5.秘密と疑惑
「由杏殿の病気、これはある薬物による中毒症状であったのだ」
黄瀬の村長の家で、嵐はそう切り出した。
山上の屋敷から戻った嵐と百は、まず百の母親、由杏の家で事情を説明した。その思いもかけない内容に驚いた由杏と斤が、このことは是非村長にも知らせなければならない、と嵐を村長のところまで連れてきたのである。嵐としては百も同じものを見てきたわけだから、彼が説明すればいいし、本当に事情を確かめたい人間は現場に足を運べばいいと思ってはいたのだが、
「オレにちゃんと説明できるわけないじゃないっすか」
と百に主張され、その上由杏も斤も沙漠の薬師も、一緒にもう一度村長と一緒に事情を聞きたいと言い出してしまい、極めつけには砂漠の薬師の
「どうやらあの屋敷の詳しいことは村長様が一番詳しいようですし、彼に話を聞く必要があると思いますよ」
という言葉に、嵐自身の好奇心も刺激されてしまった。そんなわけで嵐は現在二度目の事情説明を村長の家の執務室で行なっているというわけなのである。
室内にいるのは嵐、村長、百、百の母親の由杏、斤、そして沙漠の薬師であった。由杏はまだ体が完全には治っていなかったが、薬師の処方した薬のお陰で大分具合が良くなっていた。完全な治療薬も、嵐が屋敷から持ち帰った黄褐色の結晶を既に薬師に渡してあるので、それを分析して、直にできるであろう。
「薬物?薬物とは…一体どのような…」
唯一この場で初めて嵐の話を聞く村長が尋ねる。
「それはまだはっきりとはわからぬ。これから薬師殿が詳細な分析をしてくださるであろう」
嵐は砂漠の薬師に視線を向けて頷くと、言葉を続けた。
「しかし薬物中毒とは穏やかではありませんな……」
眉を顰めて村長が唸る。
「いや、この場合、由杏殿は自分でもそれと知らずに薬物の毒性にあてられ続けておったのだ。毒物の出所はあの山上の屋敷だ」
しかし嵐はそんな村長に優しい、しかし断固とした口調で答える。
嵐は由杏の家にいるときから空気に澱みを感じていた。それはごく僅かなものであり、普通の人間には大して気にならないレベルのものであった。
であるから百も斤も何度もこの家に出入りしているのに何にも異常を感じることがなかったのである。またそれが、彼らが空気の澱みに慣れてしまっていたからではないという証拠には、初めてそこを訪れた砂漠の民の薬師も何も異常を感じることがなかったという事実がある。
しかし嵐は人一倍感覚が鋭く、特に嗅覚は鋭い。先だっての沙漠の街での蝙蝠襲撃事件のときのように、鋭すぎる嗅覚が時に仇となるほどである。であるからこそ、空気の澱みに気付き、またそれが有害なものであるということに気が付いた。そしてそれがこの場所で発生したものではなく、どこか別のところからもたらされたもの、例えば風に乗ってどこかから吹き込んできたものではないか、という感覚を抱いたのである。
「この辺りでは普段、風は西から東へと吹いているのではないか?」
「ああ、そうです。沙漠の風は西の方から東へと吹き続けておりますし、南の山から吹き下ってくるものもありますが、それは一年の内で何度かしかありません。山の風も西からのものですな」
「ああ、そうそう。山の風は沙漠ほどではないが、いつも沙南の方へ吹いていきますなあ」
「その風が問題であったのだ。由杏殿のお住まいはあの屋敷を通る風が吹き下る場所にあったのだ。そのためにあの屋敷から発生した毒物が風に乗り、由杏殿のお住まいの辺りに吹き込んだ。
それはもちろんほんの微量ずつではあったろうが、確実に人体を蝕むほどの量が流出しておったのであろう。屋敷の近くで仕事をしていたことも症状を重くした要因であろうな。
ここ数日症状が治まっていたというのは、雨が降っておったせいだ。雨が屋敷からの毒物の流出を阻み、新たな毒物に触れることもなかったために由杏殿の体調が正常に戻りつつあったのだ」
黄瀬は沙漠の村であるから、年間の降雨回数は極端に少ない。大体年に数日の雨期に一年分まとめて降る。その他はたまに思い出したようにぱらぱらと地面が湿る程度降るくらいである。つまり基本的に黄瀬は乾いた土地柄なのである。
