パスコードは『3341』
貴方はわたしの王子様。
貴方はわたしの天使。
貴方はわたしの宗教。
貴方はわたしの神様。
わたしにとっての貴方は、実在しようとしなくとも、ただ心の拠り所であってくれればいい。「わたしを愛する貴方はいない」と証明されなければ、それでいい。だからお願い、わたしの中の貴方を終わらせないで。
わたしはわたしの中の貴方を抱えて、誰にも触れられない場所に行きたい。そこには貴方も来なくていい。
わたしは一人になるけれど、きっと独りじゃない。いつまでも、わたしの中の貴方を抱えて生きていけるから。
──
「どや?どや?!」
「うーん、どや、と言われてもね……」いつものように目の前に差し出されたスマホには、ほどよく痒いポエムが羅列されている。いい大人の僕は苦笑するしかない。
「せんせー、あたしなかなか文才あると思わへん?」冒頭の文章を書いたとは思えない溌剌とした少女が、鼻息を荒くしながら言う。「この道を極めて詩人にでもなれば、大学なんか行かんでええんちゃう?なぁ?」
「本気でその道を極めたいなら、国語の勉強をした方がいいね」冷静に返す。それから一つ訂正しておくが僕は決して“先生”ではなく、学習塾のただの事務職員だ。今は受付のカウンター越しに、塾生の彼女と会話している。もうすぐ授業が始まるはずだが、彼女が時間を気にしている様子はない。今日は空き部屋で自習しに来たのか、何かの手続きにでも寄ったのだろう。
「うーん、そうなるとやっぱ文学部的なとこに行くべきか……でもなぁ、そこまでして知識が欲しいかと言われると、そういうわけでもないねんよなぁ。悩ましいとこですなぁ」
彼女は一人でべらべらと喋り、一人で落胆し、こちらをちらりと見る。薄々気付いている。たぶん彼女は、僕のことを……。
「ね、せんせーも文系の学部やったん?てかそもそもどこの大学?」
「生徒にそういうのはあんまり教えられない約束になってるから、ごめんね」
「えー、何それ!せめて学部だけでも教えてくれたってええやん!ケチ!」
「ごめんねー……」僕は眉を八の字にしながら、へらっと笑う。この笑顔で大抵の女の我が儘は折ることができる。実際に今目の前の彼女は、「まぁせんせーがそう言うならしゃーないか……」などと口元ではもごもご言いながら、まんざらでもなさそうな顔をしている。
僕はなぜか昔から厄介な女に好かれやすいタイプだった。厄介という二文字で括るのは歴代の彼女たちに申し訳ない気もするが、そうとしか言いようがない。心に傷を抱えている子も、心に収まりきらず溢れた傷が身体に浮かんでいる子もいたが、総じてみんな病んでいた。
彼女たち曰く僕は「優しい」とのことで、何度も愛という言葉にすり替えた依存の餌食になって痛い目を見てきた。もう懲り懲りだ。けれど気付いたらまた同じような女に寄りつかれて、来る者拒まず、ただ跡だけは濁して去っていく僕が、誰より一番病んでいるのかもしれない。
僕は決して優しくはない。面倒ごとを避けるために、彼女たちにとって都合の悪いことは口にしない、それだけだ。自分の中に小さな不平不満を積もらせながら、将来のことは何一つ考えず、その瞬間重ねる肌の温もりだけを愛している。それだけのために彼女たちを甘やかして最終的に飽きが来たら、ある日突然ぷつりと糸が切れるようにさようなら。その繰り返しで生きてきた。僕は地獄に落ちるだろうけど、これはきっと生まれ持った性癖としか言いようがない。もう現世で軌道修正するのは諦めた。
「……まぁええわ、今日のとこは大人しく帰ったろ!せんせー、またね」
どうやら今日の用件はここに来るより先に終えていたらしい。彼女はいつも『またね』と大人に対してフランクすぎる挨拶をしながら、手を振って受付を後にする。
「気をつけてね」それに対して僕は、無難な見送りの台詞を口にする。彼女の姿が見えなくなった頃、僕の向かいの席の先輩女性職員が、そっと近寄ってきて僕に言った。「毎日毎日相手してあげてますけど、いたいけな学生をその気にさせるような行動はやめて下さいよ、せんせー?」
