Chapter 16 『交錯する思い』
1 ヒロ
直ぐ眼前に迫った死よりも、死霊共に対してあまりに無力な自分に激しい絶望を感じる。自分が此処で死んだとして、その後伊織はどうなるのか。
この状況では彼等が伊織を仲間としてすんなり回収してくれるとは思えない。
――これが、お前が守ろうとしたものなのか?――
響生は言っていた。彼等は『人』だと。
彼等の世界へ渡った響生を知り、さらに死霊となってしまった伊織と過ごす事で、『それ』を信じ始めていた。
だが目の前のこの化け物はどうだ。嘗て抱いていた『死霊』のイメージそのものではないか。そもそも中立エリア自体に『人』らしさを感じさせるものが一つも無かったのだ。
――それでもお前は、こいつ等を『人』だと言うのか?――
視界の片隅で、伊織がよろめきながら立ち上がる。激しい火花を上げ続ける肩の周辺で炭化した皮膚が剥がれ落ちた。それによって露わになる金属光沢を宿した内部骨格。
「お願いや…… ヒロを」
震える声でそう言った伊織の表情が痛々しいまでに歪む。血の通わない肉体で表現された魂の悲鳴。それが更に自身の心を掻き乱していく。
死を直前にして、湧き上がる様々な疑問。何が真実なのか分からない。
――なぁ、響生……――
引き切られた鋼鉄の腕。その先端に宿る帯電光が、さらに強さを増す。何も分からないままに終わる事に、激しい拒否感が襲う。
そして遂に鋭い先端が衝撃波を纏い突き出される刹那、上空で何かが強烈な光を放った。目の前の化け物が放つ帯電光の数十倍はあるのではないかと思える程の放電光が瞬間的に弾ける。
次の瞬間、突き出されようとしていた巨大な腕が砲弾でも受けたの如く弾け飛び、明後日の方向で壁に炸裂する。
激しい振動と共に飛散する大量の破片。一つでも直撃すれば、それだけで致命傷になりかねない。
それが分かっていて尚、光が弾けた上空から目が離せない。闇に霞む空間から何かが落下してくる。
最初に浮かび上がったのは、淡い光を放つエンブレムだった。まだ距離があるにも関わらずそこに刻まれた『蒼い月』がはっきりと見える。それが何を示すのかを知らぬ者はいない。自分達にとっては『死』意味する紋章。目の前の化け物にも同一のエンブレムが刻まれている。
――新手!?――
絶望としか表現しようのない感情が襲う中、遂に闇に浮かび上がった『それ』が、想像よりあまりに小さく、意外だったために混乱する思考。
どう見ても『人』だった。
それが闇に霞む程の高さから、猛烈な勢いで落下してきたのだ。
仮に本当に『人』だとしたら、気が狂ってるとしか思えない。どう考えても助かる見込みの無い高所からダイブした事になる。
が、次の瞬間、目の前で起きた有り得ない現象に、混乱した思考は完全に停止してしまう。
凄まじい衝撃音と共に身体に伝わる振動。壁に突き刺さった化け物の腕に、突っ込むかの如き勢いで着地した『それ』に目を見開く。
甲殻類を連想させるが如きデザインの装甲ジャケット。黒一色のその背には、自身の背丈ほどもある巨大な剣が刃をむき出しに固定されている。
忘れるはずの無い特徴的な装備。
頭に過った人物と『それ』が同一であるかを無意識に確認しようと試みる。首を絞めつけられ途切れそうな意識に逆らい、徐々に視線を上げていく。
装甲ジャケットから伸びる首筋は、重厚な装備に似つかわしくない程に細い。男にしてはやや長めの黒髪が、空間に存在する僅かな空気の流れを受けて揺らいでいた。
「響生…… なのか?」
自身から上がった掠れた呻き声。
静かに此方に向けられた瞳は、僅かではあるがそれ自体が赤い光を放つ。生身の人間ではない。それでも尚、そこに宿る複雑な感情が『彼が紛れもなく人』である事を示していた。
響生の瞳が化け物へと向けられる。両者が睨み合う中、響生の表情が険しさを増した。思考伝達による会話が行われているのだろう。
やがて緩んだ首を絞めつけていた巨大な腕。通路の床にずり落ち、激しく咽る。
化け物は、何の前触れも無く凄まじいまでの咆哮を上げた。
空間そのものが振動するかの如く大気が震える。それはただでさえ半壊した構造体に、致命的なダメージを与えてしまうのでは無いかと感じる程に激しいものだ。
咽返るような息切れの中にあって尚、瞬間的に止まってしまう呼吸。響生だけが表情を変えずにその咆哮を受け切った。
化け物が強烈な振動と共に跳躍し、奈落の底へと消えていく。
それを静かに見つめる響生が、
「『感染者風情』で悪かったな……」
と小さく掠れた声で吐き捨てる声が聞こえた。
どれだけ続けても治まろうとしない荒い呼吸。それでも、強引に声を出そうとして、再び激しく咽る。
「お前も…… 俺を殺しに来たのか?」
何とか絞り出した声は、絶え絶えであまりに情けない。
響生の赤い光を宿した瞳に浮かび上がる強い憂い。
「いや…… けど、確かに拘束命令は受けた。つい先ほどな。ダイブ施設が爆破されたんだ。
このエリアに存在する肉体を持つ者全てに危険度が計算され、序列が割り振られた。残念ながらヒロはその上位に存在する」