そしてほとんど降らない雨とは反対に、風は年中やむことなく吹き続けている。それは普段は黄瀬に恵みをもたらす。
しかし今回、やむことのない風は見えない毒を流し続け、対して人々の生活を脅かすかに思えた異常な長雨は、その風を一時的に抑えて毒の流出を食い止めた、ということになる。
嵐の語る言葉に室内の全員が耳を傾けていた。
「しかし…」
ややあって村長が首を捻りながら嵐に視線を向ける。
「そもそもどうして、毒物などがあの屋敷に存在していたのでしょう?」
その言葉に全員が嵐に改めて視線を向ける。そのことはまだ嵐は皆に説明していなかったのである。
「あの屋敷は昔、さる貴族の方が別荘として建てられたものです。建てられた当時は一年に一度、数日間休暇を過ごすために使われていました。その頃はこの村の者が使用人としてお仕えして、時には私も客として招かれたりもいたしました。その頃は本当に普通の別荘でしたよ。――こんな田舎でございますから、なにぶん、派手なところではございませんでしたが。それでもかの方の趣味の良さとお人柄がうかがえる、居心地の良いお宅でございました。――それなのに、一体――」
「――その貴族さまが、その…毒物を…?」
村長の言葉を受けて斤が言い難そうに問う。
「いや、――おそらく、その、元の持ち主である貴族殿は関係ないのではないか。――断言することも、わしには今できぬが――」
嵐は困ったような表情で、それでも彼らの不安を煽ることがないよう、言葉を選んで答える。
「あの屋敷にはそうたくさん部屋があるわけではなさそうだし、何より問題の部屋は一階で一番大きな部屋であった。おそらく居間か応接間。客が来て隠せるほどの規模でもない。ゆえにその貴族殿が使われておった頃に何かが行なわれておったとは考え難い。むしろその後にあの屋敷を使用しておった者が、わしは気になる」
「え、でも、あの屋敷はずっと貴族サマのもんなんでしょう?」
百が誰にというわけでもなく尋ねる。
「いや、名義上は今でもその貴族殿かもしれぬ。しかしここ数年はその者は来ておらぬというようなことを聞いたが?」
嵐の問いに村長が頷く。
「はい、確かに。やはりこのような辺鄙な村では不便なことも多いのでしょう。ここ数年――と言っても4、5年前に来られたのが最後だったかと記憶しております」
「それでその後、誰ぞ別の者が使っておったとか?」
「ええ、よくご存知ですね。2、3年前のことでしたか、沙南の貴族の使いだという者があの屋敷をしばらく使うと申してきました。断る権限など私にはありませんし、貴族さまの了承はとったとのことで書類も確か持ってこられましたので、鍵を渡しました。もし何かあれば貴族さまにお知らせすればよいことですしな」
「書類?」
「ええ、屋敷を使用するにあたり鍵を渡してほしい、というようなもので、貴族さまの印が入っておりましたので、大丈夫だろうと思ったのです」
「ふむ。それで、その者たちはどのようなものであったのか、覚えておるか?」
「いえ…特に。大して話もしませんでしたし。ですが見るからに怪しい、ということはありませんでしたよ。愛想はなかったですがね」
「その者たちは沙南の者であったのか?」
「そうだろうと思います――いや、そう思いました」
しかし沙南は吐蕃の一都市であり、民族的にも、混血種が多かったり、異国人が多かったりということはあるが、基本的には標準的な吐蕃人の姿――つまり、黒っぽい頭髪、白よりも黄褐色に近い肌色、ややがっちりした体格、といった姿――をしている。特に特徴があるわけではない。服装も、沙南に定住している者なら吐蕃の標準的な物を身に纏っている。
反対に言えば、怪しまれたくなければ吐蕃の標準的な姿をしていればよい。無闇に人を疑うような人間でなければ、それで何の問題もない。
「それで…その者たちが屋敷で何をしておったとかいうようなことは――」
村長は頭を振りながら答える。
「いえ、その方々とはそのとき会っただけですから。――あ、いえ、何度かは鍵を返しに来られましたが、それだけです。会話というものもありませんでしたし」
「そうか…それで、最後にあの屋敷が使われたのは?」