ふざけて彼女と同じように僕のことを呼ぶ。この女は現在進行形の僕の“彼女”だ。一回りも年下の女子高生に嫉妬するなんてみっともないと辟易しつつ、「そんなつもりないんですけどねー……」お決まりの微苦笑を浮かべた。
その後少し間が空いてズボンのポケットのスマホが震えた気がしたので、デスクの下でそっと確認すると、『今日泊まりに行ってもいい?』と簡潔な一文が送られてきていた。
『いいよ』さらに簡潔に返して顔を上げると、目の前の彼女の口元が多少緩んだ。今晩の僕はさっき以上に怒られるのだろうか、それとも、捨てないで、とでも泣きつかれるだろうか。
──
永い夜
貴方の記憶が浮かぶけど
思い出の墓場 探して埋める
──
「今回は趣向を変えて五・七・五・七・七にしてみました!……ちょっと字余りやけど!どや!」
次の日、また彼女が得意げにスマホの画面を見せてきた。
「思い出の墓場って……?」僕はまた苦笑を浮かべた。
向かいの席から視線を感じる。“彼女”は昨夜大変お怒りだった。もちろん冗談半分でもあっただろうが、嫉妬の色を湛えた眼で、僕を言葉と行為で執拗に責めた。その熱のおかげで僕も久し振りに、いつもより多少は燃えた。
今朝“彼女”は僕の家に置いてあるわずかばかりの服に着替えて、わざと僕と時間をずらして家を出た。いつもと同じ時間にデスクに着くよう計算して出勤しておきながら、ブラウスの向こうに痣みたいな紫色のキスマークを沢山抱えながら、何事もなかったように顔色一つ変えず仕事をこなしている。女は一体いつこんな術を身に付けるのだろう。
それに比べてカウンター越しに無邪気な笑顔を見せる少女は、知ったような口をききながら、恐らく恋愛の何たるかなど、これっぽっちも知らないだろう。日々拝見する自信作はあまりにも滑稽で笑ってしまいそうだが、仮にも学習塾に勤めていながら、思春期の少女の創作意欲を奪うわけにもいかない。今日も相手をしてあげよう。
「ちっちっち。その解釈は読み手側に委ねるのです、書き手のあたし自身が答えを出してもうたら、せっかくの詩の楽しみが台無しやん」
彼女はけたけたと笑って言った。「せんせーはどういう意味やと思う?」
「思い出の墓場、ね……」意外と難しい質問だ。果たして正解などあるのだろうか。彼女自身、よくわからないまま羅列した言葉なのではないか。
「あたしからせんせーへの宿題やで。次に会うまでに考えといてなー!じゃ、今日はそろそろ授業始まるからこのへんで!さよなら」彼女が手を振る。
「いってらっしゃい」またも、無難な見送りの台詞。教室に向かって去っていく後ろ姿を見送り、目の前をチラリと見やると、今日は言葉にはしないものの“彼女”がまたこちらを意味深な目で見ていた。口元にうっすら笑みが浮かんでいるところを見ると、今日は嫉妬ではなく、昨晩を思い出して優越感に浸っている様子だ。彼は私のもの。そう思っているのだろうが、思い上がりもいいところだ。
今日に限って僕はなぜか、『思い出の墓場』という彼女の言葉が頭から離れなかった。宿題ならば、解かねばならない。
♢
それが、僕が彼女を見た最後になった。宿題は提出できなかった。そもそもまだ答えは出ていないし、彼女に懇願しても教えてはくれないだろう。結論から言うと彼女の『王子様』で『天使』で『宗教』で『神様』なのは、僕のような男ではなかった。誰より一番思い上がっていたのは、僕だ。
彼女は突然姿を消した。
塾にも学校にも自宅にも、行き先の手掛かりは無かった。
ここに通う同級生たちがかつて密やかに噂していたのを、僕は聞いたことがあった。
彼女は生まれたときから母親と二人暮らしだったが、高校に進む節目の春に母親が再婚したとのことだった。その“父親”は会社を経営しており人望にも厚く、金銭面でも潤っており、それまで一日一日を生きるのに必死だった母娘二人は安定した生活を約束された。彼女はこの学習塾に通わせてもらえるようにもなった。実際、塾に残されている資料を見返すと契約書には力強い筆跡で父親名義の名前が書いてあったし、彼女自身の成績も入塾以降右肩上がりで良くなっていた。
