お母様曰くお友達は選びなさいとの事
王都から離れたウェルテールの町はどちらかといえば田舎と呼ばれるような、長閑な所だ。田畑がずっと続いているような田舎というわけではない。自給自足の生活をするようなところでもないし、店だってそれなりにある。けれどもやはり王都からこちらに足を運んだ直後、リラが抱いた第一印象は田舎だわ……だった。
町、と呼ばれているもののどちらかと言えば限りなく村に近いのではないか。そんな風に思った事もある。
けれども生活するのに困らない程度に店があるので、リラはあまり贅沢は言ってられないわね、と思い直したのだ。
場所によっては自給自足で毎日自分の食べる物は自分で材料から確保しなければならない、なんて所もあると聞いている。そんなところと比べれば貨幣での買い物ができるだけでも充分ではないか。半ば現実逃避のようにそう思い込む事にした。
とはいえ、そんな感想を抱いたのはそれこそ最初のうちだけで、住めば都とはよく言ったものだなと今では思っている。
リラは元々王都に暮らす子爵家の令嬢であった。
貴族ではあれどそこまで裕福というわけでもない。生活に困る事はなかったけれど、やはりもっと上の貴族たちのような暮らしをすれば生活はあっという間に困窮するだろう。
社交の場に出るのにドレスを新調するにしても、婚約者が贈ってくれるのであればまだいい。
けれどもまだ婚約者も決まっていないのであればドレスを用意するのは勿論自分の家となるので、財政状況によっては自分の望んだドレスが必ずしも手に入るわけでもない。
リラの家では大抵流行りのドレスを購入し、そこに精々ちょっと手を加えた物を用意するのが普通だった。
王家がよく利用するような材料のどれもが超一流と言われるような店で、自分の理想を詰め込んだドレスをオーダーなんていうのは夢のまた夢だ。
憧れは勿論あったけれど、あくまで憧れ。どちらかといえばそんなドレスを自分が着るなんて恐れ多くてとてもじゃないけれど……と思ってしまう。それならそういったドレスを身に纏う他の美しいご令嬢を眺めている方が余程有意義だった。
王太子の婚約者でもあるロザリア公爵令嬢なんかは遠目で見ててもなんだかご利益ありそうな美しさだし。
次期宰相の座が確定しているオーリオ侯爵家の婚約者であるエレミア伯爵令嬢などはあまりの可憐さにまるでお伽噺に出てくる妖精を目にしたような気分にさせられる。
他にも麗しい令嬢たちが沢山いるので、リラはそういった令嬢たちを眺めるのが好きだった。
美しいものは男だろうと女だろうと見てるだけで心が洗われるようだ。人間に限った話じゃない。景色だろうと絵画だろうと、ともかくなんだっていいのだ。
そんなリラは婚約者と結婚した直後、夫となったエリックと共に王都を出る事になった。別に追い出されたとかではない。エリックの仕事の都合だった。
そうしてやってきたのがウェルテール。
限りなく田舎に近い町ではあるものの、自分たち以外にもここで暮らしている貴族はいた。
とはいえ、どちらかといえばそれは当主の座をおりて今後はのんびり過ごそう、というような現役を退いた者たちが多い。
若い時は都会から離れるなんて考えられなかったけれど、今は割と騒々しい都会より少し静かなこういった所の方が落ち着くの。なんていうとある伯爵家の奥様は、数年前まで王都の社交場で随分と名を馳せていたような気がするけれど、今となってはそんな事もありましたわね、なんてコロコロと笑っていた。
というかよくよく見れば数年前まで現役でバリバリ活躍していた方々が結構いてリラはそれこそ最初のうちはかなり恐縮しきりだったのだ。ひえぇ……下手な事して怒りを買ったらどうしよう……社交の場でのルールやマナーはともかく、ここでのルールがそれと同じはずもない。知らぬうちに何かやらかしてしまったら……と王都にいた時以上にリラのウェルテールでの生活は最初の頃は何気にスリリングだったのである。
もっともそれは杞憂に終わったが。
夫の仕事を手伝いつつご近所さんとの交流をする、というのは若干形が変われども王都にいた時とあまり変わらないように思えた。全く同じと言い切れないが、それでも大まかには同じだと言える。
だからこそ割と早い段階でリラは開き直って変に縮こまっていたのをやめて、それからはのびのびと生活するようになったのだ。
貴族令嬢であるけれど、それでもその感性は平民に寄っている部分もあってウェルテールで暮らすかつて王都でバリバリ活躍していた貴族たちだけではなく普通にこの町で暮らしている住民たちともそれなりに仲良くなれた。
少なくとも敵意を向けられるような事がない生活だ。最初のうちはどうなるかと思っていたウェルテールでの生活は、思いのほかリラに合っていて。
あぁこの町に来てよかったな、としみじみと思ったのだ。
王都にいた時は茶会に誘われるにしても、どこそこのご令嬢の茶会に誘われた後にそこと敵対している派閥のご令嬢から後日茶会の誘いがきたり、なんて事もあったので。優秀な従者がいるだろうはずなのに、あえてそういった相手を誘って呼び寄せて、とかやらかされると、こちらも下手な事は言えないしそのせいで茶会で出された高級なお茶やらお菓子やらの味なんてちっともわからなかったのだ。
自分のような低位貴族から得られる情報なんてそんなにないだろう、と思っていたらとんでもなかった。むしろそういった相手だからこそ油断してぽろっと漏らした情報があるかもしれないと思われて狙われる事もあったほどだ。
そりゃあ自分の家と政治的な意味で敵対関係にあるような家だとかは把握していたけれど、それ以外の家のしがらみだとかを全部把握できる程リラは賢い方ではなかったので、ほいほい誘われて行った茶会で生きた心地がしなかった、なんて事を何度か経験すればそういったしがらみがなさそうなウェルテールでの暮らしはリラにとってはまさに天国だったのである。
現役を退いたとはいえ油断のならない方々がいらっしゃるけれど、礼儀を弁えていればどうにかなる。
王都で生活していた時以上に、リラはのびのびと過ごしていたのだ。
ところがある日ウェルテールに新しい住人が増えた。
リラはその相手を見た時、思わず二度見してしまった。
その動作のせいで向こうもこちらに気付いたらしく、あら、なんてわざとらしいリアクションでもって彼女はリラに近づいてきたのだ。
「あら、しばらく見ないと思っていたらこんなところにいたのねリラ。随分と身の丈にあった生活をしてるじゃない」
