第十話『ほんの少しの理解と交流と』
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「――う……」
瞼を開いた時、まず初めに目に入った天井は、最後に覚えている青空とは違う木造の無機質で淀んだ空だった。
ここに初めて訪れて、意識を取り戻した時と同じ状況である。だが、あの時とは少々違うようだ。一つは、今いるこの場所はエルゼと使っていた部屋ではないと言う事。二人で使用していた部屋は、先程の敵船の大砲により既に破壊されてしまっているのだから。
窓から、きつい潮の匂いが入ってくる。若干の眩暈を覚えながらも、彼女はある事に気が付いた。
この部屋に寝ているのが、自分一人だけではないと言う事である。それは、ディオンだ。隣のベッドでは、ディオンが寝ているのである。頭には包帯を巻き、未だ意識を取り戻していないようだった。
「……」
何が起きたのか、思い出せない。あの時、確か自分は敵船員に襲われ掛けた。だが直前、目の前が真っ暗になったのは覚えている。鈍器で殴るような鈍い音が聞こえて、ロゼッタは自身が殴られたのだと思った。しかし、痛みは感じなかった。
あの時、殴られなかったのだ。殴られたのは、別の人物なのである。しかし、それが誰かまでは記憶になかった。
「ああ、目が覚めたかい?」
聞き慣れない声に、ロゼッタは身を強張らせながら上半身を起こす。
男は両手を振り、自身が何もしないと証明する様な素振りを見せた。焦げ茶色の髪を後ろで緩く一つに結び、鼻の下と顎に無精髭を蓄えた碧眼の男だ。
恐らく、ジゼル達と同じように海賊の一人なのだろう。だが男は海賊とは思えない程に穏やかな雰囲気を漂わせていた。
「そう言えば、まだ君とはちゃんと話した事がなかったね。私はギルバート=オーデン。このセイレーン号の船医を務めている者だよ。初めまして、ヴェリーニ」
「船医……」
どうりで船長のジゼルやディオン達とは違って落ち着いた雰囲気を漂わせている筈だ。まさか、このセイレーン号に医者まで乗り合わせているとは思いもよらなかった。
だが、ロゼッタは警戒を解かない。いくら医者とは言え、彼も海賊の一人だ。危険な人物である事に変わりはなかった。
「おっと、どうやら私も警戒されているらしい。まあ、君の仕事柄、それは仕方ない事なのだろうけど。とにかく、元気そうで安心したよ。敵船も無事に追い払えた事だし。彼も、護った甲斐があったというものだ」
「護った甲斐? ……何の事だ」
「おや、もしかして覚えていないかな? そうか……それは、彼があまりにも不憫だなあ……」
彼の言葉にやや釈然としないまま、ロゼッタは沈黙する。ギルバートは真っ白な陶器のカップに茶を注ぎ、彼女に手渡した。
ほのかに甘さを感じさせる独特な香りが、心をほっとさせてくれる。これは恐らくソルベの茶葉を使った紅茶だ。ソルベの茶葉は心を落ち着かせてくれる効果があると言われているが、あまり一般では知られていない。主に医師が医療の際に用いるものである、とかつて隊長に教わった事があった。
「……その、彼と言うのは一体誰の事を言って?」
「気付かないかい? 君の隣で眠っている人、だよ」
泡を食ったような表情で目をぱちくりとさせている彼女を見て、ギルバートは笑った。
ディオンに自分は助けられたのか……と、ロゼッタは複雑な心境になる。思えばこの船に来てから、彼はやたらと自分に関わってきた存在だ。ロゼッタにとって彼は苦手であり、また不思議で仕方がなかった。どうして、自分にそんなに関わってくるのか。
そして今も、こうして身を助けてもらったらしい。何の意図で助けたのか、それも理解が出来なかった。
「……おっと、そうだった。悪いけど、私はこれから船長と話があるので少し失礼するよ。一応手当はしてあるけど、しばらくはそこで休んでいると良い。では、ね」
ギルバートは部屋を後にする。静寂に包まれた部屋の中で、ロゼッタは眠り続けたままのディオンの横顔を覗いた。
あの時、覆い被さってきた黒い影は彼だったのだ。彼が庇ってくれていなければ、今頃こんな風に意識をはっきりとさせて過ごしていなかったかもしれない。ディオンに助けられたのは、紛れもない事実だ。
「……感謝、しなければいけないな……」
「――へえ? 誰に誰に?」
