Chapter 20 響生
1
自身の頭の中へと流れ込む、強い嫌悪感を伴った大量のイメージ。
――これは恐らく『純血派』による嫌がらせだ――
脳裏に美玲の言葉が鮮明に蘇る。それを語った美玲の殊更悲し気な表情までもがはっきりと思い出された。だが、それが何時の記憶なのかが分からない。
――なんだこれ……?――
激しい混乱が襲う中、胸を締め付けるが如く感じた切ない感情。その狂おしいまでの感情の原因が何であり、誰に向けられているのか分からない。
さらに激しさを増す視界のノイズと頭痛に、意識すらも持って行かれそうな感覚に取りつかれ、思わず首を大きく横に振った。
その瞬間耳に入った大声。それに酩酊しかけていた意識が一気に現実へと戻される。
反射的に声のした方向へと向けた視線の先では、半ばパニック状態に陥ったアーシャが身を捩り拘束帯から逃れようとしていた。
「こ、こんな物!」
再び上がった大声。それに呼応するかの様に彼女が着込む可動式装甲ジャケットが急激に肥大化する。
「おい、よせ!」
思わず叫ぶがアーシャは聞き入れようとしない。
視界上に浮かび上がるアラート。それが拘束帯に仕込まれた逃走防止機構が作動した事を告げる。高電圧の放電に備えて始まるチャージ。
考えるより先に身体が動いた。左手のグローブを脱ぎ捨て、突進するかの如くアーシャに駆け寄る。
突き出された左手が、拘束帯を握りしめた次の瞬間、迸る青い電光。全身の毛が逆立つかのような感覚と共に電撃が偽りの身体を突き抜ける。
青一色に染まる視界の中で、アーシャの瞳が驚愕を宿して見開かれた。
「頼むから暴れないでくれ…… これは警告だ。この電撃は次こそ君に苦痛をもたらす」
アーシャの見開かれた瞳が冷たい光を宿して静かに細められる。その表情に彼女が冷静を取り戻したことを知った。
「呆れた。こんな物を付けて置いて、いざ作動しそうになったら、自分の身体使って阻止するなんて。本当に聞いた通りの人格…… こんな時代に神経を疑う。まさかこんなに早く逢えるなんてね。あいつの言った通りになった」
彼女から発せられた思いもよらない言葉。それに感じた僅かな混乱。
「……俺を、知っているのか?」
彼女の口元に僅かに浮かんだ挑発的な笑み。
――あいつ……? あいつとは荒木のことか!?――
直前に放った言葉から得られた情報を処理しようと、巡り始める思考。質問に答えようとしない彼女に更に新たな質問を重ねる。
「荒木の目的はなんだ!?」
「さぁ? 私には分からない。そもそもあいつを理解できる人間なんていない」
「じゃあ、お前の目的は何だ」
「私に目的なんてない。私はただ指示されたとおりに動いた。そしたらあいつが言う通りになった。それだけ」
一切表情を変えずにそう言ったアーシャ。だが、それは嘘だと感じた。その言葉が正しければ、彼女は自身が捕まる事を知っていて尚も行動したことになる。目的も無しにこんなリスクを冒す人間がいるだろうか。
「君には双子の姉がいたはずだ。彼女はどうした?」
それを言った瞬間、アーシャの表情が目に見えて変わった。下唇を噛みしめるようにして逸らされた視線。
「貴方には関係ない」
彼女の口から先ほどとは打って変わって掠れた声が漏れた。そしてそのまま口を噤んでしまう。
暫くの後、再び顔を上げた彼女の瞳には、如何なる感情も宿ってはいなかった。
「それで? 私をどうする気?」
「君を中央に連行する」
その言葉を受けて尚、彼女の表情は変わらない。
「そう。けどこれだけは警告しておく。貴方達はあいつの手の上で踊らされてる。私のニューロデバイスはあいつに手を加えられててもおかしくない。だから私を連行する事は大きな災いを貴方達に招き寄せるかもよ? それでも連行する?」
