3.奇病
百はこの年15歳。黒褐色の髪に濃い茶色の瞳。体つきはまだ成長途上であったが、樵仕事で鍛えられているためか、同年代の青年と比べるとややがっしりとした肉付きで、背が高く腕がやや長かった。
彼は黄瀬で生まれ育ち、物心つく頃には山師であった両親の手伝いを始め、数年前からは独立して仕事も請け負うことのできる樵として、着々と地歩を築きつつあった。しかしこれはこの辺りでは特に珍しい生い立ちということではなかった。彼の両親の内、父親は数年前に山中での事故による怪我がもとで亡くなっていたが、それも山で働く人間としては特に珍しいことでもなかった。
百の両親は子沢山であった。成人した子供だけで8人。生まれることなく亡くなった子供も含めて成長できなかった子供も、百の知る限りでは5人はいたということである。しかし決して豊かではない辺境の家庭ではこれも決して珍しいことではないのだという。
百は成長した子供の中では6番目の子供であった。一番上と次の兄は辺境での貧しい暮らしを嫌い、都で一旗上げることを夢見て皇都からの労働力募集の告知に名乗り出た。既に便りも絶えて数年が経つという。また、3番目の兄は商人になることを志し、黄瀬に立ち寄った商人に弟子入りして遠く西国へと旅立った。今頃はカジャルかバルジャの東辺の国で商人見習として働いているだろうという。4番目は姉で、これは既に沙南の農家に嫁いで久しい。5番目の兄は3つほど沙漠側の村に住んでいて、山師の仕事をしているという。下の2人はそれぞれ年子の女の子で、既に隣村に嫁いだり奉公に出たりしているという。母親は今も現役で働いていて、――もちろん年齢的なことから全盛期ほど激しい労働には耐えられないが――黄瀬の山の中の家を守っているという。
それらのことを嵐は、百の仕事場兼住居から彼の実家でもある母親の住む家に行く道中で百から聞かされた。
「ほう…それでおぬしはこの街を出ず、御両親の跡を継いでおるということか」
嵐の言葉に百はくすぐったそうな表情で軽くかぶり頭を振った。
「跡を継ぐだなんてそんな大層なことは考えてねえけど…兄貴も姉貴も次々家を出て行っちまったし、まだちっこい妹が2人いるのに親父が死んじまって、それなのにお袋をおいてどっか行くなんて考えられなかったんだ」
「しかしその妹御も既に家を出ておるのだろう。それでもおぬしは母御の側におるのだな。孝行なことではないか」
嵐がにこにこと百を見る。言葉遣いを裏切る少年のような――ともすれば自分よりも若いのではないかとすら百は思ったほどであった――無邪気とすら言える笑顔に、百はまぶしそうに頬を染めて、頭を振った。
「いや、ほんとにそんな大層なことじゃないんだよ…オレはそんな――」
そんな百の頑なな態度に、嵐は怪訝そうな視線を向けた。
百という青年は大らかで朗らかな性格の持ち主であった。それが出会って以降、言葉を交わし、その行動を見てきた嵐の受けた印象であり、そして嵐は自分の人を見る目というものに自信を持っていた。
しかし百はあることに関しては妙に口が重くなり、何やら含みのある物言いと表情をするのである。しかしそれは決して恨みであるとか憤りであるとか、そういった単純な感情によるものではない。そんな単純な負によるもののみの感情ではなく、もっと様々な何か――それが何なのかまでは嵐にはわからなかったが、そういったものが百の中で複雑に絡み合っているのだろう。そういうことまでしか、この時の嵐にはわからなかった。
(ほほう、何やら面白そうではないか)
嵐はこの人の良さそうな青年に興味と好意を覚えた。
「かあちゃん、具合はどうだい?」
百が嵐を連れて来たのは黄瀬の街から十数分ほど緩やかな山道を登ったところにある、やや開けた小さな棚のようなところに建てられた、小さな古びた家であった。家の前からの視界は木々に遮られてはっきりとは見えなかったが、歩いてきた道のりを考えると、黄瀬の街からは多少外れているはずだ、と嵐は推測した。恐らくこの棚は山の東側斜面に張り出しているもので、山を背にして見れば、正面には川があり、向かいに嵐のまだ見ぬ沙南公国があるはずである。
更に嵐たちが登ってきた道はまだ上へと続いており、その先は雨のために濃いガスがかかっていて、山頂がどの辺りにあるのか、よくわからなかった。
家の横には薪がきちんと詰まれており、鋸や鉈などが、いつでも使えるような状態で壁にかけられていた。家の周囲には作業途中で放り出されたままの丸太が数本転がり、長雨にさらされて泥まみれになっていた。しかしそれ以外はきれいに片付いており、住人の几帳面な性格が表れているように、嵐には思えた。