「ライラ……」
にこ、と笑うライラの表情は一見すればただの笑顔だ。久々に知り合いに会って嬉しい、と思えるような。しかしその笑顔には間違いなく毒が隠されていた。
「貴方もここで暮らすの……?」
「一時的によ。永住なんて冗談じゃないわ……!」
その言葉にあぁやっぱりな、とリラは声に出さずに納得した。
ライラはリラと同じく子爵令嬢である。
王都にいた時は割と家が近くよく顔を合わせる事があった。
生まれた日も近く、そういう意味では幼馴染と言ってもいいのかもしれない。
けれどもリラとライラは別に仲が良いというわけではなかった。
リラは割と何にでも楽しみを見いだせるタイプではあるが、ライラはそうではなかった。
幼い頃別の家の子たちと外でキャッキャと遊んでいたリラに、まぁはしたない、なんて顔を顰めて言ってのけたライラの事は今でも記憶にある。泥まみれとまではいかなくとも、それでもライラから見れば服を汚すような遊びなど信じられないというものだったのだろう。
リラは自分がドレスを着ても、着飾るまではどうかなと思うタイプであったがライラは違った。
流行りのドレスには目がなかったし、それらを彩る装飾品にも目を輝かせていた。
とはいえ子爵家。ライラが望んだ希望のドレスの大半は手に入る事がなく、ライラはよく将来はお金持ちの男を旦那にして綺麗なドレスを一杯着てめいっぱいおしゃれするの! もっと綺麗になるんだから! とかなり早いうちから野望を露わにしていた。
最低限の身なりは気にするリラと比べるとライラのその熱量はまさに圧倒的であった。
将来は絶対にお金を持ってる貴族と婚約するんだから、と息巻いてそういった男性に見初められるための努力を惜しまない所はリラも素直に凄いなぁ……と思えたが、けれども彼女は間違えた。
貴族院に入る頃には大抵の貴族令嬢には婚約者がいる状態が当たり前になる。
いない者も少数ではあるけれど存在するが、それは家の事情であったりいるけれどあえていない事にしてある、という訳ありだってあるのだ。
そういう事情も何もなく婚約者がいない令嬢は、何かの瑕疵があるのではないかと思われる。
大抵は事情持ちだと思われているので、面と向かってあからさまにいないと言っている令嬢を貶めるような者はいないのだが、ライラはそういった令嬢をどこか見下していたのかもしれない。
事情に関して知らないはずはないのだが……とリラは思ったしちょっと聞いてみようかと思ったけれど、これでもし本当にその事情の事をよく理解できていなくて普通にそういった令嬢を見下していると判明した場合、とてもじゃないが恐ろしすぎるのでリラはそれについてみなかった事にした。
ライラのために厄介ごとに首を突っ込むつもりはないのだ。
その頃には勿論リラにも婚約者がいたし、その婚約者とは現在結婚し夫婦となっている。
けれどもライラは――
彼女は貴族院にいる間に、自分に決められた婚約者よりもいい男を探していたのだろう。贅沢三昧できそうな男が自分の夫になれば将来安泰だとでも思っているのかもしれなかった。ライラはそれなりに身だしなみに気を使っている年頃の乙女であったけれど、子爵令嬢だ。仮に彼女が見初めた男性がいたとして、それが伯爵家あたりならまだしも侯爵家や公爵家であれば結婚は少しばかり難しくなってくる。
そもそも既に婚約している男性がいるのだから、そちらを穏便に白紙化できたとしてもだ。
愛人だとか妾であればまだしも、それをライラが良しとするかはリラにはわからなかった。
自分の望む贅沢ができるなら許容するかもしれないけれど、そうでなければ愛人なんてものになったりはしないだろう。
ちなみにライラの婚約者だった相手は男爵令息であった。
それもまた、ライラがもっといい男を、と思う原因だったのかもしれない。
リラの目から見る限り、ライラの婚約者だった令息はライラにはもったいないくらいいい人だと思うのだが、ライラはそうは思わなかったようだ。確かに贅沢な暮らしは無理かもしれないけれど、でも温かい家庭を築くのであればあれは良い旦那になるだろうに……と言えるタイプだったが、ライラが望んでいるのは温かい家庭ではないのだろう。
冷え切っていても贅沢ができれば、と思っているのなら、最早何も言う事はない。
思う事があってもそこまでのお節介はライラだって望んでいないだろう。
元々リラとライラはあまり気が合うタイプでもない。だからリラが何を言ってもきっとライラは素直に聞くなんて事、するはずがないとリラは悟っていた。
ライラがやらかしたのは、貴族院もそろそろ卒業……という時期であった。
彼女は身分が上の貴族の令息を射止める事ができなかった。まぁ、大抵の令息には既に婚約者がいたし、その婚約者を差し置いてまでライラを、とはならないだろうとはリラでもわかる。
家のための政略結婚であるならば、正直伯爵家や侯爵家、更に公爵家が今の婚約者を差し置いてライラを選ぶ理由がない。
家のためだとかそんなの関係なくライラをどうしようもないほどに愛してしまった、なんて者がいれば話はまた変わったかもしれないけれど生憎そんな展開はなかった。
ライラは確かに美人だけれど、誰よりも群を抜いてと言うほどでもない。貴族院の令嬢たちと並べばライラは正直そこまで目立つ存在でもなかった。
更に彼女は良くも悪くも貴族らしい性格とでも言えばいいだろうか。なので一際注目されるような事はなかったのである。
であれば、地位も名誉も将来性もある令息に見初められる機会があるか……となるとその可能性は限りなく低かった。
ライラの婚約者でもある男爵家は、金銭的に裕福かと問われると可もなく不可もなく、といったところである。このまま彼と結婚しても、自分が望む未来はないと判断したライラは、貴族の令息に目を向ける事を諦めてどうやら別のお金持ちを狙う事にしたらしい。
そしてライラが見つけたのはとある商家の息子だった。
既に家を継いでいて、金もたんとある。そんな商人にあと足りていなかったのは美しい妻だけだった。
ライラは貴族だけあって平民と比べれば日々の身だしなみに手がかかっている。ある意味で需要と供給が一致していたとでも言おうか。
結果としてライラは令息へ婚約の解消を申し出て――実際は破棄だった――しかもそれが穏便な形であればまだしも、周囲に証人を用意しようとした結果なのか卒業試験も間近、という時だった。
試験が近づいて、それについての話を教師から生徒たちに伝えられ――それらの話が終わって教室へ戻る直前、本当にまだ講堂に大勢の人がいる中で、ライラはやらかした。