その問いに村長は困ったように首を傾げた。
「いえ、はっきりとは解りかねるのです。確かに最初の何度かは鍵を返しに来られました。しかしその後全く姿を見なくなってしまったものですから」
「――由杏殿、斤殿、おぬしらは…?」
嵐の視線を受けて、由杏が頭を振った。
「いえ、その、確かに何度かあの屋敷の中に人がいるのを見たことはありましたが、何しろあの塀があるでしょう?それにずっと雨戸も閉まったままでしたし。貴族さまが来られなくなってからは庭の中までお手入れすることも段々やらなくなっていきましたし…それにねえ、なんか不気味で、あそこ。だから何となく近寄らなくなっちゃったんですよ」
「物音も聞かなんだか?」
「ええ…」
由杏の言葉に斤も頷く。嵐は顎に指を当ててじっと視線を彷徨わせた。
しばらくの沈黙を、百が破った。
「一体、あの屋敷では何があったんですか?あんな…あんなの、フツウじゃない」
そして先ほど見た光景を思い出したように表情を曇らせる。部屋中の視線が一斉に嵐に注がれる。
嵐はまだ迷うような表情をしていたが、ややあって一つ首を振ると、自分の推理を話し始めた。これはあくまでも自分の推理でしかないが、としっかりと前置きをしていたが。
「つまりだな、簡単に言えば、あの屋敷では何やら物騒な研究が行なわれておった、ということだと思うのだ」
「物騒な研究、というと――」
問いに、嵐は内心答えを迷った。しかし結局は率直に思うことを答えることにした。
「もちろんその研究の詳しい内容までは断言できぬ。しかし一つだけ、確信しておることがある。それはあの屋敷で行なわれておった研究は、“術”の研究であるということ。それも“外法”の術だ」
「げ…外法!?」
嵐が静かに落とした爆弾は、確実に部屋全体を震撼させた。百も、砂漠の薬師も村長も、嵐以外の人間全てが顔を強張らせて血の気を引いた顔を見合わせる。
「そ、それは何故…何故、外法の術だとあなたは確信しているのですか?」
村長が乾いた唇をぎこちなく動かして嵐に尋ねる。嵐は薄暗い室内で燭の灯りに照らされた陰影の深い表情を僅かに顰めながら答える。
「それにはいくつか理由がある」
嵐は薄暗い室内で燭の灯りに照らされた陰影の深い表情を僅かに顰めながら答える。
「まず…室内の様子だ。窓や扉は全て閉ざされ、外光が入らぬようになっておった。どういうわけか外法を行なうときは外光が御法度なのだ。代わりに人工の光を用いる。それにも制約があるということだが、詳しいことまでは知らぬ。
それから部屋の中だが、真中に大きな卓が据えられておった。そして術に関する書物、薬材に関するもの、調薬の道具、そして香。
その状況は、――実はわしは以前似たようなものを見たことがある。そこでは外法士が違法な術を行使しておったのだ。だから、ほぼ断言できる。あの部屋は外法の研究室として使用されておったのだ。
それに決定的に、あの部屋を使用しておった者たちが外法の信奉者であった証拠がある。祭壇だ」
「あ、あの、壁を壊したところにあった…」
百の言葉に嵐が頷いた。
「そうだ。あそこにあったのは外法の祭壇だったのだ。――わしも実物はほとんど見たことがないが、以前読んだ書物に大体のことが書いてあった。
外法を行なう者は日に何度か闇の神に祈りを捧げねばならぬ。そのための祭壇には最低限備えねばならぬ基準がある。まず闇の神の像を真中に。その左右に燭台を三対――もっともこの数は諸説あるようだが――そして神への供物を捧げる台。香油を入れる器が一対。そして香台だ。
彼らは燭の灯りと香を焚くことだけは欠かさぬのだそうだ。中でも香は一番重要なもので、調合にも厳密な決まりがあるそうだ。
それで、その香がこの場合は重要なのだが―」
「香…もしかして……!?」
薬師がはっとしたように声を上げた。嵐が頷く。
「そうだ。外法の神に捧げる香には、一種の麻薬作用があるのだ。単純に言えば恍惚状態にする作用があると言われておる。
