Chapter 22 『予兆(後編)』 サラ ディズィール・理論エリア・特別閉鎖領域 臨時構築空間
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そこは医務室と言うにはあまりに何もない空間だった。部屋にあるのは簡素なベッドとデスク、それ以外には何もない。本来ならあるはずの医療機器の類が一切ないのだ。
考えて見ればそれは当然なのかもしれない。この世界において肉体はオブジェクトであり、物理的な治療を必要としないのだから。
空間に幾つか浮かぶウィンドウはどれもがアイの脳活動に関わる情報を示したものだ。その表示内容の大半は自分には理解できない。それでも理解できる僅かな情報だけでも今のアイが普通の状態では無い事が十分すぎる程に分かってしまう。
簡素なベッドに横たわるアイ。その細い首筋から顔にかけ幾何学的な紋様が浮かび上がり、その上を絶えず光が流れる。
意識を失って尚続くディズィールとの超高深度接続状態。この瞬間もアイはこの艦に流れる大量の情報の処理に追われているのかもしれない。むしろそれが故にアイが目覚める事が出来ない気がしてならなかった。
けど、信号を外部からの操作で強制的に断つのは、アイとディズィール双方にとって非常に危険な行為となるが故に出来ないと言う。
「ねぇ、まさかずっとこのまま何て事無いわよね……?」
横たわるアイに向け漏れた言葉。返事は返って来ない。
空間の一部に現れる光の粒子。先ほどから誰かが訪れる度にこの現象が起きる。空間転移を多用する彼等にとって、扉は飾りの様な物なのかもしれない。
「艦長殿の様子は?」
背後で良く知った声がした。特徴のある硬い口調。振り返らなくても、その人物の服装まで含めた容姿がはっきりとイメージ出来る。美玲に違いなかった。
自分と彼女は相性が悪い。生まれも育ちも価値観も違う。それでも、彼女と絶妙な距離が保てるのは、間に入るアイや響生がいるからに他ならなかった。
けど、今はその双方とも間に入ってはくれない。
「見ての通りよ。目覚める兆候すらない。アイとディズィールの接続深度は未だに異常な値を示したまま」
「……そうか」
途切れそうになった会話。それに気まずさを感じて、質問を重ねる。
「そっちはどう?」
「ディズィールも相変わらずだ。一切の制御を受け付けない状態が続いている。偏西風の影響で徐々に東に流されてるらしい」
「漂流状態って事?」
その質問に唇を噛みしめた美玲。
「そう言う事になるな」
僅かに間を置いて返って来た声は、普段の彼女からは想像も出来ない程に掠れていた。
「まさか落ちたりしないわよね?」
思わず出た言葉。それに美玲は『分からない』とでも言うかの様に首を横に振った。
「無いとは思うが、ここに来て力場の発生が不安定になってるようだ。その影響で高度も徐々に下がっている」
「それってマズくない……?」
「まずい…… であろうな。このまま高度を下げ続ければ、いずれは地上ゲリラが持つ対空ミサイルや、速射砲の射程に入ってしまう。そうなってしまっても艦の制御が利かない今、ディズィールは防衛措置を講じる事も反撃することも出来ない」
美玲の言葉が示す事の重大さに言葉が出ない。訪れる静寂。それに耐えきれずに再び重ねた質問。けど、答えは目に見えていた。
「通信は回復したの?」
「そっちもまだらしい。地上波のチャンネルは高位命令、恐らく艦長殿によって完全に封鎖されてるようだし、衛星回線もまだ復帰しない。
衛生に異常が起きた事は月詠も把握してるはずだから、動いていると思うが、現状どうなっているのかすら知る術が無い」
「まさに八方塞がりね…… 何故…… こんな事になってしまったんだろう」
視線を美玲からアイに戻し、思わず出た溜息。彼女が目覚めない限りこの事態は収拾がつかない気がしてならない。
「聞いているだろう。インデペンデンスが自爆したんだ」
初耳だった。思わず目を見開き、再び視線を美玲へと向ける。
「あの荒木が自爆? あり得ないわ」
「確かに荒木がインデペンデンスに乗っていたかは疑わしい。恐らく奴は最初からインデペンデンス内部で搭載した核ミサイルを起爆するつもりでいたに違いないからな。狙いは衛星群だろう。上空通過タイミングが重なった時をピンポイントで狙っている事からも間違いない」
