お耳
享保十年、大坂玉造稲荷下の猫間川西詰にお耳と呼ばれる少女がいた。
生まれついての見事な立ち耳で、人ならぬ声を聞く耳と目で大坂城に起こった怪異の一件に立ち向かう。
以下は、「※ネタバレ注意」です。お願いします。
「キャラクター設定」
お耳・・・目に見える世界が白黒にしか見えない立ち耳の女の子
吉右衛門・お耳の父親。妻に先立たれ、男で一つでお耳をそだてる小間物屋
お仙・・・戸田家の女中だったが、奇縁から吉右衛門の後妻・お耳の母となる
戸田忠囿・大阪城定番として下野国から赴任してきた。
赤狐・・・定番上屋敷に巣くう妖狐。時に陣羽織姿の赤狐。大狐が本性
白狐・・・玉造稲荷の鳥居を預かる眷属の狐。可憐な年頃の少女等にも変化する
正吉・・・お仙の弟。お耳と同い年で。飾り物職人の父について修業中
◯お耳
享保十年、大坂玉造稲荷下の猫間川に架かる大和橋西詰に、堺屋という小間物屋があった。間口二間の正面を店先にし、奥には主人堺屋吉右衛門の作業場があった。妻に先立たれ、丁稚もおらず、今年九つの娘、お紋を連れて商いに出ることが度々あった。
この年、大坂城京橋口定番が戸田大隅守忠囿に代わった。女中として、堺屋の裏にある長屋に住まう飾り職人の娘お仙が上屋敷に上がり、そのつてで吉右衛門は、上屋敷や家臣宅への行商を許されるようになった。
自らは大きな行李、お紋に小さな行李を背負わせて出商う様子が、城下で見られた。
お紋には、目に色が分からぬ患いがあった。また、際立った立ち耳で、黒く堅い髪を振り分け髪にしている。それがお紋を頓狂な顔立ちにしていた。近所では、それを指して「お耳」と呼ばれるようになった。
ただ、お耳は人ならざるものの音が聴こえ、色は無いものの形も視えた。そのため、時に怯え、竦む姿を見せた。
この為、常に吉右衛門が寄り添っていたのは、無理からないことであったと思われる。
◯戸田家上屋敷の怪異
梅雨入り前のよく晴れた昼下がり、吉右衛門親子が、上屋敷の厨横の裏縁に品物を並べ、女中たちに商いをしていた時、庭に立っていたお耳が唐突に振り向き、父吉右衛門の袂に隠れた。女中たちの買い物を眺めていた戸田家の奥方が訝しく思い、訳を聞いたところ、鎧武者四人が通り過ぎたと答えた。
吉右衛門は、大坂に赴任してすぐに縁起でもないことを言ったと深く詫びた。奥方は気に留めぬよう言い、お耳にと少し菓子も与え、お仙に外まで送らせた。
お仙は、お耳が先ほど見たものを詳しく聞き、奥方に伝えた。
槍を杖にして歩く者、破れた陣笠で足を引きずる者、歪んだ刀を何度も鞘に納めようとするが途中で止まり、キシキシと言わせながら歩く者、肩に矢傷を負い旗印を引きずる者だった。
それらは、夜、女中たちが耳にしたものと一致したため、奥方は、上屋敷に戻った夫戸田大隅守忠囿にこれらのことを話した。
戸田大隅守忠囿は、ここ三日で家中の者がばたばたと倒れている報を受けており、顔を歪めた。
上屋敷や家臣の屋敷の庭には稲荷社があり、代々の定番が奉納する習わしがあった。忠囿は、そのような習わしや霊障に囚われない考えを持ち、自らも武芸を厚く修めた者であったため、稲荷社はまとめて玉造稲荷に移してしまった。上屋敷の怪異は、その夜から起こり、家臣数十人が高熱を出すに至った。
〇雑兵の霊
翌日、忠囿は、上屋敷に堺屋親子を召し出した。努めて穏やかに、お耳から三人の鎧武者の詳細な特徴を聞き出すと、陣笠の家紋や、槍が兵時の数槍であったことから、大坂夏の陣に城の後詰めをした大野治長の雑兵と推察した。
