Chapter 26 ディズィール・特別閉鎖領域
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黒色の艦長服が光と共に全く別の物と化して行く。それは軍服ですらない。
元老院だけに纏う事が許された荘厳な刺繍が施された白いローブ。しかもそこに刻まれた紋章は現存する8名の元老院何れの物でもない。
フロンティアに生きる者なら知らぬ者はいないその紋章に、オペレーター達どころかザイールまでも目を見開く。
『王無き立法君主制』の政治形態をとるフロンティアに置いて、絶対的な最高位を示す紋章。それは元老院すらも束ねる象徴としてのみ存在し続ける。
永遠に継承される事の無い王位。それは『たった一人の死者』を即位させるために、当時の議会が法に刻んた地位だった。そして『その者』は以降、フロンティアで唯一、女王と呼ばれる存在となる。
荒木の存在すらも忘れられたかの如く騒然となる閉鎖領域で、オブジェクトの再形成としか表現しようのない現象が急速に進行して行く。霊的な圧力を帯びる閉鎖領域。圧倒的なまでの情報圧が発生している。
アイの白さを増した肌に浮き上がる光の波紋が爆発的に複雑さを増した。それと同時にサミアへと集まっていた信号伝達ラインが、まるで主を再認識するかの如くアイへと集まって行く。システム汚染領域が急速に復元して行くのが手に取るようにわかる。
無言で荒木達を見つめる黒い瞳に宿る光はあまりに強く、それは『人』の領域を遥かに超えて、空間法則すらも統べるが如きものだ。
復帰し始めたウィンドウが、全てのシステム権限がアイに戻され、正常に機能し始めた事を告げる。
一瞬にして覆った状況。それでも尚、僅かに目を見開いた荒木の表情は、驚きよりも歓喜の方が勝って見える。
「ほう…… これが完全覚醒と言うやつかね? 中々に興味深い。うん、これは確かに興味深いよ」
荒木から発せられた言葉に答える者はいない。
アイが艦長席から荒木を見下ろし、静かに口を開いた。
「荒木、何故貴方はそこまで……」
その声は多重に反響を繰り返した鈴の音の如く方向感が無い。思考伝達との区別すら出来ない。空間そのものが声を発したとしか表現しようのない異質な現象に、オペレーター達が息を飲み込む。
荒木の表情が僅かに歪んだ。その眉間にここに来て初めて皺が刻まれる。
「質問の意味が分からない…… もし君が僕の目的を訊いてるなら、君には理解できないよ。うん、理解出来るはずがない。あの葛城智也ですら理解できなかったのだからね。うん、間違いない」
逸らされていた荒木の瞳がアイへと戻される。その口元には再び卑屈な笑みが浮かんでいた。
「それより、僕は新たな興味が湧いた。うん、湧いたんだよ。サミア何処まで押し返せるかやってみなさい」
愕然と目を見開き硬直していたサミアが、荒木の言葉に我に返ったかの様に反応する。
「……了解した」
やや遅れて返事を返し、瞳を閉じたサミア。その褐色の肌に再び浮き上がる光の波紋。
アイの瞳が憂いを帯びてゆっくりと閉じられた。
「愚かな……」
それが再び開かれた瞬間、閉鎖領域内に衝撃波が発生したかの如き波動が駆け抜ける。
強烈な光を宿して逆立つ長い黒髪。空間を伝う光のラインが爆発的に光量を増す。
目を見開き両手で頭を押さえ苦しみ出すサミア。その様子に荒木が思案気に手を顎へと運んだ。
「ふむ…… 現時点では歯が立たないようだ。現時点ではね。うん、間違いない。仕方がないね……」
言いながら、荒木が何もない空間に右手を滑らせる。それが彼にしか見えないウィンドウを操作する動作だと気づいたザイールが声を上げた。
「艦長! 領域の隔離を! 奴が逃げます!」
僅かに瞳を動かしザイールを見下ろしたアイ。その瞳が持つ圧力にザイールの表情が瞬間的に強張る。
「安心してください。すでに手を打っていますよ、ザイール」
方向性の無い声と共に、空間に出現する光のサークル。それが荒木達を囲むように一瞬にして広がり、光で形作られた円筒状の隔離空間を形成する。
それでも尚、無表情で空間に片手を滑らせ続ける荒木。