百が入り口から家の奥に呼ばわりながら入って行くのに続いて嵐も家の中に入った。薄暗い室内に目が慣れてくるにつれて内部の様子が嵐にもはっきりわかってきた。
小さい家とはいっても総勢8人の子供が育てられた家である。もちろん8人の子供が揃ったことは、百の先ほどの話から、なかったことがわかるが、それでも4、5人は確実に共に生活していた空間である。それなりの広さと物の多さとやや雑然とした感のある、小ぢんまりとした住まいであった。
嵐が今いるのは、入り口兼厨房兼、作業場兼物置といったところで、一方の壁際には竈や水桶や調理用具の置かれた棚などがあり、他方には作業着らしき笠や外套、背負い籠や杖、斧や鉈などがそれぞれきちんと整理されてあった。
土間に続いて板間があり、そこには囲炉裏が区切られてそこで暖かそうな火が燃えていた。そしてその側に簡素な寝具がしつら設えられて、上半身を起こした女性がこちらを向いていた。
「まあ、百。よく来てくれたねえ。そちらはお客さんかい?」
やや掠れた力無い声ながら、恐らく普段は豊かで力強い、温かい声なのだろうと思わせる響きで、百の声に返答が返る。
「うん、そう。こちら嵐さんていうんだ。ええと――」
そこでなんと紹介したものかと口篭もる百を引き継いで、嵐が口を開いた。
「はじめまして。わしは嵐と申します。旅の途中この黄瀬で雨のために足止めされておるところで、百殿と知り合い親切にしていただきました。聞けばお母上がなにやら身体の具合が悪いとのこと。そこで百殿の親切に報いるためにも何かわしに力になれることがあればと思いまして、こうしてお邪魔した次第です。突然の訪問の非礼、お許しくだされ」
ペこり、と嵐が頭を下げると、百の母親はぱちぱちと瞬きをして、それからやっと慌てたように礼を言いつつ頭を下げた。
そんな光景を眺めつつ、百は不謹慎と思いつつも思わずにいられなかった。
(――もしかして嵐さんて流しの芸人さん?)
嵐の時代がかった言葉遣いは、百にとっては時折街を訪れて小さな公演をしていく大道芸人の寸劇で耳にする台詞を思わせるものであったようである。
百の母親はここ数年体調不良を訴えることが多くなっていた。
全身がだるいだとか、身体の節々が痛くて身体を動かすことさえ億劫になったりだとか、鼻や喉、目がちかちかして息を吸うことさえ難儀になって、更に頭痛や全身の倦怠感を増してしまったりだとか、大体そういう症状で、最初の頃は恐らく過労か風邪を引いたものだろうと思われていた。しかし幻聴や幻覚の症状が表れ始めてようやく、どうやらこれは単純な体調不良などではないということに、周囲の人間が気が付いた。
幻覚症状は、大抵自宅にいるときに起こっていた。気が遠くなるような感覚の後、ふっと視界に霞がかかる。そして自分がどこにいるのかわからなくなる。自分が今何をしているのか、どんな格好でどんな行動をとっているのか、その症状が表れている間は全く正気を失っているし、その後意識が戻った後も記憶に残ってはいないのだという。
ただ、その症状が表れている現場を見た者は、何やらひどくものに怯えて暴れまわり、周囲を傷付けたり、或いはひどく幸せそうに表情をだらしなく緩め、何かおかしいことがあったかのように突然笑い始めたり意味不明な言葉を吐いていたと証言する。
「とにかく何が何だかよくわからないんですよ。そんなときのかあちゃんに話し掛けてもまるで何を言ってんのかわかってないみたいだし、なんかオレのこともわかってないみたいで…まるでかあちゃんがかあちゃんじゃないみたいで、怖いんだ…」
大きな体躯をしょんぼりと縮めて俯く百に、母親が申し訳なさそうな表情に顔を歪める。
「あ…もちろん、かあちゃんが悪いってんじゃないからね!病気なんだから!ちゃんと治せばいいんだから、だから……!」
「ああ、ああ、わかってるよ」
母親の表情に気付いた百が、慌てたように顔を上げて笑顔を母に見せる。母親もそんな百に弱々しい笑みを見せた。
「しかし今日はどうやらお加減がよろしいようですな」
そっと嵐が母親に声をかける。
「ええ、そうなんです。ここ数日は変なものも見ませんし、体調も大分良くなってきたみたいで…」
そう言って母親は微かに表情を緩めた。確かにその笑顔はまだ痛々しかったし声にも張りはなかったが、その頬には赤味が差していて、呼吸にも異常は特に見当たらなかった。
(呼吸の異常、幻覚症状、そして全身の倦怠感…)
嵐はその症状を頭の中でリストアップし、それに適合する病気の原因を導き出そうとしていた。
(ここ数日は、体調は回復に向かいつつある…というよりも、異常は起きておらん、というわけか………――ここ数日?)