忠囿は、一晩お耳を上屋敷に泊め置くことを決め、怪異を改めて確かめることを命じた。お耳にはお仙が付けられ、二人は書院に下がった。
夕日が天守にかかる頃、お耳は庭に武者の行列の音を聞いた。怯えるお耳の肩を抱き、障子の隙間から覗かせたところ、お耳は、
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、いつむぅ、なな、やぁ、は、八人……」と、数えた。お仙も、薬指を口に含み唾をつけると、両眉に塗って覗き込んだ。夕日に長く影を引く異様な行列が、朧気ではあるが目に飛び込んできた。
武者を率いる先頭の者は、扇を持ち、具足一式に陣羽織の出で立ちをしている。一人気炎を上げながら歩く姿の陣羽織が幾度も揺れ、やがて、裾に隠れたべっ甲色の太い尾がだらりと垂れ下がった。
「ああっ」
思わず、お耳が声をあげると、陣羽織の武者が振り向いた。扇を振り上げ、行列を止める。その顔は、齢を経た赤狐だった。
「はっ」
お仙は、慌ててお耳を強く抱き締めて口をふさぐと、息を殺した。
「ばっ」と着物の裾が、風に鳴る。陣羽織の赤狐は、高く跳ね上がり、縁に飛び降りた。ぎょろぎょろと細長い目を動かし、鼻を鳴らして障子の前をうごめく。侍装束に長い鼻、尖った耳、太く揺らめく尾が、障子に濃い影を浮かび上がらせる。
「こ、こぉどぉもぉおおお、おんなぁあああ」
しわがれた甲高い篠笛のような声が、強弱を繰り返しながら聞こえた。赤狐の持った扇が、わずかに開いた障子にかかり、じわりと開かれようとする。
その時、
「伏せよっ」
大太刀を抜いた忠囿が、八相の構えから横一文字に障子を切り破った。
「ぎゃーーー」
叫び声が上屋敷に響き、鮮血が障子に飛び散る。切られた障子が「がたん」と外側に倒れ、「ぼとり」と扇が、縁に落ちた。
「かぁさぁねぇ、がぁさぁねぇぇええええ」と声が聞こえ、やがて、唸り声となり、遠のいていく。辺りに立ち込めた獣の吐く生臭い息が、強く差し込む西日に打ち消されていく。扇を握る血にまみれた狐の左前脚も、ぐずぐずと煙を上げている。
忠囿は、切っ先で狐の前脚を庭に弾き飛ばした。前脚は、ぼたりと嫌な音をさせて地面に落ち、ぬらぬらと紫色の鬼火となり消えた。
◯刀掛け
忠囿は、大太刀を床の間の刀掛けに戻した。刀掛けには、神宝として拝領の大太刀、直刀、陣鎌が掛けられていた。忠囿は、刀の前に膝を付き、しばらく手を合わせた。
「此度のことは、ご神威を畏れぬ自らが招いたもの。自身で決着をつけねばならぬ」
忠囿は、お耳お仙を厚く労い、褒美はまた後日として、家に返した。
◯赤狐
翌日、忠囿は、上屋敷に一人きりとなり、書院にて待ち構えた。果たして赤狐らは、幽鬼となり大幅に数を増して出現し、屋敷中を荒らし回ったが、忠囿は仙骨足りず、斬り伏せることはおろか、姿を見極めることも叶わなかった。
更に次の日、忠囿は、ますます増えた幽鬼の気配に、いたずらに大太刀を振り回すに終わった。
夜が明けようという頃、嗄れた赤狐の高笑いが屋敷中に響いた。
◯家老の進言
忠囿は、歯ぎしりをして朝を迎えた。怪異が収まるまで、夜通し表門の外で控えていた長年戸田家に仕えた家老が、家臣の惨状を伝えた。忠囿は、拳を畳に擦り付けて悔しがった。
「影なりと捉えたがゆえ切ることができた。それがならぬまま、きやつの跋扈を許すなど、到底まかりならん」
家老は、改めてお耳を召されと進言し、自ら小間物屋に出向いた。
