旅籠に憑きしもの
壱の章
江戸と呼ばれていた頃、浮世絵師・歌川広重と渓斎英泉との
合作で、木曽街道六十九次之内『鵜沼ノ驛 従犬山遠望』を描
いていることでも知られている、ここは五十二番目の宿場町、
中山道鵜沼宿である。
木曽街道六十九次の図は全部で七十一図あり、その内二十四
図は英泉が描き、残る四十七図は広重が描いている。
なぜこのような事になったのか。一説によると、版元である
保永堂が美人画を描いていた英泉に依頼をしたのだが、英泉は
二年余りで制作から降りてしまったのである。保永堂としては
途中でやめる訳にはいかず、同じ時代に東海道五十三次を描い
て人気のあった広重に託したのだという。
どうも英泉の絵は、あまり人気がなかったようである。また、
版元と英泉との意図するところの食い違いが要因で、交代とな
ったとも言われている。
この木曽街道六十九次の図には、歌川国芳が描いたものがあ
る。その地名から連想した伝説や戯曲の人物として描き、言葉
遊び的な要素を含んでいる武者絵である。
国芳は鵜沼宿をどう描いているのだろうか……鵜沼を連想し
て描いた『鵜沼与右ヱ門 女房累』の図は、遺書を残して出奔
した浪人与右ヱ門と、その子を身ごもった累の怨霊の図で、武
者絵の国芳と言われるだけあって、色彩もさることながら、そ
の構図に圧倒される。
ここ鵜沼宿の街道筋には当時、旅籠が数件並び、それぞれの
旅籠に飯盛り女を置き、客引きを競い合っていたというからそ
の繁盛振りが想像できる。旅籠のなかでも大旅籠と言われてい
たのが、切妻造りの『東雲屋』であった。
旅人の間では評判の旅籠で、たいそうな賑わいをみせていた
という。
弐の章
今にも雨が落ちてきそうな曇り空ではあるが、今日は春の鵜
沼宿まつり。大旅籠と言われた東雲屋を訪うと……座敷に水墨
山水の四曲屏風や火縄銃、高さが二メートルはあるであろう櫓
時計などが座敷に展示されている。
ようお越しくだされた。わたくしが初代東雲屋の主でござい
ます……おや、突然に声をお掛けして驚ろかせてしまったよう
ですなあ……目の前に鎮座しておる櫓時計でございます。
なぜこのような姿で話しておるのか、その経緯を聞いていた
だけますかな………それはかたじけない。
これでも懐かしい江戸の頃は人でございました。と申します
のも、なんの因果か人の生き様というものは分からないもので
ございます。たまさか流行り病に倒れて身罷ったのでございま
す。これも己の身の定めと思うております。不易とはいかない
ものでございますなあ………
ちょうど近くにございました、この二挺天賦の櫓時計に霊と
なって憑りつき、わたくしは俗にいう妖となったのでございま
す。
毎年、桜の季節と紅葉の季節には中山道鵜沼宿まつりが開か
れ、その折にはこうして表座敷に出させていただき、この旅籠
を訪う人様にわたくし……いえ、櫓時計を見ていただいておる
のでございます。
おや、あいにくの小雨模様になりましたなあ……庭の草木も
雨に濡れておるようでございます。このような雨を一味の雨と
申しまして、
『もろともの 一味の雨がかかれども 松は緑に 藤は紫』
と詠まれております……えっ、意味でございますか……雨がす
べてを同じように濡らすということから、仏の教えがどのよう
な人にも広く行き渡る……という意味でございます。
雨と言えば、夜が明ける前に、わたくしと長年住まっており
ます猫神が、耳の後ろを撫でておりましたゆえ、雨になるとは
思うておりました。
おや、雨空を見上げますと暗雲が湧いておるようでございま
すゆえ、雨脚がひどくなるやもしれませぬなあ……本降りにな
らぬうちに、ここから目と鼻の先に、あの芭蕉さんが三度お越
しになりました脇本陣がございます。一度訪ねられてはいかが
ですかな。
あれは確か、貞享五年にお越しになったときに詠まれた、
『ふく志るも 喰へは喰わせよ きく乃酒』
という句碑も立っております。わたくしもこのとき芭蕉さんに
お会いしてお話しをさせていただきました。次の旅では門下の
曽良と陸奥の旅をするつもりでいるとおっしゃっていたのが記
憶に残っております。
後にその旅で書かれましたのが、『おくのほそ道』という紀
