2.黄瀬
吐蕃暦331年、その年は近年まれな異常気象に見舞われていた。
例えば吐蕃東南地域は緩やかな雨季と乾季のサイクルがあって、雨季に水を蓄え、その豊富な水によって乾季の灌漑を行なう。それによって、一年中耕作を行なうことが可能となっていた。しかし今年は、例年ならば既に雨季に入っているはずなのに、数えるほどしか雨が降っていない。現在は地下水や川などの水がまだ豊富にあるので特に問題はない。しかしこのまま雨が降らないままとなると、乾季の耕作にはかなりの影響を及ぼすことは明らかなことであった。
雨の降らないことに悩んでいる地域があれば、一方、吐蕃西方地域はこの時期、ひどい雨に悩まされていた。
西方地域は一概には言えないものの、やや乾燥した土地柄であった。西南地域は高い山脈に接しているため、山より流れ落ちる豊富な川水によって西方地域では一番潤っている土地であったが、それでも農耕が生産の主流になるほどではなかった。
その西方地域がここ一ヶ月ほど長雨に悩まされていた。川は普段の二、三倍にも増水し、普段水に浸かるようなことのない耕地にも水が浸入し、作物の根腐れが起こり始めている。
それのみならず川に架けられた橋のいくつかが流され、交通にも支障をきたし始めるなど、異例の長雨による被害は拡大を始めていた。
「……よう降る雨だのう…」
簡易宿舎の窓から外を眺めながら嵐は盛大にため息を吐いた。
黄瀬の街は沙漠の外縁の街の一つで、沙漠の南東端にあった。沙漠の街の一つとはいえ、この辺りまで来ると土地も気候もほとんど厳しさはない。何といっても山脈から流れ落ちる川のおかげで農耕も行なうことができる。もちろん耕地は広くはないが、沙漠の荒涼とした景色を見てきた旅人にとっては、やっと沙漠の旅が終わる、という安堵感を覚える光景なのである。
この街からは道が四方に続いている。北へ続く道は山地を越えて吐蕃王国へと真直ぐ繋がる道。南は山脈を越えて商業都市カジャルへと通じる。西は言うまでもなく沙漠への道であり、東へ渓谷一つ越えれば吐蕃皇国最大の公国、沙南公国がすぐ目の前になる。いわば黄瀬は沙漠東端の交通の要衝なのであった。
この街に嵐が辿り着いたのは5日程前。ここまで一人、徒歩の旅を続けてきた嵐は当然この街に長居するつもりなどなかった。旅の荷物――食料や水など――を補給したら、すぐにでも旅を再開するつもりであった。
しかし嵐は既に5日、この街の簡易宿舎に足止めされている。理由は簡単。街の側を流れる川が折からの長雨で増水し、橋は流され、道も至るところ削られたり土砂の崩落や落石被害に遭い、とてもではないが安全に旅に出ることができないからである。
「ほんに、参りましたなあ、この雨には」
宿の女将がのんびりした口調で頷きながら、嵐にカップを差し出した。
「この辺はこんなに雨の降る土地ではないだろう?」
カップを受け取りながら嵐が訊ねる。
「もちろんですよ。そりゃあ今時期はどっちかといえば雨期ですがねえ、こんなに毎日、一日中、降るなんてこたあありません。夕方頃さーっと降って後はからり、そんなもんですよ」
「そうであろうなあ」
「まったく、どうしちまったんでしょうねえ、ここんとこ変なことばっかり。皇様が替わってからというもの、変なことばっか。税も厳しくなるばっかだし、ねえ、いやんなっちゃいますわ」
「…皇が替わったこととは関係ないであろうがのう」
女将の愚痴に嵐は苦笑しながら呟く。
「しかしまあ、おかげでこの宿も客でいっぱいではないか」
嵐が視線を巡らせながら言う。確かに粗末な簡易宿舎は現在では満室で、嵐同様足止めされた客が所在なげにぶらぶらしている。しかし女将はそんな嵐の言葉に大きく頭を振る。
「そうでもないですわ。こういう宿は元々長逗留するもんじゃないですからねえ。お客が次々入れ替わってこそやっていけるんですよ。正直、勝手が違っていつもより疲れますわ」
その言葉を裏付けするように女将は首をぐるぐると回しながら肩をとんとん、と叩く。