一事務職員の僕は知らなかったが、彼女は塾生の中でもかなり賢く、進路希望の調査票には第三希望まで全てに名門大学の名前が書かれてあった。ただ学部の欄は空白で、他の職員によると、これから親や担任教師と相談しながら決めるから待ってほしいと言い張っていたとのことだ。いつか僕の前で愚痴をこぼしていたように、将来に悩んでいたのは嘘ではなかったのだろう。ただ、今の僕からすれば、この大学名さえもろくに考えず適当に書いたように思えてならない。彼女が悩んでいたのはきっと大学や学部のことではない。その程度のことに悩んでいただけならば、どんな道を選んだとしても、成績優秀な彼女の未来は希望に満ちていたはずだ。たったひとつの過ちさえ無ければ。
ここから先は僕だけが知る話になる。
彼女の母親と“父親”に伝えるべきなのか、この期に及んで決めあぐねている。愛娘が突如失踪したことで、当然ながら警察に届けも出しているし、沢山の人間が今も動いていることを思えば、倫理的には伝えなければならないだろう。黙っていることは罪になるかもしれない。
だが──
♢
一色さんへ
貴方に私のことを伝えたかったので、この手紙を書きました。(スマホのメモ機能だけど、手紙っていうのかな。笑)
いつも先生って呼んでいたけど、私もバカじゃないから、さすがに貴方が先生じゃないことは最初から分かってました。でもまぁ私にとって貴方は反面教師なので、そういう意味も込めて半分冗談、半分本気で先生と呼んでました。というわけで、この手紙でも便宜上先生と呼ばせてもらいます。
さてさて。自分で言うのもなんだけど、私って昔から勘が鋭いんです。先生って、一見地味だけど、実は相当モテるでしょ。自分の魅せ方を分かってる。しかもそれを誇りに思ってる。自分では隠しきれてるつもりだろうけど、目が物語ってるよ。一目見た時からこいつはクズだろうなと思いました。正直今も思ってる。先生のそういうとこ、嫌いです。私は絶対一途でいたい。そういう意味で、先生は私の反面教師なの。
私の勘が当たっていれば、今の遊び相手は向かいの席の丸山職員ってところじゃないでしょうか?彼女は年齢的にも結婚を考えて必死だろうから、その気もないならズルズル付き合うのはやめてあげた方がいいと思います。
あれ、なんで私他人の恋愛に口出してるんやろ!お節介はもうやめます。笑
だいぶ話が逸れたけど、本題に入ります。
先生、大半の人間って漠然といつか自分は幸せになれると信じてるし、いま不幸せな人はいつか幸せになるために頑張ったりするけどさ、幸せなんてもの、本当にあるのかな?
あるとしたら、きっと人類みんなに同じ量は分配されてないよね。私のところには回ってこなかった。わたしが得られなかったぶん、誰かが倍の幸せを掴んでるようにしか思えない。その誰かって、もしかしたら先生だったりして。今まで散々女の子を泣かせておきながら、上手いことのらりくらり生きてきたんでしょう?なんか釈然としないなぁ。私のぶんの幸せ、返してほしいかも。笑
ここで衝撃の発表です。
今、私のお腹には別の命が宿っています。
他人の恋愛のことを散々こき下ろしておきながらお前の方が貞操観念緩いな、とか思わないでね。私の恋は遊びじゃない。一途だから。
相手はずばり、私の父親にあたる人です。
どうしようもなく良い人なんです。あの人と出逢ってからどんどん輝いていくお母さんを一番近くで見ていて、私は嬉しくて、寂しかった。お母さんには沢山苦労をかけたし人一倍幸せになってほしかったけど、一人の女性として幸せになったその時、他の男性との娘である私はもう要らなくなっちゃうんじゃないかと思ったから。素直に祝福できる自信がなかった。
初めてあの人に直接会って挨拶を交わしたとき、多分私は全然笑えてなかったと思う。それでもあの人はお母さんを真剣に愛していること、再婚しようと思っていることを真摯に伝えてくれた。あの人の描く未来像には、ちゃんと私も居た。家庭内で私を爪弾きにするようなことは一切無いだろうと目を見て分かったし、良い父親になってくれると思ったし、実際再婚してからも理想以上の父親だったと思う。その関係を壊してしまったのは私自身だけど。私が、あの人を好きになってしまったから。
