問題です。
「さて、問題です」
俺の胸部にナイフを突き立てたまま、委員長の峰岸が顔を近づけてくる。
真っ黒に歪んだ瞳に、怯えた表情の俺が反射して見えた。
「このナイフは、はたして本物でしょうか?」
言われて俺は、恐る恐る自分の体を見下ろした。
委員長が右手で握るナイフの柄は、俺の胸に密着している。
どう見たって刺されている。
だけど俺の制服に、血は染みていなかった。
「偽、物……?」
震える呟きに、委員長が満足気な笑みを浮かべて1歩下がる。
白くて華奢な腕が、俺の胸元から離れていく。
その右手に握られたナイフの刀身は白く、輝いたままだった。
血は、一滴も付いていない。
自分の制服のうえから胸部を触るが、やはり、傷口なんてなかった。
「引っ込むタイプのおもちゃかよ。じょ、冗談キツイぜ」
ゴクリと生唾を飲む。
依然として俺の耳元には、羽虫が飛ぶような低い耳鳴りが聞こえていた。
この耳鳴りは、近くに他の契約者がいると聞こえるものだ。
加えてこの行動。間違いなく、委員長は契約者だ。
だけど俺は、自身が契約者だとバレるような行動はとっていない。
カマかけは、まだ続いているはずだ。
委員長のこの眼を見ろ。
この観察するような眼を。
きっと峰岸は、俺の反応を見ているに違いない。
突然の奇行を冗談で済ませようとした俺に対し、峰岸はナイフを小さな鞘にしまった。
そしてただ世間話をするように、淡々と尋ねてきた。
「お母さんと妹さん、お元気?」
思わず、ぎょっとした。
この言葉の真意は、『お前が家族の死を拒んだことを知っている』だ。
じゃなけりゃ、今ここで俺の家族に言及する理由がない。
俺が契約者だと、バレている。
態度に出しちゃいけないのに、俺の眼は見開いて、クスクスと笑う峰岸を凝視する。
「さて第2問。ミチル君の家族仲は良い方ですよね。なのにどうしてあの時、あなたは車に乗らなかったのでしょうか?」
やべえ、頭が回らねえ。
いや回らないんじゃない。回すんだ。
考えろ、理由はなんだ。
俺が拒絶したのは『家族の死』であることはバレている。
そう告げれば勝てるのに、峰岸がそうしない理由はなんだ。
俺を生かしておくことにメリットがあるのか?
余裕ぶっこいてるだけか?
どちらにせよ、主導権は完全に握られている。
とにかく話をつなげて、峰岸が『何を拒絶したか』を探るんだ。
峰岸に『宣言』される前に、コイツの決定的な弱点を握らなければならない。
ぐるぐると対策を考えていた俺に、峰岸がピアスを隠すようにして、右耳にかけた黒髪をその細い指先で下ろす。
「私が何を拒絶したかを考えているの? ふふ、それなら最後の問題です。ミチル君を刺したあのナイフ。あれは本当に、偽物でしょうか?」
峰岸はそう言って、静かに微笑んだ。
「正解は放課後、教室で。さ。授業は始まっているわ。ホワイトボードを転がして、教室に戻りましょう」
そうして呆然と立ち尽くす俺を置き去りにして、峰岸はホワイトボードを転がして準備室を出て行った。
その後。俺は授業に、一刻も集中できなかった。
集中なんてできるわけがなかった。
『家族の死を拒んだこと』を言い当てられたら、俺の魂は悪魔に喰われる。
魂の捕食――おそらくそれは、完全な死を意味するだろう。
そして俺が死ねば、家族の魂も消失してしまう。
負けるわけにはいかない。もう家族は死なせない。
勝つのは俺だ。
授業が終わり、帰りのホームルームの時間。
俺の目は、右端の最前列に座る峰岸に向いていた。
ヤツは優等生だ。
おとなしい性格で教師からの信用はあるが、容姿の端麗さに比べて発する雰囲気は暗く、どこか不気味で、クラスメイトからの人気は低い。
面倒ごとを押し付けられ、いつも独りでいるようなヤツだ。
考えろ。
ヤツが何を拒絶したか。
どんな願いを叶えたか。
悪魔と契約してまで、峰岸が得たかったものは何だ。
「……」
悪魔と契約した時点で、拒絶した事象は現実から排除される。
無かったことになる。
つまり、俺がいま認識できている事象を、峰岸は拒絶していないということだ。
クラスメイトからの陰口も、貧弱な体力も、それを俺が認識できている時点で、峰岸にとっては拒絶するに足らないことだと意味している。
もしかしてアイツ、自分に興味がないのか?