行文でございます。わたくしも読ませていただきましたが、
不易流行という芭蕉さんの俳諧の神髄がよく分かる紀行文だと
思うております。
また脇本陣の西側には大きな明神鳥居が立っており、その
扁額には、『産土神』と達筆で書かれております。産土神とは
生まれた土地の神様という意味でございます。
その鳥居をくぐり長い石段を上がっていただきますと、弥生
時代の古墳の上に建つ、二ノ宮神社がございますゆえ、この機
にご参拝されるのもよいかと思います。
この時代は、お城の多くは堀や石垣、櫓などを備えてりまし
たが、陣屋というのは屋敷を構えたていどの居城といった感じ
でございました。お城を持たない小藩の大名のほとんどは、陣
屋住まいも珍しくございませんでした。また代官や役人などの
詰め所としての役割も兼ねていたのでございます。
明治に入りますと陣屋としての役割も終わり、学校や県の庁
舎として活用されていたのでございます。この時代に発行され
ました『小新聞』にも記事が載ったこともございます。
参の章
脇本陣といえばひとつ思い出したことがございます。わたく
しがまだ生を受けていた江戸時代も終わろうとしていた頃でご
ざいます。魑魅魍魎と申しますか、忘れることのできないおぞ
ましい出来事がございました。
桜の花の散る頃の明け方に、そのお姿からさっして武士だと
思われるお侍が、ご婦人を伴ないわたくしどもの宿へ、陣屋に
しばらくの間ご厄介になりますと、ご挨拶におみえになりまし
た。
そのとき、お二人のお話し振りを聞いておりますと「お前さ
ま」「奥」と呼び合っておられましたから、ご夫婦でありお旗
本であると分かりましたが、お名前をうかがっておりませんで
した。陣屋暮らしをはじめられた頃は、お二人とも外に出張っ
て来られて、近所の人たちとお話をされることも多く、よく見
かけたものですが、徐々にではありますがそんなことも少なく
なり、いつの日かまったくお姿を見ることがなくなったのでご
ざいます。近所のおかみさんたちも不思議に思うようになり、
「近頃は、お二人の姿を見かけないねえ……毎日の生計はどう
されているんだろう……生きているのか亡くなっているのか…
……」
と、あらぬ憶測や噂が飛び交うようになったのでございます。
しかし、そんな噂に反して陣屋でのお二人の暮らしは何の不
自由もなく、仲むつまじく身過ぎ世過ぎをしておいでになった
のでございます。
人はどなたでも好奇心をお持ちでございます。わたくしも多
分にもれず好奇心旺盛なほうだと思うております。たまさか陣
屋を何気なく覗いてみたときのことでございます。
ご主人が庭で真剣を素振りなさっていたのですが、力が入り
過ぎたのか汗ですべってしまったのか、刀が宙を舞ったのでご
ざいます。それが運悪く、離れた所で庭の手入れをしておいで
でした奥さまの後頭部に、当たってしまったのでございます。
「ぎゃあああああ~~~~~~」
と、奥さまの阿鼻叫喚の声が響き渡り、その場に倒れこんでし
まわれました。驚いたご主人がおっとり刀で奥さまの所へ駆け
寄ると、刀の当たった頭部は血のりでべっとり。ご主人が奥さ
まの黒髪をかき分けみますと、ぱっくりとザクロを割ったかの
ように開いていたのでございます。
やがてその傷口がみるみるうちに人の口のように変わり、頭
蓋骨の一部は歯のように、さらに肉は舌のようになり、この状
態にもかかわらず奥さまは気を取り戻され、こんなことをおっ
しゃったのでございます。
「……お前さま……傷口の痛みは少々ございますが……何か食
べるものがほしゅうございます……」
ご主人は、奥さまの不可解な言葉をいぶかっておいででした
が、言われた通りに食べ物を後ろの口に運ばれますと、おいし
そうに食べ、
「……もう痛みはすっかり消えましてございます」
と、おっしゃいました。
ご主人は、何が起きているのか未だ状況がつかめないお顔を
されておいででしたが、奥さまは何事もなかったかのごとく立
ち上がり、家の中へと入っていかれたのでございます。
ご主人のお話によりますと、このようなことが起きて以来、
奥さまの様子が一変したというのでございます。黒髪は長く伸
び、その髪は腕の一部とみまがうほど自由自在に動き、まるで
