4.山上屋敷
(この間もわしは山を登っておったような気がする…)
大きく息を乱しながら獣道を多少ましにした感じの山道を登りながら、嵐は大きくため息をついた。
「嵐さーん、だいじょーぶですかあ?」
1メートルほど上では百が元気に手を振りながら嵐を呼ぶ。彼の方はと言えば嵐と同じだけ歩いているはずなのにまったくと言ってよいほど息も乱さず、足取りも軽やかである。
(――若者はええのう)
微妙にずれたことを考えてしまっている辺り、嵐の身体の疲労は相当のものであるようである。
そもそも何故現在彼らが小止みになったとはいえ雨の降り続く中、山登りなどしているのかというと、元は嵐が言い出したことなのであった。
『山のお屋敷』はどこにあるのか、と嵐が尋ねた。尋ねられた百は何故そんなものを気にするのかと不思議がりながらも答えてくれた。
「えーと、この家の前の道をずうっと登ってくとあるんだけど…前は道ももっときちんとしてたけど、もうほとんど使う人がないから埋もれちゃってるし。道を踏み外すとへたすると崖になってるから下の川まで一直線に落っこちちゃうし。道が埋もれちゃってるから間違った方に行っちゃうと多分迷いますよ。でもお屋敷の辺りはそこそこ拓けてるし、木も草も適当に管理してあるからそこまで行ければ多分お屋敷はすぐ分かります」
「…迷うような道なのか?」
尋ねる嵐に百は少し考えて頭を振った。
「とりあえず上の方へ歩いて行けばここからはほぼまっすぐ上なんで、そう迷うこともないと思うっすよ。森で感覚さえなくしちゃわなければね」
「時間は?」
「ん〜〜…それほどでも」
ぼりぼりと頭を掻きながら百が答えると、嵐はふむ、と何やら考えるようなそぶりをした。
「…これから行くんですか?」
百が尋ねると、嵐は顔を上げた。
「何で?もうあそこは何年も人が住んでないですよ」
百のもっともな疑問に嵐は困ったように首筋に手をやった。
「まあ、確証はないのだが」
そんな嵐の表情にじっと目をやってから、百はぐっと顔を近づけた。
「オレもついて行きます!」
「…へ?」
嵐はアップになる百の顔の圧迫から逃れるように後じさりしながら目を丸くした。
「かあちゃんの病気の理由があるって考えてんでしょ!?だったらオレも行きます!」
「…おいおい、何も今すぐ行くとは……」
「行くんでしょ?」
嵐が抗弁しようとするのを遮って百が続ける。
「それに迷っちゃったら困るでしょ?まだ日暮れには遠いけど雨降りだから暗くなるのも早いし。オレにとっちゃこの山なんて目つぶっても歩けるし。絶対オレ連れて行った方がお得ですよ!この辺じゃあんまり出ないけど化け物が出てもオレが追っ払ってやりますし!……オレ、役に立ちますよ!」
嵐に何か口を挟ませる暇も与えず、百はまくしたてた。
何故か、百は必死であった。理由はなかったが、百は嵐が今すぐにでもここを出て山の屋敷へ向かう、そう確信していた。そして嵐がそこに母親の病気の理由があると考えていると、確信していた。
百自身にも何故自分がそう思うのか、不思議であった。そもそも彼は勘の良い方ではない。賭け事をしても勝ったためしがない。他人の感情にも鈍感だとよく言われる。それで今まで深刻に誰かを傷付けたことはないらしいのは幸いである。それどころか早とちりの癖があって失敗したり早合点で恥ずかしい思いをしたことなど数え切れないほどある。山での仕事には勘を働かせて危険を避けねばいけない、と両親からは教えられたが、これは教えられて身に付くものではなかった。彼が今まで山仕事を続けてきて大怪我をしたことがないのは、ひとえに彼の鍛え上げられた運動神経と頑丈な肉体のお陰である。
しかし彼は今、確信していた。それもいつもの早合点であったかもしれない。しかし百は必死だった。そんな彼の表情を、嵐は困ったような顔で見つめていたが、やがてふうっと息を吐いた。
「…案内してくれるか?」
その嵐の言葉に百がぱあっと表情を輝かせた。
「もちろんです!」
(…まあ、よいか)
先ほどの深刻な、追い詰められた子供のような表情から一転、無邪気に嬉しそうな表情を見せる百に、嵐は内心苦笑する。
この年齢でこんなに純粋な心の持ち主は珍しい。それはある種、感歎すらしてしまうほど。
(それともわしがひねくれすぎなのか?)