「追い詰められたが故の自爆ではないってことね?」
「その通りだ。単なる自爆としては電磁波放射パターンが不自然すぎる。上空へ抜けた電磁波強度が異常な値を示したそうだ。恐らくそうなる様にインデペンデンスの内部の構造に細工がされていたと発令所は見ている。
この戦闘自体も全ては上空に衛星を集めるために仕組まれたんだ。結局我等がやっていた事は奴に乗せられ、巨大な恒星爆弾を追いかけまわしていたにすぎない」
全身を走り抜けた悪寒。
「衛星の破壊が目的…… そんな…… そんな事のために、大気圏内で恒星爆弾を使うなんて……」
小刻みに震え始めた身体。それが長い年月に渡り及ぼす影響を考えずにはいられない。地上は唯でさえ荒廃し、住める場所が限られているのだ。
「奴ならそれを躊躇なく無くやっても不思議では無い」
「そうね……」
頷くことしかできない。
「だが、それでも艦長殿のお陰で最悪は免れた」
その言葉に顔を上げる。
「どういう事?」
「艦長殿が抱いたイメージ、いや、その懸念を元にディズィールが演算したシミュレートは、こんな物では無かった。艦長殿が手を打たねばそれこそ地球規模の惨事になっていたはずだ。
爆発の直前に放たれたディズィールの主砲。その電磁干渉があったからこそ、インデペンデンスに搭載された恒星爆弾が、全て爆発するのだけは回避された。あのような惨事にあってディズィールに人的被害が出ていないことは奇跡としか言えん」
僅かに力が籠った美玲の声。
「けど、そのせいでアイが……」
「そのせいだけじゃ無いと思います……」
唐突に会話に割り込んだ声。美玲があから様に表情を歪める。
空間に迸る強い光。やがて集まった光の粒子が小柄な女性のオブジェクトを形成した。ツインテールが印象的な幼い少女だ。年齢的は12、3と言ったところだろうか。
その外見のためか軍服がやけに浮いて滑稽に見える。肩には発令部署である閉鎖領域に所属する者である事を示すワッペンが縫い付けられていた。
士官クラス。彼女が見かけ通りの年齢だとするなら、余程の者と言う事になる。最もオブジェクトの年齢設定が自由であるフロンティアにおいて、外見と年齢がイコールである事は殆ど無い。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりは無かったんですが…… 私はこれを届けに来たんです」
鋭い視線を向けた美玲にやや怯えた様な表情をし、手を差し出した少女。その上には銀色に輝く指輪が乗っていた。
表面に刻まれた細やかな細工と内側に刻印された日付が、それが唯の指輪で無い事を物語っている。
「これ…… 閉鎖領域の片隅に落ちてたんです。副長が艦長のだって…… 恐らく艦長が倒れた時に……」
それを見るなり、顔にありありと複雑な表情を浮かべた美玲。そして目が合った瞬間まるでそれを隠すかの様に此方に背を向けた。
少女が静かに歩み出て、ベッドの隣に配置されたデスクにそっと指輪を置く。
「それで…… 違うとはどう言う事だ?」
少女に背を向けたままの美玲。
「爆発の後、ディズィールはハッキングを受けたんです。それも電子戦部隊が全くと言っていい程、歯が絶たないレベルの。セキュリティー突破スピードも異様で、『Starting Collective Consciousness System』に介入して来て……
私、その中で敵を見ました。あれは普通じゃないです……」
顔にありありと怯えた表情を浮かべ、震えだそうとした自身の身体を抑え込むように抱えた少女。
「本当は、こんな事よそでペラペラ話して良い事じゃないのかもしれません。けど、艦長が目覚めないのは、その敵のせいかも知れなくて…… だから艦長の友人である貴方達には聞いてほしくて……」
2 2時間前 ザイール 特別閉鎖領域
――これは…… 艦長のイメージ? いや、ディズィールのリスクに対する演算シミュレート…… これが現実に起きようとしていると言うのか――
自身へと流れ込む艦長アイの意識。それによって再現される荒木が嘗て行った様々な言動。それが、先のシミュレートが単なる懸念では無い事を告げる。
直後に起きようとしている極めて可能性の高いリスク。全力で阻止しなければならない。