少し確認したいことがあって、嵐が口を開こうとした。そのとき、入り口の戸が無造作に叩かれて、男の声がした。
「ユアンさん、どんなかね?」
その声に返事を返しながら百が戸を明けに立つ。
「おお、ハクも来とったんか」
入って来たのはまるで熊のような、という第一印象を十人中七人までに与えるであろうずんぐりした男で、毛皮の袖無しを着込み、腰帯に鉈を差したその姿は、一目で山で働く者であることが嵐にはわかった。そしてその後ろからもう一人、男が入ってくる。
「斤さん?こちらは…?」
百が斤と呼ばれた山男の後ろの人物を見て首を傾げる。どうやらそちらの人物と百は面識がないらしい。
「ああ、この方は――ほら、ユアンさん、話しとったろう?この辺に砂漠の人が来とると。それで是非にとお願いして来てもらったんだ。――ところで、ハク、そっちの方は?」
斤が嵐を見て先ほどの百と同じように首を傾げる。
「ああ、こちらは嵐さんで――」
そして百が簡単に嵐を紹介する。
「それで斤さん、砂漠の方を何でこんなところに?」
嵐は彼らが斤の連れて来た人物に相当の敬意を払っていることに気が付いた。百もユアンと呼ばれていた百の母も、彼を連れて来た斤も、その男に丁寧な態度と言葉を遣っている。
(――そうか、「砂漠の方」ということは、この者は砂漠の民の一員か――)
そのことに嵐は思い当たり、彼らの態度に納得がいった。
砂漠の民は悪い言い方をすれば事情を抱えて故郷を捨てた無法者たちの集団である。もともと住んでいた土地に何らかの事情で住むことができなくなった者――その中には犯罪者もいると言われているが――たちが漂泊と流浪の末、およそ人間の住むことのできない環境である沙漠地帯にまで行き着き、そこで団結し、独自の生きる道を選んだ、それがそもそもの砂漠の民の原型であるといわれている。
そんな無法の集団であるから、周辺の国や、この辺り一体の総主権者である吐蕃からも何かと警戒の対象とされている。
しかしその一方、「砂漠の民」は周辺住民、特に沙漠地帯に接して生きている者たちから、一種の尊敬を受けている。それが何故なのか、砂漠で生きる知恵と術を身に付けた彼らへの尊敬の念であるのか、それとも一部の伝説に言われる、元々沙漠の民を形成したのは天から降りてきた神の子孫であるということが信じられているためなのか、中央政府の影響を拒絶することすらある、その独立精神に憧れられているためなのか、その辺りははっきりしないが、とにかく沙漠の民は一部で高潔で神聖なものだと畏敬の念を受けていることは事実であるという。
そんな嵐の知識に、彼らの「砂漠の方」への態度は合致していた。
(なるほどのう。砂漠の民か――確か彼らの中には医療の知識に優れた者が多いとも聞くが――)
そんな嵐の思考を読んだかのように、斤が百たちに説明をしている。
「この方は薬草に詳しいそうだ。大抵の病気に効く薬を処方できるということなんだ。それで、是非にとお願いして来て頂いたんだ」
「まあまあ、それは本当にどうもありがとうございます。こんな不便なむさくるしいところまで――」
「いや、お気になさらず。果たして私が役に立てるかどうかもまだわかりませんし」
しきりと恐縮する百の母に、その人物は穏やかに笑って首を振った。
その人物は30代前半くらいの穏やかそうな男であった。砂漠の苛酷な環境で暮らしているためか、やや痩せ気味で頬などはこけているといってもいいくらいであったが、よく日に焼けたその表情からは、彼が非常に健康な心身を持っているということがうかがわれた。頭はくたびれた色の布で覆われ、なるべく肌の露出しないような、頭と同じ、くたびれたような白い布の服を着ていた。しかしその表情や言葉遣い、物腰がとてもその年齢にふさわしくないほどに落ち着いていて、見る者に安心感を与える、そんな雰囲気を持った男であった。
「ところで、嵐さん、でしたね?」