「そう命令されてるからな」
「そう」
短い答えを返した後、それ以上の一切の問答を拒否する意思を示すかの如く、アーシャは口を堅く結び、視線を逸らした。
会話が途切れると同時に、緊張感を伴った静寂が空間を支配する。
それを打ち破ったのは、場の雰囲気に全くと言っていい程そぐわないハイテンションな声だった。
『話、終わった? せっかくだから親父っちの顔見ていきたいんだけど』
そのあまりに緊張感の無い言葉に、逆に騒然となる場。全ての者の視線が飯島に集中する。
「はぁ? 何言ってるんだこいつは!?」
暫く後、ヒロから上がった怒鳴り声。
『え? 駄目なの?』
それとは対照的にキョトンとした声が小さなサソリから上がる。
『ぜぇったい、その方が良いと思うんだけどなぁ、俺っちは。響生っちもそう思うでしょ?』
まさか自分に話が振られるとは思っておらず、瞬間的に止まりかける思考。咄嗟に「何考えてるんだ!?」と言いかけて、それを飲み込む。
瞬間的に加速される思考レート。その中で頭をフル回転させる。自身の置かれた状況と、出来る事を整理し、次にとるべき行動を決定しなければならない。そして導き出された結論。
「ああ、そうだな」
言った瞬間、ヒロが愕然と目を見開いた。
「なっ、お前までっ! 状況解ってるのか!?」
「この状況だからこそだ」
「意味わからねぇ。気でも狂ったんじゃねぇのか?」
吐き捨てるように放たれた言葉。それに答えようとした瞬間、飯島に割って入られ発言の機会を失ってしまう。
『頭わるいね君、俺っち達には足が無いんだよ? まさかディズィールまで徒歩で行く気?』
「んだとぉ!? このやろう!」
額に血管が浮かび上がらせ、飯島に詰め寄ろうとしたヒロを手で制す。
「止めろって二人とも」
思わず漏れる深い溜息。
『まぁ、親父は失脚してるし流石に船はどうにもならない可能性があるけど。それでも出来る事はあると思うよ。少なくとも、あそこには俺っちが昔使ってたラボもあるし、そっちの子、伊織っちの延命は出来るかもしれない』
飯島の言葉にヒロが目を見開く。
「それは名案です昭仁様。それに宗助様もきっとお喜びになります」
橘が顔に張り付いた様な笑みを浮かべ、賛同する。
『でしょう?』
飯島の勝ち誇ったような声に、ヒロの顔に浮かんだ苛立ちが増す。
『それに――』
言いながらゆっくりと此方へと小さな頭を向けた飯島。その声のトーンが真剣味を帯びて僅かに落ちた。
『――響生っちは親父には会っといた方が良いと思うよ。俺の親父はクローズド処置を受けた感染者だ。自分の未来が気になるだろ?』
2 ヒロ エクスガーデン地下排水路
照明らしい設備が全くない薄暗く長細い空間を歩き始めてどれくらいの時間がったのだろうか。
壁に刻まれた信号ラインを時折、強い光が流れていく。その度に浮かび上がる景色は、何とも言えず辛気臭い。旧時代の下水道にも似た空間。
そこに流れる排水は気温より温度が高いらしく、水面から湯気が立ち上る。おかげで通路は異常に湿度が高く息苦しさを感じる。
先頭を歩く橘が持つライトが後方へと向けられ、足元を照らすのは自分への配慮なのだろう。死霊達は光を必要とせず空間を正確に認識出来ると言う。
橘に感じる強烈な違和感。同じ人型の義体でありながら、響生や伊織とは明らかに違う。精巧なまでに『人』を再現しているのに何かが決定的に違うのだ。それがある種の拒否反応にも近い感情を抱かせる。