思わず百の年齢の頃の自分に考えがいきそうになって、はたと止める。それは意味のないことであったからである。
ともかく行くと決まったからには早いうちがいい。そんなわけで百の母親の看病をしている薬師とそれを手伝っている斤には何も告げず、彼らは山上の屋敷へと出かけたのである。それが約一時間ほど前のこと。
「おぬし…『それほどでもない』と言っておらんかったか?」
ぜえぜえと息を切らせた嵐が百に恨みがましい視線を向ける。対する百はまったく平静な表情できょとんとした目を嵐に返す。
「え?まだたった一時間ほど登ったくらいですよ?道だってそんなにきつくないでしょ?」
(いや、わしにとっては充分きつい)
そう、喉元まで出かかったが、嵐は何とかそれを押し込めて大きく深呼吸をした。
それにしても、と嵐は思う。
(それにしてもわしは山と縁が切れんようだのう。わざわざ山岳ルートを外して砂漠の道を選んだというに)
旅を始めるとき、嵐にはいくつかの選択肢があった。
同行者を求めることも可能であったし、武器や術具をもっとたくさん持ってくることだってできたのだ。そもそももっと楽に、一気に皇都へ送ってもらうことだって可能だったのだ。嵐さえ望むなら、全ての希望は叶えられたであろう。それだけのものを、“そこ”は有していた。旅立ちにあたっての準備には何も遠慮することはなかった。
しかし嵐が“そこ”から持ち出したものは結局、旅装束と一般の旅行者が通常用意するのとまったく変わらぬ荷物一式、皇都への旅費として通常必要と考えられるだけの金、そして術具ともなる杖一本。それだけである。
選んだ道も沙漠の道。北の「草原の道」、南の「海の道」と並ぶ三大通商路の一つであり、最も苛酷な道と呼ばれる道である。
当然他のルートにも危険は多い。「草原の道」は北方騎馬民族の勢力範囲を何度も突っ切ったり、その隙間を抜けたりする。しかもそれは時々刻々、各勢力の力加減で変わるので、昨日安全な道が今日は戦闘の真っ只中、ということもよくある話であった。それだけならまだしも、盗賊集団に襲撃を受けることもよくある話で、大商隊が襲われて積荷が奪われ、人命が喪われるなど日常茶飯事といってもよいくらいなのである。
しかし真冬を除けば道程にも厳しいものはなく、おおむね起伏の乏しい地域であるため、難しい旅にはならない。そして三つのルートの中で一番東西の距離が短く、吐蕃首都に直通している。それが「草原の道」であった。
「海の道」は大陸沿いに点々と寄港しながら商売を繰り返し、最終的に吐蕃南部に辿り着く道である。南の商業都市カジャルに直通しているのはこの道だけで、当然収益も多い。また、南方にはまだ未開の地域が多く、未知の産物も多い。ゆえに一攫千金を狙う者や、手っ取り早く名のある商人として世に認められたい商人の卵にはこの道を選び、冒険をする者が少なくない。
しかし一方、陸に盗賊がいるように海には海賊がいる。また海で悪天候に出会ってしまうと、生存率は陸上よりも低くなる。
そしてまた、吐蕃に着いてからも皇都へ行くためにはほぼ吐蕃皇国を南北に縦断せねばならない。
ひとことで言ってしまえばハイリスク、ハイリターンのルートなのである。
しかしそれらを上回って「沙漠の道」の旅は危険であると言われる。
そもそも沙漠地帯自体が人間を拒絶する。
乾き切った大地。大地にへばりつく数少なく緑の少ない植物。天空には風塵が舞い上がり太陽の姿を乾いた色に染め変え、妙に色味を無くした、その光景。
初めてこの地のことを文献に記した吐蕃の文人はこの地を『死の世界』と呼び、詩人は世の最果てをこの地になぞらえた。
確かにこの地域にも村や町があり、人が住んでいる。しかしそれは沙漠を囲む山地の麓に、という方が正確で、山の緑が途切れた先にまで、開発の手は入っていなかった。
この沙漠地帯の「中」にあえて住もうとするのは、砂漠の民以外にはいなかった。
何故よりによって「砂漠の道」を選んだのか、そう尋ねられた嵐は笑って答えた。
「わしは世間知らずだからのう。吐蕃のことを知らずにこの使命をうまく果たせるとは思えぬ。わしは旅をしながら吐蕃の見聞を深めたいのだよ」
そう言ってかかと笑ってみせると、友人は疑わしそうな目付きを彼に向けた。
「嘘でしょう。君はめんどくさがりだ。それに君ほど知識のある奴はいない。君もそれを自覚している。それなのになんでわざわざ一番苦労する方法を選ぶの?」
鋭い視線で遠慮なくずけずけとものを言う友人に、嵐は笑顔を崩さずに答えた。
「おぬしはわしを買いかぶりすぎだ。それに例えおぬしの言うわしが正しかったとしても、矛盾はしておらんよ。わしは確かに知識を持っておる。しかし人の世とは疾く変わるものだ。わしはそれを修正したい。その上でわしの知識をより深めたい。どうだ?そのためには沙漠の道とはあつらえ向きではないか?」
嵐の言葉に、友人は視線はそのままに、ふうっとため息を吐いた。
「…まったく。言い出したらきかないんだから」
それなのに、と嵐は思う。
(何故こうも山でばかり事件が起こる?)
前回、禾峯露で起こった事件は、正確には被害があったのは砂漠の村で、その犯人が山中に拠点を持っていたのである。今回も確かに彼は山に登る羽目になっているが、それとてまだ正しいかどうか、確証は無い。それにこの沙漠の道が山脈に沿って造られた村や町を繋いでいる以上、山と縁が無いわけがない。「山でばかり」と嘆くのは、単に体力のない嵐の八つ当たりである。
(――わしはよくよく山に縁があるとみえる)
そんなことを考えて、ふと嵐は我に返った。
――縁、だなどと。
(そんなもの、ありえない)
嵐の口許を皮肉げな微笑が彩った。
――縁だとか運命だとか天命だとか。そんな上等な、耳ざわりのいい美辞麗句は。
人間を無心に操るための方便でしかない。
小止みになったとはいえまだ雨は断続的に降り続いている。樹間の道になって生い茂った葉に雨が遮られ、大分歩きやすくなったとはいえ、時々まとめて雨滴が落ちてくるのに直撃したりして、状況的にはあまり変わっていないかもしれない。第一この数日間の雨で下草が元気に生長してしまい、獣道の両側から重くのしかかって道を覆ってしまっている。百が嵐の前を歩いて道を開いてくれているが、既に嵐は全身泥と雨と草の切れ端でどろどろになっていた。