不意に振り返られて、つい嵐はびくりとしてしまった。別にやましいことはないのだが、何となく彼のことを観察するように見ていたものだから、突然話題が振られて驚いたのである。そんな嵐の様子に気を悪くした様子もなく、彼は嵐に軽く会釈をした。
「聞けばあなたも医術の心得があるとか。私は聞いての通り薬草には多少の知識があります。できればお力を貸していただきたいのですが」
あくまで穏やかで腰の低い彼に、嵐が苦笑を返す。
「いや、わしも医術は専門というわけではない。だからおぬしの知恵を貸してもらえれば嬉しい。どうやらこれは単純な病というわけではないようだからのう」
「――というと?」
それまで彼らの会話になるべく口を出さないようにしていた百が思わずといった風に口を出した。この場で一番病人のことを心配しているのは、身内である百であることは言うまでもない。ゆえに心配でいても立ってもいられないといったところなのだろう、と嵐は思った。
「うむ、――その前にもう少し訊いておきたいことがあるのだが、よろしいか?」
後半を病人に向かって、嵐が言った。そして頷く彼女にいくつか質問を向ける。
「ここ数日体調が良いということだが、それはいつ頃からのことか――できれば少し正確に思い出せるかのう?」
「ええ…どうでしょう、やっと体調がいいといえるようになったのは二、三日前からですけど…」
「幻覚は?」
「はい、それはもう随分…」
「確か、このあいだ来たとき、幻覚とか見てないって言ったよね」
百の言葉に嵐が視線を向ける。
「この間来たのは、いつの頃だ?」
「ええっと…確か、雨が降り始めてすぐですよ。変な時期の雨だったし、全然止まないから、かあちゃん大丈夫かなって来たんで…」
記憶を探るような表情で、百が答える。
「つまり雨が降り始めた頃から幻覚は見えなくなった、と…」
「ええ…そうですね。そういえば変なものが見えたりとか聞こえたりとかはその辺からないですねえ…」
彼女もぼんやりとした表情ながら、記憶を確かめるように頷く。
「その幻覚だが…どんなときに見えるとか、そういうのはわかるかのう?」
「どんなときと言っても…何か、何でもないときですよ。いい気持ちで仕事をしているときなんかにふっと変な気分になって――」
「そういえば前、山で仕事中に倒れたこともあったよね。どこだっけ…ほら」
「おお、確か山のお屋敷の周囲の木の手入れをしているときだったのう。あの時はたまたまわしが近くにおったんじゃっけ…」
「――山のお屋敷?」
嵐が斤の言葉に鋭く反応した。
「山のお屋敷とは?」
嵐の問いに、斤がぼりぼりと頬髭を掻きながら答える。
「ああ、お屋敷と言っても今はもう誰も住んじゃおらんのんだがな。昔――確か沙南の貴族の誰だかがこの山の上に別邸をお建てになったんだよ。まったく酔狂なもんだが。そんで普段は誰も住んでおらんが、まだお屋敷は手放しとらんらしいし、こんなところに空家があったら物騒だろう?だから山で仕事をしとるモンが時々交代でお手入れしたり見回りをしたりしとるんだよ。その分はきちんと黄瀬の長から報酬もらっとるしな。まあ、結構荒れとるがまだしっかりしたもんだぞ?」
「本当に、今は誰も住んでおらんのか?」
「ああ、いつか使うとかいうことなんだがな。何しろこんな山ん中だろう?よっぽど酔狂じゃなきゃ来やしねえよ。数年前に少しの間住んどった奴がおったが――そいつもいつの間にか来んようになったしの」
「数年前――」
嵐がぽつりと呟きながら視線を宙に漂わせた。これは嵐が深く物事を考えているときの癖なのである。
しばらく考えを廻らしていた嵐が、砂漠の民の男を手招きして立ち上がった。
「ちと訊ねたいことがあるのだが…」
男は頷いて立ち上がると、嵐に続いて入り口の戸をくぐった。入り口の軒先で雨を避けながら、二人は向き合って立った。
「おぬし、砂漠の民であろう。であれば解毒薬は作れるか?」
自分より10センチほどは背が高いであろう男を見上げるようにしながら、嵐が尋ねる。
「解毒薬ですか?はい。実は私、毒に関する知識には自信があるんです」
男は少し目を見開いたものの、素直に頷く。