確かにこういった簡易宿舎では普段、客を長居させない。一晩か二晩の睡眠の場所を提供するだけで、食事も基本的に自給自足である。もちろん頼まれれば用意するが、それはあくまでオプションであり、別料金となる。
しかしこういった場合、そういうわけにはいかない。客としても外で食事しようにも雨で市場はほとんどが閉まっていて、満足に買い物もできない。また雨の中で火を熾して食事の準備をするわけにもいかないから、どうしてもどこかで食べさせてもらうか、或いは厨房を借りるしかなくなる。このような状況では、普段食事のサービスなどしない簡易宿舎でも、客のために毎食用意せねばならないということになる。普段とは勝手が違う上、実際のところ、あまり儲けにはならない。
「…このままこんな感じなら、料金上げなきゃいけないかもねえ……」
「…おいおい、それは客の前で言うことではなかろう」
ため息を吐きながら言う女将を、嵐が苦笑交じりにたしなめる。
「…あら、そうでした。あんたも客でしたなあ」
あははは、と女将が豪快に笑う。
「しかしまあ、確かに変だのう、ここのところ…」
嵐は呟いて僅かに眉根を寄せた。
畑の浸水による作物の立ち枯れ、鼠の大群による被害、飛蝗の大群の出現、伝染病の発生などなど。その他にも嵐がここへ至るまでに耳にした異常事態の噂はやまほどある。
被害は西方地域だけではない。東では野獣が畑や民家を襲い、怪我人も出たという話である。
「何かが起こっておるのやものう…」
他人に聞こえない声でぽつりと呟くと、嵐は女将のサービスしてくれた温かい飲み物を一口飲んだ。
「…お?これは…香草茶?か?」
「おやお客さん、よく知ってますねえ」
思わず目をぱちくりさせて呟いた嵐の言葉に、女将が嬉しそうな表情を向けた。
「いや、なんかいい香りがしておるとは思っておったのだが…これだったのか」
言いつつ、もう一口手の中のカップを傾ける。カップの中身は仄かに苦味のある、薄い褐色の液体であった。複雑な草の香りが嵐の鼻腔をくすぐる。
「珍しいでしょう?なんかねえ、今都で流行ってるそうなんですよ。何でも御妃様がお好きなんだそうで」
「ほう…御妃様が、のう…」
嵐が小首を傾げる。彼の記憶によれば、確か皇には現在正妃はいない。3年前、皇位を継承する前から、皇族としては当然のことながら、愛妾は何人も存在していた。皇はどちらかといえば好色な方で、武勇に長けたその容姿はがっしりとして逞しく、女性の評判も悪くはなかった。また皇は早熟でもあった。そんなわけで十代の頃から皇は何人かの愛妾をつくっていた。しかし皇太子として立てられても、皇位を継いだ後も、皇が正式に妃を立てることはなく、現在に至っているのである。
「何だかねえ、たいそう美しいお姫様なんだそうですよ。なんでもいつも金色にきらきら光っていてふんわりとお花の香りがして、歩いた後には金色の光がきらきら降るんですって」
「ほう…」
「それでもってお顔もたいそうお綺麗で、一目見たら忘れられないくらい、夢にも出てくるほどだとか。そんなお顔でいつもお優しく笑ってらっしゃるそうなんですよ。本当に、天女とはこのようなものか、というお方だそうですよ」
「ほほう…」
「ほんとに、一度でいいからお姿拝見したいものだよ」
つまりは噂であって、見たことはないのではないか、と嵐は思ったが、口にはしなかった。
「今の都では御妃様は大変人気者だそうだよ。娘たちはこぞって御妃様みたいに綺麗になろうってんで髪形を真似たり服装を真似たり、お香やら食べ物やら、みんな御妃様みたいになりたいってんで、一生懸命らしい。男どもにも最近じゃあそういう女が人気あるそうだよ」
「ほーう。それでこういう香草茶も来るのだな」
「そうなんですよ。都から来た商人が持ってたんで、少し買ってね…」
彼の記憶によればこのような香草茶は西域諸族諸氏の間に流通しているものであった。もちろんこれまで吐蕃国内になかったわけではないが、このような辺境にまで流通しているものではなかったはずである。第一、絶対量が少ない。吐蕃国内でも生産し始めたのだろうか、と嵐は考えた。絶対量が少ない、というのは、このような草や木などを煎じた飲み物は日常の飲料というよりも客人を迎えたときに振舞う特別なお茶であったり、儀式の際に用いられるものであったからである。またその他には薬として調合される場合もある。