「貴方との婚約を破棄したいの」
――と。
家同士の繋がりもあったからこその婚約だったのに、そういった家をすっ飛ばしてやらかしたライラは勿論両親からこっぴどく叱られたらしいが、詳細はリラにはわからない。
ただ、ライラはどうにか卒業試験に参加し卒業できたものの、その後は縁を切られ家を追い出される事になったのだ。
商人の方に何らかのペナルティでも下されるかと思ったが、そちらは特に何のお咎めもなかった。
そもそも言い寄ったのはライラから。その商人が婚約者がいると分かった上で奪うような真似をしたというわけでもない。
それに家から追い出したライラを引き取ってもらうのに、その商人に何かあればライラの両親も流石に困るとでも思ったのかもしれない。
ともあれ、ライラの事は学院を卒業した後のリラに知る由はなかったと言える。風の噂で一応商人と結婚した……とは聞いていたが。
ところがそんなご本人が、リラの暮らすウェルテールへと引っ越してきたのだ。
とはいえライラは望んでここにやってきたわけではない模様。まぁそれは再会した時点で分かり切った事ではあったが。
ツンと澄まして立ち去っていくライラに、リラがあえて声をかけるつもりだってない。
幼い頃はそれなりに関わる事があったとはいえ、今はもう友人でもなんでもないのだ。ただ、顔と名前を知っているだけの存在に過ぎない。
ライラと話す事はなくとも、ライラがウェルテールにやってきた、という話は何とはなしに夕食時、夫との話題になった。単なる世間話だ。
「あぁ、そういえば商人が引っ越してくる、とは聞いていたけれど……そうか。じゃああの人が」
エリックは何かを思い出すように少しだけ考え込んでいたけれど、それもすぐに何事もなかったかのように振舞う。
「彼女と関わる事は?」
「正直あまり無いと思うわ。元々仲が良いわけでもなかったし、それに向こうもそんなつもりはないと思うもの」
そうだ。学院にいた時にリラの婚約者をパッとしない男、とか貶された事だってあるのだ。なんでよエリックはカッコイイじゃない! と反論しようと思った事もあったが、そこでそうよね、素敵ね。とか言われて奪われるような事になるのも困るので、結局反論はしなかったけれど。
だがしかしそういった小さな、一つ一つは大した事じゃない言葉をふとした瞬間に思い出してしまうとリラはどうにももやもやするのだ。
そもそもライラだってこのウェルテールの事をよく思っていないようだし、という事は相変わらず都会至上主義で相変わらずの贅沢生活を送っているのだろう。
けれどもウェルテールではそんなお望みの生活ができないだろうから、そうなると恐らくライラはここにいる間はきっと不機嫌のままに違いないのだ。
この町に暮らす貴族たちとも果たしてうまくやれるかどうか……都会を離れて田舎に来た隠居貴族なんて大した事ないでしょ、とか内心で思っててもおかしくはない。
貴族院にいた時にはもうライラが贅沢至上主義である事は充分理解できている。
「そうか。では、そのまま距離を取っておいた方がいい」
「それは勿論そのつもりだけど……エリック?」
どうしてわざわざそんな事を? とリラは思う。
そんな風に言われたら何かあるのかと気になるではないか。
リラが反応した事にエリックもわかっているのだろう。
「そのライラの夫なんだが……商人としては恐らくあまり長くはない」
「え?」
「元は王都で働いていたようだが、先代が遺した遺産が莫大らしくて彼はほぼ道楽で引き継いだようなものだ。で、道楽だから失敗したとしてもそこまで困らない」
「それは……うーん、でも、だったら最初から商人をやらなきゃいいのでは?」
「働いてないのに金だけあるなんて、良からぬ輩からすればいい餌食だろう。それくらいは理解しているからこそ、形だけでも仕事をしていたのかもしれない」
言われて想像する。
確かに何にもしないまま一日を過ごすとなると中々に時間が余る。暇をしている相手に付け入ろうとするのは容易い気がするし、そうなると金目当ての連中が群がるのかもしれない。
生憎リラには群がるような財産なんてないので、そんな体験を経験した事もないのだが。仕事仕事で忙しくしている相手に金をせびろうとしても、忙しい、の一言で相手にされなさそうだな、とは思う。
「王都でやっていた商売がまぁ、噂だがどこぞの貴族の機嫌を損ねたかしたようでね。店を出せなくなったようなのさ。ここに来たのは恐らくほとぼりが冷めるのを待つか……
ともあれ、少しだけ時間を置いて、そのうち王都の近くでまた商売を始めるとかするつもりじゃないか、という話」
ここで商売をするにしても、あまり大々的にやる気はないだろう。
彼がここに来る、という噂を事前に聞いていたエリックは、まさかその妻がリラの知り合いであったとまでは知らなかった。
王都に戻るにしても、はたまた他国へ移るにしても……目の前できょとんとしている妻の顔を見て、エリックはそっと頭を振った。ともあれ、自分にはどうでもいい話なのだ。
――ライラがウェルテールにやってきた。
そんな話を夫にしてから三か月ほどが経過した。
リラが直接ライラと関わる事はなかったが、それでもちらほらと噂だけは聞こえてくる。
どうやらあまり評判はよろしくない。
お店がパッとしないのばっかだとか、社交の場もロクにないような田舎だとか、まぁ散々に不平不満を漏らしているようなのでそうなるのも当然か。
社交の場、と言い切っていいかはわからないが、それでもこの町の貴族たちだって茶会だとか夜会をしないわけじゃない。
王都に比べれば多少ゆったりしているが、情報収集や交換の場として最適なのはやはりそういう集まりなので。
一応最初のうちは誰かしら、この町の貴族たちもライラを誘ったようなのだが何とも恐れ多い事にライラはあっさり断ったようなのだ。
王都だったら気軽に言葉を掛けられるような立場の人たちじゃないというのに、王都じゃないからという理由だけでそんなばっさり断るとかライラに怖いものはないのだろうか、とリラは戦慄さえしたほどだ。
ダンスパーティーだってどうせパッとしないんでしょ? そんなの参加するわけないじゃない、なんて言っていたらしい。
確かに王都のパーティーと比べればランクは落ちるかもしれないけれど、でも、リラもライラも子爵家の令嬢なのだから、誘われる社交の場はそれなりに限られていた。貴族全てが参加しなければならない、なんていうのは国の重大事項が関わるような場合であってそうでなければ身分の低い貴族が呼ばれないパーティーなんてものだってあったのだから。