泥に汚れるのは別に原因もあった。
「う……おっとと!!」
ずる、と足を滑らせた嵐を、前を歩く百が腕を掴んで寸前で救う。
「む、かたじけない」
体勢を立て直した嵐がいささか照れて礼を言う。
「構いませんけど…嵐さん、ほんとにニブいっすね」
あっけらかんと言う百に悪意はない。彼はただ正直なだけなのである。しかしだからといってその言葉に嵐が反応しないわけもなく。しかし相手に悪意がない以上、怒ることもできず。
結果、嵐はぶつぶつ言いながら再び元気よく歩き出した百の後を、山道を登り始めるのであった。
実際、足下は悪いのである。嵐の腰辺りまで伸びた草によって足下は見えず、折れた草を踏まないようにすることは難しい。また、雨によって地面はぬかるんでいる。泥と濡れた草が重なり合うと、更に滑りやすくなり、それに気を遣うと今度は木の根につまずきそうになる。
百は慣れているからひょいひょいと登っていくが、嵐はそうはいかない。おまけに基礎体力も違う。
「おーい、嵐さーん、がんばってくださーい!」
無邪気に呼ばわる百に、嵐はぜえぜえと荒い息をつきながら複雑な心境で肩を竦めた。
「ときに、百よ」
「はい?」
「おぬし、何故そのようにお母上を嫌うのだ?」
無邪気に振り返った百の表情が、一瞬の内に強張る。
「何を言うんですか!」
反論の言葉は一瞬間を置いて発せられる。
「オレはお袋を嫌ってなんかいませんよ!」
真剣な表情で怒鳴る百に、嵐は平静な表情で応じる。
「そうかのう?確かにおぬしはお母上に孝を尽くしておる。他の兄弟が家を出てしまった後も、一人側に残って、な」
「だったら……!!」
「だのに、何故、おぬしはそのようにお母上を避けておるのだ?」
「避けてなんかない!」
百の反論の言葉は激しかった。その表情も厳しかった。しかしその視線だけが妙に落ち着きがなかった。
「いや、おぬしはお母上のことを避けておるよ」
ゆっくりと、百の目を覗き込むようにして、嵐が更に言う。そんな嵐の視線にぐっと喉を詰まらせてから、それでも百は頭を振った。
「そりゃ…!確かにオレはお袋の家を出てるけど!でもそれはその方がオレの仕事に都合がいいからだ!その方が仕事がやりやすいし!……それはオレだけじゃなくてお袋もそうなんだ!」
「そうかのう?お母上は寂しがっておられるぞ?」
「んなわけないだろう!?オレはもう子供じゃねえんだ!兄貴も姉貴もオレぐらいのときにはもう家を出てた!お袋だってオレがいない方が仕事がやりやすいじゃないか!」
百の語調は更に激しくなっていく。浅黒く焼けた頬にも朱が走っている。
しかし対する嵐は、――実のところ、冷静に見ればすぐにわかることなのだが――まったく平静なままであった。皮肉げな台詞も、少しものの見える人間であればただ煽るものであることが分かったであろう――しかし頭に血を上せてしまっている百はそれに気付けなかった。いや、もちろん、平素であれば気付いたかといえば、そうでもないであろうが。
「――おぬしには分からぬかも知れぬがお母上は寂しがっておられるのだよ」
言いながら、嵐は先ほど見た百の母親の家を思い出していた。
戸口を入ってすぐが土間で、そこは作業場と厨房が兼ねられていた。竈には大きな鍋がかけられていた。蓋がしてあったので中身は分からなかったが、落とし込み式の蓋が鍋の上の方にあったところをみても、煮込み系の料理が鍋いっぱい作られていたことが分かる。水瓶の蓋の上には泥の落とされた野菜が載せられていた。山芋と思われる細長い根菜や青々とした山菜が一山。一人分の量としては明らかに多い。
また、壁には乾物が何束も吊るされていた。これから冬になるという時期であれば冬越しの蓄えかと思うが、今は初夏である。
土間から上がったところが囲炉裏の切られた板間であり、その奥にいくつか部屋のあることが察せられた。
そこはこざっぱりと――病人ゆえに多少乱雑にはなっていたが――片付けられていた。とても一人暮らしの家とは思えないほどに。
そして部屋の隅、家主の席の側には茶器が一揃い、据えられていた。おそらく、いつ訪問する者があってもすぐに応対できるよう、準備がされているのである。それは誰か、――もちろん他人という可能性もある。例えば彼女を心配して薬師を連れて来た斤のように。しかし嵐はその茶器の中に、二つの非常に使い込まれた器があることに、気付いていた。使い込まれた、古い器である。――おそらく十年単位で。
「お母上はいつでもおぬしを待っておるのだ。おぬしがいつ訪ねて来てもすぐに暖かく迎えることができるようにと準備をしてな。――いつ来るか分からぬおぬしを、な」
嵐が皮肉っぽく笑って言う。
「――そんなの、オレが頼んだんじゃねえもん」
百がそっぽを向いて言う。
「オレだって仕事がある。別にお袋んとこにいくのがいやなんて思っちゃいねえ。――ただ、オレだって忙しいんだ。まだまだオレは駆け出しで、今の内にがんばっとかなきゃあ、客をつかめねえ。今はもっと働いて、客の信用と、腕を鍛えなきゃいけないんだ。そしたら――お袋んとこなんてなかなか行けねえよ。オレは生活しなきゃいけねえんだ」
「それならお母上と一緒に住んでおってもよいようにも思うがな?別に独り立ちとは家族と離れて暮らすということではあるまい?苦しいときに支えあうのが家族というものではないか?」
「そんな甘っちょろいこと言ってらんねえよ!それに……!!!」
激した口調で言い募り、更にするり、と言葉がこぼれそうになり、慌てたように百が口を閉ざした。しかし嵐はそれを見逃さなかった。
「それに…何だ?」
静かな嵐の追及の言葉に、百が観念したように俯き、呟くように言う。
「それに……お袋はオレを待ってなんかいない。お袋が待ってんのはオレじゃねえ。出てった兄貴たちだ。オレがお袋を嫌ってんじゃない」
そして更に低い声で、搾り出すように続ける。
「お袋は…オレのことなんかどうでもいいんだ」
沈黙が下りた。百は振り返らず、草の海を掻き分けてずんずんと山道を登り、嵐はその後に続いて、ややなだらかになった道を登った。
「お……!!」
しばらく登ったところでふと視界が明るくなったのを感じて目を上げた嵐が声を上げる。
「あれに見えるのがそうか?」
目の前の背中に尋ねると、半分だけ顔をこちらに向けた百が頷いた。
