プロローグ後編①
幼子が馬車へと乗り込むと、突然飛び付いて来た少女にそのまま奥へと引き摺り込まれてしまった。
幼子を両手で抱き締た少女は、そのまま幼子を膝上に抱え込むと艶やかな金髪に顔を埋めていく。
スリスリと頬擦りする少女が至福の声を上げればその切れ長の瞳が緩んで眉尻を下げ、細面の大人びた顔立ちに年相応の幼さを覗かせたものの、少女の肩で切り揃えた金髪がさらりと顔に流れ掛かってその表情を隠していった。
「アァン!アル君、お帰り~!!」
「アリー、お帰り。図書館の方はどうだったかな?」
幼子は、その胸に自分の事を抱え込んでしきりに頬擦りしてくる姉の腕をポンポンとタップする。
すると彼女はますます盛り上がって、その腕で力一杯に幼子を抱きしめて来るのだった。
「コラコラ、レスリー!アリーが大変な事になってるから……」
「何です、兄様?いくら兄様でも、可愛いアル君は渡しませんよ?」
体を振ってイヤイヤする彼女の腕の中で、幼子は最早息も絶え絶えに為すがままであった。
彼女の名は、レスリー・ヴィクトリア・スプリングフィールド。
幼子の姉に当たる6歳の少女である。
しばらくして多少は落ち着きを取り戻したレスリーは、幼子を膝の上に抱え直して兄――ランドルフ・クロヴィス・スプリングフィールドに向き直った。
普段ならきつめの印象を与える事もあるアイスブルーの瞳は、今も幼子を愛で回して目元が緩みっぱなしである。
「所で、兄様?今日の学園はいかがでした?」
「いかがも何も、何時も通りだよ」
ランドルフはそう言って袖口を巻くり、チラッと包帯の巻かれた腕を見せた。
短く切り揃えられた茶髪を掻き揚げてガシガシと頭を搔き毟り、不満を隠そうともしない。
同世代の少年達と比べ背の伸びるのが早かった彼は、早々に入学前の6歳の頃から父に倣って剣術の稽古を始めていた。
それもあって学園では同級生の中でも剣の腕前は一歩抜き出ているのだが、そのせいでこの2年間は剣の授業で彼と組んで稽古ができる相手はいなかった。
結果、彼の練習相手は指導教官が直接務める事となってしまい、自然と訓練内容も難度が上がることになっていった。
一部の生徒には特別扱いだとやっかみを受ける事になってしまったが、ランドルフに言わせればとんだとばっちりである。
何しろ、彼は自分に剣の才能がないことを自覚している。
「僕は文官志望なんだから……」
「まぁ、そんな事言って!そんな有様では直ぐにアル君に追い抜かれますわよ?」
「フフンッ!貴族の仕事は、何も剣を取る事ばかりではないさ」
「でも、父様が聞いたら、きっと稽古の量を増やすんでしょうね?」
「それを言うなよ……」
わざとらしく髪を掻き揚げて強がって見せたランドルフではあったが、レスリーの言葉にゲッソリとした表情を浮かべて溜息を吐いた。
今ばかりは鍛えた体も恨めしいばかりだと、あからさまに肩を落として見せる。
ひとしきり現状を嘆いたランドルフは、気を取り直すとレスリーの腕の中で先程からずっと静かな幼子を一瞥した。
お人形さんよろしく妹の為すがままになっている幼子の目は、もう既に諦めの境地に至っていた。
達観と言う言葉を思い出し、頭を振ってつまらない考えを振り払う。
なる様にしかならないのだから出来る事をする、しなければならないのではなくすると決める。
それは言わば、スプリングフィールド家の家訓だ。
自分も色々と諦められたらなぁと考えながらも、せめて尊敬される兄でありたいという小さなプライドが捨て切れないランドルフであった。
カタコトと微かに馬車に揺られながら車窓の景色を目に映す。
麗かな日差しの降り注ぐ晴れやかな空、車窓から望む街の様子は至って平穏。
特段、事件も無ければ、車内には静かにゆったりとした時間が流れていた。
ランドルフは、上機嫌で戯れる妹達の様子を見て、ふとあの日の事を思い出していた。
ともあれ、今はただ平和で幸せな時が流れている。
全て世は事もなし……
……
…………
………………
ここはローランディア選王国の東方領、スプリングフィールド選公爵家の治める領都スプリングフィールド。
