魔女は天使のような子どもと出会う
先ほどの件を、ユースディアはテレージアに報告に行った。
ユースディアに、金を渡すから家を出て行くよう提案された旨を説明すると、テレージアは顔を真っ赤にして怒る。
「あの、恥知らずが! 二度と、公爵家に足を踏み入れることは、許さないわ!」
テレージアはすぐに、フリーダへ抗議文を送ってくれるという。その結果に、ユースディアは満足げに頷いた。
強い者には、強い者をぶつけておけばいいのだ。
もうこれで大丈夫。もう、心配はいらない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、幼い少年が不安げな表情で、キョロキョロしながら歩いているのを発見した。
金の髪に、青い瞳をした、アロイスに面差しがよく似た六歳くらいの少年である。
一瞬、アロイスの隠し子かと思った。それくらいそっくりなのだ。
少年はユースディアに気づくと、恐れもせずに駆け寄ってくる。
「あの、すみません。ぼくのお母さまを知りませんか?」
「お母さま?」
「はい。フリーダ、と申します」
ここで、この少年がアロイスの甥ヨハンであることに気づいた。フリーダと一緒に、離れから本邸に来ていたのだろう。
だが、残念なことにフリーダはひとりで帰ってしまった。徒歩十五分ほどとはいえ、息子を置いて帰るなんて酷い母親である。
ヨハンはユースディアが頼りだとばかりに、キラキラとした瞳を向けていた。そんな彼に、「あなたの母親は、ひとりで家に帰ったわよ」などと言えるわけがない。
「フリーダは、その、急な用事を思い出して、先に家に帰ったの」
「そう、だったのですね」
ヨハンの瞳が、途端に陰る。気が利かない言い訳をしてしまったようだ。これだから、子どもは苦手なのだ。ユースディアは内心頭を抱え込む。
「あ、申し遅れました。ぼくは、ヨハンです」
まだ六歳だというのに、ずいぶんしっかりしている。ただ、愛らしいだけではない。テレージアが彼を可愛がる理由を、理解してしまった。
「私は、ディアよ。アロイスの、妻なの」
「ああ、アロイス叔父さまの、お嫁さまなのですね! ご結婚、おめでとうございます」
「え、ええ。ありがとう」
もしかしなくても、ヨハンはユースディアより礼儀正しい。彼を見習わなくてはと、思ってしまう。
「アロイス叔父さまは、優しくて、強くて、だいすきです」
「そう」
「ディアさまは、アロイス叔父さまの、どこがおすきなのですか?」
突然投げかけられた純粋無垢な質問に、ユースディアはたじろぐ。どこか好きかと聞かれても、ほいほい出てくるものではない。
ひとつ、思い浮かんだのは、アロイスの金払いのよさだ。こればかりは、はっきり好きだと言える。しかしながら、子どもに言っていいものではないだろう。
ヨハンは期待の眼差しを、ユースディアに向けていた。これは、言わなければならない空気だろう。どうしてこういう状況になったのかと、叫びたくなる。だが、穢れを知らぬ子どもがいる手前、ゴクンと呑み込んだ。
ただ、嘘は言いたくない。だから、ユースディアはアロイスの好きな点を、搾りだして答えた。
「か、顔?」
ヨハンはユースディアをじっと見つめている。気まずくなって、額にじわっと汗を掻いてしまった。
見た目ではなく、内面的なものを望んでいたのだろう。何かあったような気がしたが、今はこれっぽっちも思い出せない。
アロイスと聞いて、すぐに思い浮かぶのは美しい微笑みである。そうだ、笑顔と答えたらよかったのだ。
続けて言おうとしたら、ヨハンに先を越されてしまった。
「わかります! ぼくも、アロイス叔父さまのお顔、すきです!」
ヨハンは嬉々としながら答える。アロイスの顔には、心の美しさが、優しさが溶け込んでいると。
ユースディアは額を押さえ、完敗だと負けを認める。