「そうです。あれがお屋敷です」
その表情は少しだけ照れたようであったが、先ほどの苦しげに歪んだものではなかった。
それに頷いた嵐は、再び目を上げて木々の切れた先に見える広場を見た。
低い石組みの上に板を立てて並べた塀がぐるりを囲み、その向こうに黒ずんだ板状の瓦葺の屋根が見えている。
人が住まなくなった今でも定期的に手を入れられているためか、さほど荒廃した雰囲気はないが、やはり人の住まない家は荒れる、との理通り、やや崩れた荒んだ印象を纏う建物であった。
「…何とも不気味だのう」
思わず嵐は率直に呟いてしまっていた。
そこは山の中腹に自然に開けた棚地のようであった。嵐たちが登ってきた道から屋敷の向こうに見える更に登る斜面まで、不自然に切り拓かれた様子がないところから、嵐はそう判断した。
棚地はちょっとした競技を行なうことができるほどの広さがあり、その中央に板塀で囲まれた屋敷があった。その周囲は今では下草が繁茂し荒れた印象を与えるが、ここに住人のいた当時はきちんと手入れがされていたのであろうと思わせた。門扉へと続く道に石が敷き詰められている辺りにその名残が見られた。
屋敷の敷地内がどのようになっているのか、嵐には見えなかった。ただ板塀の上から覗く屋敷の二階部分と幾本か植えられた樹木の様子から、これを建てた人物、或いは建てさせた人物が吐蕃の人間であったと、嵐には推測できた。屋根を瓦で葺く建築様式は吐蕃の有力者、つまり王侯貴族や富裕な商人に特有のものであったし、庭に桃の木、或いは柳の木を植える造園方法も吐蕃の特徴を示していた。瓦の色が赤っぽいのはこの付近の砂を使って焼かれたものだからであろう。ちなみに瑠璃色の瓦が使えるのは吐蕃皇族のみ、黒いものは吐蕃の貴族のもの、丹色が宗教関係の施設に使われるものであった。瓦は有力者のみが使うことを許されたものであり、また裕福な者でなくては購入することもできないほど高価なものであった。当然一般庶民の手の届くものではなく、彼らの家の屋根はもっぱら草や木で葺かれていた。
「この辺はお袋や斤さんたち山師が時々手入れをしてるんだ。と言っても草を刈ったり庭の木を切ったりする程度だけど」
「それは誰ぞの依頼なのか?」
膝辺りまで伸びた草を掻き分けながら進む百の言葉に嵐が問いかける。
「うん、確か……ここに前住んでた人がうちの村の長に頼んでったらしいんだ。そんときにいくらかお金も置いてったらしいよ。でももう随分前だろう?そんなお金じゃ足りなくって自然とここにかける手間暇減らしちゃったらしいんだ。だから結構荒れてるだろ」
確かにうっそうと茂った草木の中にたたずむ黒ずんだ屋敷は、廃屋寸前の気配を漂わせていた。
門前に佇んで、嵐は周囲を見渡した。そして何かを確認したように、軽く頷いた。
「嵐さん?入りますか?」
百が振り返る。
「おお、入ることができるのか?」
「はい、門は開いてますから…」
言いながら百が門扉を押す。蝶番がきゅうきゅうと耳障りな音を上げ、雑草を掻き分けながら門扉が開いた。
「…昔はちゃんとここも閂がかけてあったらしいんですよ。でもとっくに腐っちゃったらしいです。まあ、オレらにとっちゃあその方が色々と都合がいいんでそのまんまにしてるんだけどね」
言いながら庭に入る百の後に嵐も続いた。
塀の中は建物の印象に比べれば、さほど荒れていなかった。ここ数日の雨が雑草に勢いを与えていたが、それでもここに主がいた頃はさぞ風雅な庭であったのだろうと、思わせる名残があった。
嵐は庭内をぐるっと見渡すようにし、微かに首を傾げた。そして何かを探るような視線を屋敷の方に向けた。
屋敷は塀の外から見たときとさほど印象は変わらなかった。ただ思ったよりも小さいような印象を、嵐は受けた。
建物は木造で、一部が二階になっていた。おそらく二階は一部屋分くらいのスペースしかない。その代わりに部屋の窓から外廊下に出られるようになっており、板張りの床にぐるりと木柵が二階部分を囲んでいた。おそらく月見や花見などが催されたのであろう。これも吐蕃の貴族がよく好むものであった。雨に濡れて鈍い黒色をした屋敷は、腐ってこそいなかったが、陰鬱な空気に沈んでいた。
(気味が悪いのう)
嵐は知らず粟立った肌をそっとなでた。
「嵐さん、やっぱ鍵がかかってます。こん中に入るんは駄目みたいです」
がたがたと屋敷の入口の扉を揺らしていた百が肩越しに振り返りつつ言った。
「…しかしここまで来て調べずに帰るわけにはいかぬだろう」
嵐はきょろきょろと屋敷の周囲を見渡した。
「どこぞ開いておる窓はないかのう?それにこのくらいの屋敷ともなれば勝手口もあるだろう」
「あ、じゃあオレ、裏を見て来ます!」
言うが早いか、百が屋敷の裏手へ駆けて行った。その機敏な動きに苦笑しつつ、嵐もどこかに入れるところはないかと板戸を調べ始めた。
嵐が屋敷を四半周した頃、裏手から百が大声で嵐を呼んだ。
「嵐さーん、ありましたあ!一箇所鍵のかかってないとこがありますー!!」
嵐が急いで百のもとに駆けつけると、百はちょうど屋敷の真裏に当たる場所で板戸の一つをごとごとと動かそうとしていた。その戸はどうやら鍵はかかっていないようだが、建てつけが悪くなっているらしく、ごとごとと不器用な音を立てながら少しずつしか開けることができなかった。嵐はその様子を眺めながら、百が戸を壊しはしないかと密かに心配していた。
ようやく20センチほど開いたところで、嵐はふと眉を顰めた。そして慌てて袖口で鼻と口を押さえる。
(この臭いは…)
「待て、百!」
百が驚いたような表情で振り返った。どうかしましたか、と問う前に、嵐が素早く進み出ていた。そして杖を持った左手でそっと百の背中を叩いた。
「後はわしがやる。おぬしは下がっておれ」
「え、でも……」
この戸、結構重いですよ。そう言いかけて、百は言葉を飲み込んだ。そのときの嵐の表情には反論を許さないものがあった。
嵐は戸の前に立ってそっと息を整えると、おもむろに左手の杖を戸に押し当て、そっと目を閉じた。細く長く息を吐き、吐き切ったところで、戸に当てた両手にぐっと力をこめる。後ろで見ていた百は思わず目を瞠った。嵐の左手がぼうっと光ったかと思うと、一瞬にして戸全体が同じ色に光り、まるで抵抗もなくがらりと開いたのである。
「すご……」
(…………!!!)
