神と仏と希望と嘘
健太郎は失敗したと思った。自分の生き方に対してだった。過去を振り返ってみると、宗教にのめり込んでしまった。現代の日本人の大半が宗教を持っていないもしくは毛嫌いしているというのは今の健太郎には分かっている。しかし、宗教にのめり込んでいた当時の健太郎自身にはその見解は微塵もなかった。
今の健太郎が信用している人はこんなことを言う。人は見たいものしか見ない、と。確かに健太郎もそう思う。人の主義主張は中々変えられない。心の中でそんなものだと妥協するしかないのだと。しかし、健太郎には心の部分で固い確固とした自分というものがいて、その自分がどうにも人の主義主張を受け入れられず反抗してしまう癖があった。そういう直情型の性格故に過去の宗教生活というものを経験してしまったのだ。
宗教はオアシスだった。これさえ信じていればいいという安心感があった。そういう盲目的な心情が健太郎にはもともと体質的にあったのだろう。だからこうして今その宗教から抜け出せたという状態はある意味において危険かもしれないと彼は思っていた。あのまま信仰心篤く宗教を続けていたとしたらまだ幸せだったかもしれない(体質的に健太郎には無理だが)。自分を俯瞰して見ることができる健太郎は、そういう意味では賢かった。しかし、それはどこか危険な危うさを孕むものでもあった。
一種の希望めいたものが健太郎には欲しかった。宗教という嘘を経験したにも関わらず、まだ彼自身は微かな人生の光を追い求めていた。そういう意味においては健太郎は暗愚であった。またしても、同じ過ちを犯そうとしているのだから。でも、と思う。それでもこの何気なく生きている人生に対する微かな希望を持っていたい。持っている自分でいたい。そういう感情が心の奥底からふつふつと湧き上がってくるのだ。
そんなふうにして健太郎は夜に悶々と考えていることが多かった。考えて一種の自己満足のような結論に達すると、彼自身は少し満足して眠りにつくのであった。