プロローグ中編③
「おはようございます、一樹様」
母屋に戻った一樹を、一人の少年が出迎えた。
そばかすの残る丸顔は子供っぽさが抜け切れておらず、七三分けと太縁眼鏡は如何にも堅物といった感がある。
濃緑色を基調に赤白黄色のラインをあしらったブレザーとチェック柄のズボン、シックな黒のローファー、桜ヶ崎高校の制服に身を包んだ少年は、一歩下がって一樹の後に付き従っていく。
「ケイ……」
「一樹様、私の事は恵一とお呼び捨て下さい」
「……」
「シャワールームの用意が出来ております。それと、本日の朝食はパティ・ド・カンパーニュ、そば粉のガレット、コンソメの冷製スープ、真鯛のポワレのレモンクリームソース添え、スイカのソルベ、フォアグラのソテーにキャビアを添えて、夏野菜と生ハムのサラダ、三種のチーズ盛り合わせ、ヨーグルトに四種のベリーソースを添えて、旬のフルーツ盛り合わせ、バタークッキーとデミタスコーヒーまたは紅茶となっております。お飲み物にはアップルジュース、グレープジュース、オレンジジュース、ミックスジュース、ミルク、ソイミルク、アーモンドミルク、コーヒー、紅茶、ミネラルウォーターをお選びいただけます。コーヒーはブルーマウンテン、モカ・マタリ、スプレモ・ブカラマンガ、ハワイ・コナ、マンデリン、紅茶はダージリン、キームン、ヌワラ・エリア、ニルギリ、ルクリリをご用意しております」
「そうか、今日は長宗様が御在宅か……」
朝食のメニューを聞いて、呆れと共に溜息をつく。
義父――長宗の好みにとやかく言うつもりは無いが、幾ら何でも朝からやり過ぎの感はあった。
シャワールームの扉を開きながら、背後の恵一に向けて一言言付けていく。
「軽く済ませられる様に、サンドウィッチの用意をしておいてあげて……僕は、用意が済んだらそのまま食堂に行くから」
「かしこまりました」
熱いシャワーで汗を流し、冷水を浴びて身も心も引き締めていく。
朝から続く言い知れぬ不穏な感覚と憂鬱の連続に辟易としかけた心も、冷たい水で気持ちが切り替わるのを感じる。
シャワーを終えて更衣室で着替えていると、背後でガチャリと扉が開く音がした。
「まぁ、ごめんなさい。お義兄様がいらっしゃるとは思わなくて……」
一樹が振り返ると、小柄な少女が更衣室へ入って来た。
腰まで届く艶やかな黒髪に透き通る様な白い肌、整った小さな顔立ち、細っそりとした手足は長く華奢ながら体付きには女性らしい丸みも見て取れる。
飾り気のないシンプルな白のワンピースと髪を後で軽く纏めたピンクのリボンが、美しく輝く黒髪に良く映えていた。
少女は羞恥に両手で顔を隠して、本人としてはこっそりと指の間から一樹の裸体に見入っていた。
「巴ちゃん、入る前にノックくらいはして欲しいかな?」
「本当に申し訳ないですわ、お義兄様……」
口許に手を当て伏し目がちに顔を逸らす巴だが、チラチラと様子を伺う目線が全く隠せていない事までわざわざ指摘する気は一樹には無い。
一樹がシャツに袖を通すと、巴の口から小さな溜息が漏れるのが聞こえたが、努めて無視して着替えを続ける。
「僕はもう食堂に行くけど、巴ちゃんは?」
「はい、ご一緒致します。あぁ、お義兄様、ネクタイが歪んでましてよ?」
巴はついと一樹に寄り添うと、自然な動作で制服のネクタイを締め直していく。
「そうかい?悪いね……」
「いいえ、お義兄様は何時だって完璧です……」
巴は一樹の胸元にそっと顔を埋めて、甘い吐息を吐いていた。
「巴ちゃん?」
「兄妹ですもの、これ位のスキンシップは普通ですわ……」
「はぁ、もう食堂に行くよ?ほら……」
あっさりとその身を離す一樹の態度は実に淡白で、それでいて小柄な巴にさりげなく歩みを合わせる気遣いを感じさせる振舞いに、巴は何時も煩悶とするのであった。
……
…………
………………
一樹達が食堂に入ると、既に先客が朝食の席に着いていた。
艶やかな黒髪を後に纏め上げ淡い色彩の着物を着付けた若い女性と、仕立ての高級なブランド物のスーツ姿に禿頭で痩せた年嵩の男性──龍次と巴の両親である。
「長宗様、明子様、おはようございます」