橘の直ぐ後ろには二体のドロイドに両脇を固められ歩くアーシャ。彼女はあれ以来一切の言葉を発していない。
自身の隣を歩く伊織と更にその隣を行く響生の間で、たまに行われるぎこちない会話を無意識に聞いていた。
「指輪してるんやね」
その言葉に響生の手へと視線を走らせる。だが、そこには何もはめられていない。
「そっか、伊織には見えるんだよな……」
言いながら、それを隠すかの様にグローブをはめた響生。
「仮想オブジェクトって事は、相手はフロンティアの人やね。ひょっとして艦長さんやない?」
「ああ……」
「やっぱり。そうやないかと思ったんや、なんか二人の雰囲気がね。それにしても響生はどえらい美人さんをゲットしたんやね」
『艦長』と言う言葉にフラッシュバックされる記憶。レジスタンスの地下施設でホログラムウィンドウ越しに見たディズィール艦長の姿が鮮明に蘇る。
皮膚の露出部に浮かび上がる幾何学的な紋様を駆け上がる眩いばかりの光。シルバーブルーの長い髪が僅かな光を宿して、重力から解放されたかの如く宙を舞っていた。
異常なほどに整った容姿。光の波紋が浮き上がった白い顔の上で、静かに開かれた青い瞳は、この世の全てを統べるかの如き輝きが宿る。
その映像に戦慄する程の恐怖を感じた事を覚えている。伊織は『あれ』を美人と表現したが、あれは美人とかそう言う次元の話ではない。あれは決して『人』ではない。自分達の想像を遥かに超えた『何か』とだと感じたのだ。
そんなものと響生が深い関係を築いた事に強い憤りを感じる。ある種のまやかしのような何かに取りつかれているのではないか? とすら感じた。
「艦長って…… お前、随分と出世したんだな?」
皮肉を込めて出た言葉。それに響生はちらりと視線を此方にむけ、前方に瞳を戻した。
「違う。アイは幼馴染だ。ずっと俺等のそばにいたんだ。見えないだけでな」
その言葉に意にし得ぬ戸惑を覚える。
「どういうことだ?」
「俺がウェアブル端末を常に耳に着けてたの覚えてるか?」
「ああ」
呼び起こされる遠い日の記憶。響生の耳にはめられた小さな受信端末。
「アイは、あれのペアデバイスの中に居たんだ。何度も言おうと思った。アイをヒロや伊織にも紹介したいと思った。けど…… 結局言えなかった。俺もあいつも漠然とした恐怖を持ってて……」
その言葉が指し示す可能性に愕然となる。
「あの時から、傍にいた? それって……」
「アイは純粋なフロンティア生まれだ。育ちは現実世界って事になるのかもだけど」
「純粋なフロンティア生まれ…… 生まれながら肉体を持ってないってことだよな…… そんな『人』と呼んで良いのかすら分からない得体の知れない奴をお前は……」
響生の瞳が僅かな憂いを宿して細められる。
「得体の知れない奴じゃない。言ったばっかだろ?『幼馴染だ』って。理解しろとは言わないつもりでいた。
けど、もうそうも言ってられない。それはそのままお前にとっての『伊織に対する価値観』に繋がる。お前は答えを出したんじゃないのか?」
その言葉に胸を抉られるような感覚と共に強い怒りがこみ上げる。
「ここに来て説教かよ? 分かっちゃいるんだよ! うんな事はよ! でも、簡単じゃねぇよ……」
尻つぼみとなった言葉。それは自分でも驚くほどに弱々しい。
「――俺はお前とは違う。お前は死霊達の世界で奴等と生き、同じ感覚を共有してるんだろう。
けど、俺は…… 伊織とこの半年間一緒に行動して分かったんだ。伊織はもう、お前達の世界の住人だ。見ている景色も俺とは違う。伊織には俺が見えない物が見えてる。それだけじゃねぇ! 生きていくのに必要な行動すらも、もう俺とは違うんだ! クソッ!