箸のごとくに髪の先で食べ物をはさみ、前の口と後の口とに運
び、器用に使い分けているのだそうでございます。その後も、
このような日々がずっと続いているとおっしゃっておいででし
た。
お話をお聞きして、後ろめたさは多少ございましたが、わた
くしの好奇心がふつふつと湧いてくるのを止められず、ある明
け方に陣屋をそっと覗いてみましたところ、ご夫婦の姿は見え
ず……こんなに朝早く何処へ行かれたのだろうと思うておりま
した。三日たち五日が過ぎてもお姿が見えず、果たしてその後
もお二人の消息はとんと聞こえてまいりませんでした。
ところが、いつしかこの陣屋の中から夜な夜な奥さまの声が、
「………ああ~~~~口がさみしい………何か食べ物がほしゅ
うございます………」
と、誰にいうこともなしに聞こえてくるようになったのでござ
います。わたくし一人だけが聞いた訳ではございません。他の
ものも数多聞いておるのでございます。
その後は誰一人としてこの不気味な陣屋に近づくものはおら
ず、陣屋は徐々に朽ち果て、そして年号が明治となった直ぐの
頃、陣屋は跡形もなく取り壊されたのでございます。
後に、この話が各地を転々とするうちに、『二口女』という
あやかし話が出来上がり、物語は少しづつ変化をしていったの
でございます。
この話の元となった、ここ中山道鵜沼宿の名は広く世間に知
れ渡るようになり、一躍有名になったという経緯がございます。
江戸時代の絵師竹原春泉の描いた、『絵本百物語』の中に、
『妖怪ふた口おんな』というあやかしの挿絵があり、そこには
こう書かれております。
まま子をにくみて食をあたえずして殺しければ
継母の子生まれしより 首筋の上にも口ありて
食をくはんといふを 髪のはし蛇となりて
食物をあたえ また何日もあたえずなどして
くるしめるとなん おそれつゝしむべきは
ままはゝのそねみなり
現在の脇本陣は、江戸時代の絵図面を基に平成二十二年に再
建されまして、市井の人々の娯楽の場として様々な行事が行わ
れ、わたくしどもの東雲屋をはじめ、有形文化財としての建物
も数件あることから、年に二度一斉公開が行われているのでご
ざいます。
̪肆の章
わたくしのあやかし話はいかがでございましたかな………
おや、面白くて色々と江戸時代のことが分かって為になった
……それはようございました。
ついでと言ってはなんですが……もうひとつ大事なことをお
話しさせていただきます。
忘れも致しませぬが、明治二十四年にこの地方を襲った濃尾
大地震がございました。このときには、多くの家屋が倒壊し火
災も発生。また山崩れも起き、一瞬にして家屋が流された所も
あり、死傷者も多くでたのでございます。
鵜沼宿も例外ではございません。威厳のある二ノ宮神社の明
神鳥居は倒れ、神社に続く石段も崩れ落ちたのでございます。
わたくしどもの旅籠も無事とは言えず、他の旅籠と比べます
と被害がは少なかったとはいえ、座敷の土壁の一部は崩れ落ち、
足の踏み場もないほど物が散乱し、それはそれはひどい有様で
ございました。
この大地震で見るも無残であった鵜沼宿も、元の宿場を取り
戻そうと皆が力を出し合い必死になって働き、日を追うごとに
宿場らしくなり、そして見事に復興を成し遂げたのでございま
す。その後、不思議なことが起きたのでございます。
いつしか数匹の猫たちがこの東雲屋の屋敷に住みつくように
なったのでござます。しかし時の流れには逆らえぬもの。歳月
とともに住みついていた猫たちすべてが妖となったのでござい
ます。
そこの濡れ縁にうずくまってジッと外を見ておりますのが、
猫神と申しまして、神の使いでもある妖でございます。猫の毛
は雨をはじかないものですから、雨の日はあのように恨めしそ
うに外を眺めているのでございます。他に五徳猫や化け猫、
ジバニャン……ん? これはご無礼いたしました。あやかしの
戯言でございます……えっ、なぜ猫の妖ばかり居るのかとお尋
ねですか……実は、わたくしは生あるときから猫がしこたま好
きでございまして、それが猫たちに霊感として分かったのでは
ないかと、勝手に思うております………
えっ?……床の間に置いてある、尻尾が三股に割れた猫の置
物が……動いた……のでございますか?