王都でリラやライラが参加していたようなパーティーと、正直ウェルテールで行われるパーティーは多分そこまで変わらないのではないだろうか……とリラは思うのだが、ライラは田舎のパーティーというその言葉だけでどうせ大した事ないんでしょ、と決めつけてしまったようだ。
ここじゃドレスだって思ったのを用意できないし、参加する意味なんてないわ。あぁ早く王都へ戻りたい。なんて愚痴っていたらしい。
ライラのご両親はあんなんじゃないのに、なんでライラはあんな感じに育っちゃったんだろう……そりゃあ綺麗なドレスだとかキラキラの宝石だとか、リラとて憧れがないわけではないけれど。でもそこまで固執する程か? と思うのだ。とはいえ価値観は人それぞれだし、だからこそリラとライラは相容れなかった、ただそれだけの話なのだが。
そんな態度でこの町で上手くやってけるのかしら……? とリラが思っていたものの、まぁ実際あまり上手くいっているという噂は聞かない。
けれども孤立しているというわけではないようだった。
リラが良くしてもらっている伯爵家のおばさま曰く、
「最近はラスジェント家に足繁く通っているようよ」
との事だ。
うわぁ、とリラが思ったのも無理はなかった。
ウェルテールの町にやって来て最初の頃、一応この町の有力者だとかに挨拶をする事はあった。
とはいえ、かつて王都でバリバリ活躍してた貴族がそこそこいるこの町で一軒一軒家を回るわけにもいかない。
ちょっとしたパーティーが開催されていた時にエリックと一緒に参加して、今度こちらに引っ越してきました、よろしくお願いいたします、というような簡易的な挨拶をして、その後で改めてまた挨拶をしておいた方がいい相手には別に挨拶をする事もあった。
その時に忠告されたのだ。
ラスジェント家にはお気をつけなさい、と。
この町で一番権力を持っている家はどこか、と問われればラスジェント家だ。
王都で活躍していた貴族というわけではないが、代々この地に住んでいて実質領主的な立場にある。
実質、なので本当に領主というわけではないが、この町で何かあった時、領主にすぐさま繋ぎが取れるのはラスジェント家だ。他の家だとそこからもうちょっと手続きに時間がかかってしまうらしい。
ある程度距離を保った付き合いであれば問題ない、と別の貴族に言われたが、けれどその時リラは何となく不安を覚えた。
てっきり権力振りかざして悪の限りでもやらかしてるのかとも思ったが、そうではなかった。
確かに表向き、ラスジェント家の人はマトモだった。
現在の主人はシルヴィア。ラスジェント家の女主人である。旦那は既に亡くしており、今は息子と二人で暮らしている。
最初そう聞いた時、リラはまだ息子は幼いのだろうと思っていた。
けれども息子――メルヴィンは既に成人していると別の場所で聞き、リラは驚いたのだ。
成人しているなら跡を継がせるのでは……? とまず真っ先に思った。けれども、そうできない事情があったようなのだ。
これはね、あまり大きな声で言えない話なのだけど。
ラスジェント家に関する話をそっと教えてくれたのは、リラの事をよく可愛がってくれている伯爵家のおばさまである。
なんでもラスジェント家の本来の当主はその息子メルヴィンであったのだけれど、ある日妻と二人、馬車に乗り別の町から帰ってくる途中で事故に遭いその時に妻は死亡。メルヴィンは一命をとりとめたものの、その事故のせいで酷い怪我をしてしまいマトモに外に出る事ができなくなってしまったのだとか。
成程、王都程忙しくあちこち出かけるような事はないとはいえ、それでも当主として社交に出る事も外に出る事もそれなりにある。けれどそれが無理となれば、引退したメルヴィンの母であるシルヴィアが再び当主となって家の事をやるしかなかった……というわけか。
一応理解はできる。
他に跡継ぎがいれば良かったがいないのであればそうなるのは仕方がない。
新たに親類から養子を迎えるなどして別の跡取りを、とするにしてもそうすぐにできるものでもないだろうし。親類以外からの養子を、となれば教育などにかかる時間は更に必要になるので、もっと難しいだろう。
なるほどなぁ、と納得する。
それだけを聞けば不幸な事故で、シルヴィア様もご苦労なさってらっしゃるのね、とリラは思わず同情してしまった。自分がその立場であったら、あんなふうにしゃんとして家を切り盛りできる自信がない。
何か困っている事があるようなら、助けになれたら――とも思った。
けれどもそんなリラの心情を見透かしたのか、伯爵家のおばさまはそっと首を横に振って、必要以上に近寄るんじゃないよと言うのだ。特に貴方はまだ若いのだから、とも。
どうしてかリラにはわからなかった。
だから更にこれは大きな声では言えないけれど、と言葉を続けたのだ。
事故の後遺症、といってもメルヴィンは歩けなくなったとかではないらしい。
普通に歩いたりする事はできる。だが、その顔には酷い傷が残り、とても人前に姿を見せられるようなものではないのだとか。医者ですらどうにもできない傷らしく、だからこそシルヴィアはメルヴィンを外に出さないようにしている。
メルヴィンは事故で妻を亡くした事を酷く悲しみ、夜な夜な泣き暮れているともおばさまは語っていた。
だからね、この町で噂されている夜中に聞こえる亡霊の声っていうのは、ラスジェント家のメルヴィンのものだと大抵の人は知っている、とも。
知らないのはたまたまこの町に立ち寄った旅人だとかの、この町に長期的に滞在しない者くらいだろうとも。
そんなメルヴィンをシルヴィアが不憫に思うのも無理はない。
シルヴィアにとっては息子で、その彼が悲しんでいるのだから心を痛めないはずがないのだ。
何より、シルヴィアにとってもメルヴィンの妻として迎え入れた女性は大切な存在だったと聞いている。
なんとか少しでも心が晴れるような――気晴らしになるようなものはないか、とシルヴィアが苦心している中、とある女性が近づいた。
その女はかつては貴族だったが今はすっかり没落し平民として過ごしていた女だった。金に困り、そんな時にラスジェント家の不幸を聞きつけせめて私がメルヴィン様の心を慰められれば、なんて殊勝な事を言って取り入ろうとしたらしい。
最初は追い返そうとしたシルヴィアだが、しかしこんなのでももしメルヴィンの心が一瞬でも晴れるのであれば、そう思って家の中に招き入れたのだとか。