「あたしもねえ、これを飲んでたら御妃様みたいにきれいになれるってんでねえ…」
(おいおい)
けっこう恰幅のよい中年の女将が恥らうようにややうつむき加減で頬を仄かに染めていた。
(ま、体に良いものであるのは確かだからかまわんがのう)
思いつつ嵐はさりげなく視線を逸らして窓の外を見やった。
やや小止みになった雨の中、嵐は一人ぶらぶらと河辺を歩いていた。
山から流れ落ちる急流はここ数日の降雨を集めて泥濁りのした色で轟々と辺りの音を消していた。時折重たげに、根こそぎ引き抜かれた大木が浮き沈みしながら流されてくる。それが岸や川底にぶつかる衝撃で更に川岸から土砂が崩れ、轟音と地響きを生んだ。
「なるほどこの急流では橋も架けられぬし船も出せぬのう」
ぽつりと呟く嵐の表情は興味深げにきらきら輝き、その大きな瞳は何ものをも見逃すまいとするかのようにせわしなく周囲に向けられていた。その視線が土手から川に向かって下っていく階段を捕らえた。
「あそこから普段は川まで下りて船に乗るのか」
その視線を、川面を滑らせて向こう岸の土手の上方に移動させながら嵐は呟く。雨と霧のために見えにくくはあるが、そこには嵐のいる側と同じく階段と思しきものがあった。しかし増水している今、河原はすっかり泥流に隠され、当然桟橋も船も見当たらなかった。船はこんなに増水する前に岸まで引き上げられていたのだろうか。でなくば船も失われてしまっているだろう。それでは近日中に水位が下がっても川を渡ることはできないかもしれない、そんなことを嵐は考えていた。
「普段はこんな雨など降らぬから、渡し舟が数隻あれば事は足りておったのだな。またここは川の上流だ。普段の水深は比較的浅いはず。わざわざ橋を架けるまでもないと考えられておったのだろう。しかし…」
そのために今、川を渡れず難儀している者が実際大勢いる。川のこちら側、黄瀬では嵐を含め20人弱が渡河待ちで足止めされている。当然川の向こう岸でもそうだろう。この状態が更に何日も続けばその人数は増えていくであろうし、待たされる人間の疲労も苛立ちも募るだろう。それで何か面倒なことが起こらないとも限らない。何しろ沙漠の道といえば善良で温厚な人間よりも、荒くれ者や無法者の方がむしろ多いといわれているのだ。またそのくらいの気性がないと厳しい沙漠の環境を越えて行けるはずもないのだが。
嵐は丸太の積み上げられているのを見つけ、そこに腰をおろした。恐らく船か家屋を造るために切り出され、乾燥させられていたものででもあろう。樹皮はそのままであったが、枝葉はきれいに刈り取られていた。そこで嵐はじっと周囲の様子を目に入れながら、考えを廻らしていた。
(なるほど、確かにこの川は普段は水深も浅く、川幅も狭いであろう。丸木を繋いだだけの棒っきれを河原の石の上に乗せるだけでも橋の役目を果たすであろうし、小船や下手をしたら筏のようなものでも渡河をするには充分なのであろう。
しかし普段が穏やかであるからといっていつもそうとは限らぬ。それが自然というものではないか。現に今、この川は危険な存在と化しわしらを拒んでおる。その可能性を考えなかったこの地の統治者は、やはり考えが浅いと言わざるを得ないのではあるまいか?)
更に嵐の視線は小雨に煙る風景をついて土手の様子をじっくりと観察する。
(川水か雨水かは判別つかぬが相当削られておる。堤防の跡も石垣の組まれていた様子も草の生えていた様子すら見えぬ。恐らく全く何も施されておらぬ土か岩の壁であったのだろう。恐らくこんな大雨でなくとも多少の雨でも少しずつ土壌は削られておったろうし弛み易くもなっておったろう。今まで大きな災害が起きていなかったのが幸いだ。)
そのときちょうど流されてきた大木やら木の枝やら葉っぱやらの塊が嵐のいる側の岸に激突してごうん、と重い轟音を立て、地を揺らした。
(……もしもわしならどうする?)