感歎の言葉を吐こうとして、しかし百は次の瞬間、ひっと喉を鳴らした。数歩後ずさりしたことさえ、まったくの無意識であった。
(…………)
背後で百が言葉を失っていることを意識しながら、嵐もまた言葉を失って室内の様子を眺めていた。
室内は荒れ放題となっていた。荒れていること自体は予想の範囲内であるが、これはそれとは少し違っていた。
戸を開けた先は狭い土間に短く細い廊下となっていて、その奥にやや広めの部屋が広がっているようであった。奥の方までは明かりがないために見通せなかったが、壁の拡がりの様子から、嵐はそう思った。
そしてその土間から部屋に続く短い空間からして既に惨状を呈していた。
かつては白色に美しく塗られていたであろう壁は、壁土に亀裂が走って半分以上剥がれ落ち、土間から廊下まで積もっていた。そしてその上にぶちまけたように走るどす黒い赤茶色の跡。そしてそれは壁も、天井も同様の状況であった。
「うげ…」
嵐の背後で百のくぐもった声が聞こえた。嵐も眉を顰めて袖口で口元を覆っている。
(血と――それも大量の――それから薬草、…いや、薬材の臭い。それと――腐臭?蛋白質の――。焼け焦げの臭いは無し。古い木材の臭いも混ざっておるようだな……)
嵐は臭いに敏感である。それゆえに先ほど、百が戸を少し開けた時点でこの臭いに気が付いていた。それが何の臭いか、――その中の腐った血臭には気が付いたが――判断はできなかったが、それが危険な――あるいは不快な臭いであることを感知した。だから杖で自分と百に結界を張り、それでも免疫がないであろう百と戸を開ける役を交代したのである。しかしだからといって完全に内部の様子を想像できていたわけでもなく、予想以上の惨状に嵐は表情を曇らせた。
「大丈夫か?百」
振り返った嵐は、先ほどよりも十数歩離れた場所でへたり込んでいる百を見た。
「はい…何とか……」
「気分が悪いのか?」
「いや、臭いがひどかったんで…吐くほどじゃないです」
やや青ざめた表情で弱々しく頭を振る百は、とてもらしくなくて、嵐は側によるとそっと杖で百の肩を叩いた。その杖の当たったところからすうっと気持ちのよい空気が体の中に流れ込んでくるような感覚に、百が嵐の顔を見直した。
「おぬしに結界を張っておる。しばらくの間なら、体内に有害なものを取り込むことはない。吸い込んでしまったものはどうしようもないが――まあ、しばらく休んでおれば大丈夫であろう。毒気に当てられたようなものだからのう…」
「…嵐さんは?」
「わしは建物の中を調べてくるよ。…これ、借りるぞ」
百の腰に下げられていたカンテラを借りると、嵐は安心させるように微笑んでから、屋敷の中へ入っていった。
嵐にはこの屋敷に充満している臭いに、微かな覚えがあった。以前、沙漠の街で外法士と戦ったとき、嵐は洞窟に向かう途中の山道でこれと似たような臭いに悩まされた。あの時は今以上に杖の術を使いこなせておらず、また相当臭いにやられた後で術をかけたこともあって、危うく洞窟に辿り着く前に力尽きてしまうところであった。あのとき彼の女戦士が来てくれなかったら、相当危なかったと思う。
(また外法が関わっておるのか?)
眉を顰めながら――これは臭いのためだけではない――嵐は室内をカンテラで照らした。
そこは広めの部屋で、照明の形状や炉の形、壁にかけられた布――今では引き千切られたように無残に垂れ下がり、どす黒く変色した血痕や何やらに塗れて腐っていたが――の美しい模様などから、かつては客人を迎えて語らうための部屋、応接間であったことが嵐には分かった。
しかしその後、この部屋がどんな目的で使用され、何が起こったのか――それは現在の惨状を見れば大体明らかであった。
部屋の中央付近に据えられたやや大きめの卓。その上に散乱している書物や紙片、形や大小の様々な器や皿。そして干からびたり腐ったりした草木や動物の死骸――一部は白骨化していた。それらは長い間放置しておかれたようで、埃が一面に積もって、黴たりしていた。
それは卓の上だけのことではなく、部屋全体が似たような状況であった。
壁際には籠が十数個置かれていた。中身はどうやら薬材のようであった。木の枝のように見えるものや石のように見えるものは、香料かもしれないと嵐は思った。
窓は全て板で塞がれていた。どうやら打ち付けてあるようで、開けようとしてみても、びくともしなかった。
床中に散らばる書物や紙片、割れた器の破片、こぼれて床に染み込んだ薬液の跡、破壊されて放り出されたままの椅子。そして床どころか壁から天井まで、至る所にどす黒く跡を残す飛び散った血痕。ふとカンテラで照らした壁に人間の手の跡に残された血痕があったりして、大抵のことには動じない自信のある嵐も、さすがに背筋に走るものを感じていた。
まるでこの室内で乱闘でもあったかのようであった。否、そうとしか考えられない状況であった。
(しかしそれにしては人間の死体がない――)
人間の死体だけがこの部屋には一つも見当たらなかった。しかし確かにここには人間がいたはずである。何らかの実験をしていたにせよ、集会をしていたにせよ――或いは術をかけていたにせよ――、こんな跡を残せるのは人間だけである。しかし現に部屋中見回しても人間の死体も、その一部さえ見付からなかった。壁に造り付けの棚がある以外は収納場所とてない部屋である。この部屋には隠す場所はないのである。
(他の部屋にあるのかも…)
可能性は低いとは思ったが、そう考えた嵐は屋敷内の別の場所に通じているらしい扉を開けようと手をかけた。
(……?)