家老は、主君の心持ちを苦渋の表情で伝え、吉右衛門にお耳を借りたいと申し出た。吉右衛門の心配は大抵のものではなかったが、ついには承諾した。
◯豊臣再興
家老の依頼もあり、お仙に連れられて上屋敷をたずねたお耳は、屋敷の大屋根で大きく鍬を振るう身振りをする陣羽織の赤狐を見つけた。庭では大勢の雑兵の幽霊が、赤狐の調子に合わせて鍬を振り、地面を掘り返している。庭先で指揮をする首のない武将も赤狐に合わせて、右手に持った采配を振っている。
雑兵たちによって白骨が掘り出されると、そこから妖しげな蒸気が立ち昇り、死ぬ間際の姿をした幽霊になる。こうして赤狐は雑兵の亡霊を増やしていたのだ。
「わぁがぐんぜぇいぃは、よぉごぉとぉひぃごぉとぉにぃ、ばいになるぅ。いずぅれぇはぁ、やぁまぁざぁとぉくぅるぅわぁにぃ、おぉしぃよぉせぇてぇ」
庭の首なし武将は、左手で抱えた己の首を高く掲げる。その首は、
「目指すは、御大将のみしるしなりぃ!」と、叫んだ。
お仙は、お耳を抱えて屋敷に駆け込み、書院に転がり込んだ。仔細を聞いた忠囿は、お仙に習い眉に唾をし、お耳の手を取った。
「おおっ」
忠囿は、我が目を疑った。刀折れ、矢に射抜かれ、あるいは血にまみれた軍勢が、ただ無表情に鍬や棒切れを振るい、庭一杯になって白骨を掘り起こしているのだ。
忠囿は、悔恨の情にはらはらと涙を流した。自分が、思い残して討ち死にした数多の霊を鎮める社を移してしまったがゆえに、百年の眠りを妨げて魔性の赤狐に使役されることになったのだ。忠囿は、お耳を抱き上げ、書院から庭に飛び出した。
「おやめくだされ皆々様。此度はこの忠囿が不徳の致すところ、幾重にもお詫び申す」
いくら、大声で詫びて廻ろうと、雑兵はただ心も無いままに土を掘り続ける。
首無しの武将が、忠囿を見咎めた。
「何奴か、大恩ある豊臣家の再興を妨げんとは無礼千万。この大野修理が切り捨ててくれる」
言葉が終わらぬうちに、大野修理の亡霊は采配を投げ捨て、刀を抜いた。忠囿も腰の刀を抜いて、修理の刀を受けた。忠囿は、押し返した勢いのままに修理の右腕に切りつけた。
修理は一瞬怯んだが、その傷口からは一滴の血も噴き出さぬことに気付き、左手に抱えられた顔で、にっちゃりと笑い出した。
「一度、主君に殉じたこの体。二度も三度も死にはせぬ」
修理は、激しい勢いで上段から切りつけてくる。忠囿は、お耳を抱きながら剣を受けつつ、じりじりと後ずさった。忠囿の足が踏み石に係り、一瞬注意がそちらに向く。そこを見逃さず修理は突きを放った。
忠囿は、飛び下がりざまに刀を投げつけた。それは修理の口を貫いた。修理は不気味な声を上げたが、右手の刀を地面に突き刺すと、その手で口に刺さった刀を抜き捨てた。自らの刀を再び手に取ると、修理は踏み石に足を掛け、書院に切り込んだ。
一方、書院に転がり込んだ忠囿は、刀掛けの大太刀の鞘に手を掛けると、真上に投げ上げた。落ちる大太刀の柄を掴み、鞘から勢いをつけて振り抜きざまに、修理を袈裟懸けに切り伏せた。神宝として鍛えられた大太刀の威力に大野修理の亡霊は消失した。
忠囿は、庭に飛び出した。両眼を見開き、大屋根の赤狐を睨んだ。陣羽織と太い尾が揺れている。赤狐は、雑兵の霊に命じた。
「かかれっ」
六十人余りの亡霊達が、一斉に忠囿に襲い掛かった。忠囿も近づく者から大太刀で薙ぎ払っていく。一薙ぎで四、五人が切り払われていく。瞬く間に二十人余りが討ち取られ、黒いすすの塊のようになり、ぼろぼろと崩れていった。
