6.底流
その日も吐蕃皇国政府の一日は、朝一番の皇臨席の会議、「朝議」から始まっていた。
玉座の皇の面前にずらりと並んだ文官武官それぞれから仕事の進捗状況が報告され、今後の予定が話し合われ決定されてゆく。
北の新宮殿は機材がようやく揃ったので、今日から改めて土地の測定及び土質調査が行なわれることになった。緊張した面持ちでそのことを皇に報告した文官は、意外にあっさりと皇が了承を与えたことに気を抜かれた。しかし一方、今度遅れたらその責任はどのようにとらされるものか、想像するだに恐ろしくもあった。
その恐怖からか、彼は調査が済み次第、工事人足を三割増にして工事の速度を上げることをその場で皇に告げた。皇が制止する理由はない。工事の予定が遅れているのは事実だからである。
その日はその他に来年採用の官僚及び皇立研究所職員・研究員採用試験の出願がいよいよ開始されることが報告された。
吐蕃では才能のある者には広く公平に門戸が開かれていた。この試験でも、老若男女出身地域は一切問わず、純粋に全ての試験で合格する者を採用するということになっていた。もちろん内部でそれぞれに合った仕事が割り振られるわけで、必ずしもそれぞれの希望が100%叶うというわけではなかったが、それでも多少の事情は考慮されるのである。
出願締め切りは一ヵ月後。そして本試験は二ヵ月後に始まる。更に試験自体は三ヶ月かけて行なわれる。その間の受験者の生活費も、基本的には皇国が持つ。といっても宿舎は指定されているし試験の日程上、自由はほとんどないと考えてよいわけであるから、破格の待遇ということではない。ただし見事試験に合格して正式に官僚、或いは研究員に採用されたら、その給与から少しずつ受験の間の費用が差し引かれる、というシステムになっている。
朝議の終わる頃、大都の役人から、大都内で数週間前から興行している旅芸能一座から更に数週間興行期間延長の申し出があったことが報告された。
その一座の興行は現在大都で最も評判の良いもので、連日テントに見物人が入りきらず、ときには席を奪い合って喧嘩沙汰まで起きているほどのものである。その一座には特に問題もなかったため、この申し出は簡単に受理された。
その日の朝議はそんな感じで特に波風も立たず終わり、文武官僚から下々の役人まで久し振りに和やかな表情で謁見の間を退出したという。
朝一番、開いたばかりの皇立研究所職員・研究員採用試験の出願受付所には既に長蛇の列が出来ていた。
文字通り老いも若きも人種すら様々な志願者の中で、その列の先頭にいたのは長いふわふわの髪の毛を無造作にまとめた若い女性であった。
「明青。山東県出身。16歳。女。受験は初めてです!」
少女らしいやや甲高い、よく通る声ではきはきと身分を申し立てる。その勢いに受付係員の男は内心押されていた。
「……はい、明青。書類不備はなし、と。……ではこの出願受理証を。それとこれが諸注意事項、これが受験日程。内容をよく読んで受験当日に備えること。受理証は無くさぬよう、必ず当日持って来るように。これがなければ受験は許可されぬから、気を付けるように」
「はい!」
間髪入れずに返る元気が良い、というよりも威勢のよい返事に、係員は密かに苦笑した。
(初受験の16歳の娘か。秀才自慢か或いは親の後を継ぐとかそういう類か。元気がいいのは結構だがそれでは最後までもつまいよ)
しっかりと書類を抱えて受付所を後にする小柄な後姿を見送りながら、彼は皮肉げに口許を歪める。
(…まあ、なかなか可愛らしい娘ではあったがな。まあ、わざわざ公職なんぞに就かなくともおまえさんなら生きていけるさ)
思いながら彼は次の受験者の出願書類に目を落とした。
「…ばればれなんだよ、あのおやじ」
受付所を大分離れて列に並ぶ人間たちを遠く町の向こうに見遣りながら、明青は毒吐いた。
「女が真面目に術を勉強して何が悪いのよ。女が、子どもが自発的に術を研究しようとすることの何が変なのよ。私だってあんたと同じ人間なんだよ。やりたいことがたまたま皇立研究職員だったからって別にいいじゃない。私は私なりに本気で人生かけてるのよ。馬鹿にしてんじゃないわよ」
胸にしっかりと書類の束を抱えて足早に歩く。ぶつぶつと呟く言葉は周囲には聞こえないくらいに落としている。
淡い茶褐色のふわふわの髪が歩くたびにふわふわと揺れる。服装は男のものとほとんど変わらない書生のもの。小柄な姿は人込みの中で埋没していたが、なぜだか存在感のある少女であった。色白の顔に瞳は明るい菫色で、行き交う男の十人中少なくとも五人は振り返る美少女であった――しかめっ面さえしていなければ。