ヨハンはアロイスの顔から、内面を読み取って褒めたのだ。完璧な六歳児だろう。
「あ――ディアさま、こんなところで、話し込んで申し訳ありません」
「気遣いも完璧なのかよ」
「はい?」
「なんでもないわ。それにしてもあなた、とってもしっかりしているのね」
「いいえ。しっかりしていたら、お母さまに置いて行かれることも、なかったでしょう」
しょんぼりと、うな垂れる。ユースディアの胸が、切なさで痛んだ。
このように愛らしく、賢い子を、どうして置き去りにして帰ったのか。
おそらく、フリーダは怒りに感情を支配され、周囲が見えていなかったのだろう。ヨハンは欠片も悪くない。
あえて言うとしたら、フリーダを怒らせてしまったユースディアが悪いだろう。
「このまま帰っても、お母さまの邪魔をしてしまうかもしれません」
「ヨハン……」
ユースディアはヨハンに手を差し伸べ、ある提案をした。
「だったら、私の部屋で暇を潰さない? 黒いリスがいるの。見せてあげるわ」
「く、黒いリスですか?」
「ええ」
かなりの臆病者だが、ヨハンには心を許すだろう。
ヨハンはユースディアの手を取った。小さくて、温かくて、弱々しい。そんな子どもの手を、ユースディアは優しく握った。
ユースディアはヨハンの歩調に合わせて、ゆっくりゆっくりと進んでいく。
子どもと手を繋ぐなんて、人生で初めてである。不思議な気分だが、嫌ではない。むしろ、しっかりヨハンの手を取っていなければと思ってしまう。
これが庇護欲なのかと、しみじみ思うユースディアだった。
部屋に戻ると、ユースディアに「おかえりなさい」と言う者がいた。
「ちょっと、なんであなたがいるのよ」
ユースディアを笑顔で迎えたのは、リリィであった。胸には、ムクムクを抱いている。
「なんでって、ムクムクに会いにきただけですわ」
「先触れもなく?」
「あなただって、報告なしにアロイス様と結婚したではありませんか」
ああ言えばこう言う。リリィはユースディアの指摘などものともせずに、ムクムクに頬ずりしていた。
「あら、ヨハンではありませんか。久しぶりね」
「リリィさま、お元気そうでなによりです」
「あなたも、元気そうでよかったわ」
「はい!」
ヨハンの頬が、熟れたリンゴのように真っ赤に染まる。それに気づいた瞬間、侍女が耳打ちをした。以前より、リリィはヨハンと遊ぶことがあったと。ヨハンはリリィを、姉のように慕っているらしい。微笑ましいものだ。
少年少女が、リスと戯れる様子は平和としか言いようがない。
ユースディアがぼんやりしている間に、ヨハンはムクムクと仲良くなっているようだった。
つい数日前まで、沼池の魔女として孤独で暮らしていたユースディアの部屋に、見目麗しい少年少女がいる。違和感でしかない。
闇魔法を使う魔女は孤独であるべきだと、ユースディアは思っていた。
けれど、太陽の光が差し込む部屋で、子ども達の笑い声が聞こえるのも、悪くないと思ってしまった。
夜――アロイスは今日も、ユースディアのもとへ現れた。
「毎晩、顔を見せにこなくてもいいのよ」
「私が、ディアの顔を見たいんです。迷惑であるのならば、止めますが」
「別に、迷惑ではないけれど」
「よかったです」
安堵するアロイスを、じっと見つめる。改めて、美しい顔だと思った。
ヨハンは、アロイスの美貌に心の美しさと優しさが溶け込んでいると話していた。本当かどうか調べたかったが、実際に見ても「実に美しいな」としか思えない。
「ディア、どうかしましたか?」
「いえ、ヨハンが――。あ、そう。ヨハンに会ったわ。ついでにフリーダとも」
「義姉は、ついでですか」
「ついでじゃないわ。王都で会った人の中で、もっとも曲者だったわよ」
アロイスにも、フリーダが金を持って家を出て行けと提案した話を包み隠さず報告した。