一般に、砂漠の民は毒とその対処法には詳しい。なぜなら沙漠地帯の植物や動物には毒を持つものが多く、それを全く知らないでは簡単に命の危険を招いてしまうからなのである。
「そうか。それでは体内に蓄積した毒を取り除く薬など、作れるであろうか?」
「――といいますと?具体的には――」
「――例えば、気化する性質を持つ毒――というか、そうだのう――はっきり言うなら麻薬、かのう――」
「麻薬――?」
嵐の言いにくそうな言葉に男が目を光らせる。
「いや、彼女が自主的にそれを使用したとは全く思っておらん。それにまだ確認したわけでもない――だが、引っかかることがあるのだ。それは――」
それまでも彼らは室内になるべく声が聞こえないように声を落としていたが、嵐は更に声を潜め、男の耳に口を寄せて説明を続けた。
嵐の説明を聞き、男はしばらく考えていた。嵐の言ったことを彼の中で検討しているようであった。
「――そうですね、その可能性は確かにあります」
しばらくして男が頷いた。
「彼女の症状からは、その可能性が充分あります」
慎重に言い直す彼に、嵐は頷く。彼は信用してよいと、嵐は思った。物腰も品があり、頭も良い。しかし己の才に溺れるということもない。嵐は砂漠の民と出会い、話をしたのは初めてであったが、このような人物が砂漠の民というのであれば、確かに尊敬に値する、と彼は思った。何故か以前、沙漠の村で出会った女戦士を思い出し、嵐はふと首を傾げる。
(何故あやつのことを思い出したのだ。――この者とは全く似ておらんのに――)
似ているとすれば沙漠に生きている人間であるということと、それと――
(そうか、どこか品のある物腰、か――もしかしたらあやつも砂漠の民であったのかもしれんのう――)
しかしそれは今は関係のないことである。嵐は飛躍しすぎな思考をストップさせ、目の前の男に改めて視線を向けた。
「おぬしには彼女の診察を頼みたい。単なる病気や怪我ならわしも看ることができるのだが、予想が当たっておるとすれば、わしには専門外だ」
「引き受けました。それで私はあと――」
「薬に必要な物は何でも言ってくれ、用意するから。調合の手伝いならできるしのう。それから、診察の結果、――もしわしらの予想が当たっておったら、それはわしだけに教えてくれぬか。無駄に彼らを不安にさせることもあるまい」
「――それは、そうですね。何とかその辺は対処しましょう。でもそれで貴方はどうするのですか?」
「そうだのう。原因は取り除かねば彼女の病気は治らぬしのう」
嵐は腕を組んで何やら考えるように首を傾げて見せる。その表情は平素のもので、男には嵐が何を考えているのか、図りかねた。
「――危ないことは、しないでしょうね?」
それでも何か不安に思うところがあったのか、恐る恐る、といった風に囁く。嵐はそんな男ににっこりと笑いを返した。
「危ないことなどせぬよ。何か不安か?」
薬師の男が診察をしている間、嵐と斤はそれぞれ表へ出ていた。
斤は落ち付かなげに家の中の様子をうかがいながら軒下にしゃがみこんでいた。嵐はしばらく同じように軒下にたたずんでいたが、やがてふっとその場を離れ、家の裏手に回っていった。隣りにいた斤が気付かないほど、さりげない行動であった。
やがて百が診察の終わったことを告げに出てくると、斤はそわそわと中に入っていった。
「あれ、嵐さんは?」
百が戸口できょろきょろと辺りをうかがっていると、その後ろから薬師も顔を出した。
「おや、あの方はいらっしゃいませんか?」
そんな二人にのんびりと声がかけられる。
「おお、診察は終わったのだな」
「あれ、嵐さん、何してたんですか」
ひょっこりと現れた嵐に、百がきょとんと目を見開く。無理はない。現れた嵐は何をしていたのか、しと降る雨に濡れて、両手を泥だらけにしていたのである。
「いや、ちょっとな…で?どうであった?」
台詞の前半を百に、後半を薬師に向けながら、嵐が問いかける。薬師は頷いてから、百に視線を向ける。