あれは置物ではございません。『じん』と申しまして猫又で
ございます。ここに居ります猫の妖の中で、唯一名前をつけた
猫でございまして、陣屋に迷い込んでいたのを拾ったことから、
安易に『じん』としただけのことでございます。
猫又は二本足で歩くこともでき、また人に化けることは朝飯
前……かどうかは猫又に聞いたことがございませんから分かり
ませぬが、人の言葉をよく理解し話すこともでき、日頃のわた
くしの話相手でございます。
えっ、どんな話をしているのか……ですか?……そうでござ
いますなあ……人として生きていた懐かしい江戸の頃の想い出
話が多ございますかなあ………
おや、四半刻もせぬうちに雨脚が強くなってまいりましたな
あ……このような雨を、亡者がわめくがごとく降ることから、
鬼雨というのやそうでございます……もしかすると、雨の神様
に仕える者と言われる、雨降小僧が近くにおるやしれませぬぞ
………今昔続百鬼という本に、
『雨の神を雨師いふ 雨ふり小僧といへる者は
めしつかはるる侍童にや』
と、書かれております。
終の章
わたくしは普段、あやかしたちと同じ奥座敷の片隅にある市
松模様の長い暖簾の掛かる、住み心地の良いところに鎮座して
おります。
えっ、市松模様がどんな模様なのか……ご存じない………
思い返すに……江戸時代でございましたなあ……この頃は猫
より歌舞伎がしこたま好きでしてよく観劇したものでございま
す。
江戸には三座と申しまして、『市村座』『中村座』『森田座』
とございました。あれは、中村座での舞台であったと記憶して
おりますが、『心中万年草』という出し物で、歌舞伎役者・初
代佐野川市松が、白と紺の模様を碁盤目状に交互に並べた袴を
履いて登場したのでございます。
その模様が流行りましてなあ。それからその模様を市松の名
からとって、市松模様と呼ぶようになったのでございます。
市松つながりでもうひとつお話させていただいてもよろしい
かな……東洲斎写楽が描きました二十八枚の大首絵がございま
す。その中の一枚に『三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ』
という絵がございます。
この絵は、寛政六年五月に都座で上演されました演目、
『花菖蒲文禄曾我』の中で、三世佐野川市松が演じたときの絵
でございます。
写楽と言えば、突如現われ突如消えていった謎の絵師と言わ
れておるようでございますが、確かに十カ月という短い期間に
百四十五枚の絵を残しております。ただ分かっていたのは、江
戸は八丁堀に住み、阿波藩の能役者斎藤十郎兵であること。
そして写楽の描いた絵すべてが版元である蔦屋重三郎から出
されていることぐらいで、どのような顔をしてどのような暮ら
し振りをしていたのかは、わたくしも分からないのでございま
す。まさに謎の人物でございました。
「写楽とはしゃらくせえ」
などと、世間でよく耳にしたものでございます。
おや、またぞろわたくしの話が長くなったようでございます
なあ……つたない話を聞いていただきまことにかたじけのう思
うております。