「無駄ですよ。そこからは出られません。例えメルの力を使ったとしても」
響き渡った方向性の無い声は冷酷なまでに冷たく、関係の無い者までもが肩を震わせる。
光の障壁の中で床に手を着き、荒い呼吸をし続けるサミア。メルは虚ろな瞳で空間を見つめるのみだ。
その中で荒木だけが空間に滑らせる手を止め、口元に卑屈な笑みを浮かべていた。
「ここから出る? 必要ない。うん、必要ないんだ。君達は自身を特別視するがあまり、データー転送の本質を忘れている。
僕達はただ、ここから消えるのみ。それで全ては終了するんだよ。うん間違い」
ここで言葉を区切り、まるで閉鎖領域内を舐めるように見渡した荒木。その瞳に常軌を逸した笑みが浮かぶ。
「――では…… またいずれ……」
荒木の指先が再び僅かに動いた。次の瞬間、サークル内の全てのオブジェクトが光の粒子と化し四散する。
現象はそれでは終わらなかった。粒子の一つ一つが、大量の量子コードをまき散らし消滅して行く。
ザイールが愕然と目を見開いた。
「これは……!?」
掠れた声が閉鎖領域に響き渡る。
「自己をデリートした……!? まさかそんな事……」
ザイールの声に更にオペレーターの声が重なる。
「間違いありません。閉鎖領域の流入出情報量に、意識転送に相当する容量は記録されていません…… 彼等は消滅しました……」
オペレーターの報告に騒然となる閉鎖領域。中には起きた事実の重大さよりも極度の緊張からの解放に、放心状態と化すものもいた。
が、その状況も次の瞬間響き渡った『決して大きくはない音』に一変してしまう。
「艦長!」
オペレーターの一人が悲鳴にも似た声を上げた。
艦長席から前のめりに倒れ、不可視の床に伏したアイの姿。身体全体に激しいノイズが走り抜け、オブジェクトから大量の何かが剥がれ落ちる。それが光の粒子と化して四散していく。
乱れた長い黒髪が青味を帯び始め、毛先から特有の偏光色シルバーへと戻ろうとしていた。それでも尚、全身に浮き上がった光の波紋だけは消えず、大量の情報を吸い上げ続ける。
「艦長!」
声を上げ次々に立ち上がるオペレーター達。
「ディズィールと艦長の接続深度は!?」
響き渡るザイールの罵声。それに、一人のオペレーターのビクリと身体を震わせウィンドウに目を走らせる。
「接続深度…… うそ…… こんな値……」
「いくつなのだ!?」
再び響いた罵声に、オペレーターが震えながら唇を動かした。
「接続深度…… 100オーバー。理論限界深度を超えています……」
その報告にざわめき立つ閉鎖領域。
「救護班を! 早く! それとシステム関連のエンジニアを招集しろ! 場合によっては電子戦部隊を投入しても構わん。ハッキングまがいの事をしてでも、艦長の意識をシステムから呼び戻せ! 早くしないと飲み込まれてしまうぞ!」
ザイールの命令を受け、一気に慌ただしくなる閉鎖領域。その中で不可視の床を滑るように転がっていた指輪が誰に気付かれる事無く小さな音を立て倒れた。
2 サミア 中立地区 No.382:エクスガーデン 理論エリア
「何はともあれ第一ステージクリアだよ。次のステージに移ろうじゃないか」
地も無く天も無い空間だけの世界に、荒木の笑い声が木霊する。無限に広がる闇の中に五感が冴えわたった意識だけが存在するような感覚。不可視の身体が空間を漂う感覚に強烈な吐き気を覚える。
「――それにしても、思った以上の収穫だね。彼女を突けば、覚醒の何たるかが分かると思ったんだがね。あれは覚醒なんかじゃないよ。
出て来たのは『葛城 愛』本人だ。うん、間違いない。いや、違う。凄く近いが別の存在だ。以前僕は葛城智也の亡霊と会ったが、まさか今度はその娘の亡霊と会うとはね。最も娘の亡霊の方は意図して作られているのだろうね。うん、間違いない。けど、まさか彼等があんな物を隠し持ってたとは…… うん、ゾクゾクするね。これから面白くなりそうだよ。うん、本当に面白くなりそうだ」
再び声を上げて笑い出した荒木。が、それは唐突に途切れた。
「――人とは愚かなものだ。自らをルールで縛る事で、色々な尊厳を守ろうとする。けど、結局それらのルールは、また尊厳を守るために解釈を変えて、実質破られるのだからね。なら、最初からそんなルールなど設けなければいい……」