「申し訳ありませんが、白湯と濡らした布をお母さんのところに持っていってあげてくれますか?それで身体を楽にしているようにと。私はすぐ戻りますから。…あ、あと、お湯をお鍋いっぱいに沸かしておいて欲しいのですが」
「は、はい…」
少しだけ心残りな表情を浮かべたものの、百は素直に頷いて家の中に戻っていった。それを見送ってから、薬師は嵐に目配せをして表に出た。
「…やはりか?」
家から少し離れた大木の下で雨をしのぎながら嵐が尋ねた。尋ねる、というよりも確認に近い表情であった。
「ええ…少々分からない点はあるのですが、まず間違いなく中毒症状ですね。似たような症状を見たことがあります。ある種の毒物を摂取したときに幻覚が見えたり幻聴があったりします。それは飲食物であることもあるし…ときには気化させて直接吸い込んだりすることもあります」
「麻薬か。…西域の方では祭祀の際に用いることもあると聞いたが」
「そうですね。確かにあちらの方では香を非常によく用いますから…祭祀以外にも貴族階級の人々や金持ちの人間の間では日常に用いたりしていますよ。特に女性が好むようですが…」
そこでふと薬師は表情を変える。
「…もしかして貴方は彼女がそのようないかがわしい薬を使用していたとでも?」
そのいささか咎めるような表情と口調に、嵐は一瞬驚いたような表情を見せ、慌てて頭を振った。
「誤解するでない。わしとてあの者がそのようなことをする人間だと思わぬ。もちろんあの者と会うのは先ほどが初めてであるが、百――あの者の息子を見ておればそのような暗さとは無縁。それを見れば育てた母親もどのような人間か想像がつくというものだ」
「そうですね。すみません」
嵐の表情と口調に、薬師はふっと表情を緩めて頭を下げた。
「だが…しかし、気になる点はあるのだよ」
「…と言いますと?」
薬師の前に嵐が握った手を差し出し、そっと広げて見せた。そこには泥水にまみれた木の皮のかけらのようなものがあった。
「ここをよく見てくれぬか」
「……?」
嵐が示すのに、薬師が目を近づけてじっと見つめる。
「苔が生えておるだろう?その一部だけが変色しておるのだ…分かるか?」
「……ああ、確かに」
でもそれが何か?と視線で問いかける薬師に、嵐が細い木の枝の先でその苔の部分を示して見せる。
「この部分に何かこびりついておる。…なにやらの結晶のように見える。そしてそこだけが変色しておるのだ」
確かに嵐の示した部分の苔の先に薄黄色い粒があった。それは苔にしっかりとくっついている。というよりも、むしろその場で固まってしまったかのように複雑に苔に絡みつき、ちょっとつついたくらいではまったく取れそうもない。
「これは家の裏で見つけたものだ。裏の勝手口の近くに水場があってな。その近くに生えておった苔に、いくつかこのようなものが見られた。――気になるものはできるだけ取り除いてきたのだがな」
「これが何か?」
確かにこの結晶が不自然なものであることは薬師にも分かった。苔はきれいな水のある場所に生える。その植物が枯れたり何らかの異常を示しているということは、それが何らかの理由で有害なものであるということを示しているといって過言ではないのだ。
「――おぬしが分かるかどうか、分からぬが――この結晶から、何やら嫌な匂いがする。ほんの微かなものゆえ、気付きにくいとは思うが――」
「匂い!?」
嵐の言葉に慌てたように薬師がもう一度その結晶付きの苔に顔を寄せる。そして何度か鼻をひくひくとさせていたが、彼は首を傾げているだけであった。
「――それでな、その匂いが――あの家の中に微かに匂うものと似ておるのだよ」
「――何か、匂いがしましたか?」
その言葉に慌てたのは、今度は嵐であった。
「お、おぬし…何故ここに!?」
慌てて振り返って目を丸くしている嵐に、百はにっこりと笑って元気良く答えた。
「オレ、耳はいいんです!ついでに目もいいんです。この変な粒、どうかしたんですか?」
嵐は軽く額を押さえながらしばらくして言葉を返した。
「…どこから聴いておった?」