嵐は立ち上がって土手の際まで歩を進めた。嵐の足下2〜3メートルほど下で濁り切った水が渦を巻きつつ流れている。
(――川に橋を架けるにはいくつか方法がある。その中でもこういう場にふさわしいものは限られる。――吊り橋にするならばまず土手の補強工事から行なわねば無理だ。土を掘って土壌を強固に支える石の層や水を素通りさせる砂の層を作って――ああ、その前に川に面した土手側も補強が必要だ。多少の雨風には削られないよう、表面を固めてできれば石か木で覆って――そう、西国で産するというタールでもあれば完全であろうか――それからよく乾燥させて端を焼いた丸太を柱として立てて――向かい岸とロープで繋いでそこに渡し板を架ける――
普通に橋を架けるにもやはり土手の補強は必要であろう。そうして川の中程と――このくらいの川幅なら両河原にも一本ぐらいは柱が必要か。そこに柱石を置いて柱の支えも築いて――川の中に立てるものには石組みの方がよいであろうな。そして―――)
そこまでぼんやりと考えて、ふと嵐は我に返った。
(……わしは何を考えておるのだ)
自分自身に苦笑を禁じえなくて嵐は一人くすくすと笑った。
(…こんなことを考えてもわしには何もできぬのに。そもそも机上の空論でしかないこんな思考ゲームなど――)
自戒とも嘲笑ともつかぬ笑みを浮かべながらそんなことを思う嵐であったが、それも最後まで考えることはできなかった。
「ああ!駄目だ〜〜あんた!!早まっちゃあ!!!」
突然川の轟音をも圧する怒鳴り声が聞こえて、嵐は驚いて顔を上げた。声の聞こえたと思しき方に顔を向けたか向けないか、いきなり嵐はものすごい力で突き飛ばされた。
いきなりのことに動転する嵐の視界に、自分に組み付く黒髪の短髪だけがかろうじて映り、それが何かと認識するよりも早く、そのまま彼は地面に叩きつけられていた。
「すんません、すんません!!」
先ほどから彼に対して何十編となく謝罪の言葉を口にして低頭する青年を、嵐は苦笑しつつ宥めていた。
「ああ、もうよいよ。確かにあんなところでぼうっとしておったわしも悪いし、こうして手当てもしてもらったことだしのう…」
「そんなの、当たり前のことです!でも元はといえばオレが早とちりしたせいだし…」
確かに彼が早とちりであるということは、嵐も否定はしない。川辺で立っていただけで自殺を疑われてはこの世の大多数の人間が一度は自殺を疑われねばならないということになろう。もちろん、このような天候の悪い日に川を見ている人間もたいがい物好きだということになろうが。それでも川の様子を見に出てくる人間だっているわけで、何故自分の場合に限ってそのような誤解を受けたのか、嵐にとっても心外ではあった。
しかしその疑問も次の青年の言葉によって解決したようだ。
「てっきり女の子が川を覗き込んでじっと突っ立ってるように見えたもんで、これは危ない!っと…」
いやあ、早とちり早とちり、と照れた表情で笑う相手に、嵐は脱力を禁じえなかった。
(…女……)
確かに嵐は男としては背も低く、体格も細い。顔のつくりも童顔であるため、実年齢相応に見られた経験など、ここ20年程ない。
(しかしさすがにおなごと見間違われたことなどないぞ)
「あっ……!オレ、また失礼なこと言っちゃいましたか!?」
さすがに憮然とした表情になる嵐に、青年があたふたとする。
「ああ、もうよいよい……」
このままでは青年の謝罪はいつまでも終わりそうにない。嵐は苦笑しつつ青年を止めた。そして何気なく小屋の中に目をやる。
狭い小屋であった。その上斧やら鋸やら鎌やら籠やら、そういった道具類が場所を取っており、また作業途中の丸太や木切れがやや雑然と壁の二方に積まれていた。その他には小さな囲炉裏の側にちょっとした食器類と敷き藁が生活空間を形成していて、青年がここで寝起きしながら仕事をしていることがうかがわれた。嵐は囲炉裏端にかけてある自分の着ていた衣類に目をやって訊ねる。
「洗濯までしてもらったことだしのう…ところでいつ乾くかのう?」
「夜までには乾きますよ。幸いここは薪だけは山ほどありますからね!何なら少し持っていきますか?お詫びのしるしに…」
「…いや、気持ちだけ受け取っておく…」