『Starting Collective Consciousness System』によって超効率化された情報伝達が、本作戦に関わる全ての者を同一の目的へと動かす。高レベル同調共有される意識。もはや命令を口に出す必要すらない。
砲雷長アルギスが何故主砲発射シークエンスを実行していたのかが今ならはっきりと分かる。そして彼は正しい。
――反粒子トランスレーター起動。量子超弦振動への関渉開始――
――粒子転換率、70、80、90……――
オペレーター達の意識と共に感覚的に伝わるディズィールの状態。溢れんばかりの巨大なエネルギーが前方に展開された浮遊ユニット群に集まって行く。
――高エネルギー放射線遮蔽フィールド展開――
――誘導集積光、出力90%で固定。超流体誘導レールへのチャージ開始――
――射線上クリア――
――超電磁加速反陽子砲、放射――
浮遊ユニット群が形成した砲塔から眩いばかりの光が迸る。先行して放たれた集積光が切り裂いた大気密度の極端に薄い誘導空間を、亜光速にまで加速された反粒子が駆け抜けた。
狙うはインデペンデンス上方の空間。そこでリバイアスの自爆によって発生した水柱を主砲が直撃する。
荒木が持つ恒星爆弾の中性子消失量と比べれば、ほんの僅かな質量とは言え、至近距離で起きた対消滅は周囲の空間に強烈なガンマ線をまき散らす。それによって生じる電磁波は恒星爆弾の起爆装置を無効化するだろう。
インデペンデンス上空に出現する巨大な火球。発生したすさまじい衝撃波の影響をうけて、海面が瞬間的に半球状に陥没する。
その中心で高強度の電磁波を浴びたインデペンデンスが激しい帯電光をまき散らした。
陥没した海面へと濁流となり流れ込む海水。それに飲み込まれる様にしてインデペンデンスが沈んで行く。
その後に残されたのは先の戦闘が嘘の様に穏やかな海だった。
『Starting Collective Consciousness System』の終了によって解放される意識。閉鎖領域内のウィンドウが次々に復帰して行く。
再展開されたマップにはインデペンスを示す光点は既になかった。
「インデペンデンス、反応消失しました……」
閉鎖領域内に広がる安堵。
――とは言え…… 上層部に何と言い訳するか……――
拿捕の命令を受けていたインデペンデンスを結果的に沈めてしまったのだ。面倒な書類の一つや二つは書かなければならないだろう。
そんな事を考え始めた矢先だった。
「海中に高熱源反応! 中性子放射!? これは!!」
オペレーターの裏返った声が閉鎖領域内に響き渡る。
ウィンドウ内で急激に膨れ上がる海面。それが巨大な水柱と共に弾け飛び、中からウィンドウ越しにすら直視することが困難に思える程の光の塊が出現する。
やがて周囲の海水を押しのけ形成されたのは、円錐状に広がるあまりに巨大な光の柱だった。通常の恒星爆弾が爆発したのとは明らかに違うエネルギー放射が成されている。
海面を高速で駆け抜けて行く波動。大気中に衝撃波が白い帯を引きながら円盤状に広がって行く。
異変はそれだけで終わらなかった。閉鎖領域内に展開されたウィンドウの大半がエラーを表示し始める。
「衛星が!」
オペレーターが上げた悲鳴。
作戦領域の映像を映し出していたウィンドウまでもが激しいノイズと共にブラックアウトしてしまう。
「そんな…… これでは、作戦エリアを離脱した艦載機の位置も分からないじゃないか……」
若いオペレーターが愕然とした声を漏らした。それをきっかけに一気に閉鎖領域内を混乱が支配する。
「落ち着け! 使える回線は衛星だけではないであろう! 地上波、光学通信、何でも構わん。あらゆるチャンネルを使って情報を収集しろ!」
「はい!」
3 サラ 理論エリア・特別閉鎖領域 臨時構築空間
少女の瞳に宿る怯えが強さを増した。
「その命令を受けて、私は普段は絶対に使用する事の無い民間のネットワーク網への回線を開いてしまいました…… その直後です。
あいつが…… 敵がそれを待っていたかの様に…… 閉鎖領域にあいつが……」
少女の身体が遂に小刻みに震えだす。
「ちょっと落ち着いて。ゆっくりで大丈夫だから」
思わず出た言葉。
それに少女が力ない笑みを強引に口元に浮かべようと試みる。だが、それは引き攣り見るに堪えない。瞳には尚も強い怯えが宿っていた。