突然の声に、ロゼッタは思わず飛び上がりそうになる。目をやると、屈託のない笑みを浮かべているディオンの姿があった。
無事であった事を一瞬喜びかけて、すぐに顔をしかめる。
「……どういう事だ?」
「あ? 何が?」
「惚けるな! 何故、私を助けたという事だ!」
ロゼッタは声を張り上げた。いざ彼が目覚めると、先程まで思っていた感謝の念もどこかへとなくなってしまったかのようであった。だが、彼女自身、感謝の念を忘れたわけではない。忘れたわけではないが、何故助けられたのかが分からない為に、苛々をぶつけてしまったのである。
驚いたように目をぱちくりとさせていたが、すぐにディオンはまた笑みを浮かべた。
「何でって、当たり前だろ? 危ない目に遭ってる奴がいたら、助けるに決まってんじゃん。お前が強いのは分かったけど、それでも危ない時は助けるさ」
「私は兵士だ。誰かの助けをもらいながら戦いなど、あってはならない。ましてや、海賊の助けなんて……」
「……」
ディオンは何を思ったのか、ベッドの傍に置いてあった剣を取ると抜く。そして、それを彼女に手渡した。予期しなかった彼の行動に、ロゼッタは瞠目する。
あれほど求めていた剣が、今手元に置かれているのだ。これがあればきっとエルゼを助けられる。海賊も、全員倒す事が出来る。出来る筈だが……彼女の心の中で、何かが引っ掛かった。
「……どういう事だ?」
「いや、前に言ってただろ。海賊が憎いって。何でか知らねえけど、お前がそんなに海賊が憎いなら、俺を殺せば良い。俺は逃げたりしねえから。だって、海賊になって後悔なんてしてないからな。殺したきゃ、俺を最初に殺せば良いさ」
「……」
理解出来ない。どうして、彼はそこまで海賊にこだわるのだろうか。それほどまでに、海賊とは良いものなのだろうか。
いや、良い筈がない。彼らがやっている事は全て犯罪だ。そしてそれを取り締まるのが、ロゼッタの役目。だからこれまでも、多くの海賊を検挙してきた。父に絶望したあの日から、彼女は海賊を忌み嫌っていた。それは今も変わらない。
でも、何故か今は手が動かない。いつもなら躊躇などしない筈なのに、体が全く言う事を聞かないのだ。
「どうしたー? 早くしないと、逆に剣奪っちまうぜ?」
「……これは、返す」
ロゼッタは剣を彼の胸に押しつけた。ディオンは少し驚いたような表情を見せたが、黙ってその剣を受け取る。
それから、彼女は俯いたまま動かなかった。それが何故なのかディオンには理解出来なかったが、それでも隣で空を眺めていた。
しばらくして、最初に沈黙を破ったのはロゼッタだった。
「……ディオン、お前は、どうして海賊になった?」
「俺? あー……話すと長いぞ? 俺な、奴隷だったんだ」
「奴隷!? まさか、まだそんな制度が残っているとは……」
「ゼノスじゃねえぞ? 俺はヴェルドットの出身なんだ。貧しい家だったからさ、母さんと二人とも奴隷市場で売られてたんだ。俺はそこでジゼル船長に助けて貰ったんだが、母さんは何処かの貴族に買われたらしくて……俺が海賊になったのは、船長への恩を返すのと同時に母さんを探す為なんだ。いろんな所を回ればきっと母さんも見つかるだろうし、な」
「……そうか」
正直なところ、彼女はまだ彼ら海賊の事を信じられずにいた。例えこの話が本当の事だとしても、犯罪に手を染めてまでする事ではないと思えるからだ。
だが、完全に悪者だと決めつけてはいけない気がする。実際、エルゼは彼らに助けられたと説明していた。そしてロゼッタ自身も、ディオンに助けられた。
見定める為にも、この船に乗船するのは丁度良いものかもしれない。
「なあ、ロゼッタ……あっ、じゃなくて、えーと……」
「……好きに呼べ」
「え? 良いのか?」
「良く考えれば、呼び名などくだらない事だ。そんな事で意地を張っても仕方ないだろう」
「ふーん。ちょっとは俺を認めてくれたって事か?」
「言っておくが、お前達の事を認めたわけではない。勘違いするな」
そう言って、彼女はふいと顔をそらした。ディオンはそんな彼女の顔を横目で見ながら、少しだけ口角を上げる。気がつくと、きつく感じていた潮の匂いに慣れ始めているようにロゼッタは感じた。
何度か、あの時の記憶がよぎる。しかし、彼らからは何か違うものを感じた。全てを信じるわけではないが、絶望するには、まだ早い。