嵐は先ほど青年に突き飛ばされたときに着衣を泥だらけにしてしまった。雨の中を出て来たため、雨合羽は着ていたがそんなものでは大して雨は防げず、元々着衣も濡れていたためか、ようやく地面から起き上がったときには相当ひどい有様になっていた。もちろん地面に叩きつけられて無傷でいられるわけもなく、腕や足は擦り傷や打撲だらけであった。そして何とか青年の誤解を解いた後、青年が謝罪として彼の手当てを申し出て、青年の仕事場であるというこの小屋に案内されたのである。
いわれのない誤解を受けて、しかもそのために怪我をしてしまった嵐としては青年に多少なりとも怒りを感じてもよいはずであったが、そんな気持ちには到底なれなかった。怒るにはこの青年、気性が善良すぎるのである。しかもそれを隠そうともせずまっすぐ向かい合ってくる。嵐としては苦笑して赦してしまうしかなかった。
「そういえばまだお互い名乗りもせんままであったのう。わしは嵐。都に上る途中で、この雨で足止めされておるところだ。そなたは…見たところ、樵か?」
「はい!オレはこの村で樵をやってます!親父もお袋も山師で…あ、親父はもう……」
そこで青年は少しだけ言葉に詰まった。嵐はそんな彼を見て、本当に心根の善良な人間なのだな、と実感した。今時珍しすぎるほどに。
「あ、と…それで、えーと、オレの名前は…ハク、といいます。百、です」
「ハク、か。改めてよろしく。――とりあえず、服が乾くまでは厄介になる」
嵐はにっこり笑うと青年――百の手を握った。
バラバラと木の葉を叩く音に嵐は窓の外に目をやった。再び大粒の雨が降り始めたらしい。樵小屋の小さな窓の外はたちまち灰色の線に閉ざされてしまった。嵐は思わずふうっとため息をついてしまう。
「ところで百よ、ここから先に進むためには他のルートはないのか?」
「へっ?他の、ルートですか?」
なにやら囲炉裏の向こうでやっていた百が嵐の声に振り返った。
「どうやらしばらく雨は止みそうにない。しかしわしとてそんなにここで足止めされるわけにもゆかぬ…川を渡る以外で何か、この先に進む方法はないのかのう?」
嵐が早く旅を再開したい理由は色々あるが、一つには懐具合がさほど潤沢ではない、ということである。そもそも大金持ちなわけでもなく、皇都・大都に着くまでに必要な程度の準備しかしていない。別に数日のうちに路銀が尽きてしまうというほど逼迫した状況ではないが、余計な出費は抑えたいというのは当然のことであろう。その他には大都に着くのがあまりに遅れては彼の計画にも齟齬を来たしかねないということである。
彼は物見遊山のために旅をしているわけではない。かといって精密な計画が立てられているわけでもないが、とにかく大都へ行き、そこで行なわねばならない使命があった。そして何より、嵐自身が、一刻も早く吐蕃皇国へ行き、首都・大都へ行き、その様子を自分の目で耳で全身で知りたかった。黄瀬のような辺境の小さな街にいても吐蕃の様子は知ることができる。噂や伝聞、公式声明なども数日遅れとはいえ、きちんと届いてくる。しかしそれは断片的な情報でしかない。千の情報からその姿を予想するよりも実際にそこへ行って体験する方が何万倍も良いに決まっている。
「あんた、何処へ行くって言ってましたっけ?」
「ああ、大都へ行きたいのだが…」
「大都か…ところで何しに行くんです?見たところ商人とかってわけでもなさそうだし、傭兵とかにも見えないけど」
少し考えるような表情をしていた百がふと興味を持ったように嵐を見た。
「ああ、向こうで少し仕事があるのだよ。しかしとにかくわしが行かねば詳細が決まらんといういい加減な話でのう。まあ、そんなわけだからなるべく早く大都に着きたいのだが…」
「へえー大都で仕事かあ。かっこいいなあ。でも何か大変なんですねえ」
百の問いを嵐はさらりとかわし、当り障りのない返事をした。しかし百はそのことに気付かず、――或いは特にその返事に期待していなかったのか――納得したようであった。
「とにかく大都へまっすぐ着きゃいいんですか?特に途中どこかへ行かなきゃならんとか…」
「それは特にない」
もちろん嵐にとって吐蕃は初めて行く国であるから様々なところを見ることができれば彼自身嬉しいし今後のためになる、とも思うが、それは彼にとって特に優先事項ではなかった。
「ふーん、それじゃあ、川を渡るよりもここから少し沙漠へ引き返して北へルートを取ったほうがいいかもしれませんねえ…」
「北――か?しかしそれでは砂漠を突っ切るということか?」