「お父様、お母様、おはようございます」
「はい、巴さん。おはようございます。……所で、一樹さん?」
「……義父様、義母様、おはようございます」
「はい。おはようございます、一樹さん」
「ふんっ!……巴、おはよう」
一樹は、にっこりと笑う義母──明子の無言の圧に負けて言葉を紡ぎ直した。
長宗はその遣り取りに不快そうに一樹を一瞥しただけで、直ぐに巴に向き直って挨拶を返す。
公の場では夫を立てる明子も、プライベートでは一樹の事をはっきりと子供として扱っている。
長宗としては酷く気に入らないのだが、龍宗の手前もあり表立って異を唱える事は出来ないのだった。
テーブルの上のメニューは、やはり事前に聞いていた通りだった。
朝からコース料理のボリュームを見せる朝食に、巴の顔が引き攣り気味になっていく。
一方で、一樹は何食わぬ顔をして席に座ると、平然と料理を口にした。
その様子を見てとり、不快感を全く隠そうともしない長宗は、朝食の残りを一気に掻き込むと乱暴に席を立った。
「チッ、私は仕事がある!もう行くぞ!!」
「はい、貴方。行ってらっしゃい……」
長宗はフンッと鼻を鳴らすと、足音も荒々しく食堂を後にしたのだった。
その長宗の出て行った扉から、入れ違いに一人の男が食堂に入ってくる。
「おいおい、親父は随分と機嫌が悪そうだなぁ」
日焼けした浅黒い肌に派手に染めた金髪、桜ヶ崎高校の制服を着崩してこれ見よがしにピアスとネックレスを身に付けている。
鋭い目付きが印象的な精悍な風貌は、見た目の軽薄さを消してワイルドな雰囲気を醸し出していた。
「母さん、巴、……一樹、おはよう」
「はい、龍次さん。おはようございます」
「お兄様、おはようございます」
「龍つ……義兄さん、おはよう」
龍次はドカリと席に腰を下ろすと、早速朝食を口にしながら一樹に声をかけていた。
「一樹、道場で何してたんだ?」
「あぁ、ただの試し切りだよ。義祖父様に呼ばれてね」
「へぇ、長谷部か同田貫?それとも、最近見つけた兼定か?」
「天国でしたね……」
「ほぅ、天国……で?」
龍次は目を細め、その表情が一瞬で厳しいものに変わる。
天国に触れる、その意味を理解しない者はこの場にはいなかった。
全員の視線が一樹に集まり、食堂をピリピリとした緊張感が包んだ 。
「で?って、それだけですよ」
「ハンッ!、親父には聞かせられないな……?」
龍次の意味あり気な視線に、一樹としてはただ肩をすくめるだけだった。
「あぁ、そうそう。しばらくは牛肉祭りになるかもしれませんね」
何の事だと龍次と巴が困惑の表情を浮かべる中、事情を知る明子は二人とは別の意味で困った顔になるのだった。
……
…………
………………
一樹が何時もの様にロータリーで送迎の車を断っていると、玄関から恵一を伴った巴が姿を現した。
一樹は二人に近づくと恵一に目配せして、小さなバスケットを受け取って巴に声を掛けた。
「巴ちゃん?」
「お義兄様、たまにはご一緒いたしませんか?」
「あぁ。いや、遠慮しておくよ。それより、朝はスープとフルーツにヨーグルトだけだったでしょ?これを……」
「これは?」
巴の問いに、一樹はふわりと微笑んだ。
「きちんと食べないと、保たないからね?学校、気を付けていってらっしゃい」
「まぁ!お気遣い、ありがとうございます。……お義兄様?」
「うん、頑張って!上手くは言えないけど、気持ちが負けては駄目だからね?」
巴の肩にそっと手を添えた一樹の苦笑に、巴は困惑の表情を浮かべた。
何かあるのか、一樹の纏う空気に常とは違う何かを感じる。
一樹自身にも理由は分からない。
ただ、己の抱える言い知れぬ虚しさと悲しさ、絶望と孤独を明かす訳にもいかず、ただ笑って誤魔化す他にはなかった。
巴の滑らかな頬をそっと撫で、一樹はその場を後にしたのだった。
「それじゃ、僕ももう学校に行くから……」
「お義兄様……!」
何時も側にいるはずの一樹──愛しい義兄の存在が遠くに感じる……
巴の心に一抹の不安が過ぎる。
それはある種の予感であったのだと巴が後悔するのは、もう少し先の事であった。