はたして、女は帰ってこなかった。
姿を消す前にあの家に取り入ろうと思っている、なんて漏らしていたからか、勿論ラスジェント家に事情を聞きに行った者がいた。町の治安を維持する役割を持った男だ。
その男にシルヴィアはこう語った。
「彼女がね、メルヴィンの助けになりたいと言ってやってきたの。けれども彼女の熱意に負けて……それにほら、彼女の髪の色はあの人の妻と同じ色だったから、面影を感じて妻である、と思い込んでくれて少しでもあの人の心が軽くなるのならそれで……と思って息子と会わせたのだけれど」
そこでシルヴィアはとても残念そうに首を横に振ったのだそうだ。
「事故での怪我の際、息子の視力は大きく低下してしまったみたいで、でもあの人の髪は妻と同じ色で、だからね、妻が帰ってきたのだと思い込んだらしくて。
がっしり抱きしめて離さなかったの。というか今でも離そうとしないのよ。仲睦まじくていいことですわ、ほほほ」
話を聞きに行った男は後悔した。
シルヴィアの表情と言葉とが一致していないのと、どこか目が虚ろであるという事と、何なら見ていかれます? なんて言い出した夫人の言葉に女の無事を確認するべく乗ってしまった事を、激しく後悔した。
連れられた先はよりにもよって地下室で、ひとたび足を踏み入れればそう簡単に出てこれそうにない重厚な雰囲気たっぷりの場所だった。
そこに、シルヴィアの息子であるメルヴィンはいた。
事故で顔に怪我をした、と聞いてはいた。
いたけれど、ここまで酷いとは思っていなかった。町の警備を担っている男は、以前のメルヴィンの顔を知っていた。けれどもここにいるこれを、メルヴィンだと果たして何も言われなければわかっただろうか――否、これをメルヴィンだと言われても信じたくはなかった。
顔の原型は既に留めていない。声帯も損傷しているのか、時々声を出しているもののとてもじゃないが何を言っているのか聞き取れない。獣の咆哮のようだ、と思った。
そんな男が、既にこと切れた女を抱いている。力の加減もできないのか、女の身体のそこかしこには痣がついていた。首にもついた痕は、女が死んだ原因だろうか。
既に死んでいる女を、男は果たして気づいているのか。腰を振り、ひたすらに犯していた。
話を聞きに来ただけの男は、本来ならメルヴィンを止めるべきだったのかもしれない。
けれども、そんな光景を見ながらも「ね? 仲睦まじいでしょう?」と笑う夫人に何が言えただろうか。
壊れている。
男一人で解決するには少しばかり難しかった。
どうにかその場を切り抜けて、男は職場の仲間たちに見てきた事を話した。
メルヴィンを殺人でしょっぴくにしても、しかし上からストップがかかる。
しょっぴいたとして、その状態のメルヴィンから聴取を行うにしても果たして会話ができるかどうかがわからない。そして、話ができない状態であったとして、そんな男を牢にぶち込むにしても。
長い間拘束はできそうにない。相手が貴族という事もある。
けれども、メルヴィンは恐らく罪を犯した自覚すらないのではないか。
彼はきっと妻を抱いていると思い込んでいる可能性が高い。
であれば、夫婦の営みでしょっぴかれたという事になる。実際違っているとしても。
そしてシルヴィアの精神が壊れているのも問題だった。
恐らくは、旦那に先立たれ必死に育ててきた息子が妻を迎え幸せになると思った矢先の事故、妻は死に残されたのはマトモに人前に出る事もままならなくなった一人息子。それを支えようとしているうちに、夫人の心はとっくに壊れてしまったのだろう、とはわかる。
女が自分の意思でラスジェント家に向かったのも問題だった。
無理矢理であったなら罪状をハッキリとラスジェント家に突き付けられたかもしれない、けれど、女が自分の意思で向かったのであればシルヴィアにもメルヴィンにもこの時点で罪はない。
そして女がどのように取り入ろうとしたのかも正確にはわからないのだ。無いとは思うがアレが、女の同意のもとであった可能性もゼロではない。
下手にメルヴィンを外に引きずり出せば、あの姿を見てしまった他の町の者たちが怯えるだろう事は明らかで、そしてきっとそれをシルヴィアも良しとしないだろう。
困った事にシルヴィアはメルヴィンが関わらなければ普通の会話が成り立っていた。
それも、彼らにとっては悩む原因だったのだ。
色々と悩んだ末に、この一件は事故として処理された。
シルヴィアはメルヴィンを外に出すつもりはこれっぽっちもないようだし、あの女にとっては不幸だったかもしれないが、関わらなければ害はないのだ。
だからこそ、この話は公然の秘密としてウェルテールの町に広まった。
こんな事があったのだから、メルヴィンの後妻におさまろう、なんて考える女はいなくなった……はずだった。
しかしラスジェント家の資産は莫大。あの女は失敗したみたいだけど、わたしならばうまくやれる、という何の根拠もない自信によって自ら足を運んだ女はその後何名か現れてしまった。
そしてそれらいずれもが帰ってくる事はなかったのだ。
犠牲者の数が十名になり、二桁になればいい加減他の女も根拠のない自信を持つ事はなくなったが……その頃にはシルヴィアの心は更に壊れてしまったのか、例えメルヴィンに取り入るつもりのない女性であっても、シルヴィアの方から「彼の新しい妻になるつもりはないかしら?」なんて話を振る始末。
とはいえ、そこで断れば素直に引き下がるので強制的にシルヴィアを罪に問うわけにもいかない。無理矢理であればまだしも、彼女はあくまでも提案をしただけで、断った時点で引き下がっている。
けれども、その提案にYESとこたえた女はやはり帰ってくる事はなかった。
メルヴィンの母直々のお誘いなのだから、もしかしたらわたしは上手くやれるのではないか、とでも思ったのだろうか。それにしたって軽率すぎるしその結果人生の終焉を迎える事となったのだからどうしようもない。
断れば済むだけの話で、けれどそこで乗り気になってしまった女は自分の意思でそれを選んだ。
相手がこの町の有力者でもある貴族というのもあって、そしてシルヴィアはやはりメルヴィンが関わらない状態であれば仕事はマトモにこなせているのだ。
これが王都であったなら確実に何らかの罪を言い渡されていたに違いないが、王都から離れたこの町の、領主とすぐさま連絡のつく貴族をどうにかしてしまうと何かあった時に困る事になるかもしれない。