ここからは完全に推測でしかないのだが、彼らの行なっておった研究は、――いや、外法の術は失敗したのであろう。その結果があの部屋の惨状だ。あの血痕から見ても人命も失われたに違いない。その為にあの部屋は閉めるしかなくなってしまった。しかしあそこを完全に片付けることもできなかったのであろうな。――或いは後日再び術を再開する目的であったのかもしれぬが――ともかく、あの部屋は閉ざされた。
その際、外法が行なわれておったということをなるべく公にしたくなかったのであろう、明らかな外法の証拠である祭壇の部分は、隠された。後で改めて調べればはっきりするが、あの祭壇を隠しておった部分だけは、壁に血痕がない。惨劇の後であの壁が造られたという紛れもない証拠だ。
幸い、中で行われておったことも、あそこで何らかの惨劇があったことも、誰にも知られておらぬ。屋敷を閉ざして姿をくらませれば証拠などありはせぬし、怪しむ者もおらぬ。――現に、今まで誰もあの屋敷を怪しむ者はおらんかった。幸い、この辺りは乾燥した土地柄であったゆえ、中に残されたものが腐敗しきってしまう、ということもなく、流された血もほぼ乾燥してしまったのだろう。いくらか腐敗臭はあったが、状況からすればはるかにましな方であった。
しかし研究を止め、屋敷を閉ざしたといっても完全に密封されておったわけではない。それにこの辺りは乾燥した土地柄だ。部屋の中に残された薬材や香の何種類かは乾燥し、空気中に成分を放出した。それが屋敷の外にまで漏れ出してしまい、風に乗って麓まで運ばれてしまった――と、そういうことだ」
「しかしなぜユアンばかりが被害を受けたのでしょうな?」
「それは風の流れる先が不運にも由杏殿のお住まいの方であったということだ。
大体風の向きというのは年中決まっておる。――沙漠の中まで入れば違うという話だが――大体、風というものは西から東へ流れる。特にここのように高い山がある場所では南北からの気流が山に遮られ、東へ方向を変える。
由杏殿のお住まいは正確にはこの村の南というよりは、南東にある。
ちょうどこの黄瀬の辺りで沙漠の南の山脈――碧透山脈は切れて川へと下る。その東側斜面に、ちょうど件の屋敷と由杏殿のお住まいがあるのだ。そしてその先はまっすぐ川に続いておる。つまり、位置的に見て、屋敷から毒物を含んで山を吹き下りる風は黄瀬にほとんど流れ込まぬのだ。流れ込んだとしてもほんの微量。それくらいでは発症せぬし、他の物質に紛れて中和されたということもあったかもしれぬ。川に流れ込んだとしてもここより下流にしか被害は及ばぬ。それ以前にやはりそのくらいでは発病には至らぬのであろう。――完全に無毒化されておるかどうかは分からぬが。
それに由杏殿のお住まいの辺りはちょうど空気が溜まりやすい地形なのだ。それが由杏殿だけが発症した理由であろうとわしは考える」
その後、二、三の話し合いが行なわれたが、結局それ以上のことは後日にでも沙南の役人に報告して捜査してもらうのがよいという結論になった。
それから2日後、ようやく水量の落ち着いた川を村長の使いが沙南へと渡った。使いが戻るのは早くて5日後であろうということで、少なくとも嵐が黄瀬を旅立つのは早くて一週間後ということになった。沙南の役人に改めて説明をする人間が必要であったからで、それに最も適しているのは嵐であると村長以下全員の意見が一致したのである。そう言われては、さすがの嵐も逃げることはできなかった。
「それにしても嵐さんって不思議な人だねえ」
由杏が糸を繰る手を休めながら言った。
「偉い人だろ?嵐さんって」
百が仕事道具の手入れをする手を止めて母親を振り返る。その表情はまるで我がことのように誇らしげである。
「ああ、偉い人だね」
由杏がそんな息子をおかしがるような目で眺めて、頷く。
由杏は現在、百の家に移っていた。
例の屋敷は嵐が封印したが、何と言っても見えない未知の毒物である。とにかくこの場所は離れた方がいいということになったのである。百の家で、薬師の治療を受けながら静養するようになって数日。由杏の症状は少しずつ改善していた。
現在では寝床から起きることもできるようになり、激しく体を動かすようなことを控えていれば、仕事もできるようになっていた。
「オレさ、あんな偉い人初めて見たよ!何でも知ってるし、すげえ何でも分かっちゃうんだよな。ソンケーしちまうよ。あんな人を…なんだっけ?『ケンジャ』…って言うのかな?」