……いや、そんな人間はいない。
人間は、利益を求める生き物だ。
拒絶するなら、不都合な現実のはず。
順当に考えるなら、ヤツの長所に視点を合わせるべきだ。
圧倒的に不利な状況に奥歯を嚙みしめて、ほとんど睨むように峰岸を見る。
峰岸の長い黒髪は、シャンプーのCMかってくらい艶がある。
顔だって小さいし、スタイルだって良い。
滲み出る不気味さと陰湿なオーラさえなければ、外見は1軍女子だ。
もっともその外見の良さが、女子から標的にされた要因なわけだが……。
容姿を変えたいという願いのために、悪魔と契約するだろうか。
「なんだよミチル。そんな熱い視線を送ってよお。根暗岸さんに惚れたか?」
「やめろ。そういう気分じゃねえんだ」
「うんち」
俺の視線の先に気づいたのだろう。
隣に座っている友人の翔太が、アホみたいな変顔を向けてくる。
「んまあ、根暗岸さんの冗談は置いといてよお。さっきの問題、分かんねえんだけど」
問題。
その言葉で、峰岸の舌ピアスが脳裏に浮かぶ。
【問題です】。
あの静かで不気味な声が脳内に響いたと同時。
峰岸が振り返って、俺を見て笑った。
マスク越しでも分かるくらいに、はっきりと。
「え? いまの、え? お前ら、もしかして付き合ってる? ごめんな、お前の彼女のこと悪く言っちまった。訂正するわ。峰岸さんは根暗じゃねえ」
「……そうか。あれは問題じゃねえ、ヒントだ」
どういうわけか、峰岸は『俺が拒絶した事象』を宣言しなかった。
それどころか問題と称して、俺に考える材料と時間を与えた。
そこに、どんな意図がある?
おそらく問題の答えは、『峰岸が拒絶した事象』だ。
だけど俺がそれを言い当てたら、峰岸は死ぬはず。
破滅願望でもあるのか?
「おおん。問題12って書いてあっただろ。これはヒントじゃねえよぉう」
「家で復習したら分かるだろ。ちょっと黙っててくれ」
翔太がしゅんとなって頭をかかえる。
だけどこちとら死活問題だ。余裕なんてない。
「なんかお前、今日当たりキツくない? まあいいや、また明日な!」
「おう、また明日な」
帰りのホームルームが終わり、生徒がまばらに教室を出て行く。
部活にいく者、帰る者、教室に残ってダべる者。
一様な行動をとるクラスメイトの中、俺と峰岸だけが誰とも関わらず、ただ自席で取り残されるのを待つ。
やがて上階から吹奏楽部の音が聴こえ始め、グラウンドから届く野球部の声が活発になってきた頃。
2人きりの教室で、峰岸が立ち上がって教室のドアを閉めた。
左方の開けられた窓から初夏の風が吹き、行き場を失い教室中を駆け巡る。
壁に張られたプリントが波打ち、落ち着くと同時。
峰岸が、俺の席の前までやってきた。
「問題、解けました?」
感情のこもっていない声色で、峰岸が目を細めて問う。
「事故の当日、なぜ俺が車に乗らなかったか。あのナイフは偽物か。そういう問題だったな」
あの日、俺が車に乗らなかったのは気分じゃなかったからだ。
それ以外の理由は――。
いや、待て。
もし『気分じゃない』という想いが、悪魔との契約によって変えられた、俺の行動だったとしたら。
本当はあの日、俺は家族と一緒に、出掛けていたとしたら。
「んふふ」
ようやく回り始めた思考が、考えたくもない答えを導き出す。
峰岸が俺の顔を見て、頷いた。
「お前、……お前が拒んだのは、俺の死か……?」