プロローグ前編⑤
轟音が轟き、地下聖堂に激震が走る。
強烈な突き上げが全身を襲い、猛烈な勢いがその身を大地に縫い付けんとばかりに襲い掛かる。
永劫に続くかの様に感じられる程の圧倒的な力の奔流は、しかし実際には僅かな時間しか続かなかった。
かろうじてその場に踏み止まっていたアラムは、目の前の光景にただ押し黙る他になかった。
激しい揺れと勢いに膝をついていた仲間達も、遅ればせながらに周囲を見渡して絶句してしまう。
アラム達の居た地下聖堂は見る影もなく、なだらかな丘と化した祭壇跡の頭上には晴れ渡る青空が広がっていたのだ。
見開かれたアラムの三つの瞳が、目の前に現れた存在に釘付けになる。
それは、闇夜の空よりなお暗い漆黒の鱗と夜空に輝く満月よりも光り輝く黄金色の瞳を持つ、山の様に巨大な竜であった。
その存在は圧倒的に過ぎ、ただそこにいるだけでアラム達が己が死を実感するに足る程のものであったのだ。
暗黒竜は、巨大なその鎌首をもたげて眼前の人を見降ろした。
不快げに喉を鳴らしたかと思うと、おもむろに大きく息を吸い始める。
──竜の咆哮
それは神代の時代、神々と共に生まれたと言われる竜が持つ力、聞く者の精神を打ち砕き魂を押し潰す強者の雄叫びだ。
「法と秩序の神フェルネスよ、志高き者へ敵に立ち向かう力を授け給え、我等は心に輝ける旗を掲げん、神聖術、掲旗集志」
アラムの神聖術が、死を前にして失われた士気を再び取り戻していく。
次いで動いたのはランだった。
腹の底から上げる勇壮な雄叫びが周囲に響き渡っていく。
──戦技、臨戦唱鬨
勇ましく轟く声が聞く者の闘志を掻き立てる。
戦う意志を取り戻した彼等の行動は迅速であった。
「対象数強化魔技、対抗魔術」
「盾技、無敵城塞」
「対象数強化魔技、護魂法鎧」
肉体、精神、魂の全てを討つ巨竜の咆哮を凌ぐべく、次々と魔術と絶技が放たれる。
深々と息を吸った暗黒竜が、満を持して雄叫びを上げる。
大気を震わせ大地を砕く咆哮が、襲い掛かる。
アラム達の背後で、機械式弩弓を脇に置いた男が救出していた生贄の女性を庇う様にして立ち塞がった。
──賊技、偽身遁術
巨竜の咆哮が、アラム達の守りを次々に打ち砕いていった。
大音声が轟き渡った後、全ての守りを破られはしたものの、一人の犠牲も出さなかった事にアラム達は小さく安堵の吐息を吐いた。
とりあえず、自分達の後ろで頭を抱えてのたうち回る彼も命に別状は無さそうであるので……
一時の静寂を取り戻した戦場で、死を感じて覚醒したアラムの魔眼には周囲を覆い尽くす様な力の波動が観えていた。
背後に眼をやれば、先程まで戦場であった祭壇の向こう側、地下迷宮は崩落し巨大な奈落と化している。
竜の暴威に晒されてなお健在な祭壇を見遣りながら、一つの可能性を考える。
「ソフィー、行けるか?」
「巨大な力が場に満ちているのを感じるわ。封印はまだ死んでない……」
全員の視線がソフィアーネに注がれる。
「再封印出来るかも……ううん、してみせるわ。5分……いえ、3分頂戴!」
「よ〜し、わかった。そういう事なら任せるよ。なら、僕達は再封印の時間を稼ごう!倒す必要はないんだ、3分稼げれば僕達の勝利だっ!!」
ランの言葉に全員が頷きを返してみせる。
アラムは救出した女性──依頼の救出対象である姫──の様子を一瞥してから指示を飛ばした。
「俺達の命、ソフィーに預けた。アリスは下がってソフィーと姫を守ってくれ。ランとシオンは両翼に展開して牽制を!俺が奴の頭上を取る」
「「オォッ!!」」
「アラムッ、俺はどうする?」
「……まずは武器を取って来ようか?」