ぐぐっと力を入れたが、扉は開かない。杖を当ててもう一度試してみたが、まったく動かない。どうやら他の窓と同様、打ち付けられているらしかった。
「……………」
嵐の表情が険しくなった。じっと口元を覆ってその場に立ち尽くす。ただ視線だけが部屋中を駆け巡っている。ふと足元の千切れた紙片に目を留めた嵐は、それを拾い上げ、カンテラの明りで表面の文字を追った。文字は吐蕃のものがほとんどで、ごく僅か、ちょっとした単語などに西方のものが混じっていた。その内容を読み取って、ますます嵐の表情は曇る。
「あのーー…嵐さん?」
そんな嵐を百が呼ぶ。
「おお、どうしたのだおぬし。もう大丈夫なのか?」
百は部屋の入口に立っていたが、ぎこちなく笑って、頷いた。
「ええ、まあ、何とか…それよりもこれ……」
室内を見回し、百は絶句した。
「…なんか、喧嘩でもあったんすかねえ……」
「どうやらそうらしいのう」
同意する嵐の声を聞きながら、百は薄気味悪そうに足元の動物――どうやら猫のようであったが――を見やった。
「でも随分前ですよね…?」
「そうだのう、…この屋敷が最後に使われたのは何時のことか、わかるか?」
「いや、オレはよく知らないです。斤さんは数年前って言ってたけど――ここのことやってたのはお袋たちだし、オレはその頃家を出てたし――お袋や村長ならなんか知ってるかもしれないけど――」
しかし彼らも内部で何が行なわれていたかまでは知らぬであろう、そう嵐は思った。
「どんな人間が出入りしていたかも分からぬか?」
「はい、オレは――でもお袋たちも知らないんじゃないかなあ、仕事は表だけで、お屋敷の中に入ったことは一度もないって言ってたし――」
それも確かだろうと嵐は思った。扉は相当建てつけが悪かったし、埃の積もり方を見ても、最近この部屋に入った人物のなかったことは明らかである。室内には嵐と百の足跡しか無かった。――少なくとも、表の入口の鍵を持っている人物がいて、表側に入っていたとしても、この部屋には入れなかったであろうと思われる。
「…嵐さん?」
百が心細そうに嵐に視線をやる。その視線を受けて、嵐は少しだけ表情を緩めた。
「大丈夫だ」
頷いてみせると、百も少しだけ緊張を緩めた。
(それにしても、やはりおかしい…)
百を不安がらせないように気を遣いつつ、嵐は思案を続けていた。
何かがおかしい。この部屋には、何かおかしなところがある。――もちろん乱闘のような跡だけでも充分におかしいのであるが――それだけではない、何かがこの部屋には足りない。嵐はそんな違和感を持っていた。
もう一度、カンテラをかざして部屋中を見回す。
部屋の中央付近、炉のある側――嵐のいる場所から部屋の反対側に当たる――にやや寄った位置に据えられた、大きな卓。
その炉の切られた側の壁の角に二つの燭台の跡。それから部屋を半分ほどこちらに寄った側の壁の両側にやはり燭台の跡。――合計で四つの燭台の跡がある。
そして嵐と大きな卓の間には数個の椅子が散乱している。壊れてバラバラではあったが、ここが機能していた当時はきちんと並べられていたのではないか――そう、嵐は想像した。二列か三列に並ぶ椅子。当然そこには人間が座る。
彼らはそこで何をしていたのか?休憩や談笑のためではない。それならば炉の側の方がよい。事実、炉の側には茶器であったと思われるものの破片もある。壊れた衝立が倒れているのもその近辺である。
向き合っていたのでもない。卓は中央付近に一つしかない。
――彼らは揃って座り、ひとつところに注目していたのではないのか?そしてその視線の先は――
「百よ、ちと力を貸してくれぬか」
嵐の言葉に百が僅かに目を瞠った。
「も、もちろんです。でも何を――?」
気味の悪そうな表情でちらりと部屋中に散らばっているものに目をやった百に、嵐は安心させるように頭を振った。
「いや、ちと壁を剥がすのを手伝って欲しいのだ」
「へ?壁?どこの?」
「これだ」
そう言って嵐は今まで彼が背にしていた壁を示した。
百の持参していた手斧で壁を剥がすことになった。
最初に斧を入れた時点で百はそれが随分と薄いことに気が付いた。思い切り打ち込んだ手斧が急に手応えを無くして、百は危うく手を滑らせそうになったりした。
百が打ち壊した壁板の破片を拾い上げた嵐は、それが随分と薄い、安っぽい板であることを確認した。明りが乏しいため、先ほどまではよく分からなかったのだが、その壁は明らかに他のところとは違っていた。それによく見ると、その壁だけ、血痕が無かった。足下をカンテラで照らして、嵐は壁と床の境目で血痕が不自然に途切れているのにも気が付いた。それらを確認して、嵐はますます自分の考えが正しいということを確信していた。
「嵐さん…!!」
壁に大きな穴が開いたところで、百が嵐を呼んだ。興奮した口調である。嵐はカンテラで照らしながら穴の奥を確認し、頷いた。
「やはり…」
そこには祭壇が設えてあった。
相当高さも幅も奥行きもあったが、もとは壁に造り付けの棚であったのだろう。真中に何かの像が置かれ、左右にずらりと燭台が並べられている。
もっとも、この祭壇らしきものもこの部屋のほかの部分と同様、相当破壊されていた。