王都でバリバリ活躍していた貴族たちがこの町にはいるが、この町の中での立ち位置はあくまでも普通の貴族である。この町をどうこうできるだけの権限までは存在しない。
ラスジェント家を引きずり降ろして代わりにうちが、となるような家があるならまだしも、それをやるにも中々に問題があった。
ラスジェント家がマトモに仕事もできないような状況にあればまだしも、シルヴィアは仕事に関しては問題なくこなしているしその出来は文句のつけようもない。
そうなると、ラスジェント家にはこの立場が重すぎる、などと言うにしても言いがかりにしかならないのだ。
無理矢理その立場を奪う形になってしまった場合、いくらこんな事情があったからといっても下手をすれば内乱になりうる事を仕出かした、という事で王家から裁かれる可能性が高い。
流石にそこまでの危険を冒してまでラスジェント家を引きずりおろそうという家は存在しなかった。
だからこそ、ウェルテールの町ではラスジェント家には近づかない事、と暗黙の了解として一つの町の法律が定められてしまった。
若い女性は特に一人で近づくなかれ。
男であっても夫人との会話で身近に若く未婚の女性がいるなら、下手に情報を聞き出されてしまえば大変な事になるかもしれない、と言われている。
仕事以外の関わりを持たないように、とウェルテールの町の住人たちはそれを徹底して守った。そうしているうちは、町は平和そのものなので。
新たにウェルテールの町で暮らす者たちが来た時も、この話はそっと伝えられ新たな犠牲者が増えないようにとなっていた。
リラがすぐにその話を聞く事がなかったのは、そもそもラスジェント家に関わるような事がなかったからだろう。それにリラは既婚だ。だからこそ、すぐさまその話をする事もなく、けれど折をみてそのうち誰かから話を聞く事になっていたのだと思う。
けれどもライラがラスジェント家と関わっていて、そこからリラまで関わるかもしれない、となったせいで急遽説明された。
最初はシルヴィアに同情すら抱いていたが、話を聞くにつれそんな感情はなくなっていった。
下手に同情して、それじゃあうちの息子とちょっと会って下さらない? なんて言われたら間違いなく最後だ。
おばさまは大分言葉をマイルドにしていたけれど、下手にそんな事になれば会って早々化け物のような顔になってしまった男に無理矢理妻だと思い込まれて犯されて、力加減なんて無い状態でまるで物のようにでも扱われて死んだ後もしばらくはそういう使い方をされる、とわかればリラとて何かお力になれる事はありませんか? なんて言えるはずがない。リラは自分の身が可愛いのだ。それに、自分にはエリックがいる。その彼を差し置いてどうしてそんな……と思ってしまう。
何があってもラスジェント家には足を運ぶまい……! そう固く心に誓う。
何かの気の迷いでそれでも私に何かできる事は……なんて言い出すような事もなく、話をしっかり理解して近寄らないと決めたらしいリラを見て、伯爵家のおばさまもホッと安堵の息を漏らしたのだ。
お気に入りのお嬢さんがそんな死に方をするのは流石にイヤすぎる。
さて、そんな触れるな危険、という状態の家にライラが足繁く通っている、と聞かされてリラは引いた。
この町で一番お金持ってそうな家は確かにラスジェント家だ。
パッと見建物の外観からしてそれはわかる。
実際の資産がどうかは知らないが、王都からこちらにやって来て暮らしている貴族たちの家は比較的大人しめなのだ。都会の喧騒から離れて静かに過ごしたい、という人たちなので建物が騒々しい感じであるはずがない。だからこそ、最初からこの町にあったラスジェント家の建物が他と比べて豪華に見えてもそれは別におかしいとリラは思わなかった。
ライラは間違いなくこの町の事を詳しく知っているわけではない。
来て早々パッとしない町ね、なんて言っていたし、他の貴族たちのお誘いをあっさり蹴ってしまったくらいだ。ラスジェント家の危険性を果たして知っているか……となれば恐らく知らないのではないか。
いや、ライラの夫は道楽とはいえ商人で、それくらいの情報は知っている可能性が高い。であれば、大丈夫なのだろうか……夫人のお誘いの言葉に乗らなければ問題はない、とわかっているから関わっているのであればいいのだが……
単純に金持ちと仲良くなって、何らかの恩恵に与ろうと思っているだけなら流石にそれだけであの家と関わるのは危険な気がする。
下手に何か――高価な宝石だとかを貰ったとして、その代わりにお願いを一つ聞いてくれる? なんて言われてメルヴィンと会うような状況に持っていかれたら……と考えるとそれだけで恐ろしい。けれどもライラならそういった誘いにあっさりと乗ってしまいそうな気がする。
関わるつもりはない。一応忠告した方がいいのかしら、と思わなくはないが、ライラがリラの言葉を素直に聞いてくれるかとなると、多分無理だろうなと思えたのだ。
これが王都の侯爵家だとか公爵家の人間からならライラもきっと話を聞くくらいはしただろう。というか、そういった人が相手であったならライラもラスジェント家などと関わらずそちらとお近づきになろうとするに違いない。
とはいえ、何も見なかったことにする、というのも見捨てるような気がしてリラは数日悩んでいた。
わざわざライラの所まで行ってまで……とは思う。
だからこそ、機会があればその時に一言、伝えておくくらいは……と思った。
そしてその機会は、思いのほか早くに訪れたのだ。
たまたま買い物に出かけた日だった。
ひどくつまらないとばかりの顔をしたライラが歩いているのが見えて、リラは「あ」と小さく声を上げた。
ライラがウェルテールにやって来てからそろそろ四か月になろうという頃で、ラスジェント家と関わっているのは未だに変わらないらしい、と耳に入っている。
正直他に友人らしい友人もいないのだろう。
まぁ来て早々町の事を良く思わない態度を隠しもしなかったし、ましてやここに住む人たちの大半と友好的な関係を築こうともしていないのであれば、友人ができるはずもない。
けれども一応、幼馴染と言える相手だ。
だからこそリラはライラに自分の存在を伝えるように軽く手を振ってみせた。
ライラはそれに気付いたのか僅かに顔を上げてリラを見たが――
ふっ。
とかすかに鼻で嗤ってすぐさま視線を逸らした。
貴方、誰に声をかけようとしてるの? そんな態度だった。
いやぁね、貴方みたいな女、知り合いのわけないじゃない。気安く話しかけないでくださる?