「薬師さまが言っていたのかい?」
由杏の言葉に百は照れくさそうに頷いた。
「薬師さまもさ、すっげー偉い人だと思うんだけど、何ていうのかなあ…何か、ちょっと違った感じで――すごい偉い人だって思う」
「ほんとにねえ。まだあんなにお若いのに」
「…ほんとはトシだって言ってたけどさ」
「でもまだお若いよ」
由杏がおかしそうに瞳を細めた。
確かに嵐の年齢は百よりも随分上であったが由杏から見ればまだまだ若者である。それなのにその年齢であんなにものが分かるなんて、ほとんど不思議としか言いようがない、とまで由杏は思うのである。一体どのような経験を積めばあんな目ができるのだろう、そう由杏は思う。
「…ねえ、ハクや」
由杏の口調がふと変わった。百は不思議そうな表情で振り向く。そして由杏の表情の真面目さに戸惑った。
「ねえ、ハク。おまえ、もう15歳になるのね」
唐突な話題の転換に、百は更に戸惑いつつ、頷いた。
「おまえももう充分大人なのよね。だからね、ハク。やりたいことがあるのなら、やっていいのよ。行きたい所があるのなら、行ってもいいのよ――わたしのことは構わずに」
由杏の言葉に百は思わず手のものを取り落とした。
「え、それは…そんなことは、オレ……」
「おまえは優しい子ね、ハク。兄さんたちが出て行ってしまった後も、おまえはこの村に残っていた。妹たちの世話もよくやってくれた。あの子達がお嫁に行ってしまった後でも、おまえはここに残っている。わたしの仕事も随分手伝ってくれた。本当におまえはいい子で、わたしはおまえのことは何にも心配することがなかったよ。これまでずっと」
由杏は優しい声で語り続ける。百は知らず姿勢を正して母親と正対していた。
「兄さんたちは貧乏がいやだって、とっととこの村を出て行ってしまった。今のおまえよりももう少し幼かったかねえ。ちょうど吐蕃から働き手を探しに来ていて、それについて行ってしまった」
「覚えてるよ。それに――あの時、本当は、兄貴たちはオレも誘ったんだ」
「ああ、知っているよ。でもおまえは残ったね」
由杏が頷くのに、百は驚いた。母親がそのことを知っているとは思わなかったからだ。
「わたしはあの時胸が張り裂けそうだったよ。何と言ってもあの子たちはまだ幼かった。体は今のお前よりも大きかったけど、無謀で、きかん気で…でも、いつかは子どもはいなくなってしまうもんだからね。それが少し早まっただけだと思って、我慢した。確かに町に出た方が仕事もたくさんあるからね。それであの子たちが立派になれるんなら、それでいいと思った。
おまえの三人の兄さん姉さんもその後次々と村を出て行った。あの子たちはまだいいね。どこにいるか分かっているもの。何をしているのかも時には便りをくれる。でもね、心配なんだよ。やっぱり。今じゃ立派な商人さまに山師、おかみさん。それでもかあちゃんにとってみればね、あの子たちは子どもなんだよ。いつでも心配なんだ」
由杏の言葉を聞きながら、百は嵐の言葉を思い出していた。
『お母上はのう、ずっとずっと、母親なのだよ』
ああ、そうか。こういうことなのかなあ、そう、百は思っていた。
「だからね、あんたがこの村でずっと仕事をしてるの、本当はすごく嬉しいんだよ。時々は顔を見せに来てくれるし、ご飯だって食べてくれるねえ。――それはあの子たちにはしてあげられないから。その分も含めて、おまえが来てくれるのが本当にわたしは嬉しいんだよ。
でもね、だからこそ」
そこで由杏は口を閉じた。一つ、二つ、息を吸う。
「だからこそ、ね。おまえは我慢をすることは、もうないんだよ」
思い切ったように言って、そして由杏は百に穏やかな目で笑いかける。
「わたしはおまえの優しいところに甘えちゃってたね」
「そんなことは…そんなことはないよ、かあちゃん」
百が戸惑ったように口篭もる。しかし由杏は百が『お袋』ではなく『かあちゃん』と呼んだことに気が付き、ほんのりと心が温かくなるのを感じた。
「ハク。おまえの名前、おとうさんが付けてくれたのよ…覚えている?」
「へ?」