「まさか、俺が疑われているのか!?」
「違う、そうじゃない。この混乱に乗じて起こり得る更なるリスクに対する処置だ」
響生の言葉を理解すると同時に、自身の身に起きた事の理不尽さに怒りがこみ上げる。
「それだけで殺されかけるのか!?」
「確かに『あれ』は明らかな過剰反応だ。お前が武器を使用した事を理由に危険分子の排除を行おうとしたんだろう。
持ち込ませておいて、使用したらそれを理由に狩るのが奴等のやり口だ。そうやって、現実世界全体に向けた怨みの一部を晴らそうとするんだ。
それにダイブ施設の破壊を理由に大規模な報復作戦も開始されるはずだ。こんな事続けたってなにも変わりはしないのに」
赤い光を放つ瞳がより強い憂いを宿して細められる。
「――けど、お前が『見えない相手』と話していた事実が、事態を好転に向けた。おかげで俺はお前の身柄を預かることが出来る」
「見えない相手……? お前が何故それを!?」
その質問に、響生の視線が伊織へと移された。その意味に気付いた瞬間、心の底から湧き上がる抑えきれない感情。
「お前! 伊織の五感をリークしたな!?」
響生に詰め寄り、胸倉をつかみあげる。だが、響生は僅かに目を細めただけだった。
「すまない……」
「何が、すまないだ! ふざけやがって!」
胸倉を掴みあげる左手に更に力が籠る。その瞬間、伊織が叫び声を上げた。
「違うんや、ヒロ! 響生は悪くない。この施設に入った時から、私は貴方の監視役だった。私の五感全てが施設のネットワークに共有されてたんよ。私がそれを受託したんや。貴方と一緒にこの施設に入るにはそうするしかなかった……」
「なっ!? 伊織、お前…… クソっ! 全部俺が悪いってのか!? クソがっ! 馬鹿にしやがって!」
伊織の言葉によって行き場を失った激しい怒りが、口から暴言となって溢れ出る。
「ヒロ、答えてくれ、お前が話していた相手は何処にいる?」
その問いに無意識に走らせてしまった視線。その先で化け物が放った最初の電撃によって、気を失った少女が倒れていた。
――響生にも見えていないのか!?――
その事実を交渉に使おうと考えた矢先、響生の視線が先まで自分が見つめていた空間に注がれている事に気付く。
「そこに居るんだな?」
胸倉を掴んだ手を振り払うようにして、移動を開始した響生。その瞳に宿る赤い光が消える。
「間違いない…… 対象を確認した。――ネットワークが汚染されてるのか…… どうりで……」
膝を着き、少女を覗き込みながらそう呟いた響生。
「こいつをどうするつもりだ?」
「ディズィールに連行する。そう言う命令だからな」
「こいつは何だ!?」
少女の言動や行動からして、『死霊』に属するものでは無いのは明らかだ。けど、その装備や身に着けている物はゲリラだとしても異常だった。
まして、あの身体能力は通常の訓練などで身につくような代物では決してない。
「言えない」
返って来た短い答えに感じた苛立ち。
「――それにヒロ、お前も連れて行かなければならない」
さらに続いたその言葉に感情が逆撫でされ、語気を荒らげる。
「ふざけるな!」
響生が静かに振り返った。
「聞き分けてくれ。でなければ俺はこの場でお前を、力でねじ伏せなければならなくなる。悪いようにはしない。少なくともこの施設の者に捕らえられるよりはマシな待遇に出来るはずだ。それに伊織をほっとけないだろ?」
「なっ!? お前は、何処まで!?」
途中で詰まってしまった言葉。肩が抜けてしまって腕に全く力が入らないにも関わらず、握られた拳が小刻みに震える。
僅かに此方から視線を逸らした響生の表情からは、何も読み取れない。重苦しい沈黙が空間を支配した。
「伊織は…… 元通りになるのか?」
暫くして、ようやく口から出た言葉は、自分でも驚く位に弱々しい物だった。
視線の上げた響生の表情が激しく歪む。
「無理だ。この義体は自身の生身の肉体から作られる。伊織の義体は、死に行く肉体から作られた最初で最後の一体だ」
覚悟はしていたとは言え、あまりに絶望的な答え。
「何か…… 何かないのか?」
「後は、お前がニューロデバイスを導入するしか…… けど、お前は……」
その言葉が決定的になり、さらに深い絶望が襲う。
「俺は、荒木に埋め込まれた装置のせいで、ニューロデバイスを導入できねぇ…… クソッ、結局全て俺が……」
再び訪れた重苦しい沈黙。
「何かいい方法が無いか、ドグに訊いてみるよ。俺にはそれくらいしか…… その為にも早く帰還しないとな。俺の任務は大方完了だ。ディズィールに迎えをよこさせる」
響生の瞳に再び宿る赤い光。何もない一点を見つめ、思考伝達を行う響生の表情が目に見えて険しくなる。それはやがて愕然としたものになり、それを隠すかの様に瞳を閉じた響生。
それでも尚、眉間には深い皺が刻まれている。
「どうかしたか?」
ただならぬ表情に感じた不安が思わず口から出た。響生の瞳がゆっくりと開かれる。
「少し…… 面倒な事になった……」