像はどうやら木製らしいが、肝心の首が落ちてしまっていて、それがどのような姿をしていたのか、判別し難かった。一つだけ言えるのは、現在の吐蕃ではあまり見ないものであるということであった。
燭台は壊れてなぎ倒されたようになっていたが、金属製の、高台型で、華美でない程度の装飾が施されていて、吐蕃の祭具にも似ていた。また吐蕃の吊り下げタイプの燭台も落ちて壊れた状態であるのが数個あり、それら全部に火を燈したら相当煌びやかになったであろうと嵐は想像した。
その他には書簡や器に盛られた供え物らしきものの残骸――腐り切っていて、原型は判別不可能であった。そして金属製の湯飲みのような形のものが数個。
それら全て、血痕や埃、黴にまみれていたが、中に血痕とは違う染みがあることに、嵐は気が付いた。
黒ずんで、ねっとりとした固体がこびりついてる。そこだけ埃が目立っていることから、嵐はそこにこぼれていたものは油のようなものではないかと推測した。そしてその固体は――
「嵐さん、これって――」
百が眉を顰めながら声を潜めた。
「うむ」
嵐は頷いて、それにカンテラを近づけた。
黄褐色のねとねとした物体。表面だけは乾燥したように結晶が浮かんでいる。
嵐は懐から包みを取り出して中身をその結晶と見比べる。
「間違いないな」
嵐の言葉に百も頷く。
包みから取り出されたのは苔の生えた木切れ。その苔には薄黄色い結晶がこびりついている。百の母親の家で、先ほど嵐が見つけたものである。それは祭壇に残された黄褐色の物体と同じものであった。何より臭いが同じであった。
百が完全に壁を壊し、祭壇がはっきりと現れた。
「やはりな」
嵐は祭壇から部屋へと視線を移しながら、確認するように頷いた。それから百を促して屋敷を出ると戸を閉め、封印をほどこした。
結界を施していたとはいえ、完全に毒気を遮断できていたわけではない。それもあって早々に屋敷を後にした二人であったが、屋敷が木立に隠れるくらい離れたところで休憩を強いられた。嵐には今回の事態に対して多少の予測があったし、また多少の免疫もあった。しかし何の予備知識も免疫もなかった百が、相当疲労していた。嵐にしても基礎体力が弱いので、百が休憩をしようと提案したとき、まったく異論は無かった。
百が持参してきていた水筒の水を分け合って飲み、一息ついた頃、百が嵐に恐る恐るといった風に問いかけた。
「嵐さん?…あの、訊いてもいいですか?」
「何をだ?」
しれっとして答える嵐に、百は一瞬口をつぐんだが、結局続けた。
「さっきの…あれ、何なんですか?あそこで何があったんですか?」
嵐は表情も変えずにじっと遠くに目をやっていたが、おもむろに口を開いた。
「それは難しい問いだのう。わしとて全てが分かっておるわけではないし…特にあれは推測するしかないことだしのう…」
めったなことは言えんよ、と笑う嵐に、百は急に激した声を上げる。
「だって変じゃないっすか!あそこって貴族サマのお屋敷だったんっすよ!昔はとってもきれいなお屋敷で、貴族サマもいい方で、だからうちの村長やかあちゃんたちがずっと来ない貴族サマのためにここをきれいにしてたんっすよ!それなのに…なんなんだよ。気味が悪いよ……」
ぶるっと百が身震いをした。太い二の腕をさすりながら、じっと地面の石ころを睨みつける。
そんな百の様子を眺めやりながら、嵐はやはり口を閉ざしていた。
「かあちゃんはさ…」
おもむろに百が語りだす。
「ずっと…今と同じ、貧しかったけど、でもかあちゃんはいっつもにこにこ笑って、すっげえ元気で…とうちゃんが死んじまってからもずっとずっと働いてた。そんでオレら全員、かあちゃんが育ててくれたんだ。8人だぜ、8人!すっげえよ…」
突然語り始めた百を、嵐はじっと見つめていた。どこかぼんやりとした焦点のぶれたような瞳で、じっと耳を傾けていた。それを知ってか知らずか、百の独白は続く。
「でもさ、やっぱ…うちは貧乏だったよ。大喰らいが八人もいたんだもんな。ああ…とうちゃんもすっげえ食ってたような気がする。おっきかったし。オレ、ずっととうちゃんみたいにでっかい男になりたいって、とうちゃんみたいに強くなりたいって思ってたよ。だから負けないように喰ってた。とうちゃんの真似して木ぃ切ろうとして指切っちまって血ぃだらだら出たけど絶対泣かないってうち帰ったらかあちゃんに叱られちまったり。でもなんか…嬉しかった。その後とうちゃんが鉈くれたんだ。指切り落とさねーように練習しろって。だからかな…
でもさ、兄貴たちは貧乏はやだったんだ。とうちゃんかあちゃんに言ってんの聞いたことがある。
『こんなとこでいつまでもいたってだめだ。もっと都会に、都とかに行って商売したらもっと儲かる。そうすべきだ』って。
でもかあちゃんは行かないって言ってた。とうちゃんは…何て言ってたのか覚えてないけど。で、それから少しして兄貴たちは町に行って商売するって出て行っちゃった。
そん時、ほんとはオレも誘われてたんだ。まだちっこかったけど、お前は体がでかいし馬鹿力だから、きっと町に行ったらいい仕事が見付かる。一緒に行こうって。でもオレ、行かなかった。姉ちゃんがお嫁に行ったときも、三兄と四兄も家出て商売しに行っちまったけど、でもオレは行かなかった。結局今もずっとオレだけ残ってる」
