第35話.呼び捨て
辺りはすっかり暗くなって、等間隔に並ぶ街灯の灯りが二つの影を作った。履きなれない革靴と違ってスニーカーで出てきたので、まあまあの時間を歩いても足が痛くなることはなかった。
「暑いなあ」
そりゃこの季節に長袖なんて着てればね。かといって、あの腕がコンプレックスなのも納得。気持ちなんてものはすぐ矛盾する。
「ねえ幸一くん」
「なに?」
「もしかして、女の子を呼び捨てで呼ぶの慣れてない?」
「うん、初めて」
「やっぱり」 嬉しいのか楽しいのかそれとも哀れんでるのか、声のトーンで感情を探ろうとしたがどういう感情から発された言葉なのか分からなかった。
「呼びにくいなら、さん付けでいいからね」
「ん、どうしよっかな」
正直照れくさい。女の子に限らず呼び捨てで呼んでる相手なんて裕介くらいなものだ。それも昔からの付き合いだから、気付いたときには「裕介」 「幸一」 と呼び合う仲だった。
つまり僕は意識して誰かを呼び捨てで呼んだことがない。まず、そもそも、そこまで仲の良い相手がいないのもある。
「あの時勢いで言っちゃったからさ」 多分僕が呼び慣れていないのと同じようにりえも呼ばれ慣れてないんだろうな。
「まあ、これから慣れるよ」
「そう?じゃあ今一回呼んでみて」
ものすっごい無茶振りをしてくるな。「りえ」 ちょっと恥ずかしかったので大分小声で言ってみた。「ふふふ」 暑いと言っていたのに、手まで袖を伸ばして、それを口元まで持っていって声を押し殺して笑われた。
恥をしのんで呼んだのに、あんまりじゃなかろうか。
「もう呼ばないからな」
「わー! ごめんごめん!」
市営住宅へ続く坂の前に立つ。今日は長い1日だった。長い夏休みの、長い1日。たまにはこんな日があってもいいか。
「あーあ、今日が終わっちゃう」
「そうだね」
「終わらなければいいのに」
「1日は終わるものだよ」
「うー、難しいこと言うなあ」
今日が特別なだけ、時間なんてただボーッとしてればただ過ぎていくだけだ。
「じゃあ、幸一くん、またね」
「うん、じゃあ」
1号棟の前でサヨナラする。僕の家の明かりはまだ点いていない。姉ちゃんもまだ帰ってきてないんだろう。1人で3号棟の方に歩いていくりえの後ろ姿を見ていた。




