プロローグ後編②
大陸統一歴2304年9月
──ローランディア選王国、東方領領都スプリングフィールド
領主館の執務室にて──
コツコツコツコツコツコツ……
その日、執務室は朝から重苦しい雰囲気に包まれており、ピンと張り詰めた空気は何時張り裂けるものかと居並ぶ文官達の心胆を寒からしめていた。
極度の不安と緊張に彼等の顔は血の気を失い、じっとり浮かぶ冷や汗を拭う事さえ出来ない。
コツコツコツコツコツコツコツコツ……
そうしてどれだけの時が過ぎた頃か、遂に襲い来る重圧に耐えかねて文官の一人が立ち上がった。
深々と頭を垂れながら、執務机に座するこの部屋の主──フレデリック・ジョージア・スプリングフィールドに向けて、言葉を搾り出していく。
「閣下、本日は取り急ぎ片付けなければならない案件はございません。閣下の御裁可を仰ぐにしても、暫しの時間が必要かと……」
「ほぅ、それで?」
文官を睨み返し険しい表情を浮かべるフレデリックの様相に、件の文官は益々縮こまりながらも何とか言葉を搾り出した。
「閣下がこのまま……ここに居られても、時間を無為になさるだけかと……であるならば、閣下の、おっ、お気になさって……おられる……こっ、事っ、事……もっ、申し訳ありません。差し出、がましい事を……申し上げ、ました……」
文官の顔は血の気が引いて白く、油汗を垂らしながら体は小刻みに震えていた。
フレデリックは、意見を述べる文官の有様を見遣って、自らの不明に気付いて眉をひそめた。
フレデリックの勘気に触れたと感じた文官は、最早息も絶え絶えになる有様である。
室内を見渡せば、他の文官連中も似たり寄ったりの有様。
その様子に、フレデリックは溜息を吐いて力を抜いた。
文官達の声には出さぬ安堵の吐息を感じ取って、思わず苦笑が漏れる。
自分が思う以上に力んでいた様だと気付かされたのだ。
「そうだな、君の言う通りかもしれん。ふむ……ならば、ここは諸君に任せよう。私は暫く休む。何かあれば報告するように……」
「「「「「かしこまりました!!!!!」」」」」
一斉に立ち上がり礼をとる文官達の完璧に揃えられた動き、そのあまりに鬼気迫る様相に内心圧倒されて思わず頬を痙攣らせてしまう。
フレデリックは、今日一日彼等の前で随分と醜態を晒していた事に気付き、これ以上の無様は晒すまいと素早く答礼を返して退室することにしたのだった。
……
…………
………………
その日のランドルフ──ランドルフ・クロヴィス・スプリングフィールドは朝からずっと不機嫌だった。
屋敷は朝から慌ただしい雰囲気で、朝の支度をするメイド達は忙しく動き回っている。
母様の姿も見ていない。
使用人達が「産気づいた」と騒いでるのを聞いた。
皆が忙しく動き回っているのは理解しているし、そのせいで自分の相手が疎かになっていると感じるのも仕方がない。
弟か妹が産まれるらしい。
屋敷の慌ただしさは心配になるけど、きっと大丈夫。
執事のアランが何時も通りの落ち着いた雰囲気で大丈夫だと言っていた。
産婆さんという人達を連れたお医者先生も来ているし、教団の偉い司祭様も来てくださったそうだ。
「お産」というのはとっても大変だってメイド達が言っていたけど、偉い先生達が皆大丈夫だと言っていたのだから、何の心配も無いに違いない。
だから自分が不機嫌なのは、屋敷の使用人達がちっとも相手をしてくれない事や朝から母様の顔を見ていない事、「お産」が大変だって騒がしい事が理由では無いのだ。
ランドルフを不機嫌にさせている理由、それは……
「父様、少しは落ち着いて下さい」
「何をいうか、我が息子?私は落ち着いているとも……」
寝室に繋がる扉の前をうろうろしていたフレデリックは、息子の言葉に振り返ると応接間のソファーに座る子供達に歩み寄った。
「何の心配もいらないよ、我が娘。大丈夫だから、顔を上げておくれ?」
フレデリックはそう言って、娘──レスリー・ヴィクトリア・スプリングフィールドの頭にそっと手を添えた。
ゆっくりと頭を撫でながら、子供達を安心させるために優しく微笑みかける。
「お父様、お目々が怖い……」
つぶらな瞳を潤ませて己を見上げる娘の姿に、フレデリックの目に少なからず動揺の色が浮かぶ。
「レスリー、大丈夫だよ。お兄ちゃんが守ってあげるからね?」
「うぅ、お兄様ぁ……」
ランドルフは妹をそっと抱き寄せて、優しくその背をさすってやる。
レスリーはそんな兄の胸元に顔を埋めてギュッと抱きつくのであった。
ふと、甘く香ばしい香りが鼻をくすぐる。
聞こえてきた足音に振り返ると、フレデリックの背後にアランが静かに控えていた。
「ご主人様、ランドルフ様、レスリー様、ホットココアをお持ち致しました。幾ばくかは気持ちも落ち着くかと……」
フレデリックは微かに眉根を寄せて子供達を一瞥すると、そっと溜息を吐いた。
「確かにな……少し余裕がなかったか?では、一杯頂くとしようか」
フレデリックが席に着くを待って、アランは用意したカップを置いていった。
ゆっくりと立ち昇る湯気は暖かく、芳しい香気が鼻腔をくすぐる。
一口飲めば、柔らかな甘味と温もりが体の奥へと染み渡る。
心と体の緊張がゆっくりと解けていく心地良さに、皆の顔に自然と笑顔が浮かんでくる。
部屋を包み込んでいたピリピリとした雰囲気が、溶けるように消えていく様子を肌で感じ取ることが出来る。
アランは誰にも気付かれぬ様に、そっと内心で溜息を吐いていたのだった。
……
…………
………………
どれだけ時が過ぎたのか。
既に日は傾いて、空を茜色に染めていた。
フレデリックは、相変わらず落ち着きなく扉の前を行き来している。
二人の子供達は待ち疲れて、スヤスヤと寝息を立てている有り様である。
お産が始まってから間も無く一昼夜、さしものアランも不安を感じずにはいられない。
フレデリックにもう一度休息を勧めるべきかと考え始めたその時……
扉の向こうから甲高い赤子の泣き声が上がり、二人は顔を見合わせた。
フレデリックはアランに向けて頷くと、素早く扉に駆け寄った。
いや、駆け寄ろうとした。
突如、濃密な気配が応接間を覆い尽くした。
息の詰まる様な強烈な重圧に二人の動きが止まる。
「フレディッ!」
「アランッ?!」
刹那の間に異常を察したアランが声を張り上げる。
次の瞬間、バキベキと破壊音を轟かせて砕けた扉が、二人に向かって弾け飛んできた。
次々と降り掛かる破片を叩き落として、フレデリックはすかさず部屋へと突入していく。
「ご主人様、こちらはお任せを!」
アランの言葉に頷きで返したフレデリックがそのまま部屋へと飛び込むと、荒れ果てた部屋の様子が一目で見て取れた。
「大丈夫か!一体、何があった?」