得体の知れない感情を宿した低い声が何も無いはずの空間に反響を繰り返した。
「あの状況でどうやって意識転送を……? 時間が圧倒的に足らなかったはずだ」
放っておけば永遠に続くであろう荒木の独り言の僅かな隙を突き、自分の声を割り込ませる。
その瞬間、光の粒子と共に闇の中に浮き上がる自身と荒木のオブジェクト。
「驚いているのかね? うん、表情は乏しいが君は驚いてる。うん、間違いない。
でもね、たいして難しい事では無いよ。うん、無いんだ。彼等の意識転送システムは、自分達の存在を特別視するが故に実に回りくどいやり方をしている。そして古臭い。2世紀も前のベーシックプログラムの転送方式に近い転送手法がとられているんだ。うん、間違いない」
「言っている事が良く分からない」
荒木の口元に歪な笑みが浮かんだ。その瞳に明確に宿る侮蔑。
「分からない? 分からないのか。説明が必要かい? 必要だね。面倒だね。本当に面倒臭い」
「なら、いい」
短く答える。この男と接していて一つだけ分かった事がある。どう答えようと、この男は結局訊かれた事については必ず答えるのだ。どうやら何でも話さずにはいられない性らしい。
「つまらないね。それは本当につまらない。君の悪い所は、そう言うところだよ。もっと物事に興味を持ったらどうなんだい? じゃないと生きてる意味がないだろ? うん、間違いない――」
間に全く意味を成さない思考を言葉として紛れ込ませるのも特徴だ。ここで口を開けば、話は更に横道にそれてしまう。ただ、黙って聞くしかなかった。
「――まぁ、でも、おかげで説明する気になって来たよ。うん、仕方がない。特別に説明するよ。うん、本当に特別だ。
意識転送と言ってしまえば、それらしく聞こえるけどね、実際に送っているのは『意識そのもの』ではないよ。どうやら、彼等ですら、意識そのもののソフトウェア化には成功していないみたいだ。この事実には失望感すら覚えるよ。もしかしたら、それに挑戦すらしていないのかもしれないね。うん間違いない」
「話が本筋から逸れた」
思わず出てしまった言葉。それに激しい後悔に襲われる。此処から話が逸れて、結局なんの話か分からなくなってしまうのは目に見えていた。それをどう修正するか、必死に思考を巡らす。
「君の思考は僕に筒抜けだ。うん、間違いない。続きが知りたいんだね? うん、君は知りたくて仕方ない。うん、間違いない。
僕の悪い癖だ。頭の中が常にうるさくてね。よく、自分が何を考えていたのか分からなくなるんだよ。うん、困ったものだ。えっと、何の話だったけ? ああそうだ、意識転送の話だったね。
実際に転送されるのはオブジェクト化された脳の構造、神経ネットワーク構造データーだよ。なんら特別なデーターではない。ただのオブジェクトデーターの転送となんら変わらないんだ。うん、特別じゃない」
闇に浮かび上がる光の線だけで構成された『人の脳』。荒木の瞳がそれに向けられる。
「けどね、彼等はその転送に実に面倒な段取りを踏むんだよ。まるで上から断層写真を撮り、一枚ずつ送るようなやり方だ。そして一部送っては整合性を確認し、転送先のデーターと未転送データーを逐一結合させて転送中ですら脳活動を維持する。一時たりとも意識が途切れないようにするためにね」
闇に浮かぶ脳オブジェクトが上からスライスされたかの如く次々に隣へと移動し、半分程で停止する。だが、まるでその二つは空間を超えて繋がっているかの如く、中を巡る光が断層部分でもう一方のオブジェクトへ転移していた。
「――元データーの抹消に関しても一部ずつ、未転送のデーターと転送先データーの連結後に行われる。途轍もないデーター往復量だよ。うん、本当にうんざりするくらいにね。
驚くことに、物理的な転送距離が遠くデーター往復に時間が掛る場合ですらも、このやり方は変わらない。タイムレートを落としてまで、転送中の脳活動を維持している。体感にしてコンマ数ミリ秒。この間の意識を維持するために途方もないロスだと思わないかね?