突然話題が変わったことに百は間抜けな声で答えてしまう。一体今日のかあちゃんはどうしたのだろう、と頭の中は疑問符だらけである。
「おとうさんは賢い人だったから。文字もたくさん知っていたし、勘定もできた。かあちゃんもよくは知らないけど、昔は商人をやっていて、遠い国で修行を積んだ人だったんだよ」
「うん、ちょっとは覚えてる。よくいろんな国のお話してくれた。――オレ、それが一番好きだった。山ん中で飯食いながら色んなこと話してくれた。――ほとんど覚えてねえけど」
「そうだね。かあちゃんもそれが大好きだった。かあちゃんはこの村で生まれてほとんど外に出たことなんてないから、だからよけいにあの人の教えてくれる色んなことが本当に珍しくて、楽しかった。かあちゃんの名前、付けてくれたのもお父さんだったんだよ」
「え?かあちゃんの?」
「ああ。文字を教えてくれた。
それまで「ユアン」って呼ばれてたけど、それがどんな意味なんだか、どういう字を書くんだか、知らなかったし意味があるなんてのも知らなかった。
でもおとうさんがね、文字をくれたんだ。「由杏」花の名前をくれたんだ。春に咲くかわいいお花だって。いつか見せてあげるよって。――結局、それは叶えてくれなかったけどね。
でもね、すごくうれしかった。わたしの名前に意味があるってことも、それがかわいいお花だっていうのも。
ハク、おまえの名前は「百」。たくさん子どもが生まれたよ。でもおまえの一つ上の子どもは産まれる前に死んじまった。かあちゃんはすごく悲しかったよ。
でもその次の年に産まれたのがおまえ。ほんとうに嬉しかった。これがまた、おとうさんに似ておっきな元気な子で。涙が出るほど嬉しかった。そしたらとうさんが、
『この子どもはほんとうに宝物だね』って言って。それを一生忘れないように、『百』という名前をあげようって。
「百」っていう文字にはね、数ですごくたくさんのことって意味もあるから、それで“数え切れないくらいたくさんある大切なもの”っていう意味があるんだって。将来はものをたくさん持てる人に、お金持ちになってもらいたいって、そんな願いもあるって、おとうさん言って笑っていたよ」
由杏が懐かしむように笑う。百はそれを見ながら、目が熱くなるのを感じて、必死にこらえていた。
『おまえなんか山ほどいるきょうだいの一人じゃないか』
昔けんか相手にそんなことを言われて、悔しくて、滅茶苦茶に相手を殴ってしまった。そんな記憶がぽっと嵐の心に浮かんだ。その後のことはよく覚えていないけれど、怪我をして泣いてしまった相手の親に母親がぺこぺこ謝って、その後でこっぴどく叱られたような気がする。色々な意味で思い出したくない記憶であった。
しかし今は少しの気恥ずかしさを感じるだけで、あの頃のように深刻な憤りは感じない。
『「百」はたくさんの中の一つじゃなくて、「すごく大切なもの」』
それを母親の口から聞いて初めて、百は「百」という自分の名前に誇りを持てたような気がしていた。
『おぬしは、確かにお母上の、そしてお父上の愛情をいっぱいに受けておるのだよ、百。今はまだあまり実感できてはおらぬかも知れぬがな』
(嵐さんが言っていたことは本当だったんだ――)
「だからね、ハク」
由杏がその表情に笑みをたたえたまま、言う。
「だから百。あなたはどこにいてもかあちゃんの大切な大切な子どもなの。どこにいたってどんなにたくさんの人の中にいたって、おまえはかあちゃんにとっては特別な宝物。だから――だから、おまえはおまえの信じる道を進んで行っていいよ。側にいなくたっておまえがかあちゃんの大事な子どもであるということは絶対に変わらないんだから。かあちゃんのためにおまえのやりたいことができないのなら、その方がかあちゃんにとっては悲しいことなんだよ」
「かあちゃん…」
百がじっと由杏の目を見返す。由杏は息子の視線を真正面から受け止めて、頷く。
「おまえ、やりたいことが――できたんだろう?」
黄瀬に足止めされた嵐は、薬師を手伝って由杏の看護をしていた。ついでに薬師から薬の作り方なども習っている。ぶつぶつ言いながらもなんだかんだと状況になじんでいる嵐であった。
