愛
「あの…。」
乾いた口から言葉がこぼれ落ちる。
その言葉は、水滴となって、中空に広がり、やがて霧散する。
涙が音もなくポロポロと流れ落ちる。
辺りは静寂に包まれている。
「たけや~さおだけ~。」
日常の一コマの中で、悲しみは体の中に沈殿し、そのやり場のない思いは心の中に蓄積されていく。
愛は切なく、儚く、消えやすい。
代わりに、悲しみは、永遠に、脳に、記憶にこびりついて、離れなくなった。
高校三年の夏。僕は一人の女性に出会った。その女性は夏空に広がる太陽光線に白いブラウスをなびかせて僕の前に現れた。
「キレイだね…。」
僕は、その女性に恋をした。一人の女性にこんなにも心を奪われ、忘れることはなく、深く、愛し、想う。その過程が僕のすさんだ人生を忘れさせ、今、この瞬間に酔う。しかし、それは精製されたアルコールの酢いた匂いのように、僕の鼻を心を刺激していく。
「キレイだね…。」
僕はもう一度呟いた。それは、目の前に現れた蜃気楼のような幻に、または絵画の中の存在に対して。
「ありがとう。」
君はそっと微笑んだ。その柔らかで、透明で、空虚な微笑みは、僕の心の何もない部分を埋め合わせて、新たな表現を生み出す。
愛おしい。
夏の暑い日差しが麦わら帽子を被った君の姿を照らす。
代わりに僕の汗ばんだTシャツが塩辛い水滴を地面に落としては、蒸発を繰り返していた。それは未来永劫、誰の力も借りずに、繰り返す永久機関のように、今のこの君との時間を永遠に終わることのない明日へと続かせていくエネルギーのように思えた。
世の中は喧騒を極めていた。運転手の野次、ケンカをする人々、罵り、わめき騒ぐ群衆、パトカーのサイレン。出会い頭の事故が騒ぎの始まりだった。それでも、歩きどこかへ向かう人々は社会の象徴のようだった。
「いこ。」
君は小さく僕の袖を引っ張った。その瞬間、僕の体の奥から、温かく、居心地の良い得体のしれない何かが中空に広がると、僕の脳に作用して、一切の喧騒と社会の煩わしさから解放させて、とても人間的な新しい絆を作り上げていく。それは愛であり、オキシトシンであるのかもしれない。
「プー。」
自動車のクラクションの音が聞こえる。得体のしれない何かはほどなく中空に霧散して消えた。残ったのは夏の暑い日差しと青空だけであった。
人と人は出会い、別れる。未来永劫、繰り返されてきたこの現象に人はついに慣れることはできなかった。それがとても大切な人であったならば。
幻想の中で、君と僕は出会った。鼻を刺激する香りは何の香りだろうか。思い出の中に残るその香りは僕の記憶の中に暗い影を落とす。もう存在してはいない幻想。それは、実態とかけ離れて巣くう怪物のように僕の心を浸食し、体を毒していく。悲しみという感情を餌にして。
君はもういない。二度と会うこともない。やがて、君との思い出は姿を変えて再構築される。
君の香りはもうしない。二度と薫ることはない。
君との愛はもう存在しない。それは中空に霧散して消えた。その居心地の良い得体のしれない何かを思い出すことは、永遠にできなかった。