たまたまお母さんが友人との旅行で家を空けた夜、わたしは意を決してあの人の部屋のドアをノックしたの。その晩は酷く天気が悪くて、お母さんが翌朝無事帰って来られるか本当に心配だった。心配しながらそれと同時に、千載一遇のチャンスだと思ってしまった。
もう高校生なのに無茶な理屈だけど、雨風の音が怖いから一緒に寝て、と甘えてみた。あの人はきっと私の思いに気付いていたと思う。だから隣で眠る私の頭を一度だけ撫でて、すぐに『おやすみ』と小さな声で言って、私に背中を向けた。でももうダメだった。私が、手を伸ばしてしまった。好きって言ってしまった。父娘の関係を男女の関係にしてしまった。全部私のせいなの。
本当に一度きり。たったの一度きりだった。それでも好きな人の腕に抱かれて眠るあんなに幸せな夜を、私はもう二度と味わうことはないと思う。
翌朝天気は見事に回復して、あの人の部屋の窓から見える青空が目に痛かった。あの人は何も悪くないのに、ごめんね、とひとこと言って部屋を出ていった。むしろそれが一番悲しかったかも。その日の夕方、お土産を沢山買って満面の笑みで帰ってきた母を、私はまたうまく笑えずに出迎えた。母は私と正反対で鈍感なひとだから、今でもあの夜のことには気付いてないんじゃないかなあ。
以上がいつも貴方にしょーもないポエムを読ませていた私の本当の恋のお話でした。笑
今ね、この文章を書きながらやっとまたきちんと笑えるようになった気がする。自分の中で踏ん切りがついたから。
私は、お母さんも父親もいない場所に行きます。そしてお腹に宿ったこの命を守って生きていきたい。たとえ他人から見て幸せじゃなくても、それがわたしの生きた証、たった一夜でも最愛の人に全力で愛された証になるなら。
私が最後に先生に出した宿題、覚えてる?
どうか考えながら今後の人生を楽しんでください。火遊びはほどほどに。今のままの暮らしを続けていると、いつか後ろから刺されるかもよ。笑
じゃあね、先生。お元気で。さよなら。
♢
最後に彼女と言葉を交わした翌朝、出勤すると、心当たりのない小さな封筒が机の上に置いてあった。持ち上げると妙に重い。なんだか気味が悪いので隣の職員にこの封筒の出どころを尋ねると、「昨日僕が帰る頃には気付いたら置いてあったので、ちょっと分からないですねぇ……すみません」と何の役にも立たない返事が返ってきた。
開けてみると、つい昨夜まで彼女に得意げに見せられていたスマートフォンたった一つが入っていた。突然のことに理解が出来なかった。
ひとまず電源を入れてみるが、当然のごとくロックが掛かっていて、パスコードの入力を求める画面になった。何かのいたずらかと思い、次に彼女が受付に来たら返そうと、ひとまずその時は引き出しにしまっておいた。しかしその日、彼女は現れなかった。
どうやら彼女が失踪したらしいとの話題で職員中がざわつき始めたのはその次の朝だった。両親から連絡もあったという。
「そういえば一色さん、彼女とよく話してましたよね。何か聞いてませんか?」職員の一人に尋ねられたが、いいえ心当たりは何も、としか返せなかった。だって彼女は“次に会うまでに”と言ったはずだ。次に会うまでに──
ふいに思い出した。いつも『またね』と手を振る彼女は、一昨日の晩に限って『さよなら』と言ってはいなかったか。
僕は引き出しにしまっていた彼女のスマートフォンを取り出した。パスコードは分からない。どさくさに紛れて彼女の入塾の際の資料を見て、考えられる数字をいろいろ打ち込んではみたが、開く気配は一向になかった。手を尽くして尽くして、最後に、4桁の数字が思い浮かんだ。彼女の笑顔と、彼女の紡ぐ言葉のギャップ。それを表す最もシンプルな言葉。
『3341』
寂しい。その語呂合わせ。彼女の言葉は常にどこかに寂しさを孕んでいた。見事にロックは解除された。中身を探るため、そっと手洗いに立つ。
開いた画面には目立つ位置にメモアプリがひとつ残されているだけで、彼女の思い出を宿す写真も音楽も残っていない。不要なアプリはフォルダに集約され、画面の隅に追いやられていた。
つまり僕のすべきことはひとつだろう。恐る恐る、メモアプリを開いた。そこには今まで見せられたこっぱずかしいポエムの数々と、一番上にひとつ、僕宛ての名前から始まるメモが残されていた。そっとタップする。