嵐は視線を百から外してじっと目の前の木を見つめた。堰を切ったように後から後から続く百の独白は、嵐にとっては別世界の物事のようであった。
「かあちゃんはさ、ずっと待ってんだ。兄貴たちを。とうちゃんが死んじまってからもずっとあの家に一人でいるのはそのためなんだ。
兄貴たちは出て行っちまってから全然どうなっちまったかわかんねえ。姉ちゃんや妹たちはまだ近いからいい。ちょっと川越えりゃあすぐに会える。でも兄貴たちはわかんねえ。……商人について行った兄貴たちはまだ、いいんだ。でも吐蕃に出て行った兄貴たちがどうなったのか…かあちゃんはいっつも気にしてる。時々村に下りてくるのは便りが来てねえか確かめるためだし、一人になってもあの家を出ねえのは兄貴たちが帰ってくる場所がなきゃだめだからなんだ。全部…全部…」
「母上は…」
嵐がそっと口を開く。
「お母上はとても情の深いお方なのだな」
百が首を回して嵐を見た。嵐は視線を前方に向けたまま、百が何か言う前に、続ける。
「お母上はのう、ずっとずっと、母親なのだよ。
母親であることは並大抵のことではないぞ。何と言っても命が身一つのものではない。母親にとっては子供はいつまでも子供だ。子が子であることを否定しても母親は母親であることを決して否定はできぬ。何故ならば子に母から生まれた記憶がなくとも、母には子を産んだ記憶があるからだ。――わしとて男であるから知っているわけではないが――子を産むことは心身ともに大変なことであるそうだ。子を産むことで命を失うものも少なくない。言葉通り、命をかけて子を産むのが母親というものなのだ。いわば命を分けたといってもよい。
そのようにした存在を、忘れることができるであろうか?いや、それは決してありえない。
そのような存在を、愛さないということがあろうか?いや、それはありえない。その存在が例え愛を否定しようとも、例え他人には分からなくとも、理解できなくとも、どのような形でも、子を愛さぬ親はないのだ。
お母上も、そうなのだよ、百。おぬしのお母上は今でもずっと、“母親”でいたいと思っておられるのだ。自分の愛する子供たちにとって。それはおぬしの言うように、兄君に対してもそうであろうし、百、おぬしに対してもそうなのだよ。ただ、目の前におぬしがいるから、口には出さぬだけなのだ。
そなたのお母上は、おぬしのことを大層大事に思っておられるよ」
嵐の言葉に百はしばらくぱくぱくと口を開閉させていたが、やがて肩の力を抜いてうなだれた。
「…わかんねえ。オレ、難しいことは」
「うむ、わしもだよ」
百の言葉に嵐も苦笑交じりで答える。
「わしは男だからのう。これは女でなくば真に理解できぬ心地であろうと思うぞ」
言って、嵐は百に視線を向けた。
「ところで、百よ、おぬしの“ハク”という名、このような字を書くのではないか?」
言いながら、嵐は拾った小枝で地面に“百”の文字を書いた。視線を上げた百が、頷く。
「うん、そうだけど…嵐さん、よくわかったっすね」
「まあ、それくらいは、のう…しておぬし、この“百”は何を意味するか、知っておるか?」
「え、いや…」
百が眉間に皺を寄せて嵐を見た。
「……これは数を意味するって、誰かが言ってた。おっきな数を意味する文字だって」
「その通りだ」
百の答えに、嵐は頷いた。
「ときに、この名は何方がつけられたのだ?」
「とうちゃんとかあちゃんだよ。とうちゃんは頭のいい人だったんだって。商売人で、たくさんのことを知ってた人だったらしいんだ。オレは覚えてないけど。かあちゃんの由杏ってのもとうちゃんがつけたらしい」
「ほう…」
嵐はうなった。
この時代、字を使いこなせるのは特殊な教育を受けた上層階級の人物か、あるいは商売人、それも上流階級の人間とも取引をすることもある者にほぼ限られていた。
例えば百のような典型的な庶民に生まれ、生きるために仕事をする者にとって、文字とは大した意味を持たないものなのである。人によっては一生縁がなくても、何ら問題のない場合もある。
つまり、百の父親は、それがどの程度の知識であったのか、現在では測りようもないが、文字を使えるという時点で、なかなかの教養を持った人物であったということができるのである。
「でもオレやだ、“百”って名前。なんか適当で」
百のすねたような口調に、嵐がくす、と笑ってみせた。
「おぬし何か余計なことを聞かされておるようだのう」
その言葉に百がぴくりと肩を震わせた。
「おぬしの聞いたことはおおよそ見当がつく…だが、のう、百よ。それは誤解であろうと思うぞ。
“百”の字を名前として用いるときにはのう、それは“数え切れないくらいたくさんあること”を転じて、“何よりも大切なもの”という意味となるのだよ。数え切れないほどたくさんあることは、幸福につながる。ゆえに“愛しいもの”へとつながるのだ。決して、数え切れないほどたくさんあろうと、嫌になることはない。そうではないか?」
百がじいっと穴の空くほどに嵐の顔を見つめる。
「おぬしは、確かにお母上の、そしてお父上の愛情をいっぱいに受けておるのだよ、百。今はまだあまり実感できてはおらぬかも知れぬがな」
その言葉に、百は再び膝に顔を埋めてしまった。その肩が時折ぶるぶる、と震えているのを、嵐は穏やかな瞳で見守っていた。
「……わかんねえよ、オレ。わかんねえ」
「………そうだな」