認めるよ…… 俺とここ半年間、一緒に行動したのは間違いなく伊織だ。伊織はここに居る。あの時死んだわけじゃねぇ。けど、だからこそもう一緒にいられねぇ! 俺と伊織はもう…… 違うんだ」
「ヒロ……」
伊織から掠れた声が漏れた。
「お前ははそれで良いのか?」
響生の短い言葉に感情が掻き乱されるような感覚に襲われた。
「良い訳ねぇだろ! けどよ、伊織は俺と一緒にいたんじゃ飯も食えねぇ、泣くことすら出来ねぇ。こんなんじゃ生きてるって言えねぇだろ!? だからよ……」
言葉の最後で消え入りそうなまでに、小さくなってしまった声。
「響生、私も肉体を失って、それでもヒロと一緒に現実世界で生きることを選んで、分った事があるんよ。
きっと肉体を持つ者がフロンティアで生きるより、肉体を持たない者が現実世界で生きる方が遥かに厳しいんや。
フロンティア行けば私は『人』でいられる。けどこっちじゃ違うんよ。『人』らしい事が何も出来へん。本当に『何も』出来ないんや…… 当り前のことすらも……」
そう言った伊織の声は震えていた。
胸を刺すような痛みを伴った感情が心を侵食して行く。答えを求めて視線を移した響生の横顔。
だが、その瞳は強い憂いを宿して閉じられてしまう。
――なぁ、響生お前は……
3 エクスガーデン理論エリア、特別閉鎖領域
特別閉鎖領域の一角。その空間は一人の人間に与えられた領域としては異常に広かった。
ドーム状の構造体は床を残して金色に縁どられた荘厳なデザインの白い素材で覆われ、床は大理石特有の複雑な模様を描く。
さらに空間を両断するかの如く中央に引かれた絨毯は複雑極まりない刺繍が施されている。その雰囲気はこの空間に与えられた『執務室』と言う名からはかけ離れ、謁見の間の如き様相だ。
空間に置かれた全てのオブジェクトが異常な高級品であり、領域内の容量の殆どがそれに費やされていた。
正面の壁に沿い、弧を描く様にしておかれたデスクに足を投げ出すようにして座る一人の男。中立エリアNo.382エクスガーデン代表、ロナルド・ベルイードである。
白を基調としたフロンティアにおける正装に身を包んだ男が、赤い絨毯の上を通り、恭しくベルイードへと近づく。
そしてデスクの前で立ち止まると、片膝を落とした。
「例の感染者と橘の接触を確認しました。どうします? まさか『飯島 宗助』の子が同行しているとは……」
その言葉にベルイードは不機嫌をありありと顔に浮かべた。
「ふん、あのバカ息子には何も出来んさ。捨て置け。
それより次の議会の原稿は出来てるんだろうな? そうだ今回の自爆テロでサーバーへの被害が無かった事で、ダイブ施設をサーバーから遠ざけた私の判断が正しかった事を強調しておけ。それとダイブ施設がエリア内にあるかぎり、テロの恐怖から解放されんこともな」
「かしこまりました」
「それにしても今回のテロは本当に良いタイミングだった」
ベルイードの口元に浮かんだ不敵な笑みに、男が胸を撫でおろす。
「はい。これで議会も動く事でしょう」
その明かな機嫌伺い的な追従にベルイードは不満気に鼻を鳴らす。そして、
「この不愉快なウィンドウをさっさと消さないか!」
男が感染者の動向を報告するために開いたウィンドウを指さし、唐突に大声を上げた。男がビクリと肩を震わせる。
「はい! 直ちに」
そう言い慌ててウィンドウを消そうとする男に、ベルイードは空かさず新たな命令を加えた。
「いや、待て」
それにも関わらず消えてしまったウィンドウに、ベルイードはさらに言葉を荒らげる。
「待てと言ったんだ馬鹿者!!」
男から裏返った小さな悲鳴が漏れる。
やがて再び開いたウィンドウをベルイードは食い入る様に見つめた。
「おい、こいつは確か前科者で危険レベルも高かったな? 何故拘束されていない?」
「え?」
ベルイードの質問に顔を強張らせ停止した男。
「まったく、お前はダニほどにも使えない。その思考の遅さは肉体持ちに匹敵するんじゃないか?」
男の表情がさらに引き攣る。返事をしない男から興味を失ったかの如く再びウィンドウへと視線を戻したベルイード。
やがてその口元に歪な笑みが有り有りと浮かんだ。
「あの感染者…… 成程…… そう言う事か。これは使える」
誰にともなくそう呟いた後、声を出して笑いだしたベルイード。
それにどう対処して良いか分からず、男は乾いた作り笑顔を顔に浮かべた。その瞬間、響き渡るベルイードの罵声。
「おい、何がおかしい!? 笑ってる暇があったら、こいつが関わった事件の資料を洗いざらい纏めてもって来い! 『現実世界送り』にされたくないならな! 今直ぐにだ!」
「はい! 直ちに!」
男が顔を引きつらせ、そそくさと出ていく。
その姿を不満げに見つめていたベルイードだったが、やがて口元に再び歪な笑みを浮かべた。
「これはなかなかに面白い事になるかもしれませんな。軍曹殿……」