「覚えてなさいよ。すぐにあんたの上司になって顎で使ってやるんだから!」
明青はくるりと振り返り、遠く離れてもまだはっきりと見える長蛇の列に鋭い視線を飛ばした。
同じ頃、大都の諸門が開けられた。日の出から開門を待ち侘びていた旅人や商人らが、門番の検閲を受けて通ってゆく。
西門を入る列の中に馬と驢馬を一頭ずつ引いた女性がいた。
「届出はしてあるはずですが…大都内で現在興行中の芸能グループの者です。興行期間を延長することとなったので物資の追加を持って参りました」
砂避けのために白い布で頭を覆い、砂塵避けのマントを纏った、姿の良い女であった。特に日除けのために顔の前に垂らした布の隙間から覗く白い肌と印象的な紫色の瞳の美しさに、門番の男の目はつい惹き付けられていた。
「あの……」
女の声に少々の困惑が混じる。瞳も目が醒めるように美しいが声も耳に心地良いなあ、などと一瞬惚けそうになった門番の男たちが、列の後ろからのブーイングにはっと気を取り直して慌てて手元の書類をめくった。
「ああ、はい、確かに。砂漠の民の旅芸能一座から申請が出ているな。芸人一人と衣装、その他小道具、食料。間違いないな」
「はい」
頷いて彼女は引いている馬と驢馬を示す。
馬は彼女が乗って来たものらしく、鞍が置かれ、その後ろに少々の荷物が括り付けられているだけであったが、驢馬の方はその背中に山のような荷物が器用に括り付けられていた。
「芸人とはお前のことか?」
門番のうち、若い方の男が意味ありげな視線を日除け布の間の彼女の顔に注ぎ込む。その視線は多分に無遠慮で不躾なものであったが、彼女は平気な表情でにっこりと笑ってみせた。そのままひらりと馬の鞍に飛び乗るとばさりと日除け布を払い除けた。
「興味があるなら今夜からの興行にいらっしゃい。私は砂漠の踊り子よ」
馬上で振り返った表情は朝日の逆光で見えはしなかったが、逆に一層その神秘性をその場の人間全員に与えていた。
その夜の旅芸能一座のショーにいつにも増して観客が押し寄せたのは予測可能のこととはいえ余談である。
結局嵐はあの後、沙南の役人の現場検証に立会い、その後も何かと意見を求められ、やっと旅立つことになったのはあの日、村長の部屋で話をしてから二週間ほど過ぎてからであった。
「…で、百よ、おぬし、本気でわしについて来る気か?」
荷作りを終えた嵐が振り返って尋ねる。その視線の先で既に旅装を調え荷物も背負った百が元気良く頷いた。
「もちろんです、お師匠さま!」
「…その『お師匠さま』はよせ……」
「では先生!」
「それはもっとよせ………」
既に何度目か分からない会話に嵐はげんなりと息を吐いた。
「いいか、何度も言うたがもう一度言うぞ。わしは吐蕃王都で仕事がある。そのために行くのだ。遊びではないのだぞ」
「わかっています!オレ、何でもお手伝いします!」
「手伝いというてもな…」
「それにオレ、強いですよ。そんじょそこらの奴には負けないですよ。嵐さん弱いじゃないですか。オレ、ボディーガードもやりますよ。絶対役に立ちますから!」
自信のある言葉というよりも、どちらかというと必死に自分を売り込もうとする思いが隠れている言葉に、嵐はそれ以上あまり強いことは言えなかった。根負けしたともいう。
「それにかあちゃんも元気になってきたし、斤さんもいるし。だから全然心配はいらないんですよ。――ってかあちゃんも言ってくれたし」
百の言葉に嵐がふと顔を上げた。百が母親のことに言及したのは、ここ数日で初めてのことであった。
「それにかあちゃん、言ってくれたんです。
『やりたいことがあるのなら、やっていいのよ。行きたい所があるのなら、行ってもいいのよ。わたしのことは構わずに』
『おまえはおまえの信じる道を進んで行っていいよ。』
って」
「そうか…」
嵐は優しい表情で頷いた。百がこだわりの全くない表情で母親のことを語れるようになったことは、嵐にとっても喜ばしいことであった。
「だから、オレ、心置きなくお師匠様について行けるんです!」
「……だから『お師匠さま』は…」
「じゃあ、先生」
「…………もうよい」
嵐は大きくため息を吐くと荷物を肩にかけて体に縛り付けた。その上から防塵ケープを羽織る。
「お師匠さま!どこに向かうんですか?」
「…沙南だ。橋もとりあえず復旧したことだしのう。当初の予定通りのルートで行くことにする」
― 二.風塵の都・完 ―