「沙漠の道」は確かに沙漠地帯を横切るルートだが、そこは通商路として整備され、途中旅人のための施設がきちんと設けられている。だからこそ苛酷な沙漠の環境でも人間が生きて、安全に――もちろん完全に身の保証がある、ということでは決してないが――旅をすることができるのだ。
しかしその道を一歩外れると、そこは容赦ない沙漠の世界である。少なくとも素人が生き延びることのできる環境ではない。そこで生きることができるのは沙漠に適応した動植物。そしてそこでの生き方を身に付け、順応した人々――その名に「砂漠」の名を戴く民族、「砂漠の民」くらいのものである。
間違いなく嵐は自分が沙漠を突っ切る旅などに耐えられるとは思えなかった。
「いや、沙漠を突っ切らなくてもいいんですよ。もちろん楽なルートじゃないけど…でもその道なら川を渡るのはもっとずっと東の方になるし…そしたら随分楽なはずだし、橋も架かってる、立派な道まで出られるはずです」
「ほう、そんな道があったのか。それはありがたいのう!」
沙漠、と聞いて眉を顰めていた嵐であったが、百の言葉にぱっと表情を輝かせた。
「それはどういう道だ?是非教えて欲しいのだが」
身を乗り出してくる嵐に、百は何となく申し訳なさそうな表情になる。
「あー、ええと、言っとくけど、楽な道じゃあないですよ?山越え――まあ、そんな険しい山じゃないけど山道が続くし、このまま東へ出て沙南へ行ったほうがずっと安全で楽な道なんですから。どっちかというとそっちの方をお勧めしますけどね…時間はかかるかもしれないけど」
しかし嵐は引かなかった。
「構わんよ。多少の危険は承知の旅だ。それに困難な道とはいえ道として整備されておるのであろう?であればわしは構わんよ」
「まあ、東への道よりは少ないけど吐蕃へ直行しようって人は結構通ったりしますからね…大丈夫ですけど」
そう言うと、百は頷いた。そしてその辺りに転がっていた棒切れを拾うと、地面に線を引き始めた。
「えーとですねえ、ここが今いるところでー、で、これが川でー…」
数分後、嵐は百の説明した地図を頭の中に叩き込んだ。百の説明は決して分かり易いものとはいえなかったが、不足分は嵐の理解力と記憶力で補っていた。
「いやあ、助かったぞ百。そうだ、何か礼をせねばのう」
にこにこしながら言う嵐に、百が慌てたように頭を振った。
「いや、オレ、そんな大したことしてないし!礼どころかあんたにケガさせてるし!そんなの気にしなくても…」
しかし嵐は譲らなかった。
「そのことなら既に充分に返礼を受けておる。それとこれとは別だ。まあ、旅の途中のわしにできることというても大したことはないが、何かわしでおぬしの役に立つことがあればわしは嬉しいのだが」
尚も百は恐縮していたが、にこにこと屈託なく笑う嵐を見ていると、何となく気持ちが楽になってきていた。嵐の笑顔を見ていると、百の力みが抜けて何となくほっとできるのである。嵐はそもそも人懐こい外見の持ち主であったが、その纏う雰囲気や言動がそれを倍化させているようでもあった。
(何か落ち着けるんだよな、この人と話してると…)
そしてこの人になら何でも気軽に話せる。ついそう思ってしまう、そんな柔らかい雰囲気を持った人物であった。嵐という人間は。
「――あの、それじゃあ、あんた――薬とか、作れます?」
おずおずと、それでもどこか言いにくそうに百が訊ねた。
「薬か?まあ、何でも、というわけにはいかぬが――そこそこ」
嵐が軽く首を傾げるようにしながら答える。
「――えーと、それじゃあ…もしよければ、欲しい薬があるんですけど…手伝って、くれませんか?」
やはり言いにくそうに、百にしては珍しく何度も口篭もりながら言うのを、嵐は少々不思議に思いつつ、にっこりと笑って頷いた。
「それでは決まりだな!――もちろんわしにできるものであれば、ということにはなろうが――可能な限り手を貸してやるぞ」
嵐の屈託のない笑顔に、百もつられるように表情を緩めた。そして――ふと思いついたように訊ねた。
「ところであんた、その口調はどうにかなりませんか。何かやけにじじ臭いんですけど。顔に似合ってませんよ」
「……」
百という青年、どうやら悪気も何もなく無邪気に言葉のナイフを突き立ててくる人間らしい。そう、嵐は心の内で分析し、そっと気付かれぬくらいにため息をついた。