そう、言われた気がした。
手を振るのを止めてライラを見ていたが、ライラはリラにそれ以降一瞥すらくれずにあからさまに避けるようにして去っていった。
「あー、まぁ、いっか……」
そんな態度をされて、それでも伝えておかなければ! と思う程のものでもない。
もしかしたらライラの旦那さんがラスジェント家について話してる可能性もあるし、じゃあ、嫌な思いしてまで私が伝えなくてもいいかな。
ちょっと前まであれこれ悩んでいたのが嘘みたいに、リラもまた同じようにライラの事を見なかった事にした。
「――仕事の都合上、近々王都に戻る事になりそうだ」
そう、エリックに言われたのはライラと出会った日から更に数日が経過した時の事だった。
「王都に?」
「あぁ」
「じゃあ、向こうで暮らすの?」
「そうなる」
「そう」
王都か……とちょっと気が重くはあったけれど。
「とはいえ、ずっとというわけじゃないから、一段落すればまたこっちに戻ってくる事もできるぞ」
「本当!?」
その言葉にパッと表情を輝かせる。
ここでの生活は確かにいくつか気を付ける点があるけれど、リラにとっては王都に比べればこっちの方が性に合っていると言ってもいい。ちょっと前まで王都で生活していたはずなのに、もうずっと昔からここで暮らしているような気になってしまうくらいには。
そんなリラの様子にエリックもくすりと笑い、
「それじゃあ、早めに戻って来れるように向こうで頑張らないとな」
なんて言っていた。
それから王都へ行くために準備を整え、あっという間に出発する日がやってきた。
王都でしばらく生活する事になりました、なんてお世話になっていた貴族の方々に挨拶に行ったりしていたら本当にあっという間だった。
荷物のいくつかは既にもう一つの馬車に運んで既に出発している。
やや慌ただしくはあったけれど、エリックと二人馬車に乗ろうとした所で。
「おや」
「あぁ、ケニーさん」
エリックの知り合いらしく、乗り込もうとしていた足が止まる。
つられてリラもその場で待機してしまった。
「お仕事ですか?」
「えぇ、しばらく王都へ」
「それは……いいなあ、僕は王都の近くの町に行く事になったけど王都で仕事ができるまではまだしばらくかかりそうなんですよね」
「……これから?」
「え、はい。そうです。流石に個人で馬車を用意するのはちょっと、と思ってこれから乗合馬車なんですけどね」
はは、と笑って頭を掻くその男の会話から、リラは彼が誰であるのかを悟る。
ライラの夫だ。
しかしこれから乗合馬車、と聞いて「おや?」と思った。
「失礼ですけれど、奥様は……?」
「あぁ、妻ですか? お恥ずかしい事に離縁を突き付けられてしまいまして……なんでもこの町で好きな人ができたから、と。彼女がそう望むなら、せめて幸せになれるようにと……流石に居づらいのもあって今から町を出ていくんですけれどね」
困ったような笑みを浮かべ、ケニーと呼ばれた男はそれじゃあ、と言い乗合馬車がある方へと向かう。
「……やっぱりな」
その後姿を見ながらエリックはまるでこうなる事を知っていたかのように呟いていた。
「ねぇあなた? さっきのやっぱり、ってどういう事?」
馬車に乗ってしばし。
道中暇であったので、リラはとりあえず気になった事を聞く事にした。
「……あの人、後ろ暗い噂がそこそこあってね」
はぁ、と溜息まじりに言われて、リラはそうなの? と首を傾げる。
元々親の遺産が莫大であったから、商人として働くにしてもその意欲は低い。故にいらぬいざこざを巻き起こす事もしばしば。
実際王都でもそうだったらしく、一部の権力者に目を付けられほとぼりが冷めるまで王都を離れる事になった――というのは一部界隈では有名な話らしい。
金だけは下手をすれば貧乏貴族以上に持っているので、働かなくとも何も問題はない。けれども貴族と違い平民であるケニーは表向き何らかの仕事についていなければ、すぐさま金目当ての連中にたかられて面倒事に巻き込まれるのが目に見えている。けれども働きたいわけではない。
だからこそ、適当に表向き体裁を整えているだけ、であったのだ。
ついでに独身のままだと金目当ての女が寄ってくる事もあり、それも面倒でそこそこの美人を嫁に迎えた。
とはいえ、その嫁もまた金目当て。それでもいい、とケニーが惚れ込んだわけでもない。確かに美人だったし、ちょっと遊ぶだけならいいかと思っていたら相手は貴族の娘でしかも家から追い出された。
どうやら婚約者がいたにも関わらず、ケニーと一緒になるのだ、と無理矢理破棄しようとしたらしい。
ライラの親は実のところケニーにも何らかの制裁を加えようと思っていたようなのだが、しかしそうなればライラの行く宛はなくなってしまう。
確かに馬鹿な事を仕出かした娘ではあるけれど、行く宛もなく彷徨わせるつもりはなかった。
だからこそその責任を取らせるべく、ライラの親からケニーはライラと結婚する事を条件にそれ以外のお咎めはなかった事にされたのだ。
この時点で慰謝料だとかをむしり取る方向で動いていたなら、ケニーはポンと支払っただろう。
何せ本当に金だけはある男だ。けれどもそうして身軽になってしまえば、今度は別の令嬢が引っかかる可能性もある。ライラの両親は流石にこれ以上の犠牲を増やさぬように、と責任を取らせるつもりでライラと結婚させたのだ。
とはいえ、貴族の後ろ盾をアテにされても困るので、ライラは勘当という形で家をだしたわけだが。
ケニーとしてはライラの事を心から愛しているわけでもなかったし、いかにも金目当て贅沢目当ての女に愛情を持てるはずもない。ライラが愛しているのは金であってケニーではない。金がなくなればケニーの事などライラは見向きもしないだろうとはわかりきっていた。
自分のやらかしもあって王都で生活するのが難しかったので、しばらくは王都近辺の街を転々としていたのだが、ライラはそれに不満を抱いていた。
不満が募り文句ばかりを言うライラに、ケニーは早々に嫌気が差していたのだ。
だからこそ、仕事の都合で、と言い聞かせてウェルテールにやってきた。
ケニーはやる気がなくとも一応商人として働いていたので、多少の情報は持ち合わせている。ウェルテールにある暗黙の了解も知っていた。
