表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不器用な人の生き方  作者: 紅羽 もみじ
3/3

3話 痛み

 すっかり日差しの厳しい季節。大学では前期を終え、講義の成績が学生各々に発表された。特別不真面目な学生以外は、ほとんどがきちんと成績を残しており、講義についていけないと嘆いていた晴海も、単位を一つも落とすことなく、前期を終えられていた。

 学生たちが自身の研究や学業をこなすために用意された研究室には、翠と晴海をはじめ、数人の学生たちが成績表を見て話し込んでいた。


「あ、吉田先生!」


 翠に呼び止められ、明里は研究室を覗く。晴海の様子も伺ってみたが、見る限りでは安心したような柔らかい表情を浮かべていた。


「あら、どうしたの?」

「みんな、ちゃんと単位落とさずに乗り切れました!晴海から聞きましたよ、先生もここの学生だったんですね。テストやレポートがある度に、友達と協力しながら勉強してたって。」

「そうよー、みんな佐々木先生みたいに『優しい』先生ばっかりじゃないからね。」


 佐々木は、成績表を作ることが特に面倒なようで、自分の講義を行なっている際に、他ごと(多くはスマートフォンをコソコソといじっている場合である)をしない学生については、たとえ講義中に寝ていようが、レポートの内容が支離滅裂だろうが、ほとんど「可」の評価を与えていた。(逆に、他ごとをする学生については特に厳しく、時折我慢の限界だ、と言い放つと、その学生を講義から出ていくよう命じ、出ていかなければ講義を進めない、などの強行手段をとることもあるとか)


「佐々木先生の講義は楽しいですよ、お話も面白いですし!ね、晴海。」

「うん、内容は難しいけど…、聞いてて楽しい。」

「問題なく単位取れたなら、良かったじゃない。この調子で後期も頑張って。」


 明里はそう言っても、学生たちは大学生活で初めて迎える夏季休暇をどう過ごすかで、頭がいっぱいのようであった。アルバイトして欲しいものを買うやら、どこどこへ旅行するやら、それぞれ楽しみなイベントが待っているようだ。

 そんな中で、晴海は周りの会話を聞きながら、時折くすくす笑って相槌を打っている。


「晴海さんは、夏季休暇の予定は何かあるの?」

「あ、私は、その…、アイドルの、ライブに。」


 意外な反応だった。明里にしてみれば、普段大人しく過ごしている晴海から、アイドルのライブへ足を運んでいるという様子が思いもつかなかった。


「私といくんですよー!実は、晴海と仲良くなったのも、同じアイドルのメンバーが好きっていう話から気があって!」


 翠は、ね、晴海!!と声をかけ、晴海は大学内で初めてではないかと思わせるほどの明るい表情で、うん、と頷いた。明里は、晴海は晴海らしく、大学生活を謳歌できていることに、心から安心した。


「なるほど、そんな繋がりがあったのね。いいじゃない、社会に出たらそんな時間なくなっちゃうから、今のうちに楽しんで。」

「そんな、シビアなこと言わないでくださいよ、先生!」


 翠からちょっとした非難を受けながら、明里はごめん、ごめん、と軽く謝り、学生の研究室をあとにした。


 夏季休暇も半ばに入ってきた頃、明里は研究室で自身の研究テーマについて、論文を読み耽り、膨大な情報量を整理することに没頭していた。そんな明里を現実世界に戻したのは、研究室に備え付けてある固定電話の呼び出し音。時計を見ると、昼を過ぎている。昼食食べ損ねたな…と思いながら、受話器を取る。


「はい、吉田です。」

「学務課です。お忙しいところ恐れ入ります。井上さんという学生から、先生宛にお電話が入ってます。お繋ぎしてもよろしいでしょうか?」


 井上、という名字の学生は珍しくないが、明里が思い浮かべた顔は、晴海であった。


「その井上という学生は、女性ですか?」

「はい、晴海さんというそうです。」


 やはり、と明里は受話器を握り直す。


「わかりました、繋いでください。」

「かしこまりました。」


 少しの保留音が鳴った後、電話がつながった音が聞こえた。電話の相手は繋がったことに気づいていないのか、何と切り出していいのかわからないのか、ただ黙ったままだった。


「晴海さん?吉田です。何かあった?」

「…あ、先生。すみません、突然……」


 電話では声色からしか、様子を察することができないが、少し不安気なような、怯えているような、そんな様子が電話越しに伝わってきた。


「気にしなくていいよ、どうしたの?」

「……突然で、ごめんなさい、今日、研究室にお邪魔しても、いいですか?相談したいことが……」


 そう話す晴海は、突然の電話で明里に迷惑をかけているのでは、と思う気持ちと、自身の中で大きく困っていて助けて欲しいという気持ちがせめぎ合っているようで、聞いているだけでは、電話の相手は泣いているのではないかと思わせるほどの声色だった。


