとかしていません」
自分から白状してんじゃないかよ。
「俺は一応、この家の三姉妹の親戚だからな。そんな犯罪みたいなことを許すわけにはいかないぞ」
「本当に何もしていませんでがすよ。妖奈ちゃんが出て来るのを待っていただけでがす」
「それじゃ撮影済みの画像を見せてみろ」
俺は撮影済み画像をデジタルカメラの画面で逐一確認したが、この家の周辺で撮影したような写真は一枚もなかった。もっともどこかのステージを撮影したような妖奈ちゃんの写真は複数枚残っていた。
「お前、本当に妖奈ちゃんのファンなんだな」
「妖奈ちゃんはあっしの天使なんでがす。今日も妖奈ちゃんのお姿を見たくて、ここにやって来てしまったんでがす」
「あのなあ、ステージの妖奈ちゃんを撮影するのは結構だが、この家にいる妖奈ちゃんは御上妖奈という、まだ中学二年生の女の子なんだ。家まで押し掛けてプライベートの写真まで撮ろうとするのは感心できないな」
「わ、分かりやした。旦那がそうおっしゃるんであれば今後一切しやせん」
「そうしてくれ。それに今日は妖奈ちゃんはとっくに出かけているぞ」
「え~、そんな~。ずっとここで妖奈ちゃんが歩いて来てくるのを待っていたのに~」
――まったく危ない上に馬鹿だ、こいつは。アイドルの妖奈ちゃんが歩いて収録現場まで行くと思っていたのか?