しかし、何度も右腕一本で大太刀を振るに従い、お耳を抱いたままの忠囿にも疲れが現れていった。
その時、
「狐が」とお耳が叫んだ。
赤狐は、中空へ舞い上がり、侍装束から抜け出して、身の丈七尺八寸(約2.4m)の赤い大狐になって襲い掛かった。
振り向きざまに、忠囿が大太刀を振り上げる。大狐の左前脚の爪が忠囿の右肩に突き刺さった。しかし、忠囿の大太刀もその根元が、大狐の左前脚を切りつけ、骨で止まった。
「うおおおお」
真っ赤な口を開いて嚙みつこうとする大狐の牙が忠囿の喉笛に届く寸前、忠囿は、渾身の力を籠めた大太刀を振り抜いた。大太刀は、その根元から折れ、剣先が空を舞い庭に転がった。
「ぎゃあああ」
大狐は、両前脚を失くし、のたうち回る。忠囿もばくばくと荒い呼吸をしながら、ずるずると左腕に抱いていたお耳を降ろした。
「しょ、書院に隠れるがよい」
お耳が、震える足でよろよろと駆けだす。お耳が忠囿から離れた瞬間、忠囿の視界から大狐が消えた。きょろきょろと見渡す忠囿を見て、大狐は大きな口を歪めて笑った。
大狐は、後足だけで陽炎のように立ち上がり、首をぐらりと振ると、お耳に向かって飛び掛かった。
忠囿には、姿も見えず、刀もない。自分の脇を強い風が吹き抜けたように感じられた。
「し、しまったあああ」
大狐は、強く背中に噛み付き、深く牙を刺した。
「きゃああああ」
「仙さんっ」
「お仙っ」
それは、お耳をかばって飛び出したお仙の悲鳴だった。書院の畳にお仙の血がぼとぼとと零れ落ちる。大狐は、その場に仁王立ちになり、目の下にお耳がいることに気付いた。
「そ、それをご定番様に……」
お仙の指さす先には、刀掛けがあった。
お耳は、一心に陣鎌と直刀を掴むと、忠囿に向かって駆けた。
大狐は、お仙を吐き捨てると、縁に向かうお耳に牙を剥いた。
前のめりに倒れかけるお耳が、陣鎌と直刀を放つ。
左手に陣鎌、右手に直刀の柄を掴んだ忠囿が、そのままの勢いで鞘を振り抜いた。
大狐の真っ赤な口がお耳の頭に食いつこうとする。
直刀が、大狐の眉間に突き立てられた。お耳は忠囿の首にしっかりと抱きついていたのだ。
次の瞬間、左回りで振り込まれた陣鎌が、大狐の首に掛かった。
忠囿は、大狐の首を一気に掻き切った。
雑兵の霊が、紫の鬼火になって静かに燃え始めた。
忠囿は、右手の直刀で刺し貫いた大狐の首をゆっくりと庭先に運び、地面にそっと置いた。大狐の首はじくじくと黒く変色し、やがて紫の炎を上げて燃え始めた。
夕闇の暗い紫の炎の中で、忠囿は、しっかりと両手でお耳を抱き締めた。
〇後日談
忠囿は、右肩を砕かれていた。また、四、五十日の間寝込む高熱を出したという。国元や幕府には病気と報告されたが、七年後の享保十七年五月二日に死去した。
お仙は、大量に出血していたが、幸い内臓や骨に至る傷は無く、お耳の献身的な看病と戸田家の御典医の治療で回復した。
小間物屋堺屋吉右衛門は、忠囿の後ろ盾で長く定番上屋敷への出入りを許された。また、忠囿の勧めでお仙を後妻として祝言を上げた。
お耳は、お仙という優しい母を得た。髪を結ってもらえるようになり、身繕いも整って不器量と言われることはなくなったという。
江戸時代に発行された「金城見聞録」に載っている稲荷狐の怪異をもとに着想したものです。
初めて、江戸時代を舞台にお話を書いてみました。
時代考証などであやふやなところもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。