「あの女性は、本当にしようもない人ですね」
「さすがの私も、驚いたわ」
しかし、ぐったり疲れた心を、ヨハンが癒やしてくれた。こればかりは、収穫であった。
「フリーダはああだけれど、ヨハンはいい子ね」
「まっすぐのびのびと、育ってくれました」
ここで、意外な情報をアロイスはもたらす。なんと、テレージアはヨハンを養子に迎えようとしているらしい。
「それって、ヨハンを養子にして、フリーダと縁を切ろうとしているの?」
「ええ、まあ。そんな感じかと」
実現にはほど遠いらしい。フリーダはヨハンを手放す気は、いっさいないようだった。
「なんか、すみません。私の問題に、巻き込んでしまって。命じていた人払いも、あまり効果がないようで……」
「仕方がないわ。使用人が防げない、活動力に溢れる人達ですもの」
それに、出会いは悪いものばかりではない。ヨハンのような、愛らしい子とも出逢えた。
「それにしても、ヨハンはあなたそっくりね。隠し子かと思ったわ」
「ええ……」
憂鬱そうな返事である。珍しく、眉間に皺を寄せ、深いため息をついていた。
「もともと、私と兄の面差しは似ていたのですが、それでも、ヨハンは私のほうによく似ているのです」
奔放なフリーダのふるまいを目にした者達が、裏で「息子は義弟の子ではないのか?」などと心ない悪口を広めていた時期もあったらしい。
「兄の死は、私が事故を偽装したのだと、言う者もいました」
「酷いわ」
「ええ」
聞き過ごすことのできない噂話を広めた者は、きちんと法の上で裁いてもらったようだ。なんというか、さすがである。ユースディアはしみじみと思った。アロイスの中で甘いのは、顔だけなのだろう。敵に回したくないタイプである。
「噂話を流していた者に話を聞いたら、証拠はなかったけれど、私を恨めしく思っていたと」
「あなたでも、恨みを買うのね」
「すべての人から好かれる者なんて、いないですからね」
隠し子問題と兄を暗殺したという噂話は、アロイスが訴えたことにより収束した。
「大変な目に遭っていたのね。ごめんなさい、知らずに言ってしまって」
「いえ、私に直接言うのであれば、問題はありません。その都度、否定すればよいのですから」
その後、廊下に飾ってある兄レオンの肖像画を見せてもらった。亡くなる半年前に、描かせたものらしい。
髭を生やした、威厳のある男性が描かれている。
「たしかに、雰囲気は似ているわね」
「ええ」
レオンとアロイス、どちらが父親かと聞かれたら、十人中九人はアロイスだと答えそうだ。それほど、アロイスとヨハンはそっくりだった。
「幼少期の兄と私は、見間違えるほど似ていたらしいので、ヨハンも大きくなったら、兄のようになってしまうのかもしれません」
「そうね」
珍しく、落ち込んだ後ろ姿を見せるアロイスの背を、ユースディアは励ますようにポンと叩いた。
アロイスは驚いた顔で振り返る。
「気にすることなんてないわ」
「はい……。ありがとう、ございます」
アロイスは泣きそうな表情で、ユースディアを見つめる。
不安げで、夢も希望もない。そんなアロイスは、美しい笑顔でいるときよりもずっと人らしい。
何もかも恵まれ、光当たる場所で生きている人なんていない。皆、どこか心に闇を抱えて生きているのだ。
人が心に抱える闇に触れた瞬間、本当の姿が見えるのかもしれない。
ユースディアは初めて、アロイスの本心の欠片に触れたような気がした。
深く、知りたいとは思わない。
ユースディアとアロイスを繋ぐのは、かりそめの結婚。それに、彼は半年後に呪われて死ぬ。
なるべく、情をかけないようにしなくては。でないと、彼の死はユースディアの心に永遠に消えない影を落としてしまうだろう。
「もう、休みましょう。アロイス、あなたは疲れているのよ」
「そうですね」
月光が差し込む廊下を並んで歩き、私室の前で別れた。