電子化された意識は、光速で空間を移動出来ると言うのに、この回りくどいやり方のために、宇宙空間に大量の中継衛星や惑星を浮かべている始末だ。うん、不合理極まりない」
まるで興味を失ったかのように脳オブジェクトから視線を逸らした荒木。その瞳が怪しい輝きを帯びて此方に向けられた。
「――一気に送ってから、整合性検証と元データーの抹消で良くないかね? いや、そもそも全部送る必要などない。うん、無いんだよ。訪れた事があるサーバーにバックアップを取っておいてオブジェクトの構造変化が生じた部分のデーターだけ転送すれば十分だ。実際彼等も脳以外のオブジェクトはそう言った転送方式を用いている。と言うよりデーター転送における常識だよね。うん、間違いない」
空間に複製される脳オブジェクト、そしてその一方が消失する。
「それは複製を作って、オリジナルを消去すると言う事ではないの?」
言った瞬間、荒木の口元の歪な笑みが強さを増した。
「データー転送とはそう言う物だよ。彼等の方式だって、それを無駄に細分化し、一部ずつ行っているに過ぎない。
完璧な複製を他所で作り、オリジナルを消去する。これは、オリジナルが他所に移動したのと全く変わらない結果だ。うん、間違いない」
「そう…… じゃあ、あの瞬間私たちは消滅したのね」
此方の表情の一切を見逃すまいとするかの様に、荒木が顔を近づけて来る。
「……だが、僕たちはこうして今ここに居るだろう? 何か問題かね?」
「どうせ何度も死んでる身。問題ない」
その瞬間、まるで子供の様な笑みを浮かべた荒木。
「良い答えだ。うん、本当に良い答えだよ」
「ねぇ、もう一つ聞いてもいい? 貴方は私を使って何がしたいの? 世界を滅ぼしたいの? それとも作り替えたいの?」
得体の知れない感情が宿った瞳がこちらに向けられる。その口元に既に笑みは無い。
「君もそれを訊くのかい? 僕はこの世界をどうこうしようなどと思っていない。と言うより、興味が無いんだ。うん、興味がない。観察するのは好きだけどね。うん、好きなんだ。あれ? って事は興味があると言う事かな? いや違う。うん、違うんだ。そうじゃない。
僕はただ知りたいだけだよ。うん、知りたいだけだ。多くの歴史的な科学者達がそうであったようにね。僕は世界の正体を知り、その外側が見たい」
言っている事の意味が分からない。
「世界の外側?」
結果として言葉の一部を切り取り繰り返すのみとなってしまう。
「僕は生まれつき脳が壊れていてね。そのせいで目に映る全ての物が、線の集まりに見える。そう、それはまるで出来損ないか開発途中の仮想世界のような感じだ。知識が付き始めると、ある頃からはその線の上に数式が重なって見えるようになった。僕が見ている世界は常人には理解できないとても奇妙な世界だよ。もっとも僕にとってはそれが普通であるんだけどね」
空間に浮かび上がる光線だけで構成された地平線。その上に一気に都市部を思わせる街並みが浮かび上がる。その全てが線だけで構成されているが故に、目眩すら起こすほどの複雑極まりない図形と化す。空間と奥行きに対する視覚的な錯覚を起こし、それを修正しようとする脳が悲鳴を上げる。さらにその全てに理解不能な数式が重なった。
行きかう線だけで構成された人を始めとするオブジェクト群は、奇妙な残像を残し、多数のオブジェクトが移動した軌跡が複雑に絡み合う。空間が大量の線と数式に埋め尽くされて行く。
が、それは唐突に全て消失した。後に残される漆黒の闇。
「――そのせかな? 僕は、強い一つの疑念に取りつかれているんだよ。うん、取りつかれているんだ」
「疑念?」
此方から逸らされ、まるで何かを思案するかのように宙を泳いだ荒木の瞳。
「言っても理解してもらえないだろうからね。うん、理解できるはずがない」
「貴方を理解出来る人間なんて、この世にいるとは思えない」
荒木の瞳が此方へと戻される。
「酷い事を言うね君は。うん、本当に酷い。まぁ、いい。それは僕も分かっているつもりだよ。君は『量子実在論』と言うのを知っているかね?」
「いいえ」
荒木の表情が明らかに失望したものへと変化する。
「残念だ。うん、本当に残念だよ。これ以上、話の進めようがないじゃないか……」
「なら、いい」
荒木の目に露骨に苛立ちが宿った。
「またそれか。どうして、君は本当に…… 僕をイライラさせる事が怖くないのかい? 君は、自分が消されてしまうとは思わないのかい?」
「さっき消されたばかり」
その短い答えに荒木が面食らったように目を見開いた。その口元に再び浮かび上がる卑屈な笑み。
「ああ、そうだったね。確かにそうだった。君と話していると、自分が何を言っているのか分からなくなってくるよ。いや、違う。それは何時もの事だ。うん、間違いない
それにしても君は変わっているよ。僕が言うのも何なんだがね。本当に変わっている。間違いない。
一度君の脳オブジェクトがどうなっているのか僕に解剖させてくれないかね? 大丈夫、痛いのは君じゃなくて複製の方だよ。いや、駄目だ、前に自分で試した時は結局何も分からなかった。うん、分からなかったんだ……」
荒木が何を言っているのか分からない。
「それで? 貴方の目的は何?」
繰り返された疑問に荒木が顔ごと瞳を此方に向けた。だがそこにはいかなる感情も宿っているように見えない。それは、自分を通り越し遥か遠くを見ているようにすら見える。
「しつこいね君も。言っても理解できないと言っているだろう。
……僕は世界を内側から外側にこじ開ける術を探しているんだよ。それが叶うのなら、内側の世界などどうなっても構わない。うん、構わないんだ……」