「ああもう、せっかく雨も上がったのにのう――」
まだ雲の少し残る空を見上げながら、飽きもせず嵐がぼやいた。
「仕方ありませんよ、事件の捜査に協力するのは皇国民の務めですからね」
「わしは皇国民ですらないっつーに…」
薬師がしつこくぶちぶちとぼやく嵐に、苦笑する。
「でもあなたも気になりませんか?ここで何があったのか。いやそれだけでなく――この沙漠で、吐蕃皇国で何が起こりつつあるのか」
薬師がさらりと告げた言葉に、嵐はちろりと視線をやることで応える。
「――気付いているでしょう?ここのところの沙漠の異常を。いや、吐蕃皇国全体で異変が起きつつあることを。
乾いた土地では洪水が起こり、水の豊かな土地で大地がひび割れる。あるところでは蝗が農作物を喰い尽くし、はたまた別の土地では時ならぬ雪で農作物が凍え腐ってしまったとか。
――そう、沙漠の街では蝙蝠が大発生して人間を襲う、なんてこともありましたね」
「……ふむ。そんな話も聞いたのう」
「隠す必要はありませんよ。砂漠の民の情報網は世界で一番迅速で正確です」
あくまでとぼけようとする嵐に、薬師はにっこり笑って釘を刺した。
「砂漠の民、か。噂通り――いや、噂以上のもののようだのう」
嵐はため息を吐いた。
「あの事件のとき、禾峯露の街にも何人かの砂漠の民がいたのですよ。彼らが言っていました。広範な知識と知恵のある人物が闇の生物の弱点を見抜き、事件を解決してくれたと」
「――あの事件を解決したのは女戦士のはずだが」
「ええ、『沙漠の戦士』のことですね。彼女も砂漠の民の間では有名ですからね。あの後、更に名声が高まって仕事の依頼が引きも切らないそうですよ」
薬師がおかしそうに笑う。反対に嵐はがっくりと肩を落とした。
「でもね、お気を付けください、嵐さん」
薬師の言葉に真面目な調子が戻ったのを感じて、嵐が視線を上げる。
「砂漠の民には様々な事情や背景を背負った者が集まっておりますから、大抵の世の中のことは知ることができます。無法者も犯罪者もおりますから裏世界の知識や情報も入ってきます。
それでもさすがに外法に詳しい者はおりません。
――分かりますか?この吐蕃で最も不法無法、限りなく闇に近い集団である「砂漠の民」ですら、「外法」はタブーなのです。学ぶことも許されません。――もっとも、学ぼうとしてもその術がないのですが。外法に関わる書物や知識、道具は砂漠の民ですら入手困難です。それほど外法とは閉ざされた、忌むべき知識なのです。
それがなぜ今、こんなにも活動が目立つようになってきたのでしょうかね?」
薬師の言葉に嵐が表情を曇らせる。
「…やはり、そうか?おぬしもそう思うか?」
「外法のことですか?」
頷く嵐に、薬師も頷き返す。
「少なくともこの沙漠周縁で知る限り二件、外法の関わった事件が起きております。これは相当異常なことです。何を狙っているのか分からないということだけでも充分すぎるほど不気味です。何かあると勘繰るのが自然でしょう」
嵐は薬師の言葉に頷きつつ黒髪の女戦士のことを思い出していた。そしてふと薬師に問いかける。
「おぬし、西方神話のことを知っておるか?」
薬師は唐突な問いにきょとんと目を見開く。
「西方神話、ですか?…ええと、確か沙漠の西の国で伝えられていた神話のことでしたか?」
「そうだ、多分それだ」
「いやあ、ちょっとわからないですねえ…そういう話があるのは確かに知っていますし、少しは聞いたことがありますよ。西の方の村に行ったこともありますし、そういうところでは呪術師から薬のことを教わりますからね。呪術師というのはそういう話にも通じているし製薬法を神話に求めることもありますから。でもそういうのはほんとうに断片ばかりですから…例えば皮膚病を治すための薬には川辺の葦の穂を使うとか。でもそれがどこのどういう話なのか、そういうことは彼らも知らないことが多いですしね…」
「そう、か……いや、すまぬ。突然妙なことを訊いてしまって」
「いえ、私こそお役に立てませんで。でもそれが外法と何か関わりがあるのですか?」
薬師の問いに嵐は分からぬ、と頭を振った。しかしその胸中に一つ刺のように気持ちの悪さが宿ったのを感じていた。