ラスジェント家。
ケニーはライラをそこに押し付けるつもりだったのだ。
王都と比べればどうしたって田舎に見えるウェルテール。ライラが不満を抱かないはずもない。
そしてそんな土地に住む連中となんて仲良くするつもりはこれっぽっちもないだろう。
ケニーはライラの性格を早々に把握していたので、この考えは見事に当たっていた。
町の中で唯一マシに見える家に暮らす貴族の話をちょっとだけ教えたのは勿論ケニーだ。どうやら友人もマトモにいないライラは、この町一番の権力者であるにも関わらず孤立している貴族の話に食いついた。
町一番の権力者と仲良くなれば、多少はこの町で好き勝手に振舞えるとでも思ったのかもしれない。
孤立しているというか、孤立するしかなかったラスジェント家に新たにやってきた客は、若い女。
既婚者であるけれど、その頃にはもうシルヴィアからしてみればそんな事、どうでもよかったのかもしれない。
すっかり個人的な訪問は遠のいてしまったラスジェント家に、新しく引っ越してきてまだこの町に友人と呼べるような人もいなくて……聞けばこの町の事に一番詳しいのはこの家の方だとか……是非色々お話を聞かせていただきたいわ、なんて言ってやってきたライラは絶好のカモだったに違いない。
いきなりメルヴィンと会わせて逃げられたら次に来る新たな花嫁はいつになるかもわからない。
だからこそシルヴィアはじわじわとライラが自らここに来るように仕向けた。
友好的に振舞って、高級なお茶と茶菓子を用意し、ライラが好きそうな話題で花を咲かせ。
ライラはシルヴィアの事を不審に思う事なく、話の合う年の離れた友人ができたとでも思ったのかもしれない。どうしてか孤立しているらしい町一番の権力者の唯一の友人、という肩書は、多少魅力を感じるものだったのかもしれない。
「多分だけど、ライラはケニーに売られたんだよ。ラスジェント家にね」
推測たっぷりだけど、ライラがラスジェント家に足を運ぶ流れは何となくこんな感じだと思う、とエリックに言われ、リラはまぁありそうな話ね、と思った。
エリックの職場で聞こえてきた噂話だとか、この町の暗黙の了解だとか、そういったものを繋ぎ合わせていけば確かにそう思えてもおかしくない。
ケニーの心情だとかまではわからないが、それでもライラがそう簡単に離縁を突き付けるとは思えない。だってケニーが破産でもしたならまだしも、金は持ってるのだ。であれば、ライラがそう簡単に別れを切り出すとは思えない。
町一番の権力者であるラスジェント家とケニーなら、莫大な資産を持ってるケニーを選ぶはずなのだ。ライラなら。
場所が王都で、知り合ったのが王族の誰か、であったならケニーは捨てられていたかもしれないけれど。
ライラが本当にケニーに売られたのであれば、シルヴィアはライラの情報を得ていたという事になる。
となれば、彼女が好みそうな話題を提供してロクな友人もいないライラの唯一の友人となって彼女の心から警戒心をなくすのなんて簡単だっただろう。
元々警戒はしていなかったかもしれない。
ドレスや宝石に目がないライラの事だ。
きっとそれらを餌に簡単に釣れただろう。
とはいえ、最初からそれを見せびらかしてはいくらライラでも警戒しただろうから、それを餌にするのはここぞという時だったのかもしれない。
それが、今日だった可能性は高い。もしかしたら昨日だったかもしれない。
ともあれケニーは先程ウェルテールから離れるべく乗合馬車に乗ってしまった。ライラを置いて。
離縁を突き付けられた、と言ってはいるが実際はケニーがライラを捨てたのだろう。
けれどもライラの性格を知っている者が聞けば、確かに離縁を突き付けそうではある、と納得しそうになるのも事実。
ケニー以上にライラにとっていい男がいたのだ、と思わせられれば簡単に納得されてしまう。
「助けたかった?」
「……いいえ。私にはどうにもできないもの」
エリックの言葉にリラはそっと首を振った。
どうにもできるはずがない。その前に一度、どうにかしようと思って声をかけた時に、ライラはあっさりとそれを蹴ったのだ。では、リラにできる事など今更何もないではないか。
「けど、ライラのご両親にはどうしたものかしら、と思わなくもないのよね」
一応ケニーと結婚して元気でやってるだろうと思ってはいるだろうし。
「……最悪の事態を想定したからこそ、勘当したんだと思うよ」
「あぁ……そういう……」
単純に貴族としての後ろ盾を期待される事を回避するためだけだと思っていたが、他に思惑があったという事か。ラスジェント家だからまだいいが、下手をすれば後ろ暗い組織とかそっち方面に売られていた可能性もあったという事か。
どっちがマシか、とはとてもじゃないが口に出せそうにない。
では、わざわざ知らせない方がいいのだろう。リラはそう結論付けた。
下手に情報を知らせてしまえば、ライラの両親は一応調べるくらいはしないといけなくなってしまう。既に縁を切った娘であっても。その結果舞い込んでくるのは明らかな面倒事だ。
薄情と思われても、ライラの両親はライラが家を出て結婚をして幸せにやっている、と思って放置する以外にないのだ。
とはいえリラは酷いとは思わなかった。
ライラの両親はライラのそういう部分を多少なりとも窘めてはいたのだ。けれどもどうしてかああなってしまった。ああなってしまったのは、幼いうちならいざ知らずとっくに成人した以上は本人の責任だろう。
そもそも貴族院で婚約破棄なんてしなければ。
ケニーと結婚した後、ウェルテールに来た時点でもうちょっと周囲と上手くやっていれば。
金だとか権力だとかだけで関わる人を選ばなければ。
ライラの人生はこうなってはいなかったに違いないのだから。
「お母様にね、幼い頃言われたの。
お友達は選びなさいね、って。
あれって、こういう事だったのね……」
幼い頃にはあまり理解できなかったけれど。
今はよくわかる。
その言葉にエリックは困ったように眉を下げて笑うだけだった。
恐らくライラはそう長くは生きていないだろう、とは思う。
けれども。
もしかしたら案外上手くやっているかもしれない。
どちらにしても真相は闇の中だ。