「香りが何とか、とか。オレ、馬鹿なんでよくわかんなかったんですけど」
ほぼ始めからではないか、と嵐は眩暈を感じながら深くため息をついた。薬師もいきなり現れた百に呆然とした表情を見せていた。
聞かれてしまったものはしょうがないと、嵐と薬師は改めて百に説明した。
「…つまり、お袋は何か変な薬みたいなものをどっかで吸っちゃって、それでだるくなったり変なもんが見えたり聞こえたりしてるって、そういうことですか?」
しばらく頭を抱えた後で確認するように言った百の言葉に、嵐は頷いた。
「そういうことだな。念のため訊くが、おぬしは具合が悪くなったことはないか?何日かおきに母上のところに戻っておったのだろう?」
「そうですね。食事も一緒にすることもあるでしょうし…どうですか?」
彼らの問いに、百は首を捻るが、やがて頭を振った。
「いや、そんなことはないなあ。オレ、だいたい病気なんてしたことねえし。怪我とかはまあ、よくあるけど。でもそれもすぐ治っちまうし。よくお袋は俺のこと「手のかからない子」だって言うもんなあ…」
少しだけ表情を曇らせながらそう言う百に、嵐は少しだけ首を捻るが、頷いた。
「食物や水に何か異変があるとするなら、お母上だけに異変が現れるというのはおかしい。現にわしとてこの街で何日も飲み食いしておるのだ。それにあの街におっても特に変なことには気付かなかった。ゆえに、この異変はこの周辺…この山のこの辺りに集中して起こっておると考えられるのだ」
「…でも、今は何もないですよ?彼女も最近は具合が良くなったと言っています」
「そう、ここ数日――雨が降り始めた頃からだとな」
「――それが?」
嵐が何かに気が付いていることには薬師も分かるのだが、それがどのようなことなのか、いまいち分からなかった。それが何だか悔しいような気がしながら、答えを促す。
「確証はない。だが、おそらく百の母上の病気はどこぞから漏れ出してきておる有毒な物質が原因の、中毒症状ではないかと思うのだ」
「…どこから?」
薬師の問いに、嵐は軽く首を振る。
「――少なくともこの家の周囲や家の中でないことは確かだのう」
そう言って軽く笑って見せる嵐につられるように、薬師も力を抜いた。
(この人と話していると何だか力が抜けてしまうなあ――)
奇妙な脱力感を覚えながら、それでも彼はそれを嫌だとは思っていなかった。
「それにしても、何なんです?その毒って」
百が不満そうにどちらにともなく問いかける。
「そうだ、その毒物の特定はできなんだのか?」
嵐の問いに、薬師は首を振った。
「申し訳ありません。特定はできておりません。――というよりも――」
「?」
「正直、見たことがない毒物である、としか思えません。私の知っている毒物の、いくつかの特徴を兼ね備えております。だからといって、複数の毒物に犯されているとも思えません――そんなことであれば、もっと症状はひどく、複雑になっているはずですから」
「新種の毒物、ということか?」
「少なくともこの沙漠地帯で手に入る毒物ではないということだけは自信をもって言えます」
力強く頷く薬師に、嵐はやや表情を曇らせながら思案するように腕を組んだ。
「じゃあ、お袋を治すことはできないんですか!?」
百の言葉に、慌てたように薬師が頭を振った。
「そんなことはない。不安にさせるようなことを言ってしまって申し訳なかったが、対処する方法がないということではない。体内に蓄積した異物を体外に排出する薬、或いは中和させる薬で少しずつお母様の体は良くなるでしょう。その薬を処方することはできます」
「本当に!?本当にかあちゃんは良くなる!?」
薬師の言葉に百が噛み付くように身を乗り出す。そんな彼の迫力に圧倒されそうになりながら薬師は頷いた。
「私の名にかけて。必ず貴方のお母様のご病気を治して差し上げます」
薬師の自信のある表情に、百もようやく落ち着きを取り戻した。
そんな二人を見つめながら、嵐も頷いた。そしてふっと視線を彼方に向ける。
「…後は、原因の物質を排除すること、か…」