──
そのメモを見てしばらく、僕は動けなかった。彼女は僕の全てを見透かしていた。そして僕には計り知れない大きなものを背負っていた。
彼女は僕のことを嫌っていたのか、それならばなぜ毎日のように話し掛けに来たのか。毎日毎日ポエムを見せて何が面白かったのか。『思い出の墓場』とは何だったのか。そして、なぜ僕にこのスマートフォン、彼女の最大の秘密を託したのか。疑問はたくさんあった。問い詰めたかった。しかし彼女はもういない。
これでおそらく彼女が姿を消した理由を知るのは、彼女と僕の二人だけだろう。彼女にまんまと嵌められて、意図せず共犯者にされてしまった。僕は一体、どうすれば──
──
「……今日もダメなの?」“彼女”がベッドから身体を起こす。裸のまま、灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。
「……ごめん」僕は消え入りそうな声で言う。
「やっぱり、あの子のこと、好きだったんじゃないの?ショックなんでしょう?ねぇ、せんせー?」“彼女”はニヤリと笑って、僕の側に擦り寄り、煙草の煙を吐き出した。
「……」返す言葉が見つからない。
「やっぱりそうなんだ。ロリコンかよ。気持ち悪」“彼女”は煙草を咥えたまま、地面に落ちた下着を拾い、身に付け始めた。吸い殻を灰皿に押し付けると、「まだ終電動いてるよね?今日は帰るわ」
「そうして」僕ひとり未だベッドに腰掛け、動けない。頭を抱える。
「……ごめん。気持ち悪い、は言いすぎた。でも私たち、もう終わりだと思う」彼女は脱ぎ散らかした服を素早く身に付けていく。最後に鞄を手にして言った。「週末にでも私の荷物、まとめて取りに来るから。また連絡する。じゃあね」そう言い残すと、“彼女”は一度も振り返らず、玄関を出ていった。恐らく女のほうからフラれたのはこれが人生で初めてだ。
彼女が姿を消して一ヶ月近くが経っていたが、僕は誰にも彼女の秘密を打ち明けずにいた。その枷は想像以上に重く、常に不安のような何か、言葉にできない感情が頭の中に絡みついていた。
その間にもこうして何度か“彼女”が家に来たが、僕はどこか心ここに在らずだった。目の前で“彼女”が何とか僕と繋がろうと努力すればするほど、どこか遠くから見ているような、虚しい気分になる。結局この一ヶ月“彼女”を満足させることは一度もできないまま別れを迎えたが、僕の感情は特に動かなかった。
失って初めて気付いた。
たとえ僕のことを嫌いでも、他に『王子様』で『天使』で『宗教』で『神様』と思えるくらい愛する男性が居たとしても。
たぶん僕は、彼女のことを……。
♢
その後僕は彼女を思い出さざるを得ない学習塾を退職し、新年度の始まりに合わせまったく畑違いの営業職に転職した。慣れない仕事は覚えなければならないことが多く、多少は気が紛れた。
僕は彼女の共犯者でいることを、秘密を抱えることを選んだ。彼女の両親は今日この瞬間も彼女を探していることだろう。“父親”はどう思っているのか、気にはなるが。
「一色、準備できたか!そろそろ行くぞ」先輩社員にふいに声を掛けられる。見習いとして、営業回りの車の助手席に乗り込み、細々とした手伝いをするのが試用期間中の僕の仕事だ。
「あ、はい!今行きますー!」スーツ姿に乱れがないかチェックし、鞄を持って会社を出る。
外に出ると、心地いい春の風。今日も空が青い。『あの人の部屋の窓から見える青空が目に痛かった』──何度も何度も読み返して覚えてしまった彼女の言葉が、頭に浮かぶ。
彼女に最後に出された宿題。『思い出の墓場』とは何なのか。
今なら少し分かる気がする。僕はきっともう二度と、彼女と会うことはないだろう。それでも生きていく。彼女だけを愛して生きていく。僕の中で1ミリも老いることのない彼女は、ある意味死者のようなもので、死者は墓場に埋葬すべきなのだろう。
僕の思い出の墓場で、僕の中の彼女がどうか安らかに眠りにつけますように。
そしてどこかで生き続ける彼女が、幸せになれますように。僕のぶんまで。