第四話・午後の勉学
朝の修練が終わって、昼食後……
アレックスは、自室の一つで午後の勉学の時間を迎えていた。
アレックスにとっては大きな椅子にちょこんと座って、教師が来るのを待つ。
程無くして、自室の扉をノックする音が聞こえた。
扉の横で待機していたメイドが、扉を開いて来訪者の姿を確認する。
「アレクサンダー様、ロテリナが参りました」
「どうぞ、入ってください」
扉が開かれ、壮年の女性が一人部屋の中に入ってくる。
ロテリナ・スーザニアは、アレックスら子供達の母であるキャサリン付きの侍女兼子守女中、そして今はアレックスの家庭教師を兼務する才女である。
くすんだ金髪を頭の後ろで大きく纏め上げ、ゆったりとした紺の長袖のワンピースを着ている。
「先生、今日もよろしくお願い致します」
「はい、坊ちゃま。よろしくお願い致します」
ロテリナはスプリングフィールド家の侍女の一人ではあるが、勉学の時間には先生と呼ぶ決まりであった。
「それでは、今日も礼儀作法の授業でございますが、その前に読み書き、計算のテストをいたしましょう」
ロテリナは手元の紙束から二枚の用紙を取り出すと、アレックスの前に差し出した。
一枚は読み書きのテストで、もう一枚が計算のテストである。
「さぁ、今日のテストはこちらです。それでは、開始してくださいませ」
アレックスは手渡された紙を卓上に広げて、静かに問題を解き始めた。
しばらくの間、室内にはペンを走らせるカリカリという音が響くのみであった。
暫しの時が過ぎ、やがてペンを走らせる音がぴたりと止まる。
「先生、終わりました」
「はい、坊ちゃま。思った以上にお早い出来上がりでございますね。それでは見てみましょうか」
ロテリナは、アレックスからテスト用紙を受け取ると素早く採点を始めていく。
テスト用紙には、次々と丸が付けられていく。
「お待たせしました、坊ちゃま。テスト結果は満点。上出来でございます」
「それは良かったです。ホッとしました」
「御冗談を……。今の坊ちゃまなら出来る内容でございますよ」
ロテリナはテスト用紙を片付けながら、あきれたように声を上げた。
「もう、この場で教えるようなことはございませんわね。読み書き計算は十分に出来ておられます」
「ありがとうございます、先生」
アレックスの顔にも笑顔が浮かぶ。
そのアレックスにとって、ロテリナの次の言葉は無情な宣告にも等しかった。
「それでは、ここからは礼儀作法の授業でございますよ」
「そうですね。はぁ、それではお願いします……」
その顔の笑顔が、僅かばかり強張ったように見えたのだった。
……
…………
………………
「はい、坊ちゃま。今日の礼儀作法の授業はここまででございます」
「あぁ、ようやく終わりましたね」
読み書き計算のテストが終わってから、数時間……
アレックスにとってはなかなかの難問である礼儀作法の授業も、ようやく終わりの時を迎えていた。
前々世、前世までの知識を利用できる読み書き計算とは違い、上流階級の礼儀作法には流石に詳しくはなかった。
全く経験がないとは言わないが、正式な貴族の礼儀作法など知る立場になかったのだから仕方のない事でもある。
そのため、アレックスにとっては読み書き計算と比べればはるかに苦戦してしまう科目なのであった。
本当なら逃げ出してしまいたい気持ちも湧き上がってくるが、立場上そういうわけにもいかない生まれであることも理解しているから、努力をしているわけである。
「礼儀作法は一朝一夕では身につきませんからね。とは言え、大分様になってまいりましたね。この調子で御座いましたら、坊ちゃまの8歳の御披露目までには十二分に間に合いましょう。まだ早いかとは存じますが、この調子であればダンスの練習も早まるかもしれませんね」
「えぇ、まだ他にも習い事があるのですか?」
アレックスの弱気な発言に、ロテリナはクスクスと笑みを浮かべていた。
「まぁ、弱気な事でございますね。ダンスは社交の一つでございます。将来は、避けては通れない事でございますよ。どの道、早いか遅いかの違いでしか御座いません。とは言っても、教師の選定からしなければなりませんから、今すぐにという事でもございませんよ」
ロテリナの言葉に、僅かとはいえ安堵のため息を零すアレックス。
そんなアレックスの様子を見たロテリナは、そういう所は年相応で良かったなどと思うのであった。
……
…………
………………
勉学の時間が終われば、午後のティータイムになる。
館の庭が見回せるテラスには、メイド達の手でお茶の準備が整えられていった。
これから夕食までの暫しの時間が、アレックスにとっての自由時間である。
この時間、アレックスは本を読んで過ごす。
部屋に備え付けの本棚にはいくつもの本が並んでいる。
子供向けの絵本から始まり様々な英雄物語の他に歴史書や学術書などの専門的な本まで、そのジャンルは多岐に及ぶ。
アレックスは、そのうちの一つを手に取った。
そのアレックスに対して、お茶の用意をしているメイドが声を掛ける。
「坊ちゃま。本日の紅茶はいかがなさいますか?」
「そうですね。アップルティーをアイスでお願いします」
「はい、かしこまりました」
9月に入り夏の暑さも過ぎたと言っても、日の高い内は薄っすらと汗を掻くほどには残暑が厳しい。
風が吹けば秋の涼しさを運んでくる今日この頃ではあったが、テラスでお茶を飲むのには日差しがまだまだ強いのである。
アレックスは、本を手にテラスへと移動する。
傘の作る日陰に椅子が置かれており、アレックスが近寄ればメイドの一人が椅子を引く。
その椅子にちょこんと腰掛ければ、そっと卓上によく冷えた紅茶が差し出されてきた。
アレックスはその紅茶を一口啜り、紅茶をいれたメイドに笑顔を向ける。
「とてもおいしいですよ。ありがとう」
「はい、勿体なきお言葉、ありがとうございます」
メイドは若干顔を赤らめながら一歩後ろに下がる。
そんなメイドの様子を一瞥してから、アレックスは今日読む本へと目を落とす。
その本は、初級魔術の教本であった。
もちろん、前々世の記憶があるアレックスには既知の内容を含むものではあったが、アレックスには基礎をおろそかにするつもりはなかった。
第一、前々世の知識があるからと言ってそれだけで魔術が十全に使える保証がないのである。
アレックスは、無意識に自身の首につけられた首飾りに手を当てた。
この首飾りは、ただのお洒落というものではない。
首飾りにつけられた黒薔薇の飾り石をそっと撫でながら、アレックスは考える。
(この封印具は、私の霊力や魔力を抑え込むためのもの。この首飾りをつけている限り気も魔力も練り込み辛く、絶技も魔術もなかなか上手くはいかない。とは言え、父様にこれを外してくれとも言えないし、本当にどうしたものか……)
首飾りを外す話をするとすれば、この首飾りの効果にどうやって気付いたのかという話等もしなければならなくなる。
それは、なかなか説明の難しい話でもある。
突然自分には前世の記憶があるだとか言い出したら、家族といえども戸惑う程度では済まないだろうことくらいは簡単に想像がつく。
混乱を防ぐという意味では、生まれ変わりの話はしない方が良いのだ。
当面はこのまま訓練を続けて、首飾りによる阻害効果に負けない制御能力を磨く。
結局の所、今のアレックスには他に改善策が思い浮かばないのであった。