名実共に東方領の中心都市であり、その中心地にはこの地を治める選公爵家の居館が置かれている。
夕闇迫る中、その居館の一室――執務室の大机を前にして、部屋の主人である男は本日の執務の終わりを宣言していた。
「諸君、今日の所はこれで終わりとしよう。急ぎの案件は、もう無いのだろう?」
「はい、閣下。後は関係各所への伝達のみですので、我々にお任せ下さい」
執務室に詰めていた者達は、男の言葉に立ち上がって礼を取った。
部屋の主人である男の名は、フレデリック・ジョージア・スプリングフィールド。
ここ東方領の領主にして、スプリングフィールド選公爵家の当代当主その人である。
フレデリックは文官の言葉に鷹揚に返し、ゆっくりと室内を見渡していく。
がっしりとした体格と彫りの深い渋みのある顔立ちは、為政者としての堂々たる貫禄を放ち、短く切り揃えられた髪の色と同じブラウンの瞳は眼光鋭く、その面差しには強者の威風を宿していた。
「大義であった」
居並ぶ文官達は皆、この部屋の主人が放つ覇気に当てられて畏敬の念も新たに深々と頭を垂れる。
答礼を返したフレデリックが退室するまで、誰一人として身動ぎ一つする者はいなかった。
フレデリックは執務室を出ると、そのまま執務館から居住館へと歩みを進めていた。
渡り廊下を越えて扉を抜けると、室内装飾の雰囲気はガラリと変わる。
執務館の装飾は、外からの来訪者もある事から見た目からもそれと分かる様、豪奢で華やかに彩られている。
それに対して居住館では、落ち着いて日常を過ごす事が出来る様に過度な装飾は排しており、執務館と比べれば明らかに質素な佇まいとなっていた。
しかし、飾り気のないこの廊下を少しでも歩いてみれば、その認識が間違いだと気付くだろう。
一足毎に柔らかくそれを受け止める絨毯は、足音一つ立てる事を認めない。
そうと気付いて回りを見渡せば、この場を形作る何もかもが、巧緻な技の数々によって生み出された最高の空間だという事が分かる。
絨毯張りの廊下を進んで行くと、扉の前で黙して佇むメイドが出迎える。
フレデリックが歩み寄れば、そっと黙礼して扉を開く。
そのまま歩みを止める事なく部屋へと入れば、部屋の奥から一人の女性がフレデリックを出迎えた。
フレデリックの妻、キャサリン・スザンナ・スプリングフィールドである。
「おぉ、キャサリン。待たせてしまった様だね」
「はい、いいえ、貴方。私も今来たばかりですわ」
フレデリックの言葉に頭を振れば、キャサリンの腰まで届く艶やかな金髪がゆらゆらと揺れて美しい黄金の波を形作る。
フレデリックは差し出された妻の手を取ると、その甲にそっと口付けて、彼女を己の胸元に引き寄せた。
キャサリンは、頬を染めながらも彼の動きに逆らう事なくその豊満な肉体を預けていく。
切れ長で美しく光るアイスブルーの瞳に、普段の理知的な輝きとはまるで違う熱が宿っていく。
二人の視線が絡み合い、ゆっくりとその距離を縮めていった……
コンッ!コンッ!
扉を叩く硬質なノックの音に、僅かに間を開けて扉が開く。
アランは、扉の隙間から此方を伺う奥様付きのメイドに簡潔に要件を伝えて、入室許可を待った。
程なくメイドが扉を開き、室内へと招き入れられる。
「御主人様、奥様、間もなく御子様方がお戻りになられます」
「うむ、苦労であった」
報告を聞いて頷くフレデリックとキャサリンの間に不自然に開いた距離を見ながら、アランは静かに頷いた。
「四人目の御子様をお迎えさせて頂く準備は、何時頃が宜しいでしょうかな?」
「なっ?!アラン?ぶっ、無礼にも程があるぞ!」
「あら、まぁ?ンフフ……」
アランの言葉を叱責したフレデリックだったが、キャサリンの微笑みに顔を赤らめていた。
「さらに御子が出来ればお家も益々安泰。初代様がお聞きになったらさぞ喜ばれたでしょうなぁ」
「グヌヌ……それよりアラン!子供達が帰ってくるのだ、迎えの準備は?」
「既に──」
「ならば行くぞ!」
照れ隠しに肩を怒らせて歩くフレデリックの後姿を追いながら、キャサリンは当の子供達の事に思いを巡らせていくのだった。




