第五話・その日の夜に
アレックスが、剣の稽古を始めるようになったその日の夜。
「今日は、流石に疲れましたね」
既に就寝の準備も終わり、後はこのまま寝てしまうだけである。
「うぅ、身体が痛みます」
アレックスが弱音を吐くのも、ある意味仕方がないことかもしれない。
何せ午前中には、まだ6歳というその体でフルマラソンに相当する距離を走ったのだから。
幼い身体で走り切るには、些か無茶な距離であったのは確かだった。
「もう少し加減を……。いえ、それでは駄目ですね」
下手な妥協をするつもりはないのだから、弱音を吐いてはいられない。
今世でも精一杯生きると決めたのだから、下手な遠慮などは必要ないだろう。
もっとも、それでその有能さが後継者争いの火種になりかねないことは理解している。
何しろ、今いるローランディア選王国は実力主義を国是とした国だ。
第三子とは言え、有能であれば後継者に指名されたとしてもおかしくはなかった。
ともあれ、今は悩んでみても仕方の無い事ではある。
それよりも今はこの全身の痛み、つまりは筋肉痛をどうにかする方がアレックスにとっては余程に重要なのである。
アレックスは、呼吸を整えるとそっと祈りの言葉を唱えた。
「法と秩序の神フェルネスよ、痛みと苦しみに喘ぐ子らに癒しと安らぎの時を与えたまえ、我は神の身許にて安らぎを得ん、神聖術、治癒促進」
アレックスの体から、魔力が抜けていく。
途中で引っ掛かる様な気配があったものの、無事に神への代償を捧げ終わる。
すると、アレックスの掲げた掌に仄かに光が灯り、その体を包むように広がって消えていった。
「ふぅ、ひとまずはこれで様子を見てみましょう」
アレックスの使ったのは、神の権能を代行する技である神聖術の一つ、治癒促進。
負傷を癒す治癒の術の中でも、最も初級に位置する技である。
その効果は体の治癒能力の増進であり、即効性はないが体への負担等も殆ど無いものである。
もっとも、体の回復力を増強する事で傷の治りを早める程度の効果しかない。
だが、今回はそれでいい。
目的はもちろん痛みの緩和でもあるが、体が痛むという事は超回復も期待できるという事である。
超回復は、強い負荷をかける事で傷ついた筋肉細胞が休息によって回復し、さらに負荷を受ける前よりも強くなる現象である。
超回復は前世での知識ではあるが、この世界でも経験則として知られている事でもあった。
回復術で痛みを完全に消してしまうと、この超回復が期待できない。
つまり、回復系の絶技や魔術、神聖術で一気に回復してしまうと、肉体の訓練効果も失ってしまうという事である。
そのための治癒促進でもあった。
後は一晩しっかり休んでどこまで回復しているかどうかだが……
そこは賭けのようなものでもあるが、恐らくは問題ないだろうと当たりを付けていた。
後はゆっくり休むだけである。
大人であれば問題ない時間帯ではあるが、子供の身であれば十分に夜更けと言える時間なのである。
一先ずの処置が終わったアレックスは、明日に備えて早々に休むことにしたのであった。
……
…………
………………
同時刻、フレデリックの自室にて――
ノックの音がして、アランが静かに部屋へと入ってくる。
人払いをした部屋の中には、フレデリックとアランの二人だけしかいない。
豪奢な机を挟んで二人は向かい合った。
「さて、アラン……。アレックスの事だが、他の者からも話は聞いている。その上で、お前の見立てを聞いておきたい」
「はい、旦那様。坊ちゃまの剣の腕前についてでございますが、既に初級には達しておられるかと存じます。それと、大変信じ難い事ではございますが……坊ちゃまは既に気を扱える可能性がございます」
アランの報告に、フレデリックの表情が驚きに変わる。
その驚きを隠せぬままに、アランに問い返していた。
「首飾りをしていてか?どういうことだ」
「はっきりと確認したわけではございませんが、少なくとも纏を習得していることは間違いございません。その練度を推測しますに、練まで使えたとしても何の不思議はないものかと存じます」
フレデリックはため息と共に椅子に深く座り直した。
そうしてその手に一枚の紙を取るとアランに向けて差し出して見せる。
「ロテリナの報告書だ」
「よろしいので?」
フレデリックの許可を取ってその手の紙を受け取り、内容に目を通していく。
「これは驚きでございますな。これが本当でしたら、初等部の教育内容は既に粗方修められているという事になりますな。これも、天賦の才という事でございましょうか」
報告書には、本来なら学園の初等部で教える程度までの読み書き計算、歴史や礼儀作法の授業が終了した旨が記されていた。
「アレックスも、8歳になったらエクウェス学園にて学ばせるつもりであったのだが、こうなってくるとな……。見識を広める意味でも、王都に留学させるべきか?」
「王立アウレアウロラ学園でございますね。良きお考えかと存じます」
アレックスは、主人の言葉に深く頷いた。
しかし、対するフレデリックの表情は浮かない。
話題に上った王立アウレアウロラ学園は、この国における最高学府である。
アレックスの兄、ランドルフでさえもこのスプリングフィールド選公爵領にあるエクウェス学園で学んでいるのだ。
実力主義が国是であるローランディア選王国において、この事の持つ意味は決して小さくはない。
下手をすれば後継者争い、お家騒動の芽とも成り得るのである。
「とはいえ、まだ6歳だ。剣と絶技はもう仕方ないとして、まだ魔術の事もある。そちらにも才能があるとは限らん……。しかし、確かめる必要はあるな。直ぐにでも、教師の手配が必要か」
「左様でございますな。確かめるのであれば、お早くされた方が宜しいかと愚考いたします。老師にご相談なさっては?」
アランの言葉に、フレデリックは頭を振った。
老師――アルフレッドはスプリングフィールド家の初代当主であるアリス・スプリングフィールドが直接見出して登用した人物であり、スプリングフィールド家とは先々代の頃からの付き合いがある。
老師は後進の育成にも熱心であり、スプリングフィールド家との付き合いも考えれば喜んで助力してくれるに違いない。
「首飾りの件もある。我が子の事とはいえ、老師にこれ以上ご迷惑をかけるわけにはいくまいよ」
「彼の御仁でございましたら、喜びこそすれ迷惑などとは思われないでしょうが……」
「そうと分かっていても、これ以上世話になるわけにもな」
老師には、首飾りを作る際に国王陛下に口添えを頼んだ恩がある。
その恩を返す前にさらに頼るという行為に対して、フレデリックには貴族として躊躇する部分があるのだった。
その姿に、アランが助け船を出す。
「まぁ、初級魔術の勉強であればロテリナでも十二分に対応は致しましょう。一先ず、それで様子を見てみてはいかがでしょうか」
「そうするしかないか。であれば、明日の朝にでもロテリナに話を通しておくとしよう」
そう言って、フレデリックは立ち上がる。
部屋の片隅に設置された戸棚に歩み寄って、アランに声を掛ける。
「今夜は付き合え。たまには良かろう」
「かしこまりました。ご相伴に預からせていただきます」
そういって、フレデリックの差し出した杯を受け取る。
こうして、その日の夜は更けていくのだった。




