プロローグ
「幻想世界」シリーズ。
それは、俺が中学のころに刊行したファンタジー小説シリーズである。
古い魔術の謎を追う少女と精霊に育てられた少年が世界中を旅する、そんな王道ファンタジーは、中二病まっさかりの男子中学生の心を奪わないはずがなかった。
学校から帰ればひたすらに二次小説を執筆したり、考察サイトを巡回したり。学校の外で遊ぶ友達のいなかった俺は、ろくに勉強することもなく、ほとんどの時間を「幻想世界」につぎこんだ。
高校を卒業して、地元の適当な文学部のある大学に進学し、そこで文芸批評と称して「幻想世界」を読み続ける。そんな、中二病を卒業できなかった残念な大学生こそが、俺である。
***
「ああ、なぜ俺はコルフ王国に生まれることができなかったんだろうなぁ」
昼下がりの大学構内、俺はベンチにぐったりと座り、そんなことを考えていた。コルフ王国とは「幻想世界」における魔法大国のことである。
「俺だって、一度でいいから魔術を使ってみたかったな」
そういいながら、まるで杖を持っているかのように俺は左右に手を振った。もしここが「幻想世界」の世界であれば、炎なり雷なりが出てくるものだ。しかし当然のように、炎ひとつ出てくることはない。
「はあ。やってられねーや」
俺だってわかってますよ。この世界には精霊も魔法も存在しないし、死の国から人間世界を乗っ取るために魔王様が復活することもない。けど、そういう妄想が楽しいんだ。やめられねーんだよ。
同世代の人達と、だんだんと離れている感覚はある。俺が子供のころからの妄想を引きずっている間に、ほかの連中はリアルを充実させて、サークルにいそしんだり恋人とデートしたりしている。俺だって本当はそんな充実した生活を送りたい。
けど、こうやって妄想し続けることだって、俺にとっては同じくらい楽しいんだ。
だから、やめられないんだ。
「──お、ユキっちじゃん」
「は」
後ろから声がしたので何かと思って振り返ると、それは同じ講義を受けているアキだった。
だらしなくボサボサに伸びた髪型と中学生のようなファッションから察する通り、俺の”仲間”である。
こいつもまた「幻想世界」厨であり、歴は俺よりも長い。大学には「幻想世界」のコラボTシャツばかり着てくるし、ろくに風呂にも入らないから、俺以外は誰もこいつに寄り付かないのだ。
「今日も匂うぞ」
「う、うるせーっ。かの英雄ヘカテも風呂は月一らしーからな。俺もそれにならってそうしてるんだよ」
そんなこと言ってるが、こいつは二か月に一回入ってるかも怪しい。アキの家には風呂がないため、こいつが風呂に入るとなったら銭湯だ。しかし好きなこと以外にお金を使わないこいつが、自分の意志で銭湯に入るとは思えない。この前も、二か月前に一緒に銭湯に行ったときに「半年ぶりかもしれねー」とか言ってただろ、こいつ。
別に風呂に入らないのは勝手にすればいいが、近くにいる俺の身にもなってほしい。せっかくできた友達なのだから、一緒にいる時間くらい楽しく過ごしたいものだ。
「まあ、んじゃ今日銭湯行こうぜ。入浴代は俺がだすからさ」
「まじかよ、それじゃー行くわ」
***
「しかしよー、ユキっち。お前よく「幻想世界」追っかけてられるなー」
銭湯からの帰り道、さっぱりした俺たちは、暗い市街地を歩いていた。
「俺が言えることじゃないけどよ、もう5年も新刊発売してないシリーズ、普通なら興味が別に映るはずだろ?」
「ああ、まあね」
「幻想世界」は、俺が中学一年生のころに販売を開始した。当時は久しぶりの正統派ファンタジーということで各所で盛り上がりを見せ、外の界隈から見てもかなりの盛り上がりだったらしい。「幻想世界」はその後3年間で13巻まで刊行し、何度も有名な賞を受賞していた。
しかし13巻「黒龍の魔術」発売から今まで、新刊を発表することも作者からコメントが出ることもなかった。突然の失踪に「作者死亡説」や「打ち切り説」なんかもあったが、結局のところ問題が何かはわからないので、次第に人々は興味をなくしていった。今では俺たち以外に「幻想世界」の話をしている人間なんて見ないまでになってしまった。
「お前のモチベはどこから来るんだよ」
「うーん」
あまり考えたことはなかったな。
「やっぱり二次創作がしやすいから、じゃないかな。設定がしっかりしてるから、俺が話の続きを考えても案外しっくりきちゃうし」
「まあそんなものなのか。これまで他にハマったシリーズものってないのか?」
「ないかなー。やっぱり中二病入りかけの頃にのめり込んだのが大きいんだろうね」
案外そういうものなんじゃないかな。
子供のころに好きだったものを人は一生涯好きでいるなんて話もあるくらいだし。
「あ、じゃあさ。アキはどうして「幻想世界」に入れ込むんだ? わざわざ俺に聞くってことは聞いてほしいってことだろ?」
「ふひ。よくぞ聞いてくれたな。俺はなんと────」
その時だった。
背後から突然、クラクションが鳴った。
驚いて振り返ると、もう目の前にはトラックが突っ込んできていた。
俺はとっさのことに体が動かなかった。ああ、俺は死ぬんだ。そんなことを考えようとして──
「ユキっちっ!!」
「っ!」
アキの声を聞いて現状のヤバさを認識した俺は、なんとか避けようとしたが、それももう遅い。
────ン。
鈍い音。
衝撃が伝わる。
元居た場所から離れたところに、自分の意思とは関係なく飛ばされていく。トラックはそのスピードよりも速く進む。結局俺はトラックと一緒にその後数メートルを移動し、そのままどこかの民家の塀に衝突した。
「っくぁっ」
痛い。
体中の骨が砕ける感覚。生暖かい血によって、体中が塗りつぶされる。
目を開けているのに視界は真っ黒で、喉がつぶれたのか声は出ない。
手を動かそうとしても、感覚がない。足を少し動かそうとすると体全体に強い激痛が走る。
これってもう手遅れなんじゃないか。痛い。痛い、痛い──。
「ユキっ、ユキっち──」
遠くから走ってくる友人の声が聞こえる。
ああ、よかった。耳はまだ生きている。何も見えず聞こえぬ世界で死ぬよりはマシになった。
「ユキっちぃぃ!」
──死にたくない。頭の中では冗談をいう余裕があるかのように見せかけているが、もう手遅れだ。けど死にたくない。かみさま、俺しにたくないよ。
俺、おれ、「幻想世界」の14巻を読むまで、死ねないんだ……。
だからせめて、その日まで、14巻の発売するその日まで、俺を生かしてくれ。
神でなくてもいい。悪魔だろうがなんだろうが、お願いだ。俺はあれを見るまで死ねないんだ……。
しかし、そんな無念がかなうはずもなく。
俺はあっけなく死んだ──。