「おおっと?!」
慌てた様に駆け出す男の姿を見て、全員の顔に呆れ混じりの苦笑が浮かぶ。
まぁ、何時もの事である……
全員が、己の役割を果たすべく駆け出していく。
アラムはそれを確認することなく、眼前の暗黒竜を睨み付けた。
短く気合の声を上げてその背の翼を一打ちすると、一直線に暗黒竜に詰め寄っていく。
目前の敵を噛み砕かんと迫る顎門を前にして一気に天高く飛び上がってその牙を避け、暗黒竜の顔面に魔術を叩き付けた。
「魔技、炸裂光弾」
弾ける光弾の雨に視界を焼かれ、暗黒竜が怒りの声を上げる。
その眩んだ視界が戻った時には、アラムは暗黒竜の頭上に位置していた。
「格下と見下す相手に見降ろされる気分はどうだ?人は確かに弱い。しかし、貴様はその弱いはずの人の力に敗れたのだ。」
不快感を隠しもせずに唸りを上げる暗黒竜を見降ろしながら、アラムは言葉を続けていく。
「今一度、思い出すがいい。力有る者が強いのではない。どれ程強大な敵であろうとも、決して挫けぬ心が強いのだ……如何なる困難を前にしても、立ち向かう事を諦めない強き意志。人、それを勇気と言う……」
黄金色の瞳を怒りに染めて、激昂した暗黒竜が猛るままに咆哮を放つ。
「獣に名乗る名前は無い!貴様は、ここで止めさせてもらうぞ……」
竜の顎門が開き、神さえ滅す白炎の極光が吹き荒れた。
力強く翼が空を打ち、次々と襲い来る暴威を躱し様に牽制の魔術を放つが、暗黒竜には痛痒の一つすら与えられぬまま密度を増して迫り来る極光に追い詰められていく。
避けきれなかった極光が翼を掠め、逃げ場を失ったアラムに止めを刺さんと暗黒竜が極大の白炎を吐き出した。
「ウォアァァッ!斧技、霊気爆閃!!」
「弓技、終焉弓射!」
暗黒竜の足元に叩き付けた大戦斧から巨大な闘気が爆発し、足を掬われてよろめいた所で横から飛んで来た矢が顔面を打ち据える。
狙いの逸れた白炎の極光は、アラム達のいた場所の背後に口を開けた奈落の縁から地平線の向こうへと戦場を舐める様にして地面に突き刺さった。
大地は一瞬にして沸騰し蒸散し、黒煙と熔岩と化して噴き上げる。
竜の吐息を吐き出し切った暗黒竜は地響きを上げて大地に倒れ伏し、僅かにその動きを止めていた。
「ハアァァァ……霊魔錬成!」
気合の声と共に、上空に大気を震わす力の渦が巻き起こる。
吹き出した魔力と霊力が荒れ狂い、アラムを中心にして収束していく。
「左手に掲げるは栄光の玉座……、右手に掬うは絶望の深淵……、天地無窮流奥義、天獄葬方陣!」
アラムの右手には全てを呑み込む漆黒の渦が、左手には全てを塗り潰す光輝の玉が顕現する。
力を宿したその手を振れば、軛を解かれた闇は竜の巨体を呑み込んで侵食し、次いで撃ち放たれた光はその存在の中心を貫いて四方に溢れ出していく。
解き放たれた闇と光が暗黒竜の存在を捉え、陰陽の相剋は全てを巻き込み消滅せんと暴威を振るう。
アラムは揃えた両手に力を込めて彼我の間合いを一瞬で詰めると、苦悶の声を上げる暗黒竜の額に両の拳を突き立てた。
鬩ぎ合い拮抗を保っていた陰陽太極の均衡が一気に崩れて崩壊していく。
荒れ狂う暴威も響き渡る轟音も大地を揺るがす衝撃も、一瞬で全てを呑み込み消滅する。
何もかもが消え失せた静寂の中、暗黒竜は力尽きた様に大地に倒れ伏していた。
アラムは僅かに距離を置き、頬を伝う汗を拭いながらも、注意深く暗黒竜の様子を探っていく。
そうして、口内に広がった血の味に顔を顰めて、全身に広がる痛みと共に血塊を吐き捨てた。
突如、暗黒竜が黄金色の瞳を見開き、巨大な顎門をアラムに向けた。
全身を蝕む鈍痛に反応が遅れたアラムは放たれた白炎の極光に飲み込まれ、全ては白く塗り潰されていった。
「アラムッ!」
後方の守りについていたアリスの眼前に、竜の吐息に焼かれ赤鉄の肌を黒く焦がして白煙を上げながらアラムが落ちて来た。
「心配するな、この程度で死にはしない!」
駆け寄ろうとするアリスを手で制し、アラムは自らに大治癒を掛けていく。
跪くアラムに止めを刺さんと、暗黒竜がゆっくりとその身を起こしていく。
「これ以上はやらせはせん……後少し大人しくしていてもらおうか!」
ランとは逆翼に展開していたシオンが、挑発の声を上げて構えをとる。
魔法式を展開したシオンの手から魔力を失い崩壊した魔水晶の残滓が零れ落ちていく。
「万物に宿りし偉大なる魔素の力よ、猛り狂い荒れ狂い立ち塞がる者の悉くを薙ぎ払え、轟き疾れ無慈悲なる者よ、水風土精霊複合威力最大化魔技、厄渦暴君!」
シオンの突き出した両手から荒れ狂う嵐が巻き起こり、竜の巨体を巻き込んで猛威を振るう。
猛烈な風に煽られ続ける暗黒竜は、動きを邪魔されて忌々しげに唸り声を上げる。
やがて長々と吹き荒れた嵐も収まり、纏わり付く風の煩わしさから開放された暗黒竜はその身をブルリと震わせた。
そして、ついに運命の時がやって来た。
ソフィアーネのいる祭壇から、天を貫く一条の巨大な光の柱が立ち上がる。
大気が震え、大地が罅割れていく。
あらゆるものが地の底へと引きずり込まれていく様な強烈な感覚が襲い掛かり、立っている事さえ苦しくなっていく。
空から光が降り注ぎ、暗黒竜を中心として巨大な魔方陣が展開していく。
異変の中心に位置した暗黒竜が、今迄に無い絶叫を上げた。
「遠く神代の時から続く、封魔護国の聖なる守りよ。我が力を糧として、今一度力を振るい給え。そは世の理を守護せしものなれば、破滅を齎す彼の者を征し給え。その力、幾万の古よりも朽ちざれば、天に地に窮すこと無かりけり」
力を失い地に伏した暗黒竜は、己を害す封印の要──ソフィアーネを睨み付けた。
要を外し軛から逃れんと、残りの力を振り絞って最後の白炎を吐き出す。
白炎の極光──神殺しの竜の吐息──が、ソフィアーネを焼き尽くさんと荒れ狂う。
「やらせると思うなっ!」
迫り来る極光を前に、アラムが立ち塞がる。
「魔技、対炎護法陣」
アラムの張った防御魔術の障壁が、白炎に吹き散らされていく。
迫り来る白炎に必死に魔術を維持しながら、自身の背後――アリスを見遣った。
吹き荒れる破滅に対し、同じく必死に防御魔術を展開しているアリスとアラムの視線が絡み合う。
──アラム!──
一際巨大な白炎が、アラムの姿を飲み込んでいく。
力と力が鬩ぎ合い、全てを巻き込み、破滅の炎は世界の枠さえも焼き切っていった。
目が眩む程の大光量が一帯を塗り潰した。
アリスは騎士盾に身を隠し、その圧倒的な光の奔流に耐えていた。
やがて全てを呑み込むかの様に思われた光も消え、静寂を取り戻した世界を前に、アリスは霞む視界を必死に堪えてただ呆然とそれを見つめる他になかった。
光を取り戻した視界に入るのは、小高い丘と化したそれと目の前にある抉れた大地。
極高温によって抉られた大地は、アリスを避ける様に両脇へと延びている。
大地に長く穿たれた溝は冷めやらず、未だに高熱を伴ってゆらゆらと白煙を上げていた。
「あっ……あぁぁ……っ!……」
……
…………
………………
その日、世界は確かに守られた。
もしも多くの人々がそれを知ったならば、その脅威の程に比べれば余りに少ない犠牲で済んだ事に、安堵の吐息を吐くに違いない。
だが、残された者達にとって、それは何の慰めにもなりはしないのだった。