「うん、大丈夫だよ。何時ごろ来る?」

「……30分くらいで、着くと思います。」

「了解、研究室にいるから、この前みたいにおいで。」


 明里の反応に少し安心したのか、緊張したような声が和らぎ、晴海はわかりました、お願いします、といい、電話を切った。


(夏季休暇に入る前は、あんなに楽しそうだったけど……。何かあったのかしら。)


 明里はこれから来る晴海を迎えるため、食べ損ねた昼食代わりになる軽食を急ぎ足で買って戻り、食べ終わって少しすると、研究室のドアのノック音が鳴った。


「開いてるよ、どうぞ。」


 明里の声に反応した晴海はそっとドアを開け、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。


「ごめんね、ちょっと散らかってるけど。適当に座って。」

「いえ、こちらこそ……、突然、すみません。」

「そんなこと気にしなくていいの、ほら、外暑かったでしょ。座って休んで。」


 ようやくクーラーを使うことが許された研究室は、廊下と研究室で気温の壁があるように感じられるほど、冷房を効かせてあった。冷房は大丈夫?寒くない?とお茶の準備をしながら声をかける明里に、晴海は一言、大丈夫です、と返し、そのまま黙っていた。


「すごく今更だけど、晴海さんの相談相手って私でいいの?他にも先生はたくさんいるけど……」

「…いえ、吉田先生が、1番話しやすいんです。」


 そう答える晴海であったが、いざ、明里が相談事は何かと切り出すと、晴海は、夏季休暇前に講義についていけない、と相談した時のように、言いにくそうに黙したままになってしまった。


(よほど言いづらい相談なのかしら…、でも、研究室に来てまで話したいってことは、同じくらい困っているってことよね。さて、どう聞き出したものか…)


 明里が切り出し方を模索していると、晴海が意を決したように話し出した。


「……あの、今日、相談することは、誰にも、言わないでもらえませんか。」


 誰にも、というのはどの人たちを指すのか。一瞬戸惑った明里だが、ここで拒否すれば、悩みを打ち明けてもらえないかもしれないという直感のようなものを感じた。戸惑いを押し殺し、誰にも言わないよ、と一言返すと、晴海は安堵したような表情を見せ、また黙り込んでしまった。


「……深刻な、悩みなの?」


 明里が聞くと、晴海は力なく頷く。


「そう…、私は話を聞くことしかできないかもしれないけど、それで晴海さんが楽になるなら、なんでも聞く。少しずつでいいから、話して?」


 優しく諭す明里に、晴海はどう切り出そうか戸惑っているようだったが、左腕を出し、ゆっくりと服の袖を上げた。そこには、無数の切り傷の痕。思わず明里は、晴海の顔を見つめた。


「これは…、いつから?」

「……高校2年の頃です。」

  そう…、と相槌を打つ明里。晴海はぽつぽつと、自身の胸の内を話し始めた。


「なるべく、我慢、してるんですけど…、どうしても、やめられなくて。」

「我慢しようと思ってるのは、晴海さん自身、切っちゃいけないと思ってはいるの?」

「……正直、わかりません。でも、切ると、親に怒られるし、しつこく、切ってないかって聞いてくるから…」

「だから、我慢しようとしてる?」

「……はい。」

 晴海は、そっと左腕の袖を戻し、ため息をついた。

「……やめられないんです。特に、親にまた切ってないかって、しつこく聞かれると、イライラしてしまって。」


 明里には晴海の置かれている環境が、晴海の精神衛生上良くないようだ、と言うことが、容易に推測できた。始めたきっかけはともかく、一度両親に知られており、それを逐一詮索されていれば、晴海のフラストレーションが溜まり、リストカットに及ばせる……悪循環だ。


「……どうしたら、やめられるのか、わからないし、親は切ってないか聞いてくるし、それでイライラして、また切ってしまって…」


 明里は、今の晴海にとって、必要な言葉や対応はなんだろうか、と考えを巡らせた。最適解は、心療内科やかかるべき医師のもとへ行き、メンタルコントロールができるようにすることだろう。だが、それをせずに明里の元へ来た、ということは。


「この件で、心療内科とか、病院にかかったことはある?」

「……いえ。それも、親に知られてしまうと思ったら、行けなくて…」


 明里の推測通りの返答だった。自傷行為に至るきっかけがあり、それを親に知られ、怒られ、詮索され、家にいるだけでも息が詰まる状況。そこから抜け出すための病院に行けば、今も自傷行為をしているということがいつかは知られる。現段階で考えうる限りでは、八方塞がりの状況だった。

 明里は、一つ疑問に思ったことがあった。


「ごめんね、少し気になったんだけど、どうして今日、私にこの事を相談しようと思ったの?」

「……今朝、また親に聞かれて。イライラして切りたくなったけど、また傷が増えちゃうし、どうしようって思って…」

「……なるほど、それで相談しようと思ったのね。」


 晴海は、項垂れるように頷いた。

 明里は、再び今の晴海に必要な言葉や対応は何か、と考え始めた。誰にも言わないで、というのは、翠たち友人のことも指しているだろうが、一番知られたくないのは、晴海の保護者だ。


 明里が教育者として対応するなら、この場面では、誰にも言わないからと一旦帰し、保護者に連絡、そして、このことは晴海に言わないでやって欲しいと依頼することだ。だが、話を聞く限り、晴海の保護者は守ってくれないだろう。それどころか、また晴海を詰問し、さらに追い詰めることになる可能性が高い。晴海も今後は、明里を頼りにくくなるだろう。一方で、1人の人間として対応するなら、晴海の誰にも言わないでという言葉を守り、晴海がこれ以上、追い詰められるような状況を作らないこと。そして、自傷行為に及ぶ前に、明里に知らせるよう促し、なるべく行為に及ばせないようにすることだ。だが、自傷行為は一歩間違えば生命にも関わる。晴海が明里の目の届かないところで、腕を深く切ってしまい、命の危険を引き起こしたなら…


 『教育者』としての対応か、『1人の人間』としての対応か。明里の前に、2つの選択肢、だが、1人の学生の人生を左右する重い選択肢が並んだ。


「……苦しかったよね。」


 明里は、一言呟くように話した。


「……このことは、晴海さんの言うとおり、誰にも言わない。自傷行為は、人に言われてやめられるものでもない、晴海さん自身が『やめなきゃ』って本心から思えないと、無理だと私は思うから。」


 明里の言葉に、晴海は少し驚いたような表情で明里を見つめた。


「…実は、私もね、晴海さんと同じことやってたの。もう、だいぶ昔の話だし、切り方が浅かったのか、もうほとんど跡は残ってないんだけどね。」

「……そう、だったんですか。」

「その当時は、本当に苦しくて。でも、切ると気持ちが何故か楽になるのよね。切った後は痛いはずなのに、気持ちは不思議と楽になる。だから、どんどん切り傷は増えていって。」


 明里は、そっと立ち上がり、晴海の隣に席を移った。そして、晴海をしっかりと見据え、言葉を紡ぐ。


「晴海さんの気持ちは、全部わかる、とまでは言えない。けど、苦しいんだろうなって想像することはできる。わたしの立場で、自傷行為を勧めるってことはできないけど、そうでもしないと苦しい環境にいるってことは、理解できるよ。だから、誰にも言わないってことは約束する。ただ、晴海さんも、私と約束して欲しいことがある。聞いてくれる?」


 晴海は、小さくはい、と頷いた。


「もし、これから自傷行為をしたいと思った時、もう苦しいってなった時は、まず一回立ち止まって、私に連絡して欲しいの。さっきも言ったように、私の立場で自傷行為をしてもいいとは言えないし、でも、やめなさい、というのは晴海さんをさらに苦しめるだけってこともわかってる。だから、少しずつでも晴海さんが自傷行為を心からやめようと思えるようになるように、私に手伝わせて欲しい。…もう少しお願いしてもいいなら、命に関わるような傷はつけないで、ってお願いしたいけど…。約束、できる?」


 晴海は、晴海自身を本気で想って、言葉を選びながら話している明里の熱心を感じた。


「…はい、約束します。……死にたいって思って、切ることもありますけど、少しの傷で済むように、頑張ります。」


 明里は晴海の決意に頷き、メモ帳サイズの紙にすらすらと書き込むと、晴海に差し出した。


「これ、私の携帯の番号。学生に教えることはほとんど無いから、この番号は誰にも言わないでね。晴海さんが、苦しくなった時にかけるための番号だから、その時にここにかけてきて。」


 晴海は、差し出された電話番号を貴重品を預かるかのように大切に受け取り、誰にも教えません、約束します、と明里に約束した。

 先生と話せて、よかったです、と晴海は明里にお礼をし、研究室を去っていった。研究室に1人残った明里は、深くため息をつき、自分の行動を振り返る。


(……これで、よかったのか、わからないけど。でも、これ以上彼女の逃げ道を塞ぐのは、かえって追い詰めるだけ…。今は、晴海さんを信じるしかない、か。)


 研究室に西陽が差し込み、秋が近づいていることを知らせるように、虫の音が響く。明里は眩しそうに窓に近づき、西陽を遮るためのカーテンをそっと閉める。


(……あの時も、これくらいの季節だったかな。)


 明里は、自身の古傷に思